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タイトルタイトル: 「洞窟で死んだ弟」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 楽園の島は地獄になった ~テニアン島~
名前名前: 森山 紹一さん(テニアンの戦い 戦地戦地: テニアン島  収録年月日収録年月日: 2009年5月31日

チャプター

[1]1 チャプター1 あこがれの南洋  06:17
[2]2 チャプター2 南洋での製糖事業  05:28
[3]3 チャプター3 専修学校へ  04:47
[4]4 チャプター4 突然の空襲  05:03
[5]5 チャプター5 機銃掃射  04:20
[6]6 チャプター6 米軍上陸  03:26
[7]7 チャプター7 窒息死した弟  04:08
[8]8 チャプター8 追い詰められた住民  04:17
[9]9 チャプター9 投降  06:09
[10]10 チャプター10 灰になった理想郷  06:13

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 楽園の島は地獄になった ~テニアン島~
収録年月日収録年月日: 2009年5月31日

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僕は、名古屋で生まれたんです。大正13年。で、あそこで、小学校1年まで名古屋で育って。昭和7年だったかね、1年生の半ばごろに、沖縄のほうへ。おばあちゃんか、おじいちゃんが亡くなって、1年忌ぐらいだったから、いったん帰ろう、ということで。おやじもちょうど、仕事がなくなっちゃってね、それで、帰ろうと、帰ってきたんですよ。
ところが、沖縄に来ても、うちはないし、土地はないし。おやじは独り者で、非常に貧乏をして、金のため、借金のカタのために、奉公しておった。10年間という、ひとつのあれでね。そうしておったら、自分の青春もなくなるでしょう。だから、どうしても、出稼ぎに出ようと、名古屋へ行ったんだろうと、そう聞きましたけれどもね。

それで、こうして、我々ができたんですが、沖縄に来ても、そういう状態だから、貧しいし、仕事はあまりないしね。そのころ、すでに5名、6名ですか、できているわけですから、これじゃいかん、ということで、当時、南洋への渡航が、ぼちぼちと、出ているころですから、おやじもつてをたよって、サイパンに行ったわけです。それで、呼び出されたわけ。呼び出しという形で、おやじが先に行って、1か年間、金をつくったら来いと、いうことで、わたしとおふくろ、弟たち、妹たち、一緒に残って、10年か、11年でしたかね、南洋に行ったんですよ。

これは、そういう生活の貧しさから。向こうは、サトウキビ栽培が中心ですが、製糖工場を主体にしてやっているわけですから、非常に、稼いではサイパンというのは、非常に、いいところだということで、おやじもそこに目を付けて、つてを頼って、行ったわけです。


Q:それは同じ沖縄でも、難しかったんですか、当時は? テニアンのほうが?

 それは、はるかに、向こうはいいですよ。もう、当時、我々が沖縄におるときは、米の飯というのは、ないですよ。芋、さつまいも。年に盆、正月ぐらいでしょう、米の飯を食べたのは。それほど、貧しかった。だから南洋へ、おやじは結構、あんなんしとっても、情報は入れて、先へ、先へ、進んだと思いますが、南洋へ行って、これはすばらしいところだということで。

また、連れていってくれた人が、同じ同郷の方なんですよ。実は、おやじは知念村(沖縄本島南部、現在の南城市)というところで、ほとんど、生まれて育ってきた。その同郷の人が、サイパンにおったわけ。その人が、毎年、1回か、2回、やっぱり、人を集めに来るんですよ。それが、南洋ではそのころは、人手が足りないころですから、定期的にそうした募集を、しておったんですね。

僕らは子どもながらに、南洋というものは、あこがれていましたよ。小学校の読本にちょこっと、ありましたからね、当時の。常夏の島、南洋で、ヤシの木があって、島民が腰みのひとつで、やっているような、絵がありまして、いいところだねと、思っていましたからね。


Q:どうでした? 一番初めに、このテニアンに降り立った瞬間というのは?

