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タイトルタイトル: 「学童疎開のいじめ」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
名前名前: 嘉藤 長二郎さん(精華国民学校 戦地戦地: 日本(宮城・白石) 日本(東京・浅草)  収録年月日収録年月日: 2010年2月11日

チャプター

[1]1 チャプター1 学童集団疎開が決まる  02:49
[2]2 チャプター2 初秋の白石  06:59
[3]3 チャプター3 ごはんの「喝(かつ)あげ」  03:39
[4]4 チャプター4 白石の冬  01:34
[5]5 チャプター5 変わってしまった東京  08:03
[6]6 チャプター6 全員で聞いた玉音放送  02:26
[7]7 チャプター7 焼け野原の東京に帰る  05:46
[8]8 チャプター8 「学童疎開」を伝えていく  05:13
[9]9 チャプター9 集団学童疎開文集「不忘山」をまとめる  04:18

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] 試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~
収録年月日収録年月日: 2010年2月11日

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「それだけ戦況が切羽詰まっているのか」ということと、「寂しいな」という気持ちがありましたね。ただ反面、「戦争に勝つために、子どもとして一生懸命やらなきゃいけないんじゃないか」、そういう思いはしましたよね。ただ、母のほうは、「これが今生の別れになるのか」という、そんなことをちょっと漏らしてはいましたね。だから、親は親なりに、大変な戦局に来てたっていうことは感じていたんじゃないかと思いますけどね。

あれは5年の2学期ですよね。おそらく級長をやってたと思うんですよ。そうすると、「まとめ役でしょう。だから、自分で寂しいとか何とかいうんじゃなくて、これから先生の言うこと、学校の方針、政府の方針に協力しなきゃいけないんじゃないか」、そういう思いがあったんじゃないかなと、今、思うと思いますね。

Q:疎開先が宮城県白石と聞いたときは、どう思いましたか。

全く未知の世界ですね。地名も知らなかったし、もちろん行かなかったし。だいたい、集団疎開に行かなきゃいけないのは、親やなんかが田舎を出て、逆に言うと、田舎がない子どもたちが、縁故疎開ができない子どもたちが集団疎開に行くわけですから、全然知らない土地っていうイメージだったですね。

そんなに悲そうな気持ちはなかったと思いますよね。当時は汽車ですから、汽車に乗れるというのは遠足気分っていうんですかね。そういう感じだったと思いますけどね。

Q:白石駅に着いたときはどうでしたか?

結局、朝ですよね。上野夜行発で、当時白石まで8時間ぐらいかかったんじゃないですかね。だから、朝着いて。わたしはあんまり記憶がないんですけど、地元の人たちが歓迎で、迎えてくれたっていうんですよね。着いたときは大勢見守ってますから、そんなに寂しいとか、そういう気持ちはなかったと思いますね。

行ったのは、秋だったわけです。9月だから、秋になるところだったですね。だから当然、柿の実が赤くなるとかね。当時、そんなに空気は悪くなかったんですけど、東京の空気と白石町の空気では、全然、空気の澄み方が違いますよね。それから、だんだん秋になって、今言った柿の赤さとか、紅葉とか、冬になると、白石は太平洋側ですから、あんまり、雪は積もらないんですね。せいぜい積もっても、多くて10センチか20センチぐらいじゃないですかね。そうすると、さっき言った城山公園の神明社っていう神社があるんですけど、その参道の脇がスロープになってるわけです。そこへ雪が積もるわけですね。そこで腰かけの上に乗ってソリをやって、ソリ滑りをするとか。夏は、白石川にヤツメウナギがいたんですよね。だから、ヤツメウナギを捕ったり、水泳したり。それで、結構、遠足もやってくれたんですよ。あの辺だったら、小原温泉とか、鎌先温泉とか、そういうところへ遠足に行ったりなんかして、そういう意味では、自然の中で生活していたと思いますね。

わたし自身は、そんなに寂しいという思いはなかったです。というのは、先ほど言ったように、学寮をまとめなきゃいけない。6年生にボス的な存在はいましたけど、一応5年でサブリーダー的なあれですから、そんなに寂しいという思いはなかったですね。ただ、あとで聞くと、何日か経つと女の子は寂しさが増して、しかも、鈴木屋旅館は白石の駅前でしたから、汽車のポーッという音を聞くと寂しくなったということは、あとで知りましたですけどね。

Q:学寮生活が始まりまして、一方では白石の学校を借りて授業が始まるわけですけど、授業はどうでしたか?

