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タイトルタイトル: 「地獄を見た沖縄の初年兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 伊禮 進順さん(北海道・歩兵第89連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年12月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 現地召集  04:45
[2]2 チャプター2 始まった米軍の攻撃  02:53
[3]3 チャプター3 前線へ  03:46
[4]4 チャプター4 海面を覆うほどの艦船  02:53
[5]5 チャプター5 総攻撃  04:45
[6]6 チャプター6 手りゅう弾戦  03:19
[7]7 チャプター7 斬り込み攻撃  05:13
[8]8 チャプター8 負傷  03:06
[9]9 チャプター9 南部への撤退  04:55
[10]10 チャプター10 殺された重傷の兵士  03:26
[11]11 チャプター11 壕から追い出される  02:53
[12]12 チャプター12 壕への攻撃  04:06
[13]13 チャプター13 脱出  04:18
[14]14 チャプター14 捕虜収容所  03:29
[15]15 チャプター15 生活の場が戦場になった  02:25

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年12月15日

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20歳になったら、徴兵検査がありますでしょう。もうそれ兵隊行くと。それは覚悟決めていました。我々の時代は兵隊が足りなくて1年繰り下(上)げて。僕は19からもう兵隊行ってますからね。

Q:その19歳で徴兵検査を受けられたと思うんですけど、20歳じゃなくて、1年早くなるというのは、お気持ちとしてはどうでしたか。

いや、もう突然ですから。これはもういわゆる命令ですから、国の。ああ、もう従うしかないでしょう。別に予感とかいうのなかったですよ。二十歳になったら徴兵検査があるというのは、もう昔の男だったらだれでも覚悟しますよね。もっと兵隊が足りなくなって、19からということになって、我々がもうそれに当たったわけですよね。

ただ、徴兵検査を受けて、第一乙種合格したと。で、兵隊に引っ張られるんだと、それだけですよ。どこに行くというのはわかりませんでした。それわかったのは、10月15日ですよ、命令来たのは。要するに10月9日にあれだから、10月になってからですね、どこに行くというのは。それまでどこ行くかわかりませんでした。

Q:でも、一緒に徴兵検査を受けた初年兵になった皆さんは、全員沖縄に配属されたんですか。

そうですね。全員沖縄です。山部隊(24師団)から、球部隊(第32軍直轄部隊)か武部隊(9師団)かですね。石部隊(62師団)か、これだけですよ。全員沖縄に。

Q:入隊した当初は、沖縄に戦争の気配というのはあったんですか。

我々全然わかりませんね、まだまだ子どもですから。沖縄にまさか敵が上陸するということは、全然夢にも思わなかったですよ。上の人だったらわかりますけどね。すごい沖縄攻撃されているのはわからなかったですね。ただ、我々が入隊して、12月に我々・・武部隊が台湾に転属しますでしょう、あれいよいよ沖縄も戦場になるかなという気はありましたがね。別に、こんなひどい戦場になるとは思わなかったです。

Q:出征されるときは、御家族とはどういうふうにお別れになられたんですか。

「行ってくるよね」って、もうそんだけです。別にどうっていう特別な考えもないし、「行ってくるからね」って。同じ県内ですから。沖縄県内だから、「行ってくるよね」っていう感じで、そう言われました。

Q:御家族はどんなふうに進順さんにお声をかけて。

いや、もうそれはわかりませんね。とにかく沖縄だから、近いから元気でいってらっしゃいと、そういう感じじゃないですか。田舎でバイバイして別れましたけれども、もうあの時分からも交通機関もね、不便で我々テクテク歩いて入営するところまで行きましたからね。ここから何里ぐらいあるんですか。8里ぐらい歩いてますでしょう。糸満から我々入隊した平良川というところへですね。テクテク歩いていきましたよ、1日かけて。

もう訓練なんてないです。毎日が壕(ごう)掘り、壕掘り。それもうはっきりしてますよ。特に強烈に印象残っているのは、大佐の肩章をつけた・・3月の何日ごろかな、3月に入ってからですよね。今の玉泉洞、港川から玉泉洞に行く道に馬に乗って大佐の肩章つけた人が1人来て、僕ら壕掘ってるの見て、3月の下旬敵上陸の公算大だから「頑張れ」と言って、ここ歩いていました。だから、今考えるとこの大佐の人が高級参謀の大佐だったのか、あれ長参謀長(32軍参謀長)だったのかね、よくわかりません。とにかく大佐の肩章をつけて馬に乗ってきた人が1人いたんです。覚えてます。だから、訓練なんてないです。毎日が壕掘り、壕掘り。訓練やった覚え全然ないです。

もう3月の23日からもう空襲始まってます。3月の23日から。もう鮮明に覚えてますよ。で、3月の26日に我々がいる港川に向かって欺まん上陸。要するに軍司令部は、沖縄上陸戦としてこの港川、それから那覇、それから上陸したとこと3か所を想定していたそうですね。ですから、向こうに上陸するために、いわゆる陽動作戦っていうんですか、それやっているんです、3月26。目の前に実際来たんですよ、上陸用舟艇も。首里に向けてって、見ましたよ、わたしども。だから、そこから上がってきたら、恐らく沖縄戦の戦死第1号だったんじゃないですかね。我々初年兵は消耗品と同じですから。上陸してきたら急造爆雷持って戦車に飛び込めと。要するに、訓練中は投げる訓練を受けたんですがね、「投げたってどうせ死ぬんだから、そのまま抱いたまま戦車のキャタピラに轢かれろ」と言われたんです。そのつもりでした。見えましたよ、3月26日には。もういよいよ来るなと。欺まん上陸というのは我々知りませんでしたから、ああ、いよいよ上陸するなと思って待機していました。

