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タイトルタイトル: 「強いられた持久戦」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 田畑 勝男さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年11月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 のどかだった沖縄  04:42
[2]2 チャプター2 十・十空襲  02:31
[3]3 チャプター3 南部への移動  02:55
[4]4 チャプター4 現れた大艦隊  03:10
[5]5 チャプター5 艦砲射撃  02:30
[6]6 チャプター6 最前線へ  04:16
[7]7 チャプター7 前田高地の激戦  06:09
[8]8 チャプター8 負傷  05:13
[9]9 チャプター9 斬り込み攻撃  03:08
[10]10 チャプター10 取り残された部隊  06:18
[11]11 チャプター11 終戦  03:47
[12]12 チャプター12 収容所生活  03:46
[13]13 チャプター13 沖縄戦とは何だったのか  03:39

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年11月25日

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わしらは8月、8月4日だから、19年のね。まあ、行ってね、ほっとしたのはね、もうゼンソングウが青々しているでしょう。「うわあ、こういうとこもあるんだな」と何となくね、もう安心したね、何となく。「ああ、日本にもこういうとこあったんだな」と思ってね。あの当時8月ったってさ、薄い軍服とシャツ1枚だからね。そして7中隊配属・・・、5中隊配属決まって、私は小高い丘の中間にね、重機関銃の陣地をつくり出したの。で、炭鉱出身が2名ぐらいいたからね、やっぱり「よし、こういう具合に掘って、こういう具合に海岸線へ向かって掘って、そこへ機関銃の銃座を設けよう」と。で、わしが設計してね、そこで工事始まったでしょう。そうしたら、今度ね、周りがサトウキビとサツマイモの畑ばっかり。したら、おじいさんが来たりさ、それから娘さんもさ、あの当時男のこうなっているの縄で絞めていたよ。こんな半天(はんてん)みたいなのを着て。やっぱりそうしたら、女の人たちの服装が変わったんだね。ぴしっと半天着て、赤いシオヒをして、農家の人は全部はだし。本当にね、のどかなところだなと思ったね。して、大抵ヤギが1戸に1頭か2頭飼っていたから、わしいたところは30戸ぐらいの集落でね、たまには豚飼っていたり、「ああ、これはいいとこだな」と思ったね。そこで陣地作り始めた。

小学1年生から5年生ぐらいの5、6人の人間ね、これはうちの近くの集落も長浜っていう集落からも、代わる代わる陣地のそばへ来てね、こうやっているわけさ。で、どうかと、喜んで来てね、「兵隊さん、沖縄の歌教えてやるわ」って、5年生ぐらいの女の子が。で、そこで、「おい、作業やめ」ってかけてさ、その歌をさ、1曲習ったよ、暇だから。

Q:どういう歌だったか覚えていますか。

汗水節(あしみじぶし)っていうのは、「汗」「水」な「節」ね。汗を流して働いている人の気持ちはね、もう麗しいような感じの歌だね。本当に短いんだわ。歌う? 
(歌)「汗水流し 働いている人の心うれしさよ よその衆に よその衆に いういやさあ さあ」
っていうのが、汗水流してね、働く人の気持ちは分からんだろうと。それはね、寂しくうれしいもんだっていう、これは意味だね。

それがね、行った年(昭和19年)の10月10日、台湾沖海戦っていうのが始まったの。あのときびっくりしたね。だから、日本の本州から来た、沖縄に3か所飛行場があったから、そこへ一時みんな止まるんだわ。それからみんな出ていったね。戦闘機から爆撃機、重爆撃機とか。「うわあ、これは異常なことになったな」と。そのうち米軍の飛行機がね、飛んで来たりする。で、わしも重機関銃だから、こう来るやつを撃ったって、練習したことないからね、どこを狙っていいか分からん。まあ、飛行機の先にグーッと撃っていりゃ当たるだろう・・まあ全然当たらんでね。

