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タイトルタイトル: 「追いつめられた日本軍」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
名前名前: 渡辺 春雄さん(山形・歩兵第32連隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年11月26日

チャプター

[1]1 チャプター1 平和だった沖縄  06:33
[2]2 チャプター2 十・十空襲  03:50
[3]3 チャプター3 海を埋め尽くした米艦隊  02:28
[4]4 チャプター4 最前線へ  04:08
[5]5 チャプター5 総攻撃  05:33
[6]6 チャプター6 馬乗り攻撃  03:26
[7]7 チャプター7 伝えきれなかった撤退命令  07:03
[8]8 チャプター8 南部へ  07:03
[9]9 チャプター9 「国頭突破」  03:25
[10]10 チャプター10 捕虜収容所  06:09

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~
収録年月日収録年月日: 2010年11月26日

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船に乗ってからですね、初めて沖縄っていうことがわかったんです。「何だ、沖縄か」っていう。外地に行くと思ってたんですけどね。

でもね、わたし、船にあんまり強いほうでないけども、輸送船といっても、普通の貨物船をですね、船倉の中を、荷物積むところを、こう木でもって枠かけてですね、三重も四重にもしてですね、こう本当に、立つってなったら歩けないんですよ。本当に座ってたら、もう、頭つくぐらいのところに、ごっそり寝てるわけですね。扇風機あるわけでないですから、こんなあの大きなあれでもって、走ってると、そこから顔ばあっとこう、何というんですか、暑いんですよ。ですから、もう船倉から出ててですね、もう上のほうに上がってるのが、いっぱいなんですよ。

Q:その行き先がね、沖縄だというふうにわかったときは、渡辺さんはどんなふうな気持ちでしたか。

いや、沖縄なんか、内地だと思いましたからね、「沖縄なんて、これ戦争なんかあるところで、ないな」というような気持ちだったですね、初めは。それから、着いたときもそう思いました。本当にもう青々とした、本当に、何というか、平和な村ですし、町ですしね、「こんなところに送られて、何するのかな」という気もありましたね。

それがですね、8月の5日に沖縄に上陸しましてね、10月10日に沖縄の大空襲あったんですね。そのときから、やっぱり、がらり変わりました。もう沖縄のあの那覇の約80%から、焼け野原になったんですからね。それに飛行場は、ばんばん爆撃されましたし、僕らの行ったところは、嘉手納の飛行場の近くなんですよ。ですからね、もうびっくりしました。

Q:8月に上陸した時点では、じゃあ沖縄は平和だったんですか。

平和でしたね。全然、まだ、わたしたち行ったときには、空爆なんかもありませんし、むろん、艦砲でなんか撃たれるなんていうようなこともありませんからね、本当に平和な、あれだと思いました。ただですね、やはり戦時中だし、沖縄に行ってからは、住民の方は、お米なんて食べてる人はほとんどなかったですね。常食はサツマイモです。1日食べるだけ掘ってですね、そして、持ってきて、とったところに、また植えていくんですよ。枝を挿していればまたつくんですね、暖かいとこだから。そんなあれでしたからね、「やっぱり、これは食糧では大変だな」ということはわかりましたけどね。

わたしは、徳仁(港)というところに、ほとんど、みんな上陸したんですけどね、僕は、荷物下ろしに船に残って、那覇に上陸したんですけどね。那覇に1泊して朝出てみたら、定食って書いてあるんですよ。「おお、定食があるか」って言ってね、みんなで食べに行ったんですよ。そしたら、御飯でなくてヒジキばっかり、真っ黒い。これには参りました。

ただ、沖縄の兵隊が入ってきてからは、沖縄の人とはもうずっと、我々のところにも「戦友っ」て隣のほうに入ってくるんですよ。で、いろいろ話、聞いたりなんかするんですけどね、いや、本当に、こっちの言うことはわかるんですけどね、何かもう、ぎこちないしゃべり方もする人もいますし、こりゃ大変だなと。そして、ずっと今まで、はだしで歩いてたから、軍隊に来て靴を履くとですね、足痛がって、もう参ってるんですよ。

Q:何人ぐらい沖縄の初年兵が入ってきたんですか。

僕の7中隊にはですね、40名だそうですよ。

Q:渡辺さんの分隊には?

