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タイトルタイトル: 「思い出の手袋」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 原田 静枝さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月7日

チャプター

[1]1 チャプター1 学童疎開に行きたい  06:24
[2]2 チャプター2 疎開生活が始まった  07:24
[3]3 チャプター3 日に日に悪くなる食べもの  06:34
[4]4 チャプター4 厳しい白石の冬  05:03
[5]5 チャプター5 途絶えた家族からのハガキ  05:02
[6]6 チャプター6 東京大空襲のうわさ  04:04
[7]7 チャプター7 思い出の手袋  05:30
[8]8 チャプター8 終戦、その後  04:13

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月7日

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学童疎開に行くということは、夏休み前ですね。それはどういうことかっていうのが、縁故疎開と学童疎開とおうちの中で相談して、もしあなたのおうちに疎開先があるならばそちらに行く。それも良し。それから、そういうおうちのない人たち、いわゆる疎開先がない人たちは学童疎開という認識でしたね。わたしの家には、縁故疎開、個人で疎開していく先がなかった。祖父母はみんな東京におりましたので。ですから、「学童疎開に行く」ということは、わたしの中では決めてましたね。

Q:ご両親は学童疎開ということで親子が離れて、さらに、いつ戻ってくるかわからないじゃないですか。反対はしなかったんですか。

わたしのうちは猛反対でした。「家族一緒にいなければいかん」というのが父の考えでしたから、「とにかく、わたし一人を学童疎開に出すということは許さん」ということで大ゲンカ。妹が小学校1年生、兄はもう中学生になっておりましたから、学童疎開に行けるのはわたししか、兄弟の中でいなかったんですね。それと、4年生のクラスのまとめ役だったわたしとしては、学童疎開に行くということは当然。行かなければならないということが、強くあったんですね。

それはやはり、今振り返ってみれば、「軍国少女」と言ったらいいんでしょうか。クラスの人たちのお金を集めて陸軍省へ献金に行きました。献金というのは、風呂敷に包んでね、お金を。何円でしょうね。何円ぐらいずつの出し合いだと思いますが、それをしっかり持って、都電、昔は市電だったんですけど、市電で二重橋の前を、皇居の前を通って行って、そのときに車掌さんが、「全員起立」という号令を掛けて、そして、全員が二重橋に向かって遙拝(ようはい)するんですよ。おじぎをする。それをしっかり覚えてますね。
で、桜田門で降りて、陸軍省に献金して、帰りに、こんな立派な「内閣総理大臣 東条英機」と書いた賞状があるんですね。わたしの今の記憶でも、こんな大きな額でしたね。額というか、紙でしたね。その賞状をしっかり持って帰って、自分の机の前に飾る。もちろんみんなに見せたあとですけれど、それは、わたしは疎開するときは持って出ませんでしたけれど、机の前にそれをしっかりと貼って、お国のためにという気持ちがあったし、それから、兵隊さんたちが守ってくださるから、わたしたちが、学校で勉強できるんだということは教えられてましたのでね。
だから、当然お国のために捧げるということで、女学校に入ってどうしようということじゃなく、今の小学校4年生の自分ができることを一生懸命やろうということで、鉛筆を毎朝、全員の鉛筆を削って、それはわたしの役だと思ってたんですよ。とっても、かたくなにそれを思い込んでいた自分というのが、今、振り返っていますね。

Q:お父様からの反対は、どういうふうに押し切ったんですか。

ただただ言い募ってました。「わたしが行かなきゃいけないんだ」っていうことを。父は父で、「絶対許さん」と。廊下の外れと外れで言い合った。1日や2日じゃ決まらなかったと思いますよ。毎日それを、学校から帰ってくると。最終的に何日って決めなきゃいけない日が近付いて来ますので、必死になって父に訴えて、とうとう、もともと、わたしは強情っ張りって、ずっと父が言っておりましたから、彼はわたしの強情っ張りに負けたんだと思います。ですから、やっと許されて学童疎開に行ったということですね。