Q:その米軍の空襲を見て、何か田畑さんの心に変化ってありましたか。初めて、そのアメリカっていうのを見て。

「あっ、いよいよ来たな」と思ったよ。だけど、実際に戦闘に入る前だから、すごいことになってきたなとは思ったけども。実際の恐怖心っていうのは、まだわかなかったね。だけど、台湾沖海戦(台湾沖航空戦)へ行った、あの飛行機っていうのはほとんど帰ってこなかった。たまにこうやってね、飛行場へ入ってきたのいるけどね。で、飛行場っていうのは全部爆撃されて。あれ飛行機なんかが入っても、飛行場には、そのまま墜落したんでないかな。もう戦車とか爆撃でね、3つあった飛行場が全部焼かれちゃったの、その10日にね。

それからね、2、3日したら女の子も若い男も全然見えなくなったの。全部軍隊に召集されたんだね。残ったのは年寄りと子どもばかり。その調子だもん。

Q:それで、12月になりますと、島尻の方(本島南部)に移動されるんですよね。

12月4日かな。で、わしはね、残されたの。部下5、6名連れて残されて、ほかから速射砲だとか、それから大隊砲、いろいろ砲の連中も残って、あれで20名ぐらい残ったかな。そして実際に穴掘り。枠つけたんですよ、こんな太いやつね。あれをみんな外すのに残ったわけ。みんな、首里へ送ることにしてね。で、わしは、その外した丸太ん棒をさ、馬車に積んで沖縄の馬に1人ついて、そして嘉手納まで送って、その指揮を執ってやっていたから。だから、私の軍隊、南、大城(オオグスク)行ったときはさ、私の代わりにマツバラっていう上等兵が分隊長を代理して、そこへ小隊長が一緒に住んで陣地を造ったのね。わしが行ったのは2月、3月近くかな。わしの分隊、大城へ行ったんだわね。

Q:そんなに遅かったんですか。

そうそう、その丸太運びやってね。

Q:その南のいちばん下にね、陣地を移すっていう話を聞いたときは、田畑さん、どういうふうに思いましたか。

いや、その前にね、1個師団が台湾へ移ったということを聞いているから、その後へうちの師団が移ったから、もうそのぐらいだもんね。

その分がね、結局「南を守備せ」っていうことで、うちの師団が南へやられたんだね。当然もう手すきになっちゃうでしょう。だから、まとまった師団っていうのは2つぐらいで、あとはあれだね、いろいろな重砲だとか野砲とか、あの連中が残ったし、だいぶ兵力はもう2万ぐらい減っているからね。

そして、みんなわしが、そうだ3月初めに移って、4月爆撃されて各集落やられたでしょう。それから3日ぐらいしたらね、アメリカの飛行機ビラをまいたの。で、「もう戦争はやめましょう」と、ね。「みんなフィリピンもね、あっちの南方は戦争終わりました」って。「何言ってんだ」と。そんなのものは、取っておけばよかった、破っちゃったもんね。あれは、とっておけばよかったなと思ってね。だから、もう完全な勝ち戦・・小高いところで海見たらね、真っ黒にね、連合艦隊(米艦隊)の船。遠くのほうに戦艦とか航空母艦なんて見えるんだもん。だから夜はね、東京の銀座と同じ。満艦飾だ。暗いのは島、島は真っ暗だったね。あとはもう本当明るかったね。

Q:その風景をごらんになられて、田畑さんはどんなふうに思いましたか。

いや、前からもうだめだと思っているから。あの物量でもってやられたらね、全然。我が軍の飛行機1機も飛ばないんだから。ただ、わしらいた陣地っていうのはね、山でしょう。で、ずっと斜面下って向こうのほうに米軍がいる町あるけんね。だから艦砲射撃もこない。それから爆撃機もこない、戦車砲もこない。なぜかって言ったら、すぐ米軍の兵隊たちがいるからね。だからその点はまず安心したね。だから夜も攻撃できたけど昼は壕(ごう)の中で、こうやって。

