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タイトルタイトル: 「落盤事故」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~
名前名前: 布施 光男さん(筑豊炭田・元炭鉱労働者 戦地戦地: 日本(福岡・筑豊)  収録年月日収録年月日: 2010年5月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 炭鉱で働くということ  06:33
[2]2 チャプター2 福岡へ  06:12
[3]3 チャプター3 落盤事故  03:38
[4]4 チャプター4 玉音放送を聞いて  03:12

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~
収録年月日収録年月日: 2010年5月25日

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Q:何で、布施さんは、太平洋炭礦に入ろうと思ったんですか。

やっぱり、生まれ故郷に仕事がないからです。北海道の道南なんですけどね。今金町というところなんですけれども、やっぱり仕事がないし、例えば卒業、クラスが男子だと45~46人いるわけですよ。そしたら、うちの仕事を継げる人はいいんですけれども、うちで継ぐ仕事のない人は、役場だとか、農協だとか、鉄道とかにクラスから3~4人は入れるんですけど、あとは、うちの仕事を継ぐか、手伝う以外の人は、やっぱり仕事がないので、どこかへ就職に出るということになるんですね。

釧路自体が霧の町の印象はやっぱり強かったですね。炭鉱は、長屋ですか、そういうものも初めて見たし、こういうところなんだと思って。

炭鉱はやっぱり閉鎖的なところだと思われてたから、昔の時代は、あまりいい仕事だとは思われてなかったと思います。炭鉱の社宅のある地域に入るにも、「関門」のようなものもあったんですよね。そこを通過して来ないといけないわけだから、そういうふうに見られていたわけですし、それから、炭鉱そのものには正規の社員と、また、別のタイプの、組とかいう人達もおったわけですし。そして、事故が結構多いもんだから、仮に、わたし、さかのぼって、「炭鉱へ行く」と言ったら、「死にに行くのか」と言った人もいたくらいなんですから。あちこちで爆発あったりなんだりして、大量に何百人と一遍に亡くなったりするケースが、かなり、夕張近辺では、よくあったんですよね、当時も。だから、「炭鉱というのは、あまり、職業的にはいいところだな」という思われ方はしていなかったというふうに言ってもいいんだと思います。

炭鉱へ入って1年間、親せきのうちにやっかいになっていたもんで、そして、仕事そのものが初めてだから、初めは、おれは測量に入ったんだけれども、こういうものかなと思って勤務してましたけれども。

Q:測量の仕事はどうでした。

測量の仕事といっても、いちばん下っ端なもんで、小間使いみたいな感じなんですよ。まだ、物を持つ役だったり、何でも言われてする立場でしたから、それも、2か月で養成所というところへ変わったといういきさつもありますし。

戦時中は生産第一なんですから、口には出さないけど、保安と生産は車の両輪だといっても、やっぱり生産のほうに力が入って、そのうち、保安と生産と同じようなウエイトになって、最終的には保安優先というふうに、太平洋炭礦の場合は、変わっていったわけですよね。それで、極端に言えば、わたし、昭和17年に入った寸前あたりは、年に20人くらいの殉職者が出たわけですよ。

ところが、測量というのは、殉職の事故があったときには、スケッチして見取り図を作る仕事があるわけなんですよね。それで、事故が起きたら、そんなに間を置かずに現場に行ってスケッチするという、まず、仕事があるんですよね。その仕事がいちばん嫌でしたね。やっぱり亡くなった人のことを考えたりなんだりして。わたしは、測量にかかわっていたのは約23年なんですけど、その間に約100人の災害現場のスケッチとか、見取り図作りをやりました。なぜそんなに多いかというと、昭和28年にガス爆発があって、39人一度に亡くなったんですよね。そのときも、スケッチ見取り図作りの責任者の立場だったもので、それが一遍に、23年間に100名という、膨らます原因になったんだと思います。

みんな行くんだから、別に嫌だとも、それから、行くのが嫌で辞めた人もいるんですけどもね。会社を辞めた人もいるんですけれども、そういう気持ちにもなりませんでしたね。

Q:九州と聞いてどう思いました。

「いやあ、遠いところの暑いところへ行くんだな」というふうに思いましたね。

Q:知ってました?九州。

小学校の地理で習った程度のことしかわかりませんでした。

Q:「当時、石炭を掘っても、船がなかなかなくて」というふうに聞いているんですけれども、輸送ができなくてというふうに。それは布施さん、知ってましたか?

