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タイトルタイトル: 「偽りだった“内鮮一体”」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] “朝鮮人軍夫”の沖縄戦
名前名前: イム・ビョンファンさん(沖縄戦 朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地戦地: 日本(沖縄) 朝鮮  収録年月日収録年月日: 2010年8月22日、8月23日、8月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 貧しかった農村での生活  02:48
[2]2 チャプター2 日本語  03:19
[3]3 チャプター3 徴用  02:51
[4]4 チャプター4 沖縄  07:04
[5]5 チャプター5 阿嘉島  04:58
[6]6 チャプター6 銃殺刑  02:00
[7]7 チャプター7 投降  03:17
[8]8 チャプター8 捕虜収容所  01:58
[9]9 チャプター9 「内鮮一体」  02:09
[10]10 チャプター10 帰郷  02:13

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] “朝鮮人軍夫”の沖縄戦
収録年月日収録年月日: 2010年8月22日、8月23日、8月24日

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ここは山里だから、交通(手段)がなかったんです。あちらに行っても10里(約40km)の峠を越えて、こちらに行っても10里の峠を越えて。面(行政区画、日本の村に当たる)までは10里の峠を越えなければならなかったんです。20里でした。ところで、日本植民地時代、生活が厳しかったんです。春になると、麦を供出していき、秋になると、稲を供出して。松の油を絞って、油が足りないといって仕事は後に回して松の枝を集めるために歩きまわったんです。大変でした。わが村は、そのとき、作柄もよくなかったんです。稲作もして、畑作もしたんだけど、両方ともするんです。農作で十分食べていた人は3、4人しかいなかったんです。
ほとんどの人が春になったら、葛を採取して食べて。それほど、生活が厳しかったんです。麦がゆも作って食べて、根まで。それで、おなかが膨らんで手足が痩せて死んだ人もいたりしました。
春になったら、あいさつとして話しかけるのが、あのときは「春窮はないんですか」と言いました。春に食糧がなくなって生活が大変な時期を「春窮」と言うでしょう。あいさつがそれです。このごろはそんなあいさつしないでしょう。あいさつするとき、「春窮はないですか」って。春になったら、困ってるんです、ろくに食べられなくて。松の木の皮をはがして食べたり。春になったら、(食糧が)不足して、収穫したものは供出で徴収されて、非常に足りなかったんです。山の葛も採取して食べて、麦の殻も炒めて食べる人もいました、春窮期は。麦の(収穫)時は馬のエサ、馬に食べさせるっていうんです。馬のに食べさせる麦を供出し、それもいっぱい載せてきれいにして運ばなければなりません。また、稲は軍糧米で軍人の食糧として供出しました。

名字がイム(林)の場合はハヤシです。それで、創氏しなかったんです。リュ(柳)は「ヤナギ」で、ナム(南)を「ミナミ」ですから、創氏しなかったんです。他の人はほとんど創氏改名しました。

Q:何才のとき、学校に通ったんですか。

18才ごろだったでしょう。

Q:簡易学校というのは小学校ですか、それとも普通学校ですか。

そのとき、簡易学校といって2年制の学校ですけど、勉強が難しかったんです。その簡易学校で2年間勉強しました。簡易学校1期生です。日本語も習いました。主に日本語を習ったんです、あのときは。日本語を習わなければならなかった時代でしたから。主に日本語を習いました。

Q:どうして日本語を習わなければならなかったんですか。

その理由はわかりません。そのときは日本語を覚えれば、状況が良くなるかもしれないということでしょう。日本語を知らないと、(出世するのに)役に立たないんです。それで、日本語を習うために、努力しました。そのとき、日本語を習って沖縄に行って使いました。班長を務めたので、ほっぺたをぶたれることも少なく。そのとき、日本語を分からなかったら、よくぶたれたはずです。理由は分かりませんが、制度によって(日本語を)習うことになっていたので、配給のときも、必ず日本語を使うべきで、また、日本語を習ってこそ、生活ができて、そのときは。このような状況でした。習わなくてはならなかった。とにかく、そのように思っただけです。そして、日本語を習わなければ、出世できないから。今、英語を習うのと一緒です。同じです。そのとき、国も日本の国(植民地)になったので、日本語を習ってこそ、それを活用する機会があるんです。朝鮮語では生活できなかったんです。ですから、習わざるを得ないんです。

