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タイトルタイトル: 「初年兵で斬り込みへ」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 大村 光憲さん(北海道・歩兵第89連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年12月7日

チャプター

[1]1 チャプター1 現地召集  07:07
[2]2 チャプター2 十・十空襲  04:34
[3]3 チャプター3 姿を現した米軍艦隊  04:44
[4]4 チャプター4 米軍上陸  04:15
[5]5 チャプター5 斬り込み  05:22
[6]6 チャプター6 死んでいく負傷兵  07:39
[7]7 チャプター7 生還  04:42
[8]8 チャプター8 捕虜  03:57
[9]9 チャプター9 近付くことのできない「戦場」  00:56

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年12月7日

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僕ら、やっぱり、日本教育受けてますから、完全に日本人だと思ってますから、意識は、古い琉球なんか考えてなかったです。ただですね、困りよったのは、17歳で農林卒業して東京へ行ったんですよ。東京行ったら、1か年間で、ちょっと体、調子悪いもんだから、・・・で、帰ってきたら、今度は「男の教師が足らん」ということで教員したんですけどもね、困ったのは、学校では、標準語使ってるけれども、遊びの時間、部落に帰ってきますと、みんな方言だったんですよ。それで、軍隊行ってから相当いじめられました。目の前、ぼけて見えるわけですね、もちろん青年学校とか、学校教育は受けてるから、聞くには聞くんですがね、うまく言えないんですよね、方言使ってるもんだから。しかも内地へ行ってないしね。それで、大分やられましたよ。僕なんか、中学生みたいな格好しておりましたよ、東京・・だったもんだから。全く、教育受けてないのも、たまにおりましたからね、あのころはね、無学の。だから、共通語ももちろん理解できないようなことね、そういう時代でしたから。まあ、青年学校で、教練は軍隊教育を受けれるから、その動作にはついて行けるけども、やっぱり、言葉で大分いじめられたですね。

Q:この89連隊っていうのは、どういうふうな性質の部隊なんですか。

そうですね、あれは歩兵が中心なんですがね、僕ら重機関銃だったんですが。満州から来た、北海道からね、満州の守備隊に、寒いから、みんな北海道の部隊やってるわけですよね。そして、ロシアとの・・がちょっと出たでしょ。それで、満州から北海道に帰ると思ったらしいんですよ、部隊の将校らに聞いたら、先輩ら。そのまま直行、沖縄に来てるんですね。

Q:そしたら、大村さんが部隊に入ったときは、その北海道の兵士がやっぱり多かったんですか。

ほとんど北海道です。満州の北海道部隊がみんな来てるんですよ。えーと、89連隊は何だ、向こうの都市の名前。

Q:旭川?

旭川部隊っていったですね。

Q:どんな北海道の兵士との思い出がありますか。

そうですね、もういつでも、感じはね、「言葉ちょっと荒いな」と思ったですね。ほんで、体は、うちら沖縄の人よりね、平均的にみんな大きかったですよ。だから、最初は、これは困ったなとは思ったんですがね、言葉荒いけども、とても優しかったですよ。はい。とてもかわいがってくれました。印象よかったです。特に、僕らの言葉でも通じましたから、わたしは。言葉のわからんやつは、困ったかもしれませんが、僕らとしては、感じよかったですね。もちろん、わしは東京へ行ってきてましたので、班長、分隊長とか長官からも「ヨナミネ、ヨナミネ」と言われてですね、通訳みたいな感じでやってましたので、かわいがられてましたので、印象よかったです、わたしは。

ただ、気候の件ではね、沖縄は暑過ぎるって悲鳴上げておりましたがね。北海道は雪が降るんで、雪見たことあるが、みんな雪見たことないですからね。雪の話を、たまには、してくれたことはありましたけどね、その程度のもんで、細かいことは。また、後で北海道回ってみたら、北海道の話ししても、沖縄の人にはわからないはずだ、あの広い土地でね、話なんかしたってね。

平良川です。平良川具志、あそこ具志川村(沖縄本島中部)か、平良川具志小学校に入隊して、初年兵教育は学校でやったんかな、初年教育3か月間済んでからは、具志頭(ぐしちゃん)の新城(沖縄本島南部)というところに兵舎つくって、カヤぶきのね、そこにおったんですがね。

