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タイトルタイトル: 「見捨てられた少女たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 恵田 光之さん(野砲兵第42連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年11月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 南国・沖縄  05:37
[2]2 チャプター2 現れた大艦隊  05:57
[3]3 チャプター3 最前線へ  07:06
[4]4 チャプター4 戦闘に巻き込まれた沖縄住民  04:02
[5]5 チャプター5 白梅学徒隊  06:31
[6]6 チャプター6 投降  08:05

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年11月22日

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Q:沖縄に行くっていうのは、恵田さんは、いつ知ったんですか。

沖縄に行くのは、8月7日ごろ上陸したから、5日ごろだな。当時は、潜水艦、アメリカの潜水艦が、ものすごいスパイがおって、もう出ればやられたから、みんな輸送船。だからうるさかったね。で、我々が乗るときも、なかなか言わんかったけど、中隊長が、いよいよ乗って船に乗って、おりる1日前に教えてくれたんだ。2日前に教えてくれた、「沖縄だ」って。

Q:そのときは、どんなお気持ちでしたか。

まさか、「沖縄があんな戦場になる」と思わなかったし、「これは、いいとこに来たな」と思った。

Q:「いいとこに来た」と思われていた?

うん。そんなことにはならんかったけどね。みんなそう思ったんでないのかな。敵機1機も来ておらんしね、敵の飛行機も来ていない、爆撃1回もされていない、大砲1発も撃たれていないんだから。そりゃあ、「沖縄へ行ったらいいな」と思ったわ。

弾1発も来ていないし、バナナやヤシが茂っているし、パパイヤが結構なっとったかな。

Q:実際に沖縄に上陸してみまして、恵田さんは、北海道生まれじゃないですか。沖縄の風土とか住民とか、どんなふうに恵田さんには感じられましたか。

例えば、わたし、たばこ飲まないんだわ。で、兵隊は、たばこを1個とか2人に1個とかって配給になるから、俺は1個ずつもらって、誰か兵隊の(タバコ)飲む人に売ったり、羊羹(ようかん)とばくったり(交換)しようと思ったら、みんな羊羹も食べたいし、たばこも飲みたい。だから、「民間人に行くよりしようないな」と思って民間に行った、たばこを持って。そうしたら、沖縄の40、50ぐらいの人は、あの当時は日本語分からないの。方言使っているんだよ。俺らも分からん、だけど嫁さんが出てきて、いろいろ通訳してくれて、そしてたばこと羊羹をばくって(交換して)帰ったけど。

Q:そうしますと、その上陸当初は、沖縄には戦争の気配というのは全くなかったんですか。

なかった。あれで、「我々の大きな者やら兵隊でも屈強なのが、どんと来るから、これは沖縄の人たちも安心した」感じも一時あった。

Q:安心といいますと?

いやあ、「こんな強い兵隊が守ってくれるんだら、沖縄も大丈夫だな」っていう。

上陸して間もなく、我々、お茶ごちそうになったりなんか、回ったときに、そう思いましたね。あと学校に、我々、何回か行ったんですよ。中隊によったら、学校を校舎借りているところもあったから、そうしたら「標準語を使いましょう」っていう、ちゃんと立派に書いて、沖縄は、この沖縄語がまだ行き渡って、「みんなの人は、標準語はなかなか分からんのかな」という感じはした。

Q:恵田さんは、アメリカの船が沖縄を取り囲む様子を、御自身の目でごらんになりましたか。

うん、見ていたよ。アリゾナ(米軍の戦艦「アリゾナ」は1941年、真珠湾攻撃で沈没)も与那原の沖合に来て、ちょうど俺らの陣地が近くだからね、首里だったから。部隊でだな、大砲を撃って。その中で3発か4発不発弾があったわ。あの弾が、俺の背ぐらいあるんだよな。それが撃ってすぐ、まだ湯気立っているやつ、ごろんごろんと転がっておったわ。そんなところを見てきたわ。

Q:沖縄の海にアメリカの艦隊があらわれたときは、御自分で見られたとき、どんなことを思いましたか。

これで、「もう死ぬんだな」っていう。だけども、「最後まで努力はせんならん」と思ったよ。ただ、俺の分隊長がね、どういう関係か知らないけれど、俺を、弾のこないところに命令するんだよな。「今晩、陣地構築だ」だから1里か2里行かなくちゃだめなんだよ。それやるのに、「恵田は休め」って。

