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タイトルタイトル: 「命じられた斬り込み」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 南 義雄さん(北海道・歩兵第89連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年11月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 北の国から南国へ  04:44
[2]2 チャプター2 いちゃりばチョーデー(一度知り合えば兄弟の間柄)  03:04
[3]3 チャプター3 十・十空襲  00:41
[4]4 チャプター4 海上に姿を現した大艦隊  03:30
[5]5 チャプター5 米軍の上陸  03:35
[6]6 チャプター6 最前線へ  05:13
[7]7 チャプター7 負傷  06:22
[8]8 チャプター8 病院壕  02:53
[9]9 チャプター9 本島最南端へ  02:19
[10]10 チャプター10 壕の中の3日間  04:44
[11]11 チャプター11 国頭突破  02:55
[12]12 チャプター12 武装解除  03:07
[13]13 チャプター13 スパイ扱いされた沖縄の住民  05:20

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年11月23日

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Q:動員がかかってね、沖縄へ向かうということを知ったときのね、南さんのお気持ちはどんなふうでしたか。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
いや、全然分からないですよ。秘密で、絶対にね、これは秘密でね、将校は分かっていたかもしれないけどね、そういうことは一切口にしない。秘密も秘密ね、大きな秘密だからね。

絶対秘密だけれども、支給されたのがね、半袖の服と半袖のズボンでしょう。誰に言わんくてもね、その南方行きに決まってるしょ。だけど、行き先は分からない。全然分からない。

Q:沖縄に着いたときは、どういうふうに思いましたか。

沖縄に着いたときはね、そんな沖縄に着くとも思わないし、九州のプサン(釜山)から乗船したんですよね。そのときね、9杯ぐらいな輸送船が来て、うちはね、1大隊のね、・・・という大隊長の指揮で行ったんですけどね、その船がね、陽光丸ってね、これはね、何だい、沖縄でなく、アメリカとして、真珠湾攻撃でね、日本がぶんどった陽光丸って7500トンの船、それがね、前の横っ腹にこんな穴あいてるんですよ。その穴、修理する暇ないんだよね、輸送船、忙しいから。その船に乗ったらみんなより1日遅れてしまったの。ほかの船はどんどん行ってしまったしょ。朝、夜が明けてみたら、船1艘もないんだよね。その陽光丸だけ残されてるわけさ。さっぱり進まないよね。横っ腹に穴あいてるわけだから。それで、みんなよりね、1日遅く着いたんだよ。

Q:その沖縄上陸が決まったときはね、南さん、どんなお気持ちでしたか。自分たちが沖縄に行くんだって、分かったときは。

沖縄に行くの分かった時点はね、沖縄にその輸送船がね、1日遅れで停泊したでしょう。そのときにね、大隊長がね、乗船命令がなかなか出ないわけですよ。だからね、「ああ、これはね、まだ南方に行くのに燃料の補給しなければいけないので、燃料の補給するんだな」と思ってたわけ。そのうちにね、大隊長がね、輸送指揮官だったがね、そのときにね、「これからね、みんな沖縄に上陸」っていう、初めて沖縄に上陸することが分かったわけですよね。それはみんな喜んで、「万歳万歳」で大喜びしたの。そしたらね、大隊長が軍旗を、いちばん先に、上陸させたんですよね。それからね、次々とすぐ降りれないんですよ、ずっと沖の方にとまってるの。そんな7500トンの船なんかね、那覇に入れる時代でないからね、沖のほうに泊まってたんです。それからみんな喜んでね、次から次とポンポン船に乗って那覇に上陸した。

Q:その沖縄の風景とかね、住んでる住民の印象というのはどうでしたか。

もうまず、上陸して沖縄の地形というのはね、もちろん初めて見るわけでしょう。見るもの見るもの、皆珍しいしね、天妃っていう小学校にね、1泊したんですがね、何かこんな三味線の音が「ちゃんちゃんちゃんちゃん」聞こえてね、「これはもう、軍隊気分も、何もないわ」って、みんな喜んでいたの。

