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タイトルタイトル: 「生かされたという思い」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 戸田山 幸子さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月7日

チャプター

[1]1 チャプター1 疎開への出発  02:16
[2]2 チャプター2 宮城県・白石での生活  03:45
[3]3 チャプター3 空襲の危険迫る東京へ  02:47
[4]4 チャプター4 東京大空襲  07:40
[5]5 チャプター5 焼け野原と遺体  01:57
[6]6 チャプター6 学徒動員  03:48
[7]7 チャプター7 終戦  08:06
[8]8 チャプター8 学童疎開そして空襲の体験を経て  04:32

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月7日

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秋口辺りの、確か「少国民新聞」というのをしょっちゅう見てまして、それに載ってたわけです。やっぱりそれまでに、6年ですから、戦争というか、お国がということは植え付けられてたと思うのでね。自然な形で行かなきゃならないというのが、自分の気持ちの中にあったと思いますよね。だから、割合自然体で行っちゃったんですけどね。

さほどそのときは、あまりきつくは感じてなかったんじゃないでしょうかね、子どもでもね。年中軍歌を歌ったり、出征兵士を見送ったりしてますから、だから、わからなかったのかもしれませんですね。

うちはきっと、田舎がなかったと思うんですね。だから、必然的にそういうことになったんじゃないかと思います。

Q:ご自宅を離れて、お父様とかお母様は、集団疎開に行かれるときに何かおっしゃっていましたか?

恐らく体に気を付けてということで、一生懸命ね、ということだったと思いますね。あまり印象に残ってはいないんですけど、非常にあとで心配したということは、よく父から聞きましたですけどね。皆さん町内が一緒だから、割合その点は心強かったんじゃないでしょうかね。

白石は本当に素朴というか、静かな町でしたね。

どうなるのかなっていう不安は、すごくありましたですね。自分ばっかりじゃなくて、下の学年のお子さんたちの顔を見ると、すごくそれはありましたね。

Q:当時の授業はどういう?

普通でした。数学でも国語でも全部普通でしたし。

ただ、印象に残っているのはスキーの歌ですね。今でも歌えますよね、スキーの歌。あれはすごく印象に残ってますね。あんまり軍歌は歌わなかったと思います。

結局、夜になるとみんなが寂しいので、学芸会もどきみたいなことを自然とするような形になっていったんじゃないかと思いますね。それは今でも覚えてるんですよ。小さい子が前に座って、大きい人たちが、何の劇かわからないんですけど、したようなことがありましたね。

Q:下級生を見ていて、お腹を空かせている様子って、ありましたか?

たぶん、皆さん、ご一緒ですから。でもね、フッと思うのは、下級生のためにという配慮はずいぶんしたと思いますよ。同じおぜんに座っても。確か下級生の方たちのお茶わんの中に、6年生が入れた覚えがありますね。

Q:それは、女の子?

そうです。女の、わたしたちの、女の仲間ですけどね。確か、それは何回かありましたね。それだけ小さかったですからね、3年生だとね。

Q:ご実家からお手紙は届きましたか?

それは、来ましたですけどね。でも、だいたい決まった文章ですから。

Q:どういった文章が書かれていたんですか?

やっぱり「体に気を付けて」「みんなと仲良く」とか、「よく言うこと聞いて」とか、そういうぐらいでしたね。

Q:戸田山さんは、どういったことを書いていましたか?

白石の町の様子とか、学校での出来事とか、皆さんとの生活の中の出来事とか、それくらいの程度だったと思いますね。

Q:親からのお手紙は、当時どういう存在でしたか?

唯一の、ある意味では、励ましのことじゃなかったかと思いますね。ですから、今、考えると、家に帰りたいっていう、あんまりそういうことは。結局、子供ながらにも、やっていかなきゃならないんだっていう、決意があったんじゃないかと思うんですよね。

やっぱり、焼けたところもございましたしね、これはちょっと、大変なことだなっていうことは感じましたですね。現実に、自分のうちのお隣も壊されてましたから。その当時は、お隣まで壊されていれば、焼けないという、そういう皆さん、思いがあったみたいですよ。それでよく、強制疎開とかっていう名目で家を壊されたりしているおうちも、たくさんあったようですからね。

Q:実際にご両親に会ったときはどういうお気持ちでしたか?

そのときは、嬉しいことは非常に、嬉しかったですけど、これから大変だなっていう、すごい、その思いがありましたね。

Q:大変というのは?

