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タイトルタイトル: 「隠された“沈没”」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 喜屋武 盛守さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 沖縄からの住民疎開  02:20
[2]2 チャプター2 「疎開者を募れ」  00:59
[3]3 チャプター3 「残るも行くも国のため」  06:34
[4]4 チャプター4 乗り込む船は貨物船だった  04:21
[5]5 チャプター5 出港  01:35
[6]6 チャプター6 魚雷攻撃  05:11
[7]7 チャプター7 漂流  09:12
[8]8 チャプター8 伏せられた「沈没」  07:41
[9]9 チャプター9 疎開生活の日々  03:16
[10]10 チャプター10 対馬丸の悲劇を伝え続けたい  04:52

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月10日

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これはわたし16だったんだけど、いったい何でこんだけ、やいやい疎開って言うてくるんかなと。これは自分の考えですよ。そうすると、サイパンがやられた、そうするといよいよもう今度は日本に来る予定。そうすると老いも若きもとにかく「疎開、疎開」と言うことは、その裏に何かあるだろうと。ということは台湾に2万(人)、それから内地に8万(人)と、特に言っていましたので、合計10万(人)、これは出すんだ、沖縄から出すんだと。と言うことは10万(人)兵隊が入ってきたということだ。それは秘密ですけどね。つまり早く出さないと食糧が足りなくなる。だから入ってきただけの人数は、やはり外に出さないとつり合わないなんだろう。だからやいやい、疎開、疎開と言うんじゃないのかということを、わたし自身が子ども心に、何かあるんじゃないかなという感じはあったんです。

Q:当時は大人たちはどういう説明をしていたんですか。当時の大人たちは疎開に関してはどういう説明をしていたんですか。

正直言って、行くのも大変、残るのも大変。残るのが大変と言うよりは、沖縄がこんなにめちゃめちゃになるとは知りませんでした。でもやっぱりこういう若い連中は、今のうちにわずかでも向こうに行っておけば、将来この連中が大きくなったら、国のためになるんだろうということで、あの当時の言葉で「第二小国民」と言うんだけどね、「第二小国民」つまり15~16から下の、この連中が、将来、国のために尽くすだろうということを公然として言っていました。

軍艦がつくとか、あるいは軍艦じゃなくても、やや安全性のあるものがつくということは公然と言っていました。それは学童疎開が出る前、「ちゃんと軍艦で連れていってくれるそうだよ」ということは学校を通じてあったわけだ。

だって那覇市長も言っていたんだから。我々の美東小学校の校長も「軍艦もついて行くそうだよ」と。そう言わないと学童の人たちがついてこないから、だったかもしれないけど、それははっきり言っていました。

親父が「おい、行くことに決まったよ」というふうにもう言ってきたもんだから。「ただし女ばっかりだから、ちょっと頼りないから、お前男一人ついていけ」と。「いや、ちょっと待ってよ、それは疎開できませんよ」と。16歳以上は、つまり学徒隊。「いや、女ばかり3人のときは、女ばかりのときは16歳以上でも一人は男ついていってもいいんだということになっているそうだ」と、親父が言ってきたわけ。

それはやっぱり「わしは男だ」と。「女ばっかりでお前一人ついていけ」と。行けば、男の子が一人いればなんとかなるだろう。例えば配給の時代だから、芋を買いだしに行くとか、そうすると男が一人ついていれば何とかなるだろうと、親父はそういう配慮だったと思うんだよね。わたし自体も、それはやっぱり妹もおるし、姉たちも女だから、行けば何とか手助けにはなるだろう。しかしそのとき僕は内地へ行ったことないからね、そのときまでは。まだまだ内地がどんなかわからないから、行ってどうなるかそれはわからない。ただそうだろうと想像するぐらいのものでね。

それで、じゃ、というわけで学校と相談したわけ。学校と相談したら、二中でも14~15人おりました。僕より下もおれば上もおったんだ。みんな職員室の前に集められて、「お前ら何、内地に行く。逃げるつもりか」ということで。当時学校には配属将校というのがおりました。配属というのはつまり予備役の将校。少尉、中尉、いろいろおるんだけど、それが各学校に予備役だから、一ぺん、兵隊に行って帰ってきて。この連中各学校に配属してあった。これ配属将校って。この連中が「お前ら、逃げるのか」ということになったんだ。いや、逃げるんじゃないんだと、こうこうこうして女ばかりだから、ついて行くんだということで、ざっと1時間くらい説教されたかな。「よろしい、じゃもう沖縄に残るのも国に対する奉公。行くのも奉公だから、じゃ行ってこい」ということになった。

