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タイトルタイトル: “地獄はこの世にある” 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 満山 凱丈さん(北海道・歩兵第89連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年7月18日、7月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 「正しい戦争」  03:11
[2]2 チャプター2 米軍との戦闘  05:47
[3]3 チャプター3 炸裂  03:39
[4]4 チャプター4 陸軍野戦病院  05:15
[5]5 チャプター5 追いつめられて行く日本軍  04:58
[6]6 チャプター6 米軍の「馬乗り攻撃」  07:35
[7]7 チャプター7 死にゆく兵士たち  06:08
[8]8 チャプター8 わからなかった敗戦  10:25
[9]9 チャプター9 65年目の「戦争の実相」  03:29

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年7月18日、7月19日

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Q:戦争に行くことというのは、当時の満山さんにとってはどういうふうなことだったんですか。

まあ、戦争に行くというよりも、とにかく軍隊に入るということが先だよね。で、当時は、軍隊に入って、兵隊さんになって国のために働くんだという、そういう気持ちはありましたね。だから、甲種合格で入れるか、あるいは丙種だというとすぐには入れないから、甲種合格になりたいなという、そういう気持ちでしたね。とにかく早く軍隊に入りたいと。

その当時の日本がやってる戦争というのは、「相手はとにかく悪いんだ」と。「悪者」と。「日本は正しいんだ」と。そういうものがいちばん底にあるわけですよ。「正しいことをやっている」と。「相手は悪いことばっかりしてるから、それを征伐するんだ」と。「悪い者をとっちめるんだ」と。そういう考えだから、だから手柄を立てる、相手をやっつけて手柄を立てる。ごく自然な当たり前のね、いわゆる常識ですよ。愛国心。だから、何にも人を殺すんだとかどうとかという反省するようなことは全くなかった。ただ、「相手は悪者だ」と。こういう悪いことをした。だから、征伐するんだ。思い知らすんだ。だから、そういうことだからこっちは正しい。それこそ「正義の味方」、そういう感じでしたね。

Q:何か町の人の期待なり、そういったものというのも背負っていったんですか。

そんなような感じ。みんな見送りに来てるのは、「しっかりやれよ」とかね「手柄立てろよ」とかって、みんなが励ますから、「おお、よし分かった」というような感じでね。とにかく相手は悪者なんだ、悪者を征伐しに行くんだから、勇んで家を出るわけですよ。そういうふうに教育されちゃってるから。

いきなり、(首里近くの)運玉森の第一線に出た場面になるわけだけども、敵を目前にしても、やっぱりその何ていうかな、鬼畜米英というのは抜けない、頭からは。鬼畜生だから、アメリカ兵の者は殺しちまえと、そういう感じでね。だから何かこう、それは、機関銃の弾がびゅんびゅんの飛んでるときもね、自分は映画の主人公の英雄ですよ。そんなようになった気持ちでね、全然怖くない。へっちゃらでね、「ヤンキーめ、今にくそ、おまえ、ぶっ殺してやるぞ」というような感じでね、その辺走り回ってたからね。別に悲観も何もなかったですね。