 ううん、あの感激は、もうそれはそれ、忘れちゃったけどもね。ぼくはずうっと、あの、船のデッキで、まだかまだかってね、こう、乗っていましたがね。サイパンが見えたときは、本当ねえ、ああ、これが南洋かあっていうようなねえ。それとヤシが、サイパンは結構、ヤシがありましたからね。ああ、本当に絵のような、島だね、と。もう、少年のようなねえ、すごい感激だったと、思いますね。

テニアンはね、降りたとたんに、「ああ、ここか」と。確かに、サトウキビがいっぱいで、町らしいのは、ちょっとしかないんですよ。テニアン町というのが。サイパンに比べたら、全然、違うんですが、そこへ降りて、迎えに来たのが今の小作人の、新里さんという人でしたがね。乗り物がないから、カレータ、カレータという、牛が引っ張る車で来たわけです。荷物があるわけだから、それに載っけて。

子どもたちは、カレータに乗せて、大人は歩いて着きましたが、本当にキビ畑の真ん中ですよ。

それで、周囲にはいろいろと、パパイヤとか、バナナとか、いろいろあるわけね、独特の熱帯植物が。それは、沖縄の貧しい生活からみると、何となく、パーッと開けたところへ来たような、感じがして。空気もいいしね。そのときは非常に、うれしい感じでしたがね。

最初は、福島、山形、あの付近から、来たんです。ところが、やっぱり、そういう熱帯地で開墾するために、沖縄の人が適しているというのは、社長はよく知っているわけですよ。台湾製糖も、沖縄にちょっと、寄ったようですからね。沖縄県人は結構、あちこちで、そのころはサイパンでも、動いていたわけだから、県人が移民という形で、結構、入ってきたわけね。

当初は、入ってくれば、土地はただで与える。うち(家)も必要な分は、ある程度、供給してやろう、ということで。最初は、開拓人だけは、ちょっと自分で、小屋をつくって、大変、苦労されたようですがね。でも、5町歩、6町歩の畑をただでもらって、自分でサトウキビをつくって、売るわけですから。その間の生活は、一切、出してくれるわけですから、必要な物資、食べる物、着ける物。そういう生活ですから、皆さん、一生懸命になって、やりましたよ。

町はですね、やっぱ、テニアンの港の近くに、これだけの製糖工場ができて、会社の砂糖なんかもあるわけですから、必然的に、商業というのは、できるわけですよ。沖縄の人も、内地から来られた方も、食料品を売ったり、衣料を売ったり、料亭、飲み屋、カフェ、そういうものを形成して、町ができているわけです。会社としては、今度はそういう物品の供給に一番、大事なあれですから、酒保(しゅほ)というもの。南洋興発はどこへ行っても、酒保というものがあるんですよ、会社の一部として、物品を供給する。その酒保ですべてを、食べ物、飲み物、衣類、何でもありました。それを、通い帳という、通帳で掛けで、売ってくれるわけですよ。

その通帳に買った分だけ、記録していって、その分を買えるわけですよ。1か月間の生活に、必要な分を出してくれるわけ。だから、現金がなくても、生活ができるわけですよ。

ああいうところでは、仕事は待っているわけですから、使う人がすべてを、供給しないと、人間の手は集まりませんよね。そういう人たちを、十分に、働かせるようなシステムとして、まず、物を与えるということです。それを、ひとつの限度額をつくって、通い帳にして、通帳ですよね、掛売帳みたいなものですよ、それで、物を供給しておったわけ。だから、どんな貧乏な人が行っても、すぐに、向こう行ったら、米でもみそでも、そうめんでも、買って、生活できるわけです。

向こうに行ったら、お米もあるし、そうめんもあるし、みそ、しょうゆ、本当に、極楽という感じでしたよ。「南洋とは、いいところだなあ」と、子どもながらに。毎日、好きなそうめんが、食べられるしね。本当にいいところだと思いましたよ。


Q:さっき、町にはカフェがあったり、屋台があったりと、やっぱり遊びに行かれた思い出というのはあるんですか?

 それは、学校にわたしが、小学校を卒業して、就職して、そういう、社会という人たちとの交わりができる、お酒もちょっと、飲むような年ごろになったときに、こういう、遊楽街があるんだな、ということは、連れていかれて、分かりましたけれども。特に、学校生活に入ったころは、ちょうど、青年期ですよね。17~18~19ですから、そのころは若いですから、飲みたいものを飲むし、時々出ていって、やっちゃいかんことを、飲んじゃいかんことを、飲んだりしてやったことも、ありますが。でも、そうしたお店には入らなかったね、カフェとか、女性がいるようなところには、入ったことがないです。


Q:映画館とかにも遊びに行ったんですか?

