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タイトルタイトル: 「学徒隊解散・自決を覚悟」
名前名前: 宮城 喜久子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年3月23日

チャプター

[1]1 チャプター1 希望に燃えていた学園生活  04:20
[2]2 チャプター2 皇民化教育  02:42
[3]3 チャプター3 反対した両親  04:41
[4]4 チャプター4 南風原へ  02:41
[5]5 チャプター5 戦場の卒業式  02:51
[6]6 チャプター6 経理部勤務  02:55
[7]7 チャプター7 南部への撤退  05:08
[8]8 チャプター8 伊原へ  01:50
[9]9 チャプター9 第一外科壕の悲劇  04:40
[10]10 チャプター10 解散命令(一)  09:55
[11]11 チャプター11 解散命令(二)  07:36
[12]12 チャプター12 捕虜  02:33
[13]13 チャプター13 14人の遺骨  04:17
[14]14 チャプター14 いま伝えたいこと  03:36

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収録年月日収録年月日: 2011年3月23日

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卒業生では私が最後の卒業です。昭和20年で。一高女の最後の生徒、ということになりますね。

Q:その入学した当初といいますか、戦争が始まる前ですよね。学校の雰囲気というのはどういう感じだったんですか?

そうですね、もちろんあの、小学校のころからやっぱり15年戦争の中の学園生活、学校生活ですから、小学校にいるころから慰問文書いたり、戦争はどうなってるとか、そういう雰囲気はもう中で過ごしていましたから、入ってその続きというか、まだ15年戦争の中の雰囲気でしたけど。でもそんなに緊迫した感じじゃなかったですね。逆に、もう何か一高女に入学してからは、すごい希望に燃えてますから、たいへん周辺が明るく見えましたね。

Q:学校のなかで軍事的な色彩といいますか、軍事教育、軍事教練といいますか、そういうものが入るようになってきたのはいつごろからだったんですか?

それは3年生のころからです。1、2年生の間は、わりかし自由とまではいかなくても、のびのびした雰囲気でしたね。1年生のときに「駅馬車」というアメリカ映画を見て、もうそれがとても感動したんですよ。それがきっかけで英語が好きになったりしたんですけど。そういう雰囲気だったのが、突然2学期に、12月8日、太平洋戦争が始まりました。それからぐっとまた雰囲気が変わりましたね。校長先生も朝礼のたびに「アメリカと戦争をしている。心を一つにして、その戦争を勝ち抜くために皆頑張らんといかん」というような話が、講話が多くなりましたね。だから、1年生の2学期後から、でもそれでも、そんなにまでも「戦争だ、戦争だ」という雰囲気ではなかったんですけれどもね。入った時期に比べて、やっぱり少し、軍事化に少しずついってたんじゃないかなと思いますね。でも授業の中ではそんなに。例えば体育の中でも普通の、そんなにまで、例えば竹やり訓練とかそんなのなんかないんですよ。2か年は、あまり私は変化なかったと思います、大きな。3年生から急激に変わったんですよ。

Q:3年生というと何年?

ちょうど昭和18年です。国も戦況が悪化して、いろいろ玉砕とか、そういうような、何かすごい緊迫したニュースが伝わるようになって、それからだんだん学園生活も厳しくなっていきましたね。

やっぱり琉球の国の間はほんとにのんびりと自分たちで、自治も自分たちで、自治的な生活をしていたわけですよね。それが明治の終りに日本に統一されて沖縄県になって、明治・大正・昭和と、その、なった途端に沖縄の人の民度が低いとか、それから方言を使って日本の人とは相いれないとか、いろんなことが目についたわけです。それを結局、日本政府は早く同化させたい、本土の人たちと同じように。それで、立派な日本人になれと。立派な日本人になるということは、結局、日本国民が尊敬、崇拝している天皇陛下、皇后陛下を大事にする、それから考え方も本土の人に負けないように、考え方に追いつくように勉強するとか、方言は相いれないからもう方言は使わないとか、そういったいろんな制約、その全てが皇民化教育じゃないですか。それが結局は成功したというか、沖縄戦で花開いたわけですよね。だから、そういう皇民化教育というのは単に1、2年やったんじゃなくて、明治大正昭和と長い期間をかけてやってますよね。特に、おじいちゃん、おばあちゃんの写真を飾っていたところに天皇陛下、皇后陛下の写真と替えるとか、そういうふうに、政府からいろいろ指導して、それがあとは実際に思想的になってしまうわけですよね。だから皇民化教育というのは、県民にとってはじわりじわりじわりと、立派な日本人になるためにはどんなことも耐え忍ぶと、それが沖縄戦で発揮されたと思うんですよね。

