ホーム » 証言 » 堀川 澄子さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「海に沈んだ学友たち」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
名前名前: 堀川 澄子さん(対馬丸遭難者 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2009年11月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 やってきた守備軍兵士  02:06
[2]2 チャプター2 「友だちとヤマトに行きたい」  02:56
[3]3 チャプター3 出航  02:55
[4]4 チャプター4 魚雷攻撃  07:00
[5]5 チャプター5 漂流  03:11
[6]6 チャプター6 救助にこなかった護衛艦  02:45
[7]7 チャプター7 救助  06:35
[8]8 チャプター8 戦後の故郷  03:03
[9]9 チャプター9 かつての面影は消え去っていた  08:09
[10]10 チャプター10 「対馬丸」を語るということ  03:07

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~
収録年月日収録年月日: 2009年11月10日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

疎開した年の1学期までは普通にわたしたちは学校へ行っていました。もちろんその前に警報が鳴ったりして防空壕(ごう)へは入っていましたけどね。

1学期は確実に授業もあって夏休みに入ったんですよ。夏休みの終わるころ、ちょうど疎開に行くというころ、ちょっと学校へ行ってみたら、もう既に物資がいっぱいで、運動場は全部物資がいっぱいで、兵隊さんがもう既に校舎をみているわけですね。だからどうしたんだろうっていう、いきなりですよ、どっちかと言うと。1学期までちゃんと授業していますから。

2学期戻ってきたときにはもう既に校舎は兵隊さんで埋まっていましたから。でも、気分的には大変圧迫された感じがありましたけれどもね。

ちょうどいろいろと空襲警報とか警報がちょっと危ないなということになっていたんで、一応那覇から恩納村のほうに、疎開と言うより避難みたいな感じで。

そのころはもうとにかく、ちょうどわたしは恩納村に行く途中でしたけれども、やっぱり読谷あたりはすごかったですよ。あれでびっくりしました。兵隊さんの動きとか、読谷の飛行場の動きとかっていうのは、端で見て、バスで行くんだけど、当時、恩納村あたりまで木炭車で、たしか4時間ぐらいかかったと思うんですよ、那覇から。バスですけどね。だからゆっくり走る道で、周囲の動きですよ、ああ、やっぱり戦争中だなという感じがありました。

夏休みは、向こう(恩納村)にうちの母の里がありましたので、そこに夏休みに行っていました。行くまではなんでもなかったんですよ。(那覇に)帰って行くと何日間かのあいだにすごく変わっていて、そうしたら既にみんな「疎開に行く」っていうふうに騒いでいたんです、友だちは全部。それじゃあもう自分も遅れてはいけない。ヤマト(本土)っていうのが、あのときのわたしたちは雪がまず見られるということですね、それから船に乗れる、そういった感覚で、来年の3月にはみんな帰ってこられるんだっていうことだったんで、旅行に行く感じですね。大きい船だし絶対大丈夫だって、護衛艦も付くし絶対大丈夫だと言われていたし。それよりも旅行に行けるんだっていう楽しみがあったんじゃないかしらね。単純だけどね。

それで、自分だけ取り残される感じで、周囲のお友だちは全部もう既に手続きが済んでいるから、一生懸命自分でまたやりました、手続き。

ただもう、友だちが行くんでわたしも行きたいというだけの一心です。

まあ奨励していましたからね、疎開を、すぐ受け付けてくれて。あのころ、町内会長さんのおうちに行ったと思うんですよ、申し込みは。

うちのおばあさんは、うちには姉がおりましたけど、彼女も1人で行かせたらまずいから2人で行かせようと思って、彼女の分もおばあさんがちゃんと手続きをとって準備もしたけど、友だちが行かないから行かないって言い出しちゃって、結局友だちなんですよね。友だちが行かないから自分は行かないんだということで、姉はよしたんですけどね。それも運が良かったということかなって思うんですよね。それで、みんな小学校3年以下の子どもたちは、兄弟が5、6年生にいたら一緒に行けるというあれになっていたんで、だいたいは1人行かせるよりは2人というふうに兄弟で行かせた家庭が割と多いと思うんで、2人とかという犠牲者がいっぱいいますよ。兄弟2人亡くなったっていう。その点だけは、ちょうどうちの場合は、姉が自分で「行かない」って言い出して行かなかっただけ。おばあさんの場合、1人だけ行かすとちょっと寂しいんじゃないかなっていうことでやったんだけど、まあそれは、ちょうど運良く姉は行かないってことになったんで、2人もし一緒に行っていたら、お互いに気を遣って捜しているあいだにダメになるんじゃないかなっていう話もあったしね、あとで。