もう物量全然違いますからね。だからあれでしょう、欺まん上陸するときも、日本軍からは一発も撃たなかったですよ。敵が上陸するまでは絶対撃つなと言われた。だから、あの周辺に、玉城(現・南城市)あたりに海軍砲もあったという話は聞いていたんですが、一発も撃たなかったです、我々日本軍からは。というのは硫黄島の戦訓ですよ。撃って陣地を暴露したらもう徹底的にやられるから、一発も撃つなと言われたんです。そうしたんです、僕らも確かに。小銃一発も撃たなかったですよ、アメリカ、欺まん上陸してきても。

新城の港川が見える高いところにいましたよ。上がってくるのを待って。その前にいろんな地雷なんかを埋めたりもしたからね、そこを通らんように、こう行けるようにしてましたから。

Q:じゃあ、もう覚悟も決められて。

はい。上がってきたらやる、それだけですよ。上がってきたらやる。やったら死ぬでしょ。それだけですよ、もう。怖いとかなんとかじゃないです。そんな気は一切なかったですね。

日本軍が4月26日にいわゆる前線に出発するようになったときに、行く途中で、馬の死がいやら人の死がいやら見て、あれ、こんなにたくさん死んでるのかと思うようになったわけですね。それまで全然、僕ら行くまでは人の死んだの見なかったです。見てないです、僕ら。4月の26日までですよ。

Q:4月の26日に第一線への移動の命令を受けるわけですよね。

はい。

Q:どういう命令だとして、伊禮さんには伝えられたんですか。

前線に行くぞという命令で、「出発する」と。「今の守備陣地を離れて、今度は前線に行くんだ」と、それだけですよ。だから「はい」と言うだけでしょ、初年の兵隊は。

Q:どこだとか、どういうことするだとか、そういう細かいことは。

わかりません。全然わかりません。ただ、行ったところ、首里だということはわかります。

ああ、もう首里は相当変わっていましたね。尚家っていって、琉球王様の屋敷がある、戦後博物館になりましたけどね。そば通って、儀保というところのほうの壕に僕らは行ったんですけどもね。その中に軍馬が死んで腐乱してる状態なんか、もう道で。僕ら何も収容できませんか、人間が死んでるのも見ながら通っていったんですよ。僕ら、儀保までですね。そのときもう尚家もなくなっているし、もう家がほとんどありませんから、もう焼け野原になっているから。今の市場の近くですよ、龍譚池(リュウタンイケ)というところですね。だから、そこを通って儀保へ行ったときに、たしか4月の29日、天皇誕生日ですね。恩賜のたばこっていうのを、みんなにやってました。僕はたばこ飲まなかったから。たばこと酒があった、たしかあったと思うんですよね。それは覚えています。4月29日、儀保の壕にいたときは。そこから前田というところに行ったんですよね。

わたしは当時、首里から前田に行くときに伝令につけられて。この間は走って行ったり来たりした覚えがありますけどもね。もうとにかくすごかったですよ、弾のあれは。

とにかく弾を避けて、弾が来たらすぐ伏せして隠れて、また止んだら歩くとかなんとか。とにかく保身ですよ、自分の。どうしたら生きるかというだけです。どうのこうの考えません、命令に従って行くだけで。

Q:その前田近辺の音だとか、においだとか、ご記憶にあることってありますか。

いや、音はありましたね。あるところにダダダダーッと集中して、ウワーっという大きな雄たけび聞こえたりね、した覚えありますよ。聞いた覚えが。首里から経塚というところへ行って、こう行くときに、この下のくぼ地のほうに弾が落ちてきたときに、ウワーっという大きな人の声がした、聞いたのは覚えてますがね。まあ生きたか死んだか、恐らく死んでるんでしょう、ああやって言うから。そんなもんですよ、もうわかりません。別にあれも、戦争やってないですから。まだまだね。そんなに大変だなという気はなかったですけど、うん。

本当に真っ黒くなるぐらい軍艦がいましたよ。もう十重二十重。だから、特攻機が何十機か来たっていうんでしょ、結局。我々見たこと一遍もありません。1機もないです、こちらでは。ただ、国頭にいた人の話を聞くと、夜間攻撃に来て、向こうでもうボンボン落とされてっていう話は聞きましたけどね。だから特攻なんて、ここまでたどり着いてないですよ。だから、戦艦大和が途中でやられるでしょう。「燃料片道 涙で積んで 行くは琉球 死出の旅」といってね、歌も作られるぐらいですから。国頭で、夜、特攻が・・特攻だったんでしょという話はちょっと耳にしましたがね。

Q:もうそれは、伊禮さんのいる陣地からもその船が、海が真っ黒になる様子というのは見えるわけですか。

ここでは真っ黒くなかったんで、中城湾、向こうにはいましたよ。わたしは歩哨立っていたときに何隻いるかと、こう勘定しようと思ったんですがね、もう途中でわからなくなった。そのぐらいいっぱいいたんですよ。中城湾を埋め尽くすぐらい。もういろんなユニオンジャックの旗だとか、アメリカの旗を持ったとか、またわからん国旗をかけた軍艦がいっぱいいましたよ。だから、十重二十重にも囲むっていうんですね。だから、特攻機もここまで着けないわけですよ。途中でみんなやられる。

Q:じゃあ、いつもの静かな沖縄の海とはもう全然違う。

もう全然違います。もう24時間ずっと砲弾はもう撃ちっ放し、はい。もう艦砲射撃なんて来たら、もう向こうから、沖からぱっと光が出たなと思ったら、歩哨立っているときなんて、1、2、3、4してこう見ると、15、16という勘定したら、自分の頭の上からゴーっという音がして、東風平あたりにダダダーッと落ちるという・・何回もありましたよ。とにかく、艦砲のあれは、それなりにでっかいんですけど、壕の中入っていれば安全ですが、迫撃砲が大変でしたね。