もうね、沖縄の人はね、「一度、会ったら兄弟さ」っていうぐらい親切なんですよね。本当にね、人擦れしてないっていうかね、してね、内地の人を特に大切にしてくれて。

Q:じゃ、軍隊にも協力的だったんですか。

そうです。特にね、山部隊(第24師団)っていうのはね、北海道部隊でね、非常にね、沖縄の人とね、対話しても心が合うってね、沖縄の人はね、北海道の人はね、信頼してたんです、その当時。したら、関西方面の兵隊も中にいるでしょ。関西の人はね、口は上手ですよね。したら、実行しないって。北海道のね、兵隊は言われたことは必ず実行してくれるって、北海道の部隊は受けがよかった。

Q:北海道のことも、沖縄の人から珍しがって、いろいろ聞かれることもありましたか。

ああ、もう、会うたびにね、北海道から来た兵隊さんだからね、「北海道の話を聞かせてください」ってね、みんな学生あたりが集まってくるんですよ。

Q:沖縄の人には、北海道のどういうことをよく聞かれましたか。

北海道のね、やっぱり日常生活とかね、まず気候だね。北海道はね、寒いっていうことは向こうは知ってる。うちらが、沖縄、暖かいっていうのを知ってる、そういうようなことから、いろいろね、日常生活のことをね、沖縄の人に聞かせてやる。子どもたちみんな集まってくるんですよ。

「住民との交流は絶対してはだめだぞ」という軍の命令はあった。だけど、山部隊(第24師団)の場合はね、特に、ほかの部隊よりもね、厳しいんですよ。「住民との交際はあんまりしたらだめだ」という。だけどね、住民の中にいるんだからね、全然知らん顔してるわけにはいかないでしょう。それでね、方言を使うでしょう、沖縄の人はね。で、「方言は、兵隊は、習ってはだめだし、しゃべったらだめだ」って。沖縄の初年兵はね、方言が得意でしょう。それで、方言を話す者は制裁を加えるということになってね、したら、うちらね、沖縄の初年兵だから、全部方言をしゃべるけども、学校出ている者はね、標準語しゃべるからね、ただ、「方言は使うな」という厳重な達しがあったわけで。

那覇の空襲は見ていたらね、物すごい火柱が上がってね、すごいのはね、肉眼で上しか見えないけどね、下は見えないけども、とにかく飛行機の突っ込んでいくのがね、次から次から次と下りてね、たった1日でね、那覇市は全滅しちゃったの。

Q:10月10日の空襲も終わって、実際に本当に「いよいよアメリカが沖縄に来るんじゃないか」というふうに南さんも感じたのはいつぐらいですか。

感じたのね、うちがね、初年兵を連れて中隊に帰ったでしょう。帰ってからね、帰ってから間もなくだよ。「艦隊が現れた」ということで、みんなね、そのころ壕(ごう)掘り作業に行ってたんでね、したらね、摩文仁の海岸ね、はるか向こうにね、真っ黒に船が来たんですよ。ちょうど沖縄の島がね、向こうに、できたぐらいの範囲に真っ黒に、それこそ艦隊が現れたの。その現れてね、見ている間にね、今度、グラマンが飛んできたんですよ。そして、うちらの陣地構築してるすぐ前のね、与座という部落にね、グラマンが攻撃してきてね、見てたらね、一升瓶みたいなね、爆弾がちょうど一升瓶のように見えるんだよね。それがね、次から次へと、こう来てね、何機となく攻撃してきたの。それでね、そのアメリカ軍の攻撃してくる合図のね、サイレンというのが鳴るんですよね。それがね、沖縄のサトウキビ畑にね、そのサイレンがあったんですよ。そのサイレンが先になったんですよ、軍のサイレンより。それがね、うち不思議でしようないんだよね。普通だったら軍のサイレンが先になるでしょう。ところがね、地方のサイレンが先に鳴ってね、それでもう、不意打ちされたというような形でね。

心ばかりはね、勇んでいるけれどもね、実際にアメリカの、ああいった攻撃見ただけでもね、「もう沖縄は、到底、アメリカには勝つことはできないな」と自分ら思ってました。だけど、そういうことは口に出せないですよね。上官に知られたら、これものすごく焼き入る。