Q:学校で、授業は朝鮮語で行われたんですか、それとも、日本語で行なわれたんですか。

国語を習うときは日本語で進行し、漢文、朝鮮語の本が別途にあります。別途に あったりしたんです。ですから、日本語も使って。主に日本語を多く使わなければならなかったんです。
「正直は一生の宝」。このようなことも言って、「正直は一生の宝」。これは本当にいい言葉です。正直は一生の宝ですから。そのような言葉も習って。そのような教育も受けて他にもありました。この言葉はいいでしょう。「正直は一生の宝」という言葉はどこ国でも(通用できる)、本当にいい言葉です。でも、言動が一致しなくて問題ですね。「正直は一生の宝」を行動に移すべきですけど、口先では「正直は」といって行動は(異なる)。

行かなければならないというより、自ら進んで行ったんだから、面書記が来て・・・。面書記が話すことなく、私たちが先に。私たちは最初から覚悟してから行きました。彼も全部知っていました。面書記はその人はこんな(必ず行く)人だっていうことも知って。他の人は連れていかれたんですけど、私たちは自ら進んで行ったんです。

Q:どうして自ら進んで行ったんですか。

皆行ってしまって誰もいなく、私たち2人も行かなければならないんだから。村には(若者は)皆死んで誰もいなく、お年寄りだけが残って、どうせ一度は行かなければならなかったので。
皆、軍隊に行ったんですから。わが村では全部行って、私たち2人しかいないのに、軍隊に行くって心を決めたので、逃げようとしなかったんです。警察と役人が来たときも逃げませんでした。逃げようとしたら、逃げられたんです。そのとき、日本人の、何でしょう。日本軍がいました。教育、訓練させる日本人が 一緒に車に乗っていたんですけど、テグ(大邱)に行けば、期間を短縮してやる、責任者にしてやるってうそを・・・。自分も何も知らないくせに、知らないでしょう。今軍隊に入ったので。私にそのような話をしました。あのとき、私が日本語も話せて通訳もしていたので、ずっと私のことを見てきたようでした。私はテグに行っても、ソウルに行っても、どこへでも行くって。そこに行けば、私を隊長にしてやるって言いました。
自ら進んで行ったんじゃなくて、それを選択せざるを得なかったので、行かなければならないので、自ら進んで行っただけで、あのとき、自ら進んで行こうとする人っているんですか。いくら忠誠を尽すといっても、自分が死ぬかも知れないのに。戦場に行けば、死を覚悟しなければならないですから。たぶん行きたくないでしょう、いくら忠誠を尽すといっても。自分が生きているときの忠誠で、死んだら、忠誠なんて何の役にもたたないでしょう。そうでしょう。
それは、家計が心配で、両親が病気になって農作業ができないことも心配で、あのときは法律で決まったので、軍隊に行かざるを得なくて行ったわけです。行きたくて行ったわけじゃないでしょう。本当に行きたくなかったんですけど、仕方ないでしょう。

最初、私たちが沖縄に行くと、日本(軍)の物資を運びました。背負わされたのは危険なものでした。爆弾や特攻艇です。食糧なども、銃も全部、私たちが舟艇を(海に)下し、壕の中に引き上げて、全部私たちが運びました。それで、本当にすごいな。
朝5時に、ラッパを吹いて。それからふ頭に行って、主に船にかかわる仕事でした。貨物の上げ下げ、貨物が着いたら、軍需品などが着いたら、私たちが荷を下します。それから、トラックに乗って洞窟の中に入れて。それが仕事でした。それから、食糧とか、軍旗など、一切の軍需品を私たちが管理したんです。大変重要な仕事でした。爆弾なども全部私たちの手を経て、洞窟の中に入れました。最後は舟艇を押し出すこと、それが仕事でした。爆弾などを運ぶときは大変手を焼きます。6人が押し上げていって。爆弾の中でも、非常に大きなものもあるんですから。そのようなときは大変です。そのようなときがある反面、あんまり苦労せずに終える仕事もあって。

