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タイトルタイトル: 「壕内でのたうちまわる人々」
名前名前: 宮良 ルリさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年3月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 あこがれの師範学校  03:48
[2]2 チャプター2 開戦後の生活  03:09
[3]3 チャプター3 陣地構築  01:16
[4]4 チャプター4 始まった「看護訓練」  01:19
[5]5 チャプター5 最後の夏休み  05:15
[6]6 チャプター6 先生になりたい  04:08
[7]7 チャプター7 昭和20年3月  02:22
[8]8 チャプター8 沖縄陸軍病院  03:42
[9]9 チャプター9 遺体処理  02:37
[10]10 チャプター10 同級生の死  03:08
[11]11 チャプター11 見捨てていく重症患者  07:13
[12]12 チャプター12 解散命令  02:01
[13]13 チャプター13 投げ込まれた爆弾  04:23
[14]14 チャプター14 脱出  04:53
[15]15 チャプター15 捕虜収容所  03:19
[16]16 チャプター16 生まれ島へ  03:11
[17]17 チャプター17 念願の教師に  01:17
[18]18 チャプター18 「いのち」を感じてほしい  02:13

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収録年月日収録年月日: 2011年3月23日

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私たちは、師範学校は離島から来た人は寮生活だったんですね。それですから、私は石垣島から来ましたので、さっそく寮に入ったんです。まず寮生活を最初から、学校の授業よりも、もう寮生活になじむのが大変だったと思っております。でもその寮には必ず自分の出身の上級生が入っていたんですね。だから、その上級生が、下級生が来たときには、この生徒は自分の部屋に入れろというようなこともあったと聞きました。私の入ったのは、私は、寮の1年のときの寮は南寮の一室です。そこの室長が大浜ヨシといって、師範学校の優等生でいらっしゃったんですけどもね、その人の部屋に私は入ったんですね。だけどその寮生活というのは、もう本当に時間がぎりぎりで、次々と仕事をしないといけない。朝は6時起床で、そして洗面をすると、すぐそれぞれの部署に就いて掃除をしないといけない。校門の掃除というのは各部屋から1人出て、校門のあの長いのを掃除するんですね。最近になって資料館が始まってから、津波古さんたちは、とてもきれいなあそこの校門、あの掃かれた所の校門を入って来るからね、「ああ気持ちいいねと思ってた」と、「寮生がそんなことをやってるとは夢にも思わなかった」と言ってます。そのような寮の当番、それぞれ分かれてですね、食堂だったら食堂の当番もいるし、部屋もあるし、校門は一つの部屋から1人ずつ出てやると。そういうこともありました。だからそのような、ちゃんとした時間に沿った行動をしなければいけないということが、師範学校に入って初めての経験でした。うちにいるようなことでは学園生活は間に合わないっていうことでしたね。そして、夜の勉強時間は2時間です。2時間で、8時から10時まで。10時になったら消灯時間です。だからその間、寮生はみんな一生懸命に勉強していました。だから、鉛筆の走る音、それしか聞こえないぐらいですね。それぐらいにみんな熱中して勉強していたと思います。

Q:昭和16年、まだ入ったころというのは戦争が始まってませんから、ある程度自由な雰囲気はあったと思うんですけども、戦争が始まった前後、その後からはどういうふうに変わっていったんですか?

そうですね、もう寮の生活というのは規則正しい生活ですから、そんなにありませんけれども、まず変わったのは、宮城遙拝はもう最初からやっておりますけれどもね、変わったのは、物資がないんですよ。食糧がないから食糧増産に連れて行かれたり、また炊事のおばさんとかおじさんがいまして、その人が買い出しに行くわけですよね。買い出しに来たところのものは、その生徒たちの炊事当番が洗わないといけない。そして芋を削らないと。芋を削って、それをご飯に入れますよね。入れるというようなことをする。その手伝い。それは生徒にもさせられました。

汽車通学の生徒たちがいますね、その人たちは土曜になったらうちに帰って一泊うちで泊まって日曜に帰るんです。だからその人たちは、うちに帰ったときはたっぷり食べて帰ってきますよね。だけど先島の人たち、宮古や八重山の人たちは帰ることができない。久米島もそうですよね。そういうふうな状態でしたね。それで、やっぱり親たちは自分の子どもが大変ひもじくしているんじゃないのかと、いろいろ心配することが多かったと思うんです。だから私のうちではですね、必ず大体1か月に1回くらい、“ユヌク(炒った麦を石臼で引いて粉にしたもの)”ってお分かりですか?むねん。このゆぬく、それに砂糖を入れますよね。ちょっと混ぜて。そして、送ってくれたんですよ。だから小包が来たらね、みんな楽しみなんです、部屋全体が。だからみんな寄ってきて。そしてこのゆぬくを食べるんです。「がじゅまる」の葉がありますね。それすくうのに、さじの代わりになりますでしょ。みんな、その「ガジュマル」の葉っぱを持ってきて、さじですくって食べると。だから、せっかく送ってくれたゆぬくが一晩でなくなりました。だから、親はそれは分からないですよね。子どものためにといって送ってくれたけれども、一晩でなくなってしまうというような状態で。だから、みんな仲良く分け合って食べるというのが寮生活でした。

