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タイトルタイトル: 「悲報を伝えた教師」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 長門 郡司さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 学童疎開の引率  02:56
[2]2 チャプター2 お寺での生活  03:02
[3]3 チャプター3 集団生活とシラミ  04:20
[4]4 チャプター4 6年生の帰京  02:08
[5]5 チャプター5 東京大空襲の夜  12:53
[6]6 チャプター6 学校へ向かう  04:06
[7]7 チャプター7 東京から白石へ  10:05
[8]8 チャプター8 召集取り消しで、再び子どもたちのもとへ  03:30
[9]9 チャプター9 終戦  05:31
[10]10 チャプター10 疎開生活が結び続けた「きずな」  02:35

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月8日

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もちろん校長からです。


Q:校長先生からどのように言われたんですか?

 実はね、わたしはその頃、日本大学の夜学へ通ってたの。学校の先生をしながら、夜は、学校へ通っていたの。それで、東京都のほうから学童疎開が始まるということが通知があって、たぶん校長としては、引率する先生を選ぶのにずいぶん苦心したと思うんだけど、わたしの場合は、「君は勉強中だからできるだけ省くようにしてあげるよ」と、親切に言ってくれたの。ところが、ちょうど行く予定になっていた先生が、都合が悪くなっちゃって、わたしは急きょ、学業を中断して疎開地へ行くようなはめになっちゃったの。ですから、わたしの場合は、最初に行かずに済んでいたのが、そういう事情でもって、ペンを捨てて子供たちのために尽くそうと。国家のために尽くそうという、方針を変えて、気持ちを変えて行くようになったわけです。


Q:ちなみに、何を勉強なさってたんですか?

 日本大学で、その頃は心理学。

とにかく学士号を取らなくちゃいけないと思って、わたしは、実は将来は、インドネシアのバリ島の司政官になりたかったの。司政官になるには学士号を持っていなければなれない。

ですから、まさにペンを捨てて、時代に沿って、自分は新しい道を模索しなくちゃいけないんだということでもって、引き受けたわけですね。引き受けて、弱冠24歳でもって大それた仕事をするようなはめになっちゃったわけですよ。

みんな元気で手を振って、親御さんもお見送りに来てくださって、夜出ましたからね。上野の駅でもって、みんな元気に。わたしが付いていますから、先生がいるからってことでもって、ある程度安心感があったんじゃないですか。遠足に行くようなもんだよ、簡単に言えば。夜の遠足だ。


Q:長門先生自身、生徒の親御さんから「子供を頼む」とか言われましたか?

 もちろん言われるよ、当然。「何分よろしくお願いします」「何分よろしくお願いします」って、みんな笑顔だよ。悲壮感なんてなかったね、今にして思えば。

お寺では、一番大事なことは、本堂があるでしょう。本堂を開放したんですよ。近くに書院ってところがあってね。その書院に本堂を移して、本堂は一切そういうものがないの。そして、本堂の周りの廊下には手すりを付けて、廊下から落ちないように手すりを付けて、トイレも新しく作って、物入れなんかも新しく作って、子供たちを迎える準備が十分整っていたところへ入っていったわけ。だから、私どもが行く前に、そういった歓迎というか、受入準備ができていましたから、誠にスムースにお寺の生活に入りましたね。

食べ物はちゃんと配給があって、学童疎開用といって、お米やその他、おかずもみんな、いわゆる、配給があるわけ。で、作業員といって、厨のほうをやる女性が3人付いてるの。わたしの場合は子供が53人で、寮母が3人で、作業員も3人引き連れて行ったわけ。その作業員には食事を全部任せて、お寺の一隅を借りて、学童用のお勝手があるわけ。そこで作業員たちが一生懸命にご飯を作ってくれてね。何不自由なく暮らしたんでしょう。食べ物については、特に不自由は感じてませんね。

