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タイトルタイトル: 「家族を亡くした子どもたち」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 吉田 道子さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月9日

チャプター

[1]1 チャプター1 集団疎開の引率  08:36
[2]2 チャプター2 宮城県・白石町へ  01:51
[3]3 チャプター3 乏しくなる食事  02:18
[4]4 チャプター4 厳しい寒さ  04:01
[5]5 チャプター5 子どもたちも、教師の吉田さんも辛い日々を送った  02:15
[6]6 チャプター6 6年生たちは東京へ  01:35
[7]7 チャプター7 東京大空襲  01:38
[8]8 チャプター8 家族を失った子どもたち  07:13
[9]9 チャプター9 帰郷  05:15
[10]10 チャプター10 終戦  07:48

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月9日

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あの当時は、今、都立の学校になってますけど、府立第八(高等女学校)という。都立が少なかったんですね。各区に一つぐらいしかなかった時代で、ようやく受かって。5年制なんですけど、4年の頃から、昔「視学」って言いましたけど、男の教師が出征したりなんかして足りなくなったので、女学生を教師に、にわか教師ですよね。それを仕立てようということで見えたんですね、学校へ。それで急きょ。わたしは学校を出たら洋裁ぐらいして、母の手伝いをするぐらいのことしか考えてなかったんですけど、急きょ「試験を受けろ、試験を受けろ」というんで、にわか勉強をして何とか受かって、浅草で、最初は助教ということで辞令ももらいまして、浅草の精華の、国民学校と言ってましたね。国民学校の教師ということで行くことになったの。


Q.最初、疎開をするということは、先生自身は誰から言われましたか?

学校の、わたしたちは若かったんですけど、中年っていうか、偉い先生たちが前に調べていらして、それで決まって、話が学校で校長先生からあったと思うんですけれど、よく覚えてませんね。行かなきゃならないんだっていう、そういう気持ちにさせられたみたいですね。自分でも、行って頑張ってやらなきゃいけないんだっていうふうに、もちろん思いましたけどね。

行かなきゃならないんだっていう、使命感みたいなのがあったんでしょうかね。

疎開に行くのが怖かったですね。お母さん方と話し合いなんかがあったりして、どこかにわたしが書いたものがあるんですけど、親たちは自分の大事な子どもだから真剣な顔をして聞いてらして、わたしも先輩の先生たちから伺ったことを話し、一生懸命になって説明するしかなかったので。本当は親御さんたちは、あんな若い教師に面倒を見てもらうのはつらいっていうか、心細くて嫌だったんじゃないですかね。

精華の場合は第9学寮まであって、それは全部決められてましたのでいやおうもなくて、それを子どもたちに。でも、いい話しのほうが。白石っていうのは素晴らしい町でとか、水はきれいだし、皆さんは優しいしっていう、そういうお話で、わたしもそれを子どもたちに伝える。そういう形だったと思いますね。


Q.疎開というのは、親たちにも、息子さんとか娘さんを行かせるということで、そういう親の説得はなさいましたか?

親御さんも、そういうふうに同じような時代だから、縁故疎開に行かれない方は、やらないと、東京でどういうことになるのか、子どもの命っていうのを考えられたでしょうしね。親御さんも本当に決心して、「やるしかない」っていうか。すごいつらかったと思いますよね。しかも、若い、それこそ少女教師に頼むっていうのは、あとになってみると本当に恥ずかしいんですけど、親御さんのほうがつらかったんじゃないかと思いますよね。

親御さんも散々悩んでのことだったでしょうね。当時の宮城県の白石なんて、知らないところですしね。本当につらかったのは、親御さんかもしれない。若い我々のほうが、むしろわからないし、本当にお国のためだったら、やるんだ、行くんだっていう思いだから、むしろわたしが年を取ってから親の気持ちがわかるようになってから、じみじみ思いました。

何もわかってないっていうか、「お国のため」「お国のため」ですよね。何でも。


Q.先生自体は、親を説得したということはなかったんですか?

もう決めたことだからっていう感じで。親に言いに行くときに、親たちもあきらめてたんでしょうかね。その時代の状況で。反対されたということはないですね。

子どもたちも初めは、遠足に行く、みたいな。縁故疎開で行ってる方もいらしたし。だから、散々おうちの中で話し合いをして、わたしはこっち、集団疎開に行くんだっていうことで決めたんでしょうし。親と離れるのはつらいけれど、ちょっとばかり、みんなで遠足気分なところもありましたね。汽車の中なんか、うっすらしか覚えてないんですけど、そんな感じで結構にぎやかにしてましたからね。わたしのほうが心配で、長い夜汽車だったので。うまくいくかどうかもわからないし、怖かったですね。

わたしは子どもたちのことも気になるし、自分の寮の状況も気になるし、子どもたちは最初の晩は、みんなどこの旅館でも、おいおい声を上げて泣いたって。あんまり覚えてないんですけどね。同じような状況だったと思うんですよね。しかも、あまり歓迎されてない状況は、子どもたちにだってわかったと思うんですけどね。

Q:そこの食事はどうでしたか? 当時?

