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タイトルタイトル: 「沖縄・置き去りの負傷兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 陸軍軍医の戦場
名前名前: 大井 正さん(軍医 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年1月23日、1月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 軍医にならざるを得なかった  02:53
[2]2 チャプター2 沖縄 洞窟の野戦病院  06:44
[3]3 チャプター3 置き去りにされた負傷兵  05:56
[4]4 チャプター4 軍医の使命と相いれない命令  04:34
[5]5 チャプター5 戦争神経症  03:32
[6]6 チャプター6 捕虜になる  01:41
[7]7 チャプター7 良い軍医ではなかった・・・  01:30

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] 陸軍軍医の戦場
収録年月日収録年月日: 2011年1月23日、1月24日

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私、あのう、ひとつ、戦争のために医者させられたんですからね。3年、3年3か月しか勉強しとらんです。学校は。あの、途中であの、第1回の卒業で、臨時ですもんね。臨時附属医学部専門部って、大学に。

Q:医師の道っていうのは、なんで志したんですか。

いや、おやじが医者ですけんね、私も医者にならんばいかんと思って。で、そう思って。

Q:それはあれですか、人を助けるとか、どういう理由ですか。

いやあ、そげんなこと考えんですね。まず、医者で、まあ何とかなるじゃろう。やっぱりそう、あの、そう、あれがありましたで、親が医者なら自分も医者にならんばいかん、いかん、いかんというような。

Q:そこでどうして軍医学校へ?

それはあの、軍医、軍医学校はほら、依託支援っていうのが制度あったですね。それ入れば、ほら、金が、あのう、いらんですたい。25円もらう、月に。で、あの、大学のほうは35円までだったかもしれません。10円だと・・・、35円のときもありますが、覚えておらんけどもね、それがもらって。あれは下宿のほうだったかな。下宿代が、あったですが。で、あの、それで、あんまりあのう、親に苦労させんで卒業したですよ。一銭も。

Q:軍医っていうのは、なりたかったんですか。それとも、どう、そうでもなかったんですか。

いや、なりたかったかどうか知らんけど、ならざるを得んじゃなかったんじゃないですかね。ならざるを得ない状態じゃないですか。その大体、そういう日本の状態が。そう・・・です、もう、それはその、ほんと、戦地に行って死ねっていうことですもんね。

で、実際に軍医になってなかったら死んでますね。もう、確実に。それっていうのは、普通の兵隊じゃね、体力は持てんですよ。そう思います。

もう昼間はね、壕(ごう)におらんとね、もう死ぬんですよ。降ってくるから。家の中全部壊していきますもんね。どうにもならんですよ。で、もう何て言うかな、相当、慎重に来たんですよね(米軍は)、沖縄の場合は。

結局、夜中に負傷者を野戦病院につれて行くようなそういうような任務ぐらいなもんで、大したことはしてないんですね。

Q:基本的に昼間は壕にじっとしてるってこと?

うん。それはもう出たらやられるですね。話にならない。一発打てば分かりますね、百発位きますから。

Q:包帯所(戦傷者の治療にあたる所)とかですね、野戦病院とか、そういうのはどういうふうになってたんですか? 洞窟の中にあったんですか?

そうそう。それでね、部隊長がその、部隊長のとこにその、負傷者を置くとあの、戦意に関係してね。「戦意が落ちる」って言われて、みんながね。「出して」って言うんです。持ってくるでしょ。そしたらやっぱりもういっぱいね、あの洞窟に、野戦病院行っても入れてくれんですよ。しかし私らもそいつを置いて帰らんと、昼間は僕らもやられてしまうからですね。できんに、あの「どうしたらいいか?」って言ったら「戸板を持ってこい」って言うんですよ。それでいれさせてね。

Q:負傷兵がいると戦意が下がるってこと? 

そりゃそうでしょう。

Q:そういうもんですか?

そんなもんです。痛がるでしょ? したらやっぱりその兵隊が戦意がね、なくなりますよね。

野戦病院にはね、あの、話ですけどね、あの、手術するでしょ、大概死によるんです。ほんならせんでいいじゃないかと言っても、負傷者がおるでせんにゃならんでしょう。野戦病院では。

Q:亡くなるのが分かってるけども手術をするってことですか?