授業そのものは、地元の子どもと一緒にやったわけじゃなくて、精華は精華で、わたしは蔵前というか、精華校で教わった先生が、担任が白石先生だったんです。白石先生が授業をしてくれましたから、東京と白石の授業は変わらなかったですね。

Q:戦意高揚のために授業の中で軍歌などを歌ったりはしましたか?

軍歌はよく歌いましたね。軍歌は、学寮と当時国民学校、国民学校から学寮へ戻る行き帰りに軍歌を歌って、行進というほどではないですけど、かなり足を強く踏ん張って歩いていたような気がしますね。

Q:どういった軍歌を歌ってたんですか?

ずいぶ、いろんな歌を歌いましたよね。「予科練の歌(若鷲の歌)」とか、「加藤隼戦闘隊長」とか。一番印象に残っているのは、「ああ神風特別攻撃隊」ですか。これは戦争が終わる最後のほうですけど、「ああ神風特別攻撃隊」はよく歌いました。今でも歌えますからね。

Q:当時、男の子たちの夢は何だったんですか。

一番の希望は予科練ですか。それから、少年兵。これは海軍と陸軍があるわけですけど、わたしなんかも「予科練に行きたいな」という希望は強くありましたよね。

Q:そのように学校生活を過ごして、寮に帰ってくるわけですが、寮での食事はどういうものでしたか。

簡単に言えば一汁一菜ですよね。白いご飯が出るときはあるけど、中には豆かすが入ったご飯とか、味噌汁。おかずはあまり、魚とか肉は出なかったと思いますね。おそらく野菜の煮付けだったと思いますね。ただ、お正月とかそういう時は、少し品数を増やしてくれたと思いますけど、食事は、学寮には申し訳なかったけど、これは一般的な問題でしょうからね。当時の。今から思えばお粗末だったと思いますね。だから、お腹が空いて困ったということですよね。

「いただきます」「ごちそうさま」はみんな一緒ですから、途中で、食べ終わったから席を外すわけにはいきませんのでね。だから、早く食べちゃう子は手持ちぶさたで、待たざるを得なかったと思います。ただ、「よく噛(か)め」と言われましたのでね、食事時間を。栄養の関係もあったんですね。ちょっと忘れましたけど、「20回噛め」とか「30回噛め」とか、そういう教わり方をしましたよね、先生から。

Q:嘉藤さんご自身はお腹を空かしていたとおっしゃっていましたが、お腹を一杯にするために、何か工夫はしていましたか。

わたしはあんまりやってなかった。中には、歯みがきを食べたとか、女の子は、お手玉を自分の家から送ってもらって、そこに大豆を煎ったとか、そういうのを送ってもらって、間食として食べたということは、これもあとから知ったんですよ。疎開時は、そんなことは知らなかったですね。お腹が空くから特別に考えて「あれしたってこと」は、なかったと思いますね。我慢、我慢ですよね。

テーブルの下に、6年生がどんぶりか何かを流すわけですよ。そうすると、自分のご飯は、お茶わんじゃなくて、どんぶりに入っている。そこに少し入れてね。そういう、ご飯のかつあげっていうんですかね、召し上げは、各学寮で、6年生はやっていたと思いますよ。戦後、学寮長の先生に聞いたら、「そんなこと知らなかった」と言って。先生は知らなかったんだけど、女の6年生はそれをやったかどうかわかりませんけど、男の6年生は各学寮でやってみたいですね。