みんなと一緒に疎開できる、学童疎開できるということが、非常にわたしの興奮度を高めたと思います。うれしくてしようがなかった。だから、学校で、修学旅行が初めてお友達と泊まる旅でしょう。あんな気分でしたね。夜、立ったので、学校に、夜、集合したということを記憶しているんですけれど、みんなちょうちんを持って見送りに来てくれていて、精華の学校に集まって、それから上野の駅まで歩いて行って、深夜の列車に乗って、翌朝、白石に着いたということですから、もう興奮状態。うれしくて。修学旅行みたいな気分でしたね。

見たことのない風景でしたよ。というのは、都会の育ちですから、目の前を電車が走ったり、大きな建物があったりでしょう。それなのに、建物がものすごく低くて、ペタッとした。広場は、白石の駅の前は広かったって記憶があるんですが、そのすぐ側の鈴木屋旅館に入ったものですから、町中を歩くのはそのあとなんですね。でも、その大きな広場に比べて、建物がすごく小さい。瓦屋根の小さいおうちばっかりだっていう記憶でしたね。田舎って、こういうところなんだって。
田んぼを見たことがなかったんですね。田んぼがどういうのか知らなくて、わたしは蔵前にいるころに、雨が降るとアスファルトにポンポンって滴が立ち上がるでしょう。稲の田植えをするって、ああいう感じかなっていうのが、わたしの子どものころだったんですよ。夏休みというと、稲がこんなに伸びてるでしょう。例えば旅行に行っても。だから、田植えをするというのは教科書でしか知らないから、本当に都会っ子だったんだなって思いますね。

Q:疎開生活が始まって、最初の晩はどういう感じでしたか。

最初の晩から「泣き」が入ったんですよね。汽車の汽笛が鳴る、それが目の前で鳴るもんですからね。これは東京にいたときに経験のない、「ボーッ」て音が聞こえるたびに、みんなが、「お父様、お母様」っておいおい泣くの。わたしも、もちろん泣いたけれど、あんな寂しい思いは。あまりにひどくて、それが。たぶん、大人たちが考えて、それより離れたところのカネマン旅館という、高等御下宿と書いてありましたけれど、もっともっと、鈴木屋旅館の比じゃないほど、こんなことを申し上げるといけないかもしれませんが、アバラ屋みたいなところに移っていくんですね。汽笛が少し遠のいた。けれども、鈴木屋旅館に1週間かそのぐらいいたんでしょうか。毎晩、泣いてましたね。窓を開けて叫んでましたね。東京へ帰りたくて。

Q:なんて叫んでたんですか。

親を、「お父さん」であったり、「お父様」であったり。一人、「パパ」「ママ」っていう人がいたけれど、ほとんど「お父様」「お母様」と言って泣くのよ。その泣き声が大合唱になっちゃう。次から次へと泣き始めちゃうからね。我慢してる子も、次には泣きだしちゃう。それはもう寂しいですよ。だって、帰れないわけだから。あとになってから、脱走していく生徒が出てきて、「何寮の誰々がいなくなったんだって」とか、そういう話はすごく早くに入ってくるわけ。自分だって逃げ出したいんだけれど、でも、もう一つは、さっき申し上げた、お国のために疎開して来てるんだから、学童疎開なんだから、帰るということは考えちゃいけないと思うんですが、感情的には寂しかったです。寂しい、悲しいですね。でも、わたしは比較的、まとめ役をしなければという緊張感で、結構、生意気な態度を取ってたと思うんですよね。嫌がられてたかもしれない。

Q:級友たちが旅館で泣いていたりすると、わたしが級長だからという。

「ちゃんとまとめなきゃ」。少なくとも、4年生が何人かいたんですが、4年生はわたしがちゃんとさせなければっていうかな。6年生、5年生、4年生、3年生までいたからね。だから、恥なわけですよ。4年生がいつまでも泣いたり、悲しんだりしているっていうのは。自分も泣きたい気持ちと、泣いてもいるんだけれども、いざとなると、き然とした態度を取る。いつも、「戦争で兵隊さんが」っていう。「天皇陛下」とかそういうことは、あんまり考えませんでしたね。兵隊さんのためにも、きちっとやらなきゃいけないっていうのは、「銃後の守り」の小学生版かな。

