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タイトルタイトル: 「過酷だった学童疎開」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 佐野 繁さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月6日

チャプター

[1]1 チャプター1 戦前の精華国民学校  04:44
[2]2 チャプター2 学童集団疎開  05:40
[3]3 チャプター3 出征気分の出発  02:37
[4]4 チャプター4 苦肉の策の栄養補給  09:56
[5]5 チャプター5 はびこる「いじめ」  04:26
[6]6 チャプター6 つらい冬のしもやけ  03:36
[7]7 チャプター7 母への募る思い  04:43
[8]8 チャプター8 遅れて知らされた東京大空襲  05:20
[9]9 チャプター9 敗戦  05:26
[10]10 チャプター10 焼けた浅草に戻った  02:05
[11]11 チャプター11 精華国民学校の再開  08:47

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月6日

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まず、これがですね、わたしたちが学童疎開をしたときの、1年生が入ったときの、精華小学校に入ったときの1年生の全員のと、それから、卒業式とか同期会の、一応載っているもの(写真)です。

これは、わたしが5歳のときの七五三です。どうしてこんな格好をしてるかというと、当時はいわゆる戦争中ですから、男の子は陸軍か海軍だったと思うんですが、うちの親父が海軍が大好きなものですから、海軍の将校の佐官級だと思うんですが、制服を着て七五三をやりました。それから、この写真なんですが、これは、大変古いんですが、うちの近所のお兄ちゃんが出征するときに、わたしと妹2人で、こういう格好をして見送ったと。こういう写真ですね。ですから、これは昭和15、16年だろうと思うんですが、ちょっとその辺は、14、15年かもしれませんが、ちょっと、その辺はわかりません。

それから、次に、このアルバムなんですが、これは、わたしの2番目の娘が精華に在校したときに、旧校舎の最後の卒業生ということで、旧校舎が映ってます。ここは正門のところで、表門というんですが、正門のところで揃ってる写真です。それと、これが、旧校舎を南から北の方向にかけて撮った写真です。この校舎はこういうふうになっていて、ここは北向きで、それから、西にもこういうふうにありまして、南のところが講堂だったもんですから、校庭はコの字の中の真ん中にありました。これが一応、(学校の)外観としては。

僕らが1年生に入ったときは「あいうえお」だったんですが、「イロハ」も同時に教わりまして、なぜ「イロハ」を教わったかというと、あとあとになってみると、これを使って手旗とか、あるいはモールス信号というのはイロハで表示されるようになっているので、これでもって鏡文字を作って、イロハなら「イ」をこれで書くと。書くというよりも振るんですけど、相手に「イ」に見えるように、鏡文字になるように。例えば、こうやってこうやると「イ」になるんですね。それから、「ロ」はこうやってこうやったと思うんです。「ハ」は、こういうふうにすると、これは「ハ」なんですね。これで向こう側が「ハ」と読めると。ですから、「イロハニホヘト」というのは、暗記してないとできないわけです。
これもみんな4年生ぐらいでやったと思うんですが、モールス信号もありまして、モールス信号というのは、10年ぐらい前に廃止になったらしいですが、こうやって持って、コツコツコツと、金属のあれ(キー)を叩くようにするんですね。そのときに、工作の時間に自分たちで作って、このぐらいのものだったと思うんですが、それでこうやるんですけど、そのときに、いざとすれば、「トンツー、イ」とか、「トンツートンツー、ロ」とか、そういうものを全部暗記して、それでもって練習させられたわけです。だから、「イロハ」というのは、そういう点では、僕らにとっては覚えておかなければならない、そういうものでした。

昭和19年の1学期が終わった後だと思うんですよ。あるいは1学期が終わる前あたりに、当然親のほうに先に話が行ってると思うんですね。僕らは、直にいきなり聞かれたあれじゃないし、といって、僕らが「行く、行かない」という意志決定はできなかったと思うんですよ。だから、たぶん母親か、あるいは父親のほうに学校から連絡があって、そういうことを言われたのかなと。結局、両親が相談した上で、僕を学童疎開にやるということになったんだと思うんですね。

いわゆる「重大なことというか、大きなこと」というふうには取っていなかったと思います。比較的気軽に、スッと返事をしたんじゃないかなと。ということは、そのころに同級生でも、「行くとか、行かない」という、お互いに夏休み中でも接触はありましたから、そういうあれがあったし、しかも、町会単位で、みんな一つのところに入るというあれがありましたので、隣近所の男の子なり女の子なり、みんな一緒ですから、その割に、住んでるところの環境が違ったわけではないので、そういう点では、僕はあんまり深く考えていなかったと思いますね。

