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タイトルタイトル: 「犠牲になった住民」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 松浦 利秋さん(野砲兵第42連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年11月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 御者として満州へ  05:00
[2]2 チャプター2 沖縄に向かった  05:44
[3]3 チャプター3 十・十空襲  02:38
[4]4 チャプター4 島を取り巻く米艦隊  01:48
[5]5 チャプター5 物量の差  03:30
[6]6 チャプター6 腰に刺さった破片  02:44
[7]7 チャプター7 野戦病院で配られた薬  03:08
[8]8 チャプター8 犠牲になる沖縄の住民  03:00
[9]9 チャプター9 壕から住民を追い出した  01:16
[10]10 チャプター10 手渡された手りゅう弾  04:24
[11]11 チャプター11 閉じ込められた11日間  04:05
[12]12 チャプター12 潜伏生活  03:38
[13]13 チャプター13 投降  03:36
[14]14 チャプター14 昭和21年5月、復員  04:59

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年11月29日

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私は三男だから、長男と次男もみんな兵隊に行ったんですよ。だから、男はみんな行くもんともう心を決めておったから、覚悟しておったから、兵隊検査のときには、やっぱり兄貴らも行ってるから私も行きたい気持ちはあったね。だけど、ちょっと不安なのは、私の下に女の子しかいないから、両親は、もう年も年だし、そんなに農業も十分できる体でないからね、うちにおって手伝いたいけども、自分の気ままは許されんから、「どうせ行くんなら、やっぱり満州へ行って、ノモンハン(事件、昭和14年)で兄貴が戦死したから、満州の荒野で兄貴の敵討ちぐらいはしてみたいな」という気持ちはあった。それで、満州、在満要員として希望を出して、そして、兵隊検査を受けたの。そしたら、兵隊検査で甲種と第1と第2と丙種と4種目あるんだわ。そこでね、私は第1になった。当時はもうみんな、男の人は召集でもう行くから、第1まで現役で、とるようになってね、甲種と第1は現役で、みんな入隊しましたよ。それで、やっぱり、私らは、農家で馬を使ってるもんだからね、野砲の御者として採用された。そして、旭川へ1回、6部隊入隊して、いろいろな予防注射をしたり、これから軍隊の内容というものを、ちょっと聞いたりして、12、3日おったかね。それから、すぐ満州へ出発して行きました。

Q:満州では、御者としてどういう訓練を受けたんですか。

御者はね、馬の手入れが第一さ。そして、大砲引っ張る馬と、弾薬車を引っ張る馬と、別々なんですけど、私らは、それこそ、大砲を引っ張るのも6頭立ての馬で引っ張るし、弾薬車も6頭立てで引っ張る。だから、1個分隊に馬は12頭おるわけだわ。それで、馬の御者というのも、前馬と中馬と後馬とあるのね。いちばん大事なのは、後馬だけど、その次に大事なのは前馬、中馬は真ん中だからね、それこそ、前、後ろの言うことさえ聞いていればいいんだけどね。前馬も、結構、責任あるんだわ。やっぱり前へ進んでいくのにね、砲車と弾薬車の距離は5メーターぐらいでこう行くから、それ以上離れてもだめ、ひっついてもだめ、やっぱり規則正しく行くからね、だから、前馬も、結構、責任ある立場さ。