Q:艦砲射撃の衝撃っていうのは、どういうふうなものなんですか。

あんまり近くで受けなかったけども、来たらすごいね。道路なんか全部ぶち壊されて、深さ10メートルぐらいで下で、水たまっているような弾痕が幾つもあったんですよ。

Q:そんなにすさまじい威力なんですか。

うん。いや、艦砲は、日本軍の、連絡路を遮断するために撃ったんでしょう。ああいう崖(がけ)だとか、道路の絶対通るところをやっておったわ。

Q:その後4月1日に、いよいよ上陸してきますけれども、上陸の知らせを聞いたときっていうのは、恵田さんはどういうことを思われましたか。

俺、兵隊だからね、ずっと遠くにおるから分からないんだわ。そして夜になって、「今晩、上陸あったよ」って、そんな連絡ぐらいだわ、俺らみたいな初年兵には。それは高学年数になっていれば、もっと詳しく聞けるんだろうけど、小隊長や中隊長が話をする。俺らには、そんな話もないよ。

Q:でも、その「上陸したらしい」っていうことを耳に入ったときは、恵田さんはどんなふうなお気持ちになりましたか。

戦友の1人がね、仲よかったんだわ。鉄道員で頭がよくて、それが、「恵田、敵が上陸した」って。「俺、おしっこに血が出る」って言って。「ああ、そうか」って。何か落下傘部隊が飛行機から降りるときは、血のおしっこが出るって言っていたけども、そんなことあったんだなと思って。それ以上、俺らは言えないんだよ。そうかといって、その初年兵も俺に言うより分隊長に言えないな、ぶったたかれるから。

Q:「おしっこに血が出る」っていうのは、どういうふうな意味だったんですか。

いや、精神・・・、精神的に参っちゃった。だから、その男、そう言ってきて、その晩に。我々は、夜も昼もないからね、大砲を昼も撃って、砲手だったんだもん。

Q:恵田さん御自身は、どんなふうなお気持ちだったんですか。

「来るものが来たな」っていうことで、俺は、「ワタワタしたってしようがないから、これはなるようにしかならんな」と思って。だけども、「絶対、生きろよ」っていう自信はあったから。自信っていうよりは、そういうような気持ちがあったから。

野砲はね、大砲を撃つときは、隠れてこっちから大砲だけ撃つから。歩兵のように一線同士で戦わないからね、そういう場面も。そして、俺は連絡兵だったから、そういう場面にはあわないんだわ。昼間、火炎放射、戦車に何台かやられたって。そんな連絡聞いたりなんかしておったけど。

陣地へ寄ったら、日本軍が洞窟を掘って、それはもう何百メートルって掘って、もうそこ掘ってしまっているからね、そうして、あっちこっちへ逃げ道つくっているから。そこら辺、日本の兵隊があっちこっちにおるけれども、そいつを、アメリカは火炎放射器で。最初は、戦車砲か何かでやられると思ったけど全然だめで、毒ガスをぶち込んだり火炎放射器で焼いたり、いろんなことをやってきた。