Q:白石という場所は、いつ知ったんですか。

「白石というところへ行くんだ」ということは一応聞かされていても、頭の中で、それが思い浮かばないわけですよ。どういうところか。実際に向こうに朝着いたときに、駅から降りて、今の新幹線の駅とは違いますからね。広い通りを見て、たぶんあのときに地元の人たちが出迎えてくれたんだと思うんですね。白石、あのころだから、国民学校かな。 地元の子なんかも出迎えてくれたんじゃないかっていう記憶があるんですが、それよりも、東京の僕らが住んでるあれと全然違うんでね、その辺のところの実感が、初めてそこで湧いたんじゃないかと思います。

Q:具体的にどういうところが違ったんですか。

当時の東京のこの辺の町は、いわゆる長屋が多かったんです。長屋でもこの周辺はほとんど、2軒か3軒ぐらいの2階建ての家で、あるいはそういうあれがあって、早い話が、こういう横町でも表側に何軒かあって、そこから、カギの手で回りまして、裏側にも何軒かあると。ということは、当時はトイレが水洗じゃありませんから。この辺は水洗だったんですけど、水洗じゃないもんで、そうすると、表側の家の台所とかトイレはみんな裏側にあるんです。裏側から入る、「路地」というんですけど、それは要するに、トイレの処理をする人が入って来られるようになっている。裏側の家は、一番裏側は何もありませんから、表に玄関があって、あるいは狭い家だと玄関とトイレがあって、台所もあるんですけども、そういうことで、そこのところからトイレを処理すると。たまったものを。そういうあれで、みんなどこでも狭い家だけども、必ず裏側の家は路地という形であって、そういう建て方ですから。今はほとんどこうやって、実際にうちなんかでも一戸建てですけども、今は空いてるんですけど、この裏に3軒あって、こっちにも3軒あったんですよ。
もう一つ、その辺が通路になってたんですけどね。この辺かな。 僕らは隣側のほうに家がありましたから、そういうことだったので非常にゴチャゴチャした、要するに人口の多い町だったんですね。それだけに、精華に在学してた子どもというのは、1,500人とか1,600人になったり、1クラス、僕らの場合は60何人いましたからね。クラスは男が2クラス、女が2クラスで4クラスあったわけですから。そうすると、60人としたって240人ですから、実質的にはもっと多いんですけれども、子どもの数が多かったということですね。

夜行で行ったもんですから、ここの学校の校庭に、たぶん6時か7時ぐらいに集合して、まだ、薄明るかったと思うんですよ。そこで一応出発する式というんですか、そういうのがあって、僕ら第1分団から順に、正門というんですけども、正門から出て、ちょうど学校の前の通りを上野のほうへ向かって、お寺さんや何かあるところを歩いて行ったんですけども、その両側は、僕なんかだと両親がいて、あるいは兄弟がいて、親戚の人も何人か来てくれて、近所の人とか、東京に残った同級生とか、そういうのが全員並んで送ってくれたんですね。
そのときは、僕らは、何と言っても軍国教育を受けてたわけですから、そのときに歌いながら、「軍国歌謡曲」っていうのかな。そういうのがあって、「勝って会おうと誓って征った 友のたすきが目にしみる 俺の名前もあるその旗を 踏みにじらせてなるものか」というような、そういうのを歌いながら、要するに、元気よくというか、高揚した気分で実際には行きましたね。上野で夜行列車、たぶんあれは10時ごろじゃないかと思うんですが、それへ乗ってても、近所の子と一緒だから遠足気分で、「早く寝ろ」というようなことを言われたような気がします。だからある意味では、出征軍人がみんなに見送られて行っていた、そういう姿を見てますので、子どもながらに、それと同じような気分があったのかなと思うんですね。ここを出るときは。

お腹が空いてたです。正直言って。要するに、「金の茶碗と金のはし」という兵隊さんの歌じゃないけども、自分たちが持って行ってどんぶりがあるわけですよ。それと、おわんとかそういうものがいくつかあるわけでしょう。だからといって、ご飯はある意味では盛り切りだし、一汁一菜に近い状態だから、非常にお腹が減ったんですね。

