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タイトルタイトル: “つぼみのまま海に沈んだ” 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 新崎 美津子さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 疎開の勧奨  11:09
[2]2 チャプター2 貨物船・対馬丸  02:47
[3]3 チャプター3 魚雷命中  07:42
[4]4 チャプター4 漂流  04:56
[5]5 チャプター5 必死の疎開生活  06:15
[6]6 チャプター6 親に会うのが怖い  08:52
[7]7 チャプター7 桜の花を見て想う  02:46

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月8日

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そのころは、授業という授業は、できなかったですよ。わたしは低学年をもっていましたのでね。兵隊さんが、年中、校庭を並んで歩いていて、靴の音だけ、よく聞こえてね、ゴミがたって。もう本当、勉強というのはあんまり、できなかったですね。

とにかく、何十人、兵隊が入るんだから、食糧なんかの都合ですか。ただ疎開させなくちゃならないという、通知は来たんですけども。軍艦の話は、なんとなくしていましたから、誰から聞いたか分からないけど。

それで、放課後は部落を回って、部落と言うか、那覇市ですから、店が多かったんですよ。それで回るんですけど、なんで回るかと言うと、その間に少しでも、このくらいの土地でもあったら、そこに、何か植えたらどうですかという、指導をして歩くんですよ。


Q:食べ物を作る?

 あそこは天妃と言いましたけど、もう、お店ばかりなんですよ、父兄は。だから、店というのは、店が道にあって、そこの、ちょっとしか空いてない土地はないんですから、そこへ、何か植えるように、そんなことを指導と、言いますかね。


Q:学校の先生が指導していたんですか?

 調べて歩いたんですよ。そして、その調べたのはこういう訳ですという、説明はしたと思いますけど。道路のそばだから、沖縄はガジュマルなんかが、大きく影を作るのに、そのそばに、ちょっとしか空いてなくても、ここ空いてますね、とかね。そんなことをして回ったんで、学校の教育というのは、放課後というのは、学校の先生はあした教える段取りとか、忙しいんですよ、放課後というのは。それをやらないで、回って歩いたんですから。だから、そういうことで、時間があれば、そういうことで。だから、勉強は何を教えたかなと、思ったりしますけどね。まあ、低学年ですからね。

わたしは、師範学校の二部なんですけど、二部を卒業したときには、昭和、何年かな。それで、国頭郡の久志というところがあるんですよ。そこは、わたしの叔父が、校長をしていたもんですから、もうすぐにそこへ、就職して。15年というのが、わたしの初任給で、給料が30円、40円だった。今でも、何かに書きますけど、そういう生活をしていて、わたしの兄は、士官学校を出たんですけど、戦死したもんですから、それですぐに、その優遇と言いますか、戦死者の優遇。最初は垣花の小学校へ、行ったんです。そうしたら、もうそんなわけで、間もなく、天妃の学校へ転勤になって、それで、遭難にあったわけなんですけどね。

サイパンが落ちたから、すぐに県から、もう早く10万(人)とかを、疎開に出さなくちゃダメだという、急なあれですから、それが心配だったんですよね。でも疎開、田舎のほうに疎開すれば、逃げれば、逃げようという。疎開と比較して、考えるんじゃないけれど、もう、自動的にはとにかく、自分の体を守って、安全なところへ行くのには、国頭とか、そういうところに行けばいいんだという人は、子どもは、あんまりやらなかったんですけど。みんなで、まわりで疎開しなくちゃ、という通達が学校からも、来ますから、県からも、来ますから、だから、そういうあれになったんだと思うし、普通一般の人は、疎開するとは、本当はあんまり、気は起きなかったんじゃないかと思いますよ。

だから、親とか、おじいちゃん、おばあちゃんも、そこにいて、助かるかも知れない、やんばる(山原・本島北部)に行けば、と、いうので、そういうことが頭にあったんじゃないかと、思います。ただ、学校だけが、県からもう通達が来て、急いでやんなくちゃというので、学校が騒いだ。騒いだと言うのか、とにかく、学校に通達が来て、それを父兄にも、みんなに広げて、疎開を促進できたんだと思いますから。