 どこでも同じだっていうんですけれど、自分たちのところが一番、つらいと思っている子もいたし、そうでもない子もいるみたいですしね。わたしとしては、少しでも。日報っていうのを出しますから、献立表なんかね。わたしは個人で、自分で帳面を、献立表みたいなのを、ちょっとした日記みたいなのと、書いていたんですけどね。食べ物は一番気になることですから。

いつも雑炊っていうわけじゃなかったですけど、だんだんなくなってくる状況で、お味噌も、味噌汁も塩汁みたいな感じでしたしね。毎日こんな小さなお皿に漬け物だけが、「漬け菜」って書いてありますね、日記に。こんなのに、あるだけのときもあったし。カレーなんていったら大ご馳走ですからね。それから、イナゴ。イナゴなんか気持ち悪くて食べたくないのに、子どもたちは喜んで捕りに行ったりして、それをお勝手でいってるにおいが、甘いにおいがして、わたし、炒り玉子が、ちょっと甘辛くしたのが好きなんですよね。それを思い出しました。

子どもたちは、隠れてもちろん食べてましたしね。ニンニクかなんかを送ってくると、焼いたりして食べてたのは、火鉢にこうしてたのは覚えてますけれど、あまり覚えてないな。

戦後、何回も行ってるんですけれど、あの年が一番、ひどかったんですよね。何度行っても蔵王おろしに会えないんです。わたしはあの蔵王おろしの音が耳について。台風なんか来ますでしょう。ウーッってうなる、あの風の音と、雨の音と、風の唸り。あれと同じのが夜な夜な、9月になると吹くのかな。あの年、行った年が一番ひどかったと思うんですね。そのあと何度行ってもお天気で、「蔵王おろしなんてどこにあるの。」って言われて、今、死んじゃった男の子、何かにわたし書きましたけど、河原のところに草が揺れてると「ほら先生、蔵王おろし」とか言って、からかわれましたけどね。あんまり、蔵王おろしのことをわたしが忘れられなくて、よく言ってましたからね。ひどかったです、本当に。

2階のもう、下も雨戸でしょう。ガタガタ、ガタガタ鳴って、あの音がヒューッて言いますしね。あれはすさまじかった、あの年は。そう、思います。

お風呂は、お風呂屋さん。ナカヤっていうところの斜め前当たりに、小さな風呂屋があったんですね。そこへみんな通ってたんですけれど、それこそ、蔵王おろしの中を帰ってくるのは大変なことでね。よく温まっても、あそこまで結構あるのでね、道のりが。何かにも書いたけど、絞った手ぬぐいが棒になるし、洗った髪は針、ピーンとなって。そういうのをどこかに書いたことがありますね。そういう中を帰ってこなきゃならないので、あまり可哀想だと思って、カネマンのほうで、寒い間だけ入れてあげるということで。お風呂が奥のところにあったんですね。もう喜んでね、子どもたちは大変でした。大喜び。

小さい川の上に立てられたお風呂で、そこからお水をくむんですね。たき口はこっちにあるんでしょうけど。子どもたちが入って、一番最後にわたしが入るんだけど、とても素敵なお風呂でしたね。寒さとかそういう辛さは別にして、雪が、雪片が水に浮いてるんです。それをこうやって入れると、その雪がスーッと溶けていくのが、ああ素敵だなと。おセンチ姉さんだから、そういうふうに思いながら。でも、うちで入れればゆっくり温まって寝られますから、子どもたちもほんと大喜びでしたね。それで、寒い間は何とかしのいだんですね。

Q:当時、お母さんのことを寮でも思い出したりしましたか?

 泣きながら、何かに書いてありますよね。町を、「お母さん」って泣きながら走って寮へ帰りましたね。涙をポロポロ流して。カネマンの前へ行って一生懸命拭いて、寮母さんが心配するので。彼女も、わたしがそんな若いと、あの当時の19、思ってなかったと思うんですね。

偉そうな顔をしていなきゃならない。だから、ものすごく一生懸命。一生懸命で、「やらなきゃ、やらなきゃ」という思いでしょう、片方では。夜になるとそうやって泣きながら、短歌作ったり、涙流したりしていた、そういうあれですよね。


Q:先生はもちろんそうですけど、子どもたちも当時すごく寂しかったと思うんですよね?

