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タイトルタイトル: 「消えない自責の念」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 糸数 裕子さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 18歳の教員  04:37
[2]2 チャプター2 動員される子どもたち  03:01
[3]3 チャプター3 疎開命令  03:55
[4]4 チャプター4 親を説得するのは教師の役割だった  04:02
[5]5 チャプター5 対馬丸  06:19
[6]6 チャプター6 爆発  03:31
[7]7 チャプター7 対馬丸の沈没  03:12
[8]8 チャプター8 救助  03:09
[9]9 チャプター9 話せない「沈没」  04:44
[10]10 チャプター10 故郷の空襲  02:17
[11]11 チャプター11 消えない自責の念  06:00
[12]12 チャプター12 沈没の記憶  03:42

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月5日

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18歳。何か月かしら、4月だから、18歳と3か月過ぎて、すぐ4月に昭和19年に卒業してすぐ4月1日から、あれ1日と30日とも違うんですよね、辞令がね。

大きな学校でしたよ、那覇国民(学校)は。

1年8組の女生徒もっていますからね、9組、12、3組までありましたからね。そしたら、そういう大きな学校で8組までいって、教科を決めて6クラスを持って、ところがやっぱり今の中学校と同じ教科担任制、あの学校、まあ戦前は、その一つぐらいじゃなかったですかね、那覇市に高等科の学校というのがある。そしたら教科担任制だもんだから。でも体育とか、あんなものが少ないから。なぎなたは、必ず学級担任が持つ。なぎなたはできなかったから、直しきれないんですよね。なぎなたできない、どうしようかなーと思ったら、ナカモト先生という方が、「わたしの理科と代えない」と言うから、「ああ、よかったわぁ」と言って、4組の理科と交代して。それと音楽少しやりよったですから、6組の先生が、音楽も、「あんた数学やるんだったら音楽できる」、と、「できますよ」といったら、じゃああんたのクラスの国語を持たしてた。だいたい国語というのは、学級担任が持つんですよね。国語とか、地理、歴史というのは。そういったのと交換して。

そこの学校に新卒が行くことは何か年ぶりとかだったそうで、校長も、その前の年に代わった先生で。だから、そこに19年いらっしゃるというナガタ先生などは、もう新卒の顔を見たことは初めてという。それでまあ今でいえば沖縄の言葉で子ども扱いですよね、ワラビアケチーといって子ども扱い。まああの、それでも、こっちはもう、それでいいという気持ちですよね、まだ何にもわからないんだから。誰かの袖にすがらないと何もできないから、なんでもハイハイということ聞いて、やりましたけどね。まあ、とってもいい学校で。

また、わたしは、ただ楽しくと思ったけれども、やっぱり工業の先生は、「材料がなくて授業が進められない」と。教材屋というのがある程度の、持ってきますがね。「新しい1年生が入ってきたけれども、授業もベニヤ板が入ってこなくてできない」とかいう話を聞いたときに、ああそうだねぇと。

もう新学期になっても何も教材が入ってこないということでね。ああ、そんなことがあるんだね。やっぱり船でヤマト(本土)からこないと学校も大変困るんだ、という感じは持っていましたね。5月ぐらいからは。

やっぱりだんだんモノもなくなって、明かりがつかなくなって。メイン街はドアが閉まるわけですよね。那覇のメイン街は、鹿児島系の人がたくさんいましたから、その人たちにだんだん疎開の話が浸透していって、家族あげて、店は閉まって、どんどん行くわけですよね。6月ぐらいからは、わりと沖縄系の店だけが開いてるだけであって、いなくなっていましたね。うちの小学校の同級生なんかも、「沖縄の人の所に結婚する約束だったけど、鹿児島に引き上げるから、ダメになった」と言ってね。そして帰るといった話しを聞いたときには、かわいそうだねぇと思って。自分たちはまだ、ここにいて。そんな自分は悲そう感はないわけですよね。やっぱり、あっちの人はあっちに行くのは悲そう感はあるけど、こっちはもう、残れるからという楽しさがあってね。そんなでしたね。

7月ね。それがもういよいよ沖縄に来て、サイパンが陥落したといったときからが、少し空気が、もう、ああ、本当に戦争というのはここまでやってくるのかなという感じで、緊張感があって。

7月の末だったら、たぶんまだ8月に入らない前、7月、短縮授業になります、20日からはね。その短縮授業からはもう、うちの学校は動員令が入って、飛行場の作業を割り当てられて、今日は高等1年の男子、次の日は高等2年の男子とかいう風に、4日ごしに来るわけですよね。そして、うちの女の子たちもみんな瓦を頭に乗せてね。だいたい10枚持てないですね、頭に乗せて。あとからだんだん、もう大変だということがわかってからは、頭に載せるガンシナというのは自分で作ってきてね。今のようにハンカチでも古い洋服でもあればというような感じだけど、あの頃はそういったのは無いからね。やっぱり藁とかなんとかあれば、作るわけですけど。そんな物で作って、みな持ってきてやるようになって。だから、わたしも生徒と一緒に7、8枚ぐらい持って、歩くのは2キロぐらい歩くわけですよ、飛行場のこっちに。トラックもあまり大きなトラックじゃない。あっちまで運べない。まだ道もできていないから、そこで降ろしたら人間の手であっちまで運ぶほかないわけ。だから生徒はいちばん使いやすいから、そう使われて運んで。