僕の分隊にはですね、3人ぐらいいましたか。

あのグラマンは見ましたよ。あんまり大きくないのに、編隊で来てましたしね、もうすごかったです。那覇のほうを、始めやってましたけどね、あそこに、当時は、読谷のところにも飛行場あったんですね。北飛行場に中飛行場とかって言ってましたけどね、でね、爆撃されたその飛行機は見ました。でも、その当時は、まだ、軍事施設ばかりですからね、一般の民家、こっちの田舎のほうの一般の民家なんかは、そうでもなかったんですけど、那覇なんかはもう全部もうあれですもね。町の中、爆弾落とされたり、ひどかったです。らしいですよ、わたしは見ませんけど。だから「80%も90%も、もう、ほとんど全滅になった」っていうように聞いてましたけどね。

日本の飛行機というのも、飛んでるのは見てますけど、そのそばでは、あんまり見たこともないですしね。ですけどね、艦載機ですし、「あんまり大きくないような飛行機ですけどね、結構、性能いい飛行機なんだな」っていうのは、思ってましたしね。やはり、「こんなところまでも、こんなに編隊で爆撃する」っていうことは、やっぱり、「これは大変なもんだな」というような、あれはありましたよね。特に、沖縄に上陸してから、ほとんど爆撃だとか、それから撃つのも、グラマンがほとんどなんですよ。あれ、全部艦載機がほとんどですからね、もう本当に300も来ることあるんですね。だから、「ぐわーっ」と、もうそれは割れるような音しました。こっちのほうはね、全然撃つものないんですよね。だから好きなようにやられるわけですよ。 

Q:じゃあ、その10月の10日から、沖縄も雰囲気が変わってきたんですか。

そうですね。それからは爆撃はもう、10月10日みたいに多くはないですけども、もう、しょっちゅう来てました。まだ、艦船なんかは全然見たことない、その当時は見てないですけどね、飛行機は時々来てましたね。

12月に島尻の、僕らは山城に。あそこにはですね、何でああなったのか、わからないんですけどね、武部隊(9師団)のあとですからね、掘った壕やなんかあったんですけどね、もうずっと下ばかりなんですね。その辺は全然使わないで、僕らはもっと高いところに、穴掘りはやってたんですけどね、新しく。そんなに長い時間でないですからね、サンゴ礁ですしね、掘るっていったって、そんな機械で掘るわけないですからね、そんなに、はかいかないですよ。

見ました、もう。山城で、そこからね、もうわたしたち見えるところは喜屋武岬だとか、糸満のほうですね。そっちのほうぐらいしか見えないですけどね、もうすごかったです、本当に、真っ黒になるぐらい。見たことないです。無論、軍艦ばかりでないですけどね、商船から、もう上陸用舟艇から、いろいろなやつ積んで、とにかくすごかったですね。

いや、船のね、数にはもう見たことないです。あの慶良間(諸島)、前のほう、慶良間ですよね。糸満からすぐ見えますけどね、あそこの海も、本当に真っ黒に見えるんですよ。本当にすごかったです。「ああ、これじゃあね、大変だな」っていうことで、まだその当時は、負けるなんていうことは思ってなかったけども、まだ、日本だって飛行機が来るだろうし、あれがあると思ってましたからね、そんなにあれでなかったですけど、だけどびっくりしましたね。

Q:その大艦隊を見て、渡辺さんの何かお気持ちに何か変化はありましたか。

変化というのはないんですけどね、「やっぱり持てる国だな」という考え方から、「こんなのと戦ったら、こら大変だな」という考え方ありましたよね。別にまだね、撃ち合いしたとか、こうだとかってなかったですからね。

いや、命令はですね、「首里の前方の石部隊(62師団)が、ほとんど全滅近いんで、そこを我々が応援、そして後退しなきゃいけない」っていうことでしたから、我々も、どうしてもこれは行かなきゃならんし、「今度は危ないな」っていう気持ちはありましたけどね、まだ、そんなにびっくりもしてなかったです。