沖縄に行くの、知ったのはね、満州で大移動があって、そのときは、九州方面に移動だという命令が出て、一応、博多でないな、あれ何だ、博多で知ったのかな。あそこ1週間ぐらい休憩というんか、荷物まとめたり、休養みたいのあったのね。そこで今度、何だ、かんだしてると、「沖縄行きだ」という命令が出てきてさ、命令出たら、今度は船に大砲、弾薬、すべての荷物を積む。その後、馬を積む。馬、積んだら今度は兵隊が乗って、そして船が出発すると。そういう順序でね、博多は出たのが8月の1日のような気がしたね。それで沖縄へ着いたのがね、8月の8日だけど、真っすぐ行けば、一昼夜か一昼夜半で着くんだけど、あの当時は、もう海も空もうるさい時期だから、それこそ魚雷があちこちにあるらしいんだ。それで、もう甲板の上へ上がってみると船はもう蛇行してね、そうやって、みんな、行くもんだから時間がかかる。真っすぐ行くとね、スピードも出していけるんだろうけど、蛇行するからスピードも出せんから、やっぱりあれ1週間ぐらいかかったようだな、沖縄まで。
上がったときはね。いや、沖縄で、沖縄は日本の国土だから、沖縄はいいなと。そして、沖縄人もさ、兵隊さん見たことないから、僻地のほう行くと、待遇もいかった。それこそ珍しいもの持ってきて、「兵隊さん、食べなさい」とかさ、子どもらは、私ら大砲引っ張っていくと、大砲なんか見たことないから、学校から帰ってくると、もう大勢して大砲のぐるり取り巻いてね、「やあ、すごいな」とか何とか言いながら。そうかと思ったら、私らは20代、20歳になったばかりだから、沖縄の50(歳)以上の人の話聞くと、また外国の、外国人の話みたいにさ、何か分からんことばっかり言ってるんだわ。その中間ぐらいだったら、まあまあ話できるけど、何か頼みに行ったり、もらいに行ったりするときに、年寄りだけだったら、通じないわけよ。そういうときも、いいときもあったし、困るときもあったね。

Q:どんなものを持ってきてくれたりしたんですか、食べ物。

いや、やっぱり、私らはね、いちばん不自由しておったのは甘いものだから、沖縄は黒砂糖の産地でしょう。「こういうの欲しいな」って言ったらね、ちゃんと持ってきてくれたり、あめ、黒あめで、砂糖でつくったあめを持ってきてくれたりさ、兵隊にとっては甘いものは大好物なんだ。私らは、辛いものはだめだけど、甘いものは大好きだからね。いちばん、そういうときは楽しかったけどさ。そして、石嶺久得で壕の構築が始まったらさ、やっぱり、おやつみたいの持ってきてくれるんだわ、サツマイモ。沖縄のね、主食はサツマイモなんだわ。私らはサツマイモ珍しいんだ。沖縄の人はね、いいとこだけ食べて、小さいやつやら、残ったやつはサツマイモを、馬に食べさすんだ。馬もサツマイモが主食みたいだもね。青草も何ぼか食べたんだろうけどね。日本の馬はもう青草ばっかりだから、方々へ行って草刈りしてきては、私らは合間にもう草刈りを半分仕事みたい。その合間には、みんなと一緒に壕掘りもせんならんし。

Q:松浦さんは、10月10日の空襲のことは、何か覚えてらっしゃることってありますか。

ああ、これも忘れられんな。10月10日、「うちらの連隊記念日だ」って言って、前の晩に「明日は連隊記念日だから休みだから、ゆっくり休め」っていうトダ兵長の指示があったのね。だから、みんな喜んで、「明日はゆっくり気楽に休めるな」と思っとった。だけど初年兵はね、古年兵みたいに、それこそいつもより1時間も余計寝るということできんから、私らは初年兵は、朝もう夜明けと同時に起きてさ、工兵の洗濯物もせんならんから、川へ洗濯物持って行って洗濯しとったんだ。そしたらね、それこそ北飛行場のほうから飛行機の音がしてきた。いや、今日は連隊記念日だっていうのに、随分早々と、飛行機が飛んできたなと思って、何気なしに洗濯しとって、頭の上まで来たからこうやって見たら、翼に星のマークがあるんだわ。あれと思って、「あら、敵だな」と思ったら、今度はもう情報が幕舎へ入ったんだな。「いや、敵機だ、敵機だ」って言って、それこそ大騒ぎになってさ、それこそ洗濯物も半分にして、それこそ飛行機の行く方見たり、北飛行場の方見たり、那覇の方見たりすると、もう黒煙が、もくもくと上がるとこがあった。もう既にあれは爆弾でも落としておったんだね。それから、次から次とグラマンが来るんだ。さあ、休みどころでない。飯もろくに食べたか、食べんかも余り記憶なかったけどさ、いよいよこれは始まったかなと思った。