Q:本当の戦争の怖さというものを思い知らされたのはいつなんですか。

結局最初、自分らが砲を、あれは陣地偵察にどこに砲を据えるか、それを調べるのを分隊長と行ったときに、ちょうど出会ったところにね、私らと同じ四一式山砲を据えて、もうぐちゃぐちゃにやられてね、砲が傾いちゃっている。そこで、「満山!」という声をかけられてびっくりしてね、「誰だ?」ったらな、「コヤナギだ」と言う。ああ、そういえばコヤナギって、あの下士候(下士官候補生)の教育受けて。あそこの東風平(八重瀬町)のあそこで教育一緒に受けたなと思って、「どうした?」ったら、「いや、もう今日はやられてよ」って。もう4、5人周りに死んでるんだ、血だらけになって。で、大砲は傾いてるし。そこで初めて、初めてその何ていうか戦闘の、何ていうんだろうな、厳しさというのか、こんなに何人もの人が殺されるというのが何か腑(ふ)に落ちないようなね、何かちょっと考えていたのとちょっと違うような、そんな感じはしました。ただ、死ぬということは、その前にね、サイトウコウタツがね、あれ、足、機銃掃射で打ち抜かれて足ちぎれそうになって、で、死んだけども、それも戦死だよね。で、穴掘って埋めて。かわいそうなことをしたなと思ったけどもね。そのときでも、それほど死ぬんだとか殺されるんだという、その悲観的なことはなくてね、「よし、敵とってやるから、ここで寝てろよ」ぐらいのこと言って、第一線に行って。そしたら陣地調べに行ったらコヤナギの、あれは師団、連隊が違ってたんだよね。私と同じ四一式山砲持っていて、それで仲間が死んで、血だらけになって死んでいるのを見て、何かやっぱり戦争ということは頭にズンと来ましたね。でも、怖いとかなんとかという観念はなかった。「よし、畜生、この敵とってやるぞ」と。もう何か、いっぱし自分が英雄になったような感じだったもんね。

そのコヤナギたちがやられてるの見て、何となく戦争というものの実態が分かったっていうかね、そんな感じがして、そして、とにかくその晩は砲を組み立てないで各自タコツボに入って休めと。1人タコツボに入ったけどもね、やっぱり何となく、何ていうんだろうな、ああいう気持ちは。結局、その恩賜のたばこっていうのをもらったわけですよ。この10本入りの四角なケースに入った。何となくそれはそのまま手つかずに持って帰るつもりでいたけども、あのとき予感がしたというかね、たばこを吸ってみるかという気になって、1本出してたばこをのんで。そして、何か煙がふあっと上のほうへ消えていくのを見送ってね、何となく一瞬寂しいような、何かちょっと話できないような境地になりましたね。

結局、こっちから射撃をして、観測班はもう昼間のうちにちゃんと方位とか高低差とかいろんなあれを測量して。そういうのを砲の照準器に装填して撃つばっかりにして、そして射撃命令で撃ち始めてね。そして、そういうときはもう夢中でね、「ヤンキーめ、もう皆殺しだ」と思いながら、どんどん撃ってて。そのうちに、目の前でビカッと光ったなと思ったら、自分は頭丸太ん棒でぶん殴られてるようになってね。何かあんときは照準座というのに腰かけて照準するんだけども、それから、後ろへひっくり返ったですよね。そのときは、もう目玉がぶら下がってたと。こっちはそんなことは知らないで、ただ深い井戸の中へどこまでも頭から落ちていくような感覚で、どこまで落ちていくと。そして周りで何だか騒ぐのを聞こえていると。頭が痛くて痛くて、もう何というか、もう気違いにでもなるんでないかと思うような。それでも、時々やっぱり意識がなくなったみたいでね、まるっきり記憶のないところもあるの。ポチポチっとこう記憶があってね。そして、連隊一の大男のオオツカ、オオツカというのが私をおぶってくれてね、後方の軍医のいるところまで走って行ってくれたわけですよ。背中におぶられ、ゴッショゴッショというのが覚えてたり、全然何にもなかったりで、そんな状態で連れて行かれて。で、軍医はただちょろちょろっと診て、「よし」と言うだけで、もう手振ってね、「あっち行け」と言う。付き添いの兵隊が私を連れて行って、包帯を顔にぐるぐる巻きにしてね、「ほい、ここに寝てろ」っていうのを、地べたに毛布敷いた、洞窟の中だけどね、そこに寝させられて。何も手当らしい手当もなくていたけども。やっぱりね、そういうように自分の体に傷を受けた、痛いほど痛さを感じたとなったらね、ガクンとひっくり返ってね、今度は怖くなった。もう壕(ごう)から外へ出るのが怖い。弾がピューピュー来たらね、縮こまってすぐ隠れるって、そういうふうになってしまったね。ひどいもんでね、幾ら偉そうなこと言っててもね、それこそ小指の先ぐらいのね、弾一発どっかに食らったら、それでぺしゃんこ。本当全く哀れなもんですよ。