 そうですよ。それこそ、「お母さん」「お母さん」ね。

あの頃はやったのは、「太郎は父のふるさとへ」っていうのがラジオか何かで流行ったんですかね。あんなのは歌ったし、「月月火水木金金」とかっていうのは、男の子たちはしょっちゅう歌って、走ったり行進してましたね。
勝手に男の子たち、朝、行っちゃうんですよね。城山のほうにね。女の子は、うちの女の子はどっちかって言えば、優しいっていうか、わたしと同じようにおセンチ姉ちゃんがいっぱいいました。

 子どもたちは帰りたいんですよ、親に会いたいから。でも、わたしたちは、帰ったら、特にうちなんか、6年生の女の子たちは、ほんとにおセンチで、しかも、しっかり者というか。むしろわたしなんか、あの子たちのほうがお姉さんみたいだと思ったこと、よくありますしね。流行歌なんかも、あの当時なんだったろう。流行歌かなんか教わったりして歌ったり。だから、わたしたち残っている者は、もちろん帰したくない。お姉ちゃんたちが帰るのはね。だけど、子どもは早く親に会いたかったですよ。


Q:下級生たちは、6年生のお姉さん方がいなくなることに対して、どう思っていましたか?

 もちろん、行って欲しくなかったと思いますよ。みんな女の子たち、お姉さんは面倒見が良かったし、みんな大好きだったんじゃないですか。下級生の。男の子は暴れてるだけで、ワーッとやってましたからね。元気良くて。男の子たちも、もちろん親には会いたかったでしょうけど。

それこそ、「まさか」という感じで。

特にわたしの寮と、長門先生のところもそうでしょう。蔵前じゃなかったかな。うちの寮が一番、人数にしては多かったんじゃないですかね。10人帰って6人死んじゃうっていうのはね。本当にひどいもんですよ。東京大空襲の真っただ中に飛び込んで行った子どもたちだから、本当に怖かったろうし、つらかったですよね。

残ったのは戸田山さんだけだもんね。戸田山さんのおうちが、ちょっとあれですよね。表通りじゃないんですよね。浅草橋に近かったし。

みんな死んじゃったんですもんね。(女子は)戸田山さんを残しただけで、みんないなくなっちゃって、甘ったれの女の子たち、みんないなくなっちゃった。

(東京が)焼けたことは、みんな子どもたちもわかってたわけだから。東京のラジオとか何かでわかっていて、ただ、事細かく、誰の親がどうなっていうのは、言えないですよね。

だから、エイコちゃん。あの子が書いた文章がありますよね。城山で四つ葉のクローバーを、いっつも。本当によく四つ葉のクローバーをね。お城がなかったですからね、初めの頃は。だから、あそこで運動会をしたり何かして。みんなして女の子は四つ葉のクローバー。こうやって探すんですよね。わたしが四つ葉のクローバーの歌を、学校で習った歌を歌って、林さんのあれで歌わせられたんですけど。そこでエイコちゃんに言ったみたいですね。あんまり細かく覚えてない。それを言うのは大変なことで。それぞれ、和代ちゃんもお母さんとお姉さん二人。三人で写った写真が、なんでかわたしの頭にこびりついてるんですけどね。あの写真はどこにあったのかなと思って。


Q:どなた三人ですか?

 お母さんとお姉さん二人の、きれいな。お姉さんはわたしと同じぐらいなのかな。 三人写った写真が頭に入ってるんですよ、ずっと。どこを見ても見つからないから、見せられてあれなのかなと思って。あそこも、奥さんとお嬢さん2人亡くされてるんだから。


Q:吉田先生自身も、子どもたちの親御さんの安否を聞いて、伝えるまで間が開きましたか?

 それが大変だったと思いますね。タニ君の、ケイコちゃんはお姉さんが6年生でしょう。あの子も死んじゃって。弟は残ったんだけど。本当に、6年生の女の子たちが優しくて、お姉さんで。だから、つらかったですね。ケイコちゃんが、どこかにも書いたんですけど、手袋を一生懸命編んで、わたしに渡してくれて。あの子が死んじゃって、っていう感じで。

(家族が)全員、助かった子もいるし、そうじゃない、残されちゃった子は、なんて言っていいかわからない状況でしたよね。

ともかく、つらいっていうか、うまくどうやって話したらいいのかが、それこそ悩みですよね。夜な夜な、早く知らせなきゃならないけど。こっちが泣いちゃいけないのに。寮の部屋で話した子もいるかもしれないし、エイコちゃんみたいに、クローバー摘みながら話したって、彼女は強烈に言うのね、覚えてるみたい。


Q:先生が伝えたあと、両親を亡くされた子たちはどういう反応を見せていましたか?