Q:疎開先の授業はどういうものでしたか。

教科書どおりでしたね。一時は小学校の部屋を借りたっていう記憶を皆さん持っていらっしゃるんですが、わたしはそれより、そのあとの女学校の空き部屋にわたしたちが入った。さんさんと陽が差してとてもいいお教室だったんですが、そこにいたお姉様方が、戦争のために、いわゆる軍需工場に。それも不確かなんですけれど、わたしは川崎とかあっちのほうへ行ってらしたんじゃないかなと思っていたんですが、そうじゃないかもしれません。それはわたしはわからないんですが、とにかくごっそり、女学校で5年生といったらいいのかな。女学校の5年生でしょうかね。その方たちが移動なさったから、その部屋をお借りして勉強したのはしっかり覚えてますね。

Q:授業の内容は、英語は習わない。

もちろんないです。

Q:軍歌とか、戦意を高揚させるものはありましたか。

もちろんですよ。それは歌ってました。

軍歌というよりは必要な歌として覚えていくという記憶ですね。今はもうほとんど口ずさむことはないけれど、敗戦のあとでも、思わず口から出てくることはありましたよね。みんな覚えてたんじゃないかな?

Q:疎開先の食事はどういうものでしたか。

「ご想像つかない」と思いますよ。このぐらいの浅いおどんぶりなんですけれど、底のほうにしかない。男子は5回はしを運んだら終わっちゃう。もっと少ないかもしれない。本当に少なかったですね。初めのうちはまだよかったんですけれど、日に日に悪くなっていったんじゃないでしょうか。だから、「その食料をどうやって調達していた」のか、「親たちがいくらお金を出していた」のかっていうことは全く知りませんで、ただただ食べる物がなくなっていく。東京の家に、蔵前の家にいるころは、食べ物がないということがなかったものですから。というのは、闇屋はたくさん、闇のお米とか、闇のお野菜とか、手に入れることのできる環境だったと思いますが、それは、人によっては恥ずかしいことだ、言っちゃいけないことだって、子どもながらにあるわけですよ。だけれども、本当に富貴に食べてた、十二分に食べていたわたしたちが、いきなりあそこに行って、初めのうちはまだ良かったんです。おやつも出たりして。どんどんどんどん、おどんぶりの底が透けて見えるような感じになってきて、それはやはり、秋口を過ぎて冬にさしかかったという感じなんですよ。
それはなぜかというと、雪は降るし、風は冷たいし、蔵王の山は真っ白だし。というような心細さも加わって、食べる物がどんどん貧しくなっていくということに加えて、寂しさが募っていくわけですよね。9月の初旬に出て行って、まだそのころは、寒いという感じはなかったでしょう。それが、10月、11月になってどんどん寒くなっていく。空っ風がすごいんですよね。生まれて初めてですよ、あんな冷たい風に合うっていうのはね。それはすごい印象に残ってますね。でも、とにかく何度も申し上げるように、兵隊さんのためにも、わたしたちはしっかりやらなければいけないと思っているから弱音を吐けない。弱音を吐くという思いではないんですよ。気張ってたっていうのかな? 子ども心に。今、考えられないぐらい気張ってた。ものすごい緊張が高かったですよね。

あっという間、3分で終わっちゃうようなご飯を何とか伸ばそうということで、お茶わんの器の縁に一粒乗せて、それをおはしで半分に切って、そして口に入れると、ご飯の粒が舌に当たりますよね。それをずっとなめて、転がして、それから、かんで落としていくんですね。大げさに言えば、1分ぐらいの時間なめていられる。おかゆのようになるんだけれど、そして飲み込んで、また半分を入れる。あれはおはしが上手に使えたからできたことだと思うんですけれども、はしの先でご飯粒を半分に切っていく、この切り方。こういうだ円のところを、こう切るんですよね。そして一粒の半分食べて、かんで、飲み込んで、またこっちの半分を食べる。確か、30分ぐらいお食事時間があったように思うんですが、男の子たちは全部終わって、長いテーブルのところでお座りして、ちゃんと待ってなきゃいけない。だったらば、ゆっくりゆっくり食べていけば、時間がそれだけ費やせるでしょう。というようなことをやってましたね。