それこそね、3月の中ごろから、硫黄島あたり、慶良間島というところが近いところにある。そこへ、もう艦砲が撃ち込んできてる、というのは情報入ったから、沖縄に来るのも近いなと思ったら、1週間もせんうちにさ、撃ってきたわ、やっぱり。それだから、ちょっと小高い山に上がってね、木の陰から見ると、船は、私らは数を数えれんかったけども、大体千二、三百は来とったんでないかと。大小別、別々にしてですけどね。大きなやつだったら軍艦だわな。小さいのはあれ、何のために来とったのかな。それこそ、小さい小舟まで来とったけどね。それこそ、ゴマまいたぐらい、近いところの港、近いようなとこだったら、ゴマまいたぐらい、たくさん来とったよ。「いやー、すごいな、すごいな」って、こっちは思うだけで、うちら大砲だけど、大砲を撃つと、撃つ命令も出んけども、撃つと陣地教えるようなもんだから、撃たれんかったんだけどもね。

それこそ、艦砲(艦砲射撃)は来る、グラマンは、もうしょっちゅう来る。それこそ来て、地方人(住民)であろうが、兵隊であろうが、兵隊は、もう昼間出るなと言うから出んけども、地方人は、それこそ、だんだんだんだん追い詰められてくるから、昼となく夜となく避難するしょ。歩くから、もう、地方人もそういうところで、随分、やられとるらしかった。機銃掃射というのは、すごいんだわ、またね。

だから、どれだけアメリカの兵隊は、それこそ、爆弾であろうが、機銃掃射であろうが、小銃であろうが、艦砲射撃であろうが、大体アメリカはね、物が豊富だから、撃ち撃って、それこそ撃ちまくるんだ。日本はね、制限されてる弾だから、命令なくしては撃てんの。撃っても3発か5発撃ったら、「もうやめれっ」て、言って、手引くしょ。

建物を建てると、お祝いに餅まくしょ。上から、「だあーっ」と、こうやって餅まいたみたいにね、道路であろうが、畑であろうが、「ばた、ばた、ばた、ばたー」と何十発、何百発と落ちてるから、本当の運のいい者は、当たらんけど、運の悪い者は、当たるの。それこそ、迫撃砲は、あとで私らも気がついたんだけど、こんな筒が30も40もある兵器なんだわ。それトラックか何かの後ろへつけとって、一斉に射撃するもんだから、もう広い範囲内、1キロまではいかんかもしらんけど、300メートルかそこらの範囲はもう落ちるんだ。そういうところにいたものは、やっぱりやられるんだな。あれも恐ろしいよ。それこそ歩いとっても、隠れとっても、上から、だあっと来るからね。あれはおっかないもんだわ。そして、さっき言ったように、物が豊富だから、何ぼでも撃てるだけ撃ってくるからね、加減して撃つんでないからさ、どんどんどんどん撃っては、攻めて攻めて攻めてくるから、日本も日本人も地方人も同じなんだけど、だんだんだんだん追い詰められていくんだ。

それこそ、5月の初めごろ、私らは御者だから、段列という後方におるんだ。あんまり危険でないとこへね。砲手は、識名のほうに構えておるけど。晩になると、そこへ弾薬を運んだり、食料運んだり、それが、私らの御者やら段列の仕事さ。たまたま、伝令に行くのも仕事だけど。5月の初めころ、それこそ、ハラ上等兵と中隊本部に伝令に行って、任務を果たして帰ってきた途中で、迫撃砲に襲われて、初めて、それこそ腰に破片が当たったときには、いや、それこそ、こんな大きな棒でたたかれたみたいな気がしたな。ハッと思ったんだけどさ、そのときは何でもないな、と思って、ちょっと歩いたら、やっぱりすぐ血が流れてきたわ。ハラ上等兵、「松浦、大丈夫か」って言ったの。「いや、腰に破片が当たりました」って言ったら、すぐ来て、みんなの兵隊は、携帯用の包帯持ってるからね、それ出して、手当てだけしてくれた。そのときは、本当に自分も歩けるには歩けるけど、いや恐ろしいもんだな思って。そしてハラ上等兵が「松浦、歩けるか」と言うから、歩いてみると歩けるから、「歩けます」って言って、段列へ帰って、ハラ上等兵が、「松浦帰りに砲弾にやられました」と言ったら、「そんなら野戦病院行ってこい」って言って、野戦病院連れて行ってもらったんだけどね。