那覇がやられて、十・十空襲でほとんど全滅状態でしたからね。あそこの連中が結構、僕らは15日入隊ですからね、十・十空襲でやられてますから、みんな荷物とかの中で、恐らく、ほとんど北部に来てると思うんですね。もちろん相当のメンバー、関係者もおるわけですよ、中南部にね。おるもんだから、まあ、そうでない人らは避難して、山小屋つくったりしてやったんですがね。みんな荷物を引っ担いでぞろぞろと、道を行き違っておったですね。もう全壊ですから、那覇は十・十空襲で、もちろんもともなく町はほとんどやられてました。

重機関銃も訓練しました。しかし、訓練しましたけどね、弾1回だけ撃たしてもらったんですが、あとは初年兵ですからね、さわらさんですよ。古年兵だけが銃にみんなついて、初年兵は弾の運搬ですよ、戦闘始まったら、もう。練習中には、初年兵だけだから、目標に向かって、ちょっと、1回ぐらいは撃たせてもらったんですよね。・・・一応戦闘始まったら、古年兵でも死ぬ場合がありますから、そのときは撃たんと、いかんですからね、やっぱり撃てないといけませんから、そういう訓練はしたんですが、戦闘始まったら、もう初年兵は弾薬運搬するのに、あれ450発入るんですよ。箱に、木の箱に入れてはですね、肩に、こうかけて運搬するんですが、あれ2箱ずつを担ぎましたからね。まあ、敵の間を運ぶんですから、重いとかなんとかも感じないですよ。もう座ったら立つのが大変でしたわね。運んでても、450発なら1分間で撃ち飛ばせますからね。弾薬兵は大変です。すごい汗となって、だから、機関銃一つに、初年兵だと6名ぐらいついておるんですよね。だから、戦闘始まって、初年兵は機関銃は、もちろん、さわることなかったですけどね。弾薬運搬だけ。

3月の23日でしたかな、飯上げに行きましてね、ほかの家で食事しておったら、戦艦、軍艦が2、3そう見えたんですよ、夜明けです、しらじらとした中にね。あれから大急ぎで帰って、恐らく、僕らが真っ先に発見したと思うんですよね。分隊長に報告して、分隊から連隊にずっと連絡して、「敵艦が見えます」ということで騒いだんですよね。まさか沖縄にやってくると思わなかったですよ。

Q:その船を見つけたときは、やっぱり、びっくりしましたか。

いやあ、びっくりもしましたけどね、どうなるのかわからんし、これどうするのかわからんし、ただ、脅しなのかわからんもんだから、そんなに怖くはなかったですわね。

結構、「米軍は南部の方に上陸するだろう」という予想であったらしくてね、幹部の連中は。また、向こうのやり方が軍艦並べて港川(沖縄本島番部)の沖に絶えずこう並べて、100隻ぐらいおったですね。港近くまで来て、こっちの陣地ば殺すためにね、来てやるけれども、撃たんから、ばっと煙幕を張って、やったら、また、ぐっと退いて、して、そういうこといろいろやったから、あそこに上陸するだろうということで、嘉手納や北谷方面におった部隊も、みんなこれに集まってきたんですよ、島尻のほうにね。やったら、逆に嘉手納、北谷に上陸、裏からやられたもんだから、だから、結構、港川上陸する予定の穴だから、みんな嘉手納から来たら反対になるんですよね。入り口がみんな嘉手納向かってますからね、何の役にも立たなかったんですよ。

そうそう。とかく、兵器もすべて向こうが上でしたからね、昼動けないんですよ、もう壕に閉じこもってね。夜間行動ですが、あと夜間もあと動かれなくなったですね。敵兵もそれなりに、こっちの戦法わかるもんだから、やっぱし向こう上でしたよ、すべてのもので。