わたしの実家の両親なんかも、沖縄にいたんですよ。それで、そういう人たちは、もう戦争は、疎開しなくちゃみんな全滅になるよとは、思っていなかったんです、と思います。だから、わたしの実家の親たちもいて、それで、疎開のあとに、わたしが来たあとに、来たんですけど、たいてい、そんな気持ちじゃなかったですかね。そんなに負けるはずはないとか、そういうことばっかりでね。

だから、あんまり賛成、手を挙げる人というのは、最初はいなかったんですよ。それで県から、急ぐようにといって、また、通達がきますから。

ただ説明をして、何軒か、回って歩いたんです。それも4軒か、5軒くらいだったかと、思います。

疎開はとにかく、わたしたちは反対するも、しないも、学校の命令ですので。ですけど、他の子どもたちは、最初はあんまり疎開というのは、喜ばなかったんですよね。親から、離れてくるもんですから。もう、初めての船旅とか。それでも、わたしたちが疎開、みんな家庭訪問をしたときは、なるべく皆さんに、賛成してもらうように、こっちも話すわけですけどね。

「軍艦だから」って言って。それで疎開も、わたしたちはどうぞ、疎開にやって下さいというのは、軍艦というのが頭にあったから。

それで「話を聞いている」と、「いとこの誰ちゃんとかもいる、お話はだいたい聞いているから、いいんじゃないの」とか。あんまりわたしは、しつこくは言わなかったんですけどね。そういう、また父兄のほうで、いとこが行くから、また、親せきが行くから、一緒にお願いしますって言って、そういうところが多かったんですよ。

もう、学校に従うしかない。あのころ、父兄でも(戦争に)負けるとは思っていないから、もう、一生懸命、聞いて。その疎開の伝達が、回りますと、それに反対する人は、いないんですよ。みんなお国のためと言って、通達を守るわけで。

そしたら、その船になって、輸送船なんですね。船倉に荷物をいっぱい積むような。

縄ばしごがあって、船倉は。このぐらいの、板の、階段みたい、梯子(はしご)があったんですけど、そのそばに縄梯子もあって。

軍艦っていうのは、ちょっと見た感じが、輸送船とは違いますよね。それはもう、乗るときになって「あらっ」と思ったんですけど、まあ、そんな沈むなんて思わないから、まあまあと、思って、乗っていたんですけどね。もう沖に、船はいますから、それまで運ぶのに、なんかあれは艀(はしけ)って言うんですか、少しずつ乗せて。それも、縄ばしごを登って、上に行ったんですよ、わたしたちは。

いよいよ、時間になったら(船が)走り出しますよね。そうしたら「お母さぁん」って言う人、女の子なんか、もう泣いているんですよ。

子どもたちは、もう乗ったら、もうみんな、喜んで。誰ちゃん、誰ちゃんとか言って、喜んで。それこそ、船の旅というのは、初めてですから、みんな嬉しくてね。

もうそんな、船が沈むなんて、夢にも思わないですから、みんな喜んで、修学旅行みたいに、枕投げやって。

船に乗ってからは、子どもたちが、あんまりにも騒ぐので、下の方で「今夜は危ないから」と言うのも潜水艦のそれを意識してのこと、だったと思います。「危ないから、子どもたちは静めて下さい」と、通達がしょっちゅう、来たらしいんです。

だから、みんなを静めて、静めて。もう、声も枯れて。それほどに、静めて、「危ないから」と。

わたしは、なんか下にいると、あまり見えないから、とにかく上に、上がっていようと思って、船の甲板のところにいたんですよ。そうしたら、行ったら、ちょっとしたら、魚雷なんですか、分からないんですけれども。白いロウソクみたいなのが、なんだか、角張っているような感じだけど、あれが何だったか、分からないんですけど、白いのが4本ヒューっと、来るんですよ。瞬間ですから。だから、「アッ!」と思ったら、もう当たって。