Q:田畑さんは、じゃあ自分の目で実際に集結してきたアメリカの艦隊をごらんになられましたか。

山上がったら、みんな見えるんだもん。

Q:どうでしたか、その島を船で取り囲まれたときっていうのは、どういう気分でしたか。

いや、ただあきれるよりほかなかったよね。これじゃあ。考えた以上にね、もう沖縄だめだと思った。そう考えるより方法ないもんね、抵抗もできないんだしさ。

勝てるって気持ちは、一切なかったから。もうこの戦争は負けたと。どれだけ抵抗できるかっていうことだからね。

まず戦艦の次に駆逐艦とかいろいろな船、で最後、縁にいるのは掃海艇。こういう順序で、もう全部取り囲んでいる。それで、ブワーッとね、戦艦がね、まず炎が見えるの、ぱっと。で、しばらくしたらね、ズズズズーンと音してね。で、沖縄の土地をウワーっとね。いや、すごいもんだなと思ったね。あの炎が今でも目に入るね。ウワーっと燃えるでしょう。で、発射するでしょう。ズズーンと音がするの。して、ウワーっと。その調子だからね。で、前進途中だったから本当に大きなね、爆撃機の穴があったね。

Q:それが絶え間なく撃ち込まれるんですか。

そうそう。それに飛行機でしょう。もう最初の3日、4月1日から3日間っていうのはね、空真っ黒になるぐらい飛行機。それがね、10機編隊ぐらいでバババーっと来てはね、焼い弾落としていくの。で、行ったなと思ったら、また次朝からね、そうだね8時から午後5時ごろまで3日間ぐらい続いたね。だから各集落なんてね、1軒も残らずなくなって。焼かれちゃって。ひどいのになるとね、普通の戦闘機でもね、こういうタンク積んでくるんだね。それをバーンと落としてさ、そこへ機関銃で撃つんだわ。だから、もう、そうやって集落焼いていったよ。よっぼどあいつら物あったんだね。

Q:その第一線出動の命令が出たときっていうのは、どういうお気持ちでしたか。

もう、それはもう、いよいよ来たかということだったね。で、大隊本部の前へ集まって、シムラ大隊長の訓示を受けて、それからみんな出発でね。で、重機関銃は重いからこれぐらいの脚がね、4本あるの。それでこう差してね。で、4人で担いで、あとの3人は弾薬しょって。そして前進したもんね。満州にいたときはね、当然もう馬。馬2頭いたから。機関銃と脚、脚ね、これをこう馬の背中へこうやって。で、弾薬4本と2箱ずつ次の馬、こういうことで満州ではいつも演習に出たけどね。

Q:歩くときは、田畑さんを先頭に歩くんですか。

うん、もう大隊長先頭になって、次々出たからね。

Q:その第一線に向かう部下の様子はどうでしたか。

みんなね、緊張して。もう目はパアーって開いているしさ。言葉は一言も言わなかったね。私の言うことだけ「はい」って聞くだけで。もうそれからっていうのは、個人的な話はね、一切なかった。みんなもう緊張しているからね。

で、行く途中、山川っていうところでね、そこはやっぱり小さな陣地だとか、地下に穴掘ったりした、そこへいったん泊まって。

で、命令ね、受領に行っているときね、出がけに、わしの部下は迫撃砲が絶えず飛んでくるからね、「外へ出るなよ」と。おれ今、中隊長の命令で会議に行ってくるからって。そして命令を受けて帰ってきたらね、オオイオカ上等兵がね、「班長殿申しわけありません」。昔は、伍長以上をみんな班長って言ったんだもん、各班の班長ね。「班長殿申しわけありません」って言うから、「どうしたんだ」って言ったら、「いや、やっぱりトイレ行きたくて外出た。そうしたら両尻の肉をね、そがれちゃったの。迫撃砲の破片で」。「どれ、見せろ」って言ったらね、我々には風呂敷みたい、包帯法に使う、ケガしたら巻くとか、そういうのをベタッと尻に張ってあったの。で、血がにじんでね。いやあ困ったな、当然手当てする人間なんていないからね。だから沖縄のヒガと、それからもう一人年配のアライ兵と、この2人つけたんだね。そして、その上等兵を後方の病院へ下げて、そして下げたの。それでこれらはあれだね、わしの思ったのは、沖縄こうなったら戦争終わったら、沖縄の人間は自分で意思を押して、みんなこれからの復興に尽くさんとならんだかなと思ってね、沖縄の者だけ付けてやったわけさ。