着いたときは兵舎といって建てておいたものがあってそこにいただけで、民間人はあまり見られなかったんです。その数日後、那覇市の昭和女子小学校、女子中学校か、そこに行って私たちが宿舎を建てておいて生活していたんです。そこで、食事し、仕事しに行ったり来たりしたんです。ふ頭に仕事するために行ったり来たりしました。それで、(民間人に)会う時間もなく、仕事しに行ってそこに住民がいたら、サツマイモももらって食べたりして。「兵隊さん、兵隊さん」って、沖縄の人は。いつも「兵隊さん、兵隊さん」って。サツマイモももらって食べて、サツマイモを食べているのが見つかってほっぺたをぶたれた人もいました。沖縄の人はやさしかったんです。日本兵と一緒にいました。その学校に一緒にいました。仕事するために、一緒に行くこともあって。そこで、その学校で誰か過って、一緒に罰を受けたんですけど、庭で、腕立ての姿勢で一列になって棒でお尻を殴られたんですけど、本当に痛くて私はしばらく苦労しました。腰が痛くて、腰をあまり使えないんです。腕立ての姿勢にしておいてその棒で、一回殴りつけたんです。一回だけでも、本当に、ひどかった。誰が過ったか知りません。一人のせいで、皆殴られるんです。何を過ったか、私たちは知らないんです。見せしめのためなのか、知らないんですけど。私たちの宿舎は班長と、小隊長が行ったり来たりして、どこに行くのか知らないけど。分隊長と、私たちを指揮するために、一緒にいました。宿舎で一緒に寝て。一緒に過ごしました。彼らは私たちを監視したんです。班長と分隊長。

Q:兵士は別々に生活したんですか。

そう。別でした。

Q:ああ、別々に生活して、軍夫だけ、別に生活して。

そうです。彼らは白い(米)ご飯を食べて、私たちは玄米ご飯を食べました。なのに、「内鮮一体」って。食事でさえ・・、バカな話でしょう。ハードな仕事をしている人に玄米ばかり、あの黄色いご飯をいっぱい食べさせて。なのに、「内鮮一体」なんて、このごろに考えれば、本当にバカな話ですね。何が「内鮮一体」ですか。食べ物すらそうなのに。私たちだけで過ごして、仕事に行けば、サツマイモをもらって食べたりしたんです。それも、こっそり、日本人の目を忍んで行って。見つかったら、殴られて。 お腹がすいたので、仕方ないんです。お腹はすいていて、仕事は大変なので。沖縄のサツマイモはおしいんですね。美味いです。お腹がすいていた状態で、食べたから、美味かったです。そのとき、日本に、朝鮮半島には清酒がなかったんですけど、「正宗」といって美味しいけど、たぶん知らないと思います。日本の正宗といって本当に美味しかったんです。大きな船から下し、それからふ頭に行ってみれば、それが落ちてあちこち酒がこぼれて。戦場で(酒を)飲んだりしたんです。朝鮮半島では正宗を手に入れられなかったんです、そのときは。ないんです。あの正宗が本当においしかったんです。あの方は飲んだことがないでしょう。日本の清酒で、名称は正宗という。

Q:たまに酒を飲む機会もあったんですか。

酒は私たちにまで回ってこないんです。それで、私が面白い話を聞かせてあげます。それで、人夫の責任者は私で、船の責任者がいたんです。品物の責任者がいたんですけど、私が喉が渇いて死にそうだ。私たち、一本、こっそり 持ってきて、私たち、仕事している人同士、飲もうと頼んだら、「この野郎」って。小隊長が行ったり来たりしていたんです。(彼とは)よく顔をあわせてきたので、顔見知りでした。「私がここで、手で合図したら、飲んではいけない」という約束を受けてから、一本を開けてくれました。それで、私たちだけで飲みましたけど、正宗は本当にうまかったんです。そのように飲んでいたら、彼が小隊長が来るって手で合図してくれて。それで、私のお陰で、おいしいお酒を飲んだといううわさがありました。それを見れば、日本人も同じでした。自分もこっそり飲んでいました。酒を注いであげたら、飲んで。小隊長、監督だけが知らず。

阿嘉島に、元々私たちの任務は舟艇を海に下ろすために派遣されました。戦場で(苦戦)しているから。私の推測です。阿嘉島ではそのとき、舟艇を陸と海の間で上げたり引いたりしました。そこに行ってから、これといったことはなかったんです。阿嘉島では。沖縄の人々が前もって壕を掘っておいたんです。前もって、山に壕を掘っておいて、麓の方に、本部がそこにあって、私たちはその下に早朝に壕を掘って。誰か前もって壕を掘っておいたんです。そこに行って。当然、怖くなるでしょう。
そこにいました。昼夜を問わずに、そこにいました。昼間も砲爆撃があったので。しばらくの間、ドンドンという音がして、爆撃を終えて飛行機が放送しました。そうやって戦いました。アメリカ軍の船がしょっちゅう、海から音楽を流し、それが戦争でした。そしたら、補給も入ってこなく、食料も、それが戦略戦術らしい。飢えて死にそうでした。米がないから食べられず、補給が切れて。ですから、じっとしているんです。アメリカも上陸しようともしないんです。海に船がどこにも行かず、毎日そこにいます、音楽を流して。こちらはいつ死ぬのか。食糧が底をついたら、餓え死しそうだから、手を上げて降りてこないんです。そうだったんです。戦争といってもしょっちゅう戦っているんじゃなくて、それが戦術です。