わずか4か月だけど、もう遠足するような時代じゃないわけだから、

一緒に道を歩いて楽しかったとか。あの人たちとはそういったのがなんにも無い。ただ作業に行ったこと、そして「重いでしょう」とか言って、「足をふきなさい」とか、こういう言葉しか言わなかったからね、わたしの新卒の仕事はそれから始まっている。だからやっぱり忘れられないんですね。

Q:当時はあまり授業という感じではなかったんですね。

そのときは夏休みに入っているから、短縮授業ですから。休みだから使えるわけですよ。そして休んでいる間に、学校は軍が入っているわけですよ。

「実は、学校にも疎開命令が出た」と。しかも、「学童を連れて行くことだ」と。みんな大きな声で、「ほぉっ」て言ったんですよ。それはやっぱりショックだったと思います。

わたしたちはまだ若くて、あんまり感じなかったけど、家族持ちは感じたんじゃないですかね。生徒を連れていくことだよ、ということになったから。ああそうかといって…。その前に、わたしは姉が勤めているものだから、姉が先に聞いたもんだから、やっぱり、学校はみんな同じだなぁという感じになって。あっちは小学校だから、小学生は行くのかなぁぐらいに思っていたら、今度こっちもまた、学校はみんな同じだね、というふうになって。そしたら、だんだんだんだん作業もしながら、もう昼、話はどんどん煮詰まって。「軍艦が出るならば行かそうというアレはできませんか」と先生方から出るわけですよね。それはわからないと。そのとき、「もちろん、軍艦で行かすと軍は言っているけど、そのときになってみないとわからん」と、そんなもの。もう何もかも、答えは、ちゃんとした答えは出てこないわけですよね。それでも、そういう話はどんどん進んでいって、あとは学務課から、県庁の人、何さんといったかな、若い方が来てね。その人が来て説明していたんですよ。「那覇市は学校だけまとめて、こういうふうにして一つの船に乗って、あるいは一つの乗り物で行きます」と。「だから那覇は那覇だけ集まって、行く場所は宮崎県です」と、そこ言っていたんですよね。ああ、那覇はじゃあ宮崎に行くんだなぁていうのがわかって。それがだんだん聞いている間に、「今度は生徒を集めましょう」ということになって。ちょうど7月の末ですね。もうだいたい中旬から入ってきて、だから8月の22日に出るまでには、生徒が集まって。なかなか集まらないわけですよ。それはねぇ。子供たちは行きたがる。ヤマト(本土)に行くのはねぇ。沖縄はあんまり桜もなかったころでしたから、「桜もきれいってねぇ」とか「富士山もあるってねぇ」とか。雪も降ると、雪も見たいと。そういったいわゆる、自分たちが想像もできないことが向こうにはあるっていうことが、やっぱり子供たちは、クラスに帰って「疎開したい人、手を挙げて」と手を挙げさせると、みんな挙げるんですよ、ハイハイして。

「なんで疎開するの」って言ったら、その訳を話すわけです。詳しくはわたしもわからないわけですよね。まぁ多分、今、サイパンがやられているからねぇ。サイパンの次は、沖縄に来る。「台湾がありますよ」っていうから、台湾は大きいから、あそこは心配ないと。沖縄はまだ小さいからね、やっぱり沖縄に来たら、沖縄も、これ小さい島にたくさんの人がいると、みんなやられたら困るから、あっちこっちにまばらに散らすのが、疎開という意味だよ、という言葉を教えて。言葉の意味をちゃんと教えて。そうしていたら、みんな行く人、といったらみんな手を挙げると。だから結局、じゃあ。

明日までに、明後日までにとか、「お母さんやお父さんの承諾を貰ってきなさい」と言ったら、まだ名前も書きませんよ、どんなだった、こんなだったという話ぐらいで。それが切実に迫ったのは2週間ぐらい前、十日ぐらい前ですね。「ちゃんと生徒の名前をきちんと書いてください」と。

教務主任が「あなたのクラスは少ないから家庭訪問したら」とか言うわけですよね。ああ、わたしのクラスはね、少なかったですよ、初めから。

いや、だいたい行けそうなところ。「すぐ行かすよ」というところに的を絞らんと、こっちもそれだけに時間ないですからね。それは行きました。ところが、先生が来たよ、という話もやらないし。だけどやっぱり行っても、「いや、もう、うちは行かしませんから」ということでいたし。

やっぱり兄弟たくさんいる所じゃないと。あのときには高等科生だったら、下に妹弟が3名ぐらいいますからね。やっぱり兄弟ひとりからひとりぐらい、ヤマトへ行かせてもいいだろうぐらい感ずるわけですよね。だからそんなところをだいたいアレして。一人っ子のところは全然。