私がその目をやられて、それから東風平(八重瀬町)までトラックに乗せられて。あのとき、負傷兵が何か5、6人乗せられてたんだな。東風平の野戦病院まで下げられたんだよね。その間に、2人ぐらい死んだみたいだったけども。そして、その東風平に下げられて病院に入れられて、初めて戦争のむごたらしさというのが分かった。軍医も看護兵も、私らみたいな目玉一つなくなったようなちっぽけな傷なんか、負傷兵でないんだ。もう寝てろって、そこら辺動き回るのは邪魔くさいからって寝てろって。何も手当もなんもしないで、棚の上に横になってるだけで。負傷兵というのは、足がぶらぶらになっちゃったとかね、手がぶらぶらになったとか、そういうやつを腕を切り落としたり、足を切り取ったり。そしてそういうのを沖縄の女学生たちが両手に抱えて、それでもって投げてくると。そういうような状態の中に放り込まれて。要するに地下病院の中で、そういういろいろなうめき声やら怒鳴る声やらの、いろいろな悲惨な声を聞いたりなんかして、初めて戦争というものの悲惨なことが分かり始めたの。そんなこんなしてて、私がその地下の病院に入って1週間か10日ぐらいしたときに、私の負傷した那覇の北の運玉森のあたりを守り切れなくなっちゃってね。やられてやられて、日本兵は片っ端から殺されて守っていけなくなって。結局そこで、いろいろ軍の首脳は会議を開いて相談したんだろうが、結局は島のいちばん南端に退却して、そこで最後の戦争をすると。そういうふうに決まって、そこから後方まで下がることになったわけだよね。

そして、途中には南風原の病院だとか東風平の病院とか病院は幾つもあるけども、そういうのを通り越して、もっと南へ下がっちゃうわけですよ。死守陣地がね。そうすると、米軍はすぐ追っかけてくるから、その患者がいっぱい入っている洞窟の中の壕は、みんな敵に占領されちゃって。そうしたら、その兵隊たちをどうするかという、それこそ大変な問題にぶつかっちゃったわけだよ、日本軍は。ほっといたら捕虜になっちゃう、捕虜にされちゃうと。だけども捕虜にはさせたくない。だから、結局毒ガスや毒薬飲ませたり、それから何か拳銃で撃ち殺したりなんとかという、そうやって動けない者たちをもう片っ端から殺していったわけだ。「動ける者は自分で自分の中隊を探して帰れ」と。中隊はみんな島尻に下がったから、「島尻行って探せ」と。動ける者は四つんばいになりながらでも、病院を出て、南へ下がっていって自分たちで探した。動けない者は、結局そうやって毒薬飲まされたりね、銃で撃たれたりして、みんな殺されていったわけで。だから、そういう哀れな状態になってしまってね。

それしか方法がないんだ、またね。負傷兵を一緒に南へ連れて行くったって、もう自動車もないし、結局歩ける者は砲弾一発でも弾は何発でも、「とにかく武器弾薬を持って下がれ」と。動ける者は持って下がれと言われてるから、「そんな負傷兵を抱えて下がるなら、そんなの置いてけ」と。「大砲でも弾持って下がれ」と、そういうような状況だからね。