Q:戦場で、いちばん怖い瞬間っていうのは、どういうときですか。

いちばん怖かったのはね、しんがりで2人で行ったんだよ。そうしたら、そっちのほうね、気きかせて、アメリカにちょっと連絡、敵兵に連絡しちゃったんだわ、味方だと思って。もう同じ格好しているし、夕方だから分からんかったんだ。そして、その人が今度「ジャップだ」って向こうから言って、自動小銃向けて「ババババ」撃ち出した。さあ、それが段差が10センチか20センチあったのかな。で、俺が、ざっと引いて、ところが夕方だったんだ。忘れもせんさ、13日か、14日ごろになると、月ちょっと明るいのかな。13日か14日、月の、月の明かりしか見当つかなかったから。で、その戦友が「おおっ」て、友軍だと思って手上げちゃった。そうしたら、やっこさん、「ジャップ」って、途端に自動小銃向けて、ババーンって撃ったでしょう。何、日本の弾ったら単発。自動・・・、曳(えい)光弾なんかないでしょう。アメリカの弾ったら、黄色いやつ、白いやつ、いろいろの弾が飛んでくるんだ。いや、これはとんでもないとこ来たなと。ああ、俺も伏せたけど、そうしたらやっこさん、ちょっと高いところにおったんだわ。体が2、3センチ浮くんだよね、弾が当たった途端に。そんなこともあって、そして、今度、俺のほうに向かって、自動小銃を撃つ段取りをしていた。ところが俺はちょっと低かったんだ、倒れところがね。それで、それと戦友の陰だし。だから、敵は俺をねらって撃つけど、弾は俺に当たらんの。ところがそばにサンゴ礁がずっとあるでしょう。それがジャジャジャジャジャーって、弾が当たると崩れて落ちるんだわ。ああ、「俺も、いつか当たるとこんなことになるんだなあ」と思っておったけども。その当時、日本の兵隊は自決用に手りゅう弾2発持っておったから、俺は、「うん、こいつを敵にぶつけて、助かるんだら助けてやれ、助かろう」と思って。そして取って、静かにやって、そして安全栓、教本どおりに口で抜いて、あれして抜いてみたら、もうしっかりした。そいつを岩にぶつけて、そうしたらグーッて発火するんだね。それで、1、2、3であれを投げたのかな。そして投げたら、敵は、今度、俺が手りゅう弾投げたもんだから、弾撃つどころでない、慌ててどっかその辺にまたゲリラがおるかと思って慌てて逃げて行ったんだべ、あれ。全然撃たなかったもん、俺を。そんなこともあった。

軍はね、強気なことを言っていたんですよ。そして「首里で絶対守り抜く」って、そして「首里で玉砕する」って言っていたの。したら、それで民間人は、そのとおりにしようと思って、一部は南部、島尻方面へ疎開した。穴掘ったり、沖縄にはあっちこっちに洞窟があるからね、そういうの、うまく住みつけば、民間の人たちは大分生き残れたんだもの。ところが、最後になったら「日本軍は後ろに下がる」って言い出して、摩文仁に下がったでしょう。そのために戦線は、首里で玉砕するはずが、後方に下がったから。ああ、民間人がいちばんひどい目にあったんだ。で、俺らは、その個人的に連絡したりなんかするからね、あんまりなことできないけれども、軍は歩兵だとか第一線の者たちは、その沖縄の民間人を古くからの壕からみんな追い出しちゃって、中には、斬ったり、日本刀を抜いてやったのもおるらしいんだ。そんな状況で、我々は現場見たわけでもないし、しゃべったわけでもないんだから、それだけのことだな。

Q:「民間人がいちばんひどい目にあった」っていうことですけれども、恵田さんが、直接見た民間人の姿っていうのは、そしたらどういうふうなものですか。

夜ね、行軍せんならんの。首里の近くから島尻まで下がるっていったら大変な距離なんだわ。大変だ。で、俺らも大砲引っ張って行った。敵の砲撃がある。それで、友軍の銃砲陣地があるんだな。友軍の陣地や、そこへ撃ったりなんかして、民間人の人が「敵が撃っているか」と思って、慌ててその辺に隠れたりなんかするけれども、「大丈夫だ、大丈夫だ。今のは民間人、友軍が撃っているんだから」って、そんなこともあったね。いやあ、結構アメリカ、日本も撃ったからね。

やっぱり軍の作った壕(ごう)だからね、軍が最後まで管理する、それはしようがないわね。そして、憲兵だって最初から女学生まで取り締まるつもりはなかったけども。最後は、「看護兵といえども許してはだめだ」っていうような上部の命令が来たと思うんですよ。もちろんそういうスパイもおったらしいから。

Q:じゃあ、女学生は、壕の中に入れずに、外で寝かされていたんですか。

一応、壕に入って、そして入り口が2、30メートルあるから、そこにずっと寝ておったわな。

Q:恵田さんは、その看護婦だった女の子たちが、亡くなった様子というのは、もう目で見たんですか。

うん、見た。

Q:それは、どんなふうなふうに亡くなっていかれたんですか。

いや、あのね、寝ているとこだったから、その前に(米軍が)ガス・・・、火炎放射器、それから速射砲を撃ったりして、そして、入り口で歩兵の分隊長も戦死して戦っているからね。だけれども、看護兵はそのまま寝ておった。だから、あの状況を知っているのは、俺しかおらんべ。したって、俺は見に行ったんだもの。上官の命令で、3時間ぐらいするとガス薄くなるから、何でもねえんだわ。今になってみりゃあ、あの毒ガスがやつを、俺は、それで時間で切り抜けたなと思っている。

Q:亡くなるとき、女学生たちの声とか聞こえたりしましたか。

「あんまー、あんまー」って、方言で言うんだよね、お母さんのことを。みんなお母さんのことを言っておったわな。あのとき、あの部隊は、恐らく軍人、軍人っていうか看護兵としての教育をされたと思うから、大変だったと思う。

Q:その「あんま、あんま」っていう声は、洞窟の中にいた恵田さんにも聞こえてきたんですか、どんな声でした?