結局、不安ですよね。この先どうなるのかなっていう。いくら受験が控えていても、それはありましたね。うちの中で防空ごうが、畳を上げると下に防空壕(ごう)ができていたもんですから、それを見せられて、鳴ったらここへ入るっていうことを言われたんですけどね。非常に狭いですし、浅いですし、これで人間が助かるのかなっていう、すごいそれは、正直思いましたですけどね。

Q:一緒に6年生のカネマン寮ですとか、違う寮の同級生の方も帰ったんですけど、その方々と、帰る汽車ですとか東京に帰ってから、あるいは帰る前の日とか、何かお話しされましたか?

あまり皆さん、なさらなかったと思います。帰ってからは、お互いに会えなかったですからね。確か、学校へも行かなかったんじゃないかと思うんですよね。確か9日の朝ですか。秋葉原に荷物が着いたという知らせが来たというのを、母から聞きましてね。引き取りに行かなきゃって言ってる矢先でしたから。

Q:3月9日に空襲が来るわけですが、来たとき、サイレン、防空警報が鳴って、そのときはどうされましたか?

わたしは初めての経験でしたから本当にわからなくて、母たちと、あそこの大通りの三角ロータリーっていうところに町内の防空壕があって、そこへみんな連れて行かれましたね。

妹のほうがよく覚えてるんですよ、何回も経験してますから。だから、「お姉ちゃんがわからないの無理ないわね」って、今朝も言われたんですけどね。何がなんだか、恐らく頭の中真っ白だったと思うんですよね。

結局、どんどん火が入ってきたので、町内の方が「ここにいたら危険だから、みんな出なさい」ということで、確か消防団の方か何かが声を掛けに来られたと思うんですよ。それでみんな出たんですけど、ただ、わたし、弟も昨日話をしてたんですけど、一番奥のほうに非常に年取ったご夫婦がいらしたんですよ。その方が、どうしても出られないんですね。わたしも母もその方に声を掛けたんですけど、出て来られなかったんですよ。でも、わたしたちは引きずられて出たんですね。あとで父に聞いたんですけど、父も消防団で出てましたから、わたしたちを捜しにあとから入っていったらしいんですよ。そしたら、やはりその方たちお二方がいて、相当火の海でね。「あなたは子供を育てなきゃいけないんだから、逃げてくれ」とおっしゃって、どうしても出なかったと。それが非常に心残りで、申し訳なかったって、父がずっと言っておりましたね。

Q:そのあと、防空ごうから逃げまして?

隅田川のほうへ逃げなさいということで、結局、浅草橋方面に歩いて行ったと思うんですよ。たまたま父と、浅草橋の手前に須賀神社という神社がありまして、そこの真ん前で出会ったんですね。ご近所の方も4、5人いたって妹が言うんですけど、その方たちと一緒に上野のほうへ逃げたわけですね。父は大震災を経験してますから、皆さんに風上にということで。わたしはわからなかったんですけど、妹の言うのには、しょっちゅう風の向きが変わったと。確かに、トタン板の大きな火の粉がどんどんどんどん飛んでくるわけですから。

このテーブルぐらいの大きさのトタン屋根が、火の粉、火だるまになってる。それが頭上に飛んでくるわけですよ。そういうのがしょっちゅう来るわけですよね。火事風っていうんですか。 風の流れがしょっちゅう変わってたんじゃないかと思うんですけど。

とにかく、明るいというか、真っ赤ですから。周り中が。飛んでくるのが、みんな火ですからね。それはすごかったですね。

Q:そんな中、皆さんで上野の山に逃げて?

わたしは山だと思ったんですね。朝、見下ろしたときに焼け野原でしたから。そしたら、今朝、妹が「山じゃないわよ」って。今の上野の松坂屋がございますけど、そこの前が焼け野原になってて、前に焼けてて、そこに到着したんだという話をされたんですけど、わたしは眼下に見た光景が残ってるんですね。太陽がすごい色で上ってきたのを覚えているんですけどね。

すごい、大きく見えましたし、太陽の色っていうのは、普通赤で象徴しますけど、それが、だいだいがすごい強いんですね。だいだい色で。今まで見たことのない色でしたね。それは今でも思い出します。皆さんそうだと思いますよね。で、すごく近く見えたんですよね。下が焼け野原だから、きっと近く見えたと思うんですね。

Q:上野に行って眼下に見た風景というのは、どんなものでしたか?

よく大震災の画像がありますけど、あれは家が残っているのもありますけど、ないですね。所々建物が、高いのが見えてるという状況でしたね。

映像で言えば、阪神大震災で焼けましたでしょう。ああいうのより、もっとひどいですね。もっと微塵に、粉々になって真っ黒になったというか。そんな感じですね。

Q:それを見たとき、どう思われましたか?