ちょうど昭和20年の2月22日。ここがもう大空襲だったんですよ。ほとんど学校全体がやられて、そこの近くの井戸があったんですけど、そこでもいっぱい人が死んでましたしね。それでもう壊滅状態になって、寮が少しと修養道場が残っていましたけどね、その晩、私は先生方から「今晩すぐ実家に帰りなさい」と言われた。みんなそのまま夜ですよ。夜の道を通って、歩いて実家に帰った。54キロぐらい歩いて。あのときはもう汽車も爆破されて、バスもないですよね。先生方は帰る前に、「近いうち学徒動員で南風原の陸軍病院に行くので、その許可を両親にもらってきなさい。で、しばらくしたらまた寮に戻ってきなさい」と、そうやって帰されたんです。私はずっと何キロも歩いて行きまして、ちょうど今、泡瀬という所がありますけどね、そこへ行ったらもう半分以上空爆でみんな焼け野原になって、いくらかは残ってました。私の父が住んでたところはもうダメだった、もう焼かれて。それでずっと近くの比屋根という小さな村がある、そこの方に避難してたんですよ。で、探し探し行って、ちょうど父と母がいる所に、小さな小屋だったんですけどね、弟と妹、そして父母の姿を見て、家で全部なくなったよと。父はもうただ、僕は何を失くしても、何でもいいけど、本だけはもう悔しいと言ってました。本を全部焼いてしまったと。でも私は無事な姿を見て。で2、3日してから私言ったんですよ、「寮に帰らないといけない、お父さん、近いうち戦場動員があります」と。先生方から「動員に行っていいかどうか、父母の許可もらってきなさいと言われた」と言いました。そしたら父は即座に「お前を16歳まで育てたのは、死なすためじゃない」と言ったんですよ。私はもう、父は小学校でいつも見ていますから、小学校時代、体育主任をして号令をかけたり、すごい元気な父だったんですよ。もう本当に自分が理解できなかったですね、父を見て。何であの学校にいる、あの姿とはまるで違うと。本当に父の顔をまじまじと見ましたよ。何を言ってるんだろうと。そして更に、「女の子が戦場へ行くな」と言ったんです。だって自分は生徒には戦場に行きなさいと、そういう教育をしている教員ですよね、とっても私、不信感を持ちましたね。しばらくしたら、母が隅っこのほうで泣いてたんですよ。そして私に、「お父さんの言うとおりよ。行かないで、一緒に、山原(ヤンバル・沖縄本島北部)に逃げなさいと言われてるから、一緒に逃げよう。もう卒業証書もいらない、将来教師になれと言ったのもそれもいい、一緒に逃げよう、帰らないで」と言った。そのとき私は母に、「お母さん、非国民と言われるよ」と。非国民というのは当時沖縄の県民にとってはいちばん侮辱的な言葉ですよね、母が泣いているのを、本当にこう、こうやるのを振り払うようにして、その小屋を飛びだして、また夜ずっと歩いて、ちょうど普天間あたりに来たときはやっぱり母が泣いてたことを、何か頭に浮かんでちょっと悲しくなったんですよ。やっぱり親はつらいだろうなと思ったんですよね。ちょっと泣いたんです。でも気を取り直して寮に戻りました。寮に戻って、翌3月23日に戦場に行ったんです。だから1か月前には許可をもらいに行ってました。

夜の10時ごろ先生方から「今晩南風原へ動員されて行きます、すぐ校長住宅の前へ集まれ」と言われました。そしてみんな急いで支度して集まったんですけど、そのときみんなも「これ持って行く?」「これどうする?」こんな会話なんです。まったく戦場に行くような雰囲気じゃないんですよ。あのときの雰囲気を考えると、私は戦場というのは全く知らないし、戦争に対する恐怖というのもないし、まるでもうどこか遠足にでも行くような、そんな感じでした。「これはダメよ、これは持って行こうね」と。だからみんな歯ブラシとかいろんな身の回りの物を持って行きましたよね。で集まって、校長住宅の前に。月夜でした。生徒も先生方も並んで、校長先生は住宅の廊下に立っていらして、ちょっと高くなってるんです。今の「栄町りうぼう」(スーパー)の所ですけど、立って、そして「女師・一高女の生徒として恥じない働きをしてこい」と、そうおっしゃってました。師範生からは部長、西岡部長、私からは一高女の校長、兼務なんですよ。それで「私は軍命によりこれから首里の司令部壕(ごう)に行きます」と、「だから皆さんは元気で先生方と一緒にまた向こうで頑張りなさい」と。「私はこれから首里の軍司令部壕に行きます」と言って。そしてみんな初めて握手しましたね、校長先生と。全員に握手してました。握手して出た門の跡が今そこですよね。この、モノレール駅の下に駐車場がある。あれが入口、私が出た門の跡です。そこから出て、師範の生徒はここから識名行きの識名線、私は・・・、国場通って、ちょっとコースが違うんです。そして出て。ちょうど月夜でしたからね、やっぱり校長住宅の前でのみんなの顔も薄暗く見えましたね。