私が出たのは18年が主ですね。ガジャンビラとか、小禄。小禄がとても長かったような気がします。小禄の飛行場ですね。飛行場の排水溝を作り、それはもうあれでした。今の那覇空港ですけどね。そこはもう、暑い中で排水溝を作らないといけませんよね。だから掘って掘って、排水溝だから穴を開けないといけないということで、少しでも手を休めてたら「何してたんだ貴様!」て兵隊出てきてぱんぱんとビンタはられると。そういうこともありました。私はビンタはられなかったんですけどもね。そんな友だちも見たことがあります。だからもう本当に、兵隊が来たら一生懸命やってるつもりで、また、やらなければいけないというふうに思っていましたけどね。

看護訓練は、最初は軍から衛生兵が来まして、講堂などで包帯の巻き方とか皮下注射の打ち方、そういうのをちょっと教えてたんですね。それが、そんなことをしただけで、脈拍の取り方、そんなのを習っていました。講堂で教えて。そして、3月の23日に戦争になったら南風原に行くということは決まっていたんですね。だからその前にちょっと南風原に行って様子を見に行ったりしました。みんな、先生と一緒にですよ。行って様子を見たりしたんですけど、そのときはそんなに負傷兵もいませんでしたからね。それを見せられたときは「ああ、自分たちにも出来るのかな」というような思いを持ったんですね。

そのときはですね、もう19年になると非常にもう戦時色が強くなったんですよ。道を歩いてもみんな兵隊だけということで。そしてまた、戦死した兵隊の墓がずっと安里から那覇まで続くんです。それに対していちいち止まってお辞儀をして、また歩くというようなことをしていたんですね。だけど兵隊さんがどんどん来たので、これはいよいよ大変なことになるんだなということになって、19年の夏休みになったときに、帰ってよろしいと。「ああ、帰っていいのか」と、とっても喜んだんですね。帰ってよろしいと。それで、戦争が終わるまでは学校に戻って来るなと言われたんです。

Q:誰に言われたんですか?

舎監の先生とか、担任の先生ですね。舎監が言ったと思います。また部長先生もそうおっしゃいました。「帰って来るな、戦争が終わるまでは帰ってこないでいい」とおっしゃったものですから、夏物も冬物も布団も持って行くことになったんですね。でも船という船がもういないということになりました。それで石垣に帰る漁船を見つけて、その漁船に乗って帰ったんです。漁船は波を切りますでしょ、とっても大変だったんですけど、うちに帰れるという希望がありましたので、それに対してあまりそういうふうな思いを持たなかったんですね。で、帰ってきたので、私のうちでは、あの石垣と台湾は非常に交流がありましたから、おばが台湾の方で働いていたんですよ。台湾にでも疎開しようかという話をしていたんですね。そしたら学校から「戻ってこい」という電報があったんです。これはおかしいと、これは間違い電報だよと、自分たちにいいように解釈したんです。でも立て続けに二度三度と電報が来たんですね。それはたぶん有識者の所、父兄の中で有識者の所に来たみたいで、知念(旧姓仲吉)淑子さんですね、あの人のお父さんは仲吉といって校長先生をしていらっしゃったんですね。その人の所に帰ってこいという電報が来ているということで、親たちはとっても心配して、こういう戦場になったのにどうするのか、というようなことを申していろいろ話をしていたようです。そして、師範の場合は毎月国から25円というお金をもらって学校出ているんですよね。官費です。官費ですから、もし帰らないとなると、それだけのお金を国に返さないといけない。卒業証書ももらえない。教員免許ももらえない。何のために師範学校に入ったか分からないというふうに、師範の生徒はそう思っていたと思う。私もそうでした。だから、私は私の方から帰ると言ったんです。そのときの母の、ほっとした様相ね。親の不甲斐なさで、親が金がない。そのために子どもを戦場となる沖縄本島に行かさないといけないのかというね、その親の辛い思いを私は見たんです。で帰ると。そしたら知念淑さん、仲吉さん、仲吉淑子、あっちの親は校長だったんですね。だから「帰さない」と。卒業証書は要らない、帰らないでいいということになったようです。それで一高女の生徒は帰らなかった、師範の生徒だけ帰ったんですよ。ちょうどそのときに軍隊の軍事物資や軍隊を輸送する輸送船が石垣の港に着いたんです。それに乗せてもらったんですね。だから運賃は要らないと言われてですね。乗せてもらいましたけれども。帰ったのは男子師範と女子師範の生徒だけです。他の学校の生徒は帰らない。一中とか二中とかありますよね。一高女と二高女の生徒たちは帰らない。師範の生徒だけ帰るということになったんですね。

Q:そのとき自分たちだけ戻るって言うのは、本心としては、本音としてはどうだった?