それこそ、パニックじゃなかったでしょうかね。そのあと、父とみんなで、家のあった場所に行きましてね。そしたら、ポツンと金庫だけが立ってましてね。何もなかったですから。

Q:家も骨組みも残ってない?

何もないです。全くないです。

Q:金庫が一つあって?

ポツンと残ってましたからね。

Q:そのあと、皆さんでどこかに避難されたんですか?

わたしは記憶にないんですけど、妹の話では、それから学校へ行って、うちの裏に炭屋さんがいたんですね。そこのおじさんがリヤカーをくださって、学校の、その当時の校長先生だと思うの。その方がお布団をくださって、それを乗せて、その上にわたしたち兄弟三人が乗って、それから父が、本八幡におばあちゃんがおりましたから、そこへ歩いていったわけですよね。

父が「いいと言うまで、目を開けちゃいけない」ということを、すごく厳しく言いましてね。行ったんですけど、両国を越して亀戸辺りで目を開けまして、ちょうどガードがあるんですけど、そこにあちこち、丸太のようになって亡くなった方もいらしたし、ガードのところに積み木のようになって、亡くなった方が高く積まれてたんです。わたしもその光景がまだ目に焼き付いているんですけど、父はきっと、関東大震災を経験してますから、恐らく、その惨状が胸にあったと思う。だから、「いいと言うまで、目を開けるな」と、ずいぶん言われました。だけど、子どもだからどうしても、薄目を明けて見たときに、そういう光景でびっくりしてね。あと、妹が、さっき話をしたんですけど、江戸川を渡って市川へ入ったときに、確かおにぎりを、炊き出しか何かでいただいたのを、わたし記憶があるんですけど、そのときは、逃げてきた方が群がって、鬼のような顔をして、すごい光景だったと妹は言うんですよ。そのときに妹は、本当に戦争は嫌だと思ったって、今朝、そんな話をわたしにしに来たんですけど、わたしは全然記憶がないんですね。ただ、一ついただいたっていう記憶はあるんですけどね。なんでわたしが記憶がないのか、不思議でしようがないんですよ。

学校はもちろん、卒業式もなかったですし、女学校の手続きはどうやって入ったのかも記憶が定かじゃないですしね。女学校に入ったときも、すぐ動員で、アルプスの下へ行かなきゃいけないということになりましたからね。その辺がよくわからないんですね。どういう形で、女学校へ入っていったのかもね。

Q:女学校に入って、アルプス、白馬の?

そうです。白馬のところにね。今のスキー小屋に集合したわけですけど。1年生だけね。

Q:そのスキー小屋に何人ぐらい暮らしてたんですか?

100人ぐらいいたんじゃなかったでしょうか。先生もご一緒でしたし。ちょうど、女学校に集合した晩が、横浜の大空襲だったと思いますね。

Q:学徒動員では、どのようなことをされていたんですか?

わたしの記憶の中では、特攻隊の、栄養食ですよね。あめ玉のような、白い塊でしたけどね。それを、確か袋詰めをしたんじゃなかったかなって。記憶が定かじゃないんですけどね。

Q:学徒動員先の食事は?

それは大変なことでした。コーリャンだとか、野草を摘みに行って、たきぎは縄を掛けて、枝を折って、それでゆでたりね。ほとんどご飯らしいご飯は、あまり食べた覚えがないんですよね。

Q:配給はなかったんですか?

あとで一度だけ、寮の同期会があったんですけど、その場で先生から伺ったのでは、配給はあったと。だけど、あるときに、いわゆる闇屋さんですよね。その方たちに貨車ごと取られたり、いろんな事件があったので、もう少し終戦が遅れたら、あなた方は餓死してましたっていうお話を伺ってね。びっくりしたんですけど、でも、その当時、白馬の雪渓はきれいでしたし、横に松川が流れていて、非常に素晴らしいところだったんですね。朝起きれば広場へ出て、今で言う皇后陛下のお歌ですか。それを必ず歌って、1日が始まるというようなことで、お互い同士、あまりお腹が空いて困ったとか、つらいとかっていう話は、した記憶がないんですよ。勉強もしましたしね。

わたしは、ちょうど、歯が腫れましてね。母たちが本八幡のおばあちゃんのところから、番頭さんの里が長野の安茂里のずっと奥の、山奥の文教場の校長先生がお父様だったので、そこを頼って母たちは行ったわけです。そこへ、終戦2日前に、わたし、どうやって帰ったか、それもわからないんですが、帰りまして歯医者さんに行ったんですけどね。そこでわたしは終戦の放送を聞かせていただいたんですね。

Q:聞かれたときは、どう思いましたか?