一人の子のところは三回行ったんですよ。何回もじゃなくて3回がいちばん多くて、この子のところ。もう一人は、2回行ったんです。行かせそうだけど、まだ親がちょっと、というあれはね、「みんな行かすねぇ」と言って。始めから行って、「あぁもう、先生が行くなら大丈夫ですよ。行かしますよ」とすぐ言う人もいたしね。

Q:何度も家庭訪問したりとか、なぜそんなに人数を集めなければいけなかったんですか。

いや、軍からの命令ですよ。何百名出しなさい、というアレだから。みんな軍の命令です。一緒に行った男の先生は、「ああ、僕はこれで、疎開して、とっても胸が晴れ晴れする」と言う。「なんでね」と言ったら、少年飛行兵の係というのがあるんですよね。少年飛行兵は、何名出せとくるわけですよ。5名だせ、6名出せ。なかなか行かないですよね。

みんなそういった係があって、人数をちゃんと、モノを調達するみたいに、何名出せと言ったら、出さないといけなかったです。

とにかく「国が責任を持って移動させる」というだけであってね。

「国が責任持ちます。ちょうど那覇国民学校が、向こうに行ってこっちの分家みたいな学校ができることです。それをみんな国が面倒みますから」と言ったら、「ああ、学校の引っ越しですね」、「そうです、分家みたいな引っ越すんです。先生方ももちろんみんなそこに勤めます」、そういうことだったんです。また、そういう風にわたしたちも言われたんです。

自分が見てきたニュースの話をしたりね。地上戦というものになったら、あのときに地上戦という言葉はないわけですけどね、ちょうど、中国のものはよくニュース映画でみていますから、「あんな、兵隊がこんなしている。みんなやられるんですよ」と。「もし来たら。だけど今はまた、飛行機が飛びますから、上から来るんですよ」ということを話しました。「だから、生徒を同じところにいっぱいいると、沖縄の人がいると、やられるのは多いからそれを分けておけば、子供たちを何名かの人(ちゅ)に分けておけば、だれかが生き残っていますよ」という調子で言うわけですよね。

「多分、軍艦が連れて行くと言いますからね」ぐらいに話してね。そしたら、「ああ、軍艦で行くんだったらいいですね」、とぐらいですよ。安心するわけですよね。だからこっちも知らないんだから、もう知っているだけしか言わないですね。そういう風に言いなさいって言われているから。

わたしのクラスは13名、多分13名だったと思う、行ったんです。

多かったですねぇ。

だいたい、どのクラスからでも7、8名はいっていますからね。それでも300名越しています。大きい学校だったから。

広場に、午前5時か4時ぐらいに、夏の日は明けやすいから、夜が明けてはいたけれどだいたい4時半ぐらいじゃなかったですかね。そこに時間集合だったから、みんな波の上の広場の方に集まって。そこはたくさんの人が集まる埋立地でしたからね。その埋立地にいっぱい集まって。だから水の施設もなにも無いわけですよね。だから子供は暑さの中で、どんどん貧血を起こしたりするし。しかも朝早く起きて、昼になってもまだ船はどうなるかわからんと言って、校長先生なんかも、まだ県庁に入り浸って、「どうなっているかわからん」と。だから教務主任の先生も、「どうなっているかね」という。「どんなですか」と言ったら、「まだ何ともこない」と、そう言った。「だから生徒は集まれ」と言って呼び集めて、人数を確認して、「あー、まだ船はね、こないからね、また解散。お母さんの前に行ってきなさい」と言って親の所に行って。あんなにして、それを何回も繰り返している間に、すぐ急に集まれになって、そういって学校順に、はしけで乗るんですよね。あの対馬丸は大きくて港に入らないわけです。

だから、港に入らないぐらい大きな船だからね、別にそんな不安、軍艦じゃないからダメとかね、「軍艦じゃなかったね」といった感じは受けなかったですね。

やっぱり安心感はありましたね。大きいから。すごく大きくて、あんな大きな船は見たことない。これで、じゃぁ安心だというぐらいで。

荷物にね、何があるかは確かめたわけですよ。本当にいかだかあるのかねーとかね。して開けてみたら、「先生、兵隊にしかられるよ」と言って。でも「開けて見てー」と言って、もう持てないですからね、重いから。2~3名でこうして持ち上げたら、やっぱり、組まれた竹のいかだなんかもズラーッといっぱいあったんですよ。それから、この船は、繭を日本に持っていくんで、荷物も乗っているわけですよ、繭をね。その繭、それからタマネギなども乗っていたと思う。

小さい子はやっぱり泣きよったそうですね。あの、はしけで。特にはしけが大変ですよ。船に4、50名乗りますから。それ乗って、港ですぐ目の前で別れていきますからね、階段通って。そのときには、親の顔が見えたら涙が出ましたよ。わたしの父が、あそこの顔が見えたら、すぐ後ろを向いてね。涙が出るから。生徒に涙を見せたくないから、すぐに後ろ側を向いてね。