「掘っても、運んでいく途中で潜水艦にやられたり、空爆されて目的地まで着かないんだ」というようなことは、聞かされていったような気がしますね。

Q:それを聞いたときはどう思いました。

それほど「攻められているんだな」というふうな感じはしましたね。

Q:攻められているなと。

「潜水艦がそんなに日本のそばまで来ているんだ」とか、「飛行機で爆弾を落とされることもあるんだな」というふうに。「だんだん大変になってきたんだな」とか、「悔しい」とかという気持ちは確かにありましたね。そうしたら、それこそ、「三池に行って石炭出して、いろいろなものをつくって、兵器なんかをつくったりして、負けないように頑張れば、そのための力になるのかな」と思ったりも少しはしましたね。

「九州なら、掘ってすぐそばで使えるんだな」というふうに、使っているんだなというふうには思いましたね。いろいろなことに。九州の炭と釧路の炭とは質が違っていたこともあるし、だから、要するに、九州の炭は製鉄関係に使う石炭なので、そういうもので鉄類をあれして、兵器だとか何とかつくって、戦争勝つために役立つのかなと思ったりもしましたね。

服装だとか、やっぱり温度だとか、水だとか、石炭の種類だとか、それからやり方だとか、そんなようなものの違いは感じましたね。それで、わたし自体が志願して採炭をやったんだけれども、こっちで、釧路で採炭をやっていたわけでないんで、見て通ることはありましたけどね、そういう中での判断なんですけれども。

Q:どんなところがいちばん困りました。

困ったのは、やっぱり、初めての仕事だということで、みんな1からなんですね。そして、体力もないわけだし、そういうのが困りましたけども、深刻にはなりませんでしたね。1日1日経験していけば、それなりに身についていくし、何とか少しずつやれるようになるわけですから、そういう思い詰めたという気持ちはなくて、積み重ねて何とか少しずつやり遂げられるようになったということです。

Q:北海道では測量だったのに、九州では採炭を志したのは何でですか。

何ていうか、石炭増産のために来たんだから、ひとかけらでも自分の手で出して国のためになりたいという、そういう方向に気持ちがもうぐーっと行っちゃったということなんですね。

三番方(さんばんがた)で深夜ですね。2時か3時ころだったと思うんですけれども、コンベアーが止まったわけですよ。そしたら、座って休んでいたわけです。そうすると、このくらいの高さのところから、このくらいの石が落ちてきたわけです。落盤ですね。落盤てちょいちょいある話だから、運悪く、ちょっと外れていれば、何でもなかったんだけれども。

Q:落ちてきてどうなったんですか。

この辺に落ちてきて、そして、こうなって、背中をこういって、そして、ここを、気を失ったということですね、まず。そして、ぼーっとして、何か周りに人いるようだと思いながら、こうやったら、ぬるっとこうしたわけです。「ああ、おれ、ケガしたんだ」と。そして、「これは血止まれば、助かるかもわかんねぞ」というようなことが、かすかに聞こえてくるわけですよ。で、もう、気を失ってぼーっとしているわけだから、これは大変だという気持ちには、すぐには感じませんでしたね。

Q:どれくらいのケガだったんですか。

ここから17センチ破れたわけです、頭が。そして、この辺の骨が骨折したわけです。これは親指が入るくらいの穴が開いているんですけどね。

そして、三井三池の方に運ばれて、そこで、手術して縫ってもらったりして、18日間入院したんだけど、1回も痛んだという気持ちはないわけさ。感じたことは。それで、でも、「もうちょっと、ずれてたら終わりだった」という話も聞いてはいましたけどね。