Q:出さなかったら、何をされるんですか。

出さなかったら、食事が終わった時ですね、リンチですよね。なんで出さなかったと。まぁ、場合によればぶん殴られたりしたんじゃないですか。

Q:それは、6年生の人がやるのか。

それは、実際にやったのは一人ですね。ボスっていうことですね。他の6年生はやらなかったというか、できなかったですよ。

Q:そのくらい、当時ボスというのは、権力を持っていたのか。

ああ、ありますね。はい。

Q:他にどういうことをしてましたか。

まあ、あの、面倒をみる、一つのチームをまとめるという思いですよね。だから、ボスがいれば逆にボス以外からいじめられることはないわけですよ。ボスが全部管理しているわけですからね。だから、そいう良い面もあるわけですね、ボスが全部管理して。食事は一部とりあげられますけどね。まあ、そういう意味ではまとまっていたと思いますよ。てんで、バラバラってことじゃないですよ。ボスを中心に集団生活をしていた。

全くの軍隊でしたね。小軍隊っていってましたからね。軍隊組織がそのまま学童疎開の学寮に入った感じですね。

Q:嘉藤さん自身も、お手紙を両親に書いていたと思いますが、どういう内容のことを書いていたんですか。

「元気で一生懸命やってますっ」てことですね。寒い暑いぐらいは、書いても先生から文句は言われなかったと思いますが、だいたいそんなことですね。身近にあったことを少し書き添えするか。元気で頑張っている。そういう健康状態が中心だったと思いますね。

Q:子ども心に、「元気で頑張っている」というのはある意味定型文なわけじゃないですか、当時の。それを書かないとだめだなとか、思っていましたか。

それは、そう思いますね。「親に心配を掛けたくない」という子ども心もあったと思いますし、「戦争に勝つためには、子どもは子どもとしての我慢もしなきゃいけないんじゃないか」。そういう思いはあったと思いますね。

「蔵王おろし」という強い北風が吹くんですよね。部屋にいるときは6畳間に火鉢1つですけど、大勢いますから、1人1畳ぐらいのスペースしかないわけなので、部屋にいるときは、そんなに寒いって感じませんでしたけど、表に出ると、今言った、毎日じゃないですけど「蔵王おろし」が吹くので、これは寒かったですね。カネマン学寮でも五右衛門風呂はあったんですけど、学童だけでも32名いますから、そんなに入れないので、結局は銭湯へ行くようになったんですよ。そうすると、銭湯に行った帰り、タオルを、当時は手ぬぐいですけど、手ぬぐいを持って振ってくるとパチンパチンに凍っちゃう。白石の寒さは、東京では想像できないぐらいの寒さでした。

Q:しもやけなどにはなったりしたんですか。

嘉藤 しもやけは、ほとんど全員なりました。手足ですね。

Q:そういうときの治療はどうしたんですか?

嘉藤 メンソレータムを塗っただけだったと思います。

Q:当時、東京は危険だったという知らせは白石に届いていたんですか。

届いてないですね。届いてないです。6年生が上野駅に着いて、東京は昭和20年3月10日以前にもかなり空襲を受けていましたから、「こんなにひどいのか」といって、6年生がびっくりしたという、東京へ帰ったあと手紙をくれてますよね。「東京は前の東京と違うんだよ」と、6年生からそういう知らせが来てましたね。

Q:そのお手紙の内容を、もう少しお聞きしてもよろしいですか。

オオタニカズヒロさんという6年生が、これはカネマン学寮のボスで、わたしは5年生で一番可愛がってくれたんですよね。ただ、あとから思うと、大谷さんはわたしを5年生のサブボスにして、「5年生をまとめろ」という、そういう思いがあった。将来、鉄工所の経営者になりますけど、そのころから、そういう考えを持ってたんですね。そのオオタニさんがわたしのところへ、帰ってから1日か2日で訪ねてくれたんですね。母は再婚してましたので、義理の弟が昭和20年の1月22日に生まれて、「そのおじさんが弟を抱いてたよ」ということですね。