 映画館もありましたしね。立派な映画館があって、それは、よく行きました。当時のはやりの、よく覚えているのは「愛染かつら」ですよね。あれに関連した映画が出ると、もう必ず、行きました。それと、沖縄芝居があってね。芝居小屋もちゃんとした「球陽座」という、沖縄芝居小屋がありまして、沖縄の人はそういうところへ、よく行きました。僕ら若いのは、ほとんど、映画館でしたね。

わたしは学校を卒業して、一番最初に入ったのが、その酒保というところです。

チューロという、ちょっと大きいところに、支店がありましたので、そこに、今度は正式に採用されて、支店の係員として。それが、あの写真ですがね。自転車であそこへ通ってね。そのころは13で、卒業でしょう。14、15、16までは酒保ですから。

当時、その専修学校というのができて、間もなかったですね。「そこに入ったほうが、いいんだがね」と。「ここは、本当に、南洋興発に勤めている、子弟の子どもたちを育成して、会社の中堅社員にしようと、いうことで、できた学校ですから、そこへ入りなさい」と。

南洋興発の付属、専修学校ですから、南洋興発の子弟だったら、どこからでも、入れるわけです。それはテニアンだけではなくて、サイパンからも、ロタからも、パラオからも、来ましたからね。我々も、地元テニアンですから、結構テニアンから、採用された人は多いです。

勉強は、要するに、製糖工場の、南洋興発の要するに、会社の中堅社員として必要な、基礎的な勉強です。普通の中学校、工業学校みたいなものですね。だから、物理化学はもちろんですが、製糖工学とか、機械工学とか、英語、そういうものが全部、ひと通り、入っているわけです。基礎的なものだけ。

南洋興発は大南洋開拓という、ひとつの大きな、計画がありましたから、当時から、すでに、我々の先輩1期生は、ボルネオ、ニューギニア、あそこまで、行っているんですから。我々も、あそこへ行くんだ、という気概を持っていましたよ。だから、そうした予備知識も時々、合間、合間に、教えよったんです。ニューギニア開拓、非常にいい夢を見ていましたよ。

僕らが入って、2年のときから、そういう軍事色が、豊かになって、我々の行動はすべて、ラッパ。ラッパでやるようになったんですよ。僕は、初代のラッパ手に、なったわけ。ちょっと、やっていたから、「よし、おまえやれ」といって、それで僕が、ラッパをやったんですよ。そうしたら、気管支を壊しちゃって。本当に病人に、なっちゃって、人、一倍、ちょっと、そういう点では、苦労させられました。

行軍もやりましたよ。軍事教練もやりました。本当に、鉄砲を担いでリュックを背負って、テニアン島をぐるっと回ってくるんですよ。4キロ行軍で、速いですからね。それも、夜中にたたき起こして「これからだ」といって、やってみたり、非常呼集をかけて。夜中に寝ているときに、非常呼集って、ラッパが鳴るんですよ。こちらが、バー、鳴らすんです。ダッダッダーとやるわけですよ。

やっぱり、そういう学校に入れば、皆さん体を鍛えてね、おれは下士官になるんだと、最初から、そういう意気込みでやっているから、みんなよくやりましたよ。だから、我々の場合には、もう戦争が始まって、目前に来ているから、僕らが卒業のころには、すでに、学校の中で受けた教練、それから学科とか、そういうものがあるわけです、成績表が。卒業したら、すぐに、どこどこと、希望によって、海軍か、陸軍か、配属が決まっていた。僕も海軍の機関兵として、配置先が、決まっていましたよ。上陸がなかったら、もう兵隊になっていますよ。軍人になっていますよ。

卒業した後、僕らはすぐ、職場に配置されますからね。

僕は本当は、酒保から来たんだから、酒保に行きたいな、という気があったけれども、何かね、勉強しているうちにボイラーというものが、好きになってね。そのボイラーと関連して、蒸気タービンで、蒸気を起こして、タービンを回して、発電するでしょう。そういうのから、関連が出てきて、電気部に配置されたわけですよ。

最初の空襲は、わたしはちょうど、電気部ですから、電気部ですが、電気と、電話が、ひとつですよね。で、今、各飛行場とか、各地域、地域の電話配線を、電柱を立てて、一生懸命にやっているころですよ。そこは、手が足りないものだから、応援に行かされておったのです。どこだったかね。電柱に、登るころだったと思うけれども、サイレンは聞こえましたよ。「空襲だ」というわけで。登らないで、降りて、避難しておったら、テニアンの町が、バリバリッと、やられたわけ。

工場を、つぶされたわけですから、もう工場、機能はできませんのでね。すべてが戦争に向けて、飛行場づくり。アメリカに迎え撃つという、体制にがあっと、変わったわけですよ。

工場がやられちゃったから、キビをつくってきて、砂糖をつくれないでしょう。作った砂糖は燃やされちゃって、爆弾でやられて、2~3日燃えていますからね。だから、その中からとにかく、これから、これを復活しようと思ってもすぐに、できるものじゃない。戦争が終わらなければ、だめですよ。戦争を遂行することに、会社、全体がなったわけですよ。