一番記憶にあるといえば、シラミだよね。あれがちょっとね、わからないから。子供も口に出さないから。洗濯をよくして、寮母さんには「シラミがわかないように洗濯をしてくれ」ってよくお願いしてはおったんだけど、うちから毛糸の腹巻きなんていうのがやってくるでしょう。洗濯物は出すけど、毛糸の腹巻きは出さないよね。お腹に巻いてるから。だから、いつの間にか毛糸の腹巻きにシラミがいっぱいたかって、それでもって、それが周りに移ったりして大騒ぎしたことがあるけどね。それ以来、下着を替えるときは全部着替えさせて、腹巻きもちゃんと出させるようにして、それ以来、シラミの問題は解決しましたね。


Q:髪の毛にもノミ・シラミが湧く、毛ジラミが湧くんですけど、女の子とか、髪が短いとはいえ男の子より長いじゃないですか。そういうのが湧いた子とかもいましたか?

 女の子にいましたね。例の浦木さんがそうだよ。それも、ここにあるよ。「やむを得ぬ 許せ バリカンで シラミのヒサコを丸坊主とす」。ヒサコさんを丸坊主にした、バリカンでもって。シラミだから。その子はしばらくは、丸坊主のまま過ごしたけどね。しようがない。移るから、シラミってやつは。ヒサコちゃんはしばらくの間、丸坊主でいたわけ。そんな寮生活ですよ。


Q:バリカンで刈ったのは寮母さんですか?

 僕が刈った。僕はみんな、子供の頭を刈ったよ。バリカンで。男の子全部。そういえばそうだ。バリカンはみんなわたしが刈ったんだ。女の子はわからないけど、ヒサコちゃんは刈ったよ。しようがないから。別に嫌がらなかった。自分がこんな目にって。迷惑をかけると思ったんでしょう、きっと。自分ながら。


Q:当時、お風呂はどうされていたんですか?

 お風呂は借りてたんです。歩く途中に企業の方がいらっしゃって、企業の方たちの入るお風呂を貸してくれたの。そこへしばらく、列を作ってお風呂に入りに行くわけ。毎日。そんなところが、わたしの寮の場合、一人の子供のお父さんが浅草の隅田川のほとりで、船大工をしているの。その船大工をしている方が、自分でお風呂を作って寄付してくれたの。それ以来、お寺の境内の中に風呂場を作って、寄付してくれたお風呂に、それからは。10月頃から入れるようになったの。これは助かったね。

「欲しがりません 勝つまでは」って標語があったでしょう。「わがままは言いません 勝つまでは」。だから、少しぐらいつらいことがあっても、兵隊さんのことを思えば我慢しなさいという教えだよ。

東京都の方針だから。その頃、教育委員会というのはなかったかもしれないけど、東京都の教育局というところがあったんでしょう。それは、都の教育関係の役所から全部指令が出るわけ。我々は指令に従ってやってるわけ。

試験を受けるために子供を連れて、そのころ中学校は義務教育じゃなかったから、試験を受けなくちゃいけないんだよ。高等小学校へ進む子は必要ないよね。だけど、中学校へ進む子は試験を受けなくちゃいけないので、該当する子供を連れて東京へ帰ったわけ。わたしの場合もね。わたしの場合は、疎開地区から九つの寮にいる6年生だけをわたしが抽出して、白石中学でもって教室を作って、6年生を教えてたの。だから、受験生の子を持ってるわけだ。その6年生の受験生の子を連れて、3月7日に東京へ帰ってきた。


Q:当時の長門先生の気持ちとしては、6年生は受験が終わったあと、また白石に帰ってくると?

 そうです。それがいいなと思ったね。でも、そこまで考えなかった、正直言って。考える余裕がなかったね。7日に着いたでしょう。8日の晩は普段だった。9日の晩だから、あの空襲は。試験のこと、受験に受かってくれればいいなって、そのことばっかり考えていて、そこまで考えなかったね。

わたしはそのころ、浅草の栄久町という場所があって、その町の広沢さんという方の家に下宿していたの。広沢さんというお宅は、広沢さんのご夫婦と、おばあちゃんと、広沢さんの奥さんの子供さん二人が住んでたんだね。そうしたところが、3月10日の9時頃かな。 空襲警報が鳴ったわけ。さっきも話が出たけれども、それまでに東京では各所に爆弾が落ちたというようなことが起こっていたわけね。何件か。「ぼちぼちこの辺も危ないぞ」という警戒感はもちろんあったわけだ。そうしたところが、警戒感どころじゃなくて、今まで経験したこともないようなああいう大災害が起こったわけだよね。まだそうなるとは思ってないでしょう、こっちは。この辺に空襲警報は来たけれども、「またやられるな」ぐらいのところだよね。


Q:東京に戻ってきたとき、実際に東京の風景を見てどう思いましたか?