ただ、第一線に出るときにはですね、何という、弾薬だとか持っていくのが大変なんですよ、全部。歩兵というのは軽機関銃と大体小銃ですよね。あの当時の軽機関銃と小銃というのは、弾の口径が同じなんですよ。ですからね、軽機関銃の弾240発ぐらい持たされるんですよ、全部。そのほかの自分の弾、それにてき(てき弾筒)、何という、手りゅう弾だとかね、そのほかに10キロ急造爆雷という、木に弾薬、あれを、弾薬ってあれを入れて、黄色薬だとかなんか入れただけなんですけどね、それに手製のあれを、発火装置つけて、10キロあるんですよ。それに自分の私物から、もう帰ってくることないと思いますから、全部持たされるわけですよね。
 
Q:第一線に近づいていくと、何か周りの様子だとか変わってきましたか。

もう、全然変わってきましたですね。やはりね、住民の方がね、やっぱり弾に当たって、道路の横で亡くなってる人もありましたしね、牛だとか馬がね、もう撃たれて、当たって、それがもう臭いんですよ、すごくもう。だから異様なにおいがしますしね。それから、もう近くになると、もう弾の音がもう「バリバリーッ、バリバリッ」聞こえてきますしね、もう全然違いますね。

そして1泊、第一線へ行って、1泊して山川(島尻郡南風原町)というところに1泊して、それから一線に出るときにですね、僕らの小隊、固まってたんですけどね、艦砲でですね、頭の上でもって「バーンバーン」また破裂するんですよ。やっぱり硫酸弾ってね、歩いてるところを、電波探知機がもうすごいですからね、鉄の塊やなんかが、移動するということでわかるわけですよね、「この辺歩いてる」って。「これはだめだ」っていうことでですね、もう小銃も、全部、こう布に巻いて、それから銃剣もそうですし、それから鉄びょうも、あの靴の鉄びょうも抜けって言うんですよ。ですからね、鉄びょうは、むろんすっかりあれしてましたからね。そして、なるたけ、あんまり固まらないで歩けっていうことでですね、いや、びっくりしましたね、本当に。「米軍のこのあれは、すごいね」っていうことでね。

大隊本部の壕に着いたのが5月なんですよね、もう。5月の1日か2日ぐらいなんですよ。一番遅いもんですからね、うちらの編成替えになった兵隊が入る壕がないわけですよ、前田の、まだ行ってるんですけども。だから哀れだったんですよ。大きな石の陰だとかですね、そんなところにしか、壕がなかったんですね。僕がちょうどその指揮班でしたから、何とかその大隊本部、2大隊本部の壕にまでたどり着いたんです、スガワラ少尉も、指揮班の者ほとんど、たどり着いたんです。それで、その壕があれば、まだよかったんでしょうけど、もう壕がないもんだから、やはり、もう夜になったら、散発的に、こう戦闘始まるわけですよね。向こうも、ある程度少なくなりますから、夜は、一部残してずっと下がるんですよね。で、そんなことで、やっぱり負傷したりなんかしている者も出たのです。

僕ら伝令に出ても、そんな状態ですから、みんなに、その伝わるかどうかわかんないわけですよ。あっちに何人、こっちに何人って、真っ暗なとこでしょう。で、1人だけじゃないですけども、3人ぐらいで手分けして、こう伝令に出るんですけどね。そして、そんなことであれしているうちに、今度5月4日に日本の総攻撃であったということで、全部、やはり、これは絶対伝わらなきゃいけないっていうことで、伝令に出て、ある程度伝わったと思います。

で、何とか為朝岩(激戦地・浦添市前田)ではないんですけどね、為朝岩の方まで行けないんですよ、全然、急坂だしね、やっぱり、むちゃなんですよ。あんなとこ、とっても行けないんです。反対側のほうから上がれば別ですけど、僕らの攻めていったとこからは上がれないんです。だから、わたしは、その指揮班だから、直接、その攻撃には参加しないですけども、伝令に出て、