私たちは卒業式に向けて絶対に歌いたいという歌があったんですよね、それは「別れの歌」といいまして、相思樹並木をテーマにした、そして寮生活とか学園生活、そういう思い出のいっぱい入った詞で、たいへん素敵な詞、それを太田さんという、日本兵の方ですけど、その方はよくひめゆり学園にこられたようで、そのひめゆり学園の様子にたいへん感動して。詩人の方なんですよね、それで詞を作って下さって。それが「別れの歌」なんですよ。それを音楽の東風平先生が作曲なさって、ああこれは卒業式に絶対歌おうということで、卒業式前にもう歌うということは決まっていたんです、それで私も、それを音楽の先生がピアノ弾ける子に譜を渡してあったんですよね、時々みんなで練習したり、作業のときも首里城でも練習したりしたんです。そういうような、とても、とても素敵な歌なんですよ。ほんとに私たちの思い出がいっぱいこもってる、詰まってるいい歌で。それを歌うつもりで行ったら、もう「別れの歌」どころか「海ゆかば」で終わったんですよね。だから私はとっても悔しくてですね、南風原から津嘉山まで、自分たちの津嘉山の壕(ごう)に戻りながら、トラックで行ったんですよ、あのとき。トラックの上でみんなで歌ったんです。「別れの歌」を砲弾の中。歌いながら壕に戻りましたけどね。その、一緒に歌った友達がほとんど荒崎海岸で後で亡くなった友達なんですけど、みんな「悔しいね、絶対歌おうよ」と、もう砲弾なんか気にしないで、砲弾の音を聞きながらその歌を歌って帰りましたね。そういうことで皆、そういう歌を歌いたいという、そういう思いがあったものですから、22年前資料館がオープンしたとき、みんなでもう本当にすぐ決めました。あの227名の中のほとんどがあの歌大好きだったと。その歌をやっぱり鎮魂歌としてね、第四展示室(ひめゆり平和祈念資料館)で流したらどうかと。もうみんなで意見一致して、それで今22年間第四展示室で流れてるのが、あの「別れの歌」です。

津嘉山は司令部壕としてもともと作られてますから、とっても頑丈な立派な壕だったんです。もう南風原(の陸軍病院)とはまったく比べ物にならない。ちゃんと枠もはまっていて、長さも全長2キロメートルなんですよね。そこには軍医部とか法務部、工務部、それから経理部、いろんな部がありまして、一つの司令部として機能していたわけです。その中の経理部がたまたま一高女に駐屯してたんです、ずっと。その経理部のほうに私たちは、南風原から先生方入れて19名配置になったわけです。だから行ったら一高女でいつも見慣れてる経理部の兵隊さんですから、経理部長も覚えてましたし、行った時期からすごいかわいがってくださって、ほっとしたんです。しかも電気がついてました。司令部ですから。びっくりして、南風原では2本のろうそく、1本のろくそくでもうやっと、換気用意とそれぐらいでやっと明かりを保管するの大変だったんですけど、司令部は津嘉山に行ったら電灯はついてますし、長さもずっと長いですし、経理部長の部屋もちゃんとした部屋があるんですよね、別に。壕内ですけど。その構造とか施設には驚きましたね。そしてちゃんと2人に一つずつ寝台が与えられて、すぐ軍服が渡りました。靴まで全部。上下すぐ渡って着替えて、それから私たちの最初の仕事は雑役で、水汲みとか食糧運搬、もちろん砲弾の中です。それが主な仕事だったんですけど、だんだん4月1日(米軍が)上陸した後だんだん戦況が悪化して、南風原も大変な状況になったときに、どんどんこちらにも、軍医部に重症患者が運ばれてくるようになって、それから私たちも軍医部勤務が始まったんですね。だから経理部では雑役、軍医部では看護活動、両方の仕事をずっとやってましたね。

それがですね、ちょうどさっきお話しした、5月の27日に中隊長の方から、「明日最高指揮官が首里の司令部壕からこられるから失礼のないようにしろ」と言われたんです。私は、司令官てどんな方なのかなって、全然興味もなかった。もう兵隊はぴりぴりしてましたね。大騒ぎしてました。28日にはやっぱりどっと首里から、私がいるその入り口から、牛島中将、長参謀長、八原参謀とかどっと来られたんです。で一泊して、それから翌日の29日には、あ、27日にいらして28日には「○○方面へ最高指揮官は移動なさる、失礼のないようにしろ」とまた言われて、みんなずらっと並んで見送りしたんですけど、その○○方面が摩文仁が丘だったわけです。その2日間、もう大変な緊張してましたね、壕内は。で、その後、30・・・あの6月の、5月の25日に南風原のほうは撤退して、私はすぐ近くにいながら31日までいました。ですからもう大変でした。重傷患者はどんどん運ばれてくるし、もう治療もしないんです。もう余裕もなくて。そして誰々が戦死とか、経理部の兵隊たちが本部、南風原の本部の所まで守備に行ったんです。私はその看護活動といってもおにぎり握って、それを届ける。それが防衛隊の仕事でしたね。そうして31日になって英語が聞こえてくると先生がおっしゃったんです。「静かに、静かに出なさい」と。私は3年生の(与座)昭子さん、ケガしてた、彼女に肩貸して、こんな坂をもう泥んこの中を転がって行きましたね。そして、ぎりぎりまで私は残されて、もう、すぐアメリカ兵がそばにいたわけですよ。その中をずっと撤退して、だから上級生よりも約1週間ぐらい遅れて出たんです。だから皆さんが通るときは山川橋はちゃんとあったと。私が行ったときはもう山川橋もない。もうゴーッと水が流れてて、その中を泳ぐようにして渡って行きました。死体もいっぱいあるんですよ。だから1週間違ったら大変ですよ。「死体はなかったよ」ってみんなおっしゃるんですけど、私が行くともう道端には2倍くらいに膨れた死体があちこち倒れてるし、避難民がいっぱい逃げて行くし、大変な状況でした。その中をずっと追われていって、ちょうど高嶺小学校ってあるんですよ。今もありますよね。その下に嘉手志川ってあるんですよ。水音が聞こえたんです。死体の中を歩いてきて、もう臭いもひどいし、とても疲れ果てて、水音が聞こえたものですから、「教頭先生、水がありますよ」って言ったら、「うん、じゃあ飲んでこい」って言って。今考えたら近道がありますね、残ってました。そこから下りて、そして見たらゴウゴウとあの嘉手志が。そこで初めて泥を落として、もう臭いがひどかったから、顔を洗ったり、そうして水いっぱい飲んで、6月の1日に真栄平に着いたんです。もう夜が明けたんです。そしたら低空して飛行機がどんどん撃ってくるんですよ。で先生方は「山の上へ行こう」って言って、真栄平の後ろの山の、一日中そこで震えて隠れてましたね。それから民家を転々としたり、そしてもう毎日毎日それはもう大変。食べ物もないし、本当に逃げて避難するのが精一杯精でした。とうとう6月の、そうですね4日ぐらいですか、6月の4日ぐらいだったと思うんです、山部隊、「山雨の塔」って今あるんですよ。山部隊の立派な壕があって、そこに入れてもらったんですよ。そして、そこで見たら何と経理部の兵隊たちもみんなそこへ入ってました。