すごい、あんな大きい船見たことないですよ。もちろん沖縄の人はみんな見たことないと。あの当時、7千トンと、輸送船ですよね、対馬丸はね、兵隊を中国から送ってきて、その帰りだと聞かされていたんで、想像はつかないけど、とにかく7千トンだということは聞かされていました。そうしたらもうすごいですよ。船まで上っていくのにも大変なあれでしょう。梯子(はしご)か何かがあったんでしょうね。梯子を登っていったのかな。たいへん大きな船だと思いました。なにしろ沖縄にいて見たことなかったから。かなり沖合に泊まっていますよ、こちらに入りきれなくて。

はしゃいでいたけどいざ別れるというときにはみんな、子どもたちも親も全部泣いていたんで、ちょうどボートに乗り込むときには泣いていたんだけれども、わたしはもうとにかく別れに泣いては、涙を出してはいけないということをずっと言われていたんで、母も辛抱して涙を見せなかったし、わたし自身もとにかく堪えてました。それからちょうど船が読谷あたりの沖のあたりに来たときが、もう日が沈むちょっと前だったかな、まだ島影が見えて、そのときがいちばん寂しかったですね。あのときは本当になんとも言えない。いよいよ島を離れるというときが、すごい、夕日のあるころだったから、あれは何時でしょうね、8月ですから。そのときは本当にちょっと寂しくなって涙が出ました。

Q:学校で友だちとみんなと一緒に貨物室の中に入っていたと思うんですけれども、そのとき見た印象とか。

そうですね、「蚕部屋」なんてみんな話してはいたけど、その蚕部屋っていうのは沖縄では全然わからないから。蚕棚、蚕を飼う棚。棚があって、わたしたち小学生でも立って歩けないぐらいの下と上とでありますから、男の子がみんな上に昇って、女子はみんな下だったんで、そこをこうして回って歩いたような感じがします。大変だなと思ったけど、子どもだから別にそんなに、気持ちはもう向こうに行っているから、はやっているから。それに友だちが一緒になって修学旅行気分だから、別にこれが。防空壕に入った経験もあるし。とにかくこんなして寝ていました。雑魚寝で。頭をつき合わせて。

ちょうどその日も蒸し暑くて大変な日だったけれども、「危ない、今夜はちょっと危ないところを通るんで、救命具はちゃんとはいておきなさい」ということで、結局前と後ろにくくりつけて、横になって寝ていたんです。

Q:今夜は危ないからというのはどなたがお話されたんですか。

これは先生だったんじゃないかしら。全体に、上のほうからのあれだったんじゃないかと思うんですけど。「とにかく、今日はとにかく七島灘を通るんで、その前の夕方は退避訓練、こういったらこう、こう、足をこうつかまえてみんな歩くんだよとかって、上に登ってやりましたよ、練習。

既に気持ちは向こうのほうに飛んでいるし、そこでは仲間がいっぱい、子どもたちがいるし。はしゃいで話していたんじゃないかしら。退避訓練のときには、みんなもう本当にはしゃいでいましたよ。ワーワー騒いで、キャーキャー言いながら。その晩は、「とにかく小学生は上に登ってはいけない。寝るときはちゃんとたくさん着込んで、救命具はちゃんと縛って寝なさい」と言われて、これでは寝られないですよ。横にしか寝られないでしょう。でも子どもだからすぐ寝つきましたけどね。

どのぐらいだったんでしょうね。「やられた」っていう先生の声で、一応はぱっと飛び起きて、うつつのままに動いていますからね。ちょうど蚕棚から出て、ちょっと広場があったんで、そこまで行ったらこうなるから。そのころからはちょっと大変だということがわかって、