首里戦線から。あそこで首里戦線で、あそこで抵抗して相当頑張って、5月に総攻撃かけたんですが、失敗したんですよね。それから、本当の追われてるわけですから、結局、もう、陣地の中でも壕じゃ、戦争ではどうもならなかったですね。海は全部軍艦で囲まれてるし、空は飛行機で制空権握られてるし、下は戦車でいっぱいあれでしょう、日本のあんた1発1発撃つ小銃、三八式の小銃でやって、向こうは自動小銃で構えてくるしょう。兵器からしても、どうにも向かえないでしょう。子どもと大人の戦、相撲みたいは感じでね。

僕は初年兵ですからね、弾薬運搬なんですよ。だから、機関銃撃ってるメンバーは戦場見てるはずですけどね、僕らは、裏のほうでそこまで運んでくるだけで、戦闘も全然見てません。

Q:そうですか。

はい、弾、1発も弾も撃ってないし、もう弾を運搬しただけですね。だから、戦争終わってから運玉森の反対から見てね、「ああ、こんなところで戦ってたんだな」と思ったんですがね。

Q:その運搬をするときというのは、やっぱり危険なわけですか。

ああ、危険ですよ。弾薬集積場から山の、山越えて運びにいくわけですからね、危険ですよ。その危険を冒して運んできても、1分半で撃ってしまいますからね、大変ですもんだ、初年兵は。弾薬運搬係はね。

Q:どうして、その弾、運んでる間は危険なんですか。

いや、結構、飛行機が飛んでますから、仮に見つかると大変、上からもやられるんですよ。だから、あれからまた部隊の報告があるから、歩兵からもやられるしね、とかく物量から何からして、アメリカと戦争したのは途中からはもうあれでしたね、お手上げでしたね。穴から出られないんだから

だから、運玉森(首里東方の激戦地)では機関銃隊1個中隊入っているんですが、絶対撃つまではいかないんですよね。馬乗りっていってね、壕の入り口の上に機関銃持ったアメリカの乗っかってしまって、そうするともう、下に幾ら兵隊がおろうが、出られないでしょう。

小隊では運玉の森に閉じこめられたからね、馬乗りされたもんだから、動けないわけですよ。中の機関銃も一応あるんだけれども、結局出られない、上の壕の上に乗っかってますからね、「その兵隊を何とかしてくれ」ということで、ニシという上等兵と2人、夜中、機関銃持って裏の山に行って、撃とうとしたわけですよ。

Q:ニシさんも沖縄の方ですか。

いや、北海道です。2年兵のくらいですね。2年兵の上等兵でしたね。

Q:斬り込みの命令を、その特攻隊の命令を受けるときというのは、大村さんは、「大村行ってこい」と言われたときというのは、どんなお気持ちでしたか。

僕は志願しました。もう沖縄人ですからね、僕、初年兵でしょう。「どうせ、いずれ死ぬんだから」ということで、「わたしが行きます」といってやった、ニシ上等兵は志願したかどうかわかりませんが、わたしは志願しました。だから、あのころ、ああなったら怖くないですよ。もう時間の問題で、先か後か、死ぬという格好ですからね、かえって、びくびくしてるのが、よくやられるんですよ。

Q:どんな武器を持っていったんですか。

小銃です。兵隊は機関銃、機関銃についてる連中は4名ですからね、それ以外は弾薬、小銃です。

Q:でも、大村さんは訓練受けて3か月でしょう、初年兵教育受けたのも。その初めての実戦ですよね。それを志願されたんですか。

いや、志願というのは、斬り込みの場合の志願ですよ。はい。

Q:でも、まだ全然本当の戦闘の経験もないのに、「僕が行きます」といって志願されたんですよね、そこに。

はい。馬乗りされて、もういっぱい動けなくなったわけですからね、だれかが行かんと、いかんわけですから、志願しかないでしょう。幹部候補生ですからね、手挙げざるを得なかったんですよ。だから、もう死ぬとかなんか怖くなかったです。

Q:じゃ本当の志願というよりは、手を挙げざるを得なかった。

やけくそですよ、はっきり言えば。そういう立場に追い込まれてたわけね。初年兵ではあるし。幹部候補生でもあるもんだから、びくびくして引っ込んでおったらおかしいでしょう。で、沖縄ですし、沖縄人でもあるし、やっぱり、手を挙げざるを得ない立場に追い込まれたわけですよ。