Q:ご飯はどれぐらいなんですか。

もちろんどんぶりったって、今の人のどんぶりよりも小さいですからね、子どもの。そうすると、とてもじゃないけどお腹が減ってたまらなかったですね。

Q:おやつもない。

それはなかったように思います。

Q:空腹を紛らわすために、何かしたんですか。

向こうへ着いて、すぐではないけども、ある程度、町の地理がわからないわけですから、地理をいろいろと覚えたわけでしょう。それで、いまだにその薬屋さんがどこにあったか記憶にあるんですけれども、薬屋さんを1軒発見して、薬屋さんへ行って、今もあるワカモトとか、そういうものの錠剤で、このぐらいの瓶だったと思うんですよ。これを買って、実はお小遣いも、そんなには持たされてないわけです。常に寮長が管理していて、何か必要があってこういうものを買いたいといって、自分のお小遣いをもらうわけですけれども、それでもって、それを買って、要するにご飯代わりに食べちゃうわけですよ。そうすると、こんな小さな瓶ですから、2日か、3日はもたなかったと思います。

Q:1回何錠ぐらい食べるんですか。

20錠やそこらは食べてるでしょう。お腹が空いてるから。栄養剤という気持ちじゃなくて、お腹が空くから食べるという気持ちですから。気分ですから。だから、あっという間ですよ。

Q:どんな味でしたか。

あまり、おいしくはなかったですね。それが結局、そういうところになくなっちゃって、その次にどうするかといったときに、子どもながらに、よくそういうことをいろいろ研究、研究といったらおかしいけど、あれしたなと思うんですけど、探したなと思うんですけど、メンソレが入ってるこのぐらいの缶があるんですね。それと同じような傷薬で、トフメルというピンク色の薬だったんですけど、それがたまたまなめたら甘いっていうんで、それをなめて、要するに、甘いものに飢えてたんですね。糖分に。だから、それをなめてあれしたけど、それも、また、買いに行ってもなくなったということで、次に何がいいかっていうんで探したのが絵の具で、絵の具の白が一番甘いと。で、絵の具の白をなめたんです。

Q:ほかの色も食べたんですか。

ほかはおいしくなかったです。

Q:その絵の具はどこで。

持って行ってましたから。パレットに入っているのと、チューブがありますからね。白はあっという間になくなったですね。

秋になってたもんですから、柿がなるので、方々の家を見ると、干し柿にして軒下にぶら下がってましたからね。そうすると、食べたいなと思っても、さすがに、それは持って来るわけにはいかないので、むいた皮が干してあると、むいた皮ぐらいだと何とか、ザルや何かに入ってるから、少し取ってもわからないので、むいた皮は食べたですね。

Q:身をむいて、その皮を捨てたやつ。

皮も干してあったんですよ。皮は非常に甘いんです、これは。だから、その皮をあれしたり。それと、イチジク。イチジクというのは赤くならなきゃ食べられないのはわかってたんですけど、我慢できないと、少し赤くなってるやつをそうっと取って食べるんですけど、僕は一度やって、あまりにもイチジクの汁が、白い汁でもって口がしびれちゃってどうにもならなくなったもんですから、それは1回だけだったですね。
最終的に、これは、うちの子どもには話してあるんですけど、白石川の川縁に、淀んだところに、今でいうイクラのような、このぐらいの粒で、中に黒い点が入っていて、それが方々にいっぱい浮いてるんですね。手ですくってみたところどうも柔らかいものですから、これは寒天の何かじゃないかと。食べられるんじゃないかと思って、すくって、かむわけにはいかないもんですから、すくって飲み込むということで、それはやったんですよ。あとで地元の子に聞いたら、あれはカエルの卵だと言われて、それ以来二度としなくなりましたけどね。
僕ら6年生になってからの夏に、あの辺は道端で、戦争中なもんですから、ヒマワリとヒマが植わってたんです。方々で。ヒマワリが枯れてくると、ヒマワリの種は食べられるということがわかって、ヒマワリの種を食べたんですけど、中には間違えて、ヒマの種を食べて下痢しちゃったという子がいます。ヒマっていうのは下剤のもとになるんだそうですよ。よくわかりませんけど。それがよく似てたので、食べて下痢をしたという話は聞いてますけどね。