誰一人そこでは一緒にいた友だちが一緒に話はしていないです。もう飛び起きて、行動しているだけのこと。他の子どもたちはどうだったんでしょうね。わたしの場合、そばにいた人がもう既に出てしまっていたのか、それも全然わからない。ただもう先生に起こされたんで体がポッと起きて、一緒にこうみんなの中に入っていっただけのことで、もうそばに誰がいるかもわからないですよ、真っ暗だから。

Q:声とか、そのときはどうでしたか。まわりの音とか。

うん、ガーガーガー、「やられた」「やられた」っていうことで、猫の変な声も聞こえるし。印象的に残っているのは、猫だったのかなんか知らないけど、ただもうみんな無我夢中で、「やられた」「やられた」っていうことで、もうとにかく必死に向こうに登っていくだけですよ、上のほうに。そうして、わたしたちが登るまではもう既に傾いていたと思うから、ほとんど時間はないですよ、上甲板まで、甲板の上まで行くまではどうにか歩いて行ったけど、そのあとは側に誰が、一人だけだから、友だち、登ってから会ったのは。

Q:先ほどおっしゃっていた、妹さんを捜していたという。

はい、その。妹さんがちょうど船酔いしていて、ちょうど先生のそばに預けていたみたいで、それがはぐれてしまったんで、どこに行ったかわからないなんて言っているから、じゃあもう自分でそうするより、先生のそばのほうがむしろ安心じゃないのっていうことで、二人であそこまで歩いていったからね。それと、彼女とはあそこで別れたっきりもうわからない。どんなふうにしたのかわからないし。他の近い、ホカマえっちゃん、みっちゃんの、もう一人イシバさんっていう兄弟もいたから、この子たちが本当に、もう会ってないですよ、やられてからは。真っ暗だから。既に大きい、わたしの場合とてもよく眠りよったから、起こされてもまだ目が覚めてなかったんじゃないかなと思うぐらい。で、いちばん最後になったのかそこらへんもわからない。とにかくもう無我夢中ですよ。登ってみて、やっと上まで登って、ああ、大変なことになっているんだということで、それから足が動かないという状態になっていたんです。でもまあ二人で勇気を出して上までは行ったけれども。

上に登って行って甲板について足をあれしたときに、こう震えている。もうどうしていいかわからない。既に甲板にいた人たちは、既に飛び込んだかなんだかやっているみたいだし、わたしたちは登ってくるまでに時間がかかっているから。わたしは、あのころ上甲板って言っていましたけどね、一つ上のほうの、そこまではどうにか行ったけども、もう子どもとしては、なす術がないですよね、みんな。ボートは既に切られて降ろされていたんじゃないかな。夜だからわからない。もうしょうがないからそのまま船と一緒に、マストが倒れてくるんだなっていうことだけはわかる。もうこれで終わりだなっていうのは覚えているんですけど、そのあとはもう渦に巻かれているからね。あれがないですよ。水の中で何かに触るだけはわかります。それが何分だったかどのくらいだったかわからないけれども、ちょうど渦のど真ん中だったんじゃないかしら。

わたしの場合は運がいいから、ひっくり返ったボートにみんなが乗っているから、そこに上げてもらって。ボートの端っこあたりに上げてもらって、それで船員さんが助けてくれて、これ緩んでいるのを締めてくれたり、前にしてくれたりして、運が良かったです、すごく。もうこれは運としか言えないでしょうね。たまたまボートのそばに頭を出してきたということです。もし離れていたらちょっと無理だったんですよ。泳げないところだし。それに誰も助けてくれないです。みんな必死だから。

だから当時は、あのボートに相当ぶら下がっていましたよ、バタバタバタバタして下がっていたけど、夜が明けてみたらみんなどこに流されたか。本当に。

でもあの晩のことちょっと、あれは本当に現実だったのかなと思うぐらい、当時歌っていた「海ゆかば」の歌を歌う大人の人もいたし、それから「先生」とか「兵隊さん」とかって声、暗い海の中で。