だから、それが本当の沖縄戦の悲惨な戦争状態の始まりだったわけだね。そして、私らがおさまったところは、死守陣地。「絶対そこから下がってはならない」と。「死んでも守れ」と。死守陣地を命令されて、そこにがっちり構えた。だけども、私らの中隊には砲は4門あったんだけども、こっちの前線のほうで3門やられちゃって、後方まで下がったのは砲1門だけ。だけど、その砲1門は洞窟の中で組み立てて、洞窟の中から撃つというのもまた大変なことなんだよね。もう不可能に近いぐらい。それで、結局洞窟の入り口あたりに、何かその木の枝を切り取ってきて偽装しておいて、それに隠しながら砲を組み立てて。そして1回撃ったぐらいかな。それで、もうすぐにまた敵から撃ち返されて壊されて、もうそれっきり。あとは、武器ってあるのは小銃か拳銃ぐらいしかない。あとは敵がどんどんどんどん攻めてきて、洞窟を片っ端からぶち壊してやっていくと、そういう状態に追い込まれちゃってね。だから殺され放題。何にも武器も弾薬も食料もない。だけど降参もできない、そういう状態になって。そして「死守陣地、絶対に下がってはならん」と言われてるから、そこから後退もできない。で、みんなそこで壕をつぶされては、みんな死んでいって。指揮系統がなくなってしまえば、あとは生き残って動ける者は自分勝手に壕から逃げ出してね、後方へ下がる。そういう感じになっちゃった。

夜間斬り込み、斬り込みに命令されて、モリが私のところに来て、斬り込みを命令されたから、「俺、行ってくるから、満山、早く傷治せよな」と。そう言って、斬り込みに行くということは、絶対生きては帰れない状態ですよ。鉄砲、小銃一丁持って敵のほうに攻めて行ったって何ができる。ただ、行って撃たれて死ぬだけのことで。それに中隊長は沖縄出身の初年兵をモリにつけて斬り込みに、夜間斬り込みに出ていった。そして、何時間かたって帰ってきて、沖縄の初年兵が帰ってきて、「モリ上等兵殿は戦死しました」と、中隊長に報告してるのが聞こえた。「ああ、モリは死んじゃったのか」と思って、かわいそうにと思ったけども、どうしようもない。だけども、そのとき、多分その中隊長は、最近になって考えたんだけどね、モリ上等兵に斬り込みを命令して沖縄の初年兵を付けたということは、もうおまえは死んだと同じなんだから、沖縄の初年兵と一緒に逃げろと。そういう含みがあったんでないかなと思ってね。隊長はそんな小銃一丁持って行って撃ったって何の足しにもならないんだから、沖縄の初年兵はその辺が詳しいから、夜でもなんでも分かるんだから、それを付けてくれたということは、「2人で逃げろ」と。そういう意味合いがあったんじゃなかろうかと思った。最近になって、それ考えたの。だけど、それまでは思いは思いつかずに、命令のままに斬り込みに行って撃たれて死んじゃったわけだ。