Q:治療を受けた野戦病院の当時の様子は、何か覚えてることありますか。

いや、それがね、入るときは気がつかんかったけど、入って治療受けてる間に、まだ、入ってくる負傷兵と、亡くなって外へ出す遺体と、これも何人か見えたんだけど、その遺体が治療を受けて壕から出るときに、私の目に入ったんだけど、壕の入り口にね、それこそ、ちょっと記憶ないけど3メーターぐらい大きな穴かな、相当深い穴だったんだけど、何人かもう亡くなった人、そこへ入れてあるの。私が出るときにも、1人そこへ亡くなった人入れたけど、もう戦争始まったら、1人ずつ埋葬することできんから、やっぱり、ああいう穴掘ってそこへ固めて埋葬したんだろうな、あれ。まあ、見てびっくりした。「いや、哀れなもんだな、死んだら、こういうことで終わりかな」と思ったよ。それこそ、軍服、着たまんま、治療受けたのか受けんのかしらんけど、亡くなったら、壕の入り口のその穴に入れられて埋葬するんだな、あれ。まあ、一人一人はできんからだろうけど。壕の中もね、それこそ、私ら歩いて行けるぐらいの負傷者は、まだ軽い方。担架で入ってくる兵隊見たら、もう、うなってる者やら、もう、うなれんくて、それこそ半分死んだような患者が多いんだわ。そうかと見たら、ベッドの上に何十人も、おったんだろうね。騒々しくやっぱり、騒々しいって苦しいから言うんでさ。かわいそうだな、と思って私ら見てきたけど、私みたいな歩いて診察に行くぐらいの者は、まだいいほうだった。負け戦になるとこんなもんかなと思う。

Q:松浦さん、与座に、野戦病院から出て、中隊にまた戻って、それで・・・。

戻ったときはね、それこそ、識名の陣地におれんから、夜、与座へ砲4門あるのを2門破壊して、2門だけ下げたんだけどね、それこそ、馬もいないから、兵隊でロープで引く者、後ろから押す者で。

5月、6月の初めごろは雨期で、毎日、雨でね、道路というのは、当時は、もう舗装もなければアス(ファルト)も敷いてないから、どぼどぼのところ、それこそ大砲を引っ張って与座まで下げた、これは記憶あるね。

住民の様子、たまたま、目に入ったけどね、かわいそうなもんだわ。さっきも言ったように、兵隊は、それこそ、岩の陰か壕のあるとこに入っとるけど、住民は入るとこないから、昼となく夜となく避難していくでしょ。それこそ避難していくのも、年寄りか子どもか女の人だけでしょう。「昼間歩いたら危ないよ」って言うんだけれども、やっぱり、歩かんきゃならんような状態になってるから、歩くんでね、やっぱり歩いてる間に、砲撃の犠牲になって、道端で倒れる人、やっぱり、数はあるんだわ。して、ぬくい(暖かい)ときだからね、私らの馬でもそうなんだけど、3日たったら、もう骨と皮になって。だから、住民が、いちばんかわいそうだった。それこそ、隠れるとこもない、そうやって避難する途中でやられる。やられても、手当てする何物もないから、そこで亡くなっていく。そんなような状態だからね。やっぱり、沖縄の住民はいちばんかわいそうだったね。私らも、手伝って、何とかしてやりたいんだけど、そんな余裕がないの。

沖縄の墓は大きな洞窟みたい墓でしょう。あの中にはね、びっしり入れば、10人や15人入れるんだそうだ。先に住民が行って、そこ入っとると何か、「おまえらは出れ、兵隊が大事だから」と言って。

思ってみれば、やっぱりしかたがないんだな。兵隊1人助けるか、地方人3人助けるかったら、地方人より兵隊の方が大事だからね、やっぱり戦争となれば。

私はそう思う。地方人は空手で歩いてるし、兵隊は何かやっぱり武器を持っとるから、いよいよになったら、やっぱり殺傷力もあるだろうし。やっぱり兵隊の命のほうが大事なんだろうな。そういうことで、地方人は哀れな思いをして亡くなっていった人が、たくさんおるんでないかな。