Q:沖縄人だと、どうして、手を挙げないといけない立場になるんですか。

ああ、「沖縄は沖縄人が守らんといかん」というような気持ちはありますよ、そりゃあ。沖縄で戦ってるんだから。

生き埋めになりました。ちょっとした崖でしたから。上のほう撃ったら、土が落ちてきて、そこに生き埋めになったわけですよ。そのときに、目なんか、ちょっとけがしたんですがね。それから、そばの兵隊が来てくれて、隣の大隊の野戦病院に運ばれたんです。

Q:もう全身生き埋めになったんですか。

この付近までですね、山のこういうところで、首出して、こう、撃とうとしてるわけですからね。そのちょっとしたこのところの上撃つと、やっぱし崩れるんじゃないですか。その程度のあれで、この付近まで埋まったんですよ。丸埋めになった場合には、死ぬということになるんですが。だけど、首だけ出たんですね。ちょっと、けがをしてたけど。

Q:それで野戦病院のほうに下がられたわけですね。

はい。

Q:野戦病院といっても、なかなか、僕らは想像がつかないんですけれども、どんなとこなんですか。

やっぱりこう土を掘った壕です。1間ぐらいあるかな、壕で。1メーター50ぐらいの壕、大きかった、ずっと。長い壕が何百メートルって多かったですね。

Q :大村さんが行ったとき、その病院の様子はどんな状況だったんですか。

わしらが入ったときには、もう、壕、いっぱいでした。いっぱいで、壕の入り口のとこに、体半分は壕に入ってましたが、体半分は外でした。そこに寝かされておっているところに、黄リン弾の弾を撃たれたんですよ。それで、油ひっかぶってね、黄リンを。衛生兵が来て、この手、まだ左、変ですが、消すのに2時間ぐらいかかったですよ。あの黄リンというのは、こう、乾くと燃えるですね、完全にとるまでは。それで、あれガスも含んでるみたいですよね。意識ももうろうとして。

Q:病院でも数多くの人が、じゃ、毎日亡くなっていくんですか。

ええ。もうどんどん捨てていくんです。戦争だから、無残ですよ。石ころ、1銭、だから1銭5厘って言われたっしょ。はがき1枚だと。「あんたは、ここで死にました」って、ね。はがき1銭5厘ですから、その当時。本当、もう紙です。

Q:その死んだら捨てていくというのは、どういうことですか。

行くの邪魔になるから。埋めたりする余裕がないんですよ。勝ち戦なら、これは、小隊長は埋めましたよ。だから、まあ、お互いに対等で戦ってるようじゃ、そう余裕があるんだが、もう負け戦で逃げながらか、結構、助ける暇はないから、結構、適当なところに片づけて、捨てると言ったら失礼だが、適当なところにこう片づけ、畑のそばとかね、そういうとこに、こう片づけて、手を合わして、もう行くといった格好で。

あのときは、動けない連中はみんな青酸カリで殺したり、あるいは、僕は見なかったんだけども、タオルで絞殺したのもおると、そこにもう寝かして、そのまま寝かして、壕にですよ。撤退ですから、終わりで。みんな壕に、そこに寝かしたまま、置いて、皆、撤退するわけです。動ける人は肩とか、いろいろして、もう動けない連中は始末、みんなしてます。青酸カリするのは見たんですが、ほかの連中に聞くと、やっぱし青酸カリ足りなくて、やったのはおるって。また、お願いだったらしいですね。結構、青酸カリ打たれるということ、覚悟しておるから、青酸カリないったら、「もう殺してくれ」という、何か希望もあったとかいう話は聞いたんですがね。

ガス弾の場合には、どうもならないですね。だから、1階は50名ぐらい、皆、仮死状態になったもんだから、壕の外の大きな穴があったもんですから、くぼみが。そこにみんな積まれたんですよ。まあ、ガスでやられたら、一応、生きても使い物にならんということで、邪魔者だということで、捨てられるんです。幸い、わしは奥の方におったもんだから、一番上に捨てられたもんだからね、だから、広げておけば、みんな生き返る可能性があるわけですが、そんな余裕なんかないですから、皆、山積みされているから、下の連中はもう皆、圧迫死されておるわけですね。