最初には戦車の音、音が聞こえてきますね。そして、「ああ、M4は近づいてきたな」と。当然入り口の守備兵もね「M4来たぞ」って、どなるのも聞こえてきます。そしてまず音が聞こえて、そしてそのうちにドーンって戦車砲の発射音が聞こえますよ。で、音が聞こえた瞬間に、その壕の入り口あたりで爆発して、岩石がガラガラ崩れる音も聞こえたり。そしてそれが1台だけじゃないから、戦車はね。もう2台も3台もで一遍にここへ集中砲火浴びせられる。そういうこともあるだろうと。見たわけじゃないですから分からないですが、そうやってとにかくバッツンバッツン打たれて。守備兵がもう死ぬ者は死ぬ、逃げる者は逃げちゃって、日本兵がいなくなればアメリカ兵がここへ来て、今アメリカ兵が爆薬を設置してるって、そういう報告も入るんです。見てるのが、大きな声で中隊長以下全員に報告するのが聞こえてきます。そうしておいて、その爆薬を爆発させながら、戦車砲でガス弾を、ガス弾も撃ち込んだわけですね。ガス弾も私、見たわけじゃないからあれだけども、ただ「ガスだ!」って誰かが怒鳴(どな)っているんで、ガスを敵は使ってるようだっていう風評は耳にしていたから、「ああ、実際こう、ガスが撃ち込まれたな」と思って、すぐ自分はもう上着や何かを顔にかけてたり腹にかけてたのを顔にかけて、なるべく空気を吸わないように努めて。それしかないですよ、もう。逃げるといっても、ほかの健康体の者がこっち奥へ逃げるので詰まっちゃってぎゅうぎゅうやってるから、そんな負傷兵はそんなところでモサモサしてると怒鳴られるから、2階みたいな棚、棚に、つり棚みたいなところに横になってて、そのままここで死ぬしかないと、そういうふうに考えて。そして、だんだん時間たつと、だんだん本当に手足がこう動かなくなってくるんで、「これはもう完全にガスだな、これはもうここで俺は死ぬのかな」と。真っ暗なもう天井をこう見ながら頭で考えながら、「ああ、俺はここで死ぬんだなあ」って。何かあれは不思議でしょうがないんですね。他人ごとみたいな感じですよ。死ぬんだなあっていうのがね。あれは本当に不思議。そして、どうせ死ぬなら早く死んだほうがいいわと思って手りゅう弾探しても、何かもう手に触らないし、そのうちにだんだんだんだん意識がなくなってきて。結局手りゅう弾探すころには、手も足ももう動かなくなっていたんだろうなあ。探したつもりが手は動いてなかったんだわ、きっと。そして、もうそれこそ、いつ意識がなくなったかは分からない。そのなくなる瞬間の前に、何秒間か前に、北海道の両親とか兄弟等をちらちらっと思い出した。そして、「ああ、妹をぶん殴って悪かったな」というようなことをちらっと思っただけで、あとはスゥーっともう、まあ死んじゃ、一時仮死状態になっちゃったわけです。あとは何も知らない、そういうふうになっちゃって。どのぐらいたったか全然見当つかないけども、もうはるか遠くに白いガスが、靄(もや)がもやもやーっとこうなったのが見えて、そうしてそれがだんだんだんだん近づいてきて、とにかくもう気が長くなるぐらい時間がかかって、やっと自分とこへ来たなと思ったときに、ハッと、ハッと気がついた。あれは本当に不思議なことでしたね。ガスが目の前へ来てハッと気がついて、「あっ、あっ、俺はまだ生きてるのかな」。最初は「あれ、あれっ?」と思って。そしてそのうちに、「あっ、俺生きてるのかなあ、生き返ったのかなあ」と思ったり。そんなことを二、三こう自問自答しながら、でも体が固くなってるし、少しこう手足動かしたりなんかしてる間、こう、この下にまた健康体の戦闘兵が下にいたから、そういうやつらが岩石につぶされて、呻(うめ)いたり唸(うな)ったりしてるのが聞こえるから、そういうのを聞いたりなんかしてて。大分、どのぐらい時間は分かんないけども、やっと正気に返ったようになって、やっとこすっとこ、こう起き上がってみて。起き上がるにしても何か頭がその棚、棚を作ってあったその棚が、崩れた岩を載っけたまま棚がずり落ちてきて、それが頭挟まれちゃってなかなか起きられなくて。そして体をすくませたりなんかしてやっとこして頭を抜き取って、起き上がって、足伸ばしたまま起き上がって、ボャーっとしてさ。そういうのははっきり覚えてますね。

たしか沖縄の初年兵かもしらんけども、「あんまー、あんまー(お母さん)」ってどなる声も聞こえたりして、本当にひどいもう地獄のような、そんな感じだなって、私はこう夢うつつでその声を聞きながらそう思ってたね。どんだけこれで兵隊たちが死んだか分からない。恐らくここへ来た当時は、まあ3分の1ではきかない兵隊は来たんだろうと思うけども、その兵隊も、恐らく半分ぐらいになったんじゃないかと思うぐらい、みんな死んでいったと思うんです。

隊長から、「これから名前を呼ぶ者は後方の患者収容所へ行くように」と。そういうことで名前を呼ばれて。そして最後のほうに私の名前も呼ばれて、そしてここを出ていかなくちゃならなくなって。あれはサロマのほうの何て言ったかな、あの分隊長が「ここは死守陣地で、もう私たちはどこへ行ったって死ぬんだから、どうせ死ぬんだら、ここで隊長と一緒に死にたいから置かせてほしい」って、そう伍長が隊長にもう懇願したんです。「何とかここに置かせてほしい」と。そしたら隊長は、「だめだ、命令だ」って、もうただそれだけ。この命令というものは絶対だから、しかたなしに私たちは脱出する方法を考えた。