帰りたくなかったです。帰りたくない、うちにおりたいですよ、親と一緒におりたい。だけども何のために師範学校に入ったか分からないと。もし帰らないとなると、もうあと1年ですよね。卒業証書がもらえなくなる、教員免許がもらえなくなる。何のために師範学校に入ったのかということと、官費ですよね。もし自分が卒業できなければ、このお金は国に返さないといけないですよね。そういうふうに、そのとき私は考えたんです。だからもうこれは、帰らないといけないと思ったんですね。私たちが帰ると言ったので、下級生の師範の3年生も2年生も帰るということになったんです。その中で仲本好子さんという人の親はね、どうして戦争になるというときに、親たちは沖縄本島が戦場になるというときに、そこに生徒を置くわけはないだろうと、必ず本土に疎開させるんじゃないかということで、新しく布団もですね、本土に行って寒くしないようにということで、布団も作り替えて持たせたと、おっしゃっていました。それは最近、といっても10年ぐらい前に聞いた話なんですけどね。そういうふうにお兄さんが、そうおっしゃっていたんですね。私はもう父を亡くして母と妹と私の3名でしたからね、もし帰らないとなると、今国からもらったお金を返さないといけなくなるので、これはもう親の負担になると思ったんです。

Q:それだけあれですか、先生になりたかったんですか。

そうですね。そうだったと思います。自分自身ではそれないけどですね、私が小学校5年のときの先生が、外間ヨシという先生がいらしたんですよ。その先生は生徒たちが、昔は自分の教室は自分で当番制でやりましたよね、当番の生徒が掃除をした後に生徒たちがみんな残しておいてですね、「小公子」、「小公女」、「あゝ玉杯に花うけて」(昭和初期、佐藤紅緑作の少年小説)というようなね、その本を持っていらっしゃって、そうして、ページをめくって私たちに読み聞かせする。そしてまた、「次のページは明日ね」とおっしゃってね。そういうことをしてくださったんですよ。私はそれに憧れたんです。その先生のあれにね、「ああ私も教員になって、田舎の子どもたちに行って、その子どもたちにこんな話、本を読んで聞かせたい」と、私はそう思ったんですね。だからどうしても私は教員になりたいということで師範学校を選んだんです。ですから私は、師範学校を出るためには何としてでも学校に戻らないといけないというふうな思いを持っていました。もう誰にも言わない思いですけれどもね。そういう思いだったんです、私は。

学校に爆弾が落ちましたよね。そして南寮と、南寮の第四室と・・・との間に爆弾が落ちたんですよ。そしてきれいな水が出るということで、運動場の北の方に水が出るのがあったんですね。そこはとてもきれいな水が出るので、私たちは時間があるときはそこに行って洗濯をして、白いものはさらすということになっていた。そこが軍の、学校に寝泊りしていた経理部の兵隊の炊事場になったんです。炊事場になったんですよね。そしてそこに、3月23日爆弾が落ちた。落ちたので、これはもう大変なことになったということで、いよいよ軍隊の方に行かなければいけないということになって。そして3月23日の夜10時を過ぎたころに、学校を出発することになったんです。部長先生の住宅前の広場に集められて、「これから君たちは南風原の陸軍病院に行って軍に協力しなければいけない、沖縄師範学校女子部」こう縮めて言います、「県立第一高等女学部の生徒としての誇りをもって働いてもらいたい。僕は生きるも死ぬも君たちと一緒だと考えていたが、軍司令部からの要請により、首里にある司令部壕に行かなければいけない。君たちは南風原で頑張ってほしい。」そのような言葉だったと思います。で、縁側から下りてきて一人一人と握手を交わしたんです。私はその部長先生の手をしっかり握って「頑張ります」と言って校門を後にしました。

そこではですね負傷兵の看護をしないといけませんですよね、それでそこにはもうたくさんの負傷兵が並べて寝かされているんです。最初はもうみんな、最初はですね生徒たち、行った生徒たち全部が、あれだけまだ負傷兵がいないんですよ。だから、私たちは、本科2年は卒業生ですよね、だから看護活動を受けていない。私たちから最初、看護活動に入ったんです。本科1年から。入ったけどどんどん増えてきましたので、予科の生徒も入って、みんなそれぞれに分けられて負傷兵の看護をするということになりました。最初は外科病棟でした。そこから移動があって第三外科に。伝染病科もない、内科もなくなって第一、第二、第三になったときに、私は第三外科に配置換えになったんですね。

Q:そこでやったことで印象に残ることはどういうことですか。

そうですね、なったときには、そこでなったときに、負傷兵の看護をしていますね。その間にだんだんと傷が悪化してくるんですね。それで「手を切断する」と言われたときに、手を切断されたら字も書けなくなるので、「切断しないでくれ」と言って頼む兵隊がいました。でも「切断しないと治らないんだ」と言われて切断して、「もう字が書けなくなった」、そういうことを言っている兵隊がいましたね。私がいちばん最初、死んでいく兵隊を見たのが両手切断でした。だから自分で自分の世話ができないんですよ。おしっこもできないですし、便も自分でできない。だから私たちがやらないといけないけど、どうしていいか分からないです。私たちは看護婦じゃないですよね。だからもう戸惑っていたんです。そしたら看護婦さんが、衛生兵が来てですね「このようにするんだ」と。「これは性器ではない、物体だ。物体と思え」と。そう言って教えたんですね。それで、それからは尿や排泄物を取るたびに「これは物体だ、物体だ」と自分に言い聞かせて排泄物を取るということを、私はしました。その両手切断の兵隊がですね、いつも側を通るごとに「学生さん、学生さん」とね。呼ぶだけでその人たちは生きがいを感じたんじゃないんでしょうかね。「何ですか?」と言ったら、「学生さん、僕は北海道の出身なのよ」と。「今頃北海道ではすずらんの花が咲いているよ」とゆっくり言うんですよ。私、すずらんの花分かりませんでした。「僕の傷が治って北海道に帰ることができたら、すずらんの花を送ってあげようね。学生さん、ありがとう。ありがとう。」と言って「お母さん、お母さん」と言って息を引き取ったんです。私はそれを見たとき、「ああ、この兵隊さんもう死んでしまった」と思うと同時にですね、「どうしてこの兵隊さんは「天皇陛下万歳」と言って死なないんだろう」と思ったんです。私たちは小学校1年生のときから、兵隊が死ぬときは「天皇陛下万歳」と言って死ぬといって教えられてきたんですよね。だけどその兵隊さんは「お母さん」と言って死んだんです。それで、「ああこの兵隊さん「天皇陛下万歳」と言わなかったね」と私は思ったんですね。でもそれは間違いだったです。みんな、亡くなった人たちのほとんどが「お母さん」と言ったり、家族の名前を呼んで死んでいったんです。