もう一つ、ワカモトというお薬。お腹を壊したときのお薬を、こんな大きな瓶で持って行って、それも食料の一つだから食べてました。

Q:東京から持っていったんですか。

親からの荷物は届くんですよ。まだそのころは届いてました。わたしの場合は12月の29日に空襲にあって焼けちゃうんですが、それまでは、いろいろなものが送られてきた。ただ、食料は先生のほうで保管する。お菓子や何かは、個人個人の手元に届かないんですけれど、そういうものを送ってきてくれていましたね。

Q:ワカモトを最初に食べようと言ったのは、誰かが言ったんですかね。

誰かが言ったんでしょうね。たぶん、5年生か6年生か。「食べてみよう」ということになったんじゃないですか。おいしかったですよね。でも、あれを食べてお腹がどんどん空くんだっていうことは全く考えてなくて、ただ口に入るから。おいしい、味がありますしね。

Q:どういう味なんですか?

ちょっと苦いんだけれども、カリカリしていて、クッキーの小さな破片みたいな感じ。ビスケットまで柔らかくないんですが、ちょっと固いんですね。なかなかの味でした。

2階が女子の部屋で2部屋、下が男子の部屋なのね。男子の部屋でお食事もするから、お布団が積んであるんですけれど、2階のお部屋で火鉢1個。ものすごい寒い。ガラス戸だけでしたからね。雨戸がなかったように思うんですよね。

Q:火鉢1個だったら寒いから、みんなでくっつき合ったりとかは?

だから囲んでる。衣服も、セーターとかそういうものは持って、都会の子どもだからみすぼらしくはなかったですよね。でも、はんてんを着るなんていう発想はなかったんじゃないかな。わたしは持ってませんでしたし、みんなも、なかったと思うな。はんてんは。あれって温かいわけですよね。

Q:そうですね。

持ってらした方もあるかな。カイマキは覚えてます。お布団の間に、袖の付いた掛布を持っていったのは覚えてる。

Q:それだけ寒かったら、しもやけとかにはなりませんでしたか。

できましたね、しもやけ、ヒビ。メンソレータムを塗ったり。ハンドクリームなんて洒落たものはないから、そうでしたね。あとはあれですね。洗濯も、初めのうちは寮母さんたちと一緒に。それが、だんだん自分で洗うことになりますでしょう。ある時、先生がみんなを呼んで、お2階に干してある下着を指さして、「これがシラミというものです」っていうことで、大発見ですよね。シラミって知らないわけだから。「これがいっぱいになると大変だから、一生懸命お洗濯をなさい」とか、「これを潰して片付けなさい」というようなご指示があって。これがシラミというものだって指された指を、わたし、今でも先生の指を思い出すんですよね。ちっちゃなシラミでしたけどね。それが、少し厚手のものを着るようになって、11月ぐらいには繁殖してたんじゃないでしょうかね。
9月の半ばに行って、どんどんどんどん不潔になっていったんじゃないかな。お洗濯も、今までねえやさんがやってくれたものを着ていただけでしょう。だけど、自分で洗うとなればそんなに丁寧に洗えないし、川へ流れて行っちゃう。川でやるから。ちいちゃな小川で、このぐらいの川ですよね。流れると、走って3軒先ぐらいのお屋敷のおうちに飛び込んで、「すいません取らせてください」と言って、向こうから流れてくるのを待ち構えてね。川の流れが緩やかだったから、

Q:当時お風呂は?