うんうん、出血なんかの都合か知らんけどね。大概そうすると、やっぱり栄養失調みたいな状態ですもんね、みんながね。で、死んだ。大概。

Q:手術っていうのは、ちょっともう1回、どういうことをしたのか教えてもらっていいですかね。

それはこう外すでしょう。この、外れるでしょう。このこう。ああ、それであの、こう切ってですね、私らもその、あんまその、何もないから、知識もないから、その時分、軍医だったですけどね。1人しました。壕の中で。痛かったでしょうね。麻酔も何もかけんで。大体、局所麻酔でもすればよかったんでしょうけどね。

Q:それは、腕を取っちゃったってことなんですか。

うん、取ったんです。

後で聞いたらですね、その人は死んだって言ってました。他の兵隊の人が。

Q:その方はどういう症状だったんですか?

ワシよう覚えとらんけど、結局ぐちゃっとやられた、だめだからと思ってはずしたと思います。それ1例位。

Q:はずしたっていうのはどういうことですか?

関節から、はずれるでしょ? メスで切ってはずす・・・。

Q:それはあのいわゆるガス壊疽とかで、腐っちゃうっていうことでですか? 取ったってことなんですか?

そうでなく挫滅でダメになっているから。

でね、あのやっぱりその戦争中に、破傷風ね。破傷風になった人もおるですよ。上の顎が動きませんていうて、ひとつでもなんかな(らんか)というても、注射もないし。そういうのありました。

結局死ぬよりしょうがないですね。破傷風っていうのは、治療法はもう静かなとこで置くしかない状態ですもんね。したらそういう状態ないですわね、戦場っていうのはそうなりますよ。

Q:特に治療もできなかったってこと?

もうあの治療できんから、しかたがないからやらないといけん。実際は破傷風ですよ。

Q:そういう患者、負傷兵に対しては何が・・・何もできない?

もう何もできないですほんと。哀れなもんです。夜になったらもう、包帯するときに「お母さん、お母さん」って言って死んでいったですね。みんな、死んでいったです。

私らずっとここに沿うて、こう南下したわけです。

Q:南のほうへ?

(地図を見ながら)南のほうに。これ首里ですね。ここに、ここにあの、あれが、軍司令部のあれがあったんですもんね。

Q:どこまでそれでずっと行くんですか。

ずっと、ここを南。ここまで、ここに描いてある。この辺まで。

Q:摩文仁?

摩文仁。摩文仁はこの辺ですか。ね、この辺まで。で、私は、捕虜になったのはこの辺です。海岸でしたから。

Q:海のもうすぐ近くですか。

うん、近く。はい。いやねえ、ここに何日かおったことあった、この辺に。壕の中に。で、ようここに飛行機がね、来よったですね。何じゃろ、これはと思ったら、なんか司令、司令官の人がおったです、ここに。司令官が。そうやったですよ。ええーと思った。後で聞いたです。で、ここをずっと逃げ切るもんですかね。あれして。で、しかしまあ何ていう方法ないけど。しかし、こっちにおった人は大分やられたですね。し、いちばん偉い人は自殺されたもんね。この辺で。で、そのときはね、大分殺されたですよ。

Q:自然のね、洞窟を転々としてこう、逃げるわけじゃないですか。

そうそう。

Q:したら、重傷の兵士は一緒に連れて行くことっていうのは・・・。

もうできないですね。それでそれとね、もう昼間ほら、行けばいいようなものって、昼間行けないですよ。夜間しか。行けば言うても。そういうのがね、非常に難しいですんで。途中でやられてね。大体もう、あのう、繃帯(所)1人で行くときでも大体、「弾がこの辺来たから大体この辺にいる」っていう判断はつきよったんですよね。それでも、たくさんあるもんだから、パッとそう、真ん中に弾が落ちてくるんですよ。

で、まあ弾で、切られてしまったこともありますけど。そんなことも、たびたびあって、もう、結局、生きとるのは自分1人であって、向こうおらん、おらないです。実際どこに行ったか。そういう状態ですよ。そういうことありましてね。話にならんですよ。

Q:重傷兵に対しては、やっぱ連れていけない人は、どうなっちゃうんですかね。

もうそこでもう、自分で最期を遂げる以外にはないですね。しょうないですよ。ま、あのう、まあ卑怯かもしれんけども、そこずっと自分がそこにおったら、もう自分が死んでしまう。

まあありましたねえ。手りゅう弾で。みな直前居るなって(離れろ)言って、10メートルくらい。

Q:それどういう状態の兵なんですか?

負傷した兵。やっぱり誰も見てくれんでしょ。戦争では勝ったときだったらね、名誉のあれでしょうけどね、戦いのときは・・・負け戦。

Q:その手りゅう弾っていうのは自分で爆発させる? 本人が?