そしてこっちの後方の与座岳に向かって、這(は)ったり、あるいは四つんばいになったり、そしたり中腰で走ったり、岩につまずいてひっくり返るやら穴ぼこに落ちてひっくり返るやら、もうさんざんな目に遭いながら、やっと与座岳にたどり着いたときは、もうお日さんが上がるぐらいの明るさになってて。そして大きな岩をぐるっと回った途端にガシャッて音がして、ひょっと見たら、日本兵が銃を俺のほうに向けてるのでびっくりして、「おい、撃つな!」って、急いでどなった覚えもありました。そして、そいつに「患者収容所ってどこだ?」って聞いたら、「知らない」って。「そんなものあるのか」って言われて、「もう明るくなってきたから、もうしょうがない、もうここに置かせてくれ」と言って、そこの隊に居候を決めさせてもらったの。それが何か工兵隊らしくて、この与座岳にいろんな洞窟を掘った工兵隊の中隊だったようです。そこで時たま恵んでくれる握り飯を食べながら、そこでしばらく過ごした。そしたら、この辺をもうべったりとつぶしてしまった米軍は、今度はこっちの与座岳に向かってきて、与座岳の似たような洞窟陣地をつぶしにかかって。そういうやつらが私らの入ってる工兵隊の、このコの字型の壕のこの空気の入るほうへ、発煙筒を、物すごい発煙筒を焚(た)いて。煙がみんな洞窟の中へ入ってきて、片一方から出て行くって、そういう状態に追い込まれて、私らも通路がもう泥でべたべたになってるようなところへビタッと腹ばいになって、顔をその泥にくっつけるぐらいにして、辛うじてその泥を吸い込まないような程度まで、顔を泥にくっつけて息してた。それでももう苦しくって苦しくって、もうやり切れない苦しさだった、その発煙筒。だが、中にはもうやり切れなくなって、外へ飛び出した兵隊もいたんですよ。

何か2、3人出たらしいけども、すぐにカービン銃の音がして、ババーン、ババーンって音がして、やられちゃったらしい。そんなことがあって、まあそういうことがあったり、それから、それから後に、結局その、やっぱり馬乗り攻撃で、この壕の入り口の上に上がった敵兵が爆薬をここへ落としたわけです、入り口のほうへ。上からボタッと落としたのを、沖縄の初年兵がいきなりそれに爆薬に飛びついて、シューシューする発火装置をむしり取っちゃった。ああ、それがね、もうそこの中隊長がすごく、もうびっくりしちゃってね、みんなに大声で知らせて、沖縄の少年がもうすごい手柄を立てたって。爆薬を、発火線を引き抜いて爆薬を殺してしまったって、立派な行いだって。

何日かしてる間に、そこでいた工兵隊の元気のいい者はみんな後方へ逃げちゃったわけです。そして残ってるのは、動けない兵隊たちばっかりが何十人か残っていました。そして、そういうやつらも、うめき声を上げたり唸ったり、何かこう「お父さーん」って言ってみたり、「お母さーん」って言ってみたり。もう寝言みたいなことを言うやつもあれば、気違いみたいになるのもあれば、もうさんざんな、いろんな形で次々と死んでいって、結局そこにどのぐらいいた、1か月ぐらいいたかなあ。もう5、6人もう残っただけで、あとみんな死んじゃって