それをうちの父は、もう一度、顔をこちらを向いてくれたらいいのにと思ったのに、君は向かなかったと。やっぱり自分はそのときから、やっぱり悲そうな気持ちがだんだん出てきました。その集合、解散を何回も繰り返している間にね。そんなに面倒くさくして、その時間、軍艦でいくか船で行くか。校長先生方もどの船にするか、たぶんあれが、あったんですか。それを考えたときには、やっぱり悲そう感が出るんですよね。本当に船は大丈夫なのかねーと思って。だけどやっぱりはしけを通っていくまでは、アレだったけど、通って沖に出て船を見て、「あらー、こんな大きな船ねぇ」と「じゃあ大丈夫だと」。あんな梯子を見てもわかりますよね。写真見ていますか。こう、斜めに梯子(はしご)がありますよね。下からずーっと上までね。これを見たときに、「ああ、こんなに大きな船だから大丈夫だ」と。そしてやっぱり、普通の梯子は下は開いていますから、海に落ちるのも一人はいましたしね。

Q:生徒はみんな船のどの辺に乗ったんですか。

みんな一緒に乗っていますよ。同じ部屋に。

あれは船倉が、なんか真ん中に、こっちは一般疎開、こっちは学童の疎開で。で、その真ん中にまた、畳の部屋があって、廊下があって。そこのあれは、船首があっちだから、船首のこっち側のほうに2段。

そこに生徒を入れて。「はい、入ってごらん」て言って、寝かしてみて。

それからはもう、あのときには夜になっているから、すぐご飯、飯あげといって食事でしたからね。もういちばん忘れられないのは、「先生、西洋料理よ」と。

なんだろうと思ったら、ライスカレーでしたね。ライスカレーというのは、戦前はあんまり食べたことはないしね、初めてだったしね。

生徒もね、「ああ、カレーたいへん美味しかったですね」と。「生まれて初めて食べたんだからね」と言ってね。

あの、みんな決めてありました、どんな人の係をちゃんと決めてあったから、船に乗ったら、すぐそれは決めるんですよ。炊事の係、何の係といって。あっちの兵隊がみんな来て指導するんです。

翌日は朝から退艦訓練。そのときには、これじゃあ、ちゃんと登れるかねと。何回も、午前中で3回ぐらい。午後も2、3回やりましたかね。

Q:退艦訓練って、どんな訓練なんですか。

ただ降りて昇ってくるだけ。何分間で登らんとダメとかね。それだけです。

ただね、「サトウキビの殻を外に落とすな」と、それは言った。もしサトウキビの殻を落としたら、もし潜水艦が見たら、ああ、これから船が通ったねとわかるからと言ってね。それでやっぱり生徒はやっぱり、室内でサトウキビを食べていましたから。そういうときに潜水艦という言葉が出てきただけで、後は、そんな普通、そんな話はもう、一切、危ないというあれはなかったですね。

あの、もうドーンといったときには、わたしなんかも、上だから飛ばされているから、どんなだったかもわからん。ちょっと想像できないですね。

飛ばされて、もう、小さい豆球も全部消えてしまってわからない、どこに飛んだかわからない。とにかく生徒の上に飛んで立っているわけですよね。それで、自分で感じたことは、ここ砂がいっぱい入ったということ。なんだろうと思って、そしたら、あ、船がやられたんだと気がついて。そして、生徒の上を歩いたら、みんな、「ううん」と言っているから。「起きなさい、船やられたよ」と言って。みんな、「うーん」と起きて。わたしはもう、入口は、こう開いていますから、ちょっと薄明かりがあるから、入口の所に行って、この子まだ、「オクマくーん」と言って、そうしたらこの子も「うーん」とあれする。つかまえて起こして。もう、そのまま肩に引っ張って、そこに引っ張って行って。そしたら、もう甲板に出たら、もう、向かいのほうは、みんな材木、いかだ、そういったものをどんどん投げ入れているわけですよね。だから、渡れないわけです。で、向こうに、船、もうボートが既に、人がいっぱいに乗っているのはわかるんです。だけど、そこにボートがあるというのは見ているから、この子を連れて行こうと思っても、もう渡れないから、わたしはもうすぐその子をほうっておいて、「自分で行きなさい、あそこにボートあるよ」と言って。わたしはすぐそのままこの階段を下りて行ったんです。そしたら、もう下から昇ってくるから、そしたら女の子が「先生」とつかまえたもんだから、「人を触るな」と、「自分で登って行きなさい、登って行ったら、あっちに行きなさい」と言って、みんな2、3名、こうして引き上げて、登して。この高さはそんなに高くないです、この梯子(はしご)はね。だから、すぐ登せて。で、それでわたしはその間はまた降りて行って、3段目ぐらいから飛んで降りて。そして、そこはもう入口だから入ったら、見たらもう、ワーン、ワーン、ワーンといって、何かの声じゃない声が、ウワーン、ウワーンと響いて、ペタッペタっという音がして、もう終わりでしたね。