Q:それだけの重傷だってわかって、怖くなかったですか。

別に痛くもないし、話もできるし、ただ縫って、傷の治るのを待っていればいいような状態だったもんだから、そう深刻には考えませんでしたね。

Q:ヘルメットしてますよね。

ヘルメットって布なんですよ、当時は。布に、何かな、あれは。スポンジも当時はまだなかったろうから、何ていったっけな、そういうようなものがクッションになって入っているだけで。ヘチマか、ヘチマか何か、そういうものが入っているだけで。

「戦争終わったんだ、そして、負けたんだ」って、そう思って、「これで帰れるのかな」というふうなことは思いましたね。

Q:でも、ずっと、戦争に勝ちたいと思っていたわけですよね。

ええ。それが変なんですよ。あれだけ燃えていたものがさ、そういうふうに、負けてもそんなに悔やんだり、残念がったり、悲しんだりという、そういう感情の高ぶりが出なかったんですよね。だから、暗に「終わってよかったな」と思ったのかなとも思ったりしているんですけども。

今考えてみては、「無謀な戦争だったな」というふうに思いますね。あまりにも範囲が広くなっちゃったし、相手国も多いし、本当……、どうしても、ああなる理由もあったのかもわからないけれども、とにかく、世界を相手にしてしまったんだから、「とてもじゃないが勝てるはずがないな」というふうに思ったし、正確なことはわからないんだけども、戦争の理由そのもので、どうしても、「ああならざるを得なかったのかな、何とか方法がなかったのかな」というふうに思ったし、また、別の考え方をすれば、「負けたおかげで今の日本があるのかな」と思ったりもしますね。

わたし個人にとってね。それは、「戦争やって、負けて、こういうことになったんで、よかったんでないかな」というふうには思ってますけどね。

軍隊に準ずる産業体だというふうに思いましたね。戦場に行かないけれども、国内で戦っているんだというふうに。特に炭鉱の場合はそういうふうに思っていいのではないかなというふうに思いますね。

出来事の背景出来事の背景

【ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~】

出来事の背景 写真日本最大の石炭産出量を誇った福岡県、筑豊地方。明治以降、筑豊の石炭が、日本の近代化、工業化を支えてきた。さらに、石炭は、戦闘機や軍艦の材料である鉄の生産や燃料に不可欠の戦略物資であった。
太平洋戦争が激化する中、筑豊の炭鉱には増産が強く求められ、およそ15万人の炭鉱労働者が24時間体制で働いていた。

戦況が悪化すると熟練の炭鉱労働者までが戦場に駆り出され、その不足を補うため朝鮮半島などから徴用されるなどしてやってきた人々が炭鉱で働くことになった。さらに東南アジアから移送されてきた連合軍捕虜も炭鉱での労働を強制された。こうして連行されてきた人々への労務管理は過酷で、暴力をふるわれることも少なくなかった。
 また、資材の少ない一方で増産を優先するあまり、安全対策がなおざりにされ、落盤事故なども続発した。戦時中、日本各地の炭鉱で60万人もの労働者が死傷したとされている。

終戦後、炭鉱は復員してきた元兵士を労働力として吸収し、戦後の日本の復興を支えることとなった。しかし、昭和30年代、主要エネルギー源が石炭から石油へ転換されて石炭の需要は急速になくなり、各地の炭鉱は次々に閉山していった。筑豊の炭鉱も昭和51年までにすべて姿を消した。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
生まれる
1941年
高等小学校卒業後、太平洋炭鉱へ就職
1942年
太平洋炭鉱の測量夫になる
1944年
父と一緒に、三井三池に移る
1945年
釧路に帰り、再び太平洋炭鉱へ

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日本(福岡・筑豊)

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