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タイトルタイトル: 「漂流」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 中島 高男さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月9日

チャプター

[1]1 チャプター1 大型貨物船「対馬丸」  04:14
[2]2 チャプター2 沖縄へ  03:45
[3]3 チャプター3 警戒警報中の出港  03:43
[4]4 チャプター4 手薄だった、攻撃に対する装備  01:51
[5]5 チャプター5 魚雷命中  05:39
[6]6 チャプター6 沈没までわずか11分  06:51
[7]7 チャプター7 漂流  11:48
[8]8 チャプター8 漂流4日目  05:34
[9]9 チャプター9 かん口令が敷かれた沈没の事実  05:03
[10]10 チャプター10 対馬丸遭難を語る  09:40

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月9日

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Q:中島さんはいつから対馬丸に乗ってらっしゃったんですか。

15歳ですから、昭和17年の12月です。12月から乗っていました。ちょうど12月に横浜海員養成所ってのがありまして、そこを卒業しまして。わたしが同期の卒業生の中ではいちばんで対馬丸に乗れたんです。そのときは嬉しかったです。一生懸命勉強したかいがあったって。

その当時は軍事物資を南方方面へ送るために、陸軍の徴用船になっていたんです。それは知らなかったんですけれど。乗ってみてそういう話で。主に陸軍の徴用船、陸軍の何でも運ぶわけなんですが、主にその当時は関東軍という満州の方に展開していた陸軍の精鋭部隊ですね、これを釜山とかあるいは上海とかそういったところから、南方方面へ移送していたわけです。だいたい1回に1000人ぐらいずつだと思うんですけれども。人数はちょっとわからなかったんですが、それくらいの兵隊さんを乗せて輸送していたわけです。ただ、その、貨物船ですから、もともと。ご覧のとおり窓一つないわけです。ですからこの中段の甲板の下ですね、この上段の甲板というのは南方の方へ行くとはだしで歩けないほど、上甲板というのは熱いんですよ。この中甲板だって中は熱が全部入りますから、今でいうサウナじゃないかな、そういう環境のところへみんな兵隊さんや何かも詰め込まれて、南方へ行ったわけです。帰りはそういうところへは人は乗ってませんから、甲板の真ん中には貨物を積み卸しする大きな口が開いてますから、そこへ荷物をどんどん詰めて持って帰ってくるわけです。だからとにかく人間がそこにいられるような状態ではないところだったんです、この対馬丸の構造的には。

上海の帰りに初めて那覇港へ入港したんですが。それがわたしの記憶では19年の8月17日ごろの記憶があるんです。
そしたら19日ですか、情報が入ってきて、この船は疎開船になるという情報が入ってきたんです。そのころ疎開なんてことも初めて聞いたし、どういうことなのかなと思ったら、沖縄が戦場に近いうちになるだろうと。それには戦争に邪魔になってしまうお年寄りとか女の人とか、あるいは子どもたち、これを内地に疎開させるんだと、こういうことになってきたんです。そういう話がきてびっくりしたんです。

8月21日になったら、そのときに対馬丸っていうのはその当時、那覇港へ入るにはかなり大型船だったんです。ですから岸壁に接岸できなかったんです。沖泊っていって港の真ん中へいかりをこう降ろして、そこへ停泊していたわけです。ですから一般の人が乗ってくるったって、みんな艀(はしけ)っていう、小さい荷物の運搬船、ああいうものに乗って、朝からぼんぼんいっぱい乗ってきたんです、お年寄りから女の人から、子どもが。

それが朝から夕方までかかったわけですよ。だいたいわたしたちも出航の準備で甲板部っていうのは、出航の準備で忙しくって、そんな人数なんか数えている暇なんかないんです。で、夕方いよいよ出航っていっていかりを上げて出航したんですけれど、本当にわからなかった。ただものすごい大勢の人が乗ってきたなっていうことはだいたい想像ついたんですよ。今までの軍隊輸送していた1000人程度のあれとは違うなっていうふうには感じたんです。思うに子どもたちっていうのが、こっちの前の方の船室へ入ったんですね。いっぱいいたんですよ。後ろの方へお年寄りとか女の人とかが乗ったようだったんです。