それはもう、言えなかったです。それまでは一生懸命でしたから。ある意味、絶対負けるということは、みんな信じてなかったですし、まだまだ一生懸命生きていこうと、みんな思ってましたしね。わたしたち学徒動員は何が救われたかというと、大自然でしたね。あれが、大自然があんなに美しくなかったら、もっとみんな苦しんだんじゃないかと思いますね。だから、知らない野草とか、そういうのも覚えましたしね。カッコウもよく、飛んできましたしね。とにかく、先生方が一生懸命だったし、非常に団結して生活してましたからね。

Q:そこで、学徒動員が終わって、東京のご自宅というか?

わたしは終戦になって、あの当時、ソ連の兵隊が来て、女子供は辱めにあうとか、そういう話を父が聞いてきて、しばらく帰したくなかったんですけど、だんだん秋になって、わたしだけでも帰らなきゃいけないということで、本八幡の祖母の家へ帰りましてね。そこから学校へ行くことになったんですけど、もう授業が始まってたんですね。2学期の大半が。それで、休学しなきゃだめじゃないかっていうことになったんですけど、校長先生の計らいでいいということで、それで2学期の終わりごろ、学校に行き始めましてね。母たちはだいぶ遅れて戻ってきて、それからしばらく経って、父が東京にバラックを建てて、東京に戻るという形ですね。

一人のお友達なんかは、防火用水の中で亡くなっていたっていうお話も伺って、本当に絶句しましたけど。一番仲が良かったのは、アリハラさんというタエコさんなんですけど、その方がご自分の家の防空壕の中で、家族中で亡くなっていたわけですから、それがあとで、そこにビルを建てるので掘ったときにわかったっていうことは伺いましたけどね。だから、カネマンの中でわたしでしょう。ですからね、生かされたっていう思いがずっとありましてね。今現在でもそれがずっと自分の中にありますから、亡くなったお友達のできなかった気持ちを、わたしは死ぬまで受け継いで、何か役に立つことをこれからしていかなきゃいけないなって、今ずっと思ってるんですけどね。

Q:当時、カネマン寮の6年生の方、女の子は?

でも、女の方ほとんどいらっしゃらないわけですから。わたしが生きているのは、奇跡に近いようなもの、ですからね。蔵前辺が一番、ひどかったっていう話を聞きましたから。

小さい方で家族全部亡くなられた方もあるし、本当に大変なことだったですよね。広島とか長崎の原爆ももちろんですけど、大空襲っていうのはむごいことですよね。だけど、わたしこの頃思うんですけど、人間っていうのは時が経つと、風化しちゃうというか、常にそういう気持ちを持ち続けるっていうことが、人間ていうのはできないのかなっていうね。自分自身も含めて反省することがありますよね。だから、できるだけわたしは、孫にときどき、ちょっと話をして、とにかく生かさせていただくことがどれだけ大事かっていうことを、わたしはわかって欲しいって話をすることがあるんですけどね。どうでしょうか、今の日本を考えて。わたしぐらいの年代の方が、もっと声を大にしてじゃないですけど、もっと下の世代の方たちに、大事なことを伝えていく役目があると思うんですよ。戦争の惨状がどうだったとか、こうだったとか、もちろんそうですけど、それよりもっと深いところを、命っていうものに対する思いを、わたしは伝えていくべきだと思っているんですけど、なかなかそういう思いが伝わらないというか、かえってそういうほうが、今非常に自分の心を。

Q:空襲も体験されて、戸田山さんにとって、疎開ってどういうものでしたか?

その当時の仕組みとして、致し方なかったんでしょうけど、当時の父たちが、どのように理解していたかですよね。そこいら辺が、あまり聞いたことがなかったのであれだったんですけど、もっと聞いておけばよかったと思って、この頃思いますけどね。いろんな説があるんでしょうけどね。

ある意味での、あるひとつの、ときの心の故郷だと思いますよね。流れている白石川とか、蔵王とか、非常に穏やかですから、ある意味で、あれでずいぶん救われたと思いますよね。女学校も、校長先生以下非常によくしてくださいましたし、つらいということがなかったですからね。それは皆さんの、周りの方のお気持ちだったと思うんですよ。ある意味で、恵まれていたんじゃないでしょうか。本当は、一度はお訪ねして、お礼を申し上げなきゃと思っているんですけどね。自然は変わらないで、流れていましたでしょう、川も。山もそのままですしね。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
精華小学校に入学
1944年
国民学校6年、学童疎開で宮城・白石に
1945年
受験のために帰宅した浅草で、東京大空襲に遭う
 
女学校に入学、すぐに学徒動員で長野白馬へ
 
学徒動員から戻り、女学校に通い始める

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