 あの頃の子どもたちって、なんか不思議なんだけど、立派だったのかな。なんでもなかったことをそうやって。和代ちゃんみたいな人とか、両方いるわけですよね。誰も傷つかなかった、誰も死んだりしなかったっていう。

その子が悪い訳じゃないのに、(家族が)死んだっていうのがわかってからは、何となくギクシャクした気持ちもあったでしょうし。中ではね。自分が悪いんでもないのに、「申し訳ない」みたいに思ったかもしれないわよね。

家族が死ななかったっていうことが負い目になるなんて、おかしいですよね。


Q:そうですよね。「よかった、お母さんが無事で」って?

 言いにくいっていうかね。あとからわかった子もいるんですしね。死んだと思ったら、生きてたっていう。うちの寮じゃないですけど、長門先生のところの子なんかは、お父さんが出張に行ってて(生き延びた)。そういう方もあったわけですよね。全滅だと思ってたのが、現れた。お父さんが。そういうのもあるし。

本当に偉そうな19歳。偉そうにしてた。

本当に思い出すと恥ずかしいことばっかりで、よく怒鳴ってました、わたしも。男の子と女の子のけんかとかね。あそこ、階段が両方あるでしょう。ダーッと上がってきて、そうすると今度、女の子がまた強いんですよね。こっちから今度ワーッと上がってきて、「こらー」って大きな声で怒鳴ってました。だから、怖かったんじゃないですか。夜は泣いてたんですけどね。怒鳴りながら。

初めは、結婚話というか、そういうことで強引に迎えに来るって。わたしの知り合いが。その人のお陰でというか、その人の世話で、そのあとも見合いをしたりしたんですけど、それが「どうしても連れに行く」と言って。

散々言われたんですよね。「あなたは長女なんだから」。田舎も大変だったんですよね。食べることも大変だし、一番下の弟が体が弱くて、母が大変、医者もいないし、困ってたりして、その間に立つ、見合いさせられたその人に散々言われて、決心したんじゃないかな。母が大勢の子どもを抱えて大変だっていうのは散々聞かされたから、帰るしかないと思ったんじゃなかったかなと思うんですけど。


Q:そのときはどう思われましたか?

 どうも何もないですよ。申し訳なさとか、つらい。悲しくてつらかったですよね、途中で、そういう状況があったので、わたしがいなくてもいいという状況と、家のことと、いろいろあって決心したんだと思うんですけど、途中で投げ出してきちゃうというのは、「申し訳ない」ということのほうが大きかったと思いますね。恥ずかしくて。今でも思い出すと嫌ですね、その部分は。先に帰ったって。もうちょっとで最後まで頑張れたのに、ああいうふうになってたのかしらと思って、諦めるんですけどね。思い出すと恥ずかしいことですよ。

あの頃、白石もそうだけど、あの本にも書いてあるけど、シラミがみんなたかって、わたしなんかもこうやって、作業員のお姉さんが一生懸命取って潰してくれたり。髪の毛のね。体や洋服に付いたのは、煮たりなんかして。石けんもないのよね。今、飲むのに、新聞の広告で、こんな大きなナタマメみたいの。そんなのがよく広告に出てるんですけど、それが洗剤になるっていうんで、そんなようなものを煮出して、石けんの代わりにして。シラミがそれできれいに取れたかどうかわからないけど、煮出して。髪も体もみんな付いて、子どもたちの頭をこうやって取って、わたしも取ってもらって。あれはちょっと、大変だったんですけど。戻ってからも、ダニとかね。戦後の汚いところでシラミとかなんか。夜中に雑誌を持ってきて、捨てていいような古いのを持ってきて、そこへこうやって取ったり、体取って。東京に帰ってきてもそんなことがありましたよ。

あれも担ぎましたし。百姓は楽しかったです。大変だったけど。いろんなもの、麦をまいたりね。あそこはお米ができないところだから麦をまいたり、お芋を作ったり。そういうのをやって、何とか。戦後もようやく、戦後のほうがつらかったわね。食べる物の大変さっていうかね。戦争に負けたっていう、それと、自分が先に帰っちゃったというような負い目が山ほどありましたね。若かったからなおのこと。そういう恥ずかしさとか、つらさとか、そういうものを背負いながら。本当にそれが、蔵王おろしと一緒にあるんですね。