Q:逆に、どういうものを食べたいなと想像していましたか。

あのころ、一番あれだったのはサツマイモですね。サツマイモを食べたいと思った。もちろん時期がありますけどね。お芋は食べたいなと思いましたよ。行ってからしばらく経って、昭和天皇の皇后の、香淳皇后ですか。あの方が、今の天皇陛下も那須のほうへ学童疎開されてましたのでね。当時の皇后陛下が学童疎開の子どもたちにということで、ビスケットが下賜されたんですね。それはこんなに大きくなかったとは思うんですが、紙の袋へ入っていて、表に菊のご紋賞がちゃんと印刷されていて、それを僕らみんな1袋ずついただいて、自分で食べるんでなくて、まず、地元の子どもたちにも分けてあげるということになって、20枚ぐらい入ってたのかもしれないんですが、4、5枚ぐらいを、言うなれば供出して、地元の子どもたちがどれだけ食べられたかわかりませんが、そういうことをした上で、僕らは初めて食べた。あんなビスケットがおいしいとは思わなかった。そのときに、皇后陛下が学童疎開へ行ってる子どものためにということでお歌を詠まれて、それが、「つぎの世を 担うべき身ぞ たくましく ただしくのびよ さとにうつりて」と。誰が曲を付けたのか知らないですが、それが今度しょっちゅう歌わされて、♪「つぎの世を 担うべき身ぞ たくましく ただしくのびよ さとにうつりて」。そういうふうに覚えて、しょっちゅうそれは歌わされてたです。でも、あのビスケットの味は忘れられないです。いまだにおいしかったなと思いますよ。

それ(イジメ)はありました。5年生が力が強かったので、5年生同士でそういうことが始まったんですね。まだ、6年生がいたときだと思うし、6年生が東京へ帰ったあとでも、それは続いたんです。今にして思えば、それぞれが皆極限の状態にいたので、寂しさとかいろんなものをそれぞれ持ってたと思うんですよ。

僕がやられて、それも、隣の子にやられましてね。正直言って、ここへ移ってはいるんですけども、しょっちゅう、隣のうちの子がうちへ遊びに来たりなんかしてて、いろいろあれしてたにも関わらず、その子が中心になってやられて。いじめというより、あのころは仲間外れっていうんですね。
例えば、このぐらいのところへ5年生以下がみんな、6年生はいなかったと思うんですけどね、そのときは。輪になって集まって、言うなればつるし上げですよ。次々と質問というか、ば声を浴びせられて、こっちは何も話せない。学校へ行くのも集団登校だったですから、寮を出るときは一緒にあっても、あとは、5メートルとか10メートル離れて歩けと。笑っちゃいけなとか、口きいちゃいけないとか、そういう状態が3週間ぐらい続くんですよね。短いと半月ぐらい。だいたい20日ぐらい。そうすると飽きちゃうのか何か知らないけど、今度誰かが別のターゲットになるわけです。それを繰り返すから。僕はターゲットが変わったら、今までさんざんやられたわけですから、今度、やられたらやり返すということで、僕はそうなると、当然、攻撃的になりますよ。2、3人終わると、また僕に戻ってくるわけですよ。それを3回ぐらいやられたのかな。
今のいじめとはちょっと違うんですけど、やられたからといって、誰かに、こうやられてるっていうことは、何も言えないわけですよ。寮長にも言えないし。

裏に流れている川で、夏に、そこで水泳なんかやったりしたところなんですが、裏側に一番深いところがありまして、僕らでは足が届かないんですけど、着かないんですけど、それでも10メートルぐらい行くとすぐ浅くなってくるんですね。ちょうど曲がり角から来てるところのもんですから、いっそのこと、ここへ、僕は飛び込もうかなと、思って行ったんですけれども、考えてみたら、体が浮くようになってるから、もし浮いた場合にあそこの浅瀬のところへ行ったら、もうだめだなと。第一、それをやったら母親に会えないなと。やっぱり父親より母親ですよ。会うことができないなと思って、そこで思いとどまったんですけど。もう7年ぐらい前に行ったときに女房にも、そこへ連れて行って、ここでこうだったんだという話を、女房には見せてしたんですけどね。今の子どもたちが自殺するあれと、また別かもしれないし、あるいは、そこにあるものは、自殺しようというんだから共通しているものは、あるいは、あったかもしれないですね。そういう意味では、学童疎開というのは、僕は思い出したくないと。1日も早く忘れたいと。そういう思いが強いんですよ。

当時はジョギングシューズなんていうのはありませんから、全部下駄(げた)ですから、下駄で、寒くなってくれば、足袋を履いて、下駄を履いて、学校へ行くっていうことになると、下駄の歯の間に雪がだんだん積もってくると、歩けなくなるわけですね。そうすると、雪の中へ足袋のまま下りて、下駄の歯をカチャカチャぶつけて雪を落とす。そういう繰り返しで、当時の白石国民学校まで行ったんですね。だから、しもやけという、今の子はあんまり、しもやけってできてないけど、しもやけができて、僕は、こことここかな。それと、こっちもあるんですけど、4か所か5か所しもやけができて、崩れたんですよ。