本人が。兵隊が知っとったですからね。私あんま知らんですよ。そういう手りゅう弾を持ったこともないし。

本人の気持ちでしょうね。自決せねば、もうどうもならんっていうのは。そういう人達は非常にあの、支那から来た人で、相当あの戦争に慣れた兵隊もおりましたからね。そういう人だと思うけどね。若い人はどうか・・・。うちの部隊は古い部隊ですよ。支那の奥地では通用してもね、全然関係ないんですね。装備が悪いしね、大体。

もうああいう戦争のときは、どうせならない、ならないんですよ。助けようにも。その、行った人がやられ、やられますから。何しろもう話にならんですよ。戦争自体が。私はね、そういって言うんですよ。赤子の手は(を)ひねるようなもんだ、そこの戦争はって、いつも形容するとですけどね。赤子の手を親が、大人がさ。あれはあの沖縄戦っていうのは。そういうような感じがしましたね。

働けん者はもう、あれするっていうような。悲しい運命ですよ。

Q:それは、具体的にはどういうふうに言われたんですか、それ。

うん? その、働けない者は殺せっていう。注射でもして。で、2人もう・・・しま、しましたけどね、もう3人目はしませんでした。もうこれは命令でもやめようって言った。たら、もう1人の軍医さんもそういうようなこと、私と同じようなことをおっしゃっておられたけど。そういう命令が下ったですね。

Q:その命令聞いたときはどう思ったんですか。

あー、困ったなと思うけ・・・、思ったけど、しかたがないかなと思って。それは思いましたけどね。だれにも教えないんですよ。自分だけ。兵隊にも教えんですよ。ほかの兵隊にもいちいちそういうことは教えませんでしたけど。

Q:したらその、まあ、ひっそりと注射を。

ええ、ええ。で、私はもうほんと、残念に思ってます。

Q:その兵士っていうのは、どう、どんな人だったんですか。

うーん、いう、あ、いま覚えてませんけど、もう戦争できないような状態。負傷して。そんな。

クレゾールだったかな、、消毒液やったっけ、消毒液やった。消毒液ですね、何か5ccぐらい静注(静脈注射)したら、死ぬんですよ。ですから、それだと思います。

Q:それ、でも、あれ、あれですか、そうふう、悩まれたんじゃないですか。医者として、まあ軍医として。

ああ。そりゃそうですよ。しかしまあ、そういう戦場の関係ですから、戦争できない兵隊は、もう。まあ、沖縄では短い期間だったから、そういうのは決して多くはないと思ったけどですね。2か月、4月から6月まで、毎日毎日。それで、やっぱり、上のいちばん年取った軍医は、とうとうあとで変になったですね。戦争精神病っていうですよ。

Q:3人目からはやめたっていうのは何かあったんですか。理由は。

ええ、自分じゃやっぱり良心がとがめてね、人間としての、自分として、そういうのはしちゃいかんって、いくら命令でもと。そしてやめた。しませんでした。

Q:それは命令違反に?

命令違反、もちろん命令違反です。しかし、そう、やっぱりそういうことよりもやっぱり人命が、こういう、人間としてね、すべき行為じゃないと思いました。やめました。

2人、前の2人。そういうことをさ、自分でやっぱりあれしたのは、もうしかたないけど。命令、命令でさ、そうしたけれども、ほんとはしなかったらよかったなと思ってますよ。それは。

Q:戦争神経症の方っていうのは直接ご存じでした?

大井:ええ、ええとね、変なこと言うんですよね。全然。あのう、ありもせんようなことを、

その人は、その人はまあ、まあ、特殊な人だったからね、まあそうなったか知らんけど、やっぱり人によっては、あのう、やっぱりなりますよ。もう、たいがいは・・・でしょう。もう朝起きてもう、そう、今度はトンボっていうのが来て、こう、落ちて、落ちてくるしね。弾がどんどん落ちて来るし。そうするとやっぱり、まあ私はもう頭悪かったからね、そうならなかったけど。やっぱり頭のよか人は、あれ・・・ですよね。じゃないですかね。よう知らんです。まあ、多くはないでしょうけど。

Q:それは、なんか、どういうふうになったんですか。症状は。

あのう、変なことを言うんです。変なことをね。あのう、ありもせんことをね。何て言うかな、えー、そういうことを言うんですよ。いやあ、そうじゃないかなと思うんですよ。

Q:その理由は、どうしてそうなっちゃうんですかね?

それはやっぱりその、そういう死の恐怖とか何とかがへいいするんじゃないですか。戦争で。そのあんときは、あれが。神経が。

Q:死の恐怖ですか?

