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タイトルタイトル: “ここで泣いちゃいけない” 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 三輪 和代さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石)  収録年月日収録年月日: 2010年2月9日

チャプター

[1]1 チャプター1 学校からの通知  02:24
[2]2 チャプター2 初めての集団生活  05:21
[3]3 チャプター3 1日おきの母からの手紙  03:15
[4]4 チャプター4 途絶えた母からの手紙  04:54
[5]5 チャプター5 さらに厳しくなる疎開の暮らし  02:17
[6]6 チャプター6 終戦  03:35
[7]7 チャプター7 戦争、疎開の経験が自分に与えたもの  05:48

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月9日

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先生からだと思います。個人的にということではなくて、まず、みんなのうちで疎開の先がない人は、そういうことをお上が決めたから、昔流に言えば。そういうことになるよというのは聞きました。だから、うちも田舎がないので、行くことになると覚悟していました。うちは父が町会長とかいうのをしてましてね、当時。出征兵士を送り出す会とかそういう集まりでもあいさつに。そんなに時勢に沿ったような、本来は、父ではありませんでしたけど、でも父が「和代も行くんだろうな。行かざるを得ないだろうな」と言われたのは覚えてます。

当時、「何ちゃんちは、田舎があるからいいね」とか、そんなような感じ。反対に、「うちは田舎があるからみんなと一緒に行けないじゃないの」なんていう人も、いたような気もしますね。細かくは覚えてませんけど。


Q.三輪さん自身、疎開に行くと聞いてどう思われましたか?

 当然だと思いました。だって、当時国の政策に乗らないということ自体が考えられなかった。やっぱり行くんだと。わたしは行って頑張らなくちゃという感じを受けてたと思います。「嫌だ、悲しい。みんなと別れるの嫌だ」というふうなことは思わなかったように思います。ちょっとはっきりしません。最後に上野駅で別れるときは悲しかったですけど、結構ウキウキしてたんじゃないかな。という気もします。

やっぱり悲しかったですね。うちでは弱かったんですけど、歩いて行くのは当然のことだけど、母と姉二人が送ってきてくれました。だから、今、やっぱり上野に行くと、すごく思い出す。ほとんど変わってませんもんね。ビルの中はきれいになりましたけど、一番端っこの改札口。あそこもああいう感じだったように思いますね。

上野駅のあの平べったいたくさんの改札口、遠くへ行くんだなというときの思いは、上野に行くたびに「ここから来たんだわ」って思い出します。


Q.皆さん白石に旅立たれるわけですけど、着いたとき、駅前はどうでしたか?

 全然覚えがないです。それとわたしは、父が父兄会の会長をしてたのかな。 第9学寮の父兄代表として一緒に行ってました。そんな甘ったれもしませんでしたけど、とにかく一緒でしたから、そういう面でも。そして、一番最初に行った旅館があまりにもひどいので、父と先生たちと奔走して、カネマンに移らせてもらったんですね。何日間だか思い出せません。その晩はみんなで泣きました。鈴木旅館の2階の、こういうお部屋の外の手すりのところで、こうやってみんなで何となく涙を流してたのを覚えてますね。初めて、今日から親がいないんだとか、そういうことがたぶん胸に染みたんだと思います。


Q.授業の内容はどのようなものでしたか?

 今までと変わりなかったと思います。いわゆる文部省のあれに沿った教科書で、それほど。そうですね、違いはなかったと思いますけど。今までクラスの違う方たちと一緒になったりしまして、ちょっと最初のうちは違和感もありましたけれど、授業そのものは、向こうに行ったからすごい変わったとか、そういうあれはありませんでした。

わたしは当時、今からは想像できないくらい食欲のない子でしたので、(食事は)ひどかったと思いますけれど、それほど最初のうちは空腹感があるとか、そういう思い出が全然ないんですね。ただ、食べないものが結構ありましてね、当時は。疎開して目方が増えたんです、わたしは。だいぶ経ってから。ということは、空腹に優る何とやらで、だんだん元気になって、食べなかったら駄目って、出されたものを食べてたために、今までの都会の、ちょっと弱かった体質が治ったのかな。今覚えてないんですけど、「30キロになりました」とか。30キロってことはあり得る、5年生。

「30キロになりました」って母に書いて、あなた、疎開先は食べ物もないっていうのに、どうしてるんだろうなと。母が面会に1回来ましたのね、皆さん順番で。そのときに言われました。「本当に太ったわね」って言われましたから、規則正しい、わがままじゃない生活。何でも食べられるようになった。