 普通だもん。「どこどこでもって爆弾が落ったそうだ」「何人か亡くなったそうだ」とかっていう、その程度だからね。うわさが耳に入った程度。帰ってきたころは。そんな大災害が起こるなんて夢にも思ってない。それがああいう大災害になった。空襲警報が始まって間もなく、僕らの浅草から見ると、上野のほうから、松坂屋のほうから、どんどん火が燃えてくる。方々へ落としたからね。火が迫ってくる。頭を見上げると、頭上にはB29の飛行機が乱舞している。探照灯というのがあって、照らすのがあるんだよ。それが翼に光って、緑色の翼をした大きな飛行機が見えて、そこからパラパラパラパラと焼夷(い)弾が落ちる。歩道がアスファルトですから、落ちるとカラカランと音がするよね。それが目の前に落ちてきている。さあこれは大変だというわけでもって、避難をすることになったわけね。

(下宿先の)ご主人は警防団といって、そこを守る役目を持っていたから、ある場所にみんな、空襲警報が起こると、そこへみんな集まるわけ。警防団の人は。残されたのが、奥さんとおばあちゃんと子供二人。行くときに「先生、何分よろしくお願いします」と頼まれたの。下宿していたから。わたしは責任があるわけだよ。その人たちを、結局4人だね。4人を連れて下宿の前を離れて、わたしは隅田川のほうへ向かったわけ。隅田川のほうは川下だから。心理状態としては、川下のほうへ行く心理になっちゃうんだよ。川上の、風上のほうへ逃げれば一番いいんだけど、フラフラフラッと隅田川のほうへ向かったんだよ。

それはどうしてかっていうと、さっきお風呂を作ったという人ね、船問屋。船問屋さんが隅田川のほとりにあるわけ。厩橋の橋の側にね。そこへ行って、その前に、お風呂を作ってくれた頃におしゃべりしたときに、「うちには高速艇があるんですよ」と言うんだよ。隅田川をダッと走る。そんなことを聞いてたから、そうだ、あそこへ行って高速艇に乗せてもらって逃げようと。そう思って向かったんだね。とにかくわたしは、自分だけなら簡単だよ。どこでも行かれるから。おばあちゃんとお母さんと子供でしょう。一人はおんぶする子供だよ。それをわたしは助けなくちゃいけないんだから。殺すわけにはいかない。わたしは命がけでもって、その4人を引き連れて向かったわけだ。

向かっていく途中に、厩橋の交差点のところに銀行があるんです。そのころ、帝国銀行と言ったかな。 

そんなときにちょっと見たところが、そこに地下道へ行く道があるのね。見たら、石と鉄だけ。木を全然使ってない。待てよ、下手に隅田川に行くよりも、この銀行へ逃げ込んだほうが、もしも煙に巻かれたとしても燃えないから、衣服が。衣服が燃えないから、死体検視のときにわかりやすいでしょう。誰だっていう、人間が。焼けちゃうと、衣服がきれちゃうとわからなくなっちゃうから、そのために、死体検死のときに便利なようにと思って入っていったわけ。4人を連れて。

避難している人たちの中に、疎開している子供たちの親がいたわけ。「長門先生だ」ってことで、何人かの親が寄ってきたの。「うちの子供は今元気でいますか。」なんて言って。疎開地に行ってる子供のことが話題になったりしているうちに、火は銀行を包んじゃった。しゃべっているうちに。出るにも出られない、わたしも。