もう、バリバリバリっていう音は、聞こえるんですけどね。何か、後ろのほうでは火事が、火が上っていたということも聞きますけど、わたしは、後ろを見る間もないですから。もうとにかく、上がっているほう、最後の沈むところまで走っていきましたから。火が上に出たというのは、見なかったんです。

もうそれから、わたしは舳先(へさき)のほうへ。舳先だと思うんですけど、そこにいましたので、バリバリッとやったら船が、こういうんですかね、真ん中があれが当たって。そして、わたしは船の舳先(へさき)のほうへ、逃げたんです。とにかくもう、ここは沈んできますから、こっちのほうへ逃げて行くんですけど、なんだか、そのときには4~5人ぐらいの男の人が亡くなって、こうやっていましてね。それをよけながら、と言うんですか、妹を連れて走って、沈むその反対側へ、走って行ったんです。そうしたら、そこへ行ったら、本当にあのときは、男の兵隊さんがいたかなんだかは、分からないんですけど、荒い声で、男の人たちは「海に突っ込め、突っ込め」と、みんな、叫んでいるんですよ。

その船の、上から見た下というのは、すごく底ですから、波がこうやって、とぐろみたいと言うんですか、そういう波が船と一緒に、波がやってんです。だから、それを見ると、とても飛び込もうとは思わない、思えないし。そのときは妹の手を引いていますから、どうしようと、思っていたんですけど、この間も話したか、知らないけど、妹が足をケガしたって言うんです。普段なら、もう「どれ?」なんて言って、もう「痛い、痛い」と言うから、親切にやるべきですけど、もう「ちょっと、黙っていて」って言ったのが、もう最後になって。あんな厳しいことを言って、悪かったねとは思うんですけど。

横から、波が来て、飛び込むどころじゃないんですよ、もう。波に流されて沈みましたからね。そのときに妹と手を、よく手を引いていたんですけど、それを離したから、いま考えてみると、離したから、わたし一人、助かったかな。あのときは、助かるまではわたしも妹はどこかで助かっているとしか思わなから、ああ、あのときによくつかまえておけば、わたしも、助からなかったかなと。なんか、そんなことを、考えたりしますけどね。


Q:子どもたちを助けに行こうと思って、下のほうには行かなかったんですか?

 助けるどころか、もう自分の体、どうしようというそればっかりで、いっぱいですから。ただ、ああ、子どもたちは、ああいう縄梯子で、梯子でどうしたんだろうなと。高等科の生徒がいますから、そういう人は腕力で、先に行きますから。あの子どもたちは、どうしたかなとは、思いました。そのうちに、自分も、海に投げ出されましたので、あとはもう、浮くだけで大変なことで。くるくる回るんですよ、いかだみたいなものが。だから、よくつかまっていないとクルッと、回りますから、つかまったままで、みんなをこう見ていたんです。「よくつかまって、つかまって」と、言って。夜はそれで。

そのときは、船がちょうど、こうやって折れて、没するところですから。もう子どもたちは、いっぱいいました。いかだとか、何か船に積んだのが、ありますから。板を4~5枚、こう重ねて、荒縄でしたのがあるんですよ、よく。それにわたしは、つかまったんですよ、フーンと上がったら。そしたらもう、子どもたちも、たくさんいましてね、そこらに。「よくつかまりなさいよ、よくつかまりなさいよ」と言いながら、自分もひっくり返ったり、なんかするもんですから、もう、それ以上のことは、できないし。「みんな、よくつかまって」と言って。そのときは夜、ですからね。

夜はいっぱいいたのに、翌日、夜が明けてみたら、みんなもう、散り散りになって、どこへ行ったか、分からないんですよ。流れて。それからもう、流れて、流れるままに、動くしかないんです。なんにも、手で、ただ、こうはできるんですけど、とにかく波が、どこかへ流れれば、それに沿っていくだけのことで。その間にもう、だんだんに散った子どもたちは、「先生、先生」って言うのは、聞こえるんですけども、分からないんですよ。

