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タイトルタイトル: 「いかだでの死闘」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 平良 啓子さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月4日

チャプター

[1]1 チャプター1 気が付いたら海に浮かんでいた  02:13
[2]2 チャプター2 孤独の海  02:32
[3]3 チャプター3 いかだでの死闘  05:39
[4]4 チャプター4 失望の漂流  02:35
[5]5 チャプター5 消えていく人たち  06:56
[6]6 チャプター6 たどり着いた島は無人島  04:12
[7]7 チャプター7 救助  03:50
[8]8 チャプター8 沖縄出身の人に出会う  04:40
[9]9 チャプター9 津嘉山さんの家へ  05:05
[10]10 チャプター10 家族との再会  02:37
[11]11 チャプター11 慰霊祭  02:07
[12]12 チャプター12 よみがえる恐怖  04:42

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月4日

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飛び込むことはしてない。もうわたしが目を覚ましたときは船は沈んで、沈みかけているんです。あれは11分で沈んだと言うからね。3発くらったって言う人もおれば、わたしはあまり、ボーンという音一つで目が覚めたんですよ。最後の1発だったのかね。それからもう既に船は沈んでいて、ここまで水が来ているんですよ。飛び込むどころじゃない。上から、傾いているから、上から逃げ回っている人たちは飛び込むはずだけど、もうわたしは既に飛び込まなくてもいいような、水の上に浮いているんですよ、目が覚めたときには。そのときに、アップアップしたときに「啓子、トキコ、早く飛び込め」って言うときには、もう飛び込むどころじゃない。もう既に浮いていました。それは見えるんですよ、逃げ回って、つかまえて海に投げ入れている姿をわたしは見ましたし、それから帆柱傾く、沈みかけた帆柱に子どもをおんぶした婦人が、「兵隊さん助けて、助けて」ってよじ登ったらガラガラってみんなポンポンと落ちていく姿とか、そういうの見ましたからね。遠くのほうでは子どもたちがワーワー泣いているし、叫んでいるし、ボートのまた乗せられて、進んだかと思ったら転覆してみんなポンポン落ちて、サーッと、波は荒かったですよ。サーッと引きずっていく波でしたから。時々、ボーンとかバーンと来て、ぶち当たって、どっかへ砕けてくる。またしばらくしたらボーンと来る。そのたびに物や人がかかってくるんですよ、体に。それをはねのけないと押しつぶされて死んでしまうわけ。だからわたしも、腕力が少しあったんでしょうね、それをはねのけて、自分は一生懸命身を守るために一生懸命、で、ちょうど醤油樽(だる)が来たからこれに乗ってあっち行ったりこっち行ったりだから。もう逃げ道ないね。もうここに取り巻かれて。

死んだ人とか、物とか、いろんな雑物が身のまわりに寄ってきて、

もう夜の海には人間の慟哭(どうこく)ですよ、地獄絵です、ワーワー、「母ちゃん」「お父さん」「兵隊さん」「先生よー」してもう、本当に「恐いよ」「恐いよ」で騒いでいたのに、静かになったときには死体となって浮いているんです。

醤油樽(しょうゆだる)は離したくないし、これを持ってから逃げられない、ただ浮いているだけですよ。

どうすれば生きるかなということを一生懸命考えていたんだ、わたしも。

大波をかぶるたんびにファッと波を吐き出しながらそこで、一生懸命自分の身を守っているところに、トキコ(友人)が出てきたとか、そういうふうにトキコが流れていったもんですから、波は寄せては返すから出てくるんじゃないかと思って、入口で待って、待って、「トキコー、トキコー」って、もう半袖の白いブラウスを着ていましたから、もう薄暗くてわからないんですよ、夜だから、燃えているあいだは見えますけど、火が消え始めて沈みかけたらもう暗い海ですよね、だから探せなくて。彼女を捜しているあいだに、また次のさっき来たような波がまたバーってかかってくるから、もう危なくて、トキコを探すのをやめて、わたしはもう一人でなんとか死なないようにどっかへ逃げよう、何かにもたれようということを考えていました。

悲しかったですよ。二人して一緒だったら、二人一緒に頑張ればどこかで一緒にできるのにと思ったのに、一人去ると、自分の身内一人もいないんだから、トキコしかいないから、良かったと思って二人して一生懸命生きて帰ろうねという気持ちで、泣くなとか、泣いたら、涙が出たら力が弱るとか言って、あんなに励ましているのに、失ってしまったからショックで、

 だから母の言葉を思い出して。

「来年の3月にはきっと会えるから、それまでは辛抱するんだよ、わがまま言わないよ」って注意されてきているもんですから、だから母が、来年3月にきっと会えるという、その思いが、お母さんに会うまではわたしは死なないで帰るっていうふうな気持ちを強く持って泣きませんでした。泣きたいけどこらえました。姉も遠くに行っていないし、祖母も見えないし、チヨコ姉さんもいないし、タケヨシもいない、トキコも、見つかったトキコも逃がして、もう流されてしまったから、もう一人ぼっちですよ。もう孤独ですよ。

