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タイトルタイトル: 「帰京、そして東京大空襲」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 柴田 恵喜さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 旅行気分だった学童疎開の出発  06:00
[2]2 チャプター2 出発の朝  03:33
[3]3 チャプター3 ホームシック  05:51
[4]4 チャプター4 蔵王おろしの寒風  03:31
[5]5 チャプター5 卒業式のための帰京  03:58
[6]6 チャプター6 東京大空襲  03:57
[7]7 チャプター7 防空壕を捨てる  04:12
[8]8 チャプター8 火の海になった東京・下町  04:16
[9]9 チャプター9 焼け野原、そして焼け焦げた遺体  06:20
[10]10 チャプター10 焼け残った校舎  02:06
[11]11 チャプター11 終戦  06:01

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月16日

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そのときは、まだまだ、事態の深刻さということは全然考えられず、何か修学旅行にでも行くような、言ってみればルンルン気分でいたことは確かだと思います。その厳しさを本当に感じたのは、現地へ入って10月、11月、だんだん寒さが厳しくなるにつれて、事態に深刻さというものを感じるようになりましたですね。正直言って、ルンルン気分で修学旅行にでも行くようなつもりで、でしたら温泉地がいいな、なんて考えました。「温泉地ではない、白石という宮城県の小さな町なんだよ」と言われてちょっとがっかりして。でも、よくそのとき聞かされたんですけど、「町の公会堂だとかお寺が、宿舎、寮になるんだよ」と言われる中で、わたしらの入った宿舎が旅館なのでよかったなと。そんな程度の気持ちが偽らぬところでした。

当時、わたしも6年生でしたのである程度のものは感じていたと思うんですけれど、3年生、4年生あたりの僕らより小さい子供たちは、親子共々悲そうな感じをもって対応したんではないかと思います。実際わたしの母親も、母親というより両親とも、えらく気にして、出発する前までは何かとわたしのことを気にかけてくれて、今まで食べられなかったものをどこからか都合してきてくれたり、飲食に連れて行ってくれたと思います。それを受ける当人は、まだ事態の深刻さが理解できなかったんでしょうね。すごいな、当時の社会は配給制度で不自由な生活を強いられた中で、デラックスな、豪華なものを食べさせてくれたり、飲ませてもらったり。嬉しいというのもおかしいですけど、華やいだ気分になったことは間違いなかったんじゃないかと思います。

疎開ということを一生懸命、当時の情報局がPRしていたんですね。疎開とは何だよと。一つには人的な疎開と、施設、建物の疎開。大別すると2種類あったみたいですね。建物は、工場なんかを守る。一般民家でも、空襲を受ければ火事がある。昔から「火事は江戸の花」と言われるとおり、東京なんかは特に大火事になって、どうしようもなくなるだろうということで建物を間引きしてつぶしていくんですね。一般のこういう住宅を。それから我々のような小学生、子供たちは、露骨に言えば足手まといになるので地方へ移ってもらうということで、しきりにPRしていたんですね。ですから、その程度の知識は多分に持っていたと思います。

わたしは子どもの頃から映画が好きで、しょっちゅう映画に行った。それまで、母親は「とんでもない。そんな小遣いあげないよ」というようなスタンスでしたけど、疎開の話が出るようになってから「見たい映画は見ておいて」ということで、いろんな映画を見ましたですね。浅草というものも控えておりますし、わたしの居住したところの近くにも何軒か町の映画館がありましたので、よくそうしたところへ映画を見に行きましたですね。

精華小学校の校庭に集合して、朝7時頃だったのか8時頃だったのか分かりませんけれども、各クラスごとに隊列を組んで上野駅へ向かったんですけれども、

朝、学校へ集合するのに家を出るとき、父は「体に気を付けろよ。元気で帰ってこいよ」と。母は外へ出て、近所の方と話をしていたようです。隊列を組んで、学校の正門を出て、その道筋に疎開児童の父兄、友達がズラリ並んで、手を振って別れを惜しんでくれました。

その中に母がいて、まだ赤ん坊だった妹を抱いて、そばに近所のおばさんが見送ってくれていましたけど、わたしはただ手を振って、隊列に入っておりまして。母はなんて表現したらいいのか、それこそ、この世の別れというような感じでいたんじゃないでしょうか。ただわたしをじっとみて、妹を抱き締めて、わたしを食い入るように見たあの面影は、いまだに忘れませんですね。