僕らは僕らで、おのおのの職場で、こういうことをしなさいと、農場とか、そういうところは全部、飛行場づくりに動員されたわけ。それでも、手が足りなくて、小学校の生徒まで、全部、飛行場づくりに、行ったんですからね。その飛行場というものは、今のハゴイの飛行場は、これは今、先ほど、申し上げたように、北海道から囚人が、何千名か、来て、もう出来上がっちゃって。その飛行場が、次はアメリカの手に入って、原子爆弾を積むような、飛行場になったんですが、それ以外にも、第1、第2、第3という、飛行場をつくっておったんですよ。テニアン島は、飛行場が、3つか、つくるように、なっておったんですね。

不思議にね、皆さんにそう言われると、何で僕は、そういう反発がないんかねと、思うくらい不思議なんだけれども、いったん、空襲を受けて、軍事体制に入ったときから、全体がこれはいかんと。もう平和的な考えは、なくなってきたわけですよ。キビもつくれないわけで。だから早く、飛行場をつくり上げて、そして鬼畜米英を、追っ払おうというように、全体が挙国一致で、国民全体がみんな、そういうふうに、なってるわけですから、僕らとしても、当時の楽しかったことなんて、よみがえってこないですよ。あのころは。

しかも、そういう中堅幹部として、一応は教育を受けて、社会に出た以上は、そういう中で、自分たちは動かなければならないでしょう。むしろ、自分たち自体も、何か責任を持った、仕事をしてやらなければならん、という気概しかなかったですからね。本当、人間って、そんなになるのかねと、思うくらい。

サイパンが、どんどん攻められて、同時に、テニアンも時々やられて。そのころから、もう、すべてを放棄して、逃げなさいという、本当に何とかして、生き延びなければならない、という気でいっぱいでしたから、初めて、恐怖感というものが、出てきましたね。

テニアンもそのころ、それは僕は、見なかったんだけれども、見た連中から、話を聞いたら、テニアンの沖に、ずっと軍艦が来るわけですよ。すると、日本の砲台が、あちこちに据えられているわけです。テニアン町の周囲に何台かね、3台、4台ぐらいあったかね。相当、苦労して、山のふもとに、つけたわけですね。それで発砲したんですよ、軍艦に向かって。そうしたら、もう100発ぐらい、返ったんじゃない。いっぺんに吹っ飛んで、そこらが真っ白になった、その山は。全滅ですよ。それで、次のところを、もう1個所も、やったけれども、これも全滅になって、あとは、火を噴かなかったですよ。抵抗、できないです。

まだ明るい、夕方、動いていたら、アメリカのグラマンにやられてね。見つかっちゃって、機銃で追われました。それだけは、ずっと記憶にあるんですが。1回じゃないですよ。行って、来て、また行ってね。キビ畑の低いキビの間を走って逃げるところを、見つかって、機銃でバリバリ、バリバリって、こう、やられましたがね。よく、当たらずに逃げたなと思うけれど、それで、ほっとして見たら、また帰ってくるんですよ。「いや、もう今度はだめだ」と思って、キビの下に伏せてね。人間の高さしか、ないんですよ、キビが。隠れたって、上から丸見えですよね。でも、そういうところに、へばりついて、それで、わあっと行ったから、今度こそと、いって逃げながら、ちょうど、先のほうに、小作人の屋敷の跡に、ちょっとした、コンクリの塀があったんですよ。これは牛舎かな、堆肥小屋か、牛舎の壁だったと思うんですが、コンクリ壁が、見えたものだから、「あそこだ。あそこへ逃げれば助かる」と思って、急いで逃げて、その壁に入って、助かったんですよ。来ましたよ、まだ。バリバリって来たものだから、その塀に入ったら、壁にババーッと撃ち込んで、また、行きよったんです。そうすると、今度、向こうからまた、来るんですよ。こっちの反対側に入って、助かって。だから、1回、2回、3回、4回。あとは帰りましたけどね。はたっと座り込んでね。座り込んで、アメリカって、本当にむちゃだなと、日本だったら、こんな弾、もったいないですよね。