Q:見た感じは、どんなことを見られたんですか。

うん、見えるのは何にも見えない、真っ暗だから。ただ、音だけが、ウワーン、ウワーンして、いっぱいの人がいるという感じと、それから、やっぱり波のパタッ、ペタッという音みたいのがするだけ。そして、「あーっ」もうと思っていたら、もうそのときからすでに水は入って来ていたから。それからもう、だから、上から、こっちに下に下りてくるまで、4~5分ですよね。で、こっちに立って、ちょっとするあいだに、どんどんどんどん水が入ってきて、そのまま沈んだんです。わずか10分ぐらいのあいだでした。そのときには、もう誰も声を出す人もいないで。兵隊は、いろんなあれして、みんな声を出しながらなんかやっていましたがね。「飛び込めー」と言う声も聞こえるし、大きな声で泣く子もいっぱいいるし。もう、とにかく、ああ、やっぱり。もうそのときには、戦争とか何とか考えないです。いっぱいいるねというだけで。そうして見ているあいだに自分も沈んだから、後はわからないですね。

Q:やっぱり、生徒を確認しなきゃとか、助けなきゃとか。

もうそんなの全然、もうもう船が沈むの、ぱーっと水が入ったらもう終わりですから。だから、誰の顔も見えないです。そしてまた暗くもあるしね。それで、オクマくんの顔もはっきり覚えないですよね。暗くてね、高等科生。そしたら今年のあれに、姉さんが、「ああ、うちの弟はみとられて死んだんですね」と言ったから涙が出たけど。

「そうです」と言ったけど、本当はみとる暇なんか無かったわけ、ただ寝かしてあっただけで。でも、わたしは、自分ではみとった感じ、最後まで、この人見てあっちまで連れて行って、もうそれ以上は出来なかったわけです。自分の生徒もまたいるから。自分の生徒はどうなっているかといったら、もう、下の方はみんな、もう立っていますからね、中に入る生徒はどうなっているかと思ってみたら、もう・・ですね。

だからすーっと船・・沈んで。もう沈んだら、海の中は明るいわけです。外は暗いけど、海の中は水あかりというのがあって明るいですよ、黄色くなって。砂とか、なんとかに反射してね。まあ、それはよく見えよったです。

そして見えるのは船の綱とかなんとかが、いっぱいこうして下がってくるから、ただそれだけで、そのあいだにもう浮きあがって、誰かが引っ張ってくれて、手を引っ張って。で、登してくれて。そしたら、もういかだは、こんなにですよね。波をずっとこうやって。そこのあいだに手を挟んで。もう座ったきり、それまでずっと。その日の夜まで。でした。

ふっと気がついたときには、もう周囲にいっぱい、船みたように、長い材木に人がいっぱい乗って。あの、股掛けで乗って人もいるし、あのこんなにして乗って、誰かつかまえている人がこんなしている。そんなのがいて。もう周りは全部そうでしたよ。それもみんな呼び合っているわけですね。だから、わたしなんかも、「助け船が来るまでがんばれよー」と、大きな声を出して。そしてみんな「お父さん」「お母さん」「せんせーい」と言う子もいて。「みんながんばろうねー、がんばれよー」と大きな声だけ出して。

そしたら、一人が、「ここにも生徒がいますよー」という声が聞くと、これは確かにカテガワ先生。声がきれいですから、あの先生、だったと覚えているんですよ。そしたらわたしが、「とにかくみな、がんばれよー」って、大きな声で返しただけであって、後はもうそれっきり、また、ちょっと気を失った感じで、わからないですね。で、気がついたときにはもう夜が明けて。海が見えて。真っ暗いときには、もうみんな、とにかく空を見ています、もうずっと。だけど、もう声も出なくなるわけですよ。ただもう「がんばれよー」と、大きな声で言うだけで。

ふっと気がついたら、もう誰もいなかったですよ。もう、海、波だけ。あれだけの、どこいったかね、と思ったんです。

だから、あんなにいっぱい浮いていたのにねーという感じはありますね。周りは全部、人でしたから。

Q:そのときはやっぱり、怖いとか。

いや、そんな、何にも感じないですね。何にも感じなかったですね。ただ、夜が明けたけど、あんなにいっぱいいた人はどこにいったのかねーと、まあ、うつろな感じですよね。どこにいったのかねーといって見渡す。だけど、そのあいだ波はずっとかぶっているから。

その後、飛行機が飛んで。で、真ん中にいる男の子を立たして。みんな掴まえておくから立ちなさいって言って立たして、そしてあのシャツを脱がして、シャツを、こんなして・・。飛行機はずっと向こうを通って行ってね。そしてだんだん日が暮れて、「ああ誰もこないのかなー」とは思っていましたよ。もう、「どうにかなるさー」と思って。わたしはまた、非常鞄、卒業証書やら、あんなのを入れて、履歴書とか、そんなのを入れて、持っていたのを、まずこれを流して、自分のからだを軽くしないといかんと流して。