「勝てない」と思ったのはね、うちらだけでない。みんな兵隊はね、第一、グラマンのね、編隊を見ただけで「もう沖縄は全滅だな」ということを感じてたね。日本の飛行機がないですよ、全然、1機も。それでね、読谷というところにね、海軍の飛行機がね、5、6機はあったんだけど、それも飛び立たないうちにアメリカにやられちゃって、飛行機は1機もない。たまたま特攻機が九州の知覧から来ることがあった。これもね、みんなアメリカのサーチライトでね、照らされちゃって、軍艦にね、攻撃することは、まれで、うちは見たことないけど、見た兵隊が言ってたけどね、1艘か2艘はね、アメリカの船もやられたけど、もうあとは全然だめ。

そのころは、山部隊(第24師団)はね、まだ島尻(南部)にね、上陸すると思ってるんだからね、港川方面からね、上陸すると思ってるからね、もう山部隊は島尻にくぎづけになっちゃったわけ。

Q:そのアメリカの陽動作戦というのは、そんなに巧妙だったんですか。

まず、巧妙といういうほかない。日本のね、軍隊がね、想像している以上に作戦が上手だったということは、もうはっきりしているね。

Q:島尻に、本当に、今にも上がってきそうな感じだったですか。

上陸用舟艇がね、毎朝ね、沖からね、上陸用舟艇で来てね、沖縄の海岸を歩いてるんだよ。それでもね、日本軍はね、「絶対撃つな」って。もう「上陸して揚がってきたらね、戦闘始める。それまでは、絶対撃ったらだめだ」っていう軍司令官の命令である。そういう命令はね、南方の島々では、上陸しないうちに攻撃して、全部玉砕したでしょう。沖縄はその裏をかく、というような戦法だったそうです。ところがね、そんな日本の考えているような幼稚なものでない、アメリカ軍は。でね、沖縄本島に上陸する前にね、慶良間列島ってあるしょう。那覇の飛行場から見たらね、かすかに西のほうに見える慶良間列島、そこに上陸(昭和20年3月26日)したんですよ。したらね、そこからはね、ちょうど距離がね、あらゆる砲を撃つのに距離が最適な場所なんですよ。して、沖縄本島はね、帯のように長い島でしょう。そんだから、どこでも攻撃してね、もうこれで大丈夫というだけ撃ち込んでから、4月1日に上陸したでしょう。

Q:その4月1日のアメリカ上陸の知らせを聞いたときは、どんなことを感じましたか。

いや、うちらはね、その軍司令官でさえね、その島尻のね、港川方面から上陸するといってるね、「思うつぼに入った」なんていう軍司令官の話だということを聞いたけれどね、全くその裏をかかれてるわけでしょう。陣地構築が、全部、南の方に向けて掘られてるんだよ。敵が上陸してから陣地変えるわけにいかんでしょう。裏の裏をかかれてるわけだからね、もう全然作戦の10分の1も満たない、日本軍の。それに兵器は違うね、人員は日本軍の倍も上陸しているというんでしょう。

いや、第一線ではね、毎日、悪戦苦闘しているのにね、山部隊だけがね、島尻にあぜんとしているのはね、我々自体でも、変に感じていたんですよね。それこそ静かなもんですよ。第一線ばかり攻撃してるからね、山部隊は、もうすっかりアメリカの逆上陸にね、操られていてね、「いつ第一線に来る、命令が出るのかな」というぐらいね、静かだったの。たまたまね、そういう飛行機が飛んできても、そんなに攻撃しない。とにかく第一線、第一線を狙ってるんだからね。それでね、我々が第一戦に出るときは、もう首里の軍司令部が、もう危うしということでね、これは軍司令官命令がね、「山部隊第一戦出れ」ということになったでしょう。昼間、行動できないからね、夜、真っ暗になるまで待ってて、そして、山部隊が第一戦へ出動したの。アメリカ軍、ちゃんと分かってるしょ、もう。山部隊がね、第一戦でちゃんと分かってるんですよ。して、その島尻のね、艦隊ね、半分に減ってしまってる。山部隊がね、第一戦に出たの、いち早くキャッチしてしまった。もうすべてがアメリカの作戦通りにやられてるわけ。