私は、その与座岳にたどり着いて、そして友人も自殺していくのもいたし、ぼちぼちと覚えた者も死んでいく。だけど自分らもどうなるか分からない。で結局、5年でも10年でも長生きしようと。必ず日本軍は助けに来てくれると。だから、10年辛抱しようと。そういうように生きてる者同士で話し合って、その洞窟暮らしをやっていたわけです。そして、いろいろ食料集めたりなんかしてるうちに、その問題の日が近づいてきたわけです。それが、もう10月になっていたんですよ、そのときは。もう沖縄では大砲の音も何もしなくなっちゃって、戦争があったなんてことは分からないようなぐらい静かな沖縄になった。ただ時たま、夜は機関銃の音がしてましたけどね。でも、戦争らしいものじゃない静かになった。それで、もう秋になって、何となく秋風が吹くようなころになってたときに、私ら、夜、一生懸命食料探して歩いて昼間は寝てたと。そして、寝てるところを、ぐっすり寝てたら、枕元で不意に「アロアロロアロアララ」という何もわけの分かんない話し声が聞こえた。「あっ、ヤンキーだ、アメリカ兵だ」 いや、そう思ったときは、いやもうそのときは本当に怖かったですね。あんな恐怖を感じたっていうことはなかった。何とも言えないすごい恐怖感を感じて、こうしちゃおられない、殺さなかったら殺される。そうして、もう夢中になって枕元に置いてあった14年式の拳銃で、その懐中電球持ってるやつを撃った。したら、そいつがぶっ倒れて、何かバタバタしたけど静かになったから、寄って懐中電気で顔見ると、まだ若い白人の兵隊だった。しかし、不思議にはそいつが武器を持ってなかった。私はてっきり短銃ぐらい持ってると思ってやったのに、全然武器を持ってない。そのとき何か、フッとこう何となく腑(ふ)に落ちないようなそんな考えが起きたけども、でもこれは大変だと。ここに日本の兵隊隠れてるのがバレちゃったんだから、もうだめだと。そういうことが2、3回あったんですよ。そして、そのたんびにもうだめかと思いながらも来ないもんだから、そこに隠れていたわけだけども。で、そいつらは、きっとヤンキーが来るだろうと。そして来たら、どこまで来たらおまえ手りゅう弾投げろとか、どこまで来たらおまえ小銃でとか、そういう役割を決めて、そして、ふだん寝泊まりしてる場所よりも、4、5メーター奥に入ったちょっと窪んだところへ体伏せて隠れてた。そしたら入り口のほうから、「おーい、撃つなよ」、そう言いながら来たのがいて、そいつが「いや、じゃ本当の話するけども、戦争終わった」と。「もう戦争やめたぞ」と。そう言われて、「もう2、3日で探すのはやめるからな、もう帰るんだぞ」と言われて。そして、ほかの者に聞いたら、「いや、本当らしい」。そう言われて、私は半信半疑だけども、とにかく出てみたと。そしたら、アメリカ兵ばっかりで、何かにやにや笑っていた。「ああ、これは本当に戦争やめたんだな」と思ってたら、結局、私は隊長のところへ連れて行かれて。で、通訳がいていろいろ話しして。そして、「隊長が言ってるんだけども、死んだアメリカ兵、腕時計と財布がないから、おまえら持ってるんでないか」と、そう言ってるって。「いや、腕時計は俺持ってる」って言ったの。で、見せて。死んだやつから取って腕時計持ってたんだ。そしたら「それを返してほしい」と言われて。「いや、これは俺の戦利品だから、記念品に持って帰るんだから返せない」と。「これは俺のものだ」と。そう言ったら、何か隊長の顔色変わったようだったっけ。通訳があと何かいろいろ話ししていて、通訳が言うんです。「俺が詳しく後でゆっくり話するから、今とりあえず、その返してやってくれ」と。「俺がちゃんと話ししてやるから」と言うんで、私はしかたなしに腕時計外して、腕時計隊長に渡した。でも、財布のことは「知らない」って、そう言ったの。そしていて、結局隊長と通訳が何かいろいろ話ししていたけれども、結局、隊長が言うわけです。「おまえたちはアメリカ兵を殺した」と。「だけど、それは戦争終わったの知らないでやったことだ」と。そして「アメリカの兵隊には、私から、隊長から絶対に洞窟の中には入るなと。洞窟は危険だから絶対に入ってはならんと厳重に申し渡しておいた」と。「それなのに、命令を無視してこういう状態になった」と。「結局、これはおまえたちにも罪はない。戦争終わったの知らなかったんだから罪はない」と。「アメリカ兵には、命令を守らなかった、そういう落ち度がある。だから君たちの罪は問わない。すぐ収容所へ連れて行け」と。そういうことで、結局、私は罪には問われなかった。