東京は前の東京と違うし、6年生の同級生か何かと話すと、「東京よりも白石のほうが良かった、白石のほうがいい」と。「だから、そのうち行くよ」と。そういう内容の手紙だったですね。

Q:「東京は、今、すごいことになっている」という手紙が来たときに、どう思われましたか。

何となく、空襲は前にもありましたからということはわかってましたから、そうだなという思いはしましたですね。

Q:白石では、東京大空襲に関する知らせは何かありましたか。

いつ聞いたかわからないけど、東京の下町で大空襲があったと。たくさんの家が焼かれて、たくさんの人が亡くなった。そういうことは数日、2、3日うちに、学寮長から言われたと思うんですよね。だけど、具体的にいつどういうふうに教わったか、そういうことは覚えてないです。

Q:東京が焼けたと知ったときに、どう思いましたか。

自分の家は焼かれたか、焼かれなかったか。それから、親兄弟は無事なのか否か。それは思いましたね。当然、生きていれば親の方から連絡がくるわけですから。わたしのところは、いつ来たのか、ちょっと覚えてないんですけどね。わたしのところは、父母と幼い妹たちが逃げたわけですけど、一緒に逃げたおばが、同居していたおばが途中ではぐれて、おばだけ亡くなってるんですね、戦災で。あとはお陰様で、隅田川へ逃げなくて、前にアメリカ軍の爆弾を落とされて、敷地が窪地になってるんです。そこへ雨水が溜まったところへ逃げ込んで、上から毛布か何か被って、それで助かったんですね。隅田川は近いんですよ、直線距離で200メートルぐらいしかないんですかね、わたしのところは。それが良かったと思うんですね。多くの人は隅田川へ逃げて、それでだめになっちゃったと思いますね。

Q:蔵前は空襲の被害が多くて、カネマン寮はご両親が亡くなった、戦災孤児になった子たちも多かったんですが、親が死んだという知らせを受けた子どもたちの様子はどうでしたか。

やっぱり、しょぼんとしてましたね、それは。

Q:お互い、家が焼けたですとか、そういう話はしましたか?

家が焼けたとか、両親が亡くなったとか、兄弟が亡くなった。そういうのは、周囲では話はしなかったですね。

Q:それはどうしてですか?

相手の気持ちになって、そういうことを話題にはできなかったと思います。

Q:カネマン寮自体何名くらいの6年生が亡くなったんですか?

10名のうち5名ですね。男子1名、女子4名。

Q:それを知らされた時は、どう思いましたか?

やっぱり、もう少し白石に残っていれば良かったかなと思いますね。4月入学なんでね。3月…、これは結果論ですけど、下旬に帰っても間に合うわけですね。それが3月の上旬に。3月10日っていうのは陸軍記念日なんですよね。だから、アメリカの方は前から陸軍記念日には、東京に大きな空襲をやるという何か予告をしたっていうんですね。だから、ちょっとその辺の軍部なり国の責任者が配慮してくれればよかったのに、と思いましたね。

Q:疎開生活は3月10日を機にどのように変わっていきましたか。

目に見えてどうってことはなかったですよね。ただ、現実の問題として、お米の配給の量が減るんですよね、あとから資料で調べると。当然その分、食事は少なくなりますしね。それから、昭和20年の4月から第二次学童疎開が始まるんですよ。前は3年以上だったんですけど、第二次になると学年を問わず、1年からでもいいよという形。わたしの妹なんかも、3月10日に焼け出されて家を転々とするんですけど、親の方で、次女になりますけど、白石へ預かってもらったほうがいいんじゃないか。5月頃ですかね。下の妹も学童集団疎開に参加するんですけど、戦後、その妹に聞くと、白石に疎開したなんて全然忘れちゃったと。それくらい、焼け出されてから、あちこち、転々としましたから、数か月の生活っていうのは覚えてないんじゃないですかね。