初めは五右衛門風呂で、カネマンさんのお風呂にみんな交代で入ってたんですが、人数が多いから、それと、薪もなくなってきたのかもしれませんね。で、近くのお風呂屋さんに行くんですが、お風呂屋さんに行くというのはわたしにとっては初めてのことで、ずっと東京でも家の中は水洗でしたし、ガスがあったわけですからね。それが、疎開してしばらくしてお風呂屋さん。楽しいんですけれどね、とにかく冬に向かっていってましたからね。日に日に寒さが。さっき申し上げたように空っ風がすごい。蔵王の吹き下ろしで。で、日本手ぬぐいなんですね、タオルじゃくて。日本手ぬぐいで体を拭いて帰ってくると、手ぬぐいを長く垂らして持ってくると、これがバリッバリに凍るんですよ。帰ってくる間に。それほど寒かったのを覚えてますね。もうバリバリ。

Q:お風呂は毎日入れたわけではない。

毎日は行ってなかったと思いますね。1週間に2日とか3日とか。毎日お風呂屋さんに通ったという記憶はないですね。

12月の最後。我が家が焼けたのは12月29日なんですけれど、それまで頻繁に父からは筆で、墨絵のように、家族がこういうふうにして暮らしてるとかって、スケッチの入ったハガキがいつも届いてた。それが、そこから止まるんですね。焼けた日は全くわたしも存じませんで、翌年になってから先生に呼ばれて、呼ばれたのは、わたし、第1号なわけです。カネマン旅館の寮生の中で、トップにうちが焼けた。

Q:それはいつ頃ですか?

(昭和)19年の12月29日の明け方に、4発の焼夷(い)弾を受けて焼けてしまったと。それを、お正月になってから、先生から聞きました。ですから、お電話は翌日に入ったかもしれませんね。30日か31日。ただ、新年を迎えるときだったから、先生はその時、お話くださらなかったと。ただ、着物が届かないから変だな。チッキで前の晩出せば、翌日には、お正月には着れるはずなのにと思って、どうして届かないんだろう。いわゆる、わたしは急いで学童疎開に行ったもんですから、お正月までのことは準備してなかったのね。だから、送ってくださいということは手紙に書いて、お正月まで届かなかったのはどうしてだろうと思った。それが疑問の始まりなんですね。
それからお正月になって、1人だけわたしが先生の部屋に呼ばれて、教員室みたいになってる畳の部屋ですけど、四畳半かな。そこで先生が寝泊まりなさる、また、執務室だった。そこに呼ばれるということは、何か大きい事がなければお呼びにならないんですね。

なんで、わたしが、今日、呼ばれるんだろうと思って入っていったら、もちろん正座でお座りして、それが3月の、先走っちゃいけないかもしれませんけど、3月の10日を過ぎると「いいわね、静枝ちゃんちは。みんなが助かってて」っていう。これが矢のように刺さってくるの、その言葉が。それはとってもつらかったですね。自分1人のうちが焼けてるほうがどんなに良かったかって、そのとき思ったから。どうしようもない、声の掛けようがない、みんな。だって全員のうちが焼けてるし、それから、1人、2人、お母様が飛び込んでいらっしゃるという光景があるわけですけれど、そうすると、全情報を把握していらっしゃらないけれども、「全滅のようだ」とかいうことが出てくるわけだからね。6年生も、吉田先生がお話なさったと思いますが、10人帰って半数がいらっしゃらなくなってるはずですよね。わずか3日前に、「さよなら」したお兄さん、お姉さんが亡くなっちゃうんだから、すごいつらかったですね。写真、記念撮影をして、精華小学校で、9月に行って出発前に記念撮影したそのところにわたしは鉛筆で印を付けて、亡くなった方を丸印で、ずっとお祈りしてましたね。

ただ、何となく流れてくるっていうのかな。ラジオで聞いたのか、東京で大きな空襲があったみたい。その、空襲もわからないのね。わたしたちは未知の世界なんです。「空襲があったみたい」っていうぐらいのところから、ひそひそひそひそ話が、大声ではしない。というのは、敵に背中を見せたくないわけだから、泣いたりわめいたりはしたくないのよ。そういう話でも。だから、ひそひそ小声ながら伝わってきたという感じですよね。大声で「東京に空襲がありました」という、それは、最後に先生が発表なさったと思うけれど、初めのうちは、何となく小耳に挟んでくる。ほかの寮もあるからね。ほかの寮との、クラスの仲間はほかの寮の人たちも入っているから、自然とそれが伝わってくるということはあったと思いますけれど、大空襲だったという認識はなかったですよね。