それでそのまま、そこに居座ったことになったのね。居座ってたところが、その管理人の人が慌てたよ。僕は「今にもここは火の海になる」と言っているのに、気が付かなかったから、どんどんどんどん火が流れてくるでしょう。責任を感じちゃって、「責任をわたしは外れます。これからあとは皆さんの自由にしてください」と言ったの。自由にしてくださいと言ったって、中にいる人は外を知らないわけだよ、いろんなこと。知らないんだけどそう言われたから、みんな避難して来た品物なんかを身に付けて、リュックサックを持ってる人はリュックサックを持ったり、手に持ったりいろいろして、反対側のほうから、反対のほうというのは、いわゆる風下のほうだ。風下のほうにも出口があるの。そこからみんな避難して行っちゃう。避難せざるを得ないでしょう。「あとは自由にしろ」っていうから。銀行の中にいれば焼け死んじゃうと思ったんだよ。

わたしは、銀行の中ならば焼け死ぬことはないと思って。煙で死ぬことはあるだろうけれども、焼け死ぬことはない。炎は入らないだろうと思って、そこへ入ったでしょう。一般の人はそれを知らないから。管理人の人が、もっと頭を持っていれば、外に出したら危ない。この中でもってろう城させようという判断を下したかもしれないね。だけれども、責任逃れだよね。「あとは自由にしてください」って言われれば、さあみんな、外の様子を知らないからどんどん出て行っちゃった。出て行った人の大部分は死んでますね。あとで聞いてみると。

それで結局、銀行に残ったのが、銀行の支店長代理と、守衛の人と、事務員の人がいて、若い人だね。そのお母さんと、4人の人がその銀行にいたんだね。副支店長、支店長の次に偉い副支店長が、年輩の方ですよ。ガタガタしてるから「何してるんだ」って言ったら、「銀行を閉めて私どもも避難する」って言うんだよ。「あんた方、銀行の人だったら、死んでも銀行を守るのが仕事じゃないですか」って、僕は生意気を言ってね。「あんた方はなんですか」って言うから、「実は、わたしはその向こうの精華小学校という学校の先生なんだよ」って。向こうは安心したらしいんだよ。変な奴だと思ってね、向こうは。「今ここにいる人は、わたしが下宿してたうちの方々なんだ。だから心配ありませんよ。あんた、もし何なら私も一緒に死ぬから、この銀行を守ろうじゃありませんか」と言ったの。提案したら頷いてくれて、今度はろう城を決めたわけだ。

それからこうやって周りを見ると、地下室だけど、扉のすき間からチョロチョロチョロチョロ火がのぞくんだよね。


Q:地下室の扉から?

 扉から。すき間があるでしょう。そこからチョロチョロチョロチョロ火がのぞく。煙も入ってくる。うまい具合に守衛の人がいたでしょう。

その守衛さんが水を入れてくれて、「今のうちに入口に、火柱がチョロチョロ見えるところへ水をまけ」。銀行の地下室に水をみんなまいて、それから、今度は上が心配だから、副支店長さんに「一緒に上を回ってみましょうよ」って。副支店長に案内してもらって、2階か3階か4階ぐらいあったかな。 ずっと回ったの。そして、こういうカーテンね。こういうのが危ないから、火が入れば燃えちゃう。カーテンを全部外して、広告なんかの紙も全部外して、それを真ん中へ置いて、そして、ずっと回って下りてきたら、その地下室は煙が来てた。そこにいる人たちがクスンクスンやってるんだよ、煙に巻かれて。

それから、これもわたしの判断だよ。とにかくここにいたんじゃ煙に巻かれちゃうから、危険かもしれないけれども営業室へ上がれ。みんな1階へ上げたの。そうしたら、1階は清々してるの。外は明るいでしょう、火が回っているから。だけども、煙は1階は来ないの。煙っていうのは重いんだね。下へ入っていくんだね。だから、上のほうは煙が全然なくて快適な場所になった。そこで、よし、今日はここでもって一晩過ごそう、決心して。

俺もこんなところで死ぬのは、弾に当たって死ぬなら名誉の戦士だよね。だけども、こんな火でもって死ぬなんてどうしても悔しいと思って、それからわたしは、「すずりはあるか」と言ったら、「ある」っていうから、すずりで墨をすって、辞世の句を銀行の壁に書き連ねて、そして、死のうと思ってね。窓ガラスが破れて火がバッと入れば、もう駄目なんです。バーッと炎が入ってきちゃうっていうことを知ってるの。ガラスに、「とにかく守ってくれ」。そういう気持ちだったけどね。