それで学籍簿から何から一応全部そろえてくれた。わたしの学籍簿ですよ。まさか対馬丸で死ぬと思っていないから。行けば当然鹿児島の何中学校に転校するつもりだった。その当時、内地は学徒動員はあったんだけど、沖縄みたいに学校が兵舎になって、勉強できないという状態じゃなかった。鹿児島から向こうは、やっぱり毎日軍事教練とかそういうのはあったけれども、勉強もできたんです。そうすると一つは、僕はもう少し勉強したいという気もあったんだね。そんなことかな。

昭和19年ですが、18年の暮れぐらいからあっちこっち(船が)沈んでいます。そうすると、兵隊が沈んだそうだ、何人泳いで上がったそうだという噂が入ってきた。そうすると、内地にやりたい、ところが行くのもまた、やられたらどうしようかと。しかも行くからにはやっぱり、はい、行きましょうかと旅行や遠足行くようなわけにはいかない。

学童疎開で行った子どもたち、あの子どもたちはおそらく旅行気分ですよ。だから鹿児島に行ったら桜も見れる、雪も降るって、いろいろ旅行気分ですよ。しかしわたしたちはやっぱりそういう気分じゃありませんでしたね。やっぱり現実を知って、15~16にもなるとわかるから、そんなに甘くはないという感じは覚悟していました。

やっぱり荷物も集めて、それからさらに行くほうも大変だったでしょうね。わたしたちは親子4人だし、僕は一人男だった、まあ16歳以上だったけど、「お前、ついて行け」ということで、行ったんだけど、ぱっやり出す親たちは大変だったと思うよ。口にこそ言わないけど、もう沈むという話はどんどん聞いてますからね。その証拠にわたしの親父は、「お前、無事にこの船が鹿児島につくと思うなよ」と。「どんどん沈んでいるから、そう思うな。もし沈んだら親も子は問題ない。自分一人だけ逃げなさい」ということを親父が言ったところをみると、やっぱり親父はその覚悟だったんじゃないかな。かと言って沖縄に残すことは、やはり大変でしょう。

だって沖縄に残ったって、どうせ南部で学徒隊で、わたしは8月、10月か11月からはもう一応話は出ていましたので。どうせ行かなければいかんという感じはあった。そうするとどうしても、残ったら残ったなりに何かにさせられる。だったらやっぱり今のうちに内地に渡した方がいいんじゃないか。まあ兄は八重山におったからね。そんな感じだったんじゃないかね。

さぁ乗るぞと、乗り込むときはみんな一列に並んで待っていますね。そうすると、どれが自分が乗る船かわからない。そうすると上陸用舟艇みたいに乗って、着いてあとから初めて対馬丸だったと、こういうことなんだ。そうすると貨物船なんだ。タラップを上がっていった。そのときに、これ大丈夫か、この船ね。船が沈むんじゃなくて、そこで生活できるのか、何日か生活できるのかと、ぱっと見たところ。それでタラップを上がって、それから底に降りていく。これ大変なことだったんだ。トイレもないし、トイレ全部上にあるんですから。水もない。冷房もなにも、貨物船だからそんなものないわけだ。乗ってから、これはえらいことになったなと思ったけれども、いまさら帰りようがない。1晩か2晩かしたら着くはずだからということで、もうそのときはあきらめるよりはしようがない。

我々乗船券の切符を買ったわけじゃない。だから荷物の引換券、そんなものも何もない。むしろ乗れ、乗れっていっぱいになったら、次の船がまたきて、はい、次だと。荷物は荷物でどんどん積んでいるわけ、兵隊が。だからわたしの荷物はどこに、そんなもん心配せんでもいいと。この船は3つは一緒につくんだから(このときの疎開船全部で3隻だった)は、そこで降ろすんだから、どれに積んでもいいということだったんだ。