空爆の場合には、壕に隠れていますからね。飛行機が飛んできても、そんなに怖くはないんですよ。一番怖いのは迫撃砲でしたね。近接戦でやってきたから。だから大きな弾がボンボン落ちますけどもね、24時間。どこに落ちるかわからんけども、とにかく来るけれども壕の中に入ってれば安全ですから。

5月4日の総攻撃のときには、うちの連隊は第1大隊と第3大隊が参加して、僕らは第2大隊ですから、深見大隊は。その予備として与那原と首里の間の大名(オオナ)というところ、大名と書きますが、大名というところに僕らはいたんですよ。そのときに5月4日に総攻撃始まったんですよね。大変でしたよ、そのときは。アメリカの15センチ榴弾砲というのが。近くに砲兵部隊の人がいてどんどん撃ったんですがね、もうこちらが撃つときはアメリカさんは一発も撃たないんですよ。その代わり、お礼がもう100倍ぐらい来ますからね、そのあとが大変ですよ。ただ、こういう斜面にいましたものですから、砲弾というのはあれでしょう、こうしてある放物線で行くから、高い山のときにはその陰になってなかなか僕のところへ落ちてこないと。前のほうにどんどん落ちていくのわかりますけどね。とにかくお礼が大変だったですよ。アメリカさんのお礼がね。100倍ぐらい来るんですよ、10倍、100倍は。その代わりこっちが1発撃つときは、もう1発も撃ちません、相手は。じーっと見てますね。そして隣に、近くにカヤぶきの農家がありましたから、それに火をつけてね、白煙をあれして、まあ隠れたつもりでしょうね、そこに。そうやってボンボン撃っていましたけどね。僕はそのそばにあぜ道みたいなところに、道の段差のあるところにずっといたんですよ。もう大変なところに来たなと思いましたがね、砲兵の近くで。総攻撃の日、それは覚えてます。

Q:じゃ、伊禮さんの総攻撃の印象は、こう砲弾がとにかくたくさん・・・

飛び交ったというだけで、わたしの第2大隊ですよ、はい。そして、それが失敗して、総攻撃失敗して我々が後退した後ですよ、それからがもう地獄ですよ。本当に。たしか、だから5月の5日ごろでしょうね。

Q:それは運玉の森の・・

運玉の森より少し前の安室(アムロ)、桃原(トウバル)とか、安室とかなんとかというところでしょう。運玉の少しの前の部落、今ゴルフ場になってるところ。そしてそこまで僕らは行ったんですよ、運玉の。そこをやられて僕らは運玉に下がってきたんですよね。運玉のちょっと前にいたんですよ。

肉弾戦始まったのは、何ですか、わたし3日間、乾麺麭(かんめんぽう・乾パン)持たされて歩哨立ちされたんです。5月というと沖縄暑いんですよね、夏のもう始まりで。3日間立たされてるもんだから、ちょっとこう、うとうとしていたんです、昼。たしか朝の9時ごろかな。だから、わたしがさっき申し上げたように、中城湾のほうに軍艦がもう真っ黒くなってるぐらい、何隻かわからんというような。そのときにわたしは、それは軍艦が何隻いるか勘定しようと思っていたんですよ、この歩哨立ちして。3日間歩哨立ちして、こうちょっとだるくて、こううとうとしていたら、声がするんですけど。見たら、わたしの後ろにアメリカ兵が2人立ってるんです。その前からアメリカさんも、総攻撃終わったあとほっとしていたんでしょうね。攻撃してこなかったですよ。僕ら目の前で、毛布を引っ張りスコップで何かをやってる人を僕は見たんです。僕、歩哨立たされて見て。だから、毎日アメリカさんがいるなと・・声かければ聞こえるぐらいですよ。いるなとわかるけれども、アメリカさんも攻撃しなかったです。だから、わたしうとうとしてこうやってたときに、はっと思って、僕はびっくりして、地図、図、断面図かきましたでしょ。あの下の壕にいる小隊長、杉山曹長、小隊長戦死されて杉山曹長が小隊長になっているとこへ行って、今、アメリカの斥候来てますと言ったの。「そうか、全員上がろう」ということで、うちの小隊50名ぐらいですかな、上がっていって、手りゅう弾投げられるということで、そこからもう戦争が始まったわけだ。

手りゅう弾にひもがついている。ひもつけて投げるんです。この辺でぶら下がって、ちょうど胸あたりにぶら下がる。もう自分の手りゅう弾投げるところじゃないでしょ。これを取って投げ返す。4秒で破裂しますからね、取って投げ返す、この作業さ。これでもう1個小隊、6時ごろ見たら、わたしとシマと2人しか生き残ってない。全員戦死した、全員。たった2人。1日でですよ。

ひもがついてくるやつをもう取ってね、取って投げ返す、それだけです。これでほとんどやられたんじゃないですか。

Q:間に合わずに、投げ返すのが。

はい。それは4秒で破裂しますから、日本の手りゅう弾はですよ。アメリカのはバネ式であれだから、もうひもついてくるからどうもしょうないでしょう。もうこの辺にぶら下がっていますから。これを、はい、取って投げ返さんと自分もすぐ死にますよ。だから、いやもう、もう死ぬとかなんとかじゃないですよ。もうこれに一生懸命ですよ。
隣の壕ではあれだ、ほかの部隊の兵隊だったかもしらんな、ドドンとこう迫撃砲でやられてるのを、ドンと半分切れてね、座ってるの。それ後ろの壕から戦友だったんでしょうな、「おーい」と言ってこうやってるときに、また落ちて、この人も死んでいった。目の前で見ましたよ。胴体ごと切れてポンと座って。それを、「大丈夫か?」と言ったんですよね。声聞こえませんけどね、ずっと離れていますから。そういう姿は見ましたよ。これは僕らの戦闘と関係ないんですがね、僕やってるときにやられるの見ました。