Q:毎日、艦隊が砲撃したんですか。

最初は数日間集中的に行なって、その後は砲撃というようなことないんです。その後は、電気も使わず、 朝鮮人一人が捕虜になって行って、朝鮮人がいるというようなことを教えてあげたようです。手を上げて下り(投降)なさいっと、飛行機から放送してるんですけど、その内容が分からず、軍人が彼らの話を聞かないでしょう。飛行機からこのように放送したそうです。朝鮮人が乗って放送したそうです。早く下り(投降し)なさいって。

Q:砲撃の後、アメリカ軍が上陸してきたんですか。

上陸?。そうですね、上陸より、最初、この山でじっくり見ていたんですけど、海の向こうから船の群れが近づいてきて、(その中でから)あっという間に、小さな船がたくさん出てきて陸地では車に変わるんです。砂場から走るんですよ。それで驚きました。そのような船があるらしいんです。あっという間に、兵士を降ろしたんですけど、数百人くらいになるか知らないけど、降ろすんです。こちらの日本軍は穴を掘ってこうやって・・・。それでは、相手にならないでしょう。こちらから一発撃てば、向こうはやたらに撃ち返すんです。地面がでこぼこになって。本当に肝を冷やします。海から。艦砲というのは、本当に、こんな大きな砲弾が飛んできて、本当に驚きました。主に海から撃つんです。それに誰が対抗できますか。日本兵の一人が大声で泣いているんです。「なぜ、泣くんだ。」それで話すんです。「物資があまりにも足りなくてどうしようもない」って泣きました。泣くのも無理ではないんです。あの九九式(短小銃)で何ができるんですか。

最初、上陸した時、状況を見てみたら、もう負けたと思いました。日本人もそう覚悟していて。
対抗できないのに、何も。それは人に話すようなことはできず、心の中で、戦争は・・・。最初は戦争に勝つそうでしたけど、米軍が上陸したら、まったく相手になれなかったんです。一人で、戦争に負けたんだ。日本人も皆同じでした。口には出せなかったんですけど、覚悟はしていたようです。

「アライ」といってヨンドク郡(キョンサン(慶尚)北道東部)の人ですけど、ある日縛られて来ました。兵士によって縛られたまま来ました。後で知ったことですけど、投降しようとしたところで、沖縄の、部隊があったんですけど、捕まって死刑。死刑させるために縛っておいたのを見たら、本当にかわいそうだったんです。
(稲泥棒を)住民が届け出て、捕まえて部隊に引き渡しました。それで、彼が話したのが、「故郷で白米を供えて供養してくれ」と。あまりにも空腹で、ご飯を食べるのが願いだったんです。「白ご飯一杯をおいて供養してほしい。」銃殺されました。捕虜になるために行く途中で捕まったようです。住民に捕まって、住民の組織がその当時あったんです。

Q:朝鮮人でしたか。

朝鮮人だったんですけど、投降するために、山を下っていく途中で捕まったようです。沖縄民間人ですけど、阿嘉島の住民に捕まって、木に縛っておいたんです。それで、涙を流しながら、故郷に帰ったら、あまりにも空腹で、白ご飯一杯(祭壇に)供えてほしいと、それが願いだと言ったんです。