50メートル沖で人が騒いでいるから、あ、向こうに大人がいる、すがれる物があるからみんな向こうにいるんだと。

向こうへ行けばわたしも一緒になったら生きるかも知れない、あっちへ行きたい、行きたい、みんなと一緒に生きたい、人のところへ。

死体だから、生きた人たちのところへ行きたいと思って行こうとするけど、

物とか死体とかをかき分けて、かき分けて、

自分自身が生きるか死ぬかのことで精一杯で、死体を触るのも恐くないですよ、あのときは。もう逃げたいだけだから。なんと言ったらいいかな、あれはもう、恐い、死体に触るの嫌だなという思いはないですね。ぶつかってくるんだから、自然と、恐いと思っても。だからこれを蹴(け)散らして、この上をはいだしていかないと自分は生きられないという気持ちが先にあるもんだから、もう死体が恐いとか恐ろしいとかいう気持ちはないんです。何かわからない、人か物かもわからん、とにかくそこを抜ければいいということしか頭にない。そこを早く逃げないと、向こうの騒いでいるところに早くたどり着かないとわたしは死んでしまうということが、頭の中にはあるもんだから、もう必死ですよ。無我夢中でしたね。

あまりにも波が大きくて、ドドーっと。もう向かえば後ろのほうに退くんですよ。もうこれでわたしは波に飲まれてここで死ぬのかなと、何度も死ぬんじゃないかということを思っていましたけども、

50メートル沖のワイワイしたところにたどり着いたんです。やれやれ着いたと思って、すぐ片手をついた途端に、こっちから流れていく男の人が、両足をつかんで引きずったんです。わたしを引っぱれば自分もそこに寄れると思ったのかも知れないね。そのいかだにわたしが手をついているから。わたしを引っぱれば自分もこれると思ったかも知れない。   それが手が離れて、水の中に引きずられて、もうわたしはそこでおしまい、もうこんな水の中に大人に引っぱられたら、もういかだはどんどん前へ進むし、波は多いし、もう死ぬのかと思ったんだけど、なんとしても生きたいと思っているから、両足でこの男の人の手を蹴って、蹴って、蹴っ飛ばして、慌てて泳いで、いかだのほうに手をついて、ふーっと息をして、水も吐き出しながら、そうやったらまた先に乗った人がまた押し倒して、ひっくり返ったんですよ、わたしが。

もうこれでわたしはここには大人が多いから、わたしが生きる道はないなと思って、
そのときに、それでもわたし、これにどうしてもすがりたいと思って、このあたりは恐い男がいっぱいいる、大人がいっぱい、男が、女が、大人がいっぱいいて恐い、ここはちょっと空いてるなと思ったところを目がけて、こっちのほうへそばから行こうと思うけれども、行こうとしたら先に乗った人が離すもんだから、これはもうこんな浮いていますよ、いかだは、本当に、本当に転覆したら。とにかくこれにはい上がれるものは生きるけど、すがれない者はもう流れて死ぬしかないという場面ですからね。しかも台風の余波もあって波も荒いし、そのときに思ったときにわたしは、よし、わからないように知らないふりして潜っていこうと思って、いかだの下にもぐったんです。潜りもできるから。潜っていってそこへ出てきて、小さい手を引っかけて、頭を全部隠して、苦しくなったら水の中でふーって息をして、これを繰り返し、揺れながらくり返して、そのときにすきを見ていかだの真ん中に滑り込もうと思っているわけです。そうしたら大丈夫だと思って。今だと思ったときにすぐはい上がって滑り込むことができて、やれやれ、もうものも言わない。顔も見えませんから。

はねのけて、自分が乗りたいんだから、子どもであろうが大人であろうが、身内であろうがそれはもうわからないから、みんなもう蹴散らすことしかしないです、全部。

奪い合いですよ。「いかだでの死闘」とわたしは言っていましたよ。もう弱肉強食というのはこんなものかなとかね。もう自分さえ生きればいいと。このいかだにすがらなければ死ぬから。

やっとケンカがなくなって、争いがなくなって、静かになって、でも波は荒いんですが、これから漂流が始まって、かき散らす人もいないし、そのまま頑張ってから、夜が明けたんですね。

これから6日間の漂流っていうのが。まさか6日間流れるとは思っていません。翌日は誰かが助けるものと思っていましたよ。

昼ごろ遠くのほうを見たら、たくさんの漂流者があちこちに浮いているのが見えるんです。波が高いから、高く上がるとここに、いかだに乗った人が見えるわけですね。また下がったら・・・またこんなしてから、そのときにあれを見ていたら、あっちに自分の身内がいるんじゃないかと思うんですよ、誰でも。あっちに寄りたい、一緒に行きたいと思うんですよね。そのときにあっちに、なんか「啓子」って心のなにか、呼ばれている気がしたんですよ。あっちにわたしの身内がいるのかも知れない、あっちに寄りたいなとそう思っている気持ちがあるから、呼ばれる声が聞こえるような気がしたんだけど、実際はそうじゃなかったかも知れない。そのときに見た物が、サメですよね。サメがあんなたくさんかたまった人のところに飛び込んで引きずっていくのが見えたんです。恐ろしくって、うちの姉もたくさん見たそうです。そのサメに子どもたちがほとんどこれにやられたのを。

そして流れていくうちに、飛行機が飛んできたんです。ちょうどこんな音、今のような音が聞こえてくるんですよ。そうしたらまた、心の中では、敵の飛行機が来て、空からまた機銃でパンパン撃ってわたしたちは殺されるんじゃないかっていう不安があったんですよ。こわごわしているうちに、空を見ていたら、主翼のほうに日の丸のマークがあるわけ。「あれ日本の飛行機だ、日本の飛行機だ」って喜んでね。あのころは友軍機と言っていました。手を振ってみんな「助けて、助けて」あっちこっち全部手を振っています、見えます、いかだから。上着も脱いで一生懸命白いものをシャツかなんか振ったりして、助けてくれって。やったらこの飛行機が、今のようにして来るんです。低空して来るんですよ。
 そしてまた南のほうへ行くんですよ。また来るんですよ。また帰ったんです。それっきり来ませんでしたけど、