一切言葉なし、もう緊張しているからね。そして弁ヶ岳っていうとこへ。首里の前方なんだけど弁ヶ岳っていう山へ着いて、その晩に前進命令来たの。それでもってあれだね、小隊長っていうのはね、重機関銃出身でない小銃中隊の出身だから7中隊にビッタリついてね、わしらのことを構わんでビッタリなんだわ。本当は絶えず伝令つけてね、連絡よこすんだけど、自分は中隊本部へビッタリ付いちゃって。わしらは自然と前進だと雰囲気になって、そしてついて行ったね。それからは、もう第一線は昼と同じ。艦砲から照明弾が。そして夜明けたの知らんかったもんね。そして機関銃重いからね、普通敵の居場所分かればね、あれはもう2人ぐらいでこうやって行くんだけどね、結局斜面になると引きずって行かんとだめさ。そして7中隊にしても機関銃が2丁あるんだから、本当は機関銃が到着してから前進するのが、これが戦術上当たり前のことだ。で、機関銃はなぜかって言ったら、相手の機関銃とか、それからどういう具合にこういるかとかを確かめてからダダダーンと撃つでしょう。こうやって。そこで初めて突撃なんだけど、わしらが着く前にもう突撃しちゃっている。相手は待ち構えているでしょう。もちろん「第2大隊前進」っていうのは、もう無線は全部向こうに傍受されているの。だから待ち構えているところへ行って。大体7中隊って160(名)か170(名)いたんでしょう。そのほとんどがうちの機関銃の小隊長も7中隊の大隊長もみんなやられてた。7中隊の隊長もね。そして夕暮れになるまで待ったわけさ。夕暮れになったら、もうやつら1発の鉄砲の弾も撃たないんだわ。もう勝ち戦だからね。それで1人連れて、こう這(は)ってね、山の向こう側の方へこう出たの。そしたら、もうバタバタバタとみんな倒れている。時間たっているから出血もうすごいでしょう。それにあんた、35、6度の太陽の熱だからみんなもう死んでいたね。うちの小隊長の、見つけたカバン、将校ってみんなカバン持っていたから、カバンと軍刀を持って帰ってきたね。まあ、あっという間の戦いだったね。

Q:田畑さんたちは、弁ヶ岳から夜どこへ行って攻撃しようとしたんですか。

もう140の高地。そこを取られたんで、首里は終わりっていうとこだから。

Q:今の前田高地のことですか。

前田高地。

Q:あそこに前進命令が出たんですか。

そうそう。

Q:そのとき前田高地は、もうアメリカ軍が取っていたんですか。

そうだね、前、石部隊(第62師団)っていうのが、そこを通ったんだけど、米軍に占領されたの。それで第2大隊の我々が行って攻撃したでしょう。それであれらは下がっちゃったわけさ、米軍がね。だけど、ほとんど各中隊あれだもん、160(人)から170いたのに、5、6、7(中隊)ほとんど全滅だからね。だからその前に大隊長が連隊本部にね、「敵状が一切分かりません」って。「1日猶予をください」って。で、返事に来たのは、「敵は前方だ」って。「進め」って、この返事だけ。で、僕ら後で気ついたんだけどね、なぜ27日に前進命令来たかっていったらね、27日に攻撃して28日はそこを占拠、完全にしたら、29日は何の日か知っているかい? 4月29日。天皇陛下の誕生日なんだわ。それを目指して、軍司令部は前線のこと分からんでね、「攻撃」って言ったわけさ。「天皇陛下の誕生日までに、完全に占領せ」っていうことさ。占領はしたんだけど、次の日にはまたやられて。あいつらの天下だった、アメリカのね。