4時頃になると、あの頃は3月だから、もうだいぶ明るくなってくるんだね。ガヤガヤ、ガヤガヤ音がするんだよ、外で。わたしはあのときには、ほとんど外は、全部人が死んでると思ったの。だから、ガヤガヤ、ガヤガヤ。おかしいな、生きてる人がいるなと思って、窓を銀行のこう、パーッと開けてみたところが、人が動いてるんだよ。へえ、この火の中を生き延びた人がいるんだ。これは大変なことだな、大したもんだなと思って。そこから早速、わたしは学校の先生だから、自分の学校まで行かなくちゃいけないでしょう。学校へ行くために地下へ下りて行って、学校へすぐ行ったんだ、わたしは。外へ出たとたんに、人間が真っ黒になって、電信柱が転がっているみたいに、真っ黒になった人がゴロゴロゴロゴロ。初め、人間と思わなかったんだよ。「すごい火事だったな、電信柱もこんになったか」と思って見たら、人間。人間が真っ黒くなって、こうやって突っ張ってるんだよ。そういうところを踏み分けて、いわゆる死体を踏み分けて。


Q:踏み分けるほど、道路一面に死体が?

 固まっている。ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。真っ直ぐ歩けないんだよ。足を踏み分けて行かなくちゃいけない。それで学校へ着いた。学校へ着いたら、学校が残ってたの。偶然に。ああよかったと思ってしばらくしているうちに、今度は学校へ、残ったから、焼け残った人たちがやって来るわけ。これは大変なことだ。このまま放っておくと避難所にならなくて、単なるあれになっちゃうからと思って、それからすぐわたしは、昔は小黒板というのがあって、小さい黒板があって、それに1年1組は蔵前一丁目、蔵前二丁目は1年2組っていうふうに、記憶に残っている町名と教室とを指定したわけ。

そしたら、来た人がこんなんなって来るでしょう。まともな人もいるよ、案外。案外まともな人もいるけど、よれよれになって来てる人もいたり。そういう人がみんなその黒板を見て、それぞれの教室へ入っていった。

帰れないわけ。災害対策をやって、しばらくいた。

そのために帰れなくて、1週間近くいたね。ようやく落ち着いたから、これでもって、今度俺は、自分の本業があるんだから、5年生以下をあれしなくちゃいけないからってことでもって、早速帰ったの。帰ったんだけれども、当時、災害対策をやっていながら、暇を見ては外へ出て、子供の家を訪ねたわけだ。災害にどの程度あったか。一家全滅の家は何もないの。トタンがコロコロ転がってる。誰かが生きていると、トタンか何かに書いてある。「どこどこへ引っ越してます」とかって。引っ越し先があるのは誰か生きてる。何も書いてないのは一家全滅。

わたしの寮の場合は、タカハシタクノスケっていうのが6年の男。これは一家全滅。カナザワヒサオ、これは4年生の男子。父親が亡くなってる。それから、コバヤシシロウというのは5年生の男子。これは一家全滅。ウザキヒサコ。5年の女子だった。これが一家全滅。フクイヨシコ。4年生の女子。これは一家全滅。ハヤシミチコ、6年の女子。これが、父以外全滅。それから、タカシマイチロウ、5年生の男子。一家全滅ってことがわかったの。だから、それを抱いて寮に帰るわけでしょう。この子に話しにくくて。話すと長いことだよ。「あんたのお父さんもお母さんも、みんな死んじゃったんだよ」っていうことを話さなくちゃならないんだけれども、話せないでしょう。かわいそうで。