 で、1日目が流れる。日が暮れる。また夜が明ける。もうどこに着くかわからない。島が見えない。もう絶望寸前ですよね。夜が明けるたんびに一人去り、二人去り、三人去りと、いつのまにか人が減るんですよ。これみんな睡魔らしいね。居眠りしてから、倒れたら、流れたらもうはい上がれないんです。波がサーッと引っぱっていくから。それで減っていくんです。よく見ると10名乗っていましたけども、10名のうち9人はみんな女性、それで男の子が一人。

これでこのいかだを占領して漂流しているのが、どこに流れているのかわからないし、船はこないか見てごらんとか、わたしが元気があったみたい。あったみたいというのは自分では元気があるとはわかっていないけど、「お嬢ちゃん」とか、「エーワラベー」とか、沖縄に子どもにワラべーと言うから、「エー、ワラベー、船来ないか見てごらん」とか「エー、ネエネエ」とかね。大人のかた、ずっとぐるっと海をずっと見ても、帆柱も何も見えない、船こないよして、こんなしてわたしは伝えていました。

で、日が暮れる。絶望する。次はもう、10人から9人、8人と減っていくんですよね。

遠くのほうに人が浮いているのを見ると、あっちに浮いているのはトキコじゃないかね、うちのおばあちゃんかね、お姉ちゃんかねって思うんですよ。近づきたくなるんです、遠くで漂流しているのを見ると。そういうことをしょっちゅう思っていました。誰かいないかなと、海に誰かいないかなって。

漂流して日が暮れる。また雲を見たら、人間、頭がおかしくなってくる、だんだん、幻覚症状というのを起こし始めているような感じで、雲を見たら、「あれ島、あれ島どー、島どー」して、島だからあっちへ向けてこげ、こげって言うんですよ。大人のおばちゃんたち。

目の前のおばあちゃんが目を開いたままズルズルっと落ちるんですよ、いかだから。「おばあちゃんどうして落ちるの」って引っぱるでしょう。またズルズル落ちる。こんなことをくり返して、もうわたしは体力がもたないんですよ。それを見た大人が、「エー、ワラベー、あのおばあはもう死んでいるんだから、手放しなさい」って言うんですよ。「死んでいませんよ、目開いていますよ、このおばあちゃん生きていますよ」ってわたしは頑張っていた。目を開いているから。死人は目を閉じて死ぬとしか思っていませんから、初めて死人というのを見るの、生まれて初めて。恐くなって、死体に触るというのがとても恐かったんですよ。そうしたら、目を開いているから生きてますよって言ったら、いや、死んでるんだよって。そう言えば目玉も水がかかっても目玉が閉じない。ものも言わないし、ああ、こうやって死ぬ人もいるんだなと思いながらも、襟首をつかんだままもう手放して。わたしの体力ではどうにもならないです、このおばあちゃん。大きいおばあちゃん。救命胴着も着ているから重たくて。

で、もう襟首つかんでいるのを手放したら、おばあちゃんはきれいな水の下に、目を開いたままプルプルって吹きながら沈んでいって、わたしは手を合わしました。おばあちゃんごめんなさい、わたしが悪いんじゃありませんって。どうか神様になって下さいっていってから、わたしは手を合わせて、おばあちゃんを放したんだけど、おばあちゃんはもうあれから、一人ゆうゆうと50メートル、100メートルってわたしたちより先にずっと流れていく姿が、今も頭に覚えてますけど、あのおばあちゃん、わたしが殺したのかねって、こういう罪意識、心に引っかかりがあります、今でも。
 
あのおばあちゃんどこへ行ったかもうわからないでしょう。海の藻くずとなったんでしょう。本当に。

それからまた翌日は、何かが浮いているから、あれ食べ物かも知れないから、取ってきてって言うんですよ、わたしに。

そうしたら竹筒が2節、先のほうが切られていて、こんなして重そうに浮いているんです。それを脇に抱えてきて、片手で泳いで持ってきたんです。そうしたら中のほうにコルクみたいな栓がされて穴が開いているから、これを引き抜いて中をのぞくと、あずきご飯が詰まっているんです。もう喜んで、嬉しくて、みんな「ご飯だ」って言って、おばさんたちは、これは神様の恵だ、神様の恵だと言って、

そのとき配給して3番目のおばあちゃんが、わたしに沖縄の方言で言ったんですよ。「エー、子どもさん、わたしの分はいいよ、あなたが食べなさい」って言うんですよ。もうわたしはびっくりして、「おばあちゃん、本当にいいんですか」って。「うん、ヤーガカメー」あなたが食べなさいって言うもんですから、ありがとうね、おばあちゃんって口にほおばって、それからまた配給して、最後には大目に残してわたしは2人前食べたわけ。
 翌日、このおばあちゃんいない。多分もう失望したんじゃないの。それでわたしが元気そうに動くもんだから、自分の分をわたしにあげたのかねと思うと、あのおばあちゃんのことがとっても気にかかって、多分、睡魔に襲われて倒れてそのまま流れたのかな、それとも息を引きとって流れたのかそれはわからないけど、いなくなっていました。

あのおばあちゃんも、もう島も見えないから絶望していたんじゃないかね。だからわたしに、わたしのものあんた食べなさいと言ったんじゃないかねと思うのね。あのおばあちゃん、いなかった、翌日。