こんな人間、1人を狙って、飛行機がバリバリ、バリバリ、弾を撃っている。こんな無駄な弾が、アメリカというのはあるのかね、という。これだけ持っている、物量に対して、日本はとてもじゃないけど、一発、一発の弾を、大事にして、撃て、というような、当時は、そういうことでしたからね。我々は、持っているすべての金属を全部、没収されたんだから、そういうものに使うといってね。そういう、戦時体制の中で、実際の戦争の中で、こんなにやっている、アメちゃんの、アメリカ兵の、戦争の仕方を見たら、とてもじゃないけど、日本軍の及ぶところじゃないな、という気はしましたし。それから、長距離砲を、どんどん撃ってきて、瞬間的にたくさんの人間が死んでいく、あの状態を見たときにね、「いや、これはもう、この戦争は、確かに、もうだめだな、負けだな」という気はしましたね。

もう、敵兵が上陸すると、「おまえたちは、家族を持っている人は、家族と一緒に、早く、避難しなさい」といって。わたしは上司から、そう言われて、「おまえ、いいから、家族と一緒に、避難しなさい」と言われて、僕らも出てきたわけです。

とにかく、安全なそういう、自然洞窟を探して、転々と、逃げたわけですがね。そういう安全な、洞窟があるということも、全然、知らなかったですよ。「とにかく山を上がれば、何とか、逃げるところがあるだろう」ぐらいで。みんなぞろぞろ、ついていっただけで。さらにこの戦争で、ああいうサンゴ礁の島には、もう穴だらけ、海岸づたいは全部。

僕らはまた、そのカロリナスの上の台上に上がって、そこに、自然壕があるんですよ、大きな壕が。そこに入ったんですよ。ところが、そこにはもう、軍隊が半分以上、おりまして、民間は出て行けと、言うんですよ。「ここは負傷兵の救護に使うから、民間の人は出ていきなさい」って。自然の非常に、大きい壕ですよ。みんな追い出されてね。そこからまた、その上を登って、カロリナスの今いう、現在の、最後になった、崖っぷちのところへ、逃げたんです。そこは、石段から、いったん下がって、中段がありまして、その次が、絶壁、海なんですが、その中段は結構、自然洞窟というか、岩の間とか、そういうところが、多いものですから、ほとんど、そういうところへ、全部、入り込んだんです。我々もそこへ入ったわけです。そして、そこで、一晩は過ごしましたかな。翌日からですよ、今の長距離砲が、うなり出したのは。

片隅から、碁盤打ちにトントン、トントンと、こうして。だから、逃げるところがないのよ。そこに、大きな洞窟があった人が、生きているわけ。だから、表面におった、木陰だとか、岩の陰におったやつは、大概、やられているんですよ。それが、こっちのほうから、来ますからね、僕らはこっちのカロリナス、こっちにおったのですが、ここにおった人は、大体が被害者、多いですね。我々が「ああ、来たぞ」と、音がする。ドンという、太鼓を打ったような、音がすると、そばでグアーンと、音が出るんですよ、落ちた音がね。長距離、砲弾が落ちた、グアーンという音が。撃つときは、ドンと太鼓を打ったような音がする。ドン、パン、ドン、パンと、だんだん、近づいてくるわけです、音が。「ああ、うちのほうも危ない。早いとこ入れ」と。深い自然の、洞窟の中に入って、何とかかんとか、生き延びてきているわけですが、そういうところへ、入れない連中は、ほとんど、やられました。その惨劇が、2日、続いたんじゃないですかね。

ちょっとした、すき間があると、そこへみんな、潜り込んでいくわけですよ。僕らも、そういうふうにして、わずか家族7~8名入るのが、精いっぱいなところに、潜っておったんです。でも、わたしと、2人か3人、ちょっと岩陰で座っているところを、ドカンとやられたんですよ。僕は顔、全体、破片が岩に当たって、その石の、石粉が、散りますよね。それで、顔を全部、やられましたよ。バチャッと、やられてね。瞬間、「ああ、やられた」と言って、ちょっとうつ伏せして、おったんですがね。顔をさわったら、全部、血ですよ。「ああ、おれ、やられたな」なんていう、意識を持っていましたから。

それで、周囲を見たら、あっちでも、こっちでも、死体だらけでしょう。末の弟がわあ、わあ、泣くものですから、赤ちゃんですから。見たら、やっぱり、爆風で鼓膜をやられてね。それで非常に、泣き叫んでおるところを、友軍の兵隊が「黙らせい!」と来るわけ。

おふくろは、黙っておったけど、「できなかったら、出してこい。おれが殺してやる」なんて、そういう言葉が出たもんですから、ああ、これはいかんと思って「お母さん、黙らせて」って。だから、僕は叫んだんですよ。銃剣持って、立っているんですから。やっぱり、そんなのを見ると、こっちも恐怖感が出て、やるかもしらんな、ということがあったから、一応「黙らせい」と。死に至るとは、僕も思っていなかったですよ、最初は。兵隊が行くまで、黙っていればいいかなと、思っておったけども、やっぱり、大人の手で、こう、ふさぐと、鼻まで、いったんでしょうね。だから、窒息死していました。