Q:南さんは、その「いよいよ本当の戦場に行くぞ」というとき、どんなことを思ってましたか。

「もうこれで最後だな」ということはね、それは自分だけでない、全員がね、「よし、このアメリカの兵隊を皆殺しにやる」とね、戦闘したことがないからね、張り切るばかり張り切ってたってね、戦争は勝てない。さっき言った石部隊(第62師団)のようにね、戦闘の経験があればね、そんなに兵隊を殺すことはなかったんでないかなと思うよ。今、考えるに。そのね、やってやろうという大和魂もね、あのアメリカの作戦行動にはもうすっかりお手上げ。

Q:その第一線に移動して、その初めて見た戦場というのはね、どんな場所でしたか。

まずね、いちばん最初にね、部隊、島尻の部隊からね、一挙に第一線まで行けないんですよ、部隊の行動というのは、なかなかそんな簡単にはいかない。でね、もうすぐ忘れるけどね、東風平(現・八重瀬町)というとこにね、うちの連隊本部があったんですよね。そこまで前進してね、そこで、昼、東風平、第一線出る準備をしてたわけ。もう、そのときからね、どんどん攻撃されるようになってたしね、東風平を過ぎてからはね、あちこちにね、死がいがいるんですよ。兵隊というよりもね、地方人(住民)のほうが多い。いや、やっぱり戦闘ってひどいもんだなと思ってね、あっちこっちに兵隊とか地方人(住民)を横目に見ながら、どんどん、第一線に近づくに従ってね、死がいが、兵隊の死がいがごろごろしてるんですよ。そして、もう腐れてね、そのにおいたるや、もう頭の芯までこびりつくような死体のにおい。これが戦争かなと思ってね、もうますます勇気はつらつとした考え方も第一線に近づくに、その心も、もうくじけてしまった、あまりの死体にね。

Q:においがすごいんですか。

におい。三日か四日で全部白骨になる。銀バエがね、真っ黒に死んだ兵隊について、その死んだ兵隊が、こんななってるんですよ、グワグワグワって。もう内蔵にうじが、もう、山のようになってしまって。

Q:運玉の森から小波津に夜間攻撃かけるということだったと思うんですけれども、どんな命令だったんですか。

夜間攻撃となったらね、これはね、夜の行動でアメリカに発見されないように隠密に第一線へ近づくというのが、これ夜間攻撃の目的だからね。それでね、みんな、軍靴履いていたら音がするからね、全員隊長以下、地下足袋に履きかえて、そして必要以外のものは陣地、運玉森の陣地に背のうとかね、あらゆるほかの物は全部そこに置いて、それで、夜間攻撃に必要なものは、小銃と弾とそれと円匙(エンピ)。円匙ったら、スコップのことでね。円匙をロープで肩からこうかけてね、背負っていくんですよ。それがね、隠密でね、足のほうばっかり隠密でもね、そのスコップがね、全員、夜でしょう。隣の兵隊にぶつかったらね、カーンカーンって音するんですよ、その円匙の音が。それが300メートルまで聞き取れるんだって。して、アメリカは、もうそれこそ、「ここにはいないぞ」というようなね、シーンとしてるんですよ。銃、構えているだけだから。照明弾も上がらんしね。それね、我々の中隊はどんどんと小波津(現西原町)の部落にね、アメリカ軍が、まだ入っていないという情報が入ってるからね、どんどん前進していったしょ。ほいだら、もう、敵とまともにぶつかってしまったね。ほいだらね、隊長がこんな100メートルぐらい後方へ下がってすぐ円匙でね、穴掘って攻撃しようということになった。そしたら、小波津の集落ね、空襲でやられて、家のかわらがガラガラとなってるとこ、スコップで掘るったってなかなか掘れない、ガチャガチャガチャガチャいって。それでもね、みんな必死になって穴掘らなきゃやられちゃうからね。