Q:見せてもらっていいですか。

まだ、ここにうっすらとあるんですけど、ケロイド状になってたんですけど、この辺。ここと、この辺と、こっちも、これがそうだったかな。これとこの辺。とにかく4カ所ぐらいはしもやけが崩れて、自分で薬を買って、包帯を巻いて、それこそグルグル巻きですよ。そうしてあれしたけども、結局、そのあとはケロイド状になって、今、やっとこういうふうによくわからなくなったんですが、前はかなり鮮明にあったんですよ。

Q:寒い中で暖房器具は。

暖房は、ほとんど火鉢だけですね。それも、たくさんあるわけじゃないですから。もしかしたら、そこで僕は知ったのか知りませんけども、靴下の中に唐辛子を入れると温かいというのを、靴下というより足袋の中。というのを、そこで知ったのかもしれないです。そういう、今で言えばサジェスチョンみたいなものが、どこからか伝わってきたような気がするんですよ。足袋の中へ唐辛子を入れたような記憶があります。ただ、天理教(寮)の建物は旅館と違って、仕切りだとかいろいろなものがないですから、広間ですから。しかも、表は雨戸とガラス戸だけで、あとは障子だけですからね、廊下を挟んで。だから、非常に、あそこは寒かったです。天井も高いし。

Q:火鉢は1個。

恐らく、あれでしょうね。あんまり僕らは火鉢に当たったという覚えはないんですけどね。みんなで固まってね。恐らく、あっても3つか4つぐらいじゃないでしょうかね。

Q:みんな身を寄せ合って、寒さを。

そういうことですね。

Q:どんな感じで寒さを乗り切っていたんですか。

たぶん押しくらまんじゅうなんかも、やったんじゃないかと思う。あれは体が温かくなるから、押しくらまんじゅうなんかも盛んに行われたんじゃないかなと思いますよ。

とにかく、おふくろの顔だけは見たかったです。会いたかったです、それは。何と言われても、親父よりも母親ですよ。

Q:手紙は来ましたか。

手紙は来たんですけど、これがまたあの当時は、親書の秘密なんてことはありませんので、まず寮長が開封して、都合の悪いところは墨で塗っちゃうし、僕らも手紙を出すときは、書いたものを寮長に見せて、オーケーが出ないと手紙が出せない。そういうことでしたから、仮に手紙で何か送ってくれというのは、着る物や何かだったらいいんです。だけど、食べ物を送ってくれっていうことは書けないんですよ。逆に、親が着る物を送ってくれたときに、例えばリンゴが5つ入っている、あるいは6つ入っているとするじゃないですか。そうすると、それは没収されちゃうんです。食べる物だけは。一応着る物だけ渡されて、後日、1日なり2日なり経って寮長室へ呼ばれて、リンゴならリンゴを1つ食べさせてもらえると。そうすると、こちらはいくつ送られて来たのかわからないわけですよ。だけども、親はそうなっているとはわからないわけでしょう。残りの物がどこへ消えたかは、僕らはわからないです。想像するしかないので、今になってみれば。

Q:平等に寮の子たちに配られたということはないんですか。

ないですね。というのは、それだけの人数がいて、それだけの物がないでしょう。だから、それはなかったですね。

Q:どこかに行ってしまった。

どこかに消えたんですよ。その意味では完全に、今の子たちがあれするような時代と、時代が違うので致し方ないと言えば致し方ないんですけれども、嫌な時代だなと思いますね。

Q:どういう手紙を書いていたんですか。

元気でやって、早く大きくなって特攻隊になりたいとか、そういうことですよ。今考えれば、全くおかしな話なんだけども、ひたすらそういうことを書くことによって、それが一つの、先生がすぐにオーケーが出るあれですから。そこまで計算したわけじゃなくて、そういうことを書かざるを得なかったんでしょうね。実は、お腹が空いて、寂しいし、なおかつ、いじめがあるから東京へ帰りたいとか、母親の元へ帰りたいということは絶対書けなかったです。書いたら出せませんから。雰囲気的にはそういうことしかないわけです。

だから、脱走者というのはそういうところから出たんだと思う。どうにもならなくなって。うちの寮からも、5年生で1人脱走しちゃってね。脱走したというのがわかって、6年生と僕ら、あのころは6年生がいたときですので、6年生と僕ら5年生が町中探したんですよ。ただ、だいたいわかっているのは、僕らだって地理的に、東京に向かって行く以外ないわけですから、白石の駅に行って、駅から線路沿いに歩くしかないなという、そういうことは、自分もなればそういうことになるから、そういうところを探して、捕まえて、6年生が自転車へ乗せて帰ってくる途中、自転車から飛び降りて、またいなくなって、6年生がワンワン泣いてね。「自転車で、また逃げられた」といって、また探しに行ったんです。