だからまあ、そのときはもう、恐怖感だけで、そういう行動をとったわけですが、考えてみると、本当に、そんなことで、弾が落ちるわけじゃない、泣いても、何でもね。でも、そういう子どもたちを、泣く子どもたちを、殺した兵隊もおるわけ。だから、そういう状態が、あちこち、起きているわけですからね。

まあ、だから、弟が窒息死して、おふくろが、うわあって泣き出してね。もう、何とも言えない、心境だったけど、亡くなったものは、しようがないですから。岩陰のちょうど、やわらかいところへ、穴を掘って、埋めましてね。それから、数時間して、上へ、上がったんですがね。僕は、その遺体を取りに、行きましたよ。いったん、キャンプに入ってから、弟を探しに行きまして、遺骨だけ、持って帰って、きましたけどね。わたしは結構、そういうところまで、足を踏み入れて、できたけれども、やっていない人も、たくさんいますよ。もう亡くなったら、その場でね。その場で、簡単に埋めて、そのまま。

兵隊さんから、聞きましたがね、「サイパンは完全に、陥落した。この戦争は、もう勝てない。だから、民間は早く、出ていきなさい」と。そういう兵隊も、おったんです。僕らはそういう人と会って、出てきたんだけれども、また反対の人も、おるわけ。「出たら、結局は、恥をかくだけ。絶対に出ちゃいかん。自決しなさい」と。手りゅう弾で、自決する人も、あちこちに出てくるしね。

手りゅう弾は、それは避難するときに、みんな違った、僕らは、兵隊から、もらったつもりですよ。もらったっていうより、自分で求めて、もらったかもしれない。死ぬためにね。死ぬため、そのときは。最初、逃げるときはね。恥をかいちゃいかん、ということで、エダ班が配っている人たちも、おったけれども、僕はそれをわたしにも、くださいと、もらったような気がするんですよ。だけど、そういう、状況の変化を見ながら、ああ、これは持っていちゃいかん、と言って、僕は置いてきましたから。2つ持っていました。

僕は絶対、自分で死のうという気は、なかったです。だから、手りゅう弾を持っていたって、捨てましたよ。こんなもの持って、自分でみずから、命を絶つことないと。相手にやられたら、仕方がない。だけど、みずから、家族を殺して死ぬということは。どこまでも、生きられるだけ、生きてみようという気がありましたから。おふくろはいっとき、そういうことを、言いました。「もう、だめだから、兄ちゃん、手りゅう弾あけろ」と言ったけれど、「いやいや、まだ早い。生きるだけ、生きていこう」といって逃げてきたわけですからね。

でも、この砲弾が来てからは、自決は、なかったんじゃないかね。ほとんど、この砲弾でやられていますよ。僕のうちの家族もそれで、バーッと、爆風と、破片で一部やられて、隣近所はほとんど、亡くなっていますからね。そういう人が結構おるんです。

わたしは、そのやられた日、第1回の砲弾を受けた、翌日、食料探しに、水探しに、出たんです。本当に、この死体、地獄ですよね。破片でやられる人、特に、僕が見たのは、自分の先輩でしたけれども、後から、分かったんだけど、そのときは、分からないですがね。人間の胴体が、すぽんと真ん中から切れて、木のまたに、上半身がぶら下がっているんですから。ずぱっと、切られて。血も出ませんよ、あれ。出ていないです、血が。もう凝結したのか、どうかしらんけれどもね。そういうのを見たときには、ぞっとしましたが、後から聞いたら、自分の先輩だった。一緒におった、先輩は生きているんですよ。彼から聞いて、びっくりしましてね。そうかと思うと、大木が倒れて、押されて「助けてくれ」という人がおるし。一晩じゅう、そういうので、息絶えた人もおるしね。

本当に、僕は1回、水を探しに行って、それから、出なかったです。見るたびに、本当、足が震えますよ。自然にね。だから、こんなものを、見るためにじゃないけれども、水を求めて出たんだけれども、もう、出ないといって。


「出てこい、出てこい」と。「今、ここから何時間、大砲も、何も、撃たないから、民間の人は全部、出てきなさい」という放送が、ありましたのでね。そのときに家族、全部、出したんです。