もっとひなびた、田舎じみた町なのかなと思ったけど、意外ににぎやかで活気のある町だなという感じは受けましたですね。面白いことに、出発前に「向こうへ着くと歓迎でリンゴを一つずつくれるはずだから、手にはあまり荷物を持つな」と先生から言われたんですけど、そのリンゴは出ませんでした。「なんだい、嘘言われたな」なんて友達と話したような記憶があります。いずれにしても、活気はあるけどしっとりとした町で、一歩裏通りへ入りますと静けさのあるいい町だなという印象は受けましたですね。今とはだいぶ違う感じですけどね。

向こうへ着いて1週間ぐらい経ってからかな、1週間もしないうちかな。僕らはなんだかんだ言っても12歳ぐらいになってたのかな。別段、いわゆるホームシックですよね、感じませんでしたけど、同じ6年生でも、ホームシックでシクシクやったのもいたようですけど、小さい子たちはシクシクやったようですね。夜、布団に入ると、あっちからこっちから泣き声が漏れてたらしいですけど、わたしはもうグーグー寝ていたけど。旅館ですので、木造2階造りなので下に男の子、上に女の子という組み分けをしたんですけど、男の子でも布団に入るとシクシクやってるのもいたみたいでした。なかには面白いのはトイレに入って泣いてた子がいる。誰かいるなと思って、何となく様子が変で見てたら、男の子がしゃがんだまま泣いてるんですよね。僕らは力づけるつもりはあるんだけれども、半ば「なんだだらしない。泣くんじゃない」って、叱りつけたようなこともあったと思いますよ。

わたしがいる間は、今思っても内容は充実しておりましたですね。阿子島旅館のご主人とそのご家族、それから隣組の方、町の方、非常にわたしらのことを心配してくださって、いろいろな食材を、言ってみれば差し入れしてくださったり、ご都合付けてくださったりしたんだそうです。段々そうは言ってもひっ迫してくると、宿のご主人とそのご家族の衣類だとか、ゴム長靴だとかを食糧に替えて我々に食べさせてくれた。確かによその寮の人から比べると、格段の差があったみたいですね。お昼の弁当なんかも、寮母さんが、寒いので冷たいお弁当じゃかわいそうなので、時間ギリギリまで置いといて、そして温ったかい、湯気の出るようなご飯の弁当を寮母さんが手分けして持ってきてくださった。

そういう食糧面は、わたしたちは本当に恵まれていたようです。それでも、小さい子のをピンハネしたりしてるのも、いたみたいだったですけどね。

お風呂なんですけどね。最初は町の銭湯へ行ったり、あるいは、白石という町は養蚕が盛んで生糸工場がある。生糸工場はご存知でしょうけれども、大きなお風呂みたいなのがあってそこでマユ玉を煮るんですよね。あのにおいが堪らなく嫌なにおいだったんだけど、そこのお風呂を借りて。町の銭湯はしらみが移ってきちゃったんですね。それで、これはいかんということで、最終的には旅館ですからお風呂場はありますから、いくら子どもでもいっぺんに、せいぜい4、5人入れるようなお風呂を使うようになったんですけど。その風呂の水汲みはだいたい6年生と一部の5年生。男の子。これは、宿の旅館の風呂を使うということになってから、毎日のようでしたね。僕なんか後には、「風呂へ入るのは男ばっかりじゃない。女だって入るんだから、女の子もやらせろ」なんてね、陰でブツブツ言ったこともありましたけど。それと毎日ではなかったけれども、小さい子をおぶったり、あるいは手を引いたりして、病院。駅から真っ直ぐ行くと白石病院ですか、あれは国立病院だったのかな、そこへ連れて行って。そこの外科部長のお医者さんが寮母さんのおじさんに当たる。だから、僕らが行くと喜んで、にこやかに迎えて治療してくださったようでしたね。

大きな部屋を四つに仕切って、本当はふすまか障子で仕切るんでしょうけど、それは全部取っ払って。隅っこに納戸みたいな作りにあとからしたんですけど、だから延べ何畳なんだろう。40畳か50畳ぐらいの広さになるんじゃないですか。その中へ大きな火鉢が一つあるだけなんですよね。


Q:そんな広いのに、大きな火鉢一つって、寒かったんじゃないですか?