まあ、終わりだろうという気持ちはなかったですね。なんとかなるだろう、なんとか。自分が、このまま浮いて死ぬとか、そんなあれは。ただ昼はもうろうとしていると、やっぱり、はじめは父の顔が浮かぶんですよね。そしたら、うちの父はめったに笑う人じゃなかったけど、わたし、「みっちゃん」ってひとこと、「はっ」っていって目が覚めて、また起きて。「あい、お父さんだったね、」と思ったけど誰もいないしね。また、何時間かとろとろっとしたら、今度はまた母たちが、おばあさんと一緒に映るんですよね。ああ、やっぱり夢だったんだねと思って。

まあそれだけでしたね。あとはもう、生徒の顔なんて思い浮かばなかったです。やっぱり悪い先生だったと思う、自分で。まあ、だけど、ずっとずっと生徒のことを思っていますからね。あの人たちは自分と一緒という気持ちがあるからね、まぶたに浮かばないわけですよ。ずっと一緒だったから。まあ、父や母と別れるときには、やっぱりある悲しみを持って別れてきていますけど、生徒はもうずっと一緒だったと思うから。

だから何を考えていたか、ちょっとわからないですね。寝たり起きたり、そんな感じ。また、流されまいという気持ち、気はあるわけですよ。だからつかまえてね。そんな感じでしたよ。

Q:何日目に漁船が来たんですか。

いや、わたしはもう、その日には助かっていますよ。

24時間後には助かっています。

助かったときに、「この船は鹿児島に行きますからね」って言ったんですよ。

そして、こうして本当にもう、ああ船が着いて、こうして見たら、もう広い波止場の広さの中にむしろを敷いて、たくさんむしろが敷いて、そこにいっぱい人が、助かった人が座っているわけ。みんな、何かもらって食べているわけです、お握りか何か。で、周りは綱で囲って。また見物人がいっぱいいるわけ。あれ見て初めて、あら、生き残ったけれども惨めだねぇという気持ちがあって。もうあのときにも、また日が沈んで、山に引っかかっていたけど、それを見てもう本当に涙が出てね。

もう助かったら泊まるところがないから、みんなホテルを割り当てられて、あれは多分、軍からでしょうね、みんな。で3か所ぐらい、あのときに、わたしの近くに3か所あって、そこにあれされて、やっぱり兵隊がちゃんと管理して、食事も割といいような感じ、あの時分としてはね。まあ、沖縄はだけど物が無かったからそう思ったかも知れない。鹿児島はまだ十分にありましたから、何でも。そのあいだは、9月6日ぐらいまではそこにいましたね。

もうなんにも上からの達しというのはなんにも無い。たぶんホテルに言いくるめられているから、外にはなるべく出ないようにというように言われていたみたい。

恐くて行けなかったわけですよ、自分が監視されている感じがあるから。

あれはね、初めは生徒は外に出ていったから、こちら辺、みんな、憲兵隊が立ってから、特高警、特高がいるって。「特高がいるから大変よ」って言って。「どうしたの」と言ったら、「みんな外に立ってモノを言うな、人に話をするなと言っている」と。「ああ、そうねー」と。「対馬丸のことを言ってはいかんと言って、後ろからずっとついて来る」と言って、

「あっちに立って、背広を付けている人がね、首出しよったさ、あの人よ」って「特高よ」って言うわけ。

たから、誰かが出ると後をついて来るって言って。わたしは外に出なかったから。でもね、でも何かとっても悔しい思いしましたね。窓から、2階に泊まっていたから、窓から見る景色は穏やかでね。それからリヤカーいっぱいに、あの花は何て言ったかな、菊の花の夏生える菊だけど。それをいっぱい、長さに切ったのを、花、花といって売って歩くんですよ。はああ、平和だねーと思ってね。それから、日和傘をかぶって、お太鼓をちゃんと締めた奥さん方が通っていくでしょう。沖縄ではあんなことしたらもうすぐあれでしたよ、憲兵が来て。沖縄ではもう、モンペになっている。それから男の人もゲートル巻いてね、普段から。軍服、国民服と言っていましたよ、国民服着けてね。もう女の人はいつもモンペ。あんなのはやらないと、国賊と言われた。もうそこに来たら、まだお太鼓締めて。あの防空頭巾(ずきん)とかあんなの持ったら、わたしたちはもう、防空頭巾はずっと肩に掛けて、何かあったらすぐこれやるってね。そういったのを。もうこれが生活でしたからね。18年、太平洋戦争に入ってからずっとそれでした。学校行くときにもモンペだったしね。

特高警察。みんな私服ですよ。普通の背広着けて。やっぱり追いかけてきてね。みんなだいたい言われていますね、「しゃべるな」と。何しゃべったかと言われたそうです。

Q:家族や学校との連絡はとれたんですか。

いえいえ、全然。何にも、もう、電報も打てないし。

また、いったらね、それまでの知恵が生まれないわけですよ。うん。家族に知らせようとかって、そういう知恵は全然ない。いや、子供たちはね、すぐお父さんに知らせる、お母さんに、って。わたしはもう全然そんなこと考えない。これからどうなるのかなあっと。そればっかり考えてね。まず山川に行ったら、そこに病人がいるから、あれのまず、さしあたってあれの治すまでやらんといかんというぐらいで。行ったらまたなんとかなるさ、というぐらいに思って。それだけでしたね。毎日、その日その日の計画は、その日でわかるだけでね。前のこととか、後のこととかはわらない。

(9月)6日になってから県庁から達しがあって、あっちからまた加久藤(現宮崎県えびの市)というところに決まったからといって迎えに来て、行ったわけです。

十・十空襲のときには、まだ加久藤にいましたから、

大きくすぐ新聞に大きく出ましたよ、あそこに、「那覇市灰燼(かいじん)に帰す」といって宮崎新聞に出ましたよ。その日のうちにわかる。その前に、台湾沖大航空戦というのが大きく載ってね、戦果を上げて巡洋艦何隻、駆逐艦何隻、なんかあっちのものをやったと、アメリカのものをあれしたといって大きく出て。

ああ、やられたと言って、もう子どもたちも泣いて、そんなことがあったけれども、

Q:お母さんも宮崎に行ってらっしゃったんですね。

ええ、宮崎のね、わたしのところは都城市に近いところ、あっちは今のえびの市ですが、

でもわたしも生徒に言われましたよ、強く、「先生はいいね、帰るおうちがあるから」と。もう言われたときにはびっくりして、あい、わたしももう何もわからなかった、子どもだったんだねと思って、あれからもう母のところに一切行かなくなった。もう沖縄戦の話もなんにもしない。それから、自分たちが親から離れて寂しい、こんな話は一切しない。もういま現在を楽しむ。それだけでした。

Q:自分のクラスの子どもが、救助されなかった、助からなかったというのがわかったのはいつなんですか。いつぐらいに、ああ、やっぱりダメ。

はい、それはもう加久藤に着いて、名簿を見て、すぐわかりましたよ。ただその中に今のタエさんは、あれの姉さんはわたしより4期ぐらい下だから、それの妹だというのをわかって、ちょっとホッとした感じはなりましたけど、どういうあれか、やっぱり居場所でしょうね。やっぱり女の子は少なくて、男の子が多く助かりましたから。

Q:疎開が終わったのは、終戦が終わってからだいぶたってからですよね、戻ってきたのは。

21年ね。あれから戦争が済んでちょうど1か年。

Q:なぜそんなに遅くなったんですかね。

やっぱりアメリカとの交渉が悪かったんでしょうね。アメリカがなかなか許さないから。もうあのときからはもうアメリカ軍政府の時代だから。迎えてくれたのは、アメリカの上陸用舟艇、あれで迎えられて、すぐ収容所に入って。

おうちの那覇は何も無いですからね、焼け跡は。それからみんな、帰ってきたらコンセットハウス、何十棟かあるから、そこにみんな入れられて、そこの壁という壁にみんな紙が貼られているんですよ。だからそれをいちいち見て、自分の親を探すわけですよ、天井まで。

Q:この65年というのはどんな思いで過ごしてきたんですか。

これはやっぱり十・十空襲が幸いしたとわたしは思うんです。みんなもうどこに住んでいるかわからないから、那覇の人は特に田舎に行っていますからわからないんですよ。また住所地番も、様相が変わりましたね、みんな。だからやっぱり訪ねて行く気はもちろんないです。だけど、やっぱり親に会ったら恐くて逃げますね。なんか言われやしないかと。それは言葉で言えないから、なんと言っていいかわからないから。

どうしても死んだことが諦めきれないと、うちの父まで責めよった人もいますしね。だから、十・十空襲はうちの父が、「僕にとってとっても良かった」と。「そんなこと言ったら那覇の人にみんな悪いけどね、あれから自分も眠れるようになって、自分も気が違いそうだった」と言っていましたから、なるほどねと。だから行った人は行った人で、親はやっぱりそう思いますよ。「なんで先生が連れて行ったのにそんなことになるの」といった調子ですよね。

うちの父は教員していましたから、わたしが行ったあと、荷物を全部整理して田舎に疎開するつもりでうちを開けたら、うちに入らなかったそうです、いっぱい人が集まって。なんだろうと思ったら親だったわけですよ、ここが先生のおうちだからと言って。

毎日父兄に押しかけられて、那覇の荷物は整理できないわけです。あとからは、ずっと昨日からそこに座り込んで待っているという人もいたって、それは近所の人の話で。それから家もあけられなく、行けなくなって。そうしたら泉崎っていって、今の泉崎のほうに、そこに叔母がいたもんだから、あとはそこに泊まって、そこにもまた父兄が探して来て、子どもを返してくれと言って。もちろん学校にも、具志頭の学校にも来て、大変だと思ったって。それで十・十空襲になったときには、焼けるのを稲嶺駅から見てホッとしたって。これで訪ねて来ないだろうと思ったって。結局全部那覇は全滅したわけだから。「そんなことを言ったら悪いけど、僕はあの十・十空襲で生き残ったよ」と。そうでなかったら、自分も狂い死にしよったかもしらんと思う。みんなから責め立てられてね。だけど、それでもこの仲宗根さんという女の子の両親は、男4名か5名かの下に女の子ができて、とってもかわいがられて育っていたもんだから、具志頭までいつも押しかけてきて、「生徒もこんなにたくさん死んで、うちの娘は先生だのに生き残っているはずはない」と。「一緒に手を取り合って死んでいますよ」という話をしたら、初めて、「そんなかね」、「そうですよ」と。「先生ですからね、生徒を連れて一緒にいっているわけですよ」と言ったら、それっきりこなくなったって。

