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タイトルタイトル: 「流れるたくさんの遺体」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 儀間 真勝さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 進撃に沸いた那覇の街  03:14
[2]2 チャプター2 学校に兵隊が来た  03:44
[3]3 チャプター3 学童疎開の呼びかけ  02:43
[4]4 チャプター4 出港の日程は伏せられた  03:12
[5]5 チャプター5 貨物船「対馬丸」  05:50
[6]6 チャプター6 配られた救命胴衣  04:45
[7]7 チャプター7 突然の衝撃  04:21
[8]8 チャプター8 海上に響く悲鳴  03:35
[9]9 チャプター9 やってこない救いの手  06:44
[10]10 チャプター10 漂流2日目  03:16
[11]11 チャプター11 漂流3日目  04:25
[12]12 チャプター12 鹿児島へ  02:47
[13]13 チャプター13 秘密にされた沈没の事実  02:17
[14]14 チャプター14 沖縄戦  03:37
[15]15 チャプター15 戦争を語り続ける  01:56

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月2日

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当時、垣花は(那覇)港のすぐ入口の南側にあって、とても静かな町と言いますか、で、上の高台には気象台があって、向こうがいつも遊びどころで、松並木があるし、芝生がいっぱいあって、向こうはいつも遊びでいるところでした。その下のほうに学校があって、広々と、ほとんど瓦ぶきの校舎でした。

14年の尋常小学校に入学したわけですけども、15年、16年に結構、戦争が始まったわけですね、当時の。あのときには大東亜戦争という言い方していたと思うんだけど、今は太平洋戦争という言い方しているけども。そしたらもう日本はあのときに勢いがあって、すぐ翌年ですか、シンガポール陥落とかいうふうなことがあって、学校で、たぶん3年生だったかと思うが、シンガポール陥落したということで、もう学校をあげて、旗行列とか、提灯行列とかと、いうようなのを覚えておりますね。

小さな提灯をみんな配られて、それに火をつけて歩いてね。自分たちの住吉から垣花、山下町一帯を行列する。各学区域を行列するということになるわけ。あのとき、那覇市には7つの国民学校と、ひとつの国民学校、いわば高等科と呼ばれていましたがあったんです。だから、各学区域で、そういうことをやるようにということが、あったようですね。

だから、ああ、日本は強いんだなということでね。

そして17年、18年とくると、今度は戦争がだんだん厳しくなってくるということで。4年生からは体育の時間に、男の子はみんな上半身裸で、あのころは制服があったから、男の子は特に訓練と言うのか、体を鍛えるということで、駆け足するとか、いろんなことを4年生、5年生、6年生ということで、男子生徒は一緒に鍛えられて。もう体を鍛えないとダメだというような方向で、学校も何かちょっと変わっていくようにはありましたね、そういう意味では。


そして、19年の4月、5月ごろから、各家庭に防空壕というのがあったんですね。庭に、畳の大きさの穴を掘るようにと、防空壕を。深さは約1メートル足らずぐらいで、万一の場合には、そこに棒を置いて、畳を置いて、急場しのぎの防空壕を、なるべく、家庭の庭に掘るようにということで。それから隣組としては、道のほうに、広いところの道にそれを掘るとか。それとか、高等科の兄、姉なんかに聞いたら、飛行場作りとか。それにもう朝から、学校で何も勉強しないよと。すぐ動員で、今の仲西飛行場(現:浦添市)だから、たぶんこっち、浦添の58号線のキンザー(キャンプ・キンザー、現在の米軍の補給施設)と言いますかね、そこだと思いますけどね、その飛行場作りとか。それから山に防空壕を掘ると言うのか、そういうようなものに、毎日、動員だというようなことがありましたね。

1年、2年ぐらいたったら、もうすぐ、逆転。戦争のなにが逆転して、今度は戦争が近くなりそうだというようなことに変わっているんですね。だから勢いは、日本は、なんで強かったはずだのに、どうして、こうなのかと。ところが、学校の教育では、少年航空隊というような名前が、あったんですね。小学校6年生からも、受験できたと思うんです。特に、高等科の皆さんから、受験していたら、とても格好いいプログラムみたいな写真があって。あれを見て、みんな男の子は憧れて、「あれに行きたい、行きたい」とかいうようなものなんかも、あったわけです。だから日本は、だんだん戦が、近いんだな。戦争が日本も、だんだん沖縄に近くなってくるのかな、というようなことは特に、感じられるようになっていたんです。

垣花国民学校の6年生で、数え13と言いますか、満で12才だと思います。そういうことで、ちょうど昭和19年の夏休みに入るころから、学校には、たくさんの兵隊がみんな入ってきたんです。それで、夏休みというようなことになったんですけれども。

19年の7月に、夏休みが7月20日からだったと思うんですけど、夏休みになったら、学校に兵隊がたくさん来たんです、各学校に。それで、学校は休みだから、別に学校へ行く必要はないけれども、学校の近くにお家があったものですから、遊びどころだったものだから、行ったりしたら、兵隊がいるわけですね。だから、門のほうにもちゃんと衛兵みたいなのが立っているものだから、「あれ? なんで学校だのに、どうして兵隊がこんなにいるんだろう」ということを。ちょっと、いろいろ問題と言うのか、戦争が何か、近づくのかなというようなことを、はっきり、変わっていった様子でしたね。