Q:喜屋武さんの場合は親せきの方も一緒に行かれていますよね。親せきの中からも反対はなかったんですか。

親せきで、僕のいとこで、これが当時35~36だな、そうすると壮年も壮年ね。これがいちばん、僕のいとこなんですが。この連中がやっぱり、よく行く気になったなと。妻子が病弱だとか、いろいろと理由もあって、やっぱりわたしがついて行かなきゃということで、ついて行った。結局死んじゃったんだけどね。親せきでは恐らく喜屋武と名のつくものを合わせては、対馬丸に乗ったのはわたしたち一族ですが、たくさん、あっちも行くんだったら、うちも行こうかと。あっちも行くんだったら、うちも行くかということで、やっぱりそろえば心強い、少々のことがあってもなんとか耐えられるということもあったでしょうね。そんなことで、僕の親せきの場合、いとことかの連中は、相談したわけじゃないけれども、行くんだったら一緒行こうかということだったと思います。僕はなぜそう思いますというかというと、僕は那覇に下宿している、そうするとそういう相談は泡瀬の方でやっているわけ。だから親せきでどんな会話をしたかそれははっきり覚えていない。いよいよ乗る段になって、集まって「お前も行くのか」「お前も行くのか」ということぐらいで。わたしも姉もそうなんですが、行くという話は聞いているけれども、実際は集合場所にいってみて、僕たちは2人とも那覇に下宿しているもんだから。行ってみないとわからないということでした。親せきは、どっちかというと、4割くらい助かったんじゃないかな。

この船に乗ったときに、「中学生全部集まれ」と中学生集められたわけだ。僕は二中ですが、一中もあれば水産、工業、商業がおった。24~25人おったかな。「集まれ」って。

「2時間交替で監視しろ」と。ぐるぐるぐるぐる2時間回っている。監視するというのは何かといったら、潜水艦がそこに来たら「おーい、潜望鏡見えたぞ」ということだ。それは、昼はいいけど、夜は見えるもんじゃないんだ。

船長の他に船舶兵の親分がおったんだ。軍曹だったかなんかわからないけどね。これが輸送司令官。船長はこれの言うとおりなんだから。中学生集まれと言ったのはこの連中なんだ。彼の言うとおりなんだ。この船の船団の指揮は彼が全部とっているわけだから。集められて3つの班に分けたのも、彼が分けたわけだ。それで2時間か3時間か、夜中は3時間、昼間は2時間交替くらいで交代して。我々は潜望鏡も双眼鏡も持っているわけじゃない。ただ見ているだけの話なんだ。

2発3発目は連続でした。時間にしたらおそらく10秒前後間隔あったかな。2回目3回目来たときに、このマストが、この煙突が倒れてきた。これえらいことになると。そのときすでにもうここにおった人たちは、ダーッと立ってしまってね。お母さん、おじいちゃんがワーッと大変なことになったんだ。そうするとマストが倒れてくるから。船はぼつぼつまだ傾いてはいないけど、ぼつぼつ、やられるから、速度も落ちてきた。それからはもう親とか兄弟言っている暇はない。そのへんいっぱいですから。少なくともわたしたちはこの後部の甲板、後部だけでここに200人から250人くらい人間がおったはずだから、立ってしまって。それから飛び込むまでに時間にして5~6分、もうちょっとあったな。ありましたよ。船がいよいよ傾いて沈みかけてくる。

Q:そのときは、最初の攻撃があったときは、喜屋武さんは、回りはご家族は一緒にいらっしゃったんですか。

いや、そのときは、いま言う交替時間、2~3時間おきの。わたしはぐっすり寝ていた、交替して。でも寝ているって言っても家族の側にですよ。寝ていた。だから最初1発は知らないというのは、2発3発目はもうこれがドーンとやってこれが倒れてきたんで、もうそのときは目が覚めて起きた。そしたらお袋や妹たちがどこやらわからない。そこはもういっぱいだから人が。そこからは兄弟なんていう状態じゃなかった。おそらくあんたが聞いた範囲も大体こんな感じじゃないかと思うんです。ただ最初から言うとおり、やられるまではみんな同じ条件です。やられた後は飛び込む状態、それから漂流。それによって個人差がみんなばらばらあるわけだ。うちのお袋は13時間くらいで助かった。わたしみたいに50何時間。ひどいのは1週間となると、その体験はいろいろある。しかしやられるまではみな同じ条件。その後は飛び込んだ状態、その状態によってみんな違ってきたね。