Q:田畑さんは、総攻撃っていうのには参加されたんですか、5月4日の。

あのときは、現在位置にいたから。そこを総攻撃せということだから、大隊いたとこから向こうをね、山の斜面から向こうを総攻撃っていうことだからね。だから第2大隊はその場にいたんですよ。

Q:総攻撃は、じゃあ、実際どういうことをされたんですか。総攻撃の日は、5月4日は。

あれ、私たち見ないから、相当途中で・・電波ほれ傍受されているから、途中でやられたんでないかな。後方から来たっていうのを姿見えなかったもんね。恐らく途中でやられているんだわ。戦車とか爆撃でね。

Q:そうすると、総攻撃っていうのは、その第一線の前線からさらに攻撃は、さすがにしなかったんですか。

そうそう、そこのね、斜面でも降りていかないとね、行けないんだわ。まあ左の遠くには、そのまま入るとこあったかもしらんけどね。だけど総攻撃って言ったって、わしらのそばへ来たことないもんね。でも命令は来たから、こっちは総攻撃の思いでやったけどもね。その次の朝か、壕の入り口にドリルの音がするの。グウーっと回っているね。「いやあ、これは入り口爆破されるな」と。外へ出るわけにいかんしね。そして案の定、爆破されて入り口塞がれちゃったの。

安波茶っていうね、安全の「安」、「波」、お茶の「茶」。そこでヘビのような洞窟あったの。そこへ下がったの。恐らく前進命令来たあの日だと思うんですよ。私は、5日の日は、朝、壕を塞がれちゃったでしょう。そして、どうにかうちの中隊長が、「田畑伍長、前に出ろ」ったって、わしは奥にいるもんだからね、前に出れないでしょう。そのうちに通気が悪くなったから前にいた連中が、何とかして破って外へ飛び出したの。そしたら、みんなあるだけの手りゅう弾を投げるでしょう。向こうは断崖(がい)でしょう。こっちはなだらかな斜面なんだ。そしたら投げたやつが向こうへ届かないで、転がって来るやつもある。そこでケガしただけ、下にいた人たち。わし、こんなこと変だけど、野球やっていたから、もう向こうへぶん投げてやったけどね、そういうことで。

あのときに手りゅう弾やっているうちにね、何だか爆雷がそこでバアーッと破裂したんだ。あいつら何か爆雷投げたね。その勢いで吹っ飛ばされちゃってさ。で、横のほうにあった壕の角に頭ぶつけたのかな、意識不明になって。して夕方になったら、ガヤガヤガヤガヤッて声するわけさ。そうしたら、「これから後退する」っていうわけだ。「後ろへ下がる」と。で、「負傷した者は、下の乾パン壕へ入れ」と。こういうことをうつらっと聞いてね。で、立ち上がったけど、ケガはしていないんだろうけど全身たたきつけられたのかな、もうふらふら状態さ。「これじゃあ後退できないな」って。そして乾パン壕へ入ったわけ。乾パン壕にケガした連中がね、もう結構入っているんだけどね。だからわしがあのときいちばん軽かったのかな。2日ぐらいしたら元へ戻って。ケガもないし。したら衛生兵が来てね、みんなの治療をしたでしょう。薬なんかないんだから泡盛で傷口洗ったね。そうでないと、もうすぐ、ほれ、温度と気温高いからウジがわくわけ。だからウジを払ってね。で、泡盛で消毒したよ、みんなの傷口ね。あれで結構治るんだね、泡盛で。そのうちにだんだん治ってきたよ。

手りゅう弾ね、もう2発か3発か5発か持って。そしてもう敵に分からんようにして、這いながら行って幕舎へ投げるわけだ。それが相手を殺すっていう気持ちで行かんとね。で、初めは成功しているけど、後はあれらも待ち構えているからね。

Q:手りゅう弾だけで、相手の寝ている近くまで行くんですか。

距離届くまでね。で、みんな案外重いからね、あんまり遠くへ行かないんだよね。だからなるべく近く行って投げるの。そして、もう逃げるよりほかないわけさ。まあ、逃げれるんだ、また、相手は逃げちゃうから。