 それからその漂流しているあいだに男の子が、もう男の子の腹、こんな抱っこだと水をかぶるから、お母さんは肩にかけて子どもを守っているんですが、一人去り、二人去ると、だんだん水がこっちからだんだん減っていくんですね。そうしたら流れが速くなるんです。だから大人もこれを考えて、重たくて、死んだ者はもう流せって言ったのかねと、あとで思ったんだけど、だんだん速く流れるんですよ。この男の子はお母さんのおっぱいに吸い付いているんだけど、お母さんのおっぱい出ないみたい。出るはずないです。やせこけたお母さんでしたから。で、乳首を歯で噛まれて血が出て、痛い、痛いと言いながら泣いていたのに、この子が息を引き取ったんです。それで死体を抱いたまま親は泣いていて、近くに早く陸でもあればなんとかできたのによって、我が子を抱いて泣いているのに、抱いたまま漂流して夜が明けたら、子どもは脇から波に流していなくなって、本人ももう睡魔に襲われているから、子どもを失ったって言ってまた悲しんでいたし。だんだん人が減ってくるし。

さっきのすえたご飯を食べているもんだから、お腹がグルグルしてウンチがしたくなって、

モンペのヒモを解いてお尻をからげてウンチしたら、魚がいっぱいウンチに向かってよってたかって来て、そのときに、カッとわしづかみすればつかめるような魚を、誰一人取れる人がいないんです。わたしなら取れると思ったんです。なんでかって言ったら、わたしは小学校4年まで魚釣りもしていたから。魚を釣るとかつかむとか、エサかけるとか、針を抜くとか、そんなことはもうよくやっていましたから、魚をわしづかみするぐらいはできると、あの小さなボラなんか、で、取れない、お尻はあっち向けて体は向こうを向いているから取れなくて、あきらめているうちに、トビウオが頭の上から飛んできて目の前にバタバタバタっと泳ぎはじめたんですよ。また水があるから。パタパタ、これ早くつかまないと逃げてしまうから、

 尻をからげたまま慌てて追いかけて、つかみました。

 そこにいる親子に預けて、すんだら一緒に食べるから預かってって言って預けて、それから後ろに下がってお尻をなんか始末しているあいだに、

やっともんぺも結べて、さあ魚を食べようというときには、一切れもない。全部食べられてしまった。黙って。人間ってこうなるんですね。もう人はどうでもいいんですよ。わたしはあのときに、情けない、わたしが取った魚がないっていうことで、悔しくて、今までは歯を食いしばって泣かなかった自分が、魚を取られた悔しさで、空を眺めてから、お母さん、わたしの魚が無いって言って、初めてポロポロ涙を流して泣いて、でもいつまでも泣いてもいけないし、弟、妹のことも、名前を呼んで、「タケシゲ、シゲコ」っていたんだが、「あんた方はおいしいご飯食べて今ごろ温かい布団に寝ているんでしょう」って言って、勝手に怒り出して、「お母さん、わたしが今どこをどんな思いで流れているか、お母さん知っているの」とか言って、勝手に自分で自分を慰めながら、天に向かってグチをこぼして。いつまでもそうていけないから、いつまでも泣いてはいけないから、また涙をふいて、また気を取り戻してまた漂流したんですけど。

それから6日目の夜明けにある音を聞いて、今までの音と違う。岸を打つ波の音が聞こえる。ザラザラザラーっと浜辺の波打ち際の音が聞こえる。島が近づいたんじゃないでしょうかって、もう胸ワクワクですよ。そうしたらだんだん聞いているうちに、大人たちに言ったんですよ。「あの音ちょっと聞いて。なんか岸を打つ波の音に似ていませんか」って。

 それから、島じゃないかと思ったら、どんどん大きく聞こえてくるわけ。わたしたちのいかだは、この島へ向かってどんどん、上げ潮に乗っていくみたいに進んでいるんですよ。人ももう5人しか残っていないから。10人から。で、軽いからよく流れるんでしょうね。それでガラガラガラガラっと島に着きました。もうあのときの喜びはなんとも言えませんよ。島が見えた、今は雲じゃない、大木だ、岸だ、岩だって、もう大喜びで、ガラガラっと止まったんですよ。この島のそばに。そうしたら早く下りないとまた流されたら大変よって、急いで下りようとしたら、足がふらついて歩けないんですよ、みんな。ふらついて歩けない。それで四つんばいになって下りようとしたら、女の子を背中に乗せるわけ、黙って。わたしの背中に、あの女の子も相当弱っていたんだはず。わたしはこの子をおんぶしながら、四つんばいになってはいだして行ったら、背中で、「お母ちゃん」って言うんですよ。お母さんじゃないから返事もしないでそのまま負ぶったまま、すぐ近くでしたから、岩の上に、浜辺に下ろして、それで大人も四つんばいで下りて、全部5名島に上がりました。

枝手久(島)という無人島だったそうで、標高約70メートルぐらいって、そこの浜にわたしたちは自然漂着して助かったということなんです。

それからみんな上がって、草をちぎって口にほうり込んで、青汁をのどから流して、ちょっと口に汁を流して、それからしばらくして、人はいないかと見ても人はいない、島もない。ここは無人島だということがわかったら、もうあきらめて、水が欲しいということになったわけ。とっても水が欲しいんですよ、もう。