Q:手りゅう弾での戦闘というのは。

肉弾戦です。はい。

Q:皆さん、これは即死していくんですか。

はい、もう即死ですよ。だから、さっき申し上げたように、ホロナイ一等兵はもうやられて、わあわあ泣いているし、フジタ上等兵はお腹やられて、もう七転八倒して、わーわー泣きながら、こうしてやってる。もうそれだけですよ、もう。もう本当に地獄というのはこんなもんじゃないかなと思って。のたうち回って死ぬ。

Q:伊禮さんは、どうして、でもこの戦いでは生き延びることができたんですか。

どうしてって、わかりません。それは運でしょう。運としか言いようがないです。要するに、毎日戦友がどんどん死にますよね、戦死していきますよね。そうしたら、もう明日おれの番かなというふうにしか考えない。それは、もう怖いとかなんとかじゃないですね。そんなもんです、戦争というのは。無慈悲ですよ。地獄ですよ。だから帰ってきて、もう中隊のあれは、僕ら前線にいたけども運玉の森に来て、大隊本部の壕に入ったんですけどね。

そのときですよ、斬り込みに行かされたのは。夜ですよ。昼はこうやって、夜。だから、何ですかな、夜、中隊長から「斬り込み行け」という命令を受けて出るときに、ああもういよいよ死ぬなと思って。この大隊本部の壕に防衛隊(沖縄県人の補助部隊)が来ていたんですよ。そしたら、うちの隣の隣の部落のあれで、そのなまりでわかりますから、部落の。「あなたケンさんじゃないですか」って。わたしら那覇で旅館みたいな、今で言う民宿ですか、旅館みたいなのを簡易宿としてやっていましたからね、内地に行く人帰る人、みんなわたしんちに泊まってから戦地に行くということですから、大体知っていたんですよね。そしたら、出ようとしたら、「あなたケンさんじゃないですか」と。「いや、進順じゃ」と。「進順か」と言って聞くもんだから、「はい、そうです。実は今からわたし斬り込み行きますけども、うちの家族元気ですかね」と言ったら、「うん元気よ」と言うから、「じゃ言ってくださいね。わたしは今から斬り込み行きましたよ」ということを言って、僕は壕を出たんですよね。だから、もう元気だということを聞いて安心して、もう死んでもいいと思った、

そして、まあ夜中の何時ごろだった、時計もありませんからわかりませんが、もうそろそろ投げようやということで。手りゅう弾20発ぐらいしたかな、こう持って、安全・・・、日本の手りゅう弾はやっかいなんですよ。安全ピンを外して打って、発火を見ないと効果がないんです。アメリカさんはバネでしょ。これで大変だったんですよ。だもんだから、安全ピンを外して並べて、初めのときはもう両手で取って、鉄かぶとにボン。で、発火させてボンボン投げて。上から投げて、さーっと。もうどうなったかわかりませんよ。さーっと逃げて帰るときに、この軽機関銃とあれをぶん取って帰ってきました。そうしたら、中隊長から「健闘を認む」と言って褒められたんですよね。そのときに、個人の雑のうに缶詰か何か入ってるんですよね。マラリアの薬も入ってましたよ。キニーネもありました。それから、たばこ。ラーリーというたばこ。今は見たことありませんがね、ラッキーストライクとかキャメルなんていうのはありますけども、ラーリーというたばこがあったんですよ。それを僕はたばこのみませんから、兵隊と缶詰と替えて食べて覚えがありますがね、そのときには成功しましたよ。相手を何名やったかはわかりませんよ。とにかくこれをぶんどっては帰ってきました。それが余りよくなかったんでしょうね、僕は。斬り込み続けて行かされたのは。

中隊長が僕に言ったのは、「伊禮は沖縄の人で郷里を守る義務がある」。うちらの中隊長は陸士卒業だったんですよ。それで、兵隊からはハブグァー(蛇)っていってて、もう怖がられるぐらいの人だったですけどね。「沖縄の人で郷里を守る義務がある。地理に明るい。おまえは幹部候補生だ」と。その3つですよ、理由は。上等兵が行くんですよね。僕は幹部候補生で上等兵の階級をもらっていた。なもんだから、そんだけの理由で僕は斬り込みに行かされた。それが5回続いたんですよ。5回。5晩ですよ、毎日。もう昼は初年兵だから一番下っ端でしょ。何とか飯上げとかなんとかでこき使われ、夜は斬り込みでしょ。本当に大変でしたよ。だから、6回目に、「またもですか」と言ったら、それから行かせなかったですね。うーんと言ったきり。ほかに上等兵いるのに、僕ら、僕ら使うでしょ。理由は、地理に明るいと、郷里を守る義務とか、そんなあれで。

Q:要するに、5回死んでこいというふうに命じられたということですよね。

そうです、はい。死にに行けということですよ。だから、恐らくそんな経験した人、余りいないんじゃないですかな。だってね、生き残った兵隊は重機関銃とかなんとか、近接しない兵隊のほうが多いですよね。僕みたいに行かされたのいないんじゃないですかな、斬り込みを。

要するに、おまえら1銭5厘で幾らでも連れてこれるんだぞと、そういう感じですから。ふだんもいつでも言われているのはね、1銭5輪だと思うよ。まあ、しょうないですよ。うん。消耗品ですから、下っ端の人間はね。