私らはね、それこそ最後のときには、御者も砲手もなかったけど、それまでは、御者班は大分離れたとこの安全な地帯におって、本隊にさっき言ったように、弾薬やら食料運ぶのが任務だったんだけど、もう6月の、5月の末ごろになったら、もうそれこそ、敵はどんどん攻めてくるから、それこそ御者も砲手もないぐらい、みんな一緒になってやったけどね。

与座の部落から、それこそ5,600メートル下からM1戦車(米軍の戦車)が上がってくるのを、2台ほど上がってくるの見えたんだ。それを、うちの指揮者が「あれを1発で撃ちとめれ」って言って、私らは砲手でないから撃ち方も何も分からんからあれだけど、大砲にはこう脚が出て、これを押さえんかったら、後ろへ飛ばされるからね、土のうを積んだり、そこを押さえるような役目だけにしたんだけど、1発撃ったんだ。それ、戦車に当たったか、当たらんかは、確認はできんかったけど、そうすると、もう至る所から集中攻撃来たから、指揮者も「どうもならんから、すぐ壕へ入れ」って言って、壕へ飛び込んで入ったんだ。それから次の日、今度はその壕の入り口、歩哨に私ともう1人、初年兵が立っとったの。そしたら、もう既に、敵がぐるり来とって、馬乗り(攻撃)来てしまって、手りゅう弾で壕の入り口1発投げられた。それがもとで、私と歩哨に立っとったもう1人が、それこそケガして。

「ここに日本の兵隊がおるのが分かったから、必ず仕返しに来る」っていう、みんなの頭で考えたんでしょう。その晩か次の晩までの間に、みんな壕から出て行ったの。敵兵が入ってくるのを、今度はそんな1人や2人でない、何か火炎放射器でも仕掛けてくるか、何かそんなような考えあったんでしょう。だから、その晩から、昼間は出られんから、晩に次から次へと出て行ったんだ。ケガした私と岡山のウノさんという人だけ残されて、最後、次の晩の日には、達者な者は1人もおらんように出ていった。

Q:それは、隊長なり、上官は松浦さんには何か言って出ていったんですか。

何もそんなことを言う余裕もなかったんかもしらんけど、一言も。ただ、さっき言ったように、本当の道内兵の戦友が、「おまえ、置いてくのかわいそうだけど、しかたないな」って言って、「俺らは、これからみんなと一緒に出ていくから、これしかないから」って言って、乾パン一つかみと手りゅう弾一つ置いて、出て行ったんだ。だから、手りゅう弾置くっていうことは、「ここで死になさいよ」という意味で置いてくんだわ。

それからが、私の運命が、それこそ長らえるか、死ぬかの瀬戸際で、それこそ11日間も壕の中の暗がりでおったのが、わずかの水滴を、それこそ1日ためると、このコップに、二口ぐらいたまったかな。みんな出てくときには、それこそ、飯ごうも水筒も鉄棒も持たんと、もう、我が身一つで、光ったものは身につけてると、あれだし、音のするものは、だめだしって、言って、みんな手ぶらで出て行って、我が身、何とか助かろうと思って隠れては、どこへ行ったかは分からんけどね、みんなが残した飯ごうを、それこそサンゴ礁から落ちる水滴を拾って1日に2口か3口飲んで、それで11日間永らえて、