ええ。死の恐怖。まあいちばん問題はそうした、戦争は死の恐怖。殺し合いですけんね。死の恐怖がいちばん第一でしょう。

Q:そういう兵士はどうなっちゃうんですか? 戦うっていう・・・。

戦えんですねえ。もう恐らく。そういうふうになった人は。もう、まあ交代するか後方にいる、それだけか、それもいかんでしょうし。とても戦えんですよ。もうね、やっぱり、あの、私は思うにね、あのう、こう、傷ついてからね、また戦争に行くというのはね、やっぱりえらいなと思うですよ。普通はもう一遍やられたらね、人間というのはしょぼっとなるはずですよ。もう二度と行きたくない。それが本心だと思いますけどね。だけんね、やっぱりあの、そういうあの、まあ、否応なし、命令で否応なしに行きよって。まあ、軍隊でもそう、否応なしなことが多いんじゃないですか。戦争自体が。普通はね、戦争はそれは行きたくないですよ。しかし、命令というか、国のためとかいうような理屈をつけて行くんであって。普通は、まあ、行きたくないでしょう。私は特に臆病もんですけんね、そういう戦争は行きたくないですよ。

何しろこの辺ですよね。そうはあんまり行っとらんですね。一晩じゅう歩いたけど。

Q:その辺の海岸沿いですね。

海岸沿い。私も聞く以外全然分からんでから、自分は。そこ。

Q:その海岸、海にはもう敵の・・・。

ああ。いっぱい船があってですね、ずうっともう。

Q:そんなにあったんですか。

ええ。ずっとあったです。もうびっくりするですよ。

Q:どのぐらいあったんですか。海に。

分かりませんね。何艘あったか、何百艘かあったでしょうね。

もう正気(まさき)なくて、「内地へ帰ろう」って言って、で、晩にこう、みんな5、6人集めてね、行ったんですよ、私。ずうっと海岸伝いに。そしたら朝になっちまってね。それで、よう見たらね、もう敵地ですよ。それで、とうとうその、海岸に敵がおったと聞いて、ああ、よかったと思ったら、何の、すぐ脇からぱっと来て、で、「出てこい」と言われてね、で、逃げようと思って、海へ行っても、ほら、あれでしょう。それでもう諦めました。そしたらみんな、わしと一緒で、連中はまあ抵抗せんでね、みんな捕虜になってくれたですよ。

私はそういう経済的な面でも、軍医になってよかったと思いますよ。親の助けになりましたよ。しかし、よか軍医ではなかったね。確かね。今、あなたお聞きになるように。うん。しかたなかったな。

Q:どうして良い軍医じゃなかったんですか。

いやあ、その、ほんとの、軍医としての本領を発揮してないですもんね。発揮していなかったんですね。この、まあ戦争の状態で、と思います。で、もう少し勝ち戦だったら、もっと、立派でもないかもしれんけど、そういうあれを、仕事をできたと思いますけどね。もう、負け戦はだめです。絶対いかんです。どんな滅んでも、負け戦はいかん。

出来事の背景出来事の背景

【陸軍軍医の戦場】

出来事の背景 写真日本軍の医師として前線に赴き、傷病兵の応急処置や緊急手術を担った軍医たち。
太平洋戦争中、一個師団およそ1万の兵力に対し30人ほどが配属された。

軍医は最前線の戦場や後方の病院で任務についた。負傷した兵士に対し、まず前線で応急処置を行い、さらに治療が必要な場合は施設が整った病院へと後送する。「前線の兵力の強化」のため、傷病兵の治療は短時間に行い一刻も早く原隊復帰させることが軍医たちに求められた。

政府と軍は一体となって軍医の大量養成計画を推し進めた。軍医の存在が重要視されるきっかけは、昭和14年、ソ連軍との戦闘で2万人近い死傷者を出したノモンハン事件だった。国は将来のソ連との戦いを想定し軍医の需要の激増を予測。「総力戦に応えるべき医師の急速増加養成」のために、従来の大学の医学部などとは別枠で医師免許を得られる、臨時医学専門部を設置していった。

その後、太平洋戦争が開戦。さらに多数の軍医を早急に養成することが必要になり、多くが経験不足のまま過酷な前線に送り込まれていった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
長崎県西彼杵郡(現・長崎市)に生まれる
1939年
長崎医科大学(現・長崎大学)臨時附属医学専門部に入学。在学中より陸軍軍医依託生となる
1942年
陸軍軍医学校入校
1943年
同校卒業後、第62師団独立歩兵第11大隊に配属。中国・山西省へ
1945年
沖縄へ転戦、同地で終戦を迎える
1946年
復員後は勤務医を経て開業医

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