「斬り込み」に行くたってね、ただやられに行くようなもんだよ。手りゅう弾と小銃持ってね、(敵に)どうして近寄れるの。アメリカね、夜になったらね、一線部隊のね、歩哨だけ残して全部後退するんですよ。ずっと後方に。そして、戦車が周囲を巻いて、そして、電気こうこうと照らしてる。ちょっとでも動くものあったらね、バリバリ撃ってくるの。全然近寄れない。

接近してしまえばね、それは手りゅう弾もいいし、あれだよ、銃もいいかもしらんけどね、そんなに接近するまでね、寄せつけないわ、アメリカは。ただ、夜間攻撃だからね、知らないでうちらの中隊もね、ほかの中隊ももう適当、入り交じっちゃったんだからね。

勝ち戦ならね、これ張り切って行って、1人でも余計殺そうと思って頑張るけどね。もうね、「斬り込み」に行くって出たら、そこに死んでるんだよ、もうやられて。そんなとこわざわざ、犬死にだ、はっきり言ったら。大和魂も吹っ飛んじゃって。アメリカの物量にもうやられちゃってね。

死ぬということはね、「勝てない戦争に無理して死ぬことはない」と思う。うちは常にそう思ってた。

Q:もう絶対勝てない。

これは・・・。勝てない。絶対勝てないことはね、戦争始まる前からね、兵隊の中にはね、「この沖縄戦で勝つことができるだろうか」と。上陸してみたら、あんた、勝つどこの話じゃないしょ。てんで、近寄れないんだからね。どんな兵器で相手を殺すかというの。重機関銃とかね、あらゆる砲、野砲とかね、銃砲とか、そういう砲しかない。その砲がもう戦闘始まる前に全部やられてるんだから。砲を壕の中に入れられないしょ。それは外の入り口に砲を置いてね、それに網かけて偽装するんでしょ。そこら辺の草とか木、そんなもの、あの暑い沖縄で1時間もたたないうちに、真っ赤になっちゃうしょ。そんなもの取りに行ってる間に、またやられるしょ。そういう砲、大事な砲はもうほとんどやられてしまってる。海軍砲なんてね、すごい、俺、初めて見たけどね、長さ10メートルぐらいあって砲身なんてこんなんだよ。その海軍砲も1発も撃たないでやられちゃったんだよ。

弾薬だって壕の中入れたら、しけっちゃって不発弾になるから、しかたないから、外に積むしょ。食料も、そう。米もね、1年間食べる米は、ちゃんと持って行ったんだけど、それも野原にこうやってテントかけて積んであるしょ。今言ったように、偽装かけたってね、そんなもの、ものの1時間もたたんうちに真っ赤になるからね、「ここにありますよ」って言わんばかり。食料はだんだんなくなる。そういうこと考えたらね、死ぬということはね、うちはもう考えなかった。

機関銃中隊のね、ワタナベという中尉が病院の壕へ飛び込んできたんだよね。「もう病院は、敵は300メートル前方まで来ているので病院は直ちに解散」という命令が出たわけ。それで軍医がね、「歩けるものは全員外に出て後退しろ」という命令が出た。重症患者は動くことできないでしょ。耳にしてもね、どうにもならない。どうして殺したかというとね、青酸カリを飲ましたの。青酸カリをバケツに入れてね、その患者たちをね、「何か水でも持ってきてくれた」と思って、喜んで飲んだらしいんだわ。したら、もう飲むと、すぐけいれん起こして倒れちゃうからね、あの青酸カリというの。うちは現に見た、その青酸カリ飲まされたの。そういうのをね、みんなあれだよ。女学生にその水を飲ませて、そして患者も分かったら、飲まんくなったら、今度は注射。注射を打って殺すんですよ、全部。「何のために、その殺さんきゃならんかったか」と、俺不思議でしようがない。