21日の夕方6時半ごろ、出航したんです。

出航するともうすぐ警戒警報なんですよ、その当時の船団というのは。もういつどこからやられるかわからないという、とにかく制海権そのものが19年になるともうほとんど無くなってしまったでしょう。ですからいつ潜水艦が現れて攻撃されるかわからないという、ピリピリはしていましたよ。

出航してみると港外に2隻の貨物船が、対馬丸よりはちょっと小さい船だったんですが、これが和浦(わうら)丸っていうのと僥空(ぎょうくう)丸っていう5000トンクラスの船が2隻待っていまして、最初3隻の船団で、対馬丸が真ん中へ入ってどっちの船が前だかわからないんですけど、こう3隻縦隊になって出たんです。

この対馬丸っていうのは何しろ老朽船ですから、船足が遅いんですよ。13ノットなんて言ってましたけど、とにかく自転車でこう走るくらいのスピードなんですよ。ですからこれはいくら機関部で一生懸命フル運転したって、そんなもんですから、他の船にどうしても遅れがちになるんです、この船団の中で。でもなんとか船団にくっついて行くようにっていうんで一生懸命やっていたわけですね。21日の夕方出航して、22日になって、22日には朝は何ともなかったんです。夕方ですね、大東島ってすぐいつも台風が発生する場所ですけれど、大東島方面で台風が発生したというニュースが入ってきた。今度は夕方ごろから、日中からですね、雨がザーっとにわか雨が降ってきたり、波がだいぶこう荒くなってきたんです。これ航海としては非常に条件が悪くなってきたわけですね。そこへもってきて対馬丸がどうも遅れがちになってきた。これは危ないぞっていう予感はしてましたね、わたしたち。

航海中に子どもたちに救命胴着を、22日の一日中やってましたけれども、先生方がみんな子どもを上甲板に集めまして、救命胴着の着け方っていうのを一生懸命教えてました。ところが昔の救命胴着っていうのは、まくらを2つこう前と後ろに背負うような形で、紐もこう2本ついているっていうもんです。それで子どもにとっちゃそれは非常に難しいんです、着けるのが。

対策っていったらいかだがもうたくさん積んであったんです、木のいかだと竹のいかだが。これはもう船のこういう甲板のところにいっぱいこう積んであった。それぐらいです。

ボートは4隻。後ろにこう向こう側と、4隻積んであった。実際にはこの貨物船そのものはそんなに大勢いるわけじゃないですから、疎開の人が何千人も乗るなんていうのは、全く異例のことですから、4隻で間に合ったわけです。それしか乗っていなかったわけです、ボートは。

10時に(見張りを)交替するとき、この甲板の上を通って来たわけです。この上に大勢大人も子どもも、中は暑いから涼んでいたのは確認したんです。随分いるなと思って。で、船室に入った。

自分のベッドっていうのは左側の2段目の上の段にあったんです。ぼんやりしていたんですが、それが交替してちょうど10時10分過ぎくらいだったんです。いきなり汽笛が3発も鳴ったんです。これはもう本当に船の悲鳴のように聞こえました。「ベーボーボー」って。3発鳴るってことは潜水艦が出たということなんです。だからわたしそのとき、瞬間的に立ち上がったんです。ぼーんと立ち上がった。そしたらいきなり左後方ですね、こっちの方でものすごい爆発が起きたんです。光は何も見えなかったんですよ。すごい爆発が起きて、その衝撃でこっち側のベッドまでどーんと飛ばされたんです。

その後ですよ、倒れたあとなんですけれど、2~3秒後にもう1発、それからまた2~3秒後にもう1発って、3発魚雷があたったのは確認したんです、倒れているとき。だからもうこれは轟沈しちゃうと思ったの、間違いなく。