Q:最初は噂でしか伝わってこなかった東京大空襲の実情なんですけど、それが何となくわかったというのはいつごろなんですか。

3月の9日、10日でしょう。ですから、1週間もしないうちにわかったはずです。「この間6年生のお兄ちゃま、お姉ちゃまを送ったばっかりなのに」って、泣いた覚えがあるから。それは泣きましたよ。そして、まだ生存か死かっていうのはわからない。でも、大変な空襲があったんだっていうことが伝わってきているから、それは泣きましたね。泣いてましたね、みんなで抱き合って。そうすると今度、それこそ手のひらが返ったように、一緒に泣いてるわたしでも、うそ泣きになっちゃうのよ。変な言い方、昔、わたしたちが子どものころ、「ほんと泣き」と「うそ泣き」があって、「静枝ちゃんちはいいわよ。みんな生きてるってことわかってるんだから」という、その視線の痛さったらなかった。
あれは決して彼女たちだって、したくてやったんじゃなくて、悔しさと悲しさと、どうなっちゃってるかわからないという葛藤があるんですよね。みんな悪いほうへ考えていくじゃない? そういうときって。そうすると、静枝ちゃんちだけなのよ。いいのは。「あなたはいいわよ」って言われると。お友達のお母様やらおばあちゃまやらと、遊びに行けばお世話になっていたわけですからね。お互いに行ったり来たりしていたご家族が、あのおうちも、このおうちもとなったら、悲しくて堪らないですよ。だから泣くんだけれども、究極は「静枝ちゃんちはみんな助かってるからいいじゃない」っていう、言葉にはならない視線が本当につらかった。いても立ってもいられない感じでしたね。だから、立場、立場。「かわいそうな静枝ちゃん」が、あの日を境に「憎たらしい静枝ちゃん」になっちゃったということかな。

そのあと、(空襲のあと)1か月後ぐらいに親が迎えに来て、「絶対帰りません。みんなと一緒にいます」って、それこそ「学童疎開に行かせてください」の、あの騒ぎどころじゃないですよ。「生死に関わっているから嫌だ。絶対帰らない。みんなと一緒に引き揚げたい」って申しましたら、当時、須田先生って、今の吉田先生が、「静枝ちゃん、必ず会えるから、今のところ帰ってちょうだい」って、先生から頼まれて帰って来たんですよ。大人になって考えれば、先生だって1人ずつ、はっきり言って片付けたかった。二十歳そこそこの人が、こんな大きな問題に行き当たっちゃったというのは、すごいことだと思うんですね。先生はそのお気持ちを、いろんなことで表現なさっていらっしゃるけれど、「とにかく、お願いだから帰ってちょうだい」と言われたのが引き金ですね。わたしが帰った。父の言葉だったら絶対帰らない。父がどんなに「戻る、一緒に行こう。戻ろう」と言っても、「戻らない」。当然ですよ。で、引きずられるように帰りました。

わたしが白石の町を去るときに、当然のことながら、みんなのいないときに、わたしは出てきてるんですね。じゃないと、去ることができないじゃないですか。父もそれはわかっていたと思います。そっと出てきたわけです。みんなが登校したあと、出てきたっていう記憶があるんですけれど、振り返り振り返りでね。
ハッチ(友達のあだ名)の手袋はもちろん両手あって、その両手の一つをわたしが付けて、もう一つを彼女が付けて二人で歩くんですが、お互いのポケットに手を、こっちにハッチの手袋があると、向こう側のハッチのポケットにわたしが手を突っ込み、あっちはこっち側に自分の手袋をして、わたしのポケットに手を突っ込む。それで学校に通ってたんですね。その片手をわたしは持って帰ってきちゃった。それは駅に着くまでにわかったの、実は。わかったから返しに行こうか迷ったけど、今思えば、盗んだのね。ハッチと離れたくない気持ちがあって、その手袋を「返さない」って自分で決めたんですね。ささやかなことかもしれないけれど、わたしにとっては大問題で、駅までカネマン寮からあるじゃないですか。父の後ろをトボトボとついていたわたしが、ポケットにあるハッチの手袋をしっかり握り締めて、持って帰ってきちゃった。
ずっと彼女と一緒にいるっていう気分で、その手袋を大事に大事にしてたんですけれど、本当に人間って情けない。何十年か後に返すことができない。どこへ行っちゃったかわからない。転々と家を引っ越している間に行方不明になって、感触だけが残っている。あとは行方不明。現実には、その手袋はないんです。だから謝りましたけど、彼女はほとんど覚えてなかった。ほとんどっていうか、「そんなことがあったの?」と言ってました。だけど、さぞかし冷たかろうと思うのよね。わたしのポケットもなくなって、片手の手袋ちゃんもなくなって、あの人はどんなに寒かったろう、どんなにつらかったろうと思ってね。出会って抱き締めたときに、それだけ、すごく思いましたね。こういう話をしていると、10歳のわたしになっちゃうのね。おべそちゃんになってごめんなさい。恥ずかしいです。