もうあれからそういう話はあんまりしたくなかったわけ。自分の生徒が助かってないのにという気持ちがあってね。なんとも言えない気持ちだね、あれは。なんかやっぱり、自分だけ生き残ったっていう感じがたいへん強くて、そんな話はしたくなかったです、全然、誰にも。戦後帰ってきて、今の平和通りのこっち側ににわか市みたいのが出来て、それから市場の形をするようになってから、すぐ女の人が飛び出してきて、「あい、石川先生」と言われたから、もう身の毛がよだつような感じがして。わたしを石川先生と呼ぶのは、もうそういう子しかいないから。あれからもう平和通りは通らないことに決めて、市場に行くのも、滅多に行かなかったですね。近くの店で買って。とっても恐かった、那覇に来るのは。わたしは首里でしたからね、最初のころは。だから、やっぱりいちばん、同じクラスだったという子がいたら、それを言われはしないかという気持ちもあってね。やっぱりまた言われてもしょうがないさ。うちの父がそう言っていました。もう生きていけたと言ったらダメと。沖縄の人はみんな犠牲者だよ、君たちだけではないと、そう言われたもんだから、あれからもう対馬丸の話はしないと、誰にも話さなかった。

とってもなんか、それでわたしはその胸苦しさっていうのがいつも治らなかったんじゃないかと思う。と言うのは、いつもそれを思って、なんか水の中でフラッとするときがあるのよ。

なんかそこに人が浮いている感じが見えて。

だから亡くなった子のことは、やっぱり忘れようと思うけれども、その状況というのはいつも浮かぶから。もう顔自体は忘れているけれども、その亡くなった状況というのは覚えているからね。とっても恨めしく思います。恨めしくても覚えないといかんし、忘れてはいかんと思う。忘れてはいかんことと思って、生きているあいだ、それは覚えているはず、ずっと。

もう最初はね、誘わなければ良かったねと、しょっちゅう思いよったけど、だけど今はもう思わない。自分一人ではどうにもできなかったと。誘わなければ、また、何回も行きよったはずですからね、どうしてもわたしも人数を満たさないといけないから。多分そうしよったと思うから。もうこれはそういう時代の流れだったと思う。悪い時代だったっていうこと。

やっぱり同級生と会うときには思い出しますね。同級生との話はいつも戦争の話だから。で、普通の人とは戦争の話しませんから。それで、あんたのときにはどんなだったとか、あんたはどこの学校だったとかっていう話をすると、必ず対馬丸が出てくるから。

いちばん近いのはやっぱり同級生っていう感じがありますね。これはもう家族ともあんまりそういった話はしない。姉さんとは話はする。姉はもう一緒ですからね、ずっと難儀して暮らしているから。疎開の楽しみとかつらかった思いは、二人で慰めあっているから。
やっぱり沖縄の人はものすごく冷遇された。アチカータンって言うんですね、沖縄の言葉では。勝手にあっちがいいようにみんな使いこなして、だからこのぐらいやればいいだろうぐらいにして。やっぱりそうだと思いますよ。だから生き残った人の名簿もないし、いわゆる抹殺されているわけですよ、生き残った人までも。

だからわたしが生き残っても、あ、対馬丸の生き残りかっていってクエスチョンマークがあるんですよ。疎開者名簿っていうのがあるわけですけど、全然載ってないわけです。いつもそれはわたしは、とっても国は勝手すぎたと。なんで生きている人は生きていると、あのときに遭難したが、これだけは助かっているということをちゃんと言わないかという気持ちは、ずっと持っています。

みんな欺いて、沖縄の人は割と皇民化運動ということで、だから昔から方言札っていうのもあったしね、うちらが小さいころ。わたしは那覇で暮らしているから、みんな標準語をちゃんと使っているけど、札をかけられて、いわゆる一つの別扱いするしね、そういったことがあった。先生方も、みんなヤマトびとでしたよ。県庁も課長級はみんなヤマトから来るわけよね。で、沖縄に人がいなかったかと言うと、いるわけですよ。そういう人はみんな学問をして東京に出て、首里の士族はみんなもう学問してみんな東京に行っているんですよ。そういう人が戦後は沖縄救済に立ち上がって、いろんな政治的な面も助けてくれたんですよね。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
那覇市在住、沖縄師範学校女子部専攻科卒業
1944年
沖縄師範学校女子部専攻科卒業
1945年
4月 那覇国民学校の訓導。8月 疎開の引率者として乗った対馬丸が撃沈、宮崎に疎開
 
高崎国民学校に転勤
 
1946年 生徒を連れて帰沖、約37年間教員として勤務

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