扉を開けようと思ったら、これが爆発のショックで開かなくなっちゃったんです。これは体当たりしたりなんかして、やっとドーンと開いたんです。それで表へまずどっと飛び出した。これがいちばん船倉の入口からわずか5~6メートルしか離れていないですが、入口の船倉のところ、さっき見て通ったときは、そこにいっぱい人が乗っていたわけですよ、このシート敷いてある貨物の出し入れするところ。それが全部船底まで落っこっちゃっている。真っ暗な穴が開いちゃっているんですよ。思わずこの船倉の入口のところ、これぐらい高くなっている、そこからこう中をのぞいたんです。そしたらその中が左側からものすごい勢いで水がドーともう滝ですよ。落っこっているんです、中へ。その中にふただとか何かいろんなものがごちゃ混ぜになっているところで人間が、ものすごい人間がうごめいているわけです。ワーっと、声がギャーッて、なんて言っているんだかわからないけど、ものすごいガーンとなって、この下の方ですよ。もうそれが。そのときもうそんな光景なんていうのわたし初めてなんで、これが地獄っていうものかなって。そういう光景だった。もう大人やら子どもやら、子どもが多かったんですがね、ものすごかったです、それは。薄暗いところで、もうガーンという声が耳の中に入ってね。その光景っていうのは、わたしは何十年も頭にこびりついていた。

で、いつまでも見ているわけにいかないから、助けようたって何も助ける手段がないんですよ。もう梯子(はしご)も何もないし、はるか下の方です。どうしようもないんですよ。

そしたら甲板の上には大勢の人がいるんです。中には子どもも大勢いまして、そのときわたし何言ったかというと「救命胴着つけろ、救命胴着つけろ」って、ここを通りながら怒鳴りながらこうかき分けていったんです。「救命胴着、みな着けろ」って。もう沈没するのはわかってますからね。左側のここへ登ってこのボート、この向こう側の後ろのボートがわたしの担当ボートなんです。そこへ向かったんです。そのときにこの甲板にいた子どもたちって、泣いているだけなんですよ、いざとなったら。救命胴着なんかは着けられないですね、子どもには。あれは無理です。

Q:今も話すのつらそうですね。

わたしね、このうごめいている人たちの話をすると、どうしても涙出ちゃうんですよ。かわいそうでね。しょうがない。だからこのボートデッキへ上がっていったんです。何としても早くボートを降ろさなくちゃと思っていた。そしたらボート、そのころのボートはこれくらいの麻のロープでぶら下げてあるんですよ、ボートが。ですからこの麻のロープがほどこうと思ってもスコールで雨で濡れたでしょう。カチンカチンになっちゃっているんです。麻のロープですから。ナイロンのロープだったらそんなことないんですけれども。もうなんとしても降りないんです。

はって行って鉈(なた)を見つけて、それでロープを切り始めたんです、かんかんかんかん。それが切れないんですよ。そしたらそのうち船が左へザザザザーと傾いでいる。もうこの上に乗っている、いろんな、さっき言った、いかだだとかいろんなものが乗っているわけです、それがみな海へガラガラ落っこっているんです。それと一緒に人間もばらばらばらばら落っこっているんです。これはもうダメだと。もうブリッジじゃ、もうずっと前から「退船、退船」ってもう盛んにマイクでやっているんですよ。しょうがいない、もう、海に飛び込んじゃおうと思って。