結局もう最近になってからですよ、そういういろいろなことが分かってくるというか、頭の中で考えるようになったのは。それまでは鬼畜米英で凝り固まっていたけど、そういうのはだんだん和らいできて、そういうふうになって。そして、この間、この間って今年だね、沖縄へ行ってきた。あのときに考えたのは、俺がやってしまったあのアメリカの若い兵隊にもお花を一つ供えてやろうかと、そういう気持ちになったんです。それで沖縄で花を一つ余分に作ってもらって、そして与座岳行ったときに、これはアメリカ兵の分だといって花を供えて。そして線香も上げたかったけど、雨降りでだめだったから上げないで、花だけ上げて、「お互いに不運だったな」と言って、アメリカ兵に心の中で話しかけて、そして頭下げて帰ってきたけどもね。結局何というか、その中隊長が我々負傷者を逃がしてやろうと思って、命令で壕を追い出したとか、あるいは、アメリカの将校はあれが立場が逆だったら、私が隊長のあれだったら、「この生意気な日本の兵」、いきなりもう殺したと思うね。ああいう戦場だから、死んでも生きても別に問題ない。それなのに罪はない、そういう何ていうか寛大な判断を下した将校は偉いもんだなと、そんなふうに思ったりしてるんです。

結局考えてみるとね、戦争は国と国なんだよね。国と国がやり合うわけだ。個人同士では何も敵でも味方でもないわけだ。敵でもないんだよ。ただ、国が鬼畜米英と言うから、「ああ、そうか。アメリカ、イギリスは鬼畜生か」と、そういうふうに思い込むだけで、そして、戦場へ連れていかれるからお互いに殺し合いやっちゃうわけだ。でも、撃ち合ったって、お互いに何にも個人的な恨みもないんだ、別に。殺されそうだから殺すと。そういうようになるだけのことであって、考えてみると実におかしいことだと思う。与座岳でアメリカ兵を撃ってしまったことが、今、私は心で、「いや、済まなかったな」と、そういう気持ちですよ。戦争やってるときは鬼畜米英だったけどもね。でも、よく考えてみると、相手も私が日本兵がジャップが憎くて殺してやろうと思ってきたんじゃない。土産に何か日本の軍刀でもあったら拾って持って帰ろうと思う単純な考えで、入ってきて私にやられたんだけども、そんなかわいそうな、お互いに何にもその恨みはないんです。そのことを考えるとね、戦争って何だと。みんながそれで恩も恨みもないのに殺し合いをやってる。これがその万物の霊長と言えるのかと。だから、私はそういうことをね、今の若い人たちにも知ってほしいし、子どもたちにもね、そういうことを理解してもらいたいなと思って、いろいろ話を聞いてもらってるんですけどね。

で、それに、その結論にたどり着くまでに、65年かかったわけですよ。65年前に戦争をやって、殺し合いをして。そして今になって「おかしいな」と。別に恨みがあって殺したわけじゃない。殺さなかったら殺される、ただそれだけのことで殺してしまった。だから、結局兵隊同士みんなそうですよ。だれも、アメリカ兵だって日本に、兵隊に恨まれるあれはない。ただ、お互いに相手殺さなかったら自分が殺されるからやり合うだけで、みんなそれは国が決めてることで、そういう矛盾に気がついたのが、この今年65年目です。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
福島県に生まれる
1935年
上士幌町立北門尋常小学校卒業
1944年
現役兵として旭川27連隊に入営 満州東安に到着
 
沖縄に転進、陣地構築
1945年
沖縄戦に砲の照準手として参加
 
与座岳で終戦を迎える 当時、上等兵
1946年
鹿児島にて復員
 
復員後は、団体職員に

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