それで、わたしは朝、常林寺へ着いたんだよね。学校の災害対策を終えて。終えてというか、途中でやめて帰ったところ、朝着いたんだけど、みんなちょうど朝飯。いつ入っていこうかっていうのも考えたんだよ。考えて、お寺の庭で時間を見て、朝食の時間があるでしょう。朝食の時間に行けばそのほうに気を取られるから、僕のあれが紛れると思って、時間を見計らって朝食時間に入っていったの。そしたら、みんなびっくりするよね。驚いて、喜んで、「先生が帰ってきた」って喜んで、そのままちょこちょこっとあいさつして、私も「先生もご飯食べなさいよ」なんて言われて、食べたかもしれないね。だけど、そこにいられないの、わたしは。かわいそうで。

私だけは、お寺の書院ってところがあってね。

そこへ潜り込んで1週間ばかりずっと、ご飯のときにちょこちょこっと行くぐらいでもって、そこに引き籠もっていたね。

わしがあんまり顔を出さないから、子供たちも気にはなっていたんだろう。きっとね。そこに僕がいるってことを知ってはいる、彼らは。そこへ来てワイワイ騒いで、見たら大部分の子がそこにいるんだよ。そこで、よし、この機会だと思って戸を開けて、「おい、みんな集まれ」。みんなわたしの周りを囲んで、「今日は先生が大事なお話をするから聞いとれ」。そのときにわたしはちょうど、田舎の父が刀剣の趣味があってね。たくさん持ってたんだよ。そのうちの一振りを自分の身から離さないようにして、空襲にあった最中も身から離さないようにして刀を持ってたの。その刀があったから、その刀を持ち出して、「これは先生のお父さんが大事にしている刀だ」って抜いて見せたの。「すごいな」なんて言って。子供にとっては珍しいから。「実はね、この間の3月10日の空襲のときに大空襲があってね。ここにいる皆さんのうちのお父さんやお母さんが、みんな死んじゃったうちが多いんだよ。先生はお話しするのがつらくて我慢してたけど、今日はみんなが元気そうに遊んでるからお話しするけれども、この敵は先生が、いつかはこの刀を持って敵討ちに行くからな」と言ったら、みんな目を輝かせてるんだよ。

「カナザワ君ね、カナザワ君のうちは一家全滅だよ。誰々君のうちは一家全滅だよ。あんたのうちもそうだよ」ってな調子で言うと、自分一人だけじゃないでしょう。隣も、隣の子も、お互いに顔を見合わせて、あの子のうちもか。あの子のうちもかっていう調子だよね。誰も泣く人もいなかった。一家全滅だと、話しているのにだよ。泣かないんだよ。それには救われたね。それでわたしは気持ちがサッパリして、生まれ変わったね。よし、わしはこれからが自分の本当の仕事なんだ。この孤児たちを含めて、この子たちを俺は最後まで見守らなくちゃいけないんだ。俺の使命はこれから始まるんだってことを決心したわけ。

そうしたところが、気持ちがスカッとして、今までのモヤモヤが吹っ飛んで、それから、身辺整理だよね。よし、明日から俺は生まれ変わった人間になってやるんだっていうことで、身辺整理を始めたんだよ。本を整理したり、衣類を整理したり、いろんな会計なんかの会計簿も整理したりして、そうして翌日を迎えたの。翌日を迎えた3月29日の朝の9時頃、電報が来たの。「東部第何部隊に招せらる」。招せらるってことは、招集されたってことだよ。「スグ帰レ 返待ツ 八幡村村長」。わたしは八幡村ってところの出身なんだよね、長野県の。八幡村の村長さんから、「あんたに召集令状が来たから、すぐ帰れ」っていう電報なんだよ。朝だよ。俺が新しい決心をした朝なんだよ。全くそういうことがあるのを予期したかのごとく、わたしは前日に身辺整理をしたでしょう。誠に身軽だよ。


Q:その決心というのは、どういう決心でしたか?