衛生兵が来て、どんどん打っていく。もう皆動けなくなってる連中だから。だから、僕らも打たれていますよ。打たれたけども、ちょうど砲弾が来て、その場で爆発したものだから、衛生兵がびっくりして、打って逃げたんですよ。だから静脈には打たれてなかったわけですよ。あれが打たれとれば、もうそのまま消えちゃったわけですよね。

Q:大村さん御自身も打たれかけたんですか。

はい、打たれてますよ。打たれかけたけど、静脈外れてる。黒くなってますよね。

あのときは、順番だと思ってるから、「どうせ動けないから、死ぬ番だ」というような気持ち、あきらめてて、あきらめが多かったですね。それでも、打ち外れて、意識がはっきりしてきて、手や足も動くようになったから、それまで手足も動かなかったんですよ。だから、「もう、どうせ死ぬんだ」という覚悟はできとったもんですからね。動き出してから、「ああ、ひょっとしたら助かるかもしらんな」と思って、それで1日は以上かかったでしょうね。はい出して、部落があったから、そこの部落に逃げ込んだんです。

晩、遅くなるまで、大体、方向を確かめておいて、晩、そこから逃げ出したわけです。そして、隣の民家のうちに入って、着物、もうみんな臭いですからね、着がえ、そこのおやじの着物に着がえて、そこのうちの壕があったんですよ。そこにひっくり返って、もう、死を待つあれで、ひっくり返ったら10日ぐらいに、とうとう、その部落に日本の兵隊がいっぱい入ってきたと見えて、掃討戦があったですよ。その掃討戦で米軍に見つかって、つかまったということ。ちょうど二世がおって、沖縄兵だということわかって、救急車呼んでくれてね、すぐ病院に、アメリカ病院に入院したんですよね。あれから3か月間入院して、屋嘉(ヤカ)の収容所に残らされてたんです。

大里ですか。高嶺のね、あの池、まだあるかな。何か、高嶺の道下に飲み水の池があったんだがな。あの池があれば、あの辺まで行けば、まだ場所わかりますよ。すぐそばの山の向こうにおったんですね、最後は。そっから逃げたんですがね。そっから水飲みに行った覚えがありますからね。その付近で、地形はあの場所まで行けばまだわかりますわね。

Q:1人で?

1人で、1人です。

Q:何日間ぐらい1人でアメリカに捕まるまで行動してらっしゃったんですか。

それはもう、時間とか日にちとかなんかは全然わからないですね。

結局捕まるまでは10日ぐらい、かかってるんでないかと思うんですよね。やせ細って捕まったときには、沖縄出身の二世からも「すぐは水飲むな」と言われたですからね。「危ない」って言って。大分やっぱり衰弱しておったんじゃないですかね。

Q:その10日余り、食べ物とか水っていうのはどういうふうにしたんですか。

いや、何もやってないです。壕の中にひっくり返ったまま、死を持っていただけです。動けなかったですよ。

いや、もう死を待つだけですよ。もう動かないですから、体が。もう「結局、自分の番が来たな」というあきらめが来てますよ、あのときは。手も足も体もみんな動かないわけですからね、頭だけが動いて。もう結局、死んでるのと一緒ですから。だからそうも思いましたよ。「ああ、もう死んだんかな」とも思ったですよ。あと2、3日遅ければ、見つかるのが、死んどったでしょうな。

あの戦地には行きたくないです、思い出されてね。いいことは、思い出されないですからね。戦地、行ったことないです。

Q:65年間、そんなに大きくない沖縄で、戦地に行かれたことはないんですか。

はい、行きたくないです。行ったら、いろんな、いいこと思い出されなくてね。遠くから見てますけども。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
沖縄県本部町に生まれる
1942年
沖縄県立農林学校を繰り上げ卒業
 
東京海軍水路部に軍属として配属
1944年
第24師団歩兵89連隊第二大隊入隊
 
港川で陣地構築
1945年
高嶺村で終戦を迎える 当時、一等兵
 
名護市大浦崎にて復員
 
復員後は、小学校教員に

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