脚なんか、手なんかね、なくなって切り離されますでしょ、重たいです、とっても。普通の手足、自分たちがいるときはこんなにあまり重いと感じませんよね。だけど切り離されたときは重たかったですね。それを持って行って、弾痕に。最初の程は死体埋葬地があってそこに死体埋葬したんです。でもこれも一杯になります。だからまた危険になりますね。だから爆弾が落ちて大きな穴があく、そこに持って行って死体もいちにのさん、いちにのさんと埋葬しなければいけない。それで手足の切り離されたのをそこに埋葬しないと。とっても重たかったですね。切り離された手足と言うのは。普通の、私たちが今使っている手足ではないです。とっても重かったですね。それを持って行ってそこに、弾痕にもう捨てるというのかね、そういうふうな感じだったですね。

Q:弾痕というのは、爆弾が落ちた穴?

穴です。穴。爆弾が落ちた穴です。最初はですね、埋葬地点があったんですよ。でもそれまで行く距離が長いし、その間にやられて死にますよね。また、そこも満杯状態になっていたそうです。

その前に南風原でですね、島袋ノブさんが亡くなったんですよ。第三外科でですね。その人は初めて第三外科で亡くなったので。それがですね24時間交代してたんですね。だから私は24時間、交代の生徒の来るのを今か今かと待っていた。また交代の生徒が早く行かないといけない、時間が過ぎてるということで何度も壕の入り口に来るけど、砲弾が荒れ狂ってなかなか出られなかったそうです。でもやっと砲弾が止んだので、「今だ!」と玉代勢秀文先生に引率された交代の生徒たちが1つの丘を越え、2つの丘を越え、さらに行ったところに第三外科の将兵の壕があったんです。あと10メートルぐらいというときに、迫撃砲の集中攻撃を受けたんです。ダーッと砲弾が飛んできて、「やられた」という声を私は壕の中で聞きました。走りました。そこに行くと島袋ノブさんが血まみれになっているんです。その人を担架に乗せてきて、壕に入れて手術が始まったんです。その島袋ノブさんの砲弾の入り口はこれくらいだけあったんです。右肩甲骨の下から入ってですね、砲弾は斜めに突っ走ったんです。片方のお尻が真っ二つに裂けて、せき髄がぐちゃぐちゃになり、腸が飛びだしていました。「お腹が痛いよ、痛いよ」と島袋ノブさんが泣き叫ぶ。私たちに言えることは「傷は浅いよ、しっかりして」ということでした。砲弾でやられたときの肉はぎゅっと縮んでいたんですよ。ぐっぐっと伸ばしてきてね、飛びだしてきたせき髄や腸を中に押し込めて縫合していったんです。そして「水をちょうだい」と言ってしょっちゅうねだるんですね、だから軍医は「もうダメだ、飲ませ」って言いました。島袋ノブさんはその水を飲んで、しばらくして息を引き取ったんです。そのとき玉代勢秀文先生は、その島袋ノブさんの死に顔に自分の顔を近づけて「島袋、すまなかった。許してくれ、許してくれ。君たちを戦場に連れて来た。そして君を死なせてしまった」と言って、男泣きでね。泣いていらっしゃったんですよ。それを見たとき私は本当に、戦争のためにこうして友だちが死んでいく、たくさんの兵隊が死ぬ、その悲惨さ。それを私は初めて知ることができたんです。今まで、死んだ死んだとそれだけですよね。でも身近な者がどんどん死んでいく、それには耐えられなかったですね。