10日なんですよ。10日に、もう経理部は、「あなた方解散するから自分たちの学徒隊に戻れ」と言われたんですよ。それでその山部隊の壕から出されて、ずっと真壁を通ってたどり着いた所が第三外科壕です。もうそこは入れませんでした、いっぱいで。「隣の第一外科に行け」と言われて、第一外科に行ったんですよ。それが6月10日でした。だから、ずいぶん私は遅れて行ってる。だから宮良さんとか皆さんは、着いた時期「キャベツも食べたよ」とか、「いろんな食べ物もあったよ」とか、ぜんざいも食べた話するんですけど、もう全然違うんですよ。私が行ったころはもう死体がいっぱい、サトウキビも焼かれて食べられない、そういう状況でしたね。たまたま第一外科に行ったら糸数壕から島袋さんたちが来ていたわけです。もう本当に2ヵ月ぶりに師範のグループと一緒になったんですけど、そこは上は師範のグループと糸数のグループでいっぱいで、私はずっと下の、本当に真っ暗で漆黒の闇の、ずっと下の泥んこの中にいましたね。10日間ぐらい。6月10日から6月19日まで9日ですね。

その間、17日、爆弾が落ちて、そして同じクラスの牧志さんが脚が吹っ飛んで亡くなりました。脚がない、脚がないと叫んでいたそうです。古波蔵さんが即死、比嘉さんが重傷を負って、それから荻堂さんっていう師範生はですね、内臓が飛び出ていたんですよ。押さえてですね、「私はいい、お腹やられた人が助かるはずない、他の人から手当てしてあげて」って息を引き取ったんです。いまだに私は、荻堂さんの言葉信じられないですけど、間際までそう言ってましたね。そして8名が重傷、3名が死亡、その3名の遺体はですね、島袋さんとか師範生の方たちが弾痕に埋めたそうです。埋めるといってもそこに投げ込んだと。8名が重傷だったんです。その漆黒の闇の中の、その中で8名が泣き叫ぶ声がもうとてもつらかったですね。やっぱり闇の中の音というのは、滴がたれる音も聞こえるぐらいなんです。だからもう、ましてあのうめき声、叫び声はとてもつらくて、こうやってそばで耳を塞いでね、みんな泣いてましたね。で教頭先生が突然ろうそく灯したんですよ。そしたら、とてもうめき声が激しかった濱元さん、ほとんどこのアゴが全部なくなってました。で、その濱元さんはお姉さんと一緒にアメリカから日本教育を受けに来ていた方なんですよ。知念さんという方は暗闇の中で「目が痛い、目が痛い」と言ってたんです。目が飛び出てましたね。フィリピンから留学してきた照屋貞子さん、もう両脚が血まみれでした。その8名が泣き叫ぶその前で、翌6月18日の夜、解散命令でした。突然でした。最初ですね、仲宗根先生がおっしゃったんです。「本部壕から通達があった」と。「もうこれ以上団体行動できないので、これからはみんな各々で行動するしかない」と。そして「日本軍は今晩中に出て行きなさいということだ」と。そして「君たちは、出身地別」とおっしゃってました。「出身地別に逃げて行きなさい」と。寮生活ですから、全沖縄から来てますよね。例えば国頭の人、宮古の人、だいたいそうなっていましたね。そうしておっしゃって、最後にですね、「早まったことするなよ」とおっしゃってました。これが印象に残ってます。先生は最後の大きな声でね、「早まったことするなよ」とおっしゃって、それを聞いたんですけど、でも私は「即死がいいね」と言いました。いちばん戦場で何がつらいかというと、死ぬことよりケガすることなんです。南風原でも、生きてる人間からウジをとってあげたり、傷口が腐れて痛いよと泣くのをさすってあげたり、そんなことをしてきた私たちですから、ケガすることがいちばん怖いんです。南風原を発つときも2人先輩残してきました。今度またこの8名も置き去りにするわけですよね。だから、ケガしたら誰が助けてくれるか、そういういろんなことを3か月の間にはみんなそう思ってますから、「一発で死ねたらいい」ってみんな言ってました。そのとおりでした。結局200名近く亡くなったんですけど。