「よくつかまって」とは言っても、聞こえるかなんだか、分からない。それでもう、とうとうその子は、女の子でしたけどね。4年生ぐらいの子どもで。あれだけは耳から、消えないです。どこへ行ったかなと思って、まあ、そのあとは海に沈んだと、思います。

もう、漂流が始まったら、自分のことでいっぱいですから。6人乗っていて、落っこち出したのは、あのおばあさんみたいな人、落っこちたんですけど。何回か、上げるんだけど、それでも、あとはいなくなっていたんです。


Q:救助はすぐ来ると、思いましたか?

 それはもう、思いましたよ。助けにくる、船が助けに来るんだと。飛行機があとからよく、ああ、飛行機が通ったから、来るなと思っていても、なかなか来ないで。飛行機からは、何か、こんなものを下に落とすんですけど、届かなかったんです。何が入っていたんだか、知らないんですけど。それでもう、あとのあれだけと、思いますけど、漁船が沖のほうへ行くのは、分かるんです。ああ、あれ来るんだ、良かったなと思って、みんなこうやるんですけど、過ぎて行っちゃうんですね。

高等科の生徒だったと、思うんですけど、それは2人で水泳を、それくらいは自信があるなんて言って。「だめよ、だめよ」と言うけれど、そういう子どもだから、言うこときかないで、悪石島が見えるんです、本当に。そこへ大丈夫だと言って、2人で行ったんですけど、それ、だめでしたね。戻ってこないから。

4日目くらいになったら、子どもはそんなに、流れてこないで、自分だけです。いかだに残っただけ。

4日目くらいからは、もう自分の体、船が沈むときに、ここをすごくバーンと打ったんで、それは初めはそんなにでもなかったんですけど、もう助かる前の日くらいから、これが化膿して。ここから、このぐらい化膿して、痛み出したもんですから、もう、これはいよいよ、わたしもこれで終わりだと。

漂流のときは、まずは妹のこと、考えていたんです。どっかで、助かっているでしょうと思って。わたしは死んでもいいから、妹は助かったら、助かるといいなと願っていて。

助かった子が、少ないということですね。それはそのときは、少ないとか、たくさんいたのにねとか、そういう気持ちのゆとりは、ないんですよ。

そのころには、もう助かった子どもを見守るのに、いっぱいですから。あのときは、疎開の状態もあんまり、よくなくて、女の子は、先発隊の女の子なんか、シラミがいっぱいで、その手入れをしたり、もう、忙しかったもんですから。もっといたのにね、という思いは、あんまりなくて、現実が大変なんで。小学校の裁縫室みたいなところに、疎開児童はいましたので。あいだが空いていると、向こうの学校に、席が空いていたんですよ。だから、教員の足りない、休んでいるところとか、そういうのを回って、授業はみたんですけど。

Q:お家や学校に、電報を打つのは、大丈夫だったんですか? 電報を那覇に送るのは、できたんですか?

 ううん、そういうこと、考えられませんでしたねえ。自分がこうなっていて、親たちもどうしているかなとは、もう思わなかったんですよ。自分がいっぱいで。

そのときは、自分を守ることがまず最大の、いちばんの問題なの。自分が生きている、どうやって生きているというのをね、それは。自分が生きているとかいうのは、どう言うんですかね。そのころまでは、まだ日本国民のパシッとしたそれがあって、他の人はみんな、頑張っているでしょうとは、だったんだろうけど、人のことまでは、考えられなかったんです。もう、生きることが、本当に。

だから、上陸して、どうかなというのは、どうしたかなというのは、考えが及ばないんです。もう、自分たちでいっぱいで。だから、わたしたちは知らないでいることも、たくさんあると思いますけどね、疎開してきて。地元沖縄では、みんな、大変だったっていうのに。


Q:疎開先でよそから来た、沖縄から来たっていって、いじめられたりとか、差別されたりとかっていうのは、見たり聞いたりしたことは、ありますか?