荷物があっちこっち、見たわけじゃないけど、感覚としてわかるんです。なんか星明かりって言うのかな、なんとなくその気配はわかりますよね。それでちょっとやっぱり疲れているから、なんか睡魔に襲われて寝てしまったんでしょうね。起こされたり、寝たり起こされたりするうちに夜が明けて、そうしたらすぐ側に島が近くに。あれはどの島だったか知らないけど。そこに手が届くんじゃないかなと思うところだけど、なんか大人に言わせればすごい離れているということでした。それからあとは波間ですよ。七島(シチトウ)だから三角波っていうのがありますよね。わたしたちは波の上に登って、三角の上に登ったら向こうが見えて、また下に下がったら波で。

とにかくわたしたちのボート(いかだ)には何名ぐらいだったのかな、20名ぐらいでしがみついていた。みんな必死ですよ、それこそ。さらわれたりするから、これはもう寝たら大変だということで、わたしもよくたたき起こされたけれども、必死です。何を考えていたんでしょうね、みんな。あまり話もしなかったような感じがしますね。特にわたしは子どもだから、大人と話するわけにもいかないし、みんな黙っていたんじゃないかなという感じがします。大人たちの話も、なんか聞いたような感じもするけれども、何していたんでしょうね。それよりも必死にしがみついているのがもう、いつ流されるかわからないから。あれだけの時間よく、そう言えば、よくしがみついていたなって。こうしたボートですからね。七島灘だからとてもこんなしては行けないんですよ。必ずこんなして。そこにみんなしてマタ乗りになっているか、しがみついているか。マタ乗りになっている人はどうにかしたけど、しがみついていた人たちはほとんど流されていなくなっていた、翌日は。亡くなっている。一時期はもうパタパタパタパタいっぱい周囲にしがみついていたけれども、考えれば大変だっただろうな、どこに行ったんだろうなと思っちゃうんだけどね。

よくあれだけで20時間近く、そのぐらい乗っているかね、しがみついていたななんて今でも思います。

Q:もともと護衛艦がついているという話でしたよね。

はいはい。

Q:船が沈んだときは、これで助けにきてくれるかなと。

と思っていました、翌朝までずっと。

だから必ず来るって信じていた。それがとうとうこなかった。信じていましたよ。だからなんか夢うつつ、なんか眠りかけて、船がこう来ているような錯覚を起こしたりしていましたからね。願っているのがあれになって、たぶん船が近づいた音が聞こえたような感じがしたりして。

今に来るんだ、来るんだと思っているけど、それは全然一向に見えないわけですよ。

隣の大人たちも、今にあれが迎えに来るからねっていう慰めの言葉はしていましたけどね。だけど、待てど暮らせど全然見えない。

Q:漂流しているあいだは、どんなことを考えていたんですか。例えば家族のこととか。

はい。友だちというよりやっぱり家族ですね。どうしているんだろうか、助けられただろうかと、それの繰り返しですよ。船の上ではわたしはたしか泣いていたと思うんです、悲しくなっちゃって。ちょうど翌日の日が出て何時ごろか、わたしの同級生の男の子が、結局力尽きて流されて行くのを見たときには、もう本当にたまらなかったですね。この同じボートにぶら下がっているけど、どっかケガしていたんじゃないかなと思うけど、かなり唸っていたんで、この子は。そうしてふっと見たら流されていく。結局つかまえきれないから、流されていくんですよ。

流されて行くのを見ても、とてもとても、手を伸ばしきれないですよ。これは大人だってできないことだと思うし。ああ、大変だ、いくんだなとそれを見ていただけのことで、今でも目の中に浮かんできますけどね。

ショックですよ、それこそ。もうとっくに昼間でしょう。よくわかりますよ。これも着けたままね、救命具も着けたまま、力尽きて、あれっと思ったら流されていた。今までうなっていたのにねと思ったらそれがなくなって、あれっと言ったらそこに流されて。これはどうしようもできないしね。もう結局は、そういったこともあったなと今はもう本当に現実だったのかななんて今思っているけれども。

翌日の何時ごろだったんでしょうね、飛行機が低空してビラを落としてくれたら、あ、これでやっと助かるかなっていう感じは出てきました。

もう本当にダメなのかねと思ったころ、漁船がきましたからね。

鹿児島の山川漁業組合の漁船だったみたいで、さおですか、さおを下にあれして、それにつかまって上から上げるような方式で助けてもらったけれども。それで一晩その漁船でなっていて、翌朝、鹿児島の山川港に着いて、そこで漁業組合の宿舎か何かしらないが、そこに1泊して、翌日また鹿児島港のほうにその船で行って、そこから旅館、なに旅館だったかな、なんとか旅館に行きました。

