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タイトルタイトル: 「死んでいく同級生たち」
名前名前: 上原 当美子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 感激した「真珠湾攻撃」  04:48
[2]2 チャプター2 師範学校  03:05
[3]3 チャプター3 迫ってきた戦火  02:15
[4]4 チャプター4 動員  05:08
[5]5 チャプター5 伊原第一外科壕  07:27
[6]6 チャプター6 さく裂  03:29
[7]7 チャプター7 解散命令  07:39
[8]8 チャプター8 捕虜  08:35
[9]9 チャプター9 捕虜収容所  06:57
[10]10 チャプター10 長い間語ることができなかった  05:41
[11]11 チャプター11 戦後知った母の思い  04:42

チャプター

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提供写真提供写真

収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

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Q:上原さんは、昭和16年12月が開戦で、翌年の4月にひめゆり学園に入学したわけですよね?

そうですね。

Q:その昭和16年の開戦っていうか、戦争は始まったという時の印象ってのを覚えていますか?

ええ、もう、あのときは本当に、「神の国、日本」としか教えられてませんしね、「日本は強い」と、「アメリカさんは鬼畜だ」と。もうそういったふうに、もうあれされていますからね。もうあんなうたい言葉、アメリカと戦争するの、当然、日本は短期間で勝つと思ったんですよ。そしてすぐ宣戦布告と同時に真珠湾が攻撃されてますでしょ、もうとっても飛び上がって、喜んだんです。

Q:喜んだ? 

はい。もう本当に全身の毛が逆立ってね、もうやったやったってですね、もう手をたたいて喜びましたよ。

Q:そのときは、高等科?

2年。はい。

Q:やっぱりそういうふうに「神国日本」という意識が強かったですか?

そうですよ。はい。しかも宣戦布告と同時に攻撃でしょ。そんなすばらしいことはないと思ったんですよ。本当に。戦争がどんなものかっていうの、全く知りませんからね。みんな中国でやってるから、戦争っていうの、本当の戦争のこと知らされていませんでしょ。

Q:やっぱりその学校の中でそういう、何と言いますか、授業とか教育とか、あるいは、運動会とか文化祭とか、いろんな面で。

もう、そうですよ。もう、みんな、戦争に向けての教育ですよ。いろんなのが。

Q:その入学する前のその学校の授業とか、教育の中でですね、そういう印象に残ってる、まあ、いわば軍事教育というんですかね。そういうのは、どういうの覚えてますか?

とにかく、もう何でもいいから、教育勅語とか、それから、大東亜戦争始まってから、宣戦布告の詔書があるんですよ。こういったのをみんな覚えなきゃいけないんですよ。あんな難しいの。字も読めないようなものを覚えないといけないんです。もうこれ徹底してましたよ。朝、まず、校門から校舎、校内に入るときは、御真影に向かって最敬礼してから入るんですよ。1日何回、最敬礼するか分からないんです。そして、朝になったら、教育勅語。全校一斉に。1、2年生はできなくても、3年生ぐらいから、全校一斉に、合図と同時に「朕おもうに」と、これみんな唱えるんですよ。これ覚えないとだめなんです。そして、大東亜戦争後からは、また、特に、あの長いですからね、宣戦布告のあの天皇陛下の言葉は。上級生、あれ覚えないといけないんです、また。

Q:覚えました?

みんな覚えました。今でもあちこちは覚えてますよ、だから。普段は言ったこともないあれですけど。徹底してるんですもの。

Q:暗記するわけですか?

はい。だから、今でも、言ってごらんったら、あの声出すと、自然に出てくるんですよ。

「朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)(國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、)徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」といってね。難しい言葉ですよ、字も。読めませんよ。本当。あんな字は、今、自分。これをみんな唱えさせるんですね。そして最後は、「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレバ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)ジ」。「大日本帝国のために命を惜しまない人間になりなさい。」これが最後の結びになるんですよ。教育勅語が。

いちばん師範に入ってから残っているということは、もう本当に、寮生活は徹底。もうみんな、宮良ルリさんたちからも聞いたと思いますが、寮生活は徹底してますよ、もう、生活が。時間的にも、いろんなのも、働き方も。そういったふうにして、もうとにかく何でもいいから、「欲しがりません、勝つまでは」。これはもう徹底されていましたね。だからお食事がまずかろうが、学用品が足りなかろうが、誰も文句言った人いません。

私は、1年時、入っていないから、初めて入る人のいろんな寮では寮の楽しみ方とかがあるんですよ。私はそんなの知らんで、2か月くらいは本寮にいたんです。そしてこっちが、校長先生が、野田先生がいらっしゃって、野田先生、単身赴任でいらしてたもんですから、この別寮、同窓会館は、ほとんど洋間ですけど和室が2部屋あったんですよ。だから、この2部屋は校長先生のお部屋にして、で、先生の身の回りのお食事の支度とかお洗濯とか、みんな私たちがやりおったんです。森岡先生ていう女の先生がこっちの寮にいらっしゃって、先生、また戦争のために郷里に帰りましたので、専攻科生がいましたから、専攻科生が、寮とモリオカ先生の跡継ぎをして、この、森岡先生がいらっしゃる間は先生がいろんな献立を作ったら、私たちがそれに従ってまた作っていく、そういったことをしましてね。それから、もう、いろんなときが全部集まってお話をしたり、寮では、本寮ではないようなことをこちらでは、やっていたんですね。先生が帰っていらしたら、「先生、お帰りなさい。」てね。先生のカバンとる人、「先生暑かったでしょ」って言って帽子持つ人。上着の背広をね、持っていく人、も、こんなふうにして、ちょっとこれ本寮ではできませんね。本寮は西岡部長が、第一高等女学校の校長が、もともとの校長住宅にいらっしゃって、野田先生はこっちのほうに。だからこっちは、もうほんとに楽しかったですよ。先生どっかまた出張なさって、お土産といって、おみかんとかバナナとか、やっぱり先輩、私たちの先輩なんかが、先生に送るんですね。またみんな集めてから一緒にいただいたりしてね。先生のお部屋にこんな50名くらいでしたから、寮生。あの別寮。も、先生がソファに座ったら、みんながあふれて廊下に、「先生、先生一人だから、あっち側に座ってください」って言ってね。先生を畳の前に追いやってったら、おかしいですけど、「先生、あっちになってください。」そしたら