そして、夏休みが始まって、8月になってからだったと、思いますけれども、先生方が各家庭を回って、疎開をするようにと言って、呼びかけで回っていたんです。あとで聞いて、分かったら、サイパン島が玉砕して、そして昭和の19年の7月17、18日かに、国のほうから県に、疎開させるようにというような、何か命令みたいなのが、あったということで、先生方が学校であれば、学校ですぐ連絡するけれども、休みになっているものだから、先生方が各家庭をまわって、疎開をするように勧められたわけですね。

先生方が、各家庭を家庭訪問というかたちで回られているもんだから、家にも先生がいらっしゃって、担任の先生がいらっしゃって。疎開の勧めというのは、本当に大変だということは、ひとつもなかったですね。ただ「旅行気分で、だいたい、長くても1年~1年半だ」と。だから、旅行気分というようなかたちで、先生方は旅行に勧めていたというのを覚えています。そして、いとこの人たちも、自分の父の兄のほうも1人行くし、妹のほうも2人行く、ということだったから、「ああ、僕も行ってみたいな」というようなことを話し合いしたわけです。

そして、向こうで雪も見られるとか、汽車も乗れるとか、というような話はもっぱらあったんです。そういうことで言うから、結構、みんな行きたくなるわけですよね。だからそういう、戦争で避難していくというような感覚は、ひとつもなかったと思いますけどね。

父が、「いとこたちも3名、行くというし、1人、誰か行ったら」と言った。6名兄弟だったから。別に止めるとかということでもないし。「僕も行ってみたいな」ということを話したら「ああ、行ってみたら」ということぐらいでね。本当に旅行気分で、勧められたというのを覚えてますね。

そして後は、だんだんいくと、先生方が、話が行くように決まって、後からは、今度は「船がいつ出るということは、はっきりは言えない」というわけですね。そして、「いつでも、出られるように準備をしておけ」というようなことだったから、どうしてかと。ちょっと、おかしいわけですね、計画的にすると。本当だったら、旅行といったら、何月、何日、出発という、準備があるわけだから。疎開については、船がいつ入ってくるか、そういうようなのが、はっきりしないんだと、いうようことであるし、何かだんだん、情報的には、何か鹿児島へ行くときに、あるいは長崎に行くときに、その間に、今の米国の潜水艦とか、そういうのがいるような話は、そんなには、聞こえなかったんだけれども。でも、だんだん今の、日にちははっきり言えないと、いうようなことからして、何かあるのかなと、いうようなことがだんだん気になってはきましたね。

海が危険だ、ということはそんなには、直接は感じなかったです。ただ、先生方との話は、人を乗せるから当然、客船だと、思っていたわけですけれども、あるいは軍艦で、行けるかもしれないよという話も、あったんですね。軍艦は速いし。軍艦で行けるかもしれないよ、とか。それから客船とか、というような話もあったが、貨物船になるということは、一言も聞いたことないわけです。それは疎開の当日、乗ってみて、初めてあの船が、対馬丸は貨物船だったということは分かったわけです。だから、客船だったら、大きな船だということで、よく、那覇港から、客船が出ていくの見ているから、きれいな船だな、乗ってみたいな、ということをいつも思っているもんだから、軍艦なら、なお格好いいだろうなとか、いうような形で、待つというようなことでしたね。だから、その近辺には、本当は今だったら、色々情報、あのときの情報をあれしたら、たくさんの何か色々、商船が色々、あったようですけれども、そういうことは一切自分たちには、入ってこなかったです。先生方が勧めていくということであったんです。

とにかく、安心がどういうことだったというのは、一切ないけど、危険ということが、一切、感じなかったということですね、逆に。だから、もうすぐ、一泊もしたら、着くんだとか、いうようなくらいで、全く、旅行気分で、先生方からも勧められたということがあるもんだから、一切、危険というようなことは感じなかったですね、出発まで。そういうことは。

たぶん、19日ごろだったと思いますけれどもね。21日に船が出るから、那覇港の広場に、港の方に集まると。午後2時だったと思うんですけれど、集合するようにと言われて、父に連れられて、向こうまで行ったわけですけれども。そのころは、またたくさんの人が、家族とかみんな見送りとか、来ているもんだから、暑くて、大変だということで。
垣花で、よく港のことを分かるもんだから、港に船1隻もいないわけです。普通ならば、大きな商船が停まっているのを垣花からも、すぐ見えるもんだから、「どうして船、どこにいるんだろう?」ということをいろいろ話、聞いたら、「いや、船は大きいから、沖の方に泊まっているんだ」と。「へえ、そんなに大きいのか」ということで、逆に、大きな船に乗れるということを、喜びとしてやっていたわけです。

もう、暑いもんだから、長時間かかって、2時ころから、もう4、5時だから、3時間、4時間くらいいたと思うんですよ。それで、みなさん学校と一緒だから、親たちもみんな帰って行くし、そういうような状態で、もう友達とワイワイするだけで、船を待つぐらいで。そんな見送りとかなんとかじゃなくて、乗る人で、もう、いっぱいしているわけですね。それまでは、別にこれまでの疎開の気分はあったわけです、楽しい旅行だという。

そしてその間に、結構みんな集まっているけど、各学校から舟艇で沖の船に、何回か運んでいたと思うわけですね。もう、みんな集まっているから、分からないんです。それをして、だいたい4~5時近くになってから、垣花の学校の生徒が乗る順番だったわけです。それで船に乗って、沖に行ったら、もう、でっかい船が停まっているもんだから、縄梯子(ばしご)で、こう上がるんですよね、揺れながらこういうふうに。そして乗るまではもう、大きな船だなと喜んでいたわけですけれども、乗ってみてこの中に入ったら。

本当に船に入ってから、真っ暗。外は明るいわけだが、中に入ったら、本当に真っ暗という感じで。

入って、初めてゆっくり眺めて「ああ、こんなもんかな」ということが、分かったわけです。本当にもう、大きな箱形の2階、3階建てくらいの大きな倉庫みたいなのに、押し込められているような形になったもんだから。みんな「おかしいね、これは」というような話し合いをして。

「なんだ、この船は貨物船じゃないか」と。よく那覇港では、上のほう大きなふた、ハッチというんですかね、あれを重機で引き揚げて、それで荷物を乗せたり、降ろしたりする。全く同じだと。降りて行ったら、だいたい1間くらいの階段がずらっとあって、下に行ったら、もう倉庫みたいなのに入っていくもんだから、「なんだ、この船おかしいんじゃないの」ということ、みんな話し合って、乗って初めて、貨物船と分かったわけです。だから、これはおかしいなということを、初めて知って、みんなワイワイ騒いだわけですね。

だから、もう息苦しいし、窓はないでしょう。そういうようなことで、みんな「大変だ、暑いな、暑いな」ということでして、おかしいなということで、今の貨物船のことについて、みんな先生にも「おかしいですね。これはなんで、どうして、こんな船に乗せられたのかな」ということをしても、もう後の祭りみたいで。「いや、これがちょうど来て、兵隊を降ろして、それが九州に戻ると。長崎に戻るから、これに乗せられたんだ」というようなことを、聞かされたわけですけどね。

先生に聞いても、「いや、もう、この船しかなかったんだ」というふうな言い方だったと思います。そんな、具体的な説明なんかないわけ。いったん、もう乗っているわけですからね。

もう、6時半ごろ、たぶん船は出たかと思いますから。甲板に出たら、垣花が見えるんです。町が、学校も。出航したらだんだん、町が小さくなっていくのが見えていったわけですけれども。そのときには、もう行く前の考え方と乗ってから後は、もう本当に逆で、おかしいなというような考え方が、うんと自分たちに、友達もみんな、話し合っていました。何で、ちゃんと客船とかに、でなければ軍艦に、乗せると言ってくれたのに、どうして、こんな貨物船に乗せられるんだろうということで。息苦しいでしょう、窓もないし。それでみんな乗って、船が動いた途端に、汗はかくし、船独特の臭いがするわけですよ。それで、船酔いが始まって。もう食事なんか、できないような状態が、もう始まっていたと思います、そのころ。そしたら、もう、だんだん暗くなって、そのまま各学校、荷物を置く棚があるわけです。それをカイコ棚とか、なんとか、言ったりしたら、どこの学校、どこだということで、割り当てられて乗ったわけです。

そして、21日あけて、22日、なったときに、9時~10時と、ときたま甲板に上がってみると、あっ、あちらこちらに船がいるということを見て。あとで聞いたら、疎開船は3隻だということで、首里方面の皆さんは、他の船だよとか、あるいはまた、島尻(沖縄本島南部)とか、ほかの皆さんは、もうひとつの船だと。そして荷物については、自分たちの船に乗っているかどうか、分からなかったけれども、とにかく3隻あった。

朝ご飯を、お友達はいろいろ食べたとか、僕はおにぎり1個くらい配給があったんじゃないかなと、覚えていますけどもね。それを食べる子もいるし、食べない子もいるもんだから、船酔いしているから。そしてお昼ごろ、お昼ごろ、真ん中の方に、広場にみんな集められて、係の先生から、説明があったわけです。「明日は、長崎に着くんだ」と言ったら、みんな「わあい」と、喜んだわけです。本当に大きな声で、喜んで「わいわい」と喜んで、騒いだりしたわけですけども。

そして先生が、説明が。ちゃんと軍艦が、護衛艦が護衛しているから、安心だということは、昼の説明でもありましたからね。だから、心配いらないと。

それが終わったら、先生が「でも、今晩は危ないんだ」と。そういう意味で、救命具という、前に枕みたいに四角いのを後ろにして、ひもで吊されて、中に綿が入っているわけね。緊急用ということで、24時間ぐらいしか、浮かないようで、水を吸う。24時間には救助に来るんだ、という考え方で、この救命具は作られているということで。

これをみんなに配られたわけです。そして、角が4つあるわけですね、こういうふうに。上を見ると、長方形の倉庫の上が、見えるもんだから、空が見えるから。そしたら、4つの角に1つだけ、はしごが大きな幅のひろい梯子が、畳み1枚半ぐらいでしょうね、広さであるくらいで。そして角には、縄梯子がつるされているわけですね。そして「この縄梯子、何でこんなのあるのかな」とみんな不思議なんですね。ただぶら下がっているから、何かなと。そしたら、先生が説明するには「緊急の場合には、あの梯子(はしご)ひとつでは、大変だから、縄梯子からも、上がれるんだ」と。それで、みんなこれを登ってみたり、ということをちょっと、やったわけです。そして「今晩は危ないんだ」という意味で、「上の甲板の方に寝るように」ということを、僕はよく覚えているんですけどね。

寝るといってもみんな座ってびっしりなんですよ。救命具着たまま。横になることもできないくらいで、びっしり座っている。そしてこの説明のときに、万一の場合に船が危険だというときには、真ん中にブリッジがあって、前の方は学童ですが後ろの方は一般疎開が乗っているわけですね。

万一の場合にはベルが「ピピピピ」という合図があるんだと。万一にそういうことがある場合には危ないんだ、というような印であるということは説明があった、昼中に。だから「今晩は危ないからみなさん甲板の方に寝るように」ということを僕は勧められているのを覚えて、友達と一緒に甲板に行って座っておしゃべりしながら夜空を眺めながら座っているようなことでした。そしたら船は真っ暗です。外に行くともう、明かりはひとつも見えないわけです。普通、船ならば全部、明かりがついているはずだが、明かり、ひとつも。真っ暗であると。

そして船のエンジンの音だけ、ガタンガタンガタンというエンジンの音だけ聞こえているような格好であったんですけども。


そして、ぐっすり寝て、夜中だと思ったんですけど。本当にぐっすり、寝ていたそのときに「ドカン」という音で目を覚まして、起きたわけです。そしたら「船がやられた」とか、そういうの、分からないわけですからね。ただ「ドカン」ということで、びっくりして起きたら、もうみんな「わあ、わあ、わあ」泣いているし、洋服が、びしょ濡れなんですよ、全部。「これ、おかしいな、どうしたのかな」ということで、立ち上がったら、びっしり、みんな立っているわけですね。いっぱい、こっちに座っていたもんだから。そして、みんなブリッジの方に向かって、向こうには、小さなはしごしか、一人用の。それに向かって、みんなワイワイ泣きながら、立っているのを覚えています。「先生、助けて!」「お母さん、助けて!」「お父さん、助けて!」友達の名前を、悲鳴で、呼び合っているわけです。動きもできないんです、びっしり立っている。そして、貨物船なもんだから、船の両壁は届かないわけ、お互いが。このブリッジの方に行ったら、すぐ外に降りることが、飛び込むこともできるけれども、甲板は高いもんだから、ただこうして、ワイワイワイ泣いて、悲鳴していましたね。

そのときに、いくらか、こういうワイワイの中から、昼、説明のあった、「ピピピピ」というベルが、聞こえました。「ああ、これ大変だな」ということは知った。でも、みんなびっしり立っているもんだから、どうしようもないわけです。ただもう、立ってワイワイワイしているだけで。そのときに、魚雷が何発当たったかどうか、あるいは、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けたという、そういう情報は何もないわけです。ただ「ドカン」といった。そして、ワイワイワイ騒いでいる。船が傾いていくようにありました、後ろの方に。学童疎開は前の方に、乗っているもんだから、ブリッジは真ん中にあるから、そこに向かって、みんな立ってこう、なるべくブリッジの方に、ボートがあるわけです。そこに行こうとしているが、だんだん、前のめりになっていくように、あったんです、こう立っていると。だから、後ろの方に船は、傾いているんだな、ということは分かりました。

だんだん、立っておれないぐらい船は、船尾の方に後ろに傾いて、前の方は上がって。だんだん、もう立てなくなっているころに、みんな、押し合い、押しつぶされそうなときに、「船が沈むから、海に飛び込め」という大きな声が聞こえてきたんです。それでも、みんなびっしり立っているだけで、動けない。どうしようもないわけです。前にも進めない、後ろにも進めない、びっしり人が立っているという、状態だった。そして、船は船尾の方に、後ろの方に、大きな音をたてて、ガラガラガラーということで、沈んでいくんです。自分たちもそのまま、船ともろともに沈んでいったという形になります。だから、そのときに本当に、海に沈んで、引き込まれていくのを覚えている。引き込まれていくと渦巻きというのは、ある程度、分かるわけですので、いろいろ、みんなぶつかるということで、体が痛いような感じがありました。

だから、もう本当に、沈む瞬間っていうのは、ただもう、怖さいっぱいで、他に余裕なんか、なかったですね。もう恐くて、どうなるのかなということ。船はどうなるのかなということで。そして、真っ暗でしょう。もう灯りはひとつも見えない、真っ暗な海の中に、こういう状態で、引き込まれていくのかなということで、いっぱいで。だから、多くのみんなはただ、ワイワイ、ワイワイ泣いて、パニック状態に陥っていたと、思いますからね。


そして、しばらくしたら、救命具のお陰だと思いますけれども、その勢いで、海面にぽっと、浮き上がったわけです。そしたら、真っ暗な海面であるが、波の間に、間にいくらか人影みたいな、頭みたいなものが、丸く見えるわけです。そしたら今度は、暗い海の上を、中を、これまでの声と変わった声で、今度は「お父さん、お母さん助けてえ!」「先生、助けて!」と友達、呼び合いする悲鳴が、一層大きく聞こえるわけです。たくさんものが、浮かんでいると思うんです。起き上がったら、何か、板切れとか、何か、つかんでいるくらいだった。僕が、見ているときに、真っ暗であるが、横の方見たら、人の影が4~5名くらい影が、一緒にひっついて見えるんです。座っているような状態。

「あれ?」と思って。そして、話し声が聞こえるわけです。周囲から、悲鳴と同時にすぐ近くに、人が座っている、格好があって。板伝いに、ちょっと寄っていったら、今でいう、いかだですね。畳み2枚くらいの大きさの、竹と木で作られているいかだに乗っていたようで。それをつかんだら、乗っている大人の人が、手をつかんで、このいかだに引き揚げてくれた。真っ暗で、分かりはしないけれども。引き揚げられたら「このロープをつかんでおけよ」と言われて、ひもを触らせてもらったわけです。真っ暗だから、分からない。

このいかだに引き上げられたあと、もう7~8時間あるわけですね、夜っていうのは。だからその夜間、周辺ずっと悲鳴が聞こえたから、ああ、お友だちはどうなったのかな、いとこたち、どうなったのかなというのが本当に頭にくるわけですよ。だからもう、女の子の声とか、男の声とかが、もうずっと、入ってくるもんだから、同じ6年生の組の皆さん、どうなったのかなというのが、ずっと気にはなりましたですね。

ところが、もう真っ暗だから、このいかだに乗っている人たちの顔すら、見えないわけです。ただ影で頭があるな、体が座っているな、という影しか見えんもんだから、もう、たくさんの人が悲鳴からきて、ああ、お友だちもその中にいるのかなというようなことも、ずっといかだに座っていながら、夜通し、その声を聞くのが、もう恐くて恐くて、大変だったですね。

本当に、おぼれていくというような悲鳴だと、思うんですけれども、「お父さん、助けてえ」「お母さん、助けてえ」だんだん声が、聞こえなくなっていくような声で、聞こえてくるわけです。これが夜通し、そういう悲鳴が聞こえたのは、今でも、体にしっかり染みついているような感じがします。この声は本当に、もう、忘れることできないと、思います。

いかだにつかまったまま、夜が明けるのを待っていたら、夜通しずっと、声が聞こえてくる。恐くてブルブル震えて。大人の人たちも、しょっちゅう話すわけでもない。ただ、じっとしておくだけ。そしたら、その声が余計にこう、聞こえてくるわけです。それをずっとしているときに、だんだん時間がたったら、東の空が明るくなってきた。夏だから4時半ごろから、明るくなってくるもんだから、明るくなってきたら、3つのいかだが、ロープで結わえられて、15名くらい乗っているんです。たぶん15名だったと思うんですけれども。

大人が10名で、子どもが5名、乗っているわけです。見たら、垣花国民学校の生徒、乗ってないかなと見たら、誰もみんな知らない人が、乗っている。一人は兵隊みたいに軍隊の洋服着ている人が、乗っていましたが、あとは、船員か一般の疎開の人か、分からないわけですけれども、乗っている。いかだの周辺見たら、いっぱい死体が。救命具着たまま、仰向けになったり、うつむいたり、横になったりして、いっぱい死体が流れている。いかだに、ひっついているわけ、全部。中にはまだ元気で、板切れつかんだり、棒切れつかんだりして、流れている子も見えるんです。大人の人が手を差し出せば、引き揚げられそうだが、15名乗っているから、みんなの重さで、いかだは腰まで沈んでいるわけです。だから、手を離そうものなら、そのまま流されるようになっている。そういう形で、たくさんの人が流れていく。

お昼ごろになると、いかだが、あちらこちら点々としている、というような状態になっていました。大人の皆さんが、「しっかり、つかんでおけよ。離したら、流されるんだ」ということで、励ましてくれたんです。そういう形で、午前中は、本当にもうたくさんの死体を、いかだの周辺に流れてくるのを見て、子どもながらに、恐くてブルブル震えていた。夜中は悲鳴で、恐かったけれども、明けたら今度、死体を見て。こういうのを見るのも、初めてだし、びっくりして、ブルブル震えて。自分もあんなならないのかな、という状態でした。今度は、太陽がだんだん上がってくると、今度は疲れが、くるわけです。そして、口が渇くわけです。水が飲みたい。ベロを嘗めても、ときたま海水をかぶるわけです、いかだも、腰まで沈んでいるもんだから。波をかぶったりするもんだから、ベロでなめたりしたら、しょっぱいわけです。これの繰り返しで、今度は、お昼ごろになると、今度は眠たくなるわけです。

だから、夕べもずっと、起きているわけだから、こうしてつかんでおって、居眠りすると、海水に顔がつくから、また目が覚めるという、もう、これの繰り返しです。あぐらかいて座って、腰までは海水がつかっているもんだから、本当に手を離したら、そのまますぐ、流されるわけです。これの繰り返しで、大人の皆さんが「夕方までには、救助船が来るから、頑張ろうね」というようなことで、頑張ったわけです。だんだん太陽が、こう西に傾いていくに従って、いかだはもう、まばらにしか見えないわけです。午前中はたくさん周辺に、死体などもどこにいったか、分からない。そして、近くに島が見えるわけです。だから、この島が見えるもんだから、子どもだから、いかだはこの島に流れ着くだろうと、思っていたんです。島に流れ着いたら助かるだろうと。

やがて、太陽が沈もうとするときにも、救助船は来なかったわけです。今度は着ていた救命具が、重くなって体がもてなくなる、重くて、海水をすって。自分たちでは、どうにもできないから、大人の人がひもをはずして、救命具を海に流してくれたんです。そしたら体、軽くなってましたけれども。

夜になったら、今度は、海水に浸かっているから、腰が寒いわけですよ。座っていたら、ブルブル震えるくらい。そしたら、大人の人たちが体を、腰をひっつけておくとか、ということで、いくらかでもいいだろうと、体をひっつけあって、励ましてくれたんです。空は青空で、星晴れなんです。海も全く、海の中は、空と海と同じかなと思うくらい光っているんです、海も。後で夜光虫だということを、聞いたんだが、星が海に映っているのかなと思うくらい、錯覚するくらい、海と空が同じような状態に、なっている。「ああ、きれいだな」ということで、引き込まれていきそうなくらい、海がきれいなんです。空の星なのか、どうして海に、こんな星があるんだろう、というぐらい錯覚して。何か自分の考えがおかしくなったのかなと、思うくらいきれいなんです、海が。そうしながら、ときたま、夜中でも、大人の人たちが「手を離したら、だめだよ」ということを何回か、繰り返して言ってくれました。つかんでいるが、居眠りしたら、また海水に顔がつくもんだから、目が覚める。これの繰り返しで、夜中ブルブル震えながら、明け方を待ったという状態です。

そして、東の空が明るくなったら、11名になっているんです。昨日まで15名、乗っていたけれども、4名、減っているわけです。子ども2人と、大人2人が、いなくなっている。名前は分からないが、ただ数だけ、子ども5名いたのが、2人減っているわけです。大人の人も、2人減っているということで、話では「居眠りしたから、流されたんだはずよ」というようなことを、言っているわけです。だから、自分もどうなるのかなと、思いながら、ブルブル震えながら、それの繰り返しで、朝を迎えたわけです。「今日は2日目だから、必ず、救助来るよ」ということで、しているときに、ひもじいということは、なかったです。ただ、喉が渇く、口が、ベロが、もう本当にカラカラで。ベロ嘗めてもカラカラになっているわけです。そして「水が飲みたい、飲みたい」といって、夢うつつなんです。

お昼近くだったと、思います、太陽が、上に上がってきたときに、1機の飛行機が、飛んできたんです。そしたら「助けに来てくれたのかな」と思って。そしたら、飛行機は上空を2回、旋回して、上から、こう手を振るの、見えたんです。それくらい、低空でしたから。そしたら、大人の人が手を振って「おおい、おおい」ということでした。「今、飛行機で、遭難者を捜しているんだ」と。「夕方までに救助、来るよ」「がんばろうね、がんばろうね」ということを励まされて、飛行機は2回、旋回して飛び去っていったんです。そういうことで、ちょっとは助かるなと、救助、来るだろうなと思っていながら、そのまま、流れているわけです。

2日目以後、海が荒れてきたんです。後で聞いたら、低気圧が発生しているようなことで。海が荒れて、うねりというんですか、うねりの上にいくと、全部、見えるけれども、底に行くと、本当に、海底に、引き込まれるような状態の繰り返しだったんです。その中を魚の群れが、ときたま見えるわけです。魚の群れがこう、波の間に飛んで、飛んでずっと行く。トビウオとか。その後ろから、今度はサメも2~3匹ずつ追ってくるわけ、この魚を追って。そしたら、大人の人が「じっとしておれよ」と。「もう、これだけ海水に浸かっているから、サメなんかに発見されたりしたら、もう食われるぞ」と。「じっとしてろよ」ということの繰り返しが、だいたい、1日に2~3回くらいありました、そういう状況が。夕方、だんだん太陽が沈んで、結局、2日目も救助が来なかった、救助船。夜になってしまった、ということです。

もう、3日目になっているわけですけれども。大人の人が「今日は助けに来るから、頑張ろうね」というけど、今度、夜が明けたら、5名、減っているわけです。今は、6名しか、乗っていないんです。学童が2人と、大人の人が4名。3日目、夜が明けてみたら、6名しか乗っていない。だから2日目に減って、そして、3日目に5名、減っているもんだから。6名しか、乗っていないもんだから、いかだが軽くなって、人が少なくなったから、浮き上がっているわけ。

尻すれずれに、波があるぐらいで、浮き上がっている。いくらか、楽になったわけです。だから「今は楽でいいな」ということで。でも、ときたまた波が、あれだから手を離したら大変だから、ずっと、こういう状態の繰り返しでした。昨日に増して、更に口が乾いて、「水が飲みたい、水が飲みたい」それだけでした。ただ「水を飲ませてくれたらな」「水が飲みたい、水が飲みたい」という気持ちで、いっぱいでした。

それを繰り返しして、昼過ぎてから、太陽がちょっとくらい傾いたころ、ずっと救助船の、ずっと沖の方に、船影が見えたわけです。そしたら、この船がずっとそのまま、走り去っていくもんだから、手を振っても、見えないくらいの船影だから、大人の人たちが、船が救助に回っているんだというようなことで、「頑張らんと、いかんよ」「もうすぐ、助けに来るから」ということの繰り返しで、やっていたわけです。やがて、日が西に傾こうとするころ、再び、この船影が見えてきて、今度は船影が、大きく見えるわけです。本当に船の形で見えたもんだから、大人の人たちが、必死で「おおい! おおい!」って合図したら、やっと発見されて、船が近づいてきたんです。

そしたら、船は、海軍の哨戒艇でしたけれども、近づいてきた。「ああ、助かるな」と思っているわけですけれども。近づいてきたら、船からロープを投げたから、大人の人がいかだをゆわいつけたら、ひっぱられて、大人の4名はさっと、自分で甲板に上がることができる。子どもの学童2人は、もう手がかじかんで、動けないわけです。真っ白になって。ずっと、ロープをつかんで、こんなしているもんだから。そしたら、立てないもんだから、海軍の兵隊が1人、降りて、手をほどいてくれて、そして、抱えるようにして、甲板に乗せてくれた。2人。そして、濡れた洋服を脱がされて、毛布にくるまって、船室に運ばれたんです。もう、ぐっすり、何時間寝たか分からない。そのままぐっすり。「ああ、助かったな」というような気分でしたね。

それで、救助されて、船室に運ばれてから、あと、起こされたわけです、兵隊に。船はもう、鹿児島港に着くよということで。そのとき、お椀の一杯、半分ですよ、重湯を持ってきてくれたんです。もう、これを本当に一気に、本当においしかったですね。三日、三晩何も、口にしていないものだから、本当にもうこれを一気に、飲み干して、もっと欲しいということを、言ったら、もう、上陸するから、たくさん食べられる、心配するなと、三日、三晩の食べていないで一気にたくさん食べたら、ダメだということで、我慢しろと言われて、上陸したわけです。洋服はもう、乾かされて、着替えて上陸したら、このおわんの半分でしたが、これが本当にもう、おいしかったなと思いますね。もう、本当に救いの水みたいなもので、あったわけです。

そして、上陸してみたら、20名ぐらい、この哨戒艇に、救われていたわけですね。自分たちが救われたら、すぐ毛布にくるまって、寝かされて、何名、乗ったかは、分からないけれども、そのまたあとも、救助に回ったかどうか、分からないが、とにかく降りてみたら、20名近くぐらい、降りているわけです。そしたらもう、急いでみんなの回ってみたら、垣花国民学校の生徒が一人もいない。

「あれ、みんなどうなったのかな、みんな死んだのかな?」というようなことで。それから、もう余計に悲しくなってきたわけですね。

2晩目に、2日目になって、一人の少年が担架に担がれてきたんです。見たら、垣花の生徒なんですね。同じ、6年生で。「おい、元気だったの」と聞いたら、彼は船が沈む場合に、ロープでこっちの腸をえぐられて、真っ赤に血がただれているわけです。いくらか、治療はされているあとであるが、こっちに運ばれて来た。「僕、一人生きているのかって、心配だったよ」と言ったら、「いや、僕らは沈んだ翌日、鹿児島の漁船に、山川漁港の漁船に救われて8名元気だよ」と言うわけです。「ええっ、良かったな」と。初めて、友だちが元気で8名もいるっていうのが分かったら、誰々と、すぐ名前を聞くことはしなかったが、8名元気であるということを聞いて、本当にうれしかったわけです。

そして、1週間ぐらいして、みんな、今の山川の旅館に泊まっている皆さんが、鹿児島の市内に、集まったわけです。救助された人が、みんな集められて。そこに自分たちも、退院して、行ってみたら、垣花(国民学校)はけっこう、この8名しか、僕を入れて、9名、生きているわけです。まあ、そういうことで先生も、誰もいないんだと。それで、天妃(国民学校)の学校は2人しか、生きていなかったですね。

それで天妃は、第1次の疎開の皆さんが、宮崎にいるというわけですね。それで、むこうの先生が、この2人を迎えに来たわけです。そうしたら、全体を世話している先生が、垣花は次の疎開が来るまでは、天妃の学校と一緒に生活をしておくようにということで、宮崎市内の第二高等女学校の寄宿舎でしたが、向こうに、先生に、連れられて行ったわけです。

12月になってから2回目の疎開の皆さんが来てから、いろいろ話を聞いたりしてから、沖縄の様子も分かったわけです。

今の、沈んだということは、一切に秘密裏だったんだと。沈んだということは、はっきり、誰も、言ってないんだと。「沈んだらしい、沈んだらしい」ということがあるだけであって、沈んだということは、そんなことは、言えなかったというようなことを、言っているわけです。

何か、対馬丸が沈んだということは、秘密裏にされていたようですね。親たちは、「着いたら、ハガキをくれよ、電報くれよ」ぐらいなことを、言っていたわけですから、いとこの人もいて、お父さんが郵便局に勤務していた人がいるものだから、すぐ電報、送れよという、連絡があったようですけど、彼も、死んでしまっているんですけども。そうしたら、親たちは、どうも連絡がおかしいと。でも、学校へ行ったら、先生もいない、みんな兵隊だけになっている。それで、いろいろ、じゃあ、どこへ行けば分かるのかということで、先生方も、学校も、行けなかったようですね。

それで、沈んだということも、また、言ってはいけないということで、箝口令が敷かれていたということを、あとで聞いたわけ、だけれども。それで、沈んだらしい、沈んだらしいが、1週間たち、10日たち、20日たち、1ヵ月もしたら、もう、沈んだということに置き換えて、親たちは、大変な大騒動をしたようですけどね。

だから、本当に学校の先生方も、どうしようもなかったんでしょうね。沈んだと言ったら、また、いろいろ、こういう秘密裏にされているわけだし、そういうこので、着いていたら、子どもたちから、ハガキかなにか当然、来るって分かるし、電報が来て、分かるしっていうのが、これもこない、ということで、沈んだらしい、が沈んだということに変わって、大騒動になったって。それで、2次の募集も、200名もいたが、もう対馬丸が沈んだから行かない、行かないとなって、最終的には12月に11名、一人の先生が連れてきていたんですけどね。

終戦になって、1年目くらいして、長崎から、帰ってきたわけですけれども。それまで一切、家族が生きているとか、何とかいう情報はないわけです。

家族が元気かどうかも、分からないわけです。そうしながら、沖縄に帰っても、親に会えるのかとか、家族に会えるのかという、心配が今度、あるわけです。

まず、帰ってきたら、2日くらいしてから、父が迎えに来てくれたんです。何か、いると、帰ってきたということ、情報を聞いて。そして、みなさん今の石川市、うるま市になっているが、同じ父の兄弟が、向こうにいて、戦前から教員して、叔父さんがそこの屋嘉で生活していたというから、そこにいた。なぜかというと、帰ってみたら、母と兄と妹がいないわけです。いなくなっているわけです。兄は19歳だったから、防衛隊ということで、兵隊に防衛隊として、一緒に行っていた。母と妹は家族で山原に疎開避難して行って、終戦になるときに、食べる物がなくて、ひもじくて、マラリアとか、病気して、亡くなったという。父から「母と兄と妹はいないよ」ということを聞かされたわけです。

僕は、帰ってきて思ったのは、疎開して、対馬丸が沈んだということも、本当に大変だったけれども、沖縄に残っている家族も、大変だったと。友達も、垣花の皆さん、帰ってきたら、母と兄と妹が、いないわけでしょう。だから、疎開しても、大変だったし、沖縄に残っておっても、ああいう大変な目にあったんだ、ということを思ったわけです。だから、もう戦争というものは、本当に大変なもんだと。戦争というのは、お互いあのころは、兵隊が戦争するというぐらいにしか、思ってないわけです。ところが実際、上陸したり、沖縄で地上戦が起こったということは、残った民が、余計、大変だったと。いろいろなものを聞いてみたら、12万人以上の県民が、亡くなっているわけですね。だから、戦争というものは、起こったといったら、疎開した人も大変だったけれども、残った人たちも大変だったと。

だから、もう戦争というものほど、憎いものはないなということを、そのころから、だんだん思うようになったわけです。だから、救助された、救助されたということで、今までは思っていたが、帰ってきたら、今度は逆に、戦争というものの恐ろしさを、余計、身にしみて感じるわけです。ただ対馬丸が、アメリカのボーフィン号の潜水艦に攻撃を受けて沈んだということは、アメリカの潜水艦が、本当に憎いなということは思って、ずっと疎開中いたわけだけれども、帰ってきたら、それ以上に今度は、地上戦であんなたくさんの人が亡くなっていると。もう、家族3名、減っているわけですね、僕の家も。

僕は今、対馬丸記念館で語り部として、退職してからボランティアとして、いろんなことをやっておりますけれども、皆さんに今も、話したように、結局、疎開しても大変だったし、残っておっても大変だったと。だから今、旅行者がみんな来たときに、語り部をする場合に、僕は命がいちばん大事だということを、みんなに訴えるわけです。僕も皆さんも命はひとつだよと。だからその、ある命を是非大事にして欲しいと訴えるわけです。

命だけは、絶対に、粗末にしてほしくない。沖縄でも「命は宝(ヌチドゥタカラ)」という言葉があるわけですけれども、ぜひとも、命を大事にして、今いる友達とか、みんなにそういうものを広めていって、だんだん家庭が、そういうことを話し合えば、その周囲に、だんだん広がっていくと思うわけです。それが学校なり、集団、集落なりって世界につながっていくと、僕は思う。原点は家族だと思うよ、ということを皆さんに強く言っている。

平和の礎(いしじ・沖縄戦の犠牲者の名を刻銘した祈念碑)に24万人以上の刻銘されている。その半分以上は県民なんですよ。それが、戦争していない、一般民衆なんです。

実際はそういうことで、沖縄の地上戦のために、日本の国を守るために、まずは沖縄からということのために、こういうことを、犠牲になったのかということを、思うわけです。そういう意味での戦争というものは、全てが戦争につながるわけだから、誰が憎いとか、というようなものではなく、まず戦争を起こさないというようなことから、いろいろ考えなければ、いけないんじゃないかな、ということを思います。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
那覇市垣花(かきのはな)国民学校
1944年
8月 6年生で学童疎開の際、対馬丸が撃沈、宮崎県に疎開
1945年
親戚に引き取られ熊本県で疎開生活、母と妹が沖縄戦で死亡。
 
1946年 帰沖
 
高校を卒業後、教員訓練学校に通い、教職に、約40年間教員を務める

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