真っ直ぐ飛び込んだ。ところがだいぶ深く沈んでやっとこう浮き上がったんです。とにかく船体から少し離れようと思って離れたんです。

服は着てましたけれども、このまま泳いで30~40メートル離れたかなと思ったら、後ろですごい音がしたんです。ダダダダダッーって。

こういう対馬丸がこういうかたちで、ばーっと前の方が全部沈んで、こういう形で逆立ちになったんです。これで、この一瞬ですよ、一瞬のうちにドーッと沈んじゃったんです。その早さってなかったです。それでこの、沈んだと思った瞬間、この1~2秒たったら、沈んだところからすごい泡、ものすごい泡がわーっと何回も吹き上がるわけ。その中に混じって救命胴着つけた子どもたちがもう後から後から、ゴボゴボ浮き上がってくるんです。それはもうびっくりしましたよ、あれもう。どれくらい浮きがったか、何百人浮き上がったかわからないですよ。広い海に散らばっているんですよ。今度はまた沈んだ方へ泳いで行って、その子どもたちはみんな海の中にこう顔つっこんでいるんです。顔をあげてみると全部死んでいるんですよ。どの子もどの子もみんな死んでいるんです。あれは何って言ったらいいんだかね、本当に地獄だったですね。かわいそうにね。もういくつにもならない、5~6年生の子どもでしょう。本当にかわいそうだったです。

いかだがあっちこっちに浮いているんです。何としても生きている人を助けられる。それで散らばっているから、とにかく1枚最初、この木のいかだを拾ったんです。いかだの後ろについているところをこう見たら、ロープが一応ついていたんです。

これは良かったなと思って、そのロープをほどいてまずシュロ縄のこういう所がこうなっているでしょう、最初縛り付けて、あとは長いですから、また泳いでいって、いかだだって泳いでいって引っ張ってくるには2枚引っ張れないです、1枚ずつ、また泳いでいって引っ張ってきて、またつないでこうくぐして縛り付けて、また次のやつを縛り付けて、

いちばん最後に竹のいかだをつないで6枚いかだがこうつなげたわけです。そんなことして約1時間近くもかかっちゃったんです。これで何とか生きている人を助けられるなと思って、そしたらいちばん最初竹のいかだに乗っかってきた人が50歳くらいの男の人だったんです。この人も救命胴着で泳いできて、「おーい」と呼ぶんですよ。だから「こっちこいよ」と引っ張り上げて、そしたら男の人だった。その人をいちばん最初にこの竹のいかだへ乗せて、またそのままずるずる流れにそってこういったら、今度は女の人が救命胴着で泳いでいるんです。それをまた引っ張り上げて。この人は17~18(歳)くらいの人だったです。娘さんなんです。その次に男の子、その次にまた男の子と。みんな救命胴着使って浮かんでいた人、みんな引っ張り上げたんです。それでその次に救命胴着と赤ちゃんを抱えたお母さんがいた。こうやって泳いでいるのよ、もう流れているのよ。それで泳いでいってそれを引っ張り上げて。赤ちゃんは乳飲み子みたいな赤ちゃんなんだ。とにかく良かったと思って、ひっぱりあげてみたら、2人元気だから。お母さんっていうのはこうやって赤ちゃんと救命胴着で1時間以上たっているんですよ、もうそのときは。それでそういう救助が始まって、全員でもういちばん最後に自分の木のいかだへ自分が乗って、

15分か20分漂流が始まったら、左手の方で「おーい、おーい」って怒鳴っているのがいるんです。よく見たらこれが1人の男がいかだみたいなものにとっつかまって泳いでいるんです。「そこじゃ危ないからこっちこいよ」って。「泳げるか」って言ったら「泳げる」というから、そんなに離れてなかったから、引っ張り上げた。よく見たら同じ甲板部のミワさんという人なんですよ。

その人を助けて、これでもう赤ちゃんいれて7人です。男の人、娘さん、学生が2人、お母さんと赤ちゃん。それからこの男の船員いれて7人、この6枚のいかだに乗ったわけです。