南部に撤退しろという命令が出されて、重症患者は壕に残しておき・・・いいですか?「歩ける負傷兵を、重症患者は担架で運ぶから君たちは心配するな、独歩患者を連れて撤退するように」と言われたんです。それを信じました。軍隊はきっとそうしてくれるだろうと思ったんです。そのことを負傷兵に話しました。でも重傷の負傷兵たち、2段ありますよね、上の段は重症患者なんです。出入りができない人。下の段はできる人ですね。で、上の段の重症患者なんかは自分で転げ落ちて、壕の入り口に這(は)いずってきて「学生さん、どこに行くんですか?学生さん、連れて行ってくれよ」と叫び続けていたんです。今でもその声は聞こえてきます。でも、軍の命令はどうすることもできない。歩ける負傷兵の手を引っ張ったり肩を貸してあげたりしながら、わずかばかり残された衛生材料を持たされて、南部の方に来たんですね。南部に来まして、真壁というところですね。連れて来た兵隊たちは「連隊に戻れ」と言われたんです。連隊がどこにいるか分かりませんよね。だけどそこで、結局その兵隊たちは軍から見放されたということになったと思う。あのときはまったく私はそんなことは気づきませんでした。ああ、この人たちは軍隊から離れるんだなぐらいに思ったんですね。南部に撤退してきて、真壁という集落に入ったんです。そこはもうそのときまで弾は落ちていませんでした。そこで休憩したんですね。そこで照屋キクさんという予科2年生がいて、そのうちがあったんですね。そこで生徒たちにはぜんざいが出て、先生方にはゆでたまごが出るというような歓待を受けてですね。そして壕はまだ探せなかったんです。そこで照屋さんは「あんたはもうここでいい、親と一緒にいなさい」と。「いや、自分は生徒と一緒にいるんだ」ということで私たちとついて来たんです。真壁の集落に行って弾が落ちていないので、そこで一泊したんですね。そしたら、沖縄の私たち八重山はそうじゃなかったんですけど、畳をみんな裏返しにして積んであるんです。これはお客さんがいらっしゃった何かの行事のときに畳は敷くそうです。それも後で、まったく戦後に分かったんですけどもね、その畳を出して、そこで私たちを歓待してくれたんですね。それで、壕が見つかったということになって、そこで歓待を受けて、畳の上で3か月ぶりに寝てですね、とっても私たちははしゃいだんですよね。それで、壕(ごう)が見つかったということで、その翌日に、今のひめゆりの塔の壕に、第三外科は行くことになりました。そこでは、看護婦も、第三外科の看護婦も軍医も衛生兵も、そして住民の人たちもいましたので、百名ぐらいの人がこの壕にいたと思います。そのうちの51名がひめゆり学徒隊です。5名の先生と46名の生徒がその壕にいました。第三外科だけでなくてですね、本部から、壕が一杯だということで、じゃんけんをして勝った6名が第三外科に来たんですね。それから一日橋分室、識名分室の生徒たち、親泊千代子先生に引率された生徒たちは壕が探せないということで、第三外科に入れてくれということで、その人たちも第三外科に来たんです。それで合わせて5名の先生と46名の生徒が、ひめゆりの塔に爆弾が落ちたときはいたということになります。

そして「食糧を探してこい」と言われて、沖縄の民家では瓶(ビン)ですね、その瓶に水瓶があります。それの小さいのがありますね。それに食糧を蓄えるんですよね。米があるということで、「それを奪ってこいと」言われて、その兵隊が奪おうとしたときに、その主のおばあさんが出てきて、私たちが持つ人なんですよね、でやったら、そのおばあさんが髪を振り乱して来て、この瓶をね、食糧の入った瓶を抱いて、「これは持って行かないで下さい、私たちはこれしか食べるものがありません、持って行かないでください」と地面に額をすりつけて願ったんです。でもこれはできない、というふうにしていったんですけれども、とうとうそれは取らなかったんじゃないかと思う。それを生徒に言ったんです、大湾敏(子)さんという本科2年の生徒に言った。その本科2年の大湾敏(子)さんは取れないんですよね。取らないで帰ってきたから「貴様がぐずぐずしてたから、こんなことになるんだ」と言われてパンパンとたたかれて、顔が腫れるほどたたかれたんですよ。だから「大湾さんこんなにたたかれるんなら、あれ持ってきたほうが良かったね」と私が言ってしまったんですね。そしたら大湾さんは「私は読谷村の出身だ。米軍が読谷から上陸したと聞いている」と。「私の親たちもこうして兵隊に食糧を奪われているかと思うと、私はとても取れなかった」と彼女はそう言って泣いていました。ああ、そうだったのと。私はそれを気づかなかったんですよ。ただあんなにたたかれるよりは、というふうに思ったということが、今でも後悔しています。なぜ自分はそういうことに気づかなかったのか、という思いを持つんですね。あんなにぱんぱんに腫れるまでたたかれていた、そういう思いを持つとね、やっぱりどんな戦場の中でも親のことなんですよ。家族のことなんです。それが頭をよぎる。そしてどうしても生きていかなければいけないという思いを持つこともできるんじゃないかと思っております。

Q:それでその第三外科壕に入って、そこで解散命令を聞くわけですか。そのときはどういうお気持ちでした?

そのときはなぜ今解散するかと。まだ頑張れるんじゃないかというような思いを持ったんですね。でも、ここをみんな今一緒にいると、一緒にいるけど、解散したらちりぢりになって死ぬんだと。同じ死ぬなら一緒に死んだ方がいいと私は思ったんです。だから「一緒に死なせてくれ」と、「ここで死なせてくれ」とみんな口々にそう言っていました。

Q:解散命令を伝えた人は誰だったんですか?

宮崎婦長です。宮崎婦長が解散命令を伝えました。

Q:それはどういう言い方されたのかっていうのは覚えていますか?