それはね、病院解散するときにも見たけれどもね、病院解散する前にね、野砲隊の兵長がね、頭狂ってるんだよね。大きな男がね、病院の壕の中入ってきたわけさ。大きな声出して叫ぶんだよね。何を叫ぶのかと、とにかく大声で叫ぶ。それ、みんなの迷惑になるからね、この壕のところに、木やってね、出られなくしちゃったの。そしたら、なお叫ぶでしょう。そんなんなったら、もうどうしようもないからね、衛生兵が「青酸カリ打つんだ」っていう。うちのすぐ目の前のところにね、その、木の枠作ってそん中に入れられたの。したら、もう下ね、雨水が逆流してきてね、動くと、がちゃんぐちゃんぐちゃぐちゃとね、昔の豚小屋みたいなところ。その兵隊にね、注射、青酸カリの注射を打つんだっていうの。うちの見てる目の前でやったよ、それは。

もうね、何ていうかな、食料もなけりゃ疲れ果ててね、とぼとぼと、あてどなくね、西に東に、どこをあてのないところを、さまよっているのかなと思って。それは住民だけでない。現に自分らもそういうような状態になってるしょ。もう軍の指揮系統というものはなくなってしまってるんだ、既に。

民間人の隠れる場所はないわけさ、はっきり言って。今も言ったように、壕は兵隊にとられるでしょう。隠れる場所たって、もう場所すらない。橋の下とかね、ちょっとした物陰に地方人(住民)は身を潜めていたんだよ。もちろん、そのころは沖縄なぞ勝つようなね、全然ないしょ。追われ追われて下がっていくの。食べ物はない。必死になってどこかに安住な場所がないかと思ってね、右往左往するのが住民。いちばん哀れなのがね、住民だったんだよ。沖縄の人。

だんだんね、地域が狭まるでしょう。南へ下がるほど、地域が狭まるからね、人は混雑するしょ、今度。兵隊と地方人(住民)もうごちゃごちゃになってしまってる。摩文仁の海岸に下がったときの状態ならね、こんなに地方人(住民)も兵隊も、生き残っていたのかなと思って。それだけの人数が生き残っていたんだから不思議なぐらいですよ。

「これはね、いかに戦友とはいいながらも置き去り食ったんだな」と思ってね、半ばあきらめていたの。ところがね、息せき切って戻ってきたんですよ、うちのとこ。そのときに初めてこれが無二の親友だなということをつくづく感じた。そしてね、それから「もうここにはいれないから、みんな生き残りが敵中突破する」って、「隊長なんか突破していないかもしらん」って、「すぐ慶座絶壁(ギーザバンタ)へ行く」ということで、走り出たんですけどね、向こうは無傷で足は達者でしょう。うちは足痛いからね、もうびっこ引き引きついていったんだけどね、300メートルも行かないうちにね、もう見失ってしまったの。

それでね、ふと見たらね、大きな壕の入り口が開いてたわ。で、そこに入ってね、一休みしなけりゃね、慶座絶壁の海岸までとっても行けないと思って、そこへ入ったのが運の尽きさ。そこに入ったらね、沖縄のね、初年兵だっていうのを、うちの中隊でないよ。よその部隊の初年兵が2人そこに入ってたわけ。でいろいろ聞いてみたらね、「うちは石部隊の初年兵で、中隊ともう見失ってしまって分からんから、この壕の中に飛び込んだ」って言ってるわけ。それで、もう疲れてしまって寝込んじゃったの、また。眠いのだけは我慢できないよね。それで、みんな、3人とも寝込んでしまったの。それでね、もう夜が明けているころだなと思ってね、見たら、真っ暗なんだよね。それから手探りでね、もう夜は明けてるはずだと思って、入り口に行ったらね、あれだよ、戦車が横づけになってるわけ。

出口探したって、真っ暗な中ね、どこに出口があるんだから分からん。ただ、気持ちばっかり焦ってね、疲れるだけ。もうあきれてしまってね、ここへ、もうここに寝るよりしかたない。食べ物はない。上から落ちる雨水にのどを潤してね、そのとき、うちが考えたのは、あそこに張ってある、あるしょ。「仮寝の宿に母の夢見し明日なき命ふるさとの母」って、そのとき初めてうちはね、家のこと考えた。「じいさんとばあさん、何してるだろうな」と。もう自然に涙出てきた。そしてね、そこにね、約3日間、閉じこめられていた。もう食料はないし、もうふらふらになってね、ここで絶対餓死しなきゃならんだな。「なぜ、こんな沖縄の南の果てのこんな壕内で餓死するのかな」と思ったら、もう本当に情けなくなってきてね、何ぼ情けないったって、戦車動かん限りは出るに出られないしょ。そしてね、ふと目さましてみたらね、こうこうと明かりが壕のとこへ差していたの。それでね、2人のその沖縄の兵に「おい、戦車はいなくなったぞ」って外に出たらね、目開かないですよ、全然。3日間も真っ暗なとこで直射日光当たったら目が痛くて開かない。で、しばらくこうやって目、目をならしてね、