一晩たったか、二晩たったか知らんけど、「でも、このままでは、どうせ死ぬんなら、それこそ、もう一度上がってみようか」って、上がってみたら、かすかな明かりが見えただけでね、体が出るような穴でないから、「これは、もうここで終わりだな」と覚悟はして、そこへあった岩石の上へ腰かけてたん。そしたら、その岩石がね、「ごろ、ごろ、ごろん」と、こっち側に転がって、「ああっ」と思って、そこ腰上げて、石はそっちに転がっていった、下へね。しばらく考えたら、「ああ、これだな」と思って、そのとき、もう命がけでさ、2時間ぐらいかかったかなあ、下へだったら、上は持って上がれんけど、下へだったら降ろせるっしょ。坑木やら、その岩石を下へ下へと下げてね、時間はどのぐらいかかったか分からんけども、最後に、私の体が出るぐらいの、このぐらいの穴にまで、入り口まで転がして出ていった。「ああ、これで出れるな」と思って、出てみたら、お天気はいいし敵もいなし、まあ味方は、もちろんいないわな。いや、静かだなと思って、それで、それこそぐるりを見たら、私らが壕に入るときには、草も木もみんな真っ青な、木だって、こんなやつが随分あったんだ。それがね、出てみたら、青い草木が一本もないんだわ。それほど撃ち込んできとったんだね。それから座ってよく見たら、太陽の位置からしたらね、お昼からの1時過ぎ、2時ごろかなと思うぐらいの太陽の位置だった。まるで、それこそ敵もいないし銃声も聞こえんし、どこで戦争あったのかと思うぐらい静かだった。

私が食料探しに夜、外へ出たら、兵隊5人と沖縄の娘が4人と、9人で私らの壕の前を何かしゃべりながら通りかかったから、黙ってこうやって、あの草わらで、しゃがんで聞いとると、「ああ、これはアメリカの兵隊でない、日本の兵隊だな」と思いながら、こっちから、私から声をかけたの。一時は、向こう、びっくりしとったけどね。

で、「私らは、けがしてもう歩けんから、ここの壕に2人残されて、ほかの者みんな出ていっていないんだっ」つったら、「いや、俺らも、国頭へ行きゃ何とかなるから、今これから行くんだ」って言って、いろいろ情報、みんな、「山部隊はどうなったと」か、「兵隊はどこにどうなってるんだ」とかって情報を聞いたけどね、夜、歩くもんだから余り詳しい情報は聞いてなかったらしい。それこそ、私と話した一行は、「いや、これではなかなか行かれんな」という覚悟したんでしょう。そしてまた、2日目に私の壕へまた戻ってきた。そして、「この間の者だけど、少し休ましてくれんかっ」つって、壕の入り口から叫ぶから出てみたら、やっぱり2日前に話した9人組なんだ。そこで、いろいろ話しして、「いや、そんな危険なとこ通るのあれだから、あんたらがよければ、ここに、何日か様子見かたがた、おんなさい」って言って、壕の中に一応入って話ししたんだ。

Q:松浦さんは、この壕の中に籠もって、どういう希望があったんですか。

希望って言えば、やっぱり友軍が迎えに来てくれるか、そればっかり楽しみにして、それこそ夜になると、「いつか、必ず来るんだろう」と信じておったな、やっぱりね。それ以外に、別に敵に殺されるとか、そんなことは思ったことないな。必ず、それこそ日本軍が助けて来てくれるだろ、という、信じて、それこそ、毎日を、夜になると出て空を眺めたり食料を集めたりしてさ、一日一日を永らえてきたんだ。それ以外に、それこそ敵にやられるとか、そんなことは、全然、思わんでさ、一日でも長生きして、この壕で待ってれば、必ず日本は迎えに来てくれるという、そればかり信じとった。みんなとも話し、しとったしね。

初めは全然、そんなのは、もう向こうの手だと思って信用できんかった。やっぱり、いろいろな、日本の軍隊の教育は、捕虜になったら必ず殺されるという教育でしょう。「捕虜になる前に自分で死ね」っていう教育だからさ。そんな捕虜がたくさん、終戦になったから、収容所へ入ってるから、あんたらも行きなさい、10月の末から11月になったら日本へみんな帰すんだから。初め、誰でも信用なんかできないよね。私自身もそう思ったけど、向こうは、それこそ、私ら出る前の1週間ぐらい前に、また3人連れが私の壕の前を通った。その1人が、札幌に住まいの持ってるコバマツっていうのが通って、そこも、いろいろ話しした結果、そのコバマツが「3日前にそこへ入ったら、みんなたくさん仲間がおるから、俺を信用しなさい」っていう、そこまで言うからね、「したらあんたを信用して、したらもう1回、壕の中のみんなに話しして、それこそ出直してくるから」って言って、みんなを待たしておいて、それこそ壕の中へ入って、みんなに、いろいろこういうふうだから出れっていう、「迎えに来てるから出んか」って言ったら、それこそ、みんなも信用せんわな。だけど、ここにおったんでは、いつまでたっても帰る見込みもないし、だまされたと思って、出るかっていう、それこそ疑いながら出た。それが本音だな。