わたしはいちばんケツから飛び込んだんで。そのとき、海面まで1メートルから1メートル500(50)ありました。

飛び込むころからはもう家族など一切もう関係ない。関係ないというのはそんな余裕なかった。自分一人助かるのに精一杯だったんでね。

三日月が出ていたんじゃないかという感じなんだ。三日月くらいで薄明かり。それではっきり見えませんけども。あれは男だ、あれは女だと確認できる状態じゃない。もうそこに人が飛び込むのも落ちていくのもおるし、いろいろおると。

まず飛び込んで、救命具つけていると浮きます。胸ぐらいまで浮きます。そうするとこの船に積んである、木製品あるいは瓶とかそういうのがどんどん上がってきます。浮いてきます。一斗樽(たる)だとかもういろんなものが浮いてくるわけ。それにどうしたら早くつかまえてすがれるかと。いつまでも、救命具といってもそう泳いでおるわけにはいかんから。いかだもどんどん浮いてきます。いかだもおそらく、そのときはわからないけど、最初乗った状態からすると、このいかだ山積みに積んであったんです。100個近く積んであったんじゃないかな。それが船が沈んだら全部浮いてきたから。だから早くつかみ勝負だね。

(魚雷に)やられて飛び込みました。そうすると、この船を中心に他の2隻、それから駆逐艦、それがぐるぐるまわって爆雷落とすわけ。爆雷というのはこんな丸いものなんだ。中に爆薬が入っているわけ。ある程度海水に沈むとやるわけだ。これ爆雷という。つまり潜水艦攻撃用の。それをどんどん落として逃げるわけだ。それがある程度入ってくるとドーンと爆発します。それがズズンとこたえてくるんだ、浮いているもんで。これで女の人たちは、おそらくやられたんじゃないかなと。みんなも爆雷の音は、とにかく恐かった。ドドーンと響くぐらいやりますね。それでやられて。あれは水圧でやられたとわかる証拠がある。内出血起こして、ここから血が出てくる。それでその血がドッと出るんじゃなくて、じわーっと流れる。あれは内出血して内臓やられているわけ。それがずーと出るからね。そして血が出るころには意識はありません。でもつかまえているロープだけは離しませんよ。離しませんと言うよりは硬直しているから離れないんだ。

わたしはいかだをつかんだら、最初は7~8人乗っていた。乗っていたですね。そうするとどんどんどん流れてくるわけだから。お前乗っていかん、お前乗るなと言うわけにはいきませんからね。いかだに乗れる者はまたがって、乗れない者はロープつかまえてぶら下がって、つかまえている。そんな状態。夜の10時にやられたから、恐らく明け方4時、5時、朝明け方。そのときにはもう、10人くらいになっていたんじゃないかな。最初は14人おった。最初に数えてみた。14人おった。人を数えるくらいの明るさはあった。明るくなって明け方の4時か5時だったら、10人くらいに減ったんじゃないかな。そのときにじっくり数えるような状態じゃない。しょっちゅう揺れてますから。56時間僕泳いでいたんだけど、56時間ずっとこうやってます、ずっと。激しくなるか、揺れで、それだけでずっとやってます。だからしょっちゅうつかまえておかないと投げ出されるか、その状態です。自分一人助かったんだから、お袋が助かっている、妹が助かっているか、そんなことは考えませんでした。