5月4日の総攻撃には、もう全部、うちの中隊だけでなく、ほかのほうも全部一緒だったですけども、総攻撃でやったんですけどね、その当時に、さっきも言ったとおり、飛行機も来るし、艦砲でなく船も来るし、野砲から何から一斉に総攻撃やるっていうこと、全然来ないんですよ。飛行機に、何ぼか、来たかも知らないけど、途中でみんなやられているんだよね、あれ。それで不成功ですよね。一時、あの上まで上がったんですよ、夜でしたから。もう夜明けになったら、やっぱり、すごいあれですもん、もう。物量が違います、もう全然。

それで、「これはやむを得ない」ということで、もう結局すぐ下がりまして、あれしたら、今度、大隊長からもうこれは、「もうここはどうにもならない、首里まで下がる」っていうことで、みんな固まって下がれないから、もう包囲されていますしね。

その当時、ちょうど耳にやられまして、その大隊本部の壕のその入り口のところ、こういうように、何か、こういうかぶさっていたんですね。ですから、そこに、向こうも、上のほうから投げた爆雷や何かが、みんなこの辺に爆発するわけですよ。それが「ずずん」と落ちちゃったの。それで投げ込まれて、投げ込まれたやつが壕の入り口で破裂しちゃって、で、僕らは、昼は出れないもんですから、命令をもらって、夜に、ある程度、薄暮暗くなるまで待たなきゃならないんですよね。で、壕の入り口近くにいたときに、その壕の入り口で爆発して、その爆風でもって、鼓膜、両方とも破けちゃったんだ。もう全然、一時聞こえなくなったんですよ。

壕に、その当時は、馬乗り(攻撃)になっていましたけども、壕の中までなんて、全然、来れないんですよ、やっぱり、途中にまだたくさん日本の兵隊いますから、全然おりてこれないんですよ。でも、ずっと島尻のほうになってからは、やっぱり戦車でもって来て、戦車でもって焼く(火炎放射)っていうあれもあるわけですよね。前田では、それはなかったです。でも、コウノさんたち、上った人たち、ずっと終戦まで、ある程度、あっちのほうにいましたからね、やっぱり壕の中まで来ないけども、爆弾投げ込まれたりなんかしたっていうのは、あるらしいですよね。僕がいたときには、そんなことなかったですよ。

Q:そうしたら、山の中に入っている日本軍と、上に乗っかっているアメリカ軍と、それぞれ、どういうふうな戦いになったんですか。

いや、上からは、今、言ったように爆薬、あれを投げるわけですよ。上から「するする」っと落ちてきて、もう「ばあーん」と入り口で破裂したり、それから、顔出したりなんかすれば、撃ちますしね。もう、そんなことで死んでいる人もたくさんいますね。こっちも、そのことで、撃つことは撃つんですよ。向こうが、顔出したりなんかしていると、もうそこをねらって、それはやりますけど、馬乗り(攻撃)になったら、もうやっぱり日本の兵隊も、ちょっと出られないんですよね。出れば、もう爆雷だとかなんか「ばーっ」と投げてきますし、迫撃砲でも何でも撃ってきますから。ただ壕の中までは、やるっていうことは、ちょっと無理ですよね。

Q:じゃ、そうやってアメリカ軍が上から攻撃してくるのに対して、日本軍は、どういうふうにどんな作戦だったんですか、その壕の中で。

壕、それがね、結局、何回も言っていますけども、日本の兵隊っていうのは、これ沖縄全部そうですけど、昼の戦闘できないわけですよ。向こうは、その兵器でも何でもすごいです、優秀ですし。それから、兵力も多いですしね。だから、夜になってから出ていって、米軍もある程度攻撃するっていっても、残っているのは、あんまりいないんですよね。ただ、やっぱり機関銃だとか迫撃砲だとかそういうものは、もう残っていますけど、その撃つのは残っていますけど、大体、兵隊はある程度下がるわけです、夜。ですから、結局、もうそんなことをしょっちゅうしていれば。

やっぱり、だんだん兵力が減ってきますから、下がるか何かしなければ、そこでは戦闘できないっていうことですね。だから、そのうちの大隊も、もうここではだめだっていうことで、「首里まで撤退せよ」という命令が出たわけですよ。