だけどこの山の向こう、谷間のほうに行けば、谷間のほうにはやっぱり川があるし水が流れるかも知れないから、あっちへ行ってみようと言って、あの女の子はそこへ寝かしたままはい出して行った。そうしたら水が無い。でもくぼみがあるから、穴を掘れば水がわくんじゃないかということで、草むら、草もとって掘り出して、

大人も一緒にやっていたのに、あとからこの人たちも相当へたばって、もうダメだって倒れたんですよ、そばに。でもわたしは頑張って、掘ってみよう、掘ってみようって言って、

その泥をこんなして取っているうちに、本当にチョロチョロと水がわくんですよ。もう嬉しくって。くぼみに水がたまるまでじっと待って、それから濁っているから、濁りがすむまではその間待っていて、すぐ尻を上げて頭を突っ込んでからガブガブ水を飲んで、はー、生きたという気持ちが。本当に美味しい水。

「あの女の子、水がわいたから飲みにおいでって呼んでこい」って言って言いつけられて、呼びに行ったらあの子、目を開いたまま動かないから、恐くなって、海で見たあのおばあさんのように、目を開いたまま死んでいたら恐いと思って、親を呼んだんですよ。親が来て、一生懸命顔をたた叩たり、ゆすって、起きて、起きてしても意識がない。死んでいました、あの子。「お母ちゃん」と言ってそのまま、ここに寝かしたときに息を引き取ったんでしょうね。水も飲むことができなくて、そのまま。お母さんが開いた目を閉じさせて、そこで親が抱きついて泣いていた。

 で、おばさんたちを起こしたのよ。「起きて。水がわいたよ」って。そうしたらこの人たち、相当もう疲れていますから、「え、水がわいたの、早く言いもしない」っていうようなことを言っていて、だってわたしが出したんでしょうと言って、本当はわたし、普通なら言うかも知れないけど、ここでこんなことを言っちゃ大変だと思って黙ってて、良かったって言って、交代交代でみんな首を突っ込んで水を飲んで、良かった、良かったって、生き返ったんですよ。

それからどうする、と。食べ物は無い。水はあるけど、人はいない。助けてくれなきゃ、またここは無人島でそのままうっちゃらわれたらもう、またそこで飢え死にするかも知れないという不安がまたのしかかってくる。なんとか人に見られたい。もう昼だし、夜が明けて朝だし、太陽も出ているし、なんか船なんかこないかね、何か見えないかなと思って、キョロキョロ、わたしがあっちへ行ってはあっちから船がこないかね、またこっちに行ってはこっちから船がこないかと動いているのを見ているんですよ、この人が。金武(沖縄県)のおばさんが。あのときに一生懸命船を探していたよねと言って。そして、船が二つ行く。「船だ、船だ、船だ」して、これを呼ぼう、呼ぼうして、

ちょっと小高い岩に登って、わたしが「一、二の三」「おーい」って言って、1回では通じないんですよ。風も、わたしたちの声が海風に散ってしまって届かない。もう大変だと思って焦りもするし、わたしが大きな声で、わたしが大きい声を出すと大人も大きな声を出すみたいでしたから、「一、二の三」「おーい」と大きな声で呼んだら、船頭さんが櫂(かい)を止めて後ろを振り向くんですよ。

それから方向を変えてここへやって来たんですよ。もう嬉しくて。船が来るよ、船が来るよ、もうわたしたち人間様に見えられたんだって、あれから大人も喜んで、

船頭さんが、とことことわたしのところへ寄ってきて、「お嬢ちゃん、よく頑張ったな。あんた偉いな」と言って慰めてくれた。黙ってうつむいていたら「さあ、お食べ」って言って差し出された飯ごうに、やわらかいご飯とやわらかい黒砂糖があるわけ、やわらかいのが。それを手を突っ込んで、わたしは、食べて、もう美味しくて美味しくて、本当に生きたという気持ちですかね。

たぶん、消防団からあれがあったって、指示、命令が。なんか船がやられて遭難者があちこちに、岸壁とか浜辺に上がっているらしいから、回って探して来ていたって。そのときに、海で何日も食べてない人たちの胃に悪いから、やわらかいご飯とやわらかい砂糖というのは準備したんですよって、奄美大島へ行って初めてわかったわけ。奄美大島っていうところは、奄美大島の宇検村とか古仁屋あたりの人たちは、あまり生活は楽じゃないんですよ。茶碗の一杯ずつ各家庭から供出、徴集して、やわらかいご飯を炊いて詰めたんだっていう話を、あとで聞きました。

これを食べて元気になって、そしてみんな乗せて、あの女の子の死体も乗せて、わたしはまたあの船頭さんがひょいと抱いて自分のここに座らせて、自分がかぶっている古い麦わら帽子をわたしにかぶせて、船をこいで奄美大島の宇検村の久志村というところの診療所に運ばれました。もう助かったんですよ。嬉しかったですよ、あのときは本当にもう。奄美大島の人たちの親切には、なんとも言えないです。何回お礼を言っても足りないですよ。
で、向こうで1日収容されて、栄養をつけて、注射も打って、向こうの村の人たちが夜、いっぱい村民が、村の人が集まって、みんな見物だから見に来ているわけですよ。それで、暑いから、夏だから、クバ扇で、あっちもクバの扇があるから、風を送るおばあちゃんとか、ゆで卵を持ってきて食べなさいとか、キビナゴを持ってきて食べなさいとか、差し入れがあったりして、みんなにとっても親切にされて看護されて、一晩泊まって。