それが、何となくわかってたんですよね。負ける、負けたっていう。前の日に、田舎の家の裏に防空ごうを親類の男の子に掘ってもらって、そこへ。それが、父から「ちょっと怪しい」というのを耳にしたんですよ。「でも、お母さんに言うな。誰にも言うな」っていうことで。母はまじめだったから。母がタンスへ入れたり、着る物をみんな入れてるのに、言えないんですよね。雨が降って、すぐ出せないでしょう。ドサドサになっちゃって、みんな駄目になっちゃったけど。そのときも母に言いませんでしたけど。あそこのうちだわ、田舎の家で聞いたんですよね。


Q:日本は戦争に負けたって聞いて、どう思いましたか?

 もうおしまいごろ、歌なんかも悲しくなってきましたよ。チョウベさんがハヤシさんのあれで歌ってた、無念の嵐とかいう歌があるでしょう。特別特攻隊じゃない、そんなような歌。わたしなんか、あの歌がとっても悲しくて、もう駄目になっていく歌にわたしは聞いて、そういう感じで歌ってましたけど、彼はそうでもなかったんじゃない。特攻隊で行く。あの歌はとっても切なくて悲しい歌だった。その頃から空襲の情報が入ったりしてるから。負けるとは思わないんですよね。だけど、このままこの状態が続くのかなっていう感じで、どうなるのかわからないっていう感じでしたからね。歌自体が、負けの歌みたいに聞こえましたよ。歌い方が、わたしなんかそういう感じで歌ってた。
男の子たちはこういう感じでいたんでしょうね、まだ。日本は負けるはずがないと教育されたんですけどね。神国だから。神風が本当に吹くと思ってたのね。そういう感じのことが起こると思ってましたね。もう20歳になってる娘がそう思ってる。大人も思ってたんだろうと思いますけれども。でも、歌う歌がみんな切なくなってきて。中身ではきっと、怖い、恐ろしいっていう思いはあったと思うんですけど。


Q:いつごろ辞めたんですか?

 そのままやめちゃいましたね、確か。帰ってそのまま。もう嫌だと思ったんですよね。偉そうには思わなかったんですけど、恥ずかしかったのね。きっと。本当に偉そうにしてたのが恥ずかしくて、子どもたちは死んじゃったし。

いろんな苦労した挙げ句に教師をやるということは、ある意味ではいいことだと思うんですけれど、とてもわたしにはできないという感じで。あの頃は純粋だったんですよね、きっと。恥ずかしかったんですよね。

それはほんとに、一生懸命になって教師になって、子どもたちの面倒をみてさらに学童疎開ということも国の方針でしょ、お国のためでしょ。みんな「お国のため。お国のため」でそれが正しい、わたしたちの仕事だと思ってますからね。その通りにやったことが全部、敗戦で崩れてしまったという。

自分が一生懸命やってきたことを全部、抹殺されたというかそれはほんとにつらいし、恥ずかしいし、まぁ、自分はいいと思ってやってきた精一杯なんて言ってても、ちっとも。


Q:戦後間もなくは、子どもたちに会いに行こうと思えば会えるじゃないですか?

 そうです。会いたかったです。でもみんな食べることというか、生きることが大変。戦後は。戦争中は“お国のため”というか、国の方針に沿ってその通りに動くしかなかったでしょ。戦後は全部それがなぎ倒されて、それぞれが本当につらい日常だったんですね。だから、なかなかもう、ほんとみんなに会いたくて。でもわたし一人が会いたいと思っててもみんなは会いたくないかもしれないと、色々な情報が入ってきたりして、教師というのは許し難い存在だ、と言われることが多かった。


Q:吉田先生にとって疎開ってどういうものでしたか?

 思い出したくはないんですけれど、思い出さなければいけない。この間テレビでちょっと見たんですけど、「学童疎開」なんていう言葉を知らない人たちばっかりの、今、結構年輩っていうか、ある程度の年齢いってる人たち、若い子はもちろんですけど、全く知らないですよね。そういう意味では、思い出したくないと言わないで、伝えなきゃいけない。それは本当に思いますね。わかってくれるかどうか、わからないけど。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
女学校を卒業臨時教師に
1943年
精華小学校に臨教として赴任
1944年
学童集団疎開の引率として、宮城・白石に
1945年
厳しくなった実家の生活を支えるために帰京。西多摩郡平井村で、畑を耕しながら兄弟の面倒をみる
 
教員を辞める

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