正直言って、僕なんかは、多分、ふた月近くあとで知らされたんじゃないですか。 仮に、うちの隣の子の兄さんだとかなんかは、空襲で亡くなったと。そういう情報は彼も知らなかったわけですから。

Q:2か月。

約2か月だと思う。アメリカのB29が東京を空襲したときか、何か知りませんが、中国へ向かったんだろうと思うんですが、蔵王山にぶつかったと。死体が氷付けになっていると。その氷付けになった死体を白石の町へ持ってきて、僕らはみんな、殴らせるというふうに聞いたんですよ。5年生は、僕らなんかは木刀を持って学童疎開へ行ったわけですね。武道がありましたから、当時。5年生から剣道をやり出して、まともだったら5年生の2学期ぐらいから防具を付けてやるようになったんだろうと思うんですけども、僕らは木刀のところで終わっちゃったわけですね。その木刀を持っていたので、じゃあ木刀を持って行こうというので、当時僕らは6年生ですけども、何人か木刀を持って行ったんです。たまには、妙見寺でそういうことをやるということだったので、だから、てっきりそうだと思って行ったんですよ。そしたら、妙見寺の広場で先生から、「東京大空襲によって皆さんのうちは全部焼けました」と言われて、何かポカンとした感じですよ。焼けたってどういうこと。 僕らはわからないしね。焼けたって何だろうなと。その席では、誰それの両親が亡くなったとか、誰それが亡くなったとか一切言われなかったので、帰ってきて、そういう子たちは先生に呼ばれて、一人ひとり言われたんじゃないかなと。僕らには、そういうことを公にはしなかったですよ。

Q:本当に2か月間、東京で家も何もかも焼けて、たくさんの人たちが死んだということを知らずに。

確か、僕は5月だったと思うんです。5月の初めのほうだったと思う。そのときの話は、もちろん3月10日のあとで、何日か経ってかどうか知りませんが、何人かの先生が東京へ来てるはずなんですよ。その結果の報告なんです。もちろん、そのときの住むあればかりではなくて、まだ学校に残ってましたから、そういうところへ来た情報をまとめてやったのかどうか、わかりませんけどね。

Q:5月に東京大空襲があったのを知って、その後どういうふうに白石で。 家が焼けたということを知って、みんなポカンとしてたんですか。聞いたときには。

恐らくそういうことでしょうね。要するに、焼けるという現実がわからないわけですよ。今になってみれば、火事や何かの現場を見れば、焼けるというのはどういう状態かわかるけども、あの当時それがなかったですからね。比較的。しかも、全部ということを言われると、どういうことなのか全くわからなかったです。

6年生が帰って、2日後に東京大空襲で、この辺がみんな焼けたんだと言われても、僕らはピンと来なかったわけですから。それからひと月か、ふた月ぐらい経って初めて、焼けたんだということを聞かされて、なおかつ、一緒にいた子が、6年生も、あるいは5年生でも、亡くなったと。そういうことを聞かされていますから、余計、僕らとしてみれば、そういう悲しさは強かったんじゃないか。つい3日前まで一緒にいたあの子は死んじゃったのかという、そういうあれが心の中に残ってましたからね。そういう意味じゃ、戦争というものは、一番弱い高齢者とか、女性だとか、子どもだとかというところが、一番弱い悲劇を生むんじゃないでしょうかね。

一番記憶してるのが、日本が戦争に負けたときね。負けたというその日。8月15日ですから、夏休みであるわけですよ。でも、僕らは夏休みという、勤労動員でもないんでしょうけど、そういうことでさせられたので、当時は飛行機の燃料にするんだと聞かされてたんですけど、松の幹を、こういうV字型に傷を付けて、そこから出る松ヤニを、缶だったと思うんですが、そういうものだとか、瓶にためる。そういうことをやらされてたので、たぶん8月15日も、僕らのいたところから少し離れたところ。そういうところへ行って集めていたと。たまたま、その日は、12時から、正午から重大な放送があるのでということで、早めに帰ってきて、寮長室の前にみんな、表に立って放送を聞いたわけですね。だけども、あの放送を聞いても、僕らには言葉が難しくて、ちんぷんかんぷんなんですよ。結局、終わったあとで寮長が、日本は戦争に負けたということを言われて、その瞬間、負けたという意味が、自分たちはどう取っていいのかわからないわけです。それまで、日本は神国だと。だから、必ず神風が吹くんだと。その神風というのは、元寇の役が弘安4年にありまして、そういうものをみんな教わってたわけですから、あのときも、神風が吹いて、蒙古の船が沈んで日本が勝ったんだというような、そういうあれをされてたので、絶対日本は勝つんだということを植え付けられてましたから、負けたというのは、どういう意味合いなのか、僕なんか全然わからなかったですよ。