後はもう流れに任せるしかないわけです。明け方、23日の明け方、少し向こうに北西の方に島が見えたんです、ちょっと。だから、あーあの島に運がよくて、流れ着かないかなと思っていたの。夜が明けてみたらまだその当時はポツンポツンとあっちこっちにまだ人影が見えた。人影と言うかいかだに乗ったりなんかしてね。そういうことを願っていたんですけれど、もうどんどんどんどんこの島から離れていってしまって、お昼過ぎにはほとんど島は見えなくなってしまった。お昼過ぎに、もうそのころになったら自分のいかだしか、もう回りには見えなくなってしまった。そしたら海軍の双発の飛行機が南西の方からこう飛んできたんです。いかだのちょうど上のほうを飛んで行った。それで一生懸命、こう手を振ったんですよ、みんな。そしたら双発の脇にこういう細長いドアがあるんですが、そこからドアが開いて兵隊さんがこうやって下に手を振っているんです。「ああ、これは発見された」って、「もうすぐ救助くるから頑張ろう」って言っていたわけ。ところが夕方になっても何してもこないわけ、何にもこないわけ。それで23日が暮れて、23日の晩に一つ事件が起こった。赤ちゃんを抱いていたお母さんが、赤ちゃんを海の中に落っことしちゃったんだよ。疲れちゃったんです、きっと。それで「わー、助けてー」って。すぐ側だから飛び込んでいってすぐ拾いあげた、それは。それで、疲れているんだなと思ったのよ。

こうやって腹一杯飲んでいた。自分も飲んだし。「水だけで3日くらい生きるんだから、本当に飲んでいてよ」と。みんな飲んだ。そして24日になってから、腹一杯に水飲んだんだけれど、夜中に赤ちゃんが泣き出したんですよ。おっぱいを飲ませているような格好しているんだけど、おっぱいが出ないのかなと思ったの、そのときは。だけどそっちの前のいかだだからのぞいて見るわけにもいかないし、かわいそうだなと思ったの。そしたら寒かったんだね。水の中に入っちゃったから。わたし、ちょうど白い上着を着ていたの、船員服を。それを渡して「お母さんこれね、くるんでやってよ」って。わたしは薄着だったけど若いし、元気だったから寒いなんて思ってなかったから。くるんでやった。そしたらこの赤ちゃん寝られるようになったの、ぐっすり。

24日の夜になったら、そうしたら夜中に、何時ごろだかわからないんだけど、わたしもうつらうつらしていたんですね。眠っちゃだめよって自分では言っているけど、やっぱり眠くってうつらうつらしていた。そうしたらドーンと音がしたのよ。えっと見たら、2番目の娘さんが落っこっちゃったの、海の中へ。それでそのときの潮の流れの速いって、びっくりしたんだけど、向こうの方の南西諸島の方へ行く海流は速いんですよ。あっという間に10メートルくらい流されちゃったんだ。「助けてー」って言っているんだ。誰も行かないわけ。しょうがない、いちばん後ろのいかだにつかまって飛び込んじゃったよ。泳いでいってやっと娘さんをつかまえて、結構流れ速いからどんどんいかだが流されていく。

後ろにまわってこの脇の下からこう手を入れて、こう上げる。それで後ろ向きにしてこう引っ張ってきた。もう必死だったですよ。やっといかだまでひっぱり上げて、「もうだめだよ、居眠りしちゃ」。自分だって居眠り状態だったんだけど、でかい声で言ったよ、みんなに。もう流されちゃうからダメだって、居眠りしちゃダメだって怒鳴ってさ。