 それは寒いですよ。だから寒さしのぎには、あとは自分たちで運動でもして体を温めるほかないんですけど、寒いけれども、寒かったけれども、寒さには負けなかったんだな、僕ら。運動するったって、手足にしもやけで崩れたりすると十分にできませんからね。本当に小さい子は、そういう面ではかわいそうだったなと思いますね。

それは身に染みて感じましたね。わたしは手足にしもやけはできましたけども、さほどひどくもなく済みましたですけど、小さい子なんかしもやけが崩れて、まともに歩けない子どももいました。ときには雪道の中を病院まで負ぶって、病院へ行ったこともありましたけど。

手足にしもやけを作って崩れてきたのは、簡単な薬しか使わなかったんでしょうけど、包帯をグルグル巻いて治療したんです。それがまたあれなんですよ、毎日、一山出るんですよね。洗うのは寮母さんやほかの寮母さん、それから2階にいる女の子たちが手分けして洗って干して、乾いたやつを男の子のところへ持ってきて、また包帯を巻くという作業が毎日ありましたね。

あれだけど、派生した話だったですけど、毎日の寒さというのは、気温自体も低かったんでしょうし、いわゆる蔵王おろしという冷たい風。これは本当に厳しかったですね。土地の方は慣れっこになっているんでしょうかね。さほど寒さというものについては、感じられなかったようなんだけど。寒いことは寒かったでしょうけどね、それが一番、身にこたえましたですね。

正月を過ぎてから間もなくだったと思っています。その前から、その当時でも、どこを受験するかということは大きな問題でしたからね、6年生にとっては。中学受験というのは、今のように全員というあれじゃなかったみたいですね。本当に一部の子どもだけみたいだったですよ。だから、受験しない子供との差があるといけないので、あまり進学については話が弾まなかったと思います。僕らのあれは、女の子は何人だったかな、6、7人かな。 男は4人。女の子はどこを受けるんだか、わたしらは我関せずで、意識の外でしたけどね。わたしがどこを受けるんだなんていうことは、5年生や寮母さんがよくわたしらに聞いてきたと思ったですけれども。東京にいた先生方や父親が、いろいろ相談してくれたらしかったんですけど、最終的に受験校は決められたんですが、わたしの最初の志望校はその学校ではなかったんですけどね。その代わり大きなおみやげというか、付けてもらったんですけど。そうですね、進学については正月が過ぎてからそういう話を具体的に聞かされるようになりましたね。はっきり決まったのは東京へ帰ってきて、その日に聞いてもらいましたね。

町中は、春日通りを、春日通りじゃない、もう一つ向こう・・春日通りになるのかな。とにかく上野から蔵前に向かって歩いて、そのところどころ、行くときのようなにぎやかさは全然感じない。ちょっと奥のほうを見ると、爆弾の跡。家がすっ飛ばされて、その跡が見えたり、それから、各おうちのガラス戸がみんな紙を貼って、米の字に。ああいうものがあって、本当に何か戦地に来たみたいな、そういう印象を受けましたですね。戦争なんだなっていう感じだったんでしょうか。

時間的なことは分からないんですよ、時計がないんだから。あとから聞かされた話では、とにかく布団に入って。布団に入ったって、寝巻きに着替えているんじゃなくて、上着とズボンを脱いだぐらいで、それで寝たんですよね。寝て間もなく、警戒警報。わたし叩き起こされてね。とにかくまっ暗な中、ズボンを履いて、上着を着て、カバンを背負ったのか。でも、慣れないからオロオロしてたんですよね。そしたら、母親に「ボタンなんかあとでもいいんだから、すぐに防空壕へ逃げなくちゃ死んじゃうんだよ」と脅かされて。わたしは、そのときは、空襲の恐ろしさなんてことは全然分かってませんから、あえてモソモソしたわけじゃないんだけれども、何となく手ぬるかったんですね。玄関からタタキへ下りて、靴を、あのときはズック靴だったかな、ひもを締めたら、「ひもなんかあとでもいいんだから、履ければいいんだから、防空壕(ごう)へ早く行かなくちゃいけない」。というのは、自分の家にも床下を掘って防空壕らしきものはあることはあったんだけど、そんなところより、すぐ近くに、普通の失火、火事による火災を起こしたところ、そこがさら地になっている。そのさら地を隣組で、隣組というのは自治体ですよね、一括して借りて、隣組全員が入れるほどではなかったんじゃないかと思うんですけれども、そこは割合しっかりした防空壕。そこへ逃げ込むことになってたらしいんですね。だから、そのときもそこへ移動すると、避難するということで外へ出たんですけど、「靴のひもなんてあとからでもいい、結べるんだから。さっさと防空壕に行かないと死んじゃうよ」ってまた脅かされて。警戒警報が出たのは、何か後の記録によると11時40分ぐらいのことを言ってましたけれども、逃げる途中にすでに空襲警報になっちゃったんですよ。空襲警報は通常、警戒警報が出てから20分なり30分なりしてから、本当に敵機が、B29が来るまで20分や30分余裕があるらしいんだけど、そのときはすぐに空襲警報になった。空襲警報になったということは分かったんだけれど、もう周りでドカンドカン、ドカンドカン音がしてるんですよ。ともかく防空壕に入って。それが何時何分であるか、12時前であるか12時過ぎてからであるか、時間的なものは分からないんですね。