そうですね、壕から出てしばらくしたら、19名で出たんですけど、そのうち6名ははぐれて、12名、あ、7名ははぐれて12名になったんです。束辺名という所でですね。そこからずっと戦車に追われて、その間に、6名はぐれたって言いましたけど、1人は即死、2人は不明になったんです。だからはぐれた人が4名、3名は亡くなったんですけどね、で残った12名で、教頭先生も入れて、束辺名というからずっと山城丘陵、それから喜屋武の辺りのアダンのジャングルをずっと彷徨して、そのときに偶然、喜屋武岬の近くで仲宗根先生とお会いしたんです。で教頭、平良先生は「先生、大丈夫ですか」と。先生ケガしてらしたんで。そのときはまだそんなにまでは弱っていらっしゃらなかった。で、どうするどうすると、先生方同士で話し合ってましたね。そのときにお会いして、それからずっと、平和の塔(戦後建立)ってあるんですけど、その下の断崖絶壁まで下りたんですけど、そこにはもういっぱいですよ、住民から兵隊から学徒隊から、掘割みたいな所があって、いっぱい岩にへばりつくようにして、みんな顔も真っ青ですよね。そこに仲宗根先生が倒れてらっしゃいましたね。こっちから血が流れていて。先生もうだめかなと私は思った。真昼ですから見えた。そこにまた、本艦から船がやって来たんですよ。「泳いで来なさい、泳げない者は港川方面に歩いて来なさい」と。「早く泳いできなさい、みんな保護します」と。そしてもう手招きするんですよ。近くまで来て。そこにいたみんな、もうまた絶壁を、本当にあんな絶壁をよう登れたなと思います、登ってまたアダンの中に逃げたんですよ。もう悪魔の声ですよ。まさか助けるなんて誰も思わないですよ。殺されるか、またはひどいことされるとかね。そういうようなことしかみんなないです、住民もみんな。そしてみんな逃げて、その後から海に下りたりアダンの中をさまよったり、そうしてうろうろしているうちにたどり着いたのが荒崎海岸だったんです。それがもう6月20日の晩でしたね。ちょうどここの門を出た後、ちょうど90日目でした。それまで私は、解散命令までは、絶対に弱音は言いませんでした。みんな勝つとしか思ってない。本当に、今考えると本当に悲しいですけど、そういうふうに取りつかれてるんです。絶対勝つんだと。今に本土から援軍が来て、私たちを逆上陸して助けにくるとか、そういう情報しかないんですよね。だからそういう中で、絶対頑張る頑張ると。つらいときは、「お母さん」と叫びたいときも我慢して、そういう私が突然解散ですよね。あの岩の上で初めて、「教頭先生、つらいです」と言いました。初めて泣いたんです。11名、先生と・・・。「先生、もう楽になりたいです」と言ったんです、泣きながら。「先生が持ってる手りゅう弾のピン抜いて下さい」と言いました。と、先生は「もう少し様子を見よう、向こうには師範生もいる、もう少し様子を見よう」とおっしゃったんですよ。でも私は、もう本当に、「今ピン抜いて下さい」と。あの、当時の自分たちの姿、怖いです。「今、早く早く。」3年生の浜比嘉さんという子はですね、先生にしがみついて、「今、早く先生、怖い、もうアメリカ軍は、敵はやって来てる、早く」と大声で泣いたんですよ。それで私も、先生がもう少しこうやってるの見て、「ノブちゃん(浜比嘉信子さん)もう少し様子見ようよ」と言ったんです。そしたら、「あなた方意志薄弱だね」って言ったんです、この子が。「あなた方意志薄弱だよ」。そうして怒ったんです。それぐらい、すごい、大変真面目な子でした。そしてその晩はちょうど月夜でした、みんなの顔も見えて。で一人っ子だった板良敷さんという子が、初めてですよ、大きな声で泣きながら、「お母さんにもう一度会いたい」って言ったんです。お母さんというのはとてもつらい言葉なんですよ。私も今まで堪えていたんですけど、思いっきり海に向かって「お母さん」と何度か叫びましたね。そのときにやっぱり、最後に母がしがみつくようにして「行かないで」って言ったあのことがちらっと頭に浮かんで、つらかったですね、やっぱり。思いっきり泣きました、その晩。「悔しいね、空の下を大手を振って歩いてみたいね」って(板良敷)良子さんが言ったんです。途中でケガをしていた宮城登美子さん、包帯もないですよね、血まみれで、もうなかなか、どうしてもなかなか助けることができない、海水の中も泳ぐようにして歩きましたから痛いですよね。彼女はもうひいひい泣くんですよ。「我慢しなさい、我慢しなさいと。声出したらアメリカ兵が来るよ」と。で、やっとなだめて、あのごつごつした岩ですよね、そこに私、寝かせたんです。彼女が岩にもたれて故郷(ふるさと)の歌を歌い始めたんですよ。そのとき、周りにいた私たちも、やっぱりあの故郷の歌というのは寮では愛唱歌でしたから、たまにしかうち帰れませんから、歌いたいなって本当にそう思いましたね。でもやっぱり声にはなりませんでした。月夜でしたから、みんなの姿がよく見えたんですよ。いまだにつらいですね。最後の、あのみんなの姿は。そして翌日、みんな亡くなったんです。今は悔しいですよ、やっぱり本音が言えたのは亡くなる前の晩です。やっと本音を言って、今考えるとつらいですし悲しいし、悔しいですね。そこまで15、16歳の女の子が追いつめられて。結局それは本当のことを知らなかったからですよね。やっぱり、アメリカ兵は鬼とか、ひどいことをする、女の子にもひどいことをするとか、それから立派な日本人は女の子だろうが手を上げておめおめと捕虜になるのは恥だと、そういうふうな、いろんな意味で思想的にも追いつめられたのかなって。今は悔しいですね。