Q:斬り込みっていうのは、誰が命じるんですか。

これも大隊長から。もう大隊長通じて副官。そしてリーダーはさ、3名か4名で、これには上等兵とか下士官がついてね、出て行くわけだ。

もう到底行く人間は、覚悟しているから。大隊長、副官から死んでこいなんて言わないよ。行く者は、みんなもう自覚しているから。死ぬか生きるかだからね。

まあ、少しずつ、少しずつでもさ、相手を消耗させるっていうことだよね。そして大部隊で行けばさ、当然犠牲者多くなるでしょう。だから小人数でもって、相手を逐次にやっつけるっていうことで。まあ、死に行くと同じさ。

Q:それで、実際に幕舎のそばまでうまく行けたんですか。

うん、あったね。まあ1回目だね、成功したのは。あとはだめ。待ち構えているから。

Q:1回目は、それでどういうふうに斬り込んだんですか。

結局、這(は)っていってさ、「あっ、手りゅう弾届くな」と、とこで投げるから。もう連続投げるからね。で、相手は逃げちゃうでしょう。だから自動小銃とかあんなの取ってね、サーッと逃げてくる。

もう怖いとかでない。そんなんでないんだわ、気が立っているから。もう無我夢中だから。殺すか殺されるかだからね。もう要らない考えは一切浮かばない。ただ相手をやっつけるっていうだけ。そうでなかったらあれだね、戦えないもんね。あとは自分で逃げるよりしかたないでしょう。だから気の弱さっていうのは一切ない。ただもうまっしぐらに相手をやっつけるっていうことだけね。

Q:田畑さん、取り残されたのは、何名ぐらいの人が取り残されたんですか。

あの当時ね、やっぱり数字がまちまちなの。みんなのね。それで、38名は実際にね。ほかはマーさんに言わせるとね、「1個大隊888名のうち、残ったのは38名」ということ言ってるね。実際はほかの部隊から入ってきたのもいるわけ、北へ行こうとしたときね。だから、あれでやっぱり60名近くいたのかな。人数だけは分からんね。

Q:それで、じゃあ偵察に行って、もう南には下れないぞ、下るのは難しいぞということになって、北に行こうということになったんですか。

もう、とっても行けるもんじゃないもんね。もう米軍のほとんどがもう、沖縄の3分の…、半分ぐらいは米軍で南埋まっちゃってるから。だから2、3人であればね、一応、大隊本部へ行けたかもしらんけどね。40名も50名もね、連れていけるもんでないもんね。

Q:ただ、北に向かうのも、でも危険は危険ですよね。

そしてずっと下がっていったときね、やっぱりあれ後方部隊の駐屯地になってたのかね。わしらは、とうとう突破できなかったね、山。オカ軍曹以下18名かい、16名か、亡くなったのもそこの山の手前だからね。だから、陰には相当部隊がいたはずだね。夕方トラックが3台か4台ね、右から左の奥へ行くわけ。トラックね、あれもやっぱり物量とか運んでたのかな。大隊長が今度、後になって「あそこを突破せ」って。で、私をまた派遣するね。