Q:渡辺さんは、その総攻撃のときに、連絡兵として撤退の命令を伝えるっていうことだったと、思うんですけれども、具体的には、その上官から、「どこに、どういうことを伝えに行け」っていうふうに、命令を受けたんですか。

口頭で、やはり、今、言ったように、「ここは、失敗した」と。「総攻撃も失敗したし、ここはもう長居できない」し、大隊長の命令で、「首里まで下がれ、命令出たから下がるように」と。「今、全部中隊、大隊一緒に下がるわけにいかないから、てんでばらばらに下がれ」そういう命令だということを伝えたよ。伝えたんですけども、ばらばらになっていて、伝わらない人も恐らくいたと思います。

でも、おれたちの、その伝令が、その命令を伝えなかったっていうことは、やっぱりある程度気にかかるわけですよね。で、出てきた人に聞いてみたんですけど、「いや、おれは聞いたよ」って、「聞いたけど、全然、出れなかった」。「大隊本部と一緒に下がったんだそうですけど、結局途中から戻ってしまった」。

それから、「知らなかった」っていう人もいます。その知らなかったっていう人にも聞いたんですんけど、「おれら全然、命令も何も伝わらなかったけども、でも大隊本部と一緒にいたから、ある程度はわかったけど、とっても1人やそこらでなんてでもって、下がれるような状態でなかったし、それに、結局、こっちのほうに残って助かったんだから、そのほうがよかったのかな」って言われましたからね、「ああ、まだ、それで少し助かったな」と思いましたよ。

これはね、軍隊っていうのは、やっぱり、「命令っていうものは、絶対あれしなきゃいけないんだ」っていうことは、もう聞いていますし、ただ、そうは言われても、結局負け戦で、こんなところにいて、1人ずつにばらばらになっているのに「伝えれっ」ていったって、「それは無理だっ」て、いうこともわかりますし、だけど命令っていうのは、絶対ある程度あれしなきゃいけないっていうことは、わたしも、わかっています。そのための指揮班の伝令だとかなんかですからね。

下がるときに、わたし、石部隊の賀谷支隊と一緒にあそこに泊まって、患者の壕に戻っていったら、もう歩ける人いなかったんです、そこは。何とか見つけて入ったんですけど、そしたら、山形から召集になっていったタカハシっていう上等兵が、足、こっからこう撃たれちゃって歩けなかったんですよ。それがわたしのこと見つけてね、

「おれ連れていってくれ」っていうもんだから、もう、おれも、腹決めて、そのタカハシを背負って、その九九式の自分の銃をそこに置いて、鉄帽も置いたんですよ。「どうせ鉄帽なんて、こんなものかぶっていたってだめだ」っていうことで、そして拾ってきた軍刀を、つえにしてね、あと飯ごうに、米入れたり、携帯燃料だとか、それから弾、もしものときには、あれするっていうことで、弾を1発持って、そして、そこのところを上ったら1発も撃たれないで、それを上がりましてね。そして、首里街道に出て歩いていたけど、こわくて、もう耳がもう、ほれ、鼓膜破けて、焼かれているもんだから、ちょっとつらくなると、こっちから息が「ふー、ぶっ」と抜けるんですよ。あっち休み、こっち休みして、下がっていきましたね。したら、そのときに、はっていた人もいたんですよ。して、「いや、かわいそうにな」って思っていったら、「頑張れよ」っていって、何も返事もしないで黙々と下がっていったんですね。それから、もっと、負傷した人も結構いましたし、さすがに、あの辺は、もう住民の人は見えなかったですけどね。

そして、その首里の平良町に来たときに、もう、日が明るくなりましたし、ちょうど高射砲の陣地ありましたから、そこに「今日1日お願いします」っていったら、そこの将校に「だめだ」って。ここは、もう向こうの目標になっているから、「おまえたち、入れてやるわけにいかない」って言われましたよ。でも、「おまえも、これも負傷しているから、兵隊1人貸してやる。それを背負させて、もう首里すぐ目の前だから下がれ」って言ってね、兵隊1人貸してくれたんですよね。で、本当に平良町のその何ぼも行かないうちに、大きな井戸がありまして、そこに7中隊の兵隊が水くみに来ていたんですよ。で、「どこにいる」って言ったら、この沢の、何ていうんですか、お墓。こんなでっかいお墓を全部、お骨全部出して、中へ人もたくさん入っていましたけどね。