Q:その、本音を語り合ったというその晩の翌日はどういう状況になったわけですか。

翌6月21日、とても静かだったんですよ。だから私、教頭先生となら、もうちょうど12名入らなかったんです小さなくぼみで。で私と、比嘉さんと私と、それから教頭先生と座間味さんという今帰仁村出身だった、4名(兵士)座ってて、なんか静かなんですよ。砲弾の音。ただ飛行機がトンボのように飛んで、観測機だったと思う、偵察機。「教頭先生、静かすぎますね、気味悪いですね」って言ったら、先生も「そうだな、砲弾の音も聞こえないな」と。とても不気味なほど静かだった。突然小さな船がまた寄って来たんです、目の前まで。また、おいでおいでして、「泳いできなさい、助けてあげます」と。もうしきりに言うんです。私はもう「嫌だ、あれデマですよね」と先生に言って、こうやって、耳をこうやっているときに、突然、何か見たら目の前から手を上げてザブザブとこう、海の中を歩いて手を上げて行く人、日本兵なんですよ。私思わず、「ひきょう者」って言ったんですよ。女の子の私たちでも絶対捕虜になるまいと思ってますでしょ、何であの日本兵はと思ったんです。そしたらすぐ近くの岩陰から撃ったんです。

鉄砲だったと思うんです。で撃たれて、その日本兵はそのまま海水が真っ赤になってですね、浮いてました。もうそれを見たときに・・・

Q:撃ったのは?

撃ったのはもちろん日本兵。そこにはもう日本兵しかいませんから。そしてそのとき、初めて戦場で、日本兵同士で殺し合うの初めて、とてもショックだったんですよ。ぼう然と見ていたら、そばからも突然血まみれの日本兵が「敵だ、敵だ」と走って、逃げこんできたんです。で私の前に倒れて、胸が真っ赤でこう倒れたんですよ。私はもうただ見ていたら、「敵にやられた、応戦したらやられた」、応戦というのはたぶん手りゅう弾投げたと思う、「応戦したらやられた」と言ってました。その後を追ってきたのがアメリカ兵たちですよ。「出てこい出てこい」と二言です。私とヒガさんは、ちょっと小さなくぼみがあった、そこに倒れ込んだんですよ、先生とみんなは右側に。ちょっとした距離ですけど。後で聞いたらザマミさんは後ろに飛びのいたそうです。日本兵の方。で、倒れた私たち2人の上に、どさっと4名の死体です。アメリカ兵が自動小銃で撃って、3名が先輩たち、師範生。1人が日本兵。死体がどさっと倒れてきた。即死でした。安富祖さん、仲本さん、上地さん、日本兵。そばでは他に3名の師範生たちが撃たれて、大きな声で「撃たないで、やめて、痛いよ」と叫んでいました。私は前の晩から手りゅう弾持っていたんです。平良先生は、「兼城、手りゅう弾のピンは勝手に抜くんじゃないぞ」とおっしゃってました。「手りゅう弾のピンを抜くときはみんなで相談していっせいに抜くんだ」と。「あちこちで手榴弾抜くんじゃない」と。「持っとくだけだ」と。だからずっと持ってたんです、私。もうアメリカ兵が突然やってきてますよね。突然の出来事でした。私はもうこの手りゅう弾抜かないといけないと思ったんですよ。ピンを抜こうとしたら、師範生の安富祖さん、仲本さん、上地さん、日本兵が私のそばまでもたれてこう死んでる、4名の死んだ顔ですよね。手が震えてできないんです。とうとう私は手が震えて、もうじっと震えているときに、そばで与那嶺松助先生が、「ケガ人出せ」とおっしゃったんです。で、先生はあの3名の中の大兼久さん、あの人をおんぶして私の目の前で立ったんです。立ったら、大兼久さんの血まみれの脚が私の目の前に見えた。もう血がたらたらたれて。先生は、その大兼久さんを肩に貸して引きずるようにして出て行ったら、それを見たアメリカ兵は、女の子だと分かったんでしょうね、それで撃つのを止めたんです。先生は「ケガ人出せ」とおっしゃって、その後に私はすぐ飛び出して、先生は前のほうから、私は裏っ側のほうから出たので、私はみんなの所へ行くために、グループの。行ったらもう荒崎海岸一帯、上半身裸の大男たちがいっぱいでした。いつの間にか、わっと攻めてきたんです。だから、後で分かった。「不気味ですね」って言いましたね、静かだ。私の周りにはいっぱいアメリカ兵が攻めてきていたわけですよ。考えたら。味方がいる所に爆弾落とさないですよね。だからとっても静かだったんです。もう一挙に攻めてきて、私はちょっとまわってきて、ほんとちょっとした岩です、そこに立って手りゅう弾握って、ピンを抜こうとしていたんですよ。そしたら3名のアメリカ兵が私を取り巻いてですね、自動小銃を突き付けたんです。そばで一緒に倒れた比嘉さん、「兼城さん(宮城さんの旧姓)、手りゅう弾を置いて」って言ったんです。そのとき私は本当に一瞬の間でしたね、どう、もたついたか覚えてないんです、あっという間に手りゅう弾取り上げられたんです。大男が飛びかかるような感じでした。取り上げた後、一斉に銃をおろして「ヘーイ、スクールガール、スクールガール」と言ったんです。そのとき私は必死になってその大男たちをかき分けて、1メートルぐらい飛び降りたんですよ。そこに10名が、手りゅう弾のピンを抜いた後でした。