Q:玉音放送はどこで聞かれましたか。

学寮の中庭ですね。正午に天皇陛下の重大放送があるから各学寮へ戻れという形で、12時に間に合うように帰ってきたわけです。それで、中庭にラジオを置いて、全員で聞いたっていうんですかね。

Q:その放送を聞いたときは、どう思われましたか。

天皇陛下の独特の話し方で、よく中身はわからなかったんですよ。わたし自身は、「もっと戦争に勝つために頑張れ」と、そういうふうじゃないかなと思ったんですね。ただ、天皇陛下の話が終わってから、当時、シミズユリコさんが二代目のカネマンの学寮長でしたけど、男子のリーダーのわたしと女子のリーダーの三輪和代さんが2階の寮長室に呼ばれて、先生から「戦争に負けた。日本はこれから大変なことになるけど、頑張りましょうね」と言われて、初めて、「負けたんだ」と、そういう認識をしました。

Q:負けたと知ったときはどう思われましたか。

「こんちくしょうというか、悔しい」思いはありましたね。だけど、「これで東京へ帰れる」という思いも同時にしましたし。白石でも、夜になると灯火管制をしてたんですよね。灯火管制がなくなると。一番大きいのは、「これで東京へ帰れる」そういう思いだったです。

Q:やはりご両親には会いたかったですか?

そうですね。両親に会いたいし、東京の生活は、生まれたときから染みついていますから、やっぱり東京のほうがいいと。そういう思いはありましたね。

両親は最後まで迎えに来なかったんですよ。だから、わたしは11月5日ですね。東京へ帰ったのは。うちが焼かれたことも知ってましたし、手紙か何かで、荒川区の三河島へ、これは母の実家があるほうなんですけどね。そこへ引っ越したってことは聞きましたけど、長屋で狭いところだから、そうすぐは迎えに来なかったと思うし、わたしのほうからも「迎えに来てくれ」という手紙は出しませんでしたから、最後まで残ったということですね。カネマン学寮は、わたしのところは30人いるわけですから、あと数名ですよね。だから、10人いたかいなかったじゃないですか、最後は。

Q:引き揚げ先の東京を見てどう思われましたか。

びっくりしたですね。上野駅で降りたら、ずっと焼け野原なんですよね。精華校だけは宿直の先生や避難してきた近所の人たちが、火は入ったんですけど、消し止めたんですね。だから、学校は残ってるわけです。それはホッとしましたね、学校が残ってるってことは。

Q:焼け野原で、当時何もなかったですか。

なかったですね。鉄筋の建物で残っていたのもあるんでしょうけど、鉄筋の建物で中に火が入って燃えちゃったところがありますから、がれきの山っていうのが。それが実感です。

Q:東京に戻られたあとの生活はどのようなものでしたか。

荒川区の三河島に親が住んでますから、そこへ行ったわけですね。もう6年の2学期ですかね。わたしは精華へ通学したかったんです。ところが、箕輪から都庁前へ都電が、31番という都電があったんですけど、それが不通で、とても精華まで来れない。それで、地元の第二峡田国民学校へ転校するわけです。学校はうちのすぐそばにありましたから、そこで21年の3月まで、学校を中心とした生活ですけどね。

Q:学校を卒業してからはどうされましたか。中学校ですか?