遊撃隊として1個分隊要るというときに、隣の機関銃の兵隊から乾燥タマネギもらったんですよ。これでお味噌汁をつくってですね、「ああ、久しぶりにこうお味噌汁飲むね」って言って、こう夜中こう飲もうというときに、ドドンと大きな弾が落ちてきて、最後は不発弾だったんですよ。その土砂と一緒に空中吹き上げられて、空中で「アアッ」て言って、手を広げて落ちたのはわかるんですよ、あれ。どう落ちたかわからない。しばらく気絶していたんですよね。そしたら、気がついてみたら、タイラユキオという兵隊が「伊禮、伊禮」って呼ぶんですよ。これはここをやられまして、戦後びっこ引いていましたがね。ひび割れて。これが来て「伊禮、伊禮」っていうから、いや、おれはもうダメだと思った。というのは、これも包帯、ここも包帯巻いている。そして、打ちけと一緒に、また出血してるんですね。そして、こう触わってみたら、水はさらっとしてるしょ。血というのはぬるぬるするんですね。こうやって撫でてみたら、もう血ぬるぬるしてるから、後ろから弾が来たから、わたしは後ろに全部やられたと思ったですよ。それで、「うん、おれはだめだ」と言った。そのときに、第一番に天皇陛下万歳じゃなかったですね。ああ、いよいよここでおれ死ぬけども、家族はわたしがここで死んだというのをわかったら、どんなに泣くだろうなと思うときに、「伊禮、伊禮」ってきたんです。

病院というのは名ばかりで軍医はいるけど薬がないんですよ。で、ただ病院の壕にいるというだけであって、何にもないですよ。だから原隊では、あれですよ、負傷した兵隊なんかウジがわくでしょう。ウジがわいたら、これを取って捨てるのが毎日の日課ですよ。薬何にもないですよ。これ、ウジを取っていると。そういうもんですよ。ただ、名前だけ。そこで握り飯、このぐらいのを昼と夜2個しかないでしょう。ああ、ここにいたらもう餓死するといって、わたしは1週間ぐらいいたですかね、気絶して病院に運ばれてからですよ。「もう大丈夫ですから、もう帰してください」ったら、「ああ、じゃ帰ってよろしい」と。行った日がちょうど5月の27日でしょうね。陣地行ったら、運玉の森の、行ったですよ。シーンとしてるもんだから、「どうしたんですか」と。「今日撤退の日だ。おまえ、ちょうどいいとき来たから、これ担げ」と言って、迫撃砲の砲身を担がされた。病院を出てきた時期の人間に迫撃砲の砲身を担いで東風平まで来たんですよ。何キロぐらいありますかね。8キロぐらいあるんです。栄養失調でふらふらしてる兵隊があれ、30、30キロか35キロぐらいだったかな、あのとき言ってました。これ担いで東風平(八重瀬町)まで行きたいって。

Q:その撤退というのは、伊禮さんのような兵士にとっては、どういうふうなことを。

あ、負けたなと思うんです、ここの戦闘では。負けたなと思うわけです。要するに、戦史見ても与那へ、運玉森、首里、那覇、この3つの戦場、日本軍守っていたら兵力が足りなくて撤退することになったんでしょう。だから、負けたなとしか思うわけ。だけども、まだ敗戦は信じないです。戦線を収縮するということだけでですよ。

5月、6月というのは、沖縄雨期なんですよ。5月の中旬から6月の上旬まで雨期で、特に戦争中は本当に雨がひどかったんですよ。その雨のひどかったおかげで、戦車もあんまり動かなかったと思うんですよね。撤退するとき我々の部隊は歩いて、僕は迫撃砲のあれを担いでいるけども、野砲の野戦重砲の部隊がね、大砲を牽引する馬、あるいはけん引車なんか、みんなやられちゃいますから、人間が引っ張るでしょう。砂をかけてね、わっしょいわっしょいしてこう引っ張っていくの覚えてます。そして、そのそばで足折れた兵隊なんかは、泥の中をですよ、こう這って下がっていくんですよね。それを助ける人だれもいないんですよ。みんな精いっぱいですから。精いっぱいですから、だれもいない。もちろん民間人はだれもいませんよ。みんな兵隊だけ。だから、これですよ、本当戦争が地獄だというのは。泥の中をはいずり回っても行く。助けることができないと。あんな悲しいことはないですよ。それも東風平まで続きましたからね。ワッショイワッショイして砲兵隊が砲を引っ張っていくと。

Q:その兵士はそれでもやっぱり下がろうというふうに必死だったんですか。

だから、人間の生に対する執着ですか。大変なものですよ。だから、東風平下がってから、チビチリガマ行く前に、両足をやられてだるまみたいになっている兵隊が、どこの部隊かわかりませんよ。中隊かわかりませんが、これが下がるとき、こういざってね、両手で。こんなのこうして下がっていくけど、これもだれも助ける人いませんでしたわ、みんな精いっぱいで。こうしてまでも生きたいんですよ。だるまみたいになっている兵隊がですよ。いましたよ。それから、途中病院で薬を注射で死なせたりなんかするのね。残酷ですよ。だから、生かしてやればいいのに、生きてる人みんな殺したんだからね。負傷兵をですよ。大変ですよ。

いや、もう逃げ場がないから下がっていくんですけど、逃げ場がない、逃げるところもここしかない。島尻。どこにも行けないですよ。これはもう民間人も軍人もみんな同じじゃないですか。わたしはこれまで民間の人を見たことがほとんどなかったんです、いつも第一線にいますから。負傷して南に下がって初めて民間の人を見たんです。見たけれども、もうほとんどやられて死んだと思っていたの、戦後。戦争終わってからですね。とにかく民間人も兵隊もみんな一緒ですよ。だから、もうあれですよ、うちの家族の話を聞くと、ずっと南、南部下がって壕にいるときに、暁部隊の兵隊だったんでしょうね、来て、「これ軍が使うから、おまえ出れ」と。強制的に出され、追い出されようとしたときに、近くに何か憲兵の人がいたみたいですね。これが来て、「おまえらどこの部隊か」と。「住民だって生きる権利あるんだから、おまえら自分で探せ」と言ってね、はねのけてくれたということを僕は家族から戦後聞きましたがね、これ憲兵に助けられたといって。そして、その憲兵に御飯とかなんとかもね、おつゆなんかもみんなあげたりなんかしたけども、2、3日して何か直撃くらって死んだけれども、そのときに初めて「天皇陛下万歳」という声したと言っていました。わたしは天皇陛下万歳という声1人もいないですから、わかりませんが。