翌日すぐ、一晩泊まった翌日、夕方、「遭難者はいませんか」と言ってから船が入ってきた、港のほうに。「遭難者はいないか」って回っている船がいるんですよ。「おりますよ」と言ったら、「出てこい」と言って、全部出されてから、このまた伝馬(船)に乗せられて、日本の兵隊さんでした。船に乗って、奄美大島の古仁屋というところに、ちょっと町、そこのある家に収容された。そこにみんな集められているわけ。

箝口令(かんこうれい)。あっちこっちに散らかしておいておくとしゃべるから。言うなということでまとめたという話は、あとでわかりました。

とにかく日本の兵隊の船が港、港に寄ってきて、「遭難者いないか」と言って、「いる」と言ったら「出てこい」と言ってみんな集めて、古仁屋のほうに30人ぐらい収容されているみたいでした。そこに収容されている何日間かいるうちに、そこに集まっている人たちが、みんな食べ物がおかゆとかあんまりおいしくない物ですから、みんなやわらかいのが出てくるんですよ。それでお腹に、帯のようにお金を持っている人がいるわけ。そういう人たちは縁側でみんな日干しして、乾かしてからそれを集めて、何か物売りが来るんですよ、玄関に。かごにこんなオモモチとかいろんなの持って、ゆで卵とか餡餅(あんもち)とか持って売りに来る。それをみんな食べたいですよ、金を持っている人たちは。わたしは金がないから、買って食べるようにも食べられない。みんなが食べているのを見るとうらやましくてしょうがないけど、分けてあげる人はいないわけよ。それで、「お嬢ちゃんちょっとおいで」って。歩けないから玄関であの餅買ってきてくれって、買い物を頼まれるんです。わたしは、頼まれる裏には、分けてあげるはずといういちるの望みを持って、一生懸命お使いをやっているんだけど、買ってきてあげたら少し待っているんだけど、分けてあげない。

それでわたし、あとは人の人相まで見て、「お嬢ちゃん、おいで、おいで」すると、あのおばさんは優しそう、あのおばちゃんの物を買ってきたら分けるはずと、こんな心まで持っているんですけど、買ってきてあげても分けてくれない。みんなケチだねと思っていた。大人ってこんなにケチかねと思っていて。そうしたらこの物売りのおばさんが、「あんた、お金持っている」と言うんですよ。お金持っていないと言うと、「あんたどこの子ね」と言うんですよ。どこの子ねってあちこちで言われたんだけど、言ったって、沖縄県安波って言っても誰も知っている人はいないんですよ。知るはずもないさ、あの片田舎の。だから言うまいと思ったんだけど、「あんたどこの子ね」って2回も聞くから、「沖縄県安波です」って言って、ただもう、ぶっきらぼうに「沖縄県安波です」と言った。そうしたらこのおばさんが、「え、あんた安波の子なの」と言うんですよ。「はい、そうです」と言ったら、「おばさんは安田だよ、あんたの村の隣の人だよ」と言う。びっくりしてわたしは、なんか親しみを感じたんですよね。部落の、村の隣だから。へえっと思って、お金を持っていないって言ったから、餡餅一つタダであげるわけですよ。嬉しくて、嬉しくて。

わたしは、タダであげる人がいるんだよって、見せびらかしてわざと食べた。みんなの前で、こうして食べてね。わたしはタダであげる人がいるんだよって、もう本当に柱を抱いて、こんなしていたんだから。誰もあげないから。ところがおばさんがタダであげたら、同じところで、みすぼらしい格好をしながらも、もう頭はこんなグジャグジャ、皮はむけけてから、もう猿みたいな顔が、餡餅を握ったからパクパク食べて見せて。そうしたらこのおばさんが、「あんた、安波、わたしは安田の人だよ。わたしのうちに行こうね。おばさんのうちは魚屋さんだよ」って。「行こうね」って言ったら嬉しいわけよ、わたしは。知っている人が連れて行く。安田の人と言ったら。そうしたら、連れ出そうとしたら、「あんたのこの姿を見たら、ボロになっているから、みんな、顔はお猿みたいに皮がむけて醜いし、髪もバサッと立っているし、モンペはもう破れかけているし、このまま行くと野良犬に思われるから、そこで玄関で待っていてね。うちが近くだから、うちの娘の洋服を取ってくるから」と言って、「はい」と言ってもう喜んで、わたしは、もうみんなが何も分けてもくれないから、ここから出ていくとあっちで、魚屋さんと言えば美味しいものがあるはずと思って、もう入口、玄関でずっと待っていたよ。