最後のほうはだんだんとあれでして、6年生が帰ってから、わたしが一番上になったわけですよね。皆さんに配膳を、寮母さんの手伝いで。そのころは、たぶん主食が液体になってたんですよね。液体っぽい、いわゆるお雑炊っぽい。それでみんながご自分で、自分たちでおどんぶりを持ってらっしゃい。それ、わたしは見かけと入る量とは違うんじゃないかなんて思いましてね。お水で全部測りました。それで、これは見かけは大きいけど、中身はもっとよそっていいんだとか、そんなことを考えたのを覚えてるんですよね。わたしがそういうふうで、食欲がなかったから、先生かな。誰かが公平にしてくれるだろうと思ってお手伝いさせたのかなとか、チラッと思ったりもします。今、思えばね。

Q.先ほどお母様の話が出ましたけど、お手紙のやり取りはあったんですか?

 母はほとんど毎日、1日おきくらいに。検閲がありますからハガキですけど、必ず書いてきました。

うんと書く方、それから、長いお手紙を書く方。でも、うちの母はほとんど日記風に、本当によく書いてくれました。今もその字を思い出しますときちっと書いてあって、わたし宛ですからね。割と几帳面な性格だったのかなと思いますね。で、必ず、「かずよ様」じゃなくて、ひらがなで「かずよどの」って書いてきました。それをすごくよく思い出すんです。


Q.お手紙の検閲というのはどのようなものでしたか?

 先生がご覧にならなきゃ出せないっていうだけのものだったと思います。

「うちに帰りたい」。そういうことは書いちゃいけないんですよ、たぶん。本当はうちに帰りたいという思いを抱いていても、そういうことは書かなかったんじゃないかと思います。そういうこととか、あれが食べたいとか、これが食べたいとか、何もないとか、そういう生活に対する不満とか。そしてまた、親御さんが、あれとかいうことがあるといけない。よくわからないんですけど、「検閲」なんて言ってたか知りませんけど、先生を通してじゃなきゃハガキは出せなかったと思います。

ただ1回、姉からすごくにおいのいい石けんを送って来たときに先生が、最近思い出したんですけど、「これはね、和代ちゃん。みんなで使うようにしましょうね」っておっしゃったのだけ。それ以外は、そういうことは全然覚えてません。いいにおいだけどね。そういうものかなとか思って。

お洗濯なんかも、シズエちゃんに聞いてみなくちゃわからないですけど、5、6年はしてましたね。お手伝い。川でするんです。五右衛門風呂も、川に架かってるんです。小さな小川がみんな、どこのうちの裏にも流れてまして、お水もそこから汲むんですよ。井戸じゃなくて。お洗濯はそれ。流れちゃうと、わたしたちの寮の川下に、学校の前にこういう杭が立ってまして、そこに必ず引っ掛かってる。そういう思いはしましたね。でも、それが嫌だというよりも、ある程度楽しんで。わたしはね。楽しんでた面もあるかなという気もしますね。

わたしはね、母から手紙が来なかったんです。それと、何となく雰囲気が、先生たちの間にあったのかもしれませんね。それで、何かあったんじゃないかなと思いました。そこまではまだ、「そうか、いろいろあるから郵便が遅れてるのかな」と思ってましたけど、いつごろだったかちょっと覚えないんですけど、父から手紙が来ました。何も書いてありません。うちが焼けたということしか。「焼けちゃったよ、蔵前のうちも」。それをあれしたときに、こういうことを父が書いてきたってことは、何かあったんだなと思いました。それが、先生からお話を聞いた前かあとかわからないんですよね。いつ頃お話を正式に聞いたかっていうことも、ちょっとわかりません。ただ、やっぱり空襲があったらしいというのは、みんなの家が焼けたらしいっていうのは、子ども心に何となく察してたのかもしれませんですね。


Q.先生から聞いたと今おっしゃいましたが、どのように聞いたんですか?

 具体的にはよく覚えてないですけど、わたしは、お父さんとお母さんとおばあちゃんがあれしたけど、母と姉たちがっていうようなことを、火鉢の前で伺ったんじゃないかなと思いましたね。そのときのことは、具体的にどういう言葉で、どういうふうに知らされたかわからないんですけど、自分が、「ここじゃ泣いちゃいけないんだわ。わたしはまだお父さんたちも残っている」。だから、ほかの人たちが独りぼっちになったという話はしてたからですね。そういうふうに思ったのだけは何となく、すごく印象的に。先生も、そうやってみんなにお話をするのも、今になって思えばすごいつらいことでいらしたんでしょうけどね。あまりにも多かったしね、6年生の亡くなった方も多かったし。


Q.6年生の方が亡くなったという知らせは、聞いてどう思われましたか?