あっ、もう下がっていましたね。夜になったら、女の人なんか、結構いましたよ。本当に、もう南のほうに、どっちのほうに、こっちのあれのほうに行くのかどうか知らないけど、南のほうに下がった人は、結構いましたね。

Q:どんな様子が御記憶にございますか、住民の方々は。

もう、そんな状態のときですし、真っ暗やみのところを通って、あれするんですから、そう気安くも声もかけられませんしね、何かあれすると、「一緒にいたら大変だな」っていうことで、でも、向こうの人も「兵隊さん、しっかりしてくださいよ」っていうようなことを、言った人もいますよね。特に女の人が、女の人それから子どもの人が多いんですよ。やっぱり男の人なんかあんまりいなかったですね、子ども、女の人、年寄り。

やはりこの弾の流れ弾とかなんとかに当たって、もう、亡くなっている人っていうのはありますし、それも、そうなると暖かいとこですから、においがすごいんですよ。「だーん」と、においしますしね。で、そんなのは、向こうのほうで、何ぼも見てきていますからね。兵隊なんて折り重なって、前田のときになんかだったら、そんなとこもありましたから、もうにおいには、もうあれになっていたけれども、それでも、やっぱりくさいんですよね。

Q:もうそのときには兵隊も住民もやっぱり喜屋武岬の近辺には、積み上げられていたわけですか。

僕ら喜屋武岬に下がったときのは、住民の人もいましたけど、そんなにたくさんいなかったです。

Q:兵隊は、たくさんいましたか。

兵隊も僕らのところにいたのは、7人ぐらいいたんですね。で、ずっとまだ広いですから、わかりませんけどね、まだほかに兵隊もいましたし、住民の人も確かに下がっていましたけど、そんなに、まだ多くなかったですよ。

「ここがやっぱり一番最後になるんだな」っていうことでしたから、道は、もう、そっから行くところないですから。向こうに戻るっていう、考え方なかったんですよ。それがちょうど、あそこの喜屋武の岬に行ってから、何日もたたないうちに、米だとかなんか、山城や何かも近いですから、米なんか集積してあったところもわかっていましたから、米なんかも持ってきて、「しばらく、ここにいなきゃならないな」っていう考え方で、もうこれ以上下がるところ、ないっていうことだったんですけれどね、それが何日もたたないうちに、やはり向こうから探しに来て、「国吉まで下がれ」っていうことでしたから、国吉に、結局、下がったんですけども、あそこに下がった当時は、もう、もうそこから戻るっていう考え方なかったんですよ。

我々の32連隊、連隊長もそっちのほうにまだ元気でしたから、山城からちょっと離れたところにいたんですけど、ここがもう最後で、国吉が最後で、「もうこっから下がらないから、とにかく、動ける者は、全部もう山城でなく、国吉に戻れ」って。それ、もう全部戻りました。

Q:その、もう一回、また戦場、第一線になりそうなところに戻るときの渡辺さんのお気持ちっていうのは、どんなお気持ちでしたか。

いや、もうね、そのときには、「本当に、もう負ける」っていう土壇場だったしね、それも。「もう、ここでもう死ぬならもう本望だ」と思いましたよ。またまたっていう考え方だけで、ここから下がらないんなら、それでいいっていうことで、そのときは、だれにも言っていないけど、「もう絶対勝たない」って思ったです。

Q:心の中では、そういうふうに思いながら、もう一回戦場に行ったんですか。

はい、そうですね。そのときには、もう武器がほとんどないんですよ。小銃の弾自体も、あんまりなかったですから、だから、僕は、弾撃たないっていって、撃たない、撃たないっていうけども、そこに戻ってから何日かたってから沖縄の兵隊と2人で、大城森って連隊本部があったんですよ、ちょっと離れたところに。そこに弾薬をとりに、弾薬受領の命令もらって、出た途端に、その艦砲のあれでもって撃たれて、でも、直接当たったわけでないんですけど、こんなになって、海がこっちのほうで、こういうようになっているの、ここに当たったんですね。で、ちょうど日本がこっち側のほうの穴に入っていましたから、出た途端にここに当たったのが、「だん」と下がってきて、石ころだとか、その破片みたいなので、大腿、あの辺をやられたわけですよ。これが、現認書をもらってきたんですよね。