それで25日の朝になった。天気はいいのよ。でもどこ見渡しても何も見えない。流れは速いし、どんどんどん北東に流されている感じなの。太陽はずっとあがって今度は夕方になって。もう見晴らしいい中、水平線があって、こう下を真っ赤にこう太陽が照らすようなった。わたしはその旗を赤ちゃんに着せている旗をもう朝からずっとこう持っていた。もう今日助からなかったらとそのとき思った、この中で誰か死ぬんじゃないかなと思った。7人の中で誰か死ぬんじゃないか。誰がいちばん先に死ぬんだろうなと思った。あの赤ちゃんかな。子どもが先に死ぬかななんてそう思っていた。でも自分は絶対に死ぬと思っていなかったね、そのときは。俺は何としてもこの人たちを、何としても助けたいなと。それは船員としてのあれがあったのかもしれないけど。夕方になって。そしたらはるか北の方でマストが見えたのよ、小さいマストが2本見えた。「船が見えたっ」って言ったの。そしたら、みんなワーッて言ったけど、見たら、向こうの船は、船っていうのは前のマストが長いんです、後ろが短くて、前のマストが西南の方へ進んでいるわけ。こっちは北東の方へ流れているから逆なんです。もうこれでもし発見されなかったら、もう絶対ダメだと思った。それで1枚のいかだの非常に安定が悪い、すごく揺れちゃって、その上へ立ってその棒をもって、こう目印を持って立ち上がって一生懸命振った。どれくらい振ったかわからない。もう体中痛くなるほど。そしたらそのマストがこっち向いて来たのよ。「あー、発見された」と。そのときは本当にみんな子どもたちも泣き出したよ、嬉しくって。「あー良かった」って。そしたら向こうも全速力でこっちに来て、本当の太陽が水平線に沈む直前、船が寄ってきて、それが海軍の巡視艇で、昔の捕鯨船のキャッチャーボートってやつを改造したやつなんです。それが寄ってきて、縄梯子(縄ばしご)を降ろしてくれた。とにかくいちばん最初に赤ちゃんから、子どもからって、みんな先に上がれって。わたしがいちばん最後までいかだをもっていて、いちばん最後に上っていったの。それで兵隊さんに聞いたよ。「俺はこの白いの上着の旗を持っていたけど、あれ見えましたか」って言ったら、「あれがあったから発見できたんだよ」って、係の人すごい誉めてくれた。わたしも嬉しかったです、そりゃ。あー良かったなって思ってね。

みんな一から十まで教わっていたことをやっただけなのよ。でもそれはやっぱり結果となって全員助かったんです。こんな嬉しいことはなかったです。船員としてのやっぱりそういうときの責任というか、義務というかがありますから。

それでひとまず上陸したら、一緒に船員とお客さんたち、一緒にぞろぞろ歩いていた。上陸してすぐ向こうに並んで待っていたのは憲兵隊なの。ダーッと一列になって並んでいて、それで「船員はこっちへ」って。「疎開者はこっちへ」って。そこで全部分けているのよ。だから「お宅は何さん」って名前も聞かないうちに、そこでぱっと分けられちゃったのよ。それで船員は船員で何だか変な格好の宿舎みたいなところへ連れられて行って。

4~5日滞在したかな、今度は、わたしたちは「大阪へ行け」とこう言われた。船員と砲兵の人たち、兵隊さんが何人かいたわけ、5~6人いたかな、船員も何人かいて、7人くらいいたかな、鹿児島から客車1台、それだけの人間で乗って、「窓を全部閉めろ」って、全部閉めて、入口の両方には憲兵が3人ぐらいずついて、大阪まで護衛して送ってくれた。そういう状態で大阪に行ったの。

まずいちばん最初に言われたことは「この事件は箝(かん)口令がしかれているから、お前たちは絶対にこの対馬丸が撃沈されたということなんかは口外してはならぬ」と。「もし口外した場合は死刑になることもあるから」って脅かされちゃったわけ。

とにかく重大な事件だってことはわかりますよね。そういうものすごい事件である、国民には与えるとこまでは考えもつかなかったけどね、恐いなとは思いましたね。だからとにかく黙っていればいいんだなと。そのころは秘密が非常にあれですから、負け戦のことは絶対に言わない時代でしたからね。そういうふうには感じました。

それで熊谷の実家に帰ったんです。そしたらそれが夕方だったんです、ちょうど。わたしは何にも話しないで、そのころ電話なんてないんだから、いきなり玄関から「ただいまー」って入っていったんですよ。