どういう言い方かあまり覚えていませんけども、「これまで君たちは一所懸命軍に協力してくれた。でも軍はもう解散命令が出た。これからは君たちは自由だ。どこに行ってもよろしい、この壕を出て行け」と言ったんです。そう言ったんです。なぜ私たちを追い出すのかと、あんなに軍に協力してきたのにね、一緒にここで死んでいいんじゃないかと、私たちを見放すのかと、軍隊から外れたら犬死だと、靖国神社にも祀られないんではないかと、本当に私個人はそういう思いを持ったんですね。犬死にだと。「一緒に死なせてくれ」と口々に願い出ました。「できない、解散だ」と、「出て行け」と言われたんですね。もう出て言ったら死ぬしかないと思いました。

だから誰が言い出したか分かりません、「この壕を出たら死ぬんだから、今お別れ会をして出よう」と言いました。みんなそれに賛成したんです。真っ暗い洞窟の中で、死を覚悟してのお別れ会が始まったんです。この壕には、浪花節の上手な予科3年の上間道子さんがいたんです。その人はいつも何かのときに浪花節をして、学校の行事でも拍手喝さいを浴びていたんです。その人がトップバッターに立ちました。真っ暗い洞窟の中にその浪花節の声が朗々と響きわたりました。先生方が次々と歌われました。東風平先生は音楽の先生、玉代勢先生は音楽がとても上手で好きでした。先生方が次々歌われ、みんなで校歌を歌い、『海ゆかば』という軍歌を歌い、最後に『故郷(ふるさと)』を歌ったんです。「うさぎ追いしあの山」と歌うとね、涙がもうとめどなく流れてきて、みんなこれが嗚咽(おえつ)に変わりました。最後まで歌うことはできなかったんです。それが終わっていよいよ壕を出ようとしたときに、「足音が聞こえる」と兵隊が言ったと思うと、上から言ったんですね、それ、もう米軍に発見された、と思っているうちに、上から「この壕に住民はいないか、兵隊はいないか、いたら出て来い」と変なアクセントの日本語で何度も何度も呼びかけがありました。誰一人出て行こうとしない、「この壕は爆破するぞ、いいか」と言ってきた。それでも出て行かなかった。すると上からダダダーっと爆弾が投げ込まれたんです。真っ白い煙がもくもくと立ちこめ、一寸先も見えず、みんな、私もみんな投げ飛ばされ、みんなのたうちまわっていたと思います。「お母さん助けて、お母さん助けて、お父さん助けて」と。私もお母さん助けて、お父さん助けてと、先生、助けてと、それは言い続けたと今でも覚えています。そのうちに意識を失ってしまった。

投げ込まれて、もう「ガスだ!ガスだ!」とみんなわめいているうちに、そのうちに私は意識を失ってしまった。私は死体の下敷きになっていたそうです。それまで玉代勢秀文先生が生きてらっしゃって、「守下!守下!(宮良さんの旧姓)」と言って。「生きていたか!生きていたか!」と。生きていると自分自身では何も分からない。先生がいらして、こうして這いつくばってるのを横から先生が、自分の手を私の脇と脇とに入れて引っ張りだして、顔をパンパンと叩いて揺さぶって、「守下!守下!」生きてるかと。何のことか分かりません。ただ「水、水」と言ったようです。この壕はもう米軍に包囲されて外に出ることができない。ちょんちょんと岩しずくが落ちました。そこに脱脂綿を先生ははってあって、それを吸わしてくださったんです。ちょんちょんと落ちる水。住民がいたのを出してますから、湯のみ茶碗なんか持っていませんよね。それに脱脂綿を敷いて水を溜めていた。それが半分ぐらい溜まっていたと思います。それを飲ませてくださって、私はやっと這いずることができて、友だちの近くに行って、「ちょっとこっち空けてちょうだい、私、体がくたくたなの、あんたの側に寝かせて」と言ったら聞いてくれない。「ちょっと空けてよ」と言っていましたら、側にいた仲田ヨシさんが、「この人たちみんな死んでしまったよ、爆弾投げ込まれて今日で3日目よ、3日目にあんたは生き帰ってきたのよ」と言ったんです。それで爆弾投げ込まれて3日、友達が死んだということが初めて分かったんです。その後4日ぐらいいました。ですから、その亡くなった人の死体にウジがわいたんです。だから、とってもつらかったです。友だちが死んで、その死体にウジがわく、それを見なければならなかった。とてもつらかったですね。