みんな生きたいですよ。生きたいけど動けないんだ。負傷して動けない。動けなければ殺す以外ないですよ。だから、わたしがもしこの病院の壕に自分の中隊の兵隊がいたら、一緒に連れいこうと思って、この病院の壕に行ったら、女の従軍看護婦でないですかな、若い人、こう泣いていたから、「どうしたんか」って言ったら、「今やりました」と言って、注射で。そんなもんですよ。生きてる兵隊を殺すんですよ。本当にまあ悲惨ですね。その壕は今まだありますよ、チビチリガマといって。

Q:その女性は自分が注射を打ったんだというふうに伊禮さんにはっきりとおっしゃったんですか。

はい、「今やって殺しました」と。それははっきり言ってましたよ。だから泣いていたんです。

Q:その青酸カリなんかで動けなくなった兵士を殺すということは、何ていうんでしょう。

普通ですね、それは。僕ら青酸カリは持ってなかったですが、とにかく自決するんですよ。だから、自決用の手りゅう弾を1発はみんな持ってます、最後まで。僕らもみんな持ってましたからね、最後まで。

Q:じゃその女の人の言葉にも伊禮さん特に驚かなかったですか。

いや、もうそれは当たり前みたいですからね、「ああ、そうか、もう少し早く迎えにこればよかったな」としか考えませんよ。ひどいことやってなんて、そんなこと言えるもんじゃないですよ。だけど、もうごく普通のことで。

Q:じゃその女性を責める気持ちというのは全然なかったですか。

いえいえ、ありません、はい。それは、命令ですから、これは女性、看護婦の考えでというわけでなくて、命令ですから。殺せという命令。したら、やらんきゃいかんわけ。いや、あれですよ。真壁というところで、壕の中の兵隊も一緒にいるしょ。子どもなんかもいるでしょう。あの真夏のときに、暑いし空気も悪いし、ワーワー子ども泣くでしょう。そしたら兵隊が、「おまえら、こんなワーワーしたらやれられるから、おまえら出ろ」と言うのよ。この子どもを殺すかおまえら出るかと言ってね、壕を追い出された女の人が、自分の子どもを殺して、自分、今生きてる人いますよ。それは僕はこの女の人はむごいなということはないです。生きるためにしょうないのです。しょうないです、生きるために。だから、人間の倫理観というのが、正常じゃないんですよね。みんな狂っている。

いや、捨てられというよりは大隊長に追い出されたわけです。与座にいるとき、師団司令部の壕にいるとき。負傷兵は戦闘の邪魔になるから出れと。もうアメリカさん、壕の入り口に来てるんですよ、昼は。夜は下がりますけどね。「出れ」と追い出されたわけです。そのときに、ああ、この大隊長は情けない人だな、こんな僕らを追い出されて、死ねということかなと。それで追い出されて、隣の壕に行けと言うんですよね。たしか、今考えたら400メーターぐらいありますかね、そこを僕は歩けないもんだから這って、一晩かかってこの壕に行ったんですよ。その間、もうずっと照明弾上がりっぱなしで、この迫撃砲の弾、もう24時間来ますからね、その間を縫って400メーターぐらい、一晩かかってたどり着いたんですよ。あのウジ虫のわいたあの壕ですよ。そのときに僕は、これ大隊長情けないと思った。本当はいい人だったんですね、いや、あとで考えたら。大隊長は、翌日、僕を追い出した、それ追い出したあと、全員北部に向かって行くということで、何か戦史見たら出ていって、与那原付近でほとんど全員戦死してるでしょ。だから、ああ、僕はそれで助かったなと思ったよ。もし元気であれば、死んでますよ、大隊長以下、みんな。何百名ぐらいいましたな、100名余りですか、何か資料見たらちょっとね書いてありましたが。最初は恨みましたよ、大隊長を。だけど、ああ、それで助かったんだなと思いましたよね。だから、6月の下旬ですよ、僕がこれ壕を追い出されて。そして次の壕にたどり着いたのが、まあ一晩かかって行って、その次の壕を出たのが8月の11日の晩ですからね、約一月余りでしたか、うん、ひと月余りね、その壕にいましたよ。負傷兵の壕。そこで水飲む設備もないでね、壕の上から岩か何かで、こうポタリポタリと滴落ちますでしょう。そこへ行ってね、あって口あけて、これがたまるのを待って、こうやった覚えもあります、水飲むの。滴をためてね。まあ、そしたら、もう歩けるようになってからは、外出て食料探しに行きましたがね。うん。