わたしが、一般疎開の人たちで一応落ち着いた旅館では誰も知っている人がいなかったですね、誰も。

いざ収容された先で見ると誰も助かってないわけよ。助かってないですよね。他の、垣花とかそこらへんの方は何名か助かっている人がいたんだけど、泊小学校はわたしが最初に収容されたところは男の子も誰もいないです。

そのあとに学童だけ集められたときに、同級生が、女の人一人助かっていて、それから男の同級生とかなんとか、泊小学校の男の子たちも助かっているのはそのとき知ったけれども、女子で助かったのを知ったのは一人だけ。

もうそのときは、本当に話す人もいないし、夜なんかも、そこでもやっぱし大きい部屋にごろ寝状態の感じで収容されているから、一人のおじさんが何名かの大きい家族で来たみたいだけど、自分だけ助かったということで夜通し起きて泣いていました。大きい声を出して。ああいったのを聞いているとちょっとつらくて、「自分一人だけ助かった」ということで。

この方たちも一般疎開の方たち、どこの方かわからないけども、大変なことだなって、今から考えると大変だっただろうなと思いますね。

どっちかと言えば家族のことです。親兄弟のことですね、まず頭に。で、友だちはどうなったんだろうなということは、一緒になるまではどこに助けられているだろうなっていうあれがあったから、友だちは。

Q:相当、その友だちが助かっていないというのを知ったときは、相当やっぱり寂しかった、ショックというか。

そうよ、もちろんありますけどね、まだどこかで助けられるんじゃないかという期待もありましたよね、どこかで。そしてあとで聞いたら大島とかいろいろと流されて、そこから沖縄に帰ったという話も聞かされたんで、そういった人がもっといるんじゃないかなという期待はあったんだけど、ちょっとやっぱりあまり、一人だけ沖縄に帰った人がいるみたいだったね。名瀬かどっかに流されて。それはあとで聞いたんだけど。それからはもう、子どもだから先生に連れられて、今度は宮崎市のほうに行って、そのうちでもう自然と先に行った子どもたちとのあれがあるから。

Q:救助されたあと、他の人が、まあ聞いているっていう人と聞いていないっていう人がいるんですけど、箝口令(かんこう令)、対馬丸のことについては話すなと言われたという人が。それは堀川さんはどうだった。

聞いてました。そういうことがあるんで、自分がここにあれしたっていうところのハガキも手紙も出してはいけないということ。

わたしたちは厳重に絶対連絡をとってはいけないと言われていたんで、手紙も出してはいけないとか、いろいろとあったんですよ。

これは上からの誰かだった、指示だったんでしょうね。わたしたちの上であれしてくれる人たちの。とにかく、手紙も出すな、やられたっていうことも口外するなとか、そういうことは言われていましたよ。

それで沖縄のほうでは想像していたみたい。その話はあとで聞いたんですけど、噂話は飛んでいたみたいですね。

(対馬丸が魚雷に)やられたという噂話はかなりあったみたいですね。なんか漂流物が沖縄にも届いたとかなんとかっていう、流れ着いたという話もあったみたいだし、それになんかどこからか知らんけど、そういったうわさが出ていたみたいです。

わたしの場合は助けられて鹿児島に行って、着いて、一般疎開者と全部一緒になっていたのを、学童と一般疎開者と別個にして、同じ鹿児島内のホテル、旅館ですか、たしか春本旅館とかっていっていたと思うんですけど、そこに学童だけ収容されていましたので、そこに行ってからわたしはちょっと外出した先の郵便局で、ちょっとハガキを書いて出したんですよ。

運良くおうちに届いたみたいです、ハガキが。それには絶対触れないこと、それだけは守って出したんですよ。そうしたらおうちに着いたら、みんな、噂がああいった噂だからということで、周囲から、このハガキを見せてくれということで、ある程度あちこちまわったみたいですね、そのハガキが。

Q:どんな文面で書かれたんですか。

ただ、元気で鹿児島のほうについたからということしか書けなかった。おうちのほうはどうなっているかとか、無事でいま着いているから、元気でいるからということだけの文面だったと思う。