 これからこの子らを、孤児たちを抱えて。そうでしょう、守って行かなくちゃならない。本当に今度は自分がお父さんお母さんになるわけだよ。その決心だよ。これからが、わたしの疎開学童の担任としての責任だよ。一番。今まではちやほやしてればいいけど、これから孤児たちを抱えていかなくちゃいけない。その責任だよ。よし、今日からは生まれ変わってこの子たちのためにと思ったところが、私に召集令状が来ちゃったでしょう。子供たちを守っていかれないじゃないですか。わたしは、心の中では怨み骨髄が、なんていう神様だと思ったね。神様を恨んだね。

一家全滅だって言われても、唯一の頼りになってるわたしが兵隊に行くんだよ。一番だよ。場合によっては戦死しちゃうかもしれないんだよ。あとは寮母さんたちがやってくれるだろうけど、それよりも、一番彼らが信頼を寄せていたわけだよ。そのわたしがいなくなっちゃうんだから、彼らとしてはショックも大きいでしょう。しかし、わたしはそのときに、ショックを与えちゃいけないから、その頃は紅白の襷といって、出征するときには紅白の襷を掛けて出征していくのが常識だったんだね。早速寮母さんがそれを作ってくれて、それを掛けて白石の駅へ向かったわけ。事務引き継ぎは全部簡単だよ。前の晩に、全部整理したんだから。「後の会計なんかはみんなこうなっているからね」って言い残して、白石駅頭へ行った。白石駅棟へ行ったところが、ほかの寮の子供たちが、先生方も、白石小学校の子供たち、白石中学校の子供たち、女学校の子供たちが、みんな駅に集まってるんだよ、駅棟に。わたしが、疎開の先生が出征するんだっていうんで。その人たちに送られてわたしは汽車に乗ったの。

わたしが本当の孤児を抱えての生活が始まるわけだよね。その期間が、私にとっては一番辛かった時期だね。3月10日の空襲が来るまでは、まだまだひょろひょろしてたよ。「楽しく過ごしましょう」なんて言ってね。それからも、「楽しく過ごしましょう」でもってやるけれども、非常にそれが難しくなっちゃったんだよ。今度は食事も、食料がガタッと減っちゃうから。今までは手厚い庇護を受けて、学童疎開を進めていたんでしょう。その庇護がないんだから。今までは親からお菓子を送ってきたり、お砂糖を送ってきたりされたけど、一切それがなくなっちゃったでしょう。親のほうだって、自分が暮らすのが精いっぱいだよ。だから、いわゆる今度は貧困との闘いだ。

ここにもあるけど、「子らの顔 目に浮かべつつ 住職と 檀家を巡り リヤカーを引く」。檀家を訪ねて「何か分けてくださいませんか」って頭を下げたよ、俺。「ありがたき 檀家のめぐみ どんぶりは ダイコン飯に 量豊かなり」。ダイコンをもらってくるでしょう。ダイコンをもらってくると量が増えるわけ。どんぶりの量が。それで喜ぶの、子供が。喜ぶ顔が見たくて、「今日また行きましょう」と言ってまたカボチャをもらいに行ったりね。でも、それだって限度があるよね。それからが、いわゆる苦労っていうのが始まった。

(おなかは)もちろん空かせてましたよ。でも、それはやがて解散になるでしょう。どんどん子供が減っていくから、それが救いだったよ。早く人数が減ってくれれば、こっちは楽になってくるからね。ひもじい思いをしないで、引き取ってもらったうちではもう少しマシな暮らしができるんじゃないかと思うよね。そう思っていたけど、全滅の家は困るでしょう。全滅の家へ手紙を出したりいろいろして、連絡を取って、引き取りに来てもらうわけだ。そういう仕事が今度始まったわけだね。ササッとうまく引き取って来てくれる家もあれば、1週間くらい待っても誰も来ない子もいるしね。その扱いですよ。それは全部わたしの仕事だから、ほかの人はできない。

それで、結局最後まで、この前も話したけども、ウザキさんのところは最後まで引き取りがなくて、あれこれあれこれずいぶん手を尽くしたわけ。その子が残ったから、その子と一緒に辺りを散歩して、スケッチしたのがこのスケッチなんだよ。暇つぶしだよ。用がないんだから、わたしの場合。その子を守ることが仕事なんだから。


Q:スケッチを見せていただいてよろしいですか?