今度、2大隊の兵隊は、「大隊長は、前田の方でまだ健在だ」っていうことわかったわけですよね。それで、「国頭突破」って元気な人がみんな、もう何日ごろでしたか出ていったんですよ。

Q:渡辺さんは、その国頭に行く話を聞いたときは、やっぱり自分も行きたいなっていうふうに思われましたか。

いや、全然思いませんね。もうわたしは、どうせ歩けないんだし、もうここで「最後なら最後でいい」と思いましたけど、わたし、全然、その当時歩けなかったですからね、残って、残念とかなんとか思いませんしね。もう元気な人、ほとんどの人出ていきましたから。残っていたの、ご飯たきの沖縄の人だとかなんか。でも、僕らのほうに元気つけてくれて、「渡辺さんとわたしたち、一緒に残りましょう」っていうようなこと言ってね、あれしていましたけどね。僕も、寝たきりだったしね。

Q:国頭に仲間が出ていくときは、どういう気持ちで見送ったんですか。

いや、「僕、行けない」っていうことわかっていましたから、知っているのは、「渡辺、おれら、何とか国頭に行くから、おまえ、元気で何とか治して、あれすれよ」って、気合いかけてくれました。本当、うちらの壕に、あそこに入った兵隊、ほとんどの人が出ていったです。残ったのは何人もいなかったですよね。

「うまく、その米軍の陣地突破できればいいけどな」と思ったんですけどね、やっぱり、何か帰ってきた人の話聞いたら、要所、要所にピアノ線張って、そして引っかかったら、すぐ、弾がバリバリ来るようになっているんですって。だから、「いや、もう生きた心地しなかった」って、もうね、1日って、もう昼、ずっと川の中に草かぶって潜っていたってね。それに一緒にたくさんいるわけにいかないから、いや、本当にひどい目に遭ったって。

Q:渡辺さんは、もう動けない身で1人残されて、どうするつもりだったんですか。

いや、どうするも何も、もう深い考えはなかった。もうここ、最後だっていうんだから、どうせ自分が動けないし、もしも、だめだったときには、自爆するっていう考え方だったから、もう、度胸ついてきましたよ、何も別に恐ろしいとか、なんとも何もなかったですね。

屋嘉の収容所に、一番先に、捕虜になって収容されましたね、8月29日に。そして、それから、収容所に入ってからも治療受けていたんですよ。だけど、普通の、みんなの一般の人と一緒にいましたし、那覇の国場の収容所にみんな移動になるっていうので、別れるの嫌で、「いや、おれも行く」って、いってきた。「おまえ、無理だ」っていったんだけど、「おれも行く」っていって行ったんですよ。行った途端に、「おまえ、何でこんなところに来たんだ、だめだ、戻す」って、また、屋嘉に戻されたんですよ。で、そのときに、亡くなったマエダと一緒になりましたし、何かな、もうちょっと、もうあの当時、頭、複雑になっちゃって、軍医に診てもらったら、「おまえ、すぐ帰れる」って言われたんですよ。「いや、おれ帰らない」って。で、「何で帰らないの」って、「捕虜になって帰れるか」って言いましてね、結局残った。で、収容所で、全部治療してもらいましたけど、いや、やっぱり、何ぼ、終戦になってからの捕虜っていっても、「やっぱり、捕虜になってなんて帰らない、一番最後に帰る」って。だから、結局、1年何ぼいましたもんね。21年の10月の末に帰ってきたんですから。でも、みんなよりちょっと1か月ぐらい早く帰ってきたの。

「捕虜になって帰って」、なんて言われたら、本当に、「何か気まずいな」っていう気持ちがありましたね。だから、僕と一緒にいた向こうから、あれ何ていったかな、もう本当にばあさん、もうおっかさんですよ。年が、うんと年とってから、生まれた子なんですね。男の子1人、女のお姉さんが2人と男1人で、そのおばあさん、おっかさん訪ねてきて、「みんな戦死したっていうのに、渡辺さん、なして、どんなことして生きたの、捕虜になったのかい」って言われました。