共通のお友だちが一人でも生きていたら良かったけど、一人も生きてないから。

最初は寂しかったけど、そのうちにワイワイやっているうちにある程度慣れてきて、それでもいつかは沖縄に帰るんだということは頭の中にずっとあったし、そばに子どもたちがいるから、友だちがいっぱいいるんで。先発に行った子もいるし、一緒に助かった子もいるし、学校には地元の学校に行っているから。とにかく寒さだけは大変でしたね、最初の年は。授業が終わるころは鉛筆もつかめないくらいかじかむし、沖縄から着ていったようなもの、それが綿の服ばっかりしか持っていないから、たしかそれは大変だったなと思うし、休み時間になったらそこらへんの日だまりにこうして座っていた、沖縄の方とね。そういったのを覚えています。

宮崎第三国民学校と言っていたけれども、その学校に行って、そこに通っているときに沖縄の10月10日の空襲を聞かされたから、

いやもう、やられたっていうことは聞いたけれども、でも絶対無事を信じていましたからね。那覇はもうメチャクチャだっていうことは聞いていた。もうみんなやられてみんな焼け野原になったっということは聞いていたけれども。

みんな良くして、特にわたしなんか遭難したということで、向こうの子たちがすごく親切にしてくれたんで、そこの担任の先生にも良くしてもらったし、そういった点では、そんなに向こうのあれにいじめられたっていうあれはなかったです。

でもね、熊本なんかに最初に行ったときには、沖縄って言えばそれこそ南洋の土人という感じの感覚しかみんななかったみたいで、本土では。だからもうそれこそ、ご飯の食べ方も炊き方もわからない、お風呂の入り方もわからないっていう感覚で迎えられたから、わたしたちはあとでそういう話を聞かされただけであって、まずご飯の炊き方を教えるとか。

沖縄は小さい南洋の島国の土人だという感じで、認識しかなかったんじゃないかなと。あとでみんな笑い話になりましたけどね。迎えるときはそうだったって。わたしたちの場合は都会から疎開していっているから、むしろ向こうの田舎の人よりはある程度は勉強も割としていたし、そういった点ではあとで笑い話で向こうの人も話してくれたけれども。

Q:やっぱり(沖縄に)戻って来てからも、当時住んでいた場所とかもだいぶ変わっていましたか。

ああもう、だいぶどころじゃないですよ。完全にないです、完全に。もう那覇は港に着いて、船で港に着いたときはもうそれこそ焼け野原の中にススキが生えてましたからね。わたしたちは船から下りてすぐ、軍のトラックに乗せられて、その前にすぐDDTをここの中に吹き込まれて、そしてトラックの上に乗せられて、ずっとそこの収容所まで行ったけど、そのあいだも本当に焼け野原。これが沖縄と思うぐらい、ススキ原だし、だからどの道をどう行っているのかももちろんわかりませんよ。着いたらかまぼこ型の収容所に入れられちゃったから。もとの学校どころじゃないですよ。道はあそこの近くまでかな、東線を通って行ったんだね、特によくわからないけど。とにかく外国へ来たっていう感じで、

外人が立ってるでしょう。この人たちが来てからDDTを全部、白い粉をここ全部入れられて、こう開けられて入れられて、すぐトラックに乗せられてすぐ行っちゃう。オーッと思っちゃって、これで、ここで生きていくのかなと思っちゃったぐらいだからね。

Q:戦後戻ってきてから、そういう同級生とか知っている友だちの遺族に会うこともあるわけですよね。

あるんですけど、避けていました、努めて、わたし自身は。もう親しい友だちの親たちもよく知っているから、近くの。知っているから、もうこちら自体が避けて、なるべく。慰霊祭にも参加しないし、親たちがまだ元気なあいだはほとんど、話し合いもしてないです。

Q:それはなぜですか。

だって、もう向こうはわたしを見たら泣き出すんだからしょうがないでしょう。それはつらいですよ。結局、一緒に見ただけで、自分の子はいたらこうなっているかね、ああなっているかと想像するんじゃないかしら、お母さんたちでも。