じっとしていたんです。ドカンという音がするたんびに、目とこう、押さえるんですよね。爆風に備えて。これはもう疎開に行く前から、1年も2年も前から、空襲のときはそうやって小さくなってるんだってことを教わってましたので。そんなことをやったって、意味ないんですけどね、実際には。間もなく、外で隣組長の声らしいんだけれども「もうだめだ。逃げろ」と言うんですよ。それで、またおふくろに手を引かれて外へ出たら、もう周りが火の海。B29が低空飛行してるんです。「えっ」と思って見たら、人相まではっきり分からないけれども、パイロットが、暗い中ですから黒く影になっているのが見えるぐらい、それぐらいの低空飛行で。右のほうを見ても、左のほうを見ても、後ろを見ても、火なんですよ。これ、すげえなと思って。すげえなって思うだけ、まだ余裕があったんですね。本当に逃げ出す、移動し始めた頃には、そんな感覚さえ出てこなかったですね。恐ろしいっていうか、何ていうか、ともかく親に従って付いて行くほかないんで。最初は避難先を目指して移動を始めたんですけど、フッと親父が後ろを振り返って、「何も頭に載せてない。ちょっと待ってろ」。すぐ家へ戻ってきて、布団に水をかけて、「これを頭の上に載せて、これで行くんだ」と言って、避難して行ったんですね。そのときには、ちょっと広めの通りへ出たら大勢の人がゾロゾロゾロゾロ、上野のほうへ向かって、西のほうへ向かって逃げている。逆に東のほうへ向かって逃げようとする人がいたんです。というのは、西のほう、それから北のほうは火の手がバーンと、ものすごく火の手が上がってるんですよ。それで、精華小学校の前に精華公園という公園がある。今でもあります。「精華公園へ逃げろ。そこが駄目だったら、大川のほうへ逃げろ」と言ってるんですね。親父が「組長、馬鹿言うな。こんな大火事のときは風下に逃げちゃダメだ。風上に逃げるのが常識なんだ」。あとで聞いたら、それは関東大震災のとき、風下へ逃げた人は命を失ったり、けがしたりしたけど、風上に逃げた人が助かってるんだ。そういう哲学っていうことでもないでしょうけど、そういうセオリーを持っていて、川上の三味線堀と言ってるんですけど、現在清洲橋通りというところ、そこが2月の空襲で焼け跡。それから、たぶん強制疎開を受けて家を取り壊す。そのために空き地になっていたところがある。そっちへ逃げれば、ともかくそっちに逃げれば一応いいだろうということで、目指したわけなんです。

火のひどいのは、恐ろしいものですね。今考えてもゾッとするようなあれで。しかも、焼夷弾による火ですからね。言ってみれば、空からガソリンまいて火をつけられたような、そんなものですからね。それに等しいものですから、炎の上がり方もすごいんですよ。ここにいたときに、避難していたとき、最初はこの辺からだったかな、 火事になったんですよ。消防車が来て水を撒くんだけれども消えやしない。ある程度下火になって、こちらのほうへ、横から軒並み焼けてるんですよね。だけど1軒燃えるのに何分も時間がかかるっていうもんじゃなく、どんどん広がっていくんですよ。消防車がホースで水をかけても、消えたもんじゃないんですよね。少し、下火になってくると、次のところへ移っていく。そんなような消防さんのウリでしたね。あの恐ろしさを、何と表現していいかね。


Q:火事風、強い風なども吹いていましたか?