Q:その日本の軍人の1人として沖縄戦に参加されて、10万人近い沖縄の県民を巻き込んでしまったっていうことに関しては、渡辺さんは、御自身としてどういうふうに思いますか。

本当に、沖縄の当時の住民に対しては、本当に気の毒だ。日本本土でも、結構やられたところはたくさんありますけれども、特に、沖縄なんかの場合は、戦車だとか、なんかにやられて、じゅうりんされて、すっかり焼かれたり、もう本当にひどい目に遭っているわけですからね。もう本土の場合ですと、空襲だけで焼け野原になったりなんか、結局同じですけれども、戦争なんて本当にいいことではないですよね。

Q:渡辺さんは、命を捨てる覚悟で沖縄戦を戦われたと思うんですけれども、その沖縄戦をやった意味っていうのは、どういうふうなことだと思いますか。

沖縄戦を戦ってみてもね、やはり、何もならないことをしたっていうことが、まずあれですよね。本当に、それは一生懸命やりましたよ、やりましたけどね、何もできなかったんですよね。

沖縄だけが、こんなひどい目に遭ったわけではないけども、「負け戦っていうのは、こういうもんだ」っていうことを、つくづく、思い知らされましたね。僕らは勝ち戦なんて知らないから、本当に行って負け戦だけですからね。これは、もう沖縄だけでなくて、どこに行っても、同じだと思うんですけどね。ただ、沖縄の場合は、特に、「日本の土地だった」っていうこと自体が、本当に哀れだったと思うんですよ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄 終わりなき持久戦の結末 ~陸軍第24師団~】

出来事の背景 写真昭和20年3月に始まった沖縄戦、米軍の総兵力は54万。沖縄守備軍は10万人。
そのうち、米軍上陸時に沖縄本島南部の防衛に当たっていたのが陸軍第24師団で、北海道出身の将兵を中心に、一部現地召集された兵士で編成されていた。

24師団は、南下してくる米軍を撃退するため、沖縄守備軍の32軍司令部のある首里の北西に進出、米軍と激戦になった。とくに、隷下の89連隊は西原村の運玉森で激しい戦闘となり、弾薬が尽きると手りゅう弾と銃剣による白兵突撃で次々に兵士の命は失われた。

5月下旬になると、32軍司令部は南部への撤退を決定。しかし、後退する日本軍と避難する住民であふれていた南部へと通じる道に向け、米軍は容赦なく砲爆撃を繰り返し、首里から喜屋武半島に通じる道沿いには死体の山が築かれた。兵士たちは、武器や弾薬を運びながらの撤退で、助けを求める住民を見捨てるしかなかった。

南部へ撤退した将兵たちは、「ガマ」と呼ばれる天然の洞窟にこもって戦い続けた。そこでは、軍民一体となっている洞窟もあり、ときには足手まといとなるなどと、軍が住民を追い出すできごとも起こった。

6月なかば、「馬乗り攻撃」と呼ばれる米軍の洞くつへの掃討戦が始まった。壕に爆弾を投げ入れ、火炎放射を浴びせたのだ。

6月23日、米軍は本島南部を制圧。32軍の幹部たちも次々と自決し、沖縄守備軍は完全に崩壊、組織的な戦闘は終結した。わずかに残った兵士たちに与えられたのは、「最後の一兵に至るまで敵の出血を強要すべし」というもの。投降は厳しく戒められ、自決やさらなる掃討戦で、さらに犠牲者は増えていった。

本土防衛の名の下、沖縄戦で亡くなった日本の軍人・軍属は9万4千人。住民も推定で9万4千人が命を落としたとされる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
北海道月形町に生まれる
1938年
月形尋常小学校卒業
1944年
現役兵として旭川3部隊に入営
 
満州803部隊に配属
 
沖縄に転進、読谷村で陣地構築
1945年
国吉で終戦を迎える 当時、一等兵
1946年
鹿児島にて復員
 
復員後は、運送会社に勤務

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