しかも子ども二人も行かした親でしたら大変だと思うんで。知らない親はどっかで会ってもわからないけど、友だちの親はだいたい知ってますよ、あのころは。だから顔を合わすのを努めて会わなかったです。ある場所では一度会ったこと、同じ親せき関係のあれで会ったことはあるけど、そのときはもうなるべく避けましたけどね、でもちょっと顔出ただけでもう泣き出しちゃったから、これは大変だと思って。当時はもうわたしは慰霊祭には行っていませんよ。ただそばから祈るだけであって。最近は遺族も亡くなって、時がある程度たってしまったら、この遺族自体の家族でも、戦後生まれた妹さんとか弟さんになると自分の兄弟のこと知らないから、普通ですよ。別に会ってお姉さんたちがどうだったかとか、お兄さんたちがどうだったかということは誰も話しないし。それともまた小さくて妹さんたちが残っていると、この子たちだって上の人のことわからないからね。努めて会わないようにしていました、当時は。

そのときにみんなの顔も見てない。いたのか何かもわからないし、先に飛び出していったのかもわからないし、ただどこでどうしたんだろうということはいつも考えるけど、どこまであの人たちは生きていたのかなって、これはあれするけど、上まで登って行けたのか、それもわからないし。だから今でも、亡くなった、いないんだなっていう実感というのかな、それがあまりないで、実際に見たわけじゃないから。マエシロさんだけは言葉交わしたけれど、彼女も一緒にいたのにボートに乗れたのかな、どうしたのかなってそれは思うけれども。だから、友だちだって実際に亡くなったというのを目の前で見てないし。場合によってはどこかに生きている、助かっているんじゃないかなという感じもあったけれども、だんだん日がたつに従って、本当にいないんだなという感じはするんだけど、なんか現実だったというあれがないんです。本当のことだったのかなって。朝、一緒に行きましょうって誘いに来た思い出とか、そういった遊んだ思い出とかは残っているけれども。一緒によく遊びましたよね、学校から帰ってきてからも。その当日も一緒に誘いにきて、行こうということで誘いに来て、一緒に行って行動して、そこ、1泊、船でも1日明けて2日だったと思う、あの船が、そのときもちゃんとお話しているのに。暗いから、本当にどこでどうなったのかそれがわからない。きょとんとして寂しくなったという、当時はあったけれども。だんだん風化されてくるのかなと思うし。

日常の生活ではあまりないです。いろいろある、記念日って言ったら変だけども、慰霊祭とかそいういった日にちにはやっぱり顔が浮かんできたり、お祈りしていたら顔が浮かんできたりというのはあります。普段にはもうあまり、普通の今の生活の中では始終は思い出さないけれども、こういった慰霊祭とかいろいろなあれがあって、何かでその話が出たりすると、みんなの顔が浮かんできます。子どものときの顔だけど、浮かんできて、慰霊祭のときにも、手を合わすときにはみんなの顔が浮かんでくるけど。あとは、生活の中では今はないですね。

Q:自分は結局助かったわけですけれども、なんで他の同級生とかが、せっかく安全を求めて行ったはずなのに亡くなったのかって、なぜとか、そういう疑問とか。

なぜっていうのはたまにはありますけどね、なぜって言ったって、これはもうどうしようもなかった時代じゃないかなという感じがあるし、たとえ疎開に行かなくったって沖縄で亡くなっているのはいっぱいいるわけだから、強いて、なぜって言うよりは、もうあの時代だったかなっていう感じはありますよね。特に対馬丸で子どもたちがみんなのあれを受けて、安全だということで奨励されて行ったのに、なぜ、安全なところに行ったはずなのに、沖縄にいる人が生き残ってっていうあれはありますよ。行かなかった子のほうが生き残っていて、安全だと思って行った子はダメになっていうのが、それはなぜっていうのはありますよ。でも、沖縄にいてもひょっとしたら戦火にあれされていたかなとも思うしね、こういった運の無い子はね。本当にわたしなんかが助かったのは、本当に運が良かったって一言ですね。自分がこうしてこうして生きたんじゃなくて、本当に運が良かった。もうそれしかないですよ。

話せなかったというよりは、聞かれたら、対馬丸だったんだってねっていう話で、うん、そうだと、全然知らなかったという話はするけれども、強いてこちらから話さないですよ。