その店の前を高下駄(たかげた)を履いた外人みたいなおじさんが、かっこよく高下駄を履いてパカパカして歩いていくのをそのおばさんが見つけて、「えー、チョウキチ、チョウキチ」って、津嘉山朝吉、「チョウキチ、チョウキチ、ちょっといっときおいで、おいで」して呼んでいるんですよ。暖簾をくくって入ってきたおじさんが、「えー、あの子見てごらん」、あの子見てこんどわたしのこと、「安波の子らしいよ、ちょっと見てごらん、聞いてごらん、船がやられて流れ流れて奄美大島にたどり着いて、古仁屋にいるのをわたしが連れてきたんだけど、見てみ」って言っているんですよ。そうするとその津嘉山さんがわたしの向かいに席をとって座って、わたしの顔をじっと眺めて、「あんた、本当に安波の子か」って。「はい、そうです」って言って、「屋号は」って言って家の名前の屋号、「マーウスクグヮーです」と。「じゃ、お父さんの名前はなんというの」って言うんですよ。「宮城徹です」と言ったら、もうびっくりしてね、このおじさんが。「なんだこの子は。徹は僕の友だちじゃないか、友だちの子どもなってるさ」と言って、もうすぐこのおじさんが、ケイちゃんは僕が引き取るって言ってすぐ引き取られて、このおじさんは牛を徳之島やらから買って、船を持っているんです、船を、買ってきて、何頭も買ってきて、それを軍部に売って、古仁屋には特攻隊基地があったみたいね、日本の、そこに兵隊がいっぱいいるもんだから、そこでこれをと殺して食べていたみたい、兵隊が。その牛を、肉牛を買ってきて軍部に売る仕事をしているおじさんだったらしくて、チャックっていうのはあのとき、戦前見たことないが、チャックっていうのがあると、このカバンに札束をゴロゴロ持っているんです、このおじさん。そんな家庭でした。このおじさんが、「僕が引き取る」って引き取られて、服装があまりよくないからちょっと待ってって、向かいの呉服屋へ行って、水玉模様のかわいいワンピースと履き物と、帽子も買ったかね、これに着替えさせたら、きたない顔にかわいい服を着て、おじさんのあとを追って。

玄関をガラッと開けてから、「なんであなたこんな遅いの」って奥さんが怒っているわけ、ご主人を。そうしたら「僕は子どもを拾ってきたよ」って。子どもを拾ってきたって笑っているわけ、みんな。そうすると、そう言われると、なんかあとをついて行くのも恥ずかしくなって、玄関に隠れていました、こうして。こんな顔もだし恥ずかしいわけ。そうしたらおじさんが上にあがって座って、もう一人分よそって準備しなさいって。またここの食事はいいんですよ、金持ちだから、美味しい。すき焼きからなにかいろいろあって。そうしたら、「ケイちゃん、上に上がっておいで」って。そうしたら奥さんと女中さんが本気にしないわけ。「ケイちゃん、上に上がっておいで」ってしょっちゅう言うから、あとはツカツカと入っていっておじぎして座ったから、もう顔を見てびっくりしてますよね。事情を話してしたわけ、おじさんが。疎開の途中にやられて海に流れてこんなしてこっちこんなして連れてきたよと言ったもんだから、もうこの奥さんと女中さんは泣いて、かわいそうにって泣いて涙でご飯も食べられない。でもわたしは一生懸命食べているわけ、美味しいから。これからここの一員となって、ここの家族にここにいなさいってことになって、翌日から女中さんに洋服を買わせたりなに買わせたりって、大事に育てられて、

きれいに散髪しているあいだにだんだん髪が整えてきて、おかっぱ髪になって皮もむけてからだんだん色も白くなってきて、内地の町っ子みたいな顔になっているみたいね。それで向こうで半年、昭和19年の8月の終わりごろから、20年の2月22日は与論で空襲にあいました、また。帰りに、船で。

与論から夜中に安田(沖縄県・国頭村)に着いて、翌日安波(沖縄県・国頭村)に津嘉山のおじさんが足の速い青年を頼んで、啓子が来たから連れにおいでって使って、そこで
うちの母は、一日ごし安田(沖縄県・国頭村)に通っていたみたい、電報送っているから、啓子はここにいる、連れて帰る、心配するなというもんだから、わたしが帰るのを日かず数えて待っているわけ、母が。それを今日はもう、電話もなんもないから、津嘉山さんはいつ帰ってくるかねって待ちかねて、事情を聞きに安田に通っていたみたい。もう半狂乱みたいになって。

7才の妹を連れて、親せきの叔父さん叔母さんも連れて、迎えに来て、そこで母と会ってね。母がわたしをわからなかったです、顔が違っているから。あのときは色黒くして痩せているのに、色白で太っているもんだから。そこですぐ、お母さんって抱きついて、親子の再会を果たして戻った。

で、夜は「命のお祝い」といって、たくさんうちにいっぱい人が集まってきていました。事情を聞くと言って。

わたしは、うちに来たときから遭難の話はやりました。集まって来た村の人たちに。箝口令というのがないから、安波には。誰もこんな取り締まる兵隊はいないし、那覇市内だったらもう既に憲兵がいっぱい入っているから大変だったと思いますよ。だから恐くて話せなかったかも知れないよ。話したら打ち首だとか、こんなに言うもんだから恐くて。

トキコのお母さんは来ませんでした。同級生がいっぱい集まってきたりやりましたけど、命のお祝いをしようってやったんだけど、うちの母は嬉しい半分悲しいもあるし、6人からわたし一人だけ生きているから、姉もまだ生きているという情報がないから、大変な雰囲気でしたよ、村は。国の命令だから仕方がないというあきらめの人が多いんですよ。行かさなければ良かったのにと心では思っていても、口では言わない。

トキコのお母さんに会うのが恐かった。元気でわたしがはしゃげばはしゃぐほど、思い出すでしょう、トキコのことを。他の人たちは家族全滅だから、もう話す人もいない、わからないわけですよね。

もうみんな悲しいでしょう、自分の子どもが帰ってこないんだから、家族全滅する人もいるし、子ども3名も4名も失っている人もいるし、親は残って。慰霊祭へ行くでしょう。どこから聞いたかわからんが、「この子は生きた人らしいよ」って、わたし、指さされて、よってたかってこられて、おばさんたちに。親ですよ。もう「あんたいくつですか」「19才」って言ったら、まだ行き始めですよ、あちこち触ってから、「うちの子も昭和9年生だったから、元気であればこんなかたちになって、こんな大きくなっていたはずだがね」って泣くでしょう。触るさ、すがってくるでしょう。こんなきついことないですよ。