たぶん24、25日でしょうね。と思います。3日間意識不明ですよね。その後またそこから、そこで出るに出られないからそのままいましたのでね。たぶん5日ぐらいはその壕の中にいて、それで収容、もう判断をつけて出るということになりました。そのときまで玉代勢秀文先生は生きていらっしゃったんですよ。だからそれも出ないといけないということになりまして、先生たちも軍服を脱いでですね、そしてこれは玉代勢先生の奥さんからは「言ってくれるな」と言われてるのがあるんですよ。自分の夫はそのままで出て行ったということにしてくれということを言われているんですけどね。生徒たちが、もんぺなんかもそのまま、荷物もそのままにして亡くなっていますよね。で先生は生徒のもんぺを身付けてですね、三角頭巾で頭をしばって、だから、女性の格好というのか、民間人の格好で出られたということになるんです。途中で、出るときに先生は、「軍医なんかは本土から来ているから道が知らないから、私は軍医たちの道案内をしなければいけないから、君たちは後からついてこい」とおっしゃったんです。そして出られたんですね。だから、その後の先生の行動は分かりません。それはもうみんなバラバラに、5名ずつ組を組んでから匍匐(ほふく)前進でこう行って、ぱっと立つ、でまた次の人はこうして行って立つと。一緒になったらまた進むということでしたけれども、それは実際にはできませんでした。みんな逃げるのに精いっぱいです。他の人のことなんか構っておれない。それが戦場だと思います。しかたのないことだと思う。

そして匍匐前進で逃げるんですよ。こっちから這いずって行って、匍匐前進で行って、「3名ずつ組みを組め」と言われて3名がぽっと立ちますね、と次の3名が行って合流する。また来る。というふうにしてやっていましたけれども、もう夜が明けてしまった。米軍の飛行機が飛んできた。もうおれなくなって、みんなバラバラになってしまって、最後は私と看護婦と2人になった、そのときに米軍に発見されたんです。もう最期だと思って、「手りゅう弾持ってるよ」、「じゃあ死のう」ということで、この手りゅう弾の信管を看護婦が抜いてたたきつけたら、これがふわっと爆発しなかった。その間に米軍がさっと来て収容されたんです。でもいざとなったとき、米軍がレイプなんかしたら絶対に生きることはしないと、自分で死ぬと、そのトラックから落ちてでも死ぬと思いました。でもそのトラックは他の人たちもみんな、収容された人たちを1台のトラックに乗せて、それが伊良波、今の豊見城市、伊良波に着いたんですよ。そこに行くとたくさんの人が収容されているんです。日本の兵隊もいるんですよね。そして住民もたくさんいました。その人々に対して、最低限の食糧をアメリカ軍のクラッカー、何ですかね、携帯口糧がありますね、それを3箱ぐらいずつぼんぼん投げてる。これは毒が入ってると思って食べなかった。誰も食べない。それを配った米兵は開けて自分で食べて見せたんです。だから、「あ、これは食べれる」と言ってみんな食べたようですけど。そこで乗せられて、どこに行くか、連れて行くか分からない、で連れて行った所が、私が連れて行かれた所が嘉間良(現沖縄市)。だから誰も分からない所に私は1人、そこに連れて行かれたんです。看護婦さんと一緒だったけど。

Q:アメリカ兵に捕まったときの気持ちは、さっき自決しようとして手りゅう弾を爆発させようとして不発になったとおっしゃった。捕まったときの気持ちっていうのはどんな気持ちでしたか。

どんなことをされるか恐怖でした。レイプされるかどうか分からないと。レイプなんかしたときには、もう自分で舌を噛(か)み切ってでも死んでやろうと思いました。だけどその米兵たちは、ぼろぼろの着物を着けたアカだらけの年寄りもですね、両手ですくってトラックに乗せてるんですよ。栄養失調の腹のふくれた子どもたちも抱いてるんです。これは何なのと思いました。これは宣撫工作だと、アメリカはこんなに親切だと見せつけてる、そんなにしか思いませんでしたよ。親切だなんか思いませんでした。宣撫工作だと私は思ったんですね。だから、こんなのにだまされてたまるかと思いました。そして豊見城市の伊良波に着きますとね、そこではたくさんの人が収容されていたんですよ。そして最低限の食糧を与えられてね、生き返ったという印象を受けたんですよ、その人たちが生き返っているという感じを受けたときに、これはおかしいと。鬼畜米兵じゃないかと。米兵がそんなことをするのかと。きっとだまされているかもしれない、まだこういうような疑いを持つ気持ちは残っていましたね。で、トラックが出るというものですから、私は何も持たないで出ているんです。

嘉間良の収容所に着きました。そこでも誰も分からない、だから嘉間良に本部の生徒、本村さんなんか来ていたようですけれども、私が1人で大変苦労しているというのを聞いたけれども、そこまで手を伸ばすことはできなかったと言っていました。1人になったんですよ、たった1人に。誰も分からない所に私は1人になってですね、そしてそこには民家に入れるんですよね、それで私はヤギ小屋に入れられたんです。ヤギ小屋に入れられて、何もつけるものなく着の身着のままで、前の方はまた田んぼになって水が流れていたんですね、だから皆が寝静まってから起きて、軍服の、軍の作業服なんですよ、上が。それでズボンも軍のズボンをはいていましたのでね、それを洗って干して、わらをかぶってヤギ小屋で寝たんです。そして皆が起きない前に起きて、まだ乾いていないその軍服、ズボンをつけてですね、自分の体温で乾かす、そういうことをしました。