 わたしが知っている限りは、そんなのは聞いたことないんですけど。

よそから、入ってきているって、地元の人はきっと、かわいそうだとは、思ったかもしれないですけど。そんな差別というのは、感じはなかったです。ただかわいそうだと、大事にして上げなくちゃと、いうあれはあるんですよ。みんな自分も、子どもがいますからね。だから、そういうこと、あんまり聞かなかったと、思いますけど。

わたしは、これが原因で、すごい神経痛を起こしたんですよ。それで、学童たちと一緒にいると、わたしがもう、何か「うんうん」って呻るもんですから、やかましいという、ちょっと、本当に、やかましかったかもしれませんね。そういう声も、聞こえたんですけど、近くに、お医者さんが、一人しかいないんですよ。医者も診たって、これどうということには、ならないで、しょうがないから、温泉にわたしは行ったんです。もう痛くて、痛くて。ちょうどそのころわたしの両親が、来ていましたからね。だから母と一緒に、温泉を2、3ヵ所行きました。そのあいだに、子どもたちは(沖縄に)帰っちゃったんですよ。だから、わたしは見送りもできない。何もできない。ただいつの間にか、みんないなくなったという感じで。

Q:沖縄に帰りたいとは、思わなかったんですか?

 いや、わたしの主人の両親と、わたしの実家の両親と、わたしは4人の人に、大変、親不孝していると今でも思っていますけど。本当は帰ると、主人のお母さんが大変、喜んだんですけれども、わたしはそれでいつも、主人は帰ると言ったんですよ。だけど、わたしは帰らないと。

帰った人は、大変、苦労したと思いますよ。先生方も校長も。

大変な思いをして、助かったわけなんですけど、帰ったらもう、大変だと思いました。だからなんか、わたしと一緒の引率の先生は30年くらいで、亡くなったみたいです。みんな、健康に生きている人は、あんまりいないですよ。だから、どんなだったかな、いちばん、校長先生が大変だった。

子どもを預けたのに、どうして、返さないんだという感じで。もう、だって、自分の子どもがいなくなって、先生方は生きているというのは。わたしはそれが、苦しかったもんですから。そのベールの下に、いたいと言ったのは、そうなんですけどね。

わたしはとにかく、こっちにいるしかない、ということで、ずっと、いるんですけどね。帰ったら、大変だっただろうなと、思います。自分で、責任持っていますからね。もう父兄のあれは、父兄のスーツ姿、スーツを着ている、船に乗っている人が、恐かったもんですからね。それくらい、恐かったんです。今は、対馬会館で皆さん、いますけど、今はみんながもう、じゃないけど、もうおばさん、おじさん、そのくらいになっていますから、みんなも平気で、話はしますけど。大変だと思います。子どもが、いなくなるということは、先生の責任ですからね、何はともあれ。先生にあたるしか、ないんじゃないんですか。

校長先生、もう、いちばん責任が、集まってくるでしょうから、大変だったと思いますよ。

一度、校長先生、一度、わたしが帰ったときに、行ったことあるんです、家をわかっているから。そしたら、何かおかしかったです、その先生も。「はっ、はっ、はっ」と、して。

「失礼しました」と言って、帰っちゃったんですけどね。その先生はもう、大変な思いしたと思います。だから、わたしたちは、いろいろな思いをしているけれど、こうやって、何とか命をつないでいるなと、思います。わたしも、沖縄に帰っていれば、もう、大変な目にあったと思いますよ。