わたしは一緒に、出る予定だったけれども、弟1人、軍属で、一緒になったんだけれども、僕は追い返したんですよ。一緒に避難しようと、おふくろは言ったけれども、まだ軍からもらった銃を、鉄砲を担いできているから、いかんと。天皇陛下から、預かった銃を持って、家族と一緒になるなんて、ちゃんと返してから、来なさいと。そうしたら、一緒に避難しようと。ということで、そのまま、別れたきりなんです。亡くなったんですがね。どこで、亡くなったか、分からんけれども、その弟をわたしは、探して、一緒に出てくるからと言って。両親、家族、全部、出て、そのとき、かなりの人が、出ましたよ。

わたしはそこから、弟を捜して、出ようという矢先に、当時の在郷軍人の分会長だった人だけれども、その人と、副分会長が、ここを貫通されて、機銃で、貫通されて、歩けないんですよ。担いで出てくるところに、出くわしたんです。ちょっと、顔を知っていましたから、一緒に担いで、出てくれというわけです。僕はとんでもないと。要するに、あの人は、在郷軍人分会と軍人上がりでしょう。軍人たるものが、恥をしのんで、出てくるなんて、何事かと言って。若さの至りだね、食ってかかったわけですよ。言うて、口論しているところへ、海軍の兵曹、とにかく下士官ですよ。将校ではないですね、下士官ですがね、お二人来られて、出くわしたんですよ。口論しているところへ、出くわして、「ちょっと、いいですか」といって、入ってきて。僕は国のため、どうのこうの、言っていましたから、「君のそういう気持ちは、分るけれども、今、ここで死んでも、犬死にだよ。わたしは軍人だから、死にたくなくても、死ななきゃならない。君たちは、民間なんだから、こういうところで、命を落とさずに、これからの日本を、君たちがしょって、立つんだよ。君たちまで死んだら、この日本はどうなるの。一緒に、出ていきなさい」と説教されたのよ。それで、いや、わたしはこうして、弟をこう、自分で追いやったんだから「弟を探さないと、出ていかれない」「こんな中で、探せるものじゃない。おれが探してやる」と。それで、どういう子で、どうなんだといって、全部、聞いて「わたしが探して出してあげるから、君は、この負傷者を、一緒に手伝って、上がりなさい」と言われてね、それで、上がってきたんですよ。それがなかったら、わたしは逃げ惑って、死んでおったかもしれないなと、思うんですがね。

弟はですね、少年整備兵という、要するに、航空兵じゃなくて、少年整備兵という、訓練をするところがサイパンにあったんですよ。米沢部隊といって、そういう、若い連中を訓練する。そこに試験を受けて、入隊したんです。そこで訓練されて、今度は、ハゴイの飛行場に、赴任してきたわけです。だから、テニアンで一緒に、会えたわけですよ。それが、入隊してから、初めて会ったわけですからね、避難中に。おふくろとしては、もう手放したくないわけね。一緒に逃げようといって。それを、僕は止めたんです。「だめだ」といって。「日本の軍属でも、兵隊でも、みんな同じ。我々民間であっても、国家から、天皇陛下から預かった鉄砲を、持って逃げるなんていうのは、卑怯だ。ちゃんと返してきなさい。そして、もういいよ、というときに一緒になるから、返してこい」と追っ払った。それっきりですからね。

だから、おふくろは非常に悔やんでね。ずっと、上がってきても怒られましたよ。「おまえは、あほだ」って。「そんなことをしなかったら、生きているよ」と言って。だから、弟がそんな状態で、結局は死んだわけですから、わたしは戦後の慰霊団には、ずっと、参加しているわけです。

今までの、若いときに抱いた夢が、全部、なくなったということと、それから、あれだけの理想郷が、一遍に、灰になっちゃったでしょう。それは本当に、何ともいえない悔しさがありますね。だから、捕まって帰るときに、帰らんと。残って、もう一回、あれをつくりたいという気持ちで、僕は残留組として、残ったんですよ。だけどこれは、人間が足らないから、強制送還で帰ってきましたけれどもね。

その思いは、みんな同じような思いだと、思いますよ。結局、あのすばらしいテニアンが、一部、写真がありますけれども、あれよりもっと、すごい町になっていましたよ。だから、やられる寸前に撮った写真が、ないんですよ、どこにも。今、残っている分で、ああいう記録を出していますが、もっとすばらしい町になっておった。そういうものが、戦争で一遍に、なくなっちゃうわけですから。本当に二度と、こんな戦争しちゃいかんということを、思いますよ。本当に、思い出せば、出すほど、同僚の顔が出て、わたしは今度の慰霊祭で、亡くなった同僚の全部、写真をはって弔辞を読んだけれども、やっぱりぐっと、きましたね。