 信じられませんでした、本当に。具体的に空襲がどういうことか、死というものが、空襲で焼け死んじゃうということがどういうものか、思い描けなかったんですよね。たぶん。そういうことだったのかなと、チラッと思います。とにかく、みんなにはもう会えないのかな。みんなには会えないんだなと思って、もっといろんな感情があれしてきたのはずいぶん経ってからのような気がしますね。なんでそういうことになったのかな、とか。具体的なイメージがわかないんですよね。それはあったと思います。ただ、いなくなっちゃったんだとか、うちで言えば、母たちがいなくなっちゃったんだ。みんなのところではお父さんもお母さんもいなくなっちゃったんだ。なんとなく皆さんの顔は覚えている方が多かったし、ケイコちゃんたちもどこかへ行くんだという気はしましたけど、具体的にイメージがわかなかったですね。そのあとは一人で、心の中でみんなが、きっと沈んでたと思いますからね。

一番、驚きましたのは、最初のうちは、寮の五右衛門風呂に入れてもらってたんです。と、思うんです。20人も30人も入れてもらったから、何度か。そのうちに銭湯に行きましょうって。銭湯に、(歩いて)10分もないと思う、5分くらいだと思いますが、行ったんです。冬に。前から行ってたのかもしれない。冬に帰ってきて、くしで梳かすと氷がパリパリ。それから手拭いもバリバリに凍ってるんですよ。そんな思いをしました。

畑を作るようになりましたね。ジャガイモを植えに行きました。どこかちょっと遠くに農地を借りて。その前にも、それはもう、厳しくなったというか、山菜を採りによく行きましたね。山菜が、どういうものが、へぇこんなもの食べられるんだとか、そういうものが少し知識として、カンゾウとか、イタドリとか、そういうものの名前を覚えたりもしました。それから、とにかく農場に行って、ちょっと山のほうだった。ジャガイモを植えました。でも、そのジャガイモを収穫して帰ったかどうかが全然覚えがありません。

で、虫がわくんですよ。やっぱり農薬がないので、みんなでその虫を捕ってつぶしなさいと言われました。先生に言われたことは何でも守らなくちゃいけませんから、つぶしました。ピーナッツのにおいがするんです、今で言えば。だから、もうずいぶん長い間ピーナッツが食べられなかったです。わたし、ちょっとにおいに敏感なところがあるのかもしれないけど、思い出すんです。虫をつぶすっていうことは、羽化してない前のウジ虫みたいなもの。そんなこともしました。でも、これを取れば秋に収穫がたくさんある。だから、それを期待してたってことは、みんなお腹が空いてて、そういうものに期待してたんでしょうね。

シミズ先生が「戦争に負けたらしい」とおっしゃいました。信じられなかったんですけど、キャーキャー騒ぎもしなかったし、どういうふうに言っていいかわからなかったんじゃないですか。みんな。そういう感じがしますね。そのあとで、白石の小学校の校庭にわたし共も集まって立って、校長先生からお話を伺ったように思います。もうそのあとは、じゃ帰っていいのね。誰かが迎えに来てくれる。「早く帰りたい」ってハガキを出して、手紙を出してもいいんだということをみんな喜んでたと思います。順番に、順番というか、徐々にいろんな方が迎えに来たりしました。

10月の初めくらいですか。とにかく白石で、息が白かったのを覚えてます。まだコートは着てない。というのは、うちの父ってすごいおしゃれで素敵な父だったんです。いつまでも、年も当時で50近かったの。そうですよね。母が数えで45で、母と7つ違うから、もう50過ぎてる。いつも背広。町会の用があるとき以外は、いわゆる防空服というカーキ色の洋服なんか、絶対着たことないような人でした。父と兄が迎えに来てくれました。そのときに父が坊主になってまして、兄も、当時はゲートルというものを巻くと。父も兄も地下足袋を履いてました。靴がなくて。それを見て、わたしはこれからの生活は、全部違うんだなっていう覚悟をしましたもんね。