 ええ。風がものすごかったです。俗に言う、火事風というんですか。ものすごく強い風が吹きましたよ。新宿の西口のビルの間を、ちょっと天気の悪いとき、いわゆるビル風が吹きますけどあれより強い風じゃなかったかな。 西から吹いてきたかと思うと、今度は東から吹いてきたり、下から吹いてきたり。何かグルグル回ってる感じでしたね。だから隅田川のこっちの、本所深川の方たちは、本当に逃げ場を失うということだったそうですけど、それは無理もないことであって、どっちに逃げていいか、炎の向かう先がどっちであるか、判断できなかったでしょうね。

寒くてね。5時頃だったかな。 薄明るくなってきて、ここらの火事もみんな焼け落ちちゃって、いくらか静まり返ってきたんだね。父が、向こうのほう家がたくさん並んでいるから、ちょっと見てくるから動かずにここで待ってろよと言われて、こっち側のほうへ見に行ったんです。

というのは、そこに知り合いの人がいて、ちょうどそのころ、田舎へ疎開される予定になってたんだそうです。そこがもし焼けなければ、空き家があるはずだからっていうことで行ったらしいんですね。行ったらば、まだ疎開してなかったけれど、すっかり疎開の準備はできている。あとは汽車に乗るばっかり。荷物を送って汽車に乗っていくばっかりの準備が終わったところだと言ってたんです。夜が明けてからそちらへ移っていったんですよね。

周りはすべて焼け野原なので、精華小学校が焼けずに残っていた。その近くに、ちょっと先に白壁のあれがあるんだけど、友達の家の蔵、倉庫だったんですね。それが耐火がしっかりしていたらしくて焼け残った。そこまで行って、三筋町の交差点から行くと、焼け焦げた死体が転がっている。最初は何かなっていう感じでしたけど、いくつか見ると、人間が焼け死んだものだったり、建物か何かに寄っかかった形をして、真っ黒けになって。後に人から聞かされた話では、焼け焦げないで死んでる人が結構いた。考えてみると、おそらく有害ガスを吸って、あるいは普通の火事の煙のように、ひどい煙で窒息死したんではないかと思われる死に方なんだそうです。中には幸運な人もいたようで、うまく逃げおおせた人もいる。いずれにしても、とにかく一面の焼け野原。そして、ところどころ焼死体が転がっている。いやあひどいもんだな、この世の地獄っていうけど本当だなっていう、そういう印象が非常に強かったですね。そのとき、お腹も空いてたと思うんですよ。喉もカラカラだったと思うんだけど、そういう飢餓感も忘れてたっていうか、気が付かなかったっていうか・・何ともうまく表現できないような恐ろしさ、虚しさでしたね。

そのときはまだ、死体の収容なんていうのは始まっていなかったんだけど、二度目に行ったときは、死体の収容が始まっていた。中には死体の収容に駆り出された人も、僕らの友達で、まだ小学校6年生、言ってみれば卒業したばっかりで。男であれば誰でもいいんだっていうようなあれだったんでしょうかね。死体収容に駆り出された人もいましたね。

実際、キントキアパートというのが精華小学校の近くにあるんですが、一度、見たところ、キントキアパートをそのまま使ってるんじゃないかなと思われるふしもあったんですけど、1階が市場、2階以上が住宅、アパートなんですよね。地下が倉庫になっている。地下へ逃げ込んだ人が、危ないからっていうんで鉄の扉を閉めたんです。閉めて間もなく、わたしの小学校のときの友達が親子で逃げてきて「入れてくれ」って。「一杯だから駄目だ。よそへ行ってくれ」と言われて、やむなく厩橋のほうへ行った。そしたらば、地下が蒸し焼きになった。扉を開ければよかったんだけど、扉が開かなくなっちゃったんだそうです。鉄の扉で、熱のために鍵が溶けちゃったんですかね。開かなくなって、中にいた人たちはみんな蒸し焼きになった。だけど、あそこのそばを通ったとき臭かったですね。何とも表現できないような臭さでね。恐ろしいものでしたね。

その地下倉庫へ入るのを断られた友達は、いわゆる母子家庭だったのかな。 お母さんと逃げたんだけど、厩橋のたもとで行きはぐれたらしいんですね。厩橋を渡ろうとしたけれども、人が一杯で動きが取れない。そのうち火や煙がひどくなって、橋けたの後ろ側に、子供ですからストンと入って隠れられた。だんだん熱くなってきて、熱さに絶えかねて川へドボンドボン飛び込む人がいた。それは、しばらく何年か経って思い出話で、クラス会を開いたときに思い出話として聞かされたんですけれども、そのとき、「おまえはなんで川へ飛び込まなかったんだよ。そうすれば楽だったろうに」「飛び込んだって、俺、泳げないもん。泳げたら飛び込んだかもしれないけど、3月の初旬に川の水なんて冷たいし、飛び込んだら一発で心臓マヒ起こしちゃうよ。また、そういったことで川の表面は死体で一杯だった」と言ってましたね。