玄関からこう入っていったら、見たら、奧の方にうちのお袋は夕飯の支度していたの。そしたら「あーっ」て立ちすくんじゃった。しばらくたって「タカオかい」って。「うん、そうだよ」って言ったら。あーとため息ついた。どうしたのと言ったら、亡霊が出たと思ったって。びっくりしちゃった。何かこう亡霊に見えたらしい。大丈夫だよ、生きているよって。家にいても絶対に秘密にしていて、もし俺が、最後に帰り際に言ったんだけど、俺はこういうことだったんだと。もしこれがよそにばれたら、俺は死刑になっちゃうんだと。絶対に誰にも言っちゃだめだよって親に言って、あれしました。

うーん、まあ戦後、わたしが初めてこの遭難の話をしたっていうのは、三十三年忌で、初めて沖縄に行ったときなんですよ。

それでそのときは、お母さんだと思われる人が、50才代の人がいっぱいいたんですよ、溢れるほど。その人が、わたしは、こういうあれで小さい子どもたちをこういうふうに死んでいったと話し始めたら、みんなハンカチ出して顔を伏せちゃったんですよ。わたしもかわいそうになっちゃったってね、しばらく声が出なかったです。あの、船の中で死んでいった小さい子どもたちのあの姿がどうしても目に浮かんじゃうんですよ。それでわたしも本当に何分間か声が出なくて、やっと話、時間がかかったんですけど、ずっと話が終わりまして、そうしたらもうみんなあのお母さん方だと思うんですけどね、本当にかわいそうだったですね。だからそれを思い出しますよ。やっぱし自分の子どもがそういう無惨な死に方をしたら、誰だって涙が出ますよ、ね。わたしも本当に話してても、あの情景を思い出すと、何回話をしても涙が出ちゃいますね、かわいそうで。そんなことがありまして、22年、それが終わったんですけど、それからもう毎年のように行っているんです。

Q:その前まではなぜお話されなかったんですか。

その前までって言っても、思い出すのがいやだったんですよ。かわいそうで。うちの今はいないんですけど、死んだ女房も若いころ、年中うなされて苦しそうだったってことは言っていましたけどね。「お父さん、ゆうべもうなされたよ」って。

うちのかみさんと寝ていると、夜中に起こされるんですよ。何かにうなされているんですね。それが夢に出るわけです。すごい声をあげているって。「どうしたの」って起こされるんです。もうそれがずっと長いあいだこういう、すごい夢を見て、忘れられなかったです。

あんな恐い情景っていうのは見たくないですね。あれを見たのはわたしだけだったのかなと思うんです。本当にすごい情景だったですよ、下は。

何百回話してても、涙が出るんですよ。かわいそうでね。まだ船の中に大勢残されて死んでいる人がいると思うんですけれどね。ああいうのを思うとかわいそうでならないですよ。まして家族の人なんかも本当にかわいそうだと思います。こんな事件が二度と起こさないような、そういう世界になってもらいたいですね。かわいそう過ぎます。小さい命が何千人もいっぺんに死んじゃうなんて、考えただけでもね。しかも前途有望な子どもたちが大勢ですから。本当に考えてみると戦争って悲惨ですよ。ですからわたしはあちこちあれして、話をして歩いているんですけど、わたしは40周年のとき、たった一人の赤ちゃんだった、たった一人生き残ったんですよ、あの赤ちゃんは、その赤ちゃんだった人と偶然巡り会えて、命って、命さえあれば、こんな小さい子どもでも大きくなって立派になって、立派なお母さんになって、立派なおばあさんになっていられるって、つくづく思います。だから話の中には、わたしはいつも、命を大切にして、自分の命も大切かも知れないけど、人の命も大切なんだと、絶対人の命なんか無くすようなことをしちゃならないと、学校へ行っても言うんです。大きくなればみんな立派な人になるんだからって。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
熊谷在住
1942年
日本郵船に就職、12月 対馬丸の船員に
1944年
8月、対馬丸が沈没、その後、横浜-室蘭の貨物船に乗船
1945年
3月 退職、4月 海軍の通信学校に
 
以後、日本郵船勤務

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