Q:イムさんに直接頼みましたか。

私たちのいる壕の外で、私一人じゃなくて、何人かいました。涙を流しながら、本当にかわいそうでした。

ナカタ少尉が一人で座っていたんです。松葉のタバコを吸いながら、私を呼びました。私が班長だったので。彼は他の人とはあまり話さず、私とだけ、会話するんです。私が彼の気に入れられたかどうか知らないんだけど、とにかく、やさしく見えたみたいです。ところが、彼が君は、戦況を見た限りではもう負けたんです。彼が「戦争に負けたら、家に帰る」と言うんです。「故郷に帰る」という話を聞いたら、本当に嬉しかったんです。そのときは飢えていたにもかかわらず・・・。それで、ここにいれば、自分も命が惜しいというんです。それは手を上げて(山の)下に下っていこうということです。私たちと一緒にいよう。それで、約半月くらい過ぎたら、小隊長が早朝、本部に気づかれず、集合させて、私も、私たちも知らないんです。どうやって手を上げるのか知らなかったんです。ただ、手を上げればいいということだけ知っていたんです。それで、伍長か、班長が棒の先に白い布をつけて先に下りていってよく振りました、前の船を見て。そしたら、船が次々と近づいてきました。そして、私たちに船に乗れといわれて、見たら、黒人が銃を構えていたんです、数人が、船に。それで、服を脱がないと船に上がっていくことができないんです。そこの米軍が、黒人がポケットを触って調べてから手を引っ張り上げて載せるんです。私たちにビスケットやお菓子、タバコを1個ずつ配るんです。いや、世の中にこんなこともあるんだと、妙な気がしました。(米軍が)見たら、捕虜になったら、殺すと日本人が宣伝したんです。「あれ見て、見て、朝鮮人を処刑して燃やしている」。ゴミを燃やしているの見て、私たちにそう宣伝しました。皆、あのようになるんだと。火で燃やすと。
向こうにあるのが座間味(島)といって、座間味、知っているでしょう。阿嘉島の向こうにあるんですけど、そこから煙が立ち上ったら、(実際は)掃除をしたので、煙がもうもうと立ち上ったんです。片付けるために、燃やしているのを。それで、私たちは捕虜になったら、殺されると思ったんです。なのに、そうでもなく、(船に)乗ってみたら、ポケットからタバコなどを出してくれるんです。本当に。生まれて初めてでした。それで、座間味に行ったら、朝鮮人が米軍服を着て髪も整えて紳士になっていたんです、先に行っている人たちは。何で、ここに来てこんな格好にしているのか。私たちは飢えて、そんなことに関心がなく、死にそうなのに。
そこにいたら、米ご飯を炊いてその匂いがし、牛肉のスープの匂いがして。夢中になって食べまくって。いくら食べても、食べ飽きないんです。じっくり考えてみたら、お腹をこわすような気がしたんです。私は飢えても、もうお腹がはちきれそうなのに、どんどん食べ物を口に入れるんですね。私は無理やり、お腹は一杯になっていたんだけど、隣に座っていた人が病院に運ばれていくんです。食べ過ぎてお腹をこわしたんです。その病院に行って大変苦労した人もいました。

それで、沖縄に行ったら、私たちに会いに来ました。「自分が本当に悪かった」と。私個人そうしたくてやったわけじゃなくて国の法律がそうだから、仕方なかった。心の中ではそうでしょう。国法がそうなっていたからで、個人的な感情はないんでしょう。彼も話が上手でした。私も不思議。昨日まではよく殴って。今日はわざわざ謝りに来たのです。 人を殴るようなことはほとんどなくて、世の中は本当に不思議なんだ、年取ってから思えば。

Q:ああ、サイトウさんがイムさんに会いに来て謝ったのは、自分が仕事をさせて・・。

命令によって動いただけで、個人は関係ないということです。実際そうでしょう。国の法律に従っただけで、自分の個人的な感情で殴ったわけではないという意味です。そうでしょう。

Q:サイトウさんが収容所で謝って、立場が変わったんですね。

世の中がひっくり返ったのか。妙な気がしました。この世の中で、こんなことが。妙な気がして、殴りたくもなく、むしろ感動しました。朝鮮人と日本人は大変仲が悪かったんです。ある日はけんかして大騒ぎになったこともあります。大きなけんかになって外人たちが銃を撃って、空砲を撃ってけんかを止めたんです。大騒ぎになりました。敵同士になったんです。日本を攻撃しに行くと。そのような運動をする人もいました。「一緒にやろう」と言われました。私はそんなことやりたくもないし、飢えて言葉も出てこなく、精神的に疲れていたんです。