ですから、あの人のことは忘れられない。可愛い子だったんですよ、ちっちゃくてね。わたしも今になればとってもちっちゃいけど、あれから全然背が伸びてないんですが、本当にハッチは可愛い人でしたね。だから、あの人を置いて学童疎開を去ったということは、わたしにとっての最後まで傷になってるというか。あの人のことを思うと涙が出てきちゃって。それも70何歳になってる人なのにね。

Q:小学校5年生で終戦を迎えるわけですけど、終戦というのは郡山のとき?

そうです。郡山の夏休み。うちにはラジオが、そのときなかった。焼けたあと、買ってなかったんですね。買うどころじゃなかったんでしょう、きっと。それで、お隣の母屋のおじ様が、まだあのころは20代だから、お兄様がいて、その人のところに行った。兄弟みんなで行って、ピーピー、有名なあの録音を聞いて、そのときに「静枝ちゃん、日本は戦争に負けたよ」って言ってくれたんですね。「終わったよ」とも言ったんです。その二つを聞いて、途端に、わたしは蔵前のうちが頭の中にあるから、帰れると思ったんです。だけど父は、「玉音放送があるから12時までには帰ってきてね」ってみんなが言って、わたしはそのときまでは軍国少女ですから、「帰ってきてね」と言ったのに関わらず、畑を耕していて帰ってこなかったんです。録音放送が終わってから、クワを担いでね。あの人も生まれて初めての格好ですよね、手ぬぐいを巻いて帰ってきた。8月15日ですから暑い日。そして、「お父様、戦争が終わった」ってわたしは叫んだ。「負けた」って言いました。そしたら父が「うん」ってうなずいて、「それはわかってる」っていう顔でうなずきましたね。というのは、自分が焼かれた。大人ですからね、いろんなことで戦争がどんどん悪い方向に行ってるというのは、わかっていたと思います。

今でもあるわけで、悔しいですね。何とかならなかったのかしら、あのときって、いつも思うんですけどね。でも、10歳のわたしにとっては精一杯だったのかもしれない。

戦後の60何年、戦いですね。ものすごく激しく。もともと激しかったと言われますけれども、もっと激しさを増した感じがする。自分で。まして、
戦争の話とかそうなってくると、許せない。かたくななまでに言い募りますもんね。書いたり、言葉だったり。さまざまな意味で、冷静さ、理性がいかに大事かって。戦争をやってる、政治家なんて本当にそう思う。わたしは小学校が終わって中学校が終わったときに、敗戦が小学校5年生ですから、そのあと政治家になろうと思ってましたからね。女性が39人も議会に入る、議員になることができたときに、思いは政治家。戦争のない国を作る政治家。どこで変わっていったかというと文学を知ったからで、文学を学び、学びというか、文学の世界に、そしてウーマンリブに移っていくというか。一緒くたですよ、それも全部ね。だけど、原点ですね。戦争体験ですね。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1935年
東京都にて生まれる。
 
精華小学校に入学。
1944年
国民学校4年、学童疎開で宮城・白石に。
1945年
父に連れられ、再疎開先の郡山に。
 
戦後は、戦後の混乱で千葉などを転々としたあと、生活を再建し東京で暮らし始める。

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