嬉しかったですよね。なんか救われたっていう感じでしたよ。ともかく、勤務をなさっている先生が2人、3人いらっしゃって。1人がわたしの担任だったキタムラ先生という方で、何か他の人と、父兄と話をしていたようですが、わたしの顔を見て、立ち上がって「柴田、よく助かったな。よかったな」と目を潤まして、わたしの手を、握りしめてくださいましてね。その時だったかな、卒業証書をいただいたのは、無くしちゃったんですけど。B5サイズくらいの画用紙。それも紙の質の悪いね、ガリ版刷りでしてね。それでも、周りがすべて焼け落ちて精華小学校だけ残ったのは奇跡的なんですけど、宿直の先生が近所の方、あるいは逃げ込んできた人の協力を受けて、水を掛けながらカバーしたという話でした。ともかく焼け残ったという奇跡に近いような残り方で、よくぞがんばってくださったという感謝の気持ちですね。

8月の15日、朝起きてから海岸へたきぎ拾いへ行って帰ってきたら、帰ってきたのは昼近かったのかな。 時間ははっきり覚えていませんけれど、11時頃だったと思う。兄貴が「日本は戦争に負けたらしいよ。天皇陛下がラジオでその話をするらしいよ。今日郵便局の窓口を閉めて、みんなラジオの前で座ってるよ」。そのうちに時報が鳴ったのか、今までラジオが聞こえてたらしいんですよね。それが、音が消えたり出たりで、ゴチャゴチャ言ってるんですよね。それが、いわゆる天皇陛下の玉音だということだったんですよね。わたし行ってみたら、郵便局の女の人が放送が終わってしばらくしてから、泣きながら出てくるんですよ。母が聞きに行ったんですよ。「どうしたんですか」って。「何か大変なことがあったんですか」「大変なことも大変です。戦争に、日本は負けた。アメリカに降参したんだ。それを天皇陛下が今放送したんだ」「え?!」って言ったんですけどね。当時の僕らに、重大な状態になっているということは、薄々分かっていましたけれど、降伏したなんていうのはちょっと信じられなかったんですよね。日にちが経つにつれて、日本は戦争に負けたのか。最初は、そんなのは作戦の一つで負けたように見せかけて、のこのこ出てきたら一挙に神風特攻隊が出て叩き潰すんだ。そんな途方もない考えでいたんですけどね。馬鹿みたいだね。それにしても恐ろしいことでしたね。

わたしらが帰ってきて2日目の夜、あれしてるけど、その日に、10日の日に帰ってきた人もいるし、そのあと帰ってきた人もいるんですけどね。何も空襲を受けるために、なんで帰って来ちゃったのかなっていう感じは否めませんね。お役所は、学校のスケジュールがそういうふうになっているからという、そんなロジカルなことでは済まされないような感じを持ちますね。全然無意味ですもんね。中学受験という大きな節目にぶつかったのが、運の分かれ目かどうか知らんけれども、ちょっと理屈では割り切れないものがあるんですよね。また世間でもよく評価をなさっているようすで、何のための学童疎開だったんだということで・・分かっていれば当然、帰郷の日を先とするとかっていうことになると思うんですけれども、わたしも何とも結論づけることはできませんね。


Q:柴田さんにとって、集団疎開とはどういったものでしたか?

 一つの節目だったでしょうかね。良い面もあれば悪い面もありましたけれども、子供の世界の中でも、やはり守らねばならぬこと、やらねばならぬことがあるんだなという、人間生活の一端を教えられるいい機会だったんじゃないかと思っています。口ではそう言っても、なかなかそのとおり実行ができないし、また、やらない面もありますけれども、一つの、人生の中でいい節目になっているかもしれませんですね。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。
東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
精華小学校に入学
1944年
国民学校6年、学童疎開で宮城・白石に
1945年
受験のために帰宅した浅草で、東京大空襲に遭う
 
静岡に再疎開、静岡の中学校に通い始める

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