だいたい30時間、やられて丸1日、もうちょっと落ち着いてくると、におってくる。死臭だね。におってくる。もう死んでいるわけだから、硬直している手をあけて、流してあげた。いつまでもそこに置いておいたらたまらん。とてもじゃないけど、もうどうせ死んでいるんだからね。そういう意味で、この手をあけて流すときは、このときはかわいそうだといちばん思ったね、あのときは。助けようにも助けようがないわけだ、死んでいるんだから。離してやらないと臭いし、いつまでもそれがあったらどうにもならないから、結局離した。かわいそうだなと、そのときはつくづく大変だなと思った。それまでは波と闘うので精一杯だったから、そんなこと考えるまでなかった。だから水も飲んでいない。食べるものも何もない。それでもそんなに水欲しいなということは、それはなかったんです。そういう死んだ連中を放した。その辺から生に対する執着は出てきた。それまではそれほどでもなかったんだよね。そしてもう一つ。わたしには、家族がおるんだと。だから死んでたまるかという気があったんだ、一つは。それで、このいかだにさえ乗っておれば、何とか助かるだろうということでしょうね。そんな感じで、わたしは絶対助かるんだという気があったわけじゃないけどね。とにかく乗っておれば何とかなるさと。沈んで8時間か10時間すると夜が明けます。そのときからぼつぼつ上から飛行機が飛び始めるわけです、これは日本の。そうすると通信筒を落とすんだ。通信筒に何かこういうこと書いてあるんでしょう。「あなたの飛行機の南の方に、500メートルの所に人間がたくさん浮いている、助けなさい」ということ漁船に落とすんでしょう。その漁船はずっと向こうに行きますからね。こっちも生きているんだよって、おるんだよって言っても、ひゅーと向こうに行く。それで2日目、いま言うふうに、放しだして。かわいそうだなと、わたしは大丈夫かなと思ったころは、つまり2回目の捜索の漁船が通っていった。そのときもすーっと向こうに、反対側に行っちゃうんだ。そのときからはもうシャツを脱いで振ったりいろんなことやっていた。でもやっぱり気が付いてくれなかった。

それで3回目、つまり56時間目にやっと僕のほうに船が向かってきた。これが最後の船だった。最後って言うのは、わたしの記憶ではよ。他にもあったかどうか知らないけど。それで助けられた。まず船員が飛び込んできてすぐ上げてくれた。これで何とか助かるかなと、上がったらやっと助かったと。そのときは腹が減る、水が欲しい。それまでは緊張のしっぱなしだったんだろうな。

山川という港に助けられて、そこで傷の手当てをして、それから同じ漁船がまた鹿児島まで連れてきた。で、降りた。

56時間も浮いていてもそんなにのどが乾いたとかいうことはない。途中で海水を飲んでみたの。そしたらのどから落ちないです。とても辛くて落ちるもんじゃない。えーってすぐ吐き出した。学童で行った連中に話を聞いてみると、小便飲んだ連中もおるんだけど、それは自分のものから出てくるんだから、別にそんなに悪いことじゃないはず。そんなことは知識が頭にはないだろうけど。たまらんと、それでも、しかし飲んだって乾きが止まるわけじゃない。でも彼らみたいに1週間も泳いでいるとそうでもしたくなるでしょうね。あと聞いた範囲は、平良啓子さんたちは、おそれく1週間近く、1週間までおったかな、それあたりじゃないかな。あれは大変だったはずね。

箝口令(かんこうれい)っていうのはよく覚えています。まず鹿児島に上陸したときに、

下りたら鹿児島の港は、桜島が後ろで東に向かっている。向こうにフェンス、金網があるわけ。それの向こうが市街だね。こっち側は港なんだ。助かって上がった。上がったら真っ先に見たのは叔父が立っている、叔父が立っている。あ、叔父が立っていると。
そしたら憲兵がデーンとすぐ集まってきた。憲兵、兵隊が。そして絶対に会わさない。迎えにきているのに。叔父がおると言っても会わせない。絶対にダメなんですと。そっくりそのまま軍用トラックに乗せられた。

パッと包囲してね。軍用トラックに乗せる、この連中。兵隊ですよ。まず旅館連れていかれました。

これが箝口令なんですよ。なぜかと言うと、見たらすぐわかる、この連中、船で沈んだなとわかるわけだ。どこから来ていないから。そうすると箝口令っていうのは、船が沈んだらしいよということが出ていくと困るわけ。

「あなたたちは絶対に言うたらいかんよ」、それはもうしょっちゅう言われていますよ。旅館に入れられてもね。絶対に言うたらいかんと。

当時、県の職員が「わたしは県の職員の○○というものです。実はさっきあそこのナントカ旅館へ行ってきたんです」と。「わたしこれが仕事ですから」と。そうすると、「喜屋武ツルさん」僕のお袋ツルっていうからね。「喜屋武ツルさん、年はいくつ」って言うたわけだ。あ、お袋助かったなと。姉の名前も言うわけ。妹の名前は言わない。「これだけですか」と「はい」。「お宅の親せき、たくさんおりますよね。」と。喜屋武姓はこうこういうけど、僕の妹は言わないんだな。だめだったなと。

それがつまり職員から言うまでは全然わからない。情報の収集のしようがない。

「妹はどうなった。」、「いないよ。」となったんで。だから、かわいそうだなというより、しかしそうでしょうねと、あの状態では無理だと。普通の状態とは違うんだから、助からなかったが。むしろお袋が、姉たちが助かったのが不思議なくらいだったな。妹に対しては、それは薄情か知らないけど、だってそれは望んでも無理。もう飛び込んで泳げるとか、もうこれはあきらめているからね。お袋も、生きてるとは鹿児島上陸するまで全然知らないわけだからね。

「沈んだ」「沈んだ」「いや、沈まない」「いや沈んだ」「沈んだものどこの誰は生きているそうだ」「どこどこにあがったそうだ」というものが、1週間くらいは沖縄ではこんなだったんじゃないかな。

10月空襲はわたしは鹿児島におりました。それから僕たちは鹿児島空襲でやられて、結局宮崎に、わたしたちは。それから宮崎も空襲が始まって、今度は都城というところに行った。そのときにいま言ういとこの嫁さんとかたちは都城に来た。そのときに会ったくらいかな。それから彼らはすぐ、沖縄に帰れるようになったら帰りました。僕だけ残ったわけ。それからすると約50年近く会ってませんね、そのときから。家はないは畑も仕事もない、お金もない。ないないづくしで疎開者は大変だったでしょうね。うちも大変だったと思います。でもまだお袋がおったんで、何とか食うだけは、何とかお袋がやっぱり工面したかなんか知りませんけど、食うだけは。やっぱり、お袋が沖縄に帰るまでは親子3名は都城におったんですが、何とか食うだけはありましたよ。苦労したなと思うんだけどね。そのとき16、17ですね、僕が。

加治木へ行って、それから都城に行って。中学もだいぶ変わりましたよ。加治木中学いってそれから高鍋中学、宮崎の。それから都城。三つ出ましたね。ほんの疎開者で、話題になるようなこともやっていませんし、友だちもおりませんけど、疎開できてかわいそうだなと思ったんじゃないかな。着るものもろくにない。いまいちばん疎開でつらかったと思うのは、この中学に復学してから1学期、2学期、3学期、期末試験というのがある。3学期の期末試験はいちばん寒いときだ。1月の末くらいだな。もう指が動かない。都城の中学の教師が「おい、いいこと教えてやろう」と。「お前、家から出る前にこんな丸い石を、飯炊くときに釜に焼いてもらえ。そして新聞紙に包んで持ってこい」という。今で言うカイロも何も無いころだからね。それでぬくめて、カンニングはだめだよと、でもぬくめる分は認めるから、それでぬくめて。指が動かないんだから、沖縄から出てきて初めての冬だしね。朝、洗面できない、冷たくて。指をつくのも切れるような感じだからね。その石を焼いて期末試験受けた記憶が今でもあります。

第一、旅館は出ようがないんです。なぜかといったら、みんな遭難して帰りでしょう。ろくな物着ていない。草履だってスリッパ履いているかどうか。この状態でまず50時間泳いでみなさい。何もかもみんななくなりますよ、極端に言うと。パンツもなにもなくなる。いつ脱げたかわからないけど。それでそのまま上陸して、ぱっと入れられると、旅館からはい、散歩行ってこようって、とても出られない。それにそのころ戦争中なんですが、やっぱり食糧が少ないから、飴(あめ)とかああいう甘いものに非常に餓えている。お金さえ出せば何とかヤミであるわけ。疎開者はお金とかサイフどころか、命からがら上がってきたんだから、欲しいけど旅館ではそんなもん出てこないからね。出ると、お金が欲しい、甘いものが欲しい。財布も何もないわけなんだ。「はい」って支給されたわけじゃない。

とにかく旅館で飯だけ食えるだけ、まだましやと。飯もそんないいご飯あったと思わないからね、戦争中で。麦飯半分くらいで、あとはお汁があったくらいだったと思う。こっちは50何時間も60時間も海で泳いできたから、何食ってもうまいしね。だから不満もそんなにあったわけじゃないけど、やっぱり世間を見ると、はー、欲しいなと思いましたよ。今みたいに何でも自由じゃありません。もう戦争中のことだから、配給制の時代だから、パンだって何だって高くて、豊富にあったわけじゃないけど、しかしあるところにはあったわけなんだからね、金さえあれば。

石を3つ置いて大きい釜置いて、これでご飯は自炊。疎開者が自分で炊く。朝昼晩そればっかりだ。そういう生活が疎開者の生活だったんだね。そうするとやっぱり地元のどこそこ村、どこそこ町とか行くと、回りは普通なわけだ。それはまあぜいたくじゃないけれども、やっぱり自分の家、自分の所帯があるわけだから、食べるものも何とかあった。疎開者はもう本当に、特に我々みたいに遭難で上がってきた連中は、何一つないわけだ。何もないわけだからね。遭難して助かった者と一般の疎開者と一緒にはしませんからね。
疎開者は疎開者、一般の人は一般の人。だから遭難して上がった連中は本当に惨めだったな。

いま、64年前、65年前のことをいま考えるんだけど、本当に疎開して、「わしは生きよう」と内地へ行って、とにかく、沖縄は戦争になるかもしれない、そうしたら大変なことになるって思っていたかどうかわからない、あのころ。今日生きているんだけど、64年、生きているんだけど、今日本当に自分が努力したのかなと、つまり生きるために。

今日考えるのは、その親父が沖縄戦で南部で死んじゃった。戦後僕は50年内地におって、そのあいだに面会に何べんも帰ってきた。第1回は昭和26年に帰ってきた。それで聞いたら、親父は死んだと。兄も八重山で元気だった。結局、逃がした、我々を疎開して何とか助けようと言った本人さんは死んじゃって、あと我々が生き残ったんだということでしょうね。疎開っていうのは何と言うかな、苦労もしました、内地行って、苦労もしたんですが、まだ生きているだけは、まだましかなと。常に思っていましたよ。今日もそうなんですがね。やっぱりそれだけ泳いだり努力もしたんだけれども、やっぱり運かな、一つのね。そういう状態でも生き残ったんだから。そんなもんかな。

戦争というのは大変だよと。つまり、どんな戦争でも女と子どもが真っ先に犠牲になります。つまり弱い者。これだけは忘れんといてねと。ここは必ず僕は言ってます。女と子ども、つまり弱い者。もう13~14にもなれば、今はどこに行っても鉄砲持たせて突っ込みさせられると。しかし女、子どもはそうはいかないんだと。これは忘れんといてくれということを、いつも言ってます。わたしが言うのはこんな、つまり社会的弱者、いろいろあるんだけれども、とにかく戦争というのはいいことは一つもない。特に女、子どもは真っ先に犠牲になるんだと。

語り部というのはこの7~8年前からできた。それまでは語り部というものはなかった。また仮に言ったところで、わたしが対馬丸の生き残りだということを知っている人もそんなにいない。

だから言うと、うちの子もあんたと同級生だったねと言われると、泣きつかれるような、何か生きてきて悪いことしたような気がしたんで、そういうことでこの20年くらい前までは対馬丸の生き残りだと誰も言わなかったはずよ。

それは今、わたしが知っている分を話さなきゃなきゃ、誰が話しするんだと、今日だってあるわけなんだからね。これ、NHKさんから、お宅から給料が出るわけでもなんでもない。でもこういうことがあったんだよということは、誰かが言わなきゃ、誰も聞いていて、わかるものもわからなくなっちゃうんだね。これはもう生き残った人間の義務でしょう。だからこの話は我々が生きているころでもう終わりだね。我々が死んでしまったら、もうなくなります。またこういう古い話は、いつまであっても困るでしょう。世の中ぐるぐる変わるんです。だから、これは悪いことじゃないです、いいことなんですが、もっと他にやるべき話もたくさん出てくると思います。あとはあとの人たちがどう受け取るかが問題なんですがね。でもやっぱり生き残りは生き残りとしての、やることはやらなきゃいかんでしょう。そう、いつもそういう気持ちです。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
旧美里村(みさとS・沖縄市)泡瀬(あわせ)在住
1941年
県立第二中学校に入学
1944年
8月 3年生で家族と疎開の際、対馬丸が撃沈、妹が死亡
1945年
疎開生活
 
1947年 大阪へ、以後、鉄工業・空調会社に勤務
 
1989年 帰沖

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