何もあまり父たちも言いません。埼玉県に帰るんだということを、知り合いの知り合いの家の2階に住まわせてもらってる。そんなようなことを聞きましたけど、何しろ父が坊主になってきて、地下足袋を履いてたというときの鮮烈な思いが、終戦後の最大のわたしの驚きでしたね。母たちがいないということは、わたしの中で当たり前なことになっちゃってた。それと、帰ったところに母たちの思いを残すものが何もない。何もないです。それって、わたしにとってある意味で幸せだったのかなと思いますけどね。まるっきり違った環境に帰った。すごいぎゅうぎゅう詰めで、ほとんど立ちっぱなしで埼玉県まで帰ったのを思い出しますね。

こんな時代に生きてなくて、お姉ちゃんたちは幸せじゃないかしら。当時のんびりと、いろいろと、女の人たちが有楽町でどうのこうのっていう話も聞きましたし。上の姉なんかは、昭和初期の楽しい時代をおう歌したような生活をしてた人ですから、それを思うと。それから、母も弱かったし。高坂のこんな生活なんて、あの人たちはできないんじゃないかなとか、チラッと思ったりもしました。

わたしね、あまりメソメソと思い出さなかったですね。思い出さないっていうか、わたしは一生分可愛がられたという思いがすごくあるんですね。末っ子で母が弱かったもんですから、どうせわたしは早く死に別れるっていうのは、すごく母は親戚にもよく申しておりましたそうで、そういうことをおばたちからも聞いてましたし。だから、一生、分かわいがってもらえたんだと。いい思い出ばっかりですね。そういう気がします。メソメソしても、みんな帰ってきてくれるわけじゃありませんでしょう。そういう思いはすごくしてましたね。悲しんでて帰ってくれるなら、いつまでも泣いてるわよっていう感じの開き直りもありましたね、皆さんに。大変ね、かわいそうね。

わたしが一番、傷ついた言葉は、今はわかりますよ。もっとあとになってからは、絶対にそんなことはないっていうのはわかるけど、学校のお友達に「三輪さん、お母さんもいなくて偉いわね。わたしだったら母が死んだら生きてられない」なんて言われた。そういう慰めの言葉は割と友達から聞きましたけど、当時はそんなこと、「んっ。」とか、思いましたけど、今にして思えば、彼女たちの最大の同情の言葉だったんだということはよくわかりますけどね。当時まだ若かったころは、「そんなこと言ったって生きていくよりしようがないじゃない」とか、そういふうに思ったこともありますけどね。


Q:疎開のときにもらってたお母様からのお手紙はどうしましたか?

 焼きました。

引越のときに、とにかく引越の前に誰にも言わずに川越のそばの、高坂に昔いたんですけれど、高坂の村の庭で焼いたのを覚えてますね。

なぜでしょうね。わたしだけがそういう思い出に浸ってちゃいけないんじゃないかなと思ったのと、自分の心の中にみんなあるからと思ったんでしょうかね。兄は母たちと一緒に逃げて、はぐれて、自分は助かったでしょう。父も町会長をしてて、最後まで皆さんの逃げるのを待って、自分の家族は若かったから大丈夫と思ってましたよね。そんなこともありまして、わたしだけが空襲を知らないから、悪いような気がしていて。本当に空襲についてはどなたもそうかもしれませんけど、父とも兄とも話したことはありませんでした。


Q:三輪さんにとって、疎開っていうのはどういうものでしたか?

 大変な生活の変化でしたけど、わたしにすごい順応性を与えてくれたと思います。だんだん生活が大変になる。親にも本当に、疎開に行く日の朝まで、わたしは洋服まで着せてもらってました。小学校5年生なのに。朝起きて、全部。そういう生活をしてたのに、自分でもできるんだわとかね。あれがなかったら、こんなにわたしはその後の人生をたくましく生きられたかっていう気がしますね。自分がどうしようもできない環境に置かれたときに、どうやったら自分にどう対処するか、自分をどう対処させていくか。そういう、生き方を学んだような気がしますね。高坂に行ってからも、自然との接触、木の名前、田んぼの作物の名前、苗を見て「これは何じゃない?」とか、そういうのもいろいろ覚えましたし。

割と前向きな考え方っていうんですか。そういうのは、やっぱりあの疎開で培われたことじゃないかな。疎開と戦後の大変な生活というか。大変といっても恵まれてたほうかもしれませんけど、そう思います。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

 
精華小学校に入学
1944年
国民学校5年、学童疎開で宮城・白石に
 
埼玉に再疎開をする
1949年
東京に戻り、生活を始める

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