米軍はもう主力はもう南だからね。だから日中でも、米兵と会うことなかったね。ただ、オカ軍曹以下16名やられたときは、前方の山に監視所が2か所建ってるの。それをみんな知らない。大体人間なんて下ばかり見て歩くしょ。私が、おかしいな・・本当は北のほうの斥候を私を出すべきだったの、本当は。だけど、大隊長もさ、私がみんなを連れて泊まって、最後の壕へ行ったでしょ。161高地かな。あそこで大隊長ほっとしたんだわ、やれやれと。案外大したことないなと思ったしょ。したら、初年兵が「山の右の裏に壕があります」と。それを聞いてさ、その安全な私が案内した壕に、あそこに3日ぐらいいたかな。すぐ前進命令来てさ。要するに、「前進すれ」って。「おかしいな、俺に言わないで、そんな確約できる壕があるのかな」と。まあ一緒か、だからいちばん後でいいかって、さっきの2人連れていちばん後で行ったの。したら夜明けちゃうしょ。して、わし、ずっと前方を双眼鏡で見たら、米兵、監視所で動いてるんだもん。「ああ、これは見つかったな」と思ったらね、左側へ回っていこうとしたしょ。一斉射撃を食らったわけさ。それでオカ軍曹以下16名そこで戦死しちゃったもんね。あれも、あれ初年兵の言うこと聞かないで、わしを出せばまだ慎重に行ったのになと思ったね。それ終わったらさ、みんなもう負けて帰ってきたしょ、前の壕へ。そしたら大隊長、副官からね、「田畑、また2人連れて、安波茶(アワチャ)に残してきた約20名の負傷兵を連れてこい」って言うわけさ。今ごろ何言ってるのかなと思ったわけさ。あっち置いたほうがむしろ安全なんだから、もう大体残ってる連中は傷が浅い連中ばかりだから、恐らくはもう治ってるんでないかなと。だから、しかたない、命令だから戻って行ったでしょ。

そしたら、次の日だよ。「田畑伍長、前方偵察に出れ」だとさ。何言ってるんだと思ってね。前から出せばまたいいやつさ、失敗して戻って16名も戦死させて。して今度おれに行けっちゅうのかって思ったけど、口答えできないしょ。だから、タカイとムラカミをまた連れて、前へ出たね。

8月の初めごろから、トラック取って行くというような考えになったんだね。それで、今度わしも足よくなったんで、ホンマ曹長とさ、右側から来るトラックを一応、石でも積んで止まって、そこでもってあれだ、そいつらを米軍兵を殺したトラック3台奪って行くということになった。だから、わしの言ったとおりになったなと思って。そして、8月の中(旬)、夜出発した。昼間トラック奪ってね、もう北行くって。そして、その右側の道路の近くまで行ったら、ものすごく海から祝砲が、祝砲って曳光弾(えいこうだん)が上がったわけさ。曳光弾というのは、5発に1発燃えて上がる弾。それがね、陸からも海からも上がった。そしたら大隊長が、「何かこれは異常だな」と。「よし、今日はトラック取るのをやめて帰ろう」。その日が8月15日さ。あれで行かなくてよかったよね。あれで命拾いしたね。そして、前の壕へ戻ったら、わしらの前の壕というのは、下に2部屋ぐらい、こっちにも1部屋作って、階段になって、だーっと広い、このぐらいの丸い壕掘ってあるの。そして上がって行ってちょっと行ったら、

砲の向こう向いとるの、こうやって降りて見たら、白い旗振ってね、将校1名と兵隊が1人、2人来るわけさ。そして、こうやって見たら、「シムラ撃つな」って、大隊長の名前を呼びながら将校が来たの。それですぐ連絡して、「誰か来たようです」と言ったら、第1大隊のイトウ大隊長が来たわけさ。「シムラ、戦争は終わった」「いつだ」と言ったら、「8月15日。もう連隊長みんな収容所へ入ってるから、シムラも出たほうがいいぞ。」そしたら、ばかなもんでね、わしなら「はい」って行くんだけど、そこで将校とか集めて、「このまま戦うか、降伏するかだ」と。何ばかなこと考えとるのかと思ったよ。戦うって武器ないっしょ。したら最後にイトウ大隊長がね、「シムラ、とにかく将校1、2名おれと一緒に収容所へ行くべ」と。「そしたら分かる」と。そして行ったよね。したら、やっぱりね、収容所へみんな入っている、連隊長以下。それで戦争は終わった。で、決めて出たのが9月3日。