「内鮮一体」って、日本は内地で、韓国は朝鮮なので、同じだ、同じ処遇を受けるということですけど、結局、そのときはそうではなかったんです。仕事するときは内鮮一体で、仕事しないときは・・・。そうでしょう。それのどこが内鮮一体ですか。ただの内鮮一体です。私たちをこき使うために、そのときは内鮮一体と言ったんです。あとになって、「内鮮一体」なんてなかったんです。後になったら、ないんです。知らん顔したんです。それはないでしょう。それがちょっと残念に思われます。
「内鮮一体」といった以上は、同等に待遇してくれるべきではないですか。自らひどいことした上に、たくさんこき使って知らん顔し。これはないでしょう。人間としてやってはいけないことです。命を捧げ、死んだ人が半分になるというのに、その態度は何ですか。最も無情な態度に出ました。人間扱いしてくれなかったんです。それのどこが内鮮一体ですか。内鮮一体ってそのようなことではないでしょう。同じ処遇をするのが「内鮮一体」・・・。

Q:村で、「内鮮一体」という言葉を聞きましたね。教育を受けましたね。そのとき、朝鮮人と日本人は同じ民族だと思いましたか。

そうですね。(今では)日本人は日本人で、朝鮮人は朝鮮人ですけど、「内鮮一体」というのは同じ行動を取るっていう意味じゃないんですか。そのとき、朝鮮人はそれに従うしかなかったし。皆、従いました。それで、一体となりました。私たちも半分日本人になったんです、そのとき。教育も受けたので。昭和天皇が最後の話(玉音放送)をする時も悲しかったんです。かわいそうでした。

(19)46年3月か4月に帰ってきたんです。

Q:3月に帰ってきたとき、皆びっくりしたでしょう。死んだと思っていたのに、帰ってきたので。

そうです。私は・・と一緒に帰って来たんですけど、父さんがそこに迎えに来ました。人が確かなことだけ話すべきなのに、死んだといった人が生きて帰ってきたので、皆驚きました。とにかく、生きて帰ってきたのはきたんだから。ほとんどが死んで、生きている人が数人しかないんです。他のところは知らないんですけど、ヨンヤン郡(キョンサン北道東北部)はカン・インチャンと私、もう一人、彼は死んだのかどうか、集まりに出て来ず、体が弱って。その他にはいないんです。皆死んで数人しかいないんです。他のところも同じでしょう。かなり年老いて全部90才、91才の人もいて。他の所は知らないけど、ヨンヤン郡はほとんどが死んで、あんまりいないんです。そのとき、私が故郷に帰ってくれば、本当に喜ぶはずなのに、凶作となって、「丙戌年の凶作」といって有名です。凶作となって、その年食糧がないんです。家にも食糧がなく。家に帰ってから、鶏肉も食べられなかったんです。お金がないので。鶏肉どころか、食事もろくにできないんです。それで、大変苦労しました。言い尽くせないくらいです。
それから、健康を取り戻すのに時間がかかりました。でも、ろくに食べられなかったんですけど、家に帰ったら、徐々に回復していきました。歯も白くなって、髪の毛も黒髪がなかったんです。全部抜けて、それが新しく生えてきました。このごろは白髪になったんですけど、(そのときは)黒髪が生えてきたんです。草を食べたからです。歯や歯茎が真っ黒だったんです。(阿嘉島で)草ばかり食べたせいです。本当にひどかった。

出来事の背景出来事の背景

【“朝鮮人軍夫”の沖縄戦】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島から動員された多くの人々が犠牲になっている。その数は、1万人にもなると言われるが今もその実態はわからない。

沖縄戦で、初めて米軍が上陸した慶良間諸島の阿嘉島にも、朝鮮半島からやってきた“朝鮮人軍夫”と呼ばれた人々がいた。
おもに、キョンサン北道から連れてこられた若者で、那覇港での荷役作業に従事した後、阿嘉島に配備されていた特攻隊・陸軍海上挺身隊のために荷揚げ作業や舟艇の揚げ降ろしに当たらされた。

「内鮮一体」の掛け声の下、彼らは「創氏改名」で日本名になって日本軍のために働きながら、作業は過酷なうえに食べるものは兵士よりも粗末、といった差別的な扱いに苦しんだ。貧しい食事で過酷な仕事に従事させられた朝鮮人軍夫の中には、脱走を図るものが出たほか、住民の農作物を盗んだものもいた。稲を盗んだ軍夫が軍によって銃殺刑に処せられるという事件も起こった。

キョンサン北道から、軍夫として徴用された人々のうちおよそ半数が亡くなったと言われているが、その正確な数は今もわかっていない。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
キョンサン北道に生まれる
1944年
徴用され沖縄へ 特設水上勤務隊の軍夫として働く
1945年
阿嘉島に移動 米軍上陸、その後捕虜になる
1946年
帰国 以後農業に従事

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