中学は、旧制中学の1年の1学期までは行ったんですよ。ところが、2番目の父親は神道教師、神主なんですね。わたしは「敗戦」って言葉を使うんですけど、敗戦後、神社仏閣関係の仕事はガタンと落ちました。特に日本は神国という形ですから、神社に対する弾圧っていうんですかね。仕事がなくなっちゃったわけです。ですから、1年の1学期行って、旧制中学は、親は「辞めなくていい」と言ったんですけど、わたしのほうで「家計はわかってましたから、辞める」と。それで、父親の知り合いが、目黒で御嶽教、御嶽山の宗教をやってて、宗教だけじゃなくて易をやってたんです。そこで書生を募集してるからといって、書生に預けられたわけですね。それで、学校のほうも。
翌年、新制中学に切り替わって、夜間中学がなくなったんです。わたしは、学校へ行きたいので書生になったわけですけど、学校がなくなって、雇い主側も、学校へやるという条件で預かったからっていうんで、神田に、今でもあるかどうか知りませんけど、正則英語学校があったんです。だから、目黒から都電に乗って、夜、正則英語学校へ通ったんですよね。そしたら、

たまたま、わたしが書生した家の近所の電信柱に、「都立大崎高校定時制募集」という貼り紙を見たんですね。中学は出てないんですけど、恐る恐る願書を出しに行ったんです。そしたら、受けていいよと言われて、いいあんばいに、小学校時代の学力が残ってましたから、英語、算数。英語は英語学校へ行ってるからできるわけです。で、合格させてくれたんですよ。中学3年は行かなかったですけど、そのまま都立の定時制に潜り込んで、大学まで繋がっていくわけです。そういう意味では、苦労はしましたけど大学は出ています。

一番大きいのは、昭和20年3月の東京大空襲に遭ってないってことですね。だから命が繋がった。それと、評価は分かれるんですけど、集団生活したってことですね。1年3か月にわたって。それと、さっき話に出ていましたが、白石の自然を知ったということですか。それから、白石の人たちの人情、東北の人情に触れたということですよね。これが、大きな意味ではプラスの面かなと思います。マイナスの面は、ひもじい思いをした、寂しい思いをした、寒い思いをした。これがマイナスかなって思いますけどね。だけど、具体的にどういうふうあれするとか何とかって言われても、一生懸命やったっていうことぐらいしかないんですよね、当時はね。一生懸命やったんだってことですね。
だけど、その経験が最後に繋がっていくのかわからないですけど、大学の進学のときに何学部を選ぶか考えますよね。一つは、子どもの戦争体験をしたので、民衆が幸せになるための仕事をしたい。それと、子どもに平和をというんですかね。いきなり子どもの平和じゃなくて、国民全体の平和を考えてね。だから、港区役所に就職したときも、翌年には、これは誘われたんですけど、組合の執行委員をやって、経済闘争と平和運動闘争をやるんですよね。それをやったあと10年近く経って、体を壊して組合を辞めるんですよ。職員はそのまま勤めますけど。それで、学童疎開のことを続けて、継承していかなきゃいけないという思いになって、わたしの平和活動は学童疎開の継承に変わっていくわけです。もちろん、現政権や何かの運動も一生懸命やりましたけど、組合の執行委員をやるとそういうのが離れますから、学童疎開の継承。結果的にはそういう思いが30年、初めの文集を出してから、平成19年に全国疎開学寮連絡協議会の役員を辞めてますけど、通算すると33年、学童疎開の継承に繋がっていくわけです。そういう思いをさせたのは、学童集団疎開の体験があったこそ思えたのでね。それがなければ、そういうものはしなかったと思いますね。

わたしも地方公務員の端くれだと。やはり、公務員としてこういうものを記録として残していく必要があるんじゃないかと、そういう思いにかられたんですね。それで、文集を作ろうと。ただ、いきなり文集っていうのはできないわけですね。そこで、数年間は、精華の昭和20年度生の同期会を結成するとかですね。それから、精華の9学寮の同窓会で、9学寮ができれば当然白石へね、お礼訪問ができるとか、そういうのが一段落してからこの文集「不忘山」の原稿起こしに入ったの。