「あんま、あんま、あんまー」1人が言ったら全員、全員みんな言うんだ、お母さんって。お母さんって言わないんだよ、「あんま、あんま」って。そして、来ている着物が、その沖縄の銘仙(めいせん)っていうか、いい着物なんだよね、つやのあるいい着物、みんな着ておった。

Q:恵田さんは、その声をどういうふうに、どんな気持ちで聞いていらっしゃったんですか。

俺らも、いつ死ぬか分からんけども、これは軍は無責任だなと。最後は、軍で使って、最後は「おまえら好きに逝け」って言ったんだから。したから、もう女の人たちは最期の着物を着て、そして荷物をしょって、乾麺麭(かんめんぽう)や何かもらったと思うんだ。で、それを全部しょって、そして後方に下がったんだわ。そして行った歩兵の陣地で、そこで断られたんだから、大変だったろうと思う。そして、いろいろ話をして、何とか休ませてもらう。酷だったけれども、それは戦場の壕になる、壕の一部だったの。で、次の日に、敵の兵隊が壕になだれ込んできたの。

中学生だと思うね、あの年ごろから言って。「兵隊さん、一緒にこの壕だら入れるわ」言って連れて行ってくれたもんだから。で、行ったら、お父さんとお母さんとおばあちゃんがおって、そして中学生と俺がおったんだよ。

そのうちに、沖縄、琉球師範の学校の先生の子どもさんが、4歳か5歳に、4歳ぐらいかね、5歳かな、連れておったですよ。そして、「助けてください、隠してください」って。そして、薄明るくなりかけて、もう夕方だった、朝方だったの。それで来たらあのころね、友軍が、その4歳、5歳の子は斬ってしまったんだよ。子どもは泣いたり、わめいたりするから敵に見つかるからって、斬ったことはあるらしい。

で、沖縄の女の人は、子どもを、何とか手なずけようと思っていたら、子どもだからね、水飲みたくなってきたんだわな。「水」って言い出したんだな。そしたら、「黙んなさい」、お母さんが言ったって分かる子どもでないもんね。それで、2、3回ぐずり出したの。そしたら、お母さんも、もうやり切れんかったんだべ、子どものお尻つねったんだもん。そしたら、子どもは、途端に火ついたように「きゃー」って、泣いた。そしたら上にアメリカがね、機関銃を持って頑張っているんだから、そして手りゅう弾、合計3発ぶち込まれた。で、子どもがそんな状況だから、おばあちゃんもけがした。で、沖縄のお母さんが、「兵隊さん、自決はうちのも一緒にやってください、後に残ったらいちばん困るから」って言って、「うん、俺は死ぬんならいつでも死ねる、慌てることない」って。そして敵のところへ出ることにしたんだよ。そしたら、俺は軍服だからね、そして軍靴も履いているし、軍曹やら兵隊さんだめだと。沖縄の着物着て出て行ったの。そのとき、沖縄のお母さんが、ありがたかったんだべな、子ども助けてくれて、俺を拝んだわ。

Q:そのとき投降をするっていう決断をするには、悩みましたか。

時間がないもんね。アメリカが上へ来ているんだから。だから、もう、即捕虜になっちゃったの。

Q:でも、手りゅう弾は、持っていらっしゃったんですよね、自決用の。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
北海道芽室町に生まれる
1937年
萩が丘尋常小学校卒業後、上士幌高等科に進学
1944年
現役兵として旭川795部隊に入営 満州に到着
 
沖縄に転進、陣地構築
1945年
沖縄戦(軍馬の蹄を管理)
 
与座岳付近で終戦を迎える 当時、一等兵
1946年
名古屋にて復員
 
復員後は、農業を営む

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