 これだよ、この辺からだ。常林寺。ちょうどほら、空襲が終わって、8月の15日か終戦ね。終戦後だから、9月か10月頃だよ。10月頃だよ、これ。ちょうど紅葉してる。「常林寺山門より」って書いてあるでしょう。これは山門なんだよ。ここに書いてある。「終戦後 残留児童」残留児童というのは5年生以下だから。5年生以下のことを「残留児童」と言ったの、その頃は。「残留児童それぞれが引き取られたあと、ウザキさんのみ残り、二人で後始末」って書いてあるでしょう。「記念にと、暇にかまけて近所を描きまくった」って書いてある。暇にかまけて描きまくったんだよ。


Q:もしウザキさんの引き取り手の方が現れなかったら、一生面倒を見ていくつもりで?

 もちろん。もちろんわたしが面倒を見て。一番わたしが神経を遣ったのはあの子だね。その後長い間、ずいぶん長い間、僕ら、旅行に行くときも連れて行ったりね。ずいぶん長くあの子には手が掛かったよ、正直言って。

今見ても新鮮に見えるね。もう70年昔の絵だよ、これ。これはわたしが描いた絵じゃなくて、そのころ、子供に描かせた絵。写生に行って、子供たちと写生に行って。子供たちは絵がうまいんだよ。だから、ここに貼っておいたの。これがさっき、河北新報に載った写真が、この写真。これが焼け残った。5年生以下、残留児童なんです。

この絵は、学校の寮の生活の最中にやってることなんだよ。終戦前。子供たちの絵は終戦前の絵です。だから、いわゆる寮の授業だよ。授業として書いたので。これは、みんなに返してやったの。返してやったんだけれども、そのときに来なかった子のやつが、ここに残っているわけ。全部残ってないでしょう。これでもってだいぶあれだから、この会も、みんないよいよ年取ってくるからね。しかも、どんどん死んでいく子もいるんだよ。僕の子供たちが。だから今のうちに、僕が大事に持っているよりも、返してあげたほうが記念になっていいと思って。

この子なんかも死んじゃったからね。戦災で死んじゃったから、取りに来ないでしょう。だから残っているんだよ。6年のヨシダマサオ。この子、なかなか優秀な子だったけど、空襲で死んじゃったの。この子も空襲で死んじゃって、絵だけが残っているの。モリヤマヨウゾウって、これもそうだよ。取りに来なかった子の分が残っている。6年生は水彩でもって描いてあるしね。6年生以下の子はクレヨンの絵だけだね。常林寺の山門を書いてる。別に絵とは関係ないわけ。フクイヨシコっていう子は、これも一家全滅だよね。例の、お風呂を作ってくれたうち。

まあ、今だに交流が続いてますから。たぶん今年ももう一回やるよ。一年おきにしたの。最近は。みんなもう年寄りになってきたから。集まるのが大変らしいから、一年おき。去年、もう一昨年になっちゃった。年変わったから。今年はだからやる年だね。みんなもうそれぞれ浅草の人間なんだけれども、散り散りになっちゃってね。もう、遠くになっちゃった。離れ離れに。


Q.どんなお話をするんですか?

 みんな思い出だよ。わたしは思い出じゃなくてね、近況を聞くのがわたしの仕事。今何してるのとかね。お父さん、お母さん元気かとかね。お父さん、お母さんがもうなくなってしまったてうちが結構いるんだよ。あれから70年も経てばね。自分がもう孫がいるという子もいるし。


Q.先生にとって子供たちはいつでも、生徒たち。

 そう、いわゆる教え子ってやつだね。疎開に行った子もそうだけど、疎開に行かない子もね、もうみんなね、会をやってくれてね。結構忙しいの。もう、4月の2日の日は第一回の卒業生がね、もう、また会やるんだよ。その連中はね、もう先が短いからって年に2回やるの。それが77、8になるね。喜寿を超えた。

そういう連中はみんなわいわいわいわい、おしゃべりするだけ。特に話題なんかないんだ。まあ、ほんとに自分の子どもと全く同じだね。かわいいよみんな。幼少時代の特徴も残っててね。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
中学を卒業後師範学校を志す
1938年
東京の青山師範学校に入学
1940年
精華小学校に赴任
1944年
学童疎開の引率として、宮城・白石に
 
東京に戻り、その後定年退職するまで、小学校の教員をする

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