Q:その終戦からね、3か月以上も、松浦さんたちは壕の中で粘ってらっしゃたと思うんですけれども。収容所に入っているたくさんの日本兵を見たときっていうのは、どういうふうなお気持ちでしたか。

いや、俺らだけかなと思ったら、収容所の前へ行ったら、それこそ何百人も、幕舎もたくさんあるしさ、いやびっくりした。こんなに、たくさん日本の兵隊が先に捕虜になってるの、俺ら、まだ遅いほうだったんだなと、思いながら入ったけど、先に入った連中は、「おまえらは、どこから出てきたんよ、何中隊だ、何部隊だ」って言ってみんな聞き取りに来とったな。

沖縄出るときは、いよいよ、我が家へ帰れる、まあ、北海道も行ける、我が家にも帰れるって、いう喜びは一瞬あった。だけど、船の中で考えてみるとね、大勢の仲間、みんなここで死んだのに、俺一人帰るの、何か心に残るものがあったな。だから、沖縄を離れるときに、まあ何人か、私はケガしてるから病院船で帰ったから、何人かで日本の貨物船に乗せられて帰ったんだけど、心の中で、「それこそ、みんな亡くなった人に、それこそ、俺一人帰るのあれだけど、これも俺の当たった運命かな」と、そんなことを思いながら、それこそ、沖縄別れてきたけど。別れるときに、必ずまた、お参りに来るからなって思いながら貨物船で日本に帰らしてもらったな。自分ながらに本当に後で考えたら、ウノさんのおかげだったか、サンゴ礁から伝わった水滴がおかげさんだったか、そんなことばっかり思ってる。

それこそ、日本が勝って帰ってくるんなら、うれしい思いでみんなも迎えてくれただろうけど、無条件降伏して帰ってくる身は、私にとってはつらかった。10年ぐらいは肩身が狭かったよ。そのうち、みんなも慣れてくれたし、私も慣れたからあれだけどね。それこそ富良野からでも、何人かな、4、50人行ってるのが、ほとんど亡くなってるっしょ。まあ、そのほか、ほかの戦地でも亡くなってはおるけどもね、沖縄だけでも、そのぐらい亡くなっとるからさ。俺は帰ってきたんだって、両手振って喜びはできんかったわ。だから、肩身の狭い思いは10年ちょっともうしたかな。もう最近は誰も何も言わん。それこそ戦争もあったのも忘れてるような状態だからね、何も言わんけども、やっぱり10年ぐらいは、みんないろいろな目で見たんでないかと思うよ。

「戦争というものは恐ろしいもんだな」と、兵隊だけでない、地方人まで巻き添えにしてるからね。「戦争は二度と繰り返してはだめだな」というふうに、もうすごく感じる。これは外国あたり行って、地方人が死ぬのは、何とも思わんかもしらんけど、沖縄は同じ日本人でしょ。だからなお、それこそ気にもとめるし、心にも思うわな。日本の国土っていったら、沖縄で地上戦あったのが沖縄だけでしょう。だから、特に、沖縄は忘れることのできない、一つの何ていうか、心に残る思い出だろうな。沖縄って言えば、ハッとすぐ65年前のことを思ったりさ、戦友のことを思ったりするのが、当然だと思うもん。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
北海道札幌市に生まれる
1935年
扇山尋常小学校卒業
1944年
現役兵として旭川6部隊に入隊
 
満州東安にて満州第795部隊に編入
 
沖縄に転進、陣地構築
1945年
沖縄戦に軍馬管理として参加 与座岳で終戦を迎える 当時、一等兵
1946年
浦賀にて復員
 
復員後は、農業を営む

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