Q:その人たちは自決したと。

はい。

Q:手りゅう弾で自決したと。アメリカ兵にやられたんじゃなくて。

はい。ちょうど私が撃たれて叫んでいる、そのときに次は自分たちがやられると。そのときにやったと思うんです。だからフテンマさんは、私が教頭先生の死体のそばに座りこんだら、目の前で普天間さんという友達は「うーん」と言って息を引き取ったんです。他はもう肉片になって散らばっていました。そして宮城貞子さんは目が見えなくなっていたんです、彼女は。栄養失調とかいろんなことで。みんなで助けてそこまで連れて来たんですけど、彼女は空を見るようにこうしてね、遺体はありました。結局4年生は体は残ってました。3年生がほとんど残ってなかったですね。教頭先生は、体の半分は無くなっていました。ただぼうっと先生のそばに、ただぼうっと見ていましたね。ほんとにもう、何の感情も働かないです、あまりのショックで。ただ見ていました。だから、あんなに不気味だね、静かだねって、で日本兵のように、平良先生は、「僕、大宜味村の出身だ、あなたは?」「いや、私は今帰仁村出身です」、「じゃあ近いですね」、こんな会話ですよ。こんな会話してるときに突然日本兵たちが追われてきたんです。一瞬の間の出来事なんです。ちょうどそのころ仲宗根先生のグループは、もう無血状態で保護されたわけ。近くで。ほんとにグループによって、もう本当に悔しいですよ。あっという間に巻き込まれたという感じですよね。だから先生も私に何も、手りゅう弾持ってるときも何もおっしゃらないし、・・・そんなこと何もおっしゃらないですよ。突然のこう、連鎖反応的に起こってしまったんですよね。だから戦場では何が起こるか分かんないですね。

そこから、ただ私がいちばん信じられなかったのは、3名のケガした先輩たちは、アメリカ兵が一所懸命に手当てして。止血をしたりリンゲル注射打ったり、とっても世話してくれたんですよ。長いことアメリカ病院にも入院したそうですが。やっと2人は歩けるようになったんですけどね、アメリカ兵が助けなければ、ヒガソノコさんも大兼久さんも助からなかったと思います。ヒガさんは今でも痛み止めを飲んで生活してるんですよ。それぐらい重傷だったんですよね。だから、そういう自分が受けた教育と、私にも水を持ってきてあげようとする「、ノーポイズン、ノーポイズン、プリーズ、プリーズ、ノーポイズン」とずっと私に水を飲まそうとしたんです。あれだけは私、何で私を助けるのかな、先輩たちを何であんなに一所懸命助けるのかなと。だからあのときの教育はですね、やっぱり敵を憎む教育っていうのはそれはもう戦争だからしかたがないといっても、人間性をまったく逆に教えるということ、これがいちばん怖いですね。アメリカ兵が全く人間じゃないというような、そういう感覚でしかいなかった私たちが、結局命を絶った友達もですね、今言うんですけれども、もし仮にも本当のことを知っていたら命なんか絶たなくて良かったし、ああいう思想に取りつかれなければああいうことにならなかったと思うんですよ。だから、すべて思想教育とかああいうふうな戦争国策を遂行するために間違った教育もまかりとおるという、そういう恐ろしいことが戦争の一面じゃないかなと思いますね。