8月の11日の晩に、いや、昼だ。晩じゃない、昼。我々いるのは、もうアメリカさんずっと前からわかっていたんです、この壕にいるのは。というのは、3番目の入り口は僕らのトイレにしていたんですよ、入り口の近くをね。そしたら、毎日、HBTのつけた2本の足が9時ごろになると壕の入り口に、ちょっとこのぐらい行ったところに見えるんですよ。「あ、来たぞ、来たってぞ。寝ろ、寝ろ」と言ってこうやって。だけども、胸やられた兵隊なんかは静かにしろと言ったって、ゴホンゴホン、咳(せき)するでしょう、わかるわけですよ。
だから、僕がいるっていうのはずっと前からアメリカさんわかっていたんですね。で、8月の11日の昼に1人の兵隊が、こう見ているときに、「あっ、今、光で見えた」って。何、今ごろ光が見えるはずないよって。いや、確かに見たって言うんですよ。そしたら、前の晩に、別のところから来た少尉がいたんですよね、ここに来て。じゃ、全員起きろって言って、起きてこう見たら、本当にそのとおり一条の光が見えるわけですよ。あれ、おかしいな、今ごろ友軍が来るわけないだろうなと思って、そうしているうちに、そしたら、だんだん人声が聞こえるんですよね。だけども、壕の中で言葉が反響し合ってですね、英語か日本語かわからんわけです。最初日本語かなと思ったら、だんだんだんだん近づいてきて。それと、僕らが探してきたアメリカ兵の食事、Cレーションの空か何か外に投げるわけにいかんから、みんなここに捨てていたら、これをあれしながら、わあわあ言いながらだんだんだんだん近づいてきたんですよ。そしたら、ここの少尉が、「おれが指示するまで待て」と言う。だんだんと近づいてきた。それで、あと10メーターくらい近づいてきたから投げろということで、手りゅう弾1発投げたのさ。そしたら、こんなにでっかいアメリカ兵がもう足音もなく逃げ、逃げて出ていったですよ。それで、持っている、あれ、丸い弾倉の、このぐらいの銃身の短い機関銃とピストルと電灯、懐中電灯、ほったらかして出ていったんですよ。そしたら、次、ガスだから、この少尉が「おい、水くんでこい」って言うんですね。水、これ水、水たまりの水なんですよ。この水たまりの水っていうのは、一番目の、アメリカ兵が入ってきた壕の近くにあるんですよ。「おめえ、くんでこい」って言うんですから。仕方ねえ、こっちは「はい」と。たしか飯ごう8つぐらい持っていったけど、走っていって、すぐくんできて置いたら、みんなタオルでもふんどしでも何でもいいから水つけて、これ当てれと。そして動くなと、静かにしろって。
そしたら、案の定、4番目の入り口からドドーンドドーンって4発、たしか4発だったと思うんですがね、こういった緑の、原色の緑の色がね、近づいてきたんですよ。あ、これガスだって。確かにガスだったんです。毒ガス。そしたら、最初息できるんですよね、普通どおり。そしたら、しばらくしたら、ちょうど犬が来たんですよ、へえへえと言うでしょう。あれ見たら、だんだん息が激しくなるわけ。そしたら、1人はのたうち回ってるんさ、ここで。死んだんですよね。これやってなかったんじゃないですかな、タオルとかなんとかで。もう防毒マスクなんていうのは役立ちませんから。3か月間ずっと壕の中で、もうしけってますから、湿ってるから。そしたら、もう頭がずっきんずっきんしてきて、もう最後だなと思ったら、ちょうど夕方になった。それで、アメリカさん引き揚げていったですよ。

それから、僕ら、もうここから出ようと、またやられると。そのとき言うんですよ、何十名いたかな、みんな一緒に出ようっていうですよ。とんでもないですよ。夜間の行動5名でも多いのに、こんな何十名もね、一緒に行動したんじゃ、みんないるから嫌だって言ったんです。そこでわたしは沖縄の兵隊5名いるから、それから民間の人間いたんです、防衛隊3名と、1人女の人がいたような感じだな、それが9名、それとわたしの生まれた部落、今、雨宮中将が自決した壕、山雨の塔の下に、僕わかるから、じゃ一緒に連れていこうって言って連れていったんですよ。
そしたら、入り口は大きい入り口なのに、アメリカさんがみんなブルドーザー入れて埋めたんですね。だけど、たった人が1人通れるぐらいの穴がね、開いていたんです。そこをたどって行った、そこを行こうとした。ロウソクも何もないですから、 無線電話の電線、あれに火つけてこう入っていった。そしたら、もうここは野戦病院だったんですよ。もう腐乱死体、こんな膨れて、死んでる兵隊いっぱいいるわけよ。それを踏んで前へ行ったら、もう臭くて臭くてたまらんわけですよ。そしたらみんな、いや、もうこんな臭いとこで死ぬよりはね、どうせ死ぬんだったら空気のおいしいとこで死んだほうがいい、こっちもダメダメって言ったけど、もう夜が明けるしょ。外出たらやられるから、もう一日だけ我慢しようということで、そこにいた覚えがあるんですよ。

いや、とくにかく北部に行こうと。デマか何かわかりませんけども、北部のコシソンに潜水艦が迎えに来るから、それに乗ってまた本土に行って戦おうという、そういうデマがあったんです。そこを目指して行こうということですよ。大体僕がリーダーというよりは、みんな同じ仲間ですが、この辺の地理わかるのが僕しかいないわけですから、僕の言うことを聞いたわけですよ。で、北部に行こうと、そのときです。

だから自分の壕を出て、それから与座仲座というところを通って、大頓(オオトン)通って、それからアメリカ軍のキャンプのある新城のそば通って、玉泉洞のところまで行ったんですがね、何日かかかって。与座仲座1日、大頓1日、それからマイカ、3日間かけて玉泉洞のあるとこに行きましたよ、うちの壕出てから。
 
毎日、僕ら殺しに敗残兵掃討でアメリカさんが来るんですよ、毎日、銃を持って、もう僕らを追いかけて。そうだよ、僕らは戦負けたのをわからんわけですよ。日本軍がまだ、降伏しているのを知らなかった。で、当時、僕は足やられてたでしょう。もうこういうズボンなんか、元気なやつにかっぱらわれてなかったんですよ。下は何もない。ふんどしも何もなかった。覆う毛ありましたからね、恥ずかしながら。出て、大里農協の前に来たときに、たまたま食料を夜探しに行ったときに、山部隊の兵隊に会ったんですよ。そしたら、「おまえら、悪い格好してるな」って。「おれがふんどし縫ってくるから、これつけれ」って。明日、こっちに何時ごろ来いよっていうことでね。夜来るだろうということで、来うって。僕はそのふんどし、この家をつくる前に持っていったんですよね。女の柳模様の浴衣でつくったふんどし、これをつけて僕は屋嘉の捕虜収容所へ行ったんですよ。それまでズボン、これなんかないですよ、下着は。