とにかく僕自身が当時、小学校を出たら旧制中学へ入って、旧制中学を卒業したら海軍兵学校、海軍兵学校は士官になれる学校なんですけども、呉の江田島というところにあって、海軍兵学校へ入るんだと。そういう希望を持ってたわけですね。ですから、日本が戦争に負けたということを聞いたときに、その夢がいちどきになくなったと。壊れたと。そういうことで、ものすごく悲しかったですね。
というよりも、あの当時男の子は、大きくなったら兵隊さんに行くと。女の子はお嫁さんになるという、だいたい2つの夢しかなかったわけです。今のような、タレントになるとかそういうことはありませんでしたので、だから、その夢が崩れたということと、2学期が始まったときに先生が2学期の教室で、今まで教えたことは全部うそでしたと、こう言われたんですね。これはものすごくショックだったです。5年と1学期、3か月、4か月ぐらい習ったことが全部うそだったというと、じゃあどうなるんだって。今まで何を習ったのか。とにかく、そういうことがすべて消えるわけでしょう。子どもながらにそれはどうなんだろうなという、今で言えば頭の中が真っ白になったというか、パニックになったとか、そういう表現ができるんでしょうけど、当時は、そういうことは表現できない。ただ自分の心の中だけで、「俺は一体どうなっちゃうんだ」という気持ちでしたね。

終戦後。終戦後すぐじゃないですけども、(学童の帰郷は)10月ぐらいから、どんどん迎えに来だして、1人減り2人減りしていくわけでしょう。うちは一向に親父が何も言ってこないので、僕、内緒の手紙を初めて書いて、一番最初に、とにかく帰りたいから早く迎えに来てくれと。次に、迎えに来る時は、お腹が空いてたまらないからお芋を蒸かして持ってきてくれと。そういうことを書いたんですよ。

Q:内緒の手紙というのは、出し方も違うんですか。

ハガキさえ手に入れれば、書いて、あとはポストに入れればいいんですから。

Q:先生に渡すのではなくて、ポストに入れる。

先生には関係なく、自分で書いたものを直接ポストに入れるんですよ。

びっくりしたですね。僕なんかは上野へ着いて、上野から今のJRで浅草橋の駅に着いたんですよ。浅草橋の駅のホームから、今はホームから、窓が少し高くなってあれですが、当時はもっと低くてちょっと違ってましたので、ホームから駅を出る前に、浅草橋の駅っていうのは高いもんですからね、ホームが。パッと見たら、この辺では精華国民学校の校舎しか残ってないんです。

ホームからパッと見たときに、一望でわかるわけですよ。「あれ。」と思って。そんな風景は、かつて見たことがなかったですから。実際にこっちへ親父と一緒に歩いて来て、僕らが住んでたところへ行ってみて、何も残ってないわけですよ。

焼け跡に行ってみて、とにかく何もなかったですね。少しほじくり返したんですけど、僕が一番大事にしてたものが一つあったんですよ。この写真には載っかってないな。 僕らのおばさんのだんなさんが、刀屋さんを戦争中してましてね。男の子が生まれると、一人ひとりサーベルをもらえたんです。ちゃんとした、刃が付いてないだけの。このぐらいのサーベルだったんですけど、そのサーベルを、儀仗でもってガチャッとはめて、腰にぶら下げられるようになってたんですね。そういうものがあったから、それは一番大事にしてたんでね。そうしたら、サーベルの柄だけしか残ってなかったですね。それは、あったんですけど、さすがにそれを持ってくる気力はなかったですね。

親父の親戚がたまたま四谷の方にいて、自分の家のバラックを作るというんで、そこへ、いたところへ僕らは移ったんですよ。21年の1月7日か8日に精華が再開されたので、その前に、暮れのうちに、親父が精華に入るということの手続きをしてあったので、始業式の日に、僕は来て、そこから精華がスタートしたんです。もっとも、その日はほかの学校で合同授業だったので、そこへ行って、そこから、今日で向こうからやるから引越しをするよということで、学校のものや何かを持って、その日からこっちになったんです。だから、昭和21年1月から精華は。半年以上、精華は教えたくても、校舎は残っていても、子どもがいないから。それで再開されたんです。