ああいう、父兄の顔というのは、わたしはもう、恐ろしいですね。なんでそうなったんだって、言われれば、こっちもどうにも、あれがつかないですから。もう。それで、現地慰問の船が出ましたんですよね。わたしは、知らないことではなかったんですけど、とにかく、そういうのには、もう、出ないんだっていうあれがあって。出ないんだって言うのは、本当は、海の慰霊祭って、海上慰霊祭というので、いちばんに、駆けつけなくちゃならない、立場に、あるのに、それは断ったと言うのは、わたしがただ、想像していたんですけど、船には父兄が、いっぱい乗っていて、その父兄というのは、わたしはスーツを着て、なんか、あんな人かなと、想像ばかりしていたんですけど、そういう人に、会わせる顔がないんですよね。そのときに、「分かりました」といって、子どもはまだ、こんな子どもですから、受け取ってというか、連れてきて、一緒にして、それなのに、その父兄が、いちばん恐かったです。

最近になって、沖縄に行ったり来たりして、対馬会館の人とも、もう仲良くなっていますけどね。あれがいちばん、恐かったです。父兄に会うのが、いちばん恐かったんですよ。だからたぶん、その船には、父兄がいっぱい乗っているだろうと、それでわたしは、全然、もう行く気がないし、ただ水平線の下で、生きられるところはないかと思ったのは、本当なんですよ。本当に本当で。そんなところなんか、あるもんかと、思うんですけど、本当にそう思いました。
 
水平線というのは、あのときは、すごく意識して。水平線の下で、生きられるところはないか、それから、地平線の下で生きることはないか、本当に、何の疑いもなく、そういうところないかなと。自分は家庭があるから、とにかく、生きていなくちゃ、ならないから。そういうところの下で、生活して、誰にも見えないところで、生きることができないかなと。ただ、そればかり、思っていたんです。

何だか知らないけど、人前に出るのがね。わたしは今でも、少しはそうですけど、何か、自分の周り、ビニールで覆ったようであれば、自分で安心するような気がするんです。だから、わたし、それをあまり、わたしの同級生が沖縄にたくさんいますけど、誰も、知らなかったんですよ、わたしが何も言わないから。

うちの子どもはもう、長女は、60になっていますけど、知らなかったと言う。30年くらいは、わたしは黙っていましたから、知らなかったと言いますよ。

だんだん、講演とか少し、しましたので、気が少し、ほっときれいになって、癒されました。わたしはこうやって、話すんですけど。

子どもたちは、わたしの妹なんかも、同じですけど、戦争、敗戦を経験していないですから、それでもう、自分たちは勝つんだ、勝つんだと言ったまんまで、亡くなっていますから、それを考えるべきだと、思います。あのときのこどもたちは、もう張り切って、国のためだ、親たちも、国のためだと、思っているけれど、いざやっぱり、戦争ということになれば、自分が犠牲になんなくちゃ、なんない。自分の子どもとか、孫とか。だからまずは、そこに考えを持っていくべきじゃないですかね、みんな。

どの子もそうなんですけど、つぼみのままで、世の中に出たのに、あんなことになった。つぼみは、つぼんだまま、海に沈んだと。それでわたしは、ここで花見というのは、桜が満開に、そのときに思うんです。子どもたちはつぼみのまま、死んじゃったんだけど、もし、そうでなかったら、こういう花になって、世の中にいたかな、という気がして、花見のときは、そんなことを考えます。

とにかく、どんな子どもが出るか、子どもの未知数というのは、分からないですからね。どんなに子になったから、知らないけれどねと、思いながら、桜を見ると、ああ、子どもたちは、こんなままで、沈んじゃったと思います。

本当に短い、人生ですからね。わたしは、その子どもたちのことを、忘れてもらっては、困るという気がして。なるべく、そういうふうな、考えますけどね。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
那覇市在住、沖縄県女子師範学校卒業
1941年
久志尋常高等小学校に赴任
1942年
那覇市垣花尋常高等小学校に転勤
1943年
那覇市天妃(てんぴ)国民学校に転勤
1944年
8月 疎開の引率として乗った対馬丸が撃沈、宮崎に疎開も怪我が癒えず離職
1945年
両親と疎開生活
 
夫(医師)と再会、熊本、栃木に引っ越す、以後、主婦業

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