Q:最初に戦争が終わって、つまり夏休みで学園に戻る人と戻らない人に分れたりしたんですが、初めて石垣島に帰ったときはどんなお気持ちでしたか。

みんな、桟橋は黒山の人だかりでした。沖縄から生き残った人たちが帰るということで人だかりだったんです。そんなにして私たちが迎えられるということは夢にも思わなかった。そこにはたくさんの人が来てですね、帰ってきた人たちがどんな服装でどんなにして帰って来るかというのが見たかったらしいですよ。みんな来ましてね。私の小学校のお友だちなんかみんな来てくれたんですよ。そして私がどの艀(はしけ)から、艀ですね、そこから降りるとみんな囲んでから、「ああ生きていて良かったね良かったね」と言ってくれたんですね。私はね、この友だちのことよりも親が見たかったんですよ。親が。まず親に会いたいという思いだったんです。友だちもありがたいけれども、ひと目親に会いたいと思ったんです。その中で、たくさんの人ですから、やっと親を探したんですね。だから親に抱きついて「お母さん!」と。あのときに生きて帰れて良かったと初めてそのとき思いました。

Q:同郷の人で亡くなった人たちもいたわけですよね。

そうです。だからそれもね、どう話をするかということがいちばんつらかったです。だから亡くなった人のうちの前はなるべく通らないようにしましたよ。初めの程は。でもどうしても話さないといけないのでね、それで野里末(子)さんという人が下級生、一期後輩ですが、その人の親が「あんたは生きて帰ってきて、うちのスエは死んだ、そのスエはどうなるのか」と。「あんたは生きて帰った、なぜうちのスエを連れてこなかったか」と迫られました。とってもつらかったですね。同じ第三外科だったんですよ。同じ所にいた。でもあの人は喘息(ぜんそく)もちだったんです。以前から気管支が悪かったんですよ。だから早く亡くなったんじゃないかと思います。だから仕事はあまりあれにはさせなかったんですよ。体が弱いからといってですね、させなかったんですけれども、そういうことを親に言う事はできません。「一緒に頑張った」と、最後まで本当に最後にいたんですよ、「姉さん姉さん」といつも私を頼りにしていたんですよね。とうとう、もう。

Q:戦後、やっと念願だった学校の先生になれたわけですけれども、なったときは、先生になったときの気持ちっていうのはどんな気持ちだったんですか?

それは、今までたくさんの人を失っていますよね。だから、この子どもたちは二度と戦争に行かせたくない、そういう思いを持ちました。私たちのできなかった事、それは今からの子どもたちがしてくれるようなことが、これからの教育ではないかと。そして真実を教えることが大事ではないかと思ったんです。私たちは、戦争はもう勝ってる勝ってるということばかりですよね。戦争で死ぬことが名誉のことだって。そうではない。生きることが名誉のことだと。そういうことに生徒たちを指導していかなければいけないなと、私自身は思っていました。

Q:今、資料館の館長として、子どもたち、特に修学旅行生の若い子たちに、そういう体験を語り継ぐ活動をされてるわけですけれども、宮良さんが今いちばん願ってることっていうのはどういうことでしょうか。最後にちょっとお聞きしたいんですけれども。

それはですねやっぱり資料館に入ってくれることが大事だと思うんです。入ってくれないで素通りするということよりは、入ってくれることによって、そこで働いている私たち、また後継者たちも一所懸命戦争というものを知らせようと頑張っていますよね。だから少しでも多くの子どもたちが、そして中学生が高校生が来てくれること、今の世代の子どもたちに、私たちはあと何年生きられるか分かりません、それを伝えなければいけない義務がある。それが今の私たちの務めだと思います。1人でも多く資料館に入ってほしい。そして戦争というのは何なのかということをしっかり見つめてくれて、二度と戦争はしないという気持ちを少しでも持ってくれて、それを次の世代にバトンタッチしてほしい。そういう思いですね。

Q:伝えなければいけないことの中、子どもたちが今いちばん感じてほしいっていうのはどういうことですか?

感じてほしいということはですね、命ですよ、命です。生きるということです。それがいちばん感じてほしい、だけど子どもたちには分からないと思います。それは、友だちと仲良くすること、周囲の人と仲良くすること、それが大切ではないかと思います。それが命につながっていくと私は思っていますけど。どうでしょうか。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・ひめゆり学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼる。

この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われた。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされた。

そのうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人は、「ひめゆり学徒隊」として組織され、陸軍病院で負傷兵の看護などに当たった。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることも多かった。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものだった。

撤退先の本島南部の伊原第一外科壕や第三外科壕に移ってからの6月下旬、米軍の掃討攻撃で多くの学徒が命を失った。

最後には、なすすべを失った日本軍によって学徒隊に解散が命じられ、生徒たちは、本島南部の海岸や森の中を彷徨せざるを得ず、集団自決に追い込まれ、あるいは米軍の攻撃でさらに命を奪われていった。
6月23日に沖縄における組織的な戦闘は終わったが、ひめゆり学徒隊240人のうち、136人の命が奪われた。

戦後、生き残った人々を中心に「ひめゆり同窓会」が組織され、1989年にはひめゆり学徒の悲劇を後世に伝えるため、伊原の壕跡に「ひめゆり平和祈念資料館」を開設。いまも、多くの元ひめゆり学徒が「沖縄戦」を伝えるために活動を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
石垣市に生まれる
1941年
沖縄県女子師範学校入学
1946年
沖縄文教学校師範部入学
 
石垣島で小学校教諭に
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2009年
ひめゆり平和祈念資料館館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団理事

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