Q:もう逃げてるときは、じゃ、軍服も脱いで。

いや、上着けてますよ、僕はズボンはなかった。ほかの兵隊はあるんですよ。僕、かっぱわれてんですよ、ここに入れられたときに。脱いでおいたら、元気なやつにかっぱらわれてない。だから、下は何もない。

おれは戦争終わったのを知らなかったんですわ。捕虜になって、うちの前、この道を通るまでわたしは日本の敗戦信じなかったですよ。というのは、9月の13日の晩に、宣撫班の兵隊来てラッキーストライクのたばこを持ってきて、「おまえこれ飲め、飲め」する。それで、戦争負けた話をするんですよ。捕虜の話をする。こいつはおかしいぞと、スパイかもしれんぞと、僕はそう話したんですよ。だけど毎日僕ら殺しにアメリカさん来ますからね。いつかはやられる。もうやられる、どうせやられるんだったら、今行ったほうがいいということで、僕ら中隊の兵隊3名は出ると言った。2人は出ないと言ったの、最初は。ああ、そうかと。じゃあ、今晩最後だから、雑炊は豚の脂を少し多く入れて作ろうねということでやった。だけど、夜がもう明けようとしたときに、5名から急に2人になると寂しくなるもんだから、この2人も、「おまえらが出るんだったら僕らも出るよ」と言って5名出たというあれがあるんです。要するに死ぬのがみんな怖いわけですよ、出たら殺されると。それまでまだ日本が負けたというのを信じなかった。
だから、わたしはこの道を、前を、捕虜になって屋嘉(ヤカ)の収容所に、兵隊が20名ぐらいいましたかな。1トン半のダージーに2台ぐらい来たから、こう連れていかれるときに、まだ日本の敗戦信じなかった。わたしが敗戦を信じたのは、今の那覇市の明治橋、奥武山(オウノヤマ)を通ったときに、奥武山町っていえば昔は離れ島だったんですよ。僕らよくボートをこいで、島をこうぐるっと回った経験がありますけどもね。これを・・・南明治橋、北明治橋、この南明治橋がなくなって埋め立てして、北明治橋しか残ってない。それを見て、ああ、これはもう戦争に負けたの本当だなと。そのときに初めて敗戦を信じました。屋嘉着くまで、この宣撫班で行った屋嘉っていうところに大佐が2人いますよ、2000名ぐらいいますよっていう話をしてるんですけど、みんなうそだと思っとった、日本が負けたっていうの。だから信じなかった。こっち通って、初めて日本の敗戦を信じたんですよ。

Q:何でその橋を見て敗戦を信じたんですか。

ああ、要するに、離れ小島がここを埋め立てて1つにしてるしょ。要するに、戦争をしながらこういうことまでやってたんだなと、初めてわかったです。途中、アメリカの戦車とかなんか何十台見ましたよ。大砲も。だけども、戦争をしながらこういうことまでやってる。これはもう間違いないと思った。それまでは、もう負けたっていうことを絶対信じなかった。殺されると思ってた、首切られると思ってた。

Q:じゃあ、無条件降伏をしたっていうことを収容所で改めて知ったときは、やはりショックでしたか。

いや、もう2000名いるというのを見て、また、本当にいたんですよ。将校、下士官、兵、朝鮮、沖縄っていって、キャンプが5つぐらいに分かれていましたからね。それぐらいたんですよ。ああ、これ本当だな、日本負けたなと思った。

住民が巻き込まれてということですか。これしようのないことですよ。追い詰められて、もう戦場になってるわけですから。要するに、戦争というのは戦場で戦うから、ね、兵隊が戦うからいいですけど、こっちの場合は、住民の住んでいる地域まで入り込んで戦争があるんだから、戦場じゃないですよ。住民の生活してる場所ですもん、戦場そのものが。だから、それはもうしょうないですよ。考えようがないです、それ、逃げ場がないんだもん。

Q:伊禮さんもやっぱり、そのときは住民を守るための戦争ということではもう考え方がなかったわけですか。

いや、もう住民を守るとかなんとかじゃないですよ。自分がどう生きるかですよ。そんだけですよ。だから、先ほどから何回も申し上げるように、生きるか死ぬかです。そのときはね。何も考えてない。だから、戦争というのは怖いんですよ。残酷っていうのはそこですよ、生きるか死ぬか。みんなそうおっしゃるんじゃないですか、北海道の部隊、兵隊も。生きるか死ぬかですよ、それ以外考えたことはないです。

だから、住民を守るためにある軍隊のはずですけど、住民を殺してんのがあるですよ、それは確かに。だけども、それ自分が生きるためだから仕方なかったんでしょうね、結局は。だから、戦争は残酷っていうのはそこですよ。だから、どんなことがあっても戦争だけはやってはいけないですよ。もう戦争で苦しむのは、弱い人が一番苦しむんですよ。どんなことがあっても戦争だけはやっちゃいけない。僕はそう、この戦争から感じましたね、今でもそう思ってる。どんなことがあっても戦争だけはやってはいけないと。

もう何十遍も申し上げてるわね。戦争というのは、こんなむごたらしいものであるから、悲惨なものであるから、どんなことがあっても戦争だけはやるなと、そんだけですよ。この戦争、沖縄戦の体験から考えられるのは。どんなことがあっても戦争だけはやっちゃいけないと、それだけですよ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
沖縄県真壁村に生まれる
1943年
那覇市立商業学校を繰り上げ卒業
1944年
第24師団歩兵89連隊第二大隊入隊
 
新城で陣地構築
1945年
大里村目取真で終戦を迎える 当時、一等兵
 
米軍の運転手として石川に出る
 
復員後は、沖縄民政府、琉球政府を経て、復帰後は沖縄県庁に勤務

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