アイザワとスズキが待ってるんだから、とにかく慶座絶壁までと。それで、慶座絶壁に行ったらね、もう暗い中で、何か話し声のするのが、聞きなれた話し声する。それで、近寄ってみたらスズキもアイザワもいるんですよ。タキサワ曹長もいるし、隊長以下もう敵中突破した。それで、うちが3日間その壕の中に閉じこめられてるうちに、沖縄戦終わったんですよ(6月23日沖縄守備隊司令官牛島満中将が自決、組織的戦闘が終結)。沖縄戦、終わったの知らない、うちは。壕の中にいて。それでね、アイザワとスズキがね、「おまえ戦死になってるぞ」って。「よくおまえ、ここまで来れたな」って。

うちもね、西原のすぐ近くに何ていう集落だったかな。あ、新垣という集落がある。そこまで突破したんですよ。したら、西海岸から東海岸まで鉄条網ざっと張ってね、ほいで、望楼が立ってね、アメリカ兵や敗残兵が国頭突破するの分かってるんだからね、そんなもの近寄るものなら、ババーッと撃たれてね、全然それから先突破できなかった。

Q:南さんは、国頭に行けば何があると思って・・・。

いや、そのね、「航空隊が逆上陸する」というのを軍司令官命令でね、うちらはそれを本気にしてたわけだ。でね、この敗残兵になってからね、この沖縄の島から、何とかして離れることはできないかと思っ、磯舟か何かでもかっぱらってね、海に流されればね、黒潮はね、あれだって、九州に流れているから流れ着けるというような話も聞いて、そんなものね、とったってね、3時間や4時間で沖縄の島離れられないしょ。もう最後はね、どうなるか、とにかく国頭突破、それ以外は考えていなかったね。

だけど、それから先は行けないんですよね、全然。それで、そこへ敗残兵が集められて1回掃討戦に遭って40名ぐらいみんなやられちゃった。

うちらはね、あくまでもそのあれだよ、軍司令官の命令に従って「国頭突破しよう」という気持ちだがね。

Q:その命令を最後に出されたことで、やっぱり生きたかもしれない兵隊もたくさん死んだということですか。

そういうことですよ。敵中突破しなかったらね、何も死ぬことなかった。戦争終わって死ぬなんて、そんなばかなことないしょう。戦争で死んだんなら。敗残兵になって殺されたって最高の不名誉にもなるわけでしょう。

投降したのはね、西原。

Q:西原ですか。

西原町のね、西原にはうちの部隊の碑があるしょ、西原の。その上に何ていうところだったか。そこには、みんな敗残兵やら沖縄の人もね、まだたくさん潜伏していたよ、山に。それでね、ある兵隊が山に寝てるとこ押さえられたわけ。それはね、日本の、あれ、早くに捕まった兵隊がいるしょ。それがアメリカの宣ぶ班になってね、して「敗残兵を1人でも多く出せ」ということでね、そういうのが歩いていた。で、それ捕まれたのが収容所に行ってみたら石川の収容所へ連れていかれたの、ジープに乗せられて。そしたらね、まあまあ収容所には大勢の敗残兵が捕虜になっているしょ。してね、野球の試合したりね、まだそのころね、その捕虜を作業に使わなかったの。それでね、向こうに行って見てきた兵隊の話聞いたらね、「アメリカと野球やったり、相撲やったりして、みんなころころ太っている」と。それで、「今度は我々も、こんなとこに、今ごろ山に隠れてるの無駄だから出よう」ということになった。そしたら宣ぶ班が「2日間の猶予を与えるから1人でも多く敗残兵を集めてくれ」ということ。それで、その付近は掃討戦にこないからだ、という約束だったの。