もうみんな、外へ出るとある程度話したけど、幕舎に入ったらね、みんな黙って話ししなかったね。

みんなそれぞれに思い出がいっぱいあるでしょ。それを考えてたと思うよ。私も考えてたから。まず冗談話、聞いたことないね。あれで、大きな幕舎で15名ぐらいいたのかな。ほかの部隊からも来たのがね。あとは、またわしら海軍の連中とソフトボールの試合やったよ。「いや、久しぶりにボール握ったな」と思って。わしら若いときからずっと野球やってるからね。そしたら憲兵が来て、アメリカの憲兵。収容所にはみんな憲兵張りつけになって、して来て、「鉢巻きやめてくれ」って言うの。どうしてかと思ったら、「特攻隊を思い出す」というんだね。だから本当、「ノー」、こうさ。だからしょうがない、首に巻いたよ。

Q:生き残ったということを喜べるようになったのは、いつぐらいからですか。

喜びというのは、8月、9月出て、あれで1か月以上過ぎたかね。一応、いろいろな職業あるしょ、軍隊というのは。芝居の役者やったとか。それや野球では、マシケっていう阪神のキャッチがいたとか。それから、芝居が始まったの。そしてね、いい男というのはお化粧してもきれいに見えるでしょ。女形やったって、ね。そして、髪の毛はサトウキビの毛さ。あれこうやって。でも、看護婦から、おしろいなんか借りたんでないかい。そしたら米軍の兵隊が、その女役について離れないの。「何だ、このやろうら」と思ったけどね。それあってから少し楽しくなったね。楽しみが、いろいろ芝居やったりでね。

Q:北海道に戻られるときは、どういうふうなお気持ちでしたか。

もう駅おりた途端ね、肩身狭い思いしたよ。みんな戦死したと思ってるから、北海道部隊。そして、うちのおふくろなんか、毎日1日置きぐらい神社参拝行ったというから。そしたら、逃げて帰ってきたんだろうなって思われるなと思ってさ。もうしばらく肩身狭い思いしてた。

戦争を沖縄でもって戦って遅らせようとしたという思惑は、もう本当に感じられたね。武器の補給はない。食料も補給はない。援軍も送ってこない。結局、沖縄は捨て石だったんでしょ、恐らく。考えてみりゃそうですよね。大本営なんていうのはね、机の上で将棋やってるようなもんだから、第一線のことはもう分からんからね。ただ想定して、将棋のこま動かしてるような状態だからね。

本当に無駄な戦争をしたと思ってるよ。あの当時でも思ったから、沖縄いるとき。「何でこんな戦争するんだろう」と。もう沖縄完全にもう、いや、沖縄、日本軍が負けたという意識は、前線へ出る前から思ったから。だけども、俺たちはとにかく死にに行くって、そういう気持ちだからね、あの当時でも。死はもう覚悟してたから。ただ、あの住民たちは本当にかわいそうだなと思って。よくわしの陣地へ遊びに来た子どもたち、あれからどうしたのかななんて思ったりね。

今かい?もうあの当時、相当に悩んだりいろいろしたけど、今はとにかくあれだ。もう朝、仏さんをお参りするときは一緒にお参りしてさ、冥福を祈るだけだということだね。あと何もできないからね。帰ってきても、みんなに沖縄の戦争の一言もしゃべったことないね。しゃべらない。分からないでしょ、戦いというのは。北海道は特に。

Q:それはどういう意味ですか。戦いが分からないというのは。

年数が62年も過ぎてるから、もう若い人も戦争を知らない人ばっかりでしょ。年寄りはいなくなったし。もう、ただ自分でずっと心の中へ潜めておいて。わしもそのうち亡くなるという、こういう気持ちだね。あとは冥福祈るよりほかないもんね。毎朝こうやって手を合わしてるけど。ただ、戦争は二度としてもらいたくない。住民が苦労するもん。国民がね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
北海道赤平市に生まれる
1934年
茂尻尋常高等小学校卒業
1941年
現役兵として旭川歩兵第27連隊に入隊
 
満州蜜山馬家子で歩兵32連隊に編入
1944年
沖縄に転進、真栄田などで陣地構築
1945年
沖縄戦に分隊長として参加 北上原で終戦を迎える 当時、軍曹
1946年
浦賀にて復員
 
復員後は、炭鉱、運輸会社に勤務

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