だって自分だけでそういったところでしょうがないでしょう。助からなかった人もいっぱいいるわけだから。強いてまでは話しませんよ。でもわかられたときにはちゃんと話しますけどね。まあ自分は運が良くて助かったんだしっていうことがあるから、亡くなった人もいるんだから、あまり話さない。だからつい最近も知らなかったっていう人がいっぱいいるからね。

だからね、あそこに閉じ込められている人はどんなだろうかね、どのぐらい閉じ込められているんだろうねとか。遺族がいま引き上げてほしいということを言っていますよね。だけどあれちょっと無理だって言っていますね。だからどれくらいの人があそこの中に一緒にいるんだろうというのは思ったね。親としては引き上げてもらいたいと思うけど、ちょっとこの親たちももう既にこの世にいらっしゃらないと思うから。考えますよ、顔が浮かんでくるから。誰が、どれだけの人がそのまま船の中にいたんだろうと思っちゃうから。どんな気持ちだったんだろう。わたしが渦に巻かれたときは意識はまだあったから、みんなあんな気持ちのままで意識がなくなっていったのかねと思う。水の中でこう巻かれていたときには、まだ、あ、人がいるなとか、周囲のあれが、感覚があって、その後息があるうちに頭だけ浮かんできたから。だけど、下で登れなかった子どもたちはどうしたんだろうなと思って。そのまま、苦しいままそのままなったんでしょうねと思うし。

本当はしたくなかったけれども、でもわたしがまだぼけないうちに話はするのはしておかなくちゃいけないかなと思ってしました。

つらさはある程度乗り越えているんですけどね、やっぱり自分一人だけでこんなあれしてはっていう感じもあるし、でも語り継ぐ人もだんだん少なくなっていくから、ある程度体験した分は伝えていたほうがいいかなと思うし。だんだん風化、風化されちゃって、生存者もほとんどいなくなると思うから。まだちゃんと話せるうちに、ぼけないうちにある程度のことを、体験した部分だけはね。

出来事の背景出来事の背景

【海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)8月、沖縄から子どもやお年寄りなどの本土への疎開が始まった。その最初の疎開船「対馬丸」が、那覇港を出港して2日目の夜、米潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没した。犠牲者はおよそ1400人。半数は学童疎開の子どもたちだった。
この悲劇の背景には、戦況の悪化に伴い、国の命令で進められた疎開政策があった。疎開の目的は「防衛態勢の強化」。お年寄りや子どもが島にいると「軍の足手まとい」になるとされたのだ。疎開を進めるにあたって国民学校の先生たちは、子どもを手元におきたがった親たちを説得して、疎開する子どもを募った。
対馬丸は、8月22日夜、魚雷を受けてわずか10分後に沈没。多くの人は船とともに命を落とした。海に投げ出された人々は、いかだや板などにしがみついて漂流し、波にさらわれ、飢えと渇き、疲れで命を落とした人もいた。
助かった人の中には、6日間も漂流して遠く離れた奄美大島に流れ着いた人もいた。
生き残った人たちには、沈没した事実を話してはいけないと口封じが行われた。沈没の事実が広まると、疎開の推進を妨げることになると考えられたのだ。
しかし、対馬丸沈没の事実はすぐに広まり、疎開を勧めた国民学校の校長宅には「子どもを返せ」と 訴える親たちが押し掛けた。
沈没からひと月あまりの10月10日、米軍機が大挙して那覇市を空襲、壊滅的な被害を受けた。
対馬丸沈没で足踏みしていた住民疎開は一気に進み、米軍が上陸する翌年3月までの間におよそ8万人が、本土や台湾に疎開した。
一方、目の前で友だちや家族を亡くした子どもたちや、教え子を救えなかった教師たちは、生き残った苦しみを生涯抱え続けた。また、生存者が沖縄に帰ってみると、家族が沖縄戦で犠牲になっていたという人も多かった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
那覇市泊(とまり)国民学校
1944年
8月 6年生で学童疎開の際、対馬丸が撃沈、宮崎県に疎開
1945年
親戚に引き取られ疎開生活
 
帰沖、高校卒業後、基地従業員として勤務

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード