ホーム » 証言 » 深沢 敬次郎さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「朝鮮人軍夫の役割」 番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] “朝鮮人軍夫”の沖縄戦
名前名前: 深沢 敬次郎さん(陸軍海上挺進隊 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年9月5日

チャプター

[1]1 チャプター1 19歳の志願兵  05:20
[2]2 チャプター2 沖縄・阿嘉島へ  03:08
[3]3 チャプター3 朝鮮半島出身の兵士と軍夫  04:39
[4]4 チャプター4 軍夫たちの仕事  04:10
[5]5 チャプター5 直面した飢餓  05:36
[6]6 チャプター6 捕虜収容所で出会った“朝鮮人軍夫”  03:36

チャプター

1
2
3
4
5
6
番組名番組名: [証言記録 市民たちの戦争] “朝鮮人軍夫”の沖縄戦
収録年月日収録年月日: 2010年9月5日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

これはね、軍隊に入隊する仲間と、これは小豆島で特攻隊になったときの。これ、サーベル。

Q:こっち向けて見せてください。やはり若いですね、18歳というと。

この階級わかる?

Q:伍長ですか?

いやそうじゃない。まだね上等兵だ。星が3つにね、こっちにザガネが貼り付いてる。

Q:しかし、上等兵でサーベルは持てるんですか?

だからね、上等兵のときにサーベル持ったってのはね、こっち出かけてて死ぬと、上等兵から曹長になるわけだったの。だから行くときにね、曹長の階級章まで渡したんだよ、渡された。ところが、着ける機会が無かったわけ。沖縄へ行くと、曹長じゃなくて伍長になって、今度は、出撃して死ねば少尉なるって話になったわけ。だから曹長ってのは、つけた事ないし、曹長刀だけは持たされとった。あと拳銃ね。だから拳銃とサーベルしかないわけ、武器は。

Q:本当に武器は、当時ぜんぜん無かったんですね。

拳銃と、レボルバーの6発の拳銃とサーベルだけ。一番強力な武器はマルレ(陸軍の特攻艇)。

Q:陸上戦する準備は全くない?

全くない。

Q:当時特幹隊になるぐらいだと、わりと優秀な方だったんですか、幹部候補生というと。

幹部候補生ってね、だいたい1年経つと徴兵検査受ける年齢になったわけ。だから徴兵検査受けてしごかれるよりは、下士官なった方がいいだろっていう考え方の人が多かった。というのがほとんど。

Q:あまり、上官にしかられるよりは。

2等兵より、1等兵になった方がいいあれでしょ。だからもうね、それが嫌だってことで。はじめっから卒業すれば下士官になるって事でしょ、6か月で。で、下士官なるには3,4年かかるんだよな、普通の軍隊だと。その時には、特攻隊員っていうのはないんだよ、全くね。

Q:どういうつもりで行ったんですか、そのとき。

下士官だよ。下士官養成所だから。ところが、後になって考えるとね、陸軍の船舶兵てのは数が少ないんですよ。
そこに、下士官を2000人養成する必要は無いんだよね。だから、はじめっから特攻隊員にしようという作戦でしょ。

Q:深沢さんは知らなかったんですね、

ほとんど、知らないよ。入って3か月ぐらい経ったときに、小豆島移った時に特攻隊の組織ができたわけ。それまでは、ディーゼルエンジンの勉強をしたんだ。大発という船がでてるでしょ。それがさ、小豆島行ってから、ガソリンの勉強したわけ。だから明らかに方向転換したわけ。

Q:始めて、特攻って聞いたときはどうしたんですか。

別に。だって軍隊志願した時から死ぬつもりでいるんだから、別に特攻行ったからって同じでしょ。軍人に志願した時から死ぬつもりなんだもんね。特攻隊になったからって特別に怖いこともないしさ。

沖縄に行くときにナセマルっていう船に、6ノットの船に乗ったんだけど、それが、8ノット船団に加わる事ができないので、一か月半ぐらい鹿児島湾で待たされたわけ。それで、その後に8ノットの馬来丸(別称・マレー丸。4千トン級)っていう船が来て、それに乗り換えた。そのマレー丸に、朝鮮人の慰安婦が数十人乗ってて。そのときにもちろん話はできないけど、一応、乗ってたってことだけは。それで危険な海を那覇まで一緒に行ったわけ。そこで那覇で慰安婦は全部降りて、我々は慶良間諸島の阿嘉島についたわけですね。そしたら、その何日か後に、7人の慰安婦が阿嘉島に来たというのが、最初の出会いなわけ。で、我々の部隊に朝鮮人出身の隊員が一人いて、朝鮮人に対する違和感はまったく無かったわけ。

Q:その時、慰安婦の人を見たときはどういう役割かは知ってたか。

慰安婦ってのは話をきいていたわけ。慰安婦って、話をきけば想像はできるわね。どこに行くってことは全く分からなかった。そしたら阿嘉島についてから半月ぐらいしてから、7人が見えたわけ。その人が南風荘っていう民家にみんな入って、そこが慰安婦の宿舎になった。だけど、我々兵隊は全く関係ないわけ、慰安婦とは。

Q:だれが関係あるんですか?

それは、わかんないよ、多分、将校とかそれだけでしょ。何人かでしょ。

Q:特攻隊の隊員ってのは行かないわけですね。

全く、話も何もないよ。行った人もいないし。それだけのあれないでしょ。我々は、慰安婦とは話をしてはならないっていうだけのことは、命令されているわけだから。すれ違っても言葉をかけてはならないと。それだけあれなってたからね、そこに行くだけの余裕はないよ。

同じ扱いでしょ、隊員だから。我々の仲間だたら、差別するだけの理由はないでしょ。そういう人が一人いれば、朝鮮人にたいする認識は別に変わったものにならないわけ。他の兵隊と、特攻隊員と同じ扱いだからね。特別に扱わないし。そういう見方してると、朝鮮人に対する扱いも特別な扱いはできないわけ。仲間がいるんだからね。

Q:普段、その特攻隊員の朝鮮人の方とは普通に接していたのか、どんな話を?

初めは、秘とく壕から船を引き出すのは軍人がやるわけだった。それが、2月に配置替えがあり、沢山の軍人が本島に渡って、その代わりに朝鮮の軍夫が加わってきた、百何人か。だから、我々の操縦する船をアメリカ軍来たときに、引き出す仕事なわけ。ところが戦争が始まると連絡も取れないし。船が壊されたから、朝鮮人の軍夫、水上勤務隊って言ってたんだけれど、その人たち連絡がつかないわけ。だから、その当時に、我々の船を引き出すことになっていたけど、話をした事もなければね、ということなの。

アリランの歌はね、隊員の中に朝鮮の人がいたでしょ。その人がそれでね、軍歌だけ歌ったんじゃ面白くないんだよね。で、作業に行くときは将校はついていかないんだよ。歩くのが好きじゃないだろう、たぶん。将校がいないから、朝鮮の隊員がアリランの歌を教えてくれたわけ。それで、それを歌いながら、軍歌歌ってるよりアリランの歌を歌っている方が気分がさっぱりするんだよね。反骨精神じゃないけどさ、決まりきったことやってるよりはね。いつのまにかそっちが主になっちゃったわけ。それで船の秘匿壕行くのに、一山越えていくわけ。食糧事情悪いからね、その坂を越えるのは骨なんだよね。それで坂の上で一休みして行くんだけども、いつの間にか坂を・・大した坂じゃないけど、アリラン峠ってみんなが言うようになったわけ。で、あとね、もう一つはね、安里屋ユンタ(八重山地方の民謡)ってのを歌った。あれがね、マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨっていうでしょ。あれを、チンダラではなく、死んだら神様よって話、替え歌になっちゃったわけ。
その二つの歌は良く歌われた。だから安里屋ユンタも、チンダラカヌシャマヨが、死んだら神様になっちゃったわけ。その歌は、2つともね、軍歌の他に歌ったわけ。

一般には朝鮮人に対する差別意識はあったかもしれないが、我々の仲間では差別意識は全くなかった。だからアリランの歌を歌うにしても、別に反抗的に考えている人もいないしさ。(朝鮮人の)隊員がいたって事だけのことだけかどうかはわからないが、まだ18,19じゃさあ、そこまではいかないよな。私は18で、年配で19の人。19と18だから、みんな未成年者だから。

Q:当時、特攻隊に所属する軍夫の人たちは、どういう仕事で、どういう感じで生活をしてたのか。

結局、軍人が引き上げて沖縄本島に移動したので、その代わりに来て、我々の秘匿壕に入っていたマルレを引き出す仕事が任務だったわけ。だから、水上勤務隊っていう名称を付けられたわけ。ところがアメリカ軍の爆撃により、我々の秘とく壕の船が壊されたから、船を引き出す作業が無くなっちゃったわけ。無くなれば用はないといったらおかしいけど、その後は、アメリカ軍が上陸してきて、引き上げて行って、その場に再上陸する話になったんで、そのために壕を掘ることになったわけ。ね。ツルハシとシャベルと2つしかないわけだから、それを山で掘るんだから。山をくりぬいて、敵が攻めてきたら裏口から逃げられるようにするという、壮大な構想だったんだよね。しかし、本気で考えたんだかどうかしらないけど。いつになっても終わらないからね、突き抜けるまで。そのうち、あれでしょう、“休戦協定”(6月27日)が結ばれてアメリカ軍が上陸してこないってことがわかり、中止になった。それまで、壕掘ったりしていたわけだ。

Q:休戦協定までずっと。

だって、休戦協定でアメリカ軍が上陸するって話でしょ、あれは。休戦協定が・・それと同時に、その頃になるとね、体が動かなくなっていた。ね、6月ごろになると、両方が重なったから、作業も打ち切りになった。だから、朝鮮人軍夫の人たちは別の組織だから、我々とその後は一緒にならないわけ。だから、食料盗んで殺されたとかなんとかいうような事は、全く、情報も入ってこなかった。だから接触ってのはね、そんなに多いわけじゃないんですよ。

朝鮮人との我々の関係だってね、わたしと朝鮮人の関係と別の隊員と朝鮮人の関係はちがうでしょ。だから、私はさ、隊員の中に朝鮮人との間に差別はなかったと私は言えるが、中には、差別的な感覚をもった隊員だって中にはいないとも限らない。だから、作業してるとき、監視の兵隊なんかがイジメなんかしてるかもしれない。ということは私にはわかんないわけ。だけど朝鮮の人に言わせれば、穴掘りした時にイジメられたと言う人がいても、それは本当かもしれない。だから、一律には言えないことなんだよね。だから、朝鮮の人が日本の軍隊に反感をもっている人もいれば、多少好意的に考えてる人がいても不思議じゃない。

スパイのことも朝鮮人がね、食糧盗んで殺されたことも、みんな一貫していることなんだよ。常に軍隊の教育の中でやられることだから。スパイだって銃殺、食糧盗んだって処刑することが前例になってるでしょ。だから後になって、琉球大学のシンポジウムのコピーを沖縄の人に送ってもらって、実態がある程度わかったわけだけど、それがどの程度本当だかもちろんわからないけど、一応、こんなことがあったんだなと想像はできる。

Q:深沢さんとしては、そういうこともありえるなって思うか。

あっても不思議じゃないなと思うよ。我々だってさ、食料盗んだら処刑されることになっているんだから。それは別にだれが盗んでも処刑されてもさ、不思議はないわけ。そういう通達が出てんだから。布告が。それがなければ、別にあれしないけど、島の一木一草も盗んではならないっていう通達が出てんだからね。通達に反すれば処刑されても仕方がないと思う。だけど、通達が出されても、隠れて山へ行き、フキをとって食べたりはしてたよ。でもそれは、見つかって処刑されても仕方ないと思う。傍から見たら、たかがフキの一本ぐらいって思うかもしれないけど、一つの組織を維持するためには、そういうことをきちんとしないと、(戦隊)司令官にすれば隊のあれ、統率とれないでしょう。だけど山の中行って、生のフキを暗闇で食べたからって、見つかるってことはありえないことだからね、だれかが密告でもしないことには。

あのねえ、朝鮮の部隊ってのは、将校が何人かいただけなんだよ、ね。だから、我々の生活はわからないんだよ、朝鮮の人には。将校は白飯食べたかもわからないよ、だいたいどこでも。でもそれは将校がやっていたことで、我々が白い米を食べたことはありえない。
日本の兵隊が皆、白米を食べたなんて思われたら困る。我々は関係ない。白米を食べられる立場の人は、将校だとかごく限られた人にしかないわけ。将校が白米食べてたとか、私にはわからないんだよ。ただ、我々は栄養失調で歩けなくなってんのに、将校は栄養失調の人いなかったから。多少、我々よりはいいもの食べてるんじゃないかって思っているだけで。想像するしかない。将校が食べているところ見たことないしさ。ね、だから朝鮮の人にとって、日本の兵隊がうまいもの食べていたって思われても、それは一部の人にしか過ぎないと思うよ。

朝鮮人だけじゃなくて、我々だって、とにかく、桑の葉っぱとか食べていた。朝鮮人の人が特別差別されたことはない。我々も優遇されるだけの余裕はない。我々だって食べ物がないから、フキやクワの葉たべてるんだから。だから、もっとひどいったって、ひどくなりようがないんだよ。それ以下に。それ以下に生活を落とすことができない状況だった。朝鮮の人が特別に差別されたって考えることはできないんだよ。我々だって、最低だったから。中には優遇された人がいるかわからないよ、我々が知ってる範囲では、ない。わからない。

我々はホントに食べる物が無いいんだからね。終戦なったときに餓死する人も出るしさ。うまいもの食べたら、餓死はしなくて済むんだけどさ。だから我々の仲間も戦争があと半月延びたら、だいぶ、死んだんじゃないかという話も聞く。

ただ一番ね、覚えているのは、壕堀りをしてたときに、朝鮮の人たちを、交代交代で我々は監視の役目を仰せつかった。仰せつかったときに、我々には未成年者の我々には、1日2本のタバコは支給されたけど、朝鮮人の人は多分未成年者じゃなく、みんな成人だと思うけどタバコの配給はなかったわけ。で、仕事の作業の能率を上げるために、タバコを与えていたわけ。将校に一日のノルマを課せられたから、どうしてもそのノルマを果せないと怒鳴られるから。それはまあ、仕事だから、できるだけ能率を上げないといけないっていう気もちはあった。だけど、そうかって怒鳴ったりするのはあまり好きな方じゃないから、タバコをあげて、作業の能率を上げてもらいたいと思ってあげたわけ。だから、そこに、別に親切であげたという気持ちはそのときにはなかったわけ。ただ、作業の能率をあげたいなと思ったから。ときどき、軍夫の人が疲れたときは、私が代わりに穴掘りの作業したことはあるけどね。それも、やっぱり、ノルマを課せられたから。休戦協定が結ばれたころから全然接触がない。その後の接触は、捕虜収容所に入ったときあった。

そのときは、野田隊長が朝鮮人の人、食糧盗んだということで何人か殺してるから、その報復されたんだと思うんだけど、かなり報復されたいらしい。そのときは、私が収容所へ行ったときは、遅れていったもんだから話を聞いただけで、実際のことはわからないわけ。で、その話を聞いてるうちに、朝鮮人の人が私を訪ねてきたわけ。訪ねて来たとき、「これはやられるな」って直感的に思ったわけ。だけど、手にお土産を持って、お土産といってもKレーション(携帯用戦闘食)という食事だけだけど、それをもって、「阿嘉(島)にいったときはお世話になりました」ってお礼を言われたんで。それで、これはやられるんじゃないなって思ってた話をしているうちに、これは、タバコのお礼だって分かったわけ。分かったけど、そんなに、親切にしたらもっと親しく話ができたかもしれないが、作業の能率を上げるためにやったことなので、別に、親切にしたことではないから、お礼を言われて、かえってね、気恥ずかしい思いがしただけね。

出来事の背景出来事の背景

【“朝鮮人軍夫”の沖縄戦】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島から動員された多くの人々が犠牲になっている。その数は、1万人にもなると言われるが今もその実態はわからない。

沖縄戦で、初めて米軍が上陸した慶良間諸島の阿嘉島にも、朝鮮半島からやってきた“朝鮮人軍夫”と呼ばれた人々がいた。
おもに、キョンサン北道から連れてこられた若者で、那覇港での荷役作業に従事した後、阿嘉島に配備されていた特攻隊・陸軍海上挺身隊のために荷揚げ作業や舟艇の揚げ降ろしに当たらされた。

「内鮮一体」の掛け声の下、彼らは「創氏改名」で日本名になって日本軍のために働きながら、作業は過酷なうえに食べるものは兵士よりも粗末、といった差別的な扱いに苦しんだ。貧しい食事で過酷な仕事に従事させられた朝鮮人軍夫の中には、脱走を図るものが出たほか、住民の農作物を盗んだものもいた。稲を盗んだ軍夫が軍によって銃殺刑に処せられるという事件も起こった。

キョンサン北道から、軍夫として徴用された人々のうちおよそ半数が亡くなったと言われているが、その正確な数は今もわかっていない。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
群馬県高崎市に生まれる
1944年
陸軍・特別幹部候補生に志願
 
陸軍海上挺進第2戦隊に配属され、海上特攻隊員として9月、阿嘉島に駐留
1945年
3月、米軍が阿嘉島に上陸し、山に避難 終戦後に捕虜となる
 
戦後、警察官に
 
退職後は執筆活動など

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索