みずから、生きることも、自分で選択したことではあるけども、でも、それもかなわない人が、みんなおったわけだ。亡くなった人がね。死にたいと思って、死んだやつはいないと思いますよ。だから、戦争というのはそういう人間の自由というのが、何もありませんよね。破壊だけですからね。すべてが命でも、物でも、すべて破壊するだけですから。こういうことをやっている人たちの気が、分からんわけだ。

だから、わたしたちは思いますよ。日本の国がもう、二度と戦争をしないという、宣言をして、今日まで、60年、平和に保ってきた、今の日本国というのは、すばらしいと思いますよ。

今の若い人たちが、戦争の怖さというのを、ただ絵で、見ているだけであって、絵で、見れるものじゃ、ないんですよね、本当の戦争の、あのむごさは。やっぱり、体験した人しか、感じ取れない。そういうことをやっぱり、早く伝えておかなければいかんなと、僕はつくづく、この1~2年そう思います。子どもらに、早く教えてやらんといかんと。聞く姿勢があるかどうか、ということが問題ですがね。だから、本当は、連れていきたいわけですよ。現地に連れていってやれば、感じが変わるわけです。おととし、僕は、娘を連れていきましたよ、テニアンに。全然、変わりましたよ。ああ、こんなところで、こうだったのと、言って。

おふくろが、かわいそうでしたよ。「この子を殺して、わたしも一緒に死ねばよかったのに」って言うようなね。それはそうですよね。自分の手で。だから、一生、生きている間、つらかったと思いますよ。でも、遺骨を拾って、持ってきたから、ひとつの供養はできたと思いますがね。

おふくろは、だから51で早く、亡くなりましたが、生きている間、ずっと言っていましたよ。弟は生きていると、テニアンで。

ほんとにね、もう。だから、わたしはこの慰霊の旅は、絶対に生きている限り、やらなきゃならないと思って、今でもやっているんですがね。

やっぱ今度、行ったときも、やっぱり、寂しくなりますね。どうしても弟のあれが、出てくるんですよね、当時の面影が。こんな姿で、一生を終わったのかなと、思うと、2人の弟に、申しわけないと、いうことと、おふくろに対して、申しわけない、という気が込み上げてきますよ。それだけに、生きているわたしたちが、何かそれに、報いるだけのことをしなきゃならないなと、亡くなった人のためにも、また、亡くなった、両親の苦労にも、報いるだけのことをやっぱり、やらなきゃならんなという気は、ずっと、持っています。それを自分の人生に、全部、打ち込んでいこうという気持ちで、何とか生きていますがね。 

出来事の背景出来事の背景

【楽園の島は地獄になった ~テニアン島~】

出来事の背景 写真日本から南へ2500キロ、太平洋の真ん中に浮かぶマリアナ諸島のテニアン島。
サイパン島のすぐそばに浮かぶ周囲50キロほどの小さな島である。
第一次世界大戦の戦勝国となった日本の委任統治領で、戦前は砂糖の生産で栄えた。
この島でサトウキビの栽培や精製にあたったのは、東北地方や沖縄からの移民してきた人々で、国策会社「南洋興発」が移住の費用を立て替えるなどして、こうした労働力を集めていた。
太平洋戦争がはじまると、南方へ進出する日本軍の拠点となり、飛行場が作られ、航空部隊が常駐するようになった。その後、日本軍が劣勢に転じると、米軍はサイパンやテニアン島を日本本土への長距離爆撃の発進基地にしようと攻勢を強め、日本軍は8000の兵力を配備。島の住民は住宅を軍に提供した上で、飛行場の整備に駆り出された。
昭和19年6月には、200機の米軍艦載機が現れ、島を空襲、ひと月以上続く爆撃と艦砲射撃が始まった。
隣のサイパンには、米軍が上陸、5万人以上が犠牲になって陥落した。
昭和19年7月24日、4万の兵力で米軍が上陸。島の住民の男性は、義勇隊を組織して軍に加わる。女性や子供、お年寄りは島の南部へ避難する。生き残った人の中には、懇願されて家族の命を絶った人もいて、深い傷を抱えて戦後を生きた。
米軍上陸時テニアン島の居留民は13000人。命を落とした人は3500人にのぼる。

米軍に占領されたテニアン島からは、昭和20年8月、原爆投下に向かうB29が広島と長崎に向けて発進した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1924年
愛知県名古屋市に生まれる
1932年
父親の出身地の沖縄へ
1935年
家族でテニアン島に移住
1944年
米軍の攻撃のさなか、弟2人を失う
1946年
日本に送還される

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テニアン島

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