Q:再開したときは、何人ぐらいでしたか。

あのときは、まだ、この写真のこの人間全員はいなかったです。これはいなかったですね。1年生なんか1人でしたからね。ここにいるオガワ先生が1人で教えてたんですよ。校舎の1階が職員室で、2階に3つ教室がありまして、そのひとつひとつの教室に、ついたてを作って、1年2年、3年4年、5年6年と、複式学級っていうのかな。よくわかりませんがそういうふうになって、先生のほうが多かったんです。ここにいる先生よりはるかに、まだいたんですよ。6年生なんかも、2人の先生に、代わりばんこに教わった。そういう状態でしたから、最終的に、僕らが卒業するころは、確か54人だと記憶していますね。全校で、1年から6年生まで。そのぐらいだったですよ。

それも、この辺にみんな住んでいるかというとそうでなくて、この中で一番遠い子は今の埼玉県の蕨。それから、女の子なんかでも、千葉県の船橋市。そこから通ってたんですよね。僕も四谷から通ってた。ほかには、御徒町のほうから通ってたのもいるし、みんなそれぞれ。この周辺で住んでる子は、この中で半分いるかいないかじゃないですか。

Q:精華にすら戻って来れなかった子たちは、各地に。

そうですね。本来なら3学期だけやれば精華で卒業できた人たちが、精華で卒業できないというのは、そこなんですね。その辺が、僕らの同期会なんかでもやるにしても、消息がつかみにくいんですね。

それから、これが、僕らが250人以上いた同級生が、昭和21年の3月に、焼け野原の中で授業が再開された精華小学校に、一応、通っていただけ。これしかいない卒業式です。一番端の彼を見ていただくとわかるんですが、彼は裸足なんですね。履くものがなくて。そういうのが昭和21年3月の現状です。これは一応先生たちもみんな映っています。ちなみにわたしはここにいます。2番目の、これがわたしです。

しかも、僕らが3学期になってここへ通ったころに、この学校は戦災者のアパートということで、教師が多いもんですから。そうすると、1階は東と西側、2階も東と西側、3階は東と西側と北側と、ひとつの教室を3つに区切られて、入口は2つしかないですから、前と後ろと。ここに空きというか、通路があって、あと全部入ったわけですね。中で、廊下や何かで煮炊きをしたりするので、それこそ天井なんか白いところが全部いぶっちゃった。今、うちを出た突き当たりのところはプールだったんですよ。夏なんかは、別にプールに水をためたわけではないんですが、何らかのあれで水をためてまして、たまっていて、アパートにいる人たちが、夏はそこで、男の人ですけど行水をして、その水を使って、お風呂代わりにやってたんです。校庭そのものに大きな長いトイレができて、校庭も狭くなってたわけです。だから、本当に無惨な、そういうのを見ると、戦争に負けたらこういうことになるのかと。非常に無惨な、校舎としたらば、姿でしたね。

僕は、1日でも早く忘れたい過去だと。二度と思い出したくないと。しかし、現実的な問題として、何かあれば、出てくれば、思い出さざるを得ないわけですよ。でもそれを、声を大にしていろんな人たちに教えたくない。これは、僕の過去のしがらみとして墓場まで持っていくのが、僕は一番いいかなと思いますね。

東京ばかりではなくて、横浜ももちろんそうだし、大阪も確か学童疎開をやってるんですよね。全国的にどのぐらいいるか知りませんが、経験者というのは多くても10万いるかいないか。5万人ぐらいはいるんじゃないかと思うんですよ。そういう人たちが、そういうことを公にしたかどうかは別として、あまりそういうことが知られてないということは、言いたくない人が多いんじゃないかなと僕は思うんですよ。

Q:それだけつらいことが。

心に残っているつらさですね。もし自分の子どもが同じような状態で、学童疎開に行くという話があったら、僕は、もうだいぶ前の話ですが、子どもたちにも、絶対に行かせないと。死ぬときは親子一緒だと、僕はそう言ってますから。言ってましたし。その意味では、学童疎開というのは決して、楽しいとか、懐かしいとかいうものでは、僕はないと思いますよ。ここのとこ、新聞には載らないけども、よく学童疎開の会があって、現地を訪れて、懐かしかったとか、楽しかったとか、あれだとかいう、良さを強調されている報道が新聞なんかに載りましたけども、それは本心じゃないだろうなと思いますね。それは、ある一定の、それから30年経ち、40年経ち、ひとつの思い出としてそう語っているような、その当時の生の声では、僕はないと思いますよ。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1934年
東京都にて生まれる。
 
精華小学校に入学。
1944年
国民学校5年、学童疎開で宮城・白石に。
 
戦後は、四谷の防空壕に住みながら、再び精華小に通う。
 
精華小卒業。疎開前250名ほどいた同級生が家を失い再疎開等をしたため18名になる。

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