戦争終わって10か月後に開設された、沖縄文教学校の師範部に入学することになったんです。偶然にまた与那嶺松助先生が担任になられて、一高女、一年のときの最初の担任でいらしたのでとてもうれしかったんです。また、先生は荒崎海岸からも一緒に命を得た、そういうご縁がありました。先生は私を見て「兼城、良かったな」っておっしゃったんです。もう先生の顔を見たら、荒崎海岸のことがぱーっと頭に浮かんで泣いたんです、私も。良かったねとおっしゃったけれども、もう涙が止まらなかったですね。そうしてる中で、しばらくしたら、「荒崎海岸で亡くなったあの14名の遺骨がどうなってるんだろう、拾いに行こう」とおっしゃったんです。「いえ、私は戦場跡には絶対行きません」と言ったら、先生は「あの遺骨はね、私たちしか知らない」と。「あんなへんぴな所で誰も分からないから、遺骨拾いに行ってくれないか」って。何度も言われて、私しばらくは「すみません」と言ってたんですけど、後から「じゃあ誰が拾ってくれる?」とおっしゃったんですよ。先生も涙ながらにおっしゃったもので、「じゃあ行きます」と10か月後に、ちょうど文教学校の嘱託、まあ係でしょうね、二世のジープに乗せられて行ったらもう、山城丘陵とかあちらこちらにやはり遺骨なんかが見えました。そしたらジャングルだったアダンは消えてなくなって、すっと海岸まで乗り込んだんです。そして見てすぐ下りたら、その10名が倒れていたその場所に、ひとかけらも遺骨がないんです。私はそのまましゃがみこんで、何だろうと思って震えてました。そして先生がちょっと、また私が4名の下にいた小さな岩陰に行ったら、4名の遺骨はあったんですよ。特に日本兵の人は金歯がぎらぎらしてて、曹長のあれが残ってましたね、階級章が。私がこうやるとそのままこう。で安富祖さんは岩にもたれて、三つ編みがですね、頭蓋骨にびっしりと、そのままきれいに三つ編みだけ残ってるんですよ。私、その前で大声で泣いたんです。あまりにもつらくて。そしたら、先生もしばらくはだまってらしたんですけど、それからがあまり覚えてないんですよ、どういうふうに拾骨したのか。もうほんとに、そのまま帰って、それからは先生も、一言も私に荒崎海岸の話なさらなかったですね。私はそのときに、もう二度とあの戦場跡には行くまいと、それでそれっきり、27年間そこに私は一歩も行けませんでしたね。実は、ひめゆりの塔ができてすぐそこにはちゃんとモニュメントが建ったんです。荒崎海岸に。遺族の方が中心になって。そのときに除幕式もあったそうです。たくさん同窓生も行ってる。そのときも私は行けなくて、一日中うちで泣いてましたね。行けなかったんですよ。

そうですね。やっぱり、私は戦場に行く前は本当に楽しくクラブ活動したり、プールで水泳したり、首里城で写真を撮って遊んだり、今の国際通りをおしゃれをして、女の子は女の子ですから本当にみんなきれいに髪を結っておしゃれをして、そして買い物行ったり。そうした4年間でしたけど、今考えると大変幸せな日々だったんだなって。そういう日々を過ごしていた友達が突然戦場でかけがえのない命を失ったと。その大きな落差ですよね。だから今若い人たちが当たり前のように生きているその一日一日を大事にしてほしいです。そして命が、すべての原点が命であるということ、それに気がついてほしいということ。だから、当たり前のように過ごしているその幸せが、どんなに大きな幸せであるかということを気がつけば、簡単に自殺したりとか、それから変な行動をしたり、そういうことも、少しはそういうものに走らないような歯止めになるんじゃないかなと、若者の生き方、そういうことが少しは、亡くなった友達のことをとおして生き方にまた活かしてくださればと、そう思いますね。だから結局、16歳で亡くなった友達の悔しさ、それを私は伝えたいです。本当はもっと生きたかった、もっと人生あったんだと。そういう悔しさを伝えれば、やっぱり、どんなに当たり前に思ってる若い人たちでも、しっかりと生きるということ、そういうことに意義を感じるんじゃないかなと思ってます。だから私はいつも、平和じゃないと生きられないということもいつも言ってます。やっぱり平和だから生きられるということも、この沖縄でしっかりと胸に刻んで帰ってくださいと言いますけど。平和が人間にとってすべての原点ですよね。「私が戦後66年間生きてこられた、その66年間という長い月日はなぜ生きられたか、戦争がなかったからですよ」と私は言うんですよ。「そういうことを、日本国民はあまりにも平穏すぎて忘れかけてる」と。「だから、平和じゃないと生きられないということね。そういう大事なこともしっかりと胸に刻んで下さい」と言ってます。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・ひめゆり学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼる。

この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われた。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされた。

そのうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人は、「ひめゆり学徒隊」として組織され、陸軍病院で負傷兵の看護などに当たった。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることも多かった。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものだった。

撤退先の本島南部の伊原第一外科壕や第三外科壕に移ってからの6月下旬、米軍の掃討攻撃で多くの学徒が命を失った。

最後には、なすすべを失った日本軍によって学徒隊に解散が命じられ、生徒たちは、本島南部の海岸や森の中を彷徨せざるを得ず、集団自決に追い込まれ、あるいは米軍の攻撃でさらに命を奪われていった。
6月23日に沖縄における組織的な戦闘は終わったが、ひめゆり学徒隊240人のうち、136人の命が奪われた。

戦後、生き残った人々を中心に「ひめゆり同窓会」が組織され、1989年にはひめゆり学徒の悲劇を後世に伝えるため、伊原の壕跡に「ひめゆり平和祈念資料館」を開設。いまも、多くの元ひめゆり学徒が「沖縄戦」を伝えるために活動を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
旧勝連村に生まれる
1941年
沖縄県立第一高等女学校入学
1946年
以降、沖縄各地の小中学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2009年
ひめゆり平和祈念資料館副館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団執行理事(新規事業準備室長)

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