そのカトウ中尉とヒラザワ少佐のがアメリカに交渉してね、いよいよね、山から出るということになって、40名ぐらい集団で出たの。そしたらみんなね、少佐とカトウ中尉がね、「ただ捕虜になるということは不名誉なことだから、こっちから進んで武装解除という形で投降しよう」ということでね、「みんな兵器を持って行け」ということになったの。

スパイでもないのにね、「おまえはスパイだ」と。だから、年寄りが多いと言うの。なぜ、年寄りが多いったらね、方言しか知らない年寄りがいるんですよね。そういうことでね、スパイでない者が連れて行かれて殺されたというのは、何回となく聞いている。で、沖縄の人の総体としてね、日本軍のほうが恐ろしかった、ということはたびたび耳にしている。そういうスパイでもない者を、何かスパイとして殺される。うちの中隊でも1人だけね、海岸でね、懐中電灯で、こう照らして潜水艦とね、何かやってるのを見て、捕まえてきたんですよ。それで、うちの中隊では処理できないからと、大隊本部へ送ったんですけどね、その大隊本部ではね、どういうふうにしたか、うちらには分からないけどね。家族が何度ともなくうちの中隊へね、「うちのお父さんどうした」と、聞きに来たことある。それは事実だね。

沖縄戦というのは、先ほども言ったように、兵器の違いはもちろんのことね、何ていうかね、あまり大きな声では言えないけど、スパイというのが恐ろしいんですよ、これ。全部アメリカに「ツーツー」なの。それがね、日本の軍司令官以下が、そのスパイ戦にあったんだから、しかたないよね。それ以外にね、兵器の違いだからね、日本は敗戦国になったけれどもね、日本の将校以下兵隊もね、「アメリカだけの武器を持っていたら、沖縄なんか1か月で占領できた」とみんな口をそろえて言ってた。兵器の違いですよ。大和魂では、戦争はできない。そう思いませんか。

俺はね、負けるという戦争を前提において、なぜ、「最後の一兵まで戦え」と言って、途中で戦闘の中止できなかったのかと思う。

うちはね、戦争体験者の1人としてね、これだけは言いたい。二度と戦争はしてはいけない。戦争は勝っても負けても絶対にするものではない。先ほども言ったように、沖縄であれだけの戦果を上げたアメリカでさえ犠牲者は1万近くも出ているの。もうこれから、我々は戦争の体験者の1人としてね、若者のね、戦争を知らない人たちにね、我々が申し伝えるのが、これが、日本人の一人一人としてね、これは認識してもらわなければね。また戦争でも始まってみなさい。沖縄戦のようなことでは終わらない。

いや、うちはね、沖縄で生き残りでね、うちの中隊も190何名がいたんですけどね、北海道に俺が帰ったら、この中隊の兵隊の家族のとこ行ってね、「うちは辛うじて生き残って来たけど、お宅の子どもさんは、こういうところで、こういう場面で戦死した」ということを伝えようと思って帰ってきたんですよ。ところがね、昔だから、電話あるわけでないしね、もう不便な時代でしょう。してね、自分が生き残ってね、戦死したとこの家族に会うということは非常に勇気のいることなんですよね。自分は残ってきたんだ。遺族にしてみればね、「あんた1人生き残って帰ってきて、うちの息子は死んだ」って言わないとも限らんよ。そういうこともあるしね、当時は不便である。汽車ぐらいしかないしょ。車あるわけではない。電話もないしょ。そういうね、惨めな時代にうちは帰ってきてね、その中隊の戦死者の家を訪ねられなかったか、ということはね、今はね、思ってます。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
北海道足寄町に生まれる
 
愛冠尋常小学校卒業後、2年間高等科に進学
1942年
現役兵として旭川北部第四部隊に入営
 
満州東安、歩兵89連隊に編入
1944年
沖縄に転進、陣地構築や沖縄初年兵の教育にあたる
1945年
新垣付近で終戦を迎える 当時、上等兵
1947年
名古屋にて復員
 
復員後は、農業を営む

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