もう慰霊祭に行くもんじゃないと思って、わたしはしばらく行かなかったけども、でもやっぱり自分の身内が、また友だちがいっぱい行っているからと思って、最後にみんなが慰霊して、前に行かないで後ろのほうから知らんふりしてそーっと行って、そーっと手を合わせてそーっと帰る。こんなことをしていたんですが、このごろは慰霊祭に行ったら指定席があるわけ。わたしは指定席に座りたくはないわけよ、本当は。平良啓子という名前が下がっている、腰掛けに。ここに座りなさいでしょう。ああ、あれが平良啓子かと言われて、思われたくないの、本当は。

Q:なんでですか。

またまた生存者とわかると、失った人たちが前のように寄ってきたらかわいそうでしょう。生きている、だからあまり大きな、生きてからうちの子は・・大変うらやましく思われたくないわけよ。生きてきてすまなかったねと本当は思うときもあるわけ。あの子たちは苦しんで死んでいった人たち、サメに食べられた子どもたちのことを考えると、親たちがどんな思いをすると思います、生きた人を見ると。うちの子も生きていたらああいうかたちになって、あんなして背が伸びていたのかなって、触られたから恐かったわけ。

Q:いま対馬丸を日常の生活の中で思い出したりすることはありますか。

ありますよ。毎日あります。海の側にいるもんだからよけい海を見るといつも思い出すし、「対」という字を見るだけで対馬をすぐ思い出す。

わたし、いつも海で流れている自分の姿がいつも見えます。流れていったあのおばあちゃんはどうなったかなとか、トキコはこないね、兄もこないねと。

(戦争に)勝つためにわたしたちを県外へ出したと思うんですよ。それがこんな身近まできて、こんな危険な状勢になってから動かすというのは、非常にもう手遅れだったと思いますし、もう少し早くだったら、それもみんなを海には沈めないで行けたかも知れないけど、これも日本の情報のとり方が遅くなってあったんじゃないかなと。

大本営発表でもみんな作り事だから、正式なことを言わないから、国民がうっかりしているんですよ。勝つと思っているんですよね。

シンガポールを陥落したって喜んでいるけど、シンガポールを陥落したからと言って喜んで、日本は強いんだと思っているわけよ。だから安心しているあいだにどんどん負けてきたということは知らされず、また大本営発表でも、皆さんたくさん撃沈したとかごう沈したとか、撃破したとかいう放送を流して、「我がほうは無事に帰還せし」というから、我がほうはいつも無事だから、そう思いこませていたその日本の体制というのが、わたしは誤っていたんじゃないかと思う。正直に国民に知らせなかった。だから多くの人が死んでしまったと思うんです。今、大人になって考えればですよ。子どものあとときには、わたしたちはもう大和(本土)へ行くとしか、もう喜んでしかいないから、戦争が危ないから行くというよりも、旅行しに行く気分だからね。それが国民学校の4年生の子どもに、国の体制がどうのこうのだからどうだったということは考えることはできませんよ。

教育もそういう教育されているわけだから、その教育は間違っていますって誰も言えなかったということが、過ちが起こったっていうことでしょう。だから今になって初めて目が覚めて、やっぱり日本の国は間違った教育をしていたと。洗脳教育をして、もう恐ろしいそんなことが二度とないようにということ。今はだから教育の文面とか内面に非常に目くじら立てて気にするのはそのせいですよ。自由民主主義という世の中になったから目が覚めたと言うんでしょう。何十年、何百年も日本の国民のものの考え方は遅れていると思うんですよ。これからでも考え直して、間違いは間違い、正しいは正しい、人間というのはもっと尊厳、人間には尊厳があるから、それをもっと敬い尊重すべきだと思うんですよ。権力に任せると、権力に弱い人間になるともうおしまい。みんな共倒れする。だからわたしたちは目を見張って努力して、人間平等というのを、国民主権というのを、人権問題とか平和主義とか、そういったものをよっぽど気をつけて見守らなければ危ないですよ。二度とあんなことは起こしていけない。

 だから教育というのは非常に誤りを起こしやすいから、正しい教育はなんであるのかというのを、正しく教えるべきとか、嘘とかこんなものを作ったらもう大変ですよね。真実でいかないといけない、人間は。国際平和とは言いながら、国際平和、じゃあ日本はどういうふうなことをすればいいかというのは、大きな課題だと思います。あまり大きなことは言えませんけどね。戦争は二度と嫌です。もうダメ。平和でいきたい、いつも。

戦争は絶対反対です。そういう動きがあるなら、早く見つけて早く摘み取らんと、動き出したら危ないから、それを見る目というのをわたしたちが大事だと思います。摘み取る、その動きがあれば。

だからもう語りたくもない。が、またあんなことを起こさないためには語らないといけないから、語り継ぐというふうに、

あと何年生きるかわかりませんが、わたしはしゃべられるまでは、戦争はダメですよと語り続けなければならないという気持ちを持っています。もうやがてぼけそうになっていますけどね。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
国頭村安波在住
1941年
4月 安波国民学校に入学
1944年
8月 4年生で家族と疎開の際、対馬丸が撃沈、奄美大島で疎開生活
1945年
2月 帰沖、沖縄戦では山中で避難生活
 
高校卒業後、教員免状を取り、39年間教職を務める、著書に『海鳴りのレクイエム』

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