学童疎開の体験をして、平和の大切さっていうのはわかってますよね。それから民衆に太陽をというのは戦後、日本国民全員だと思いますけど、貧しい生活をしましたんでね、やはり政治というのは民衆にあたらなければいけないのでは、そういう思いに駆られるわけなんですよね。そういう思いの延長で、わたしは地方公務員になっていくわけですけど、初めから「民衆に太陽を 子どもに平和を」と思っていたわけではないんですけど、色々戦後生活をしていく中で、約40歳くらいになったときね、こういうテーマにわたしの生涯というのはこういう事だったのかじゃないのか、とそれで一貫してこういうテーマで追ってるということですね。

Q:その原稿を読んでいるときに、意外な発見などはあったか。

たくさんありました。戦後40年近く学童疎開のことは忘れてましたからね、はっきりいって。それを読みながらいろんなことを思い出した。それはあります。

Q:寄稿して印象的だった記事は?

長門先生の原稿ですか。精華の常林寺学寮というのは、カネマンと隣合わせの町なんですね。常林寺は蔵前3丁目、わたしのところも蔵前3丁目。それがあの都電通りをはさんで隅田川よりと精華学校よりがあって、ですから、常林寺の学寮が一番亡くなった。6年生も亡くなったし、戦災孤児になった人も多いですね。
これを長門先生が文集の中に寄稿していただいた。これが一番印象に残ってます。

Q:どういった点が衝撃的でしたか。

ひとつは、疎開中、一家全滅というのが、具体的にどういうものかわからなかった。それが、この長門先生の文集に寄稿していただいて、具体的にだれだれさんのところは一家全滅なんだ。とだれだれさんのところはお父さん以外は亡くなったんだと。そういうことを知ってびっくりしたわけですね。衝撃的だったわけですね。

学童疎開は全員の共通体験だから、文集を見なくてもだいたい話題はたくさんあるわけだから、文集が果たした役割というのは、みんなの共通の事象を文集として残しておくだけ。

Q:原稿を集めるのは大変だった?

大変だった。これは嘉藤は学童疎開の原稿集めてるんだけど、あいつは反戦の活動家ではないかと。これは現実にわたしの職場にも問い合わせが来たくらいだし、学童疎開のことは忘れたいのに、なんでいまさら思い出して書かなければいけないのか、だからそのつらさの中には、親と死別した悲しみ、いじめられた悲しみいやさですかね。そういうのを思い出さなければ書けないわけですよね。

やはり、子どもたちに、わたしたちが味わった、「子どもの戦争」
と呼ばれている学童疎開を味わわせたくない。味わせたくないには、実態はこうだったと知ってくれないとわかんないわけですよ。子どももそうだし、戦後の若いお父さん、今のもう40代、あるいは50代くらいまであまり戦争を知らないわけですからね。日本が起こした戦争。太平洋戦争っていうのはね。

出来事の背景出来事の背景

【試練に耐えた「少軍隊」 ~宮城・学童集団疎開の記録~】

出来事の背景 写真昭和19年(1944年)、日本本土に戦火が及ぶことが予想されるようになり、小学校(当時国民学校)の児童を大都市から疎開させることが決定され、東京からは8月に第一陣が出発した。

東京浅草の精華国民学校でも、縁故疎開(地方の親せき宅などへの疎開)先のない、児童が集団で宮城県白石へ向かった。
当初は、遠足か修学旅行のような気分だった子どもたちも、初めて親元を離れ、知る人のないところでの集団生活、冷たい東北の冬の中で、つらい体験を重ねた。

白石に疎開した国民学校生のうち、6年生は昭和20年3月になると中学や女学校への進学準備のため、帰京した。東京に着いたのが3月8日だったが、その翌日の夜、浅草を含む東京の下町地域はB29の大編隊による空襲を受ける。いわゆる東京大空襲である。そのため、帰郷したばかりの6年生の子どもたちまで犠牲になった。
また、疎開中の子どもたちも、東京にいた家族を亡くしていた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1933年
東京都にて生まれる。
 
精華小学校に入学。
1944年
国民学校5年、学童疎開で宮城・白石に。
 
東京に戻り、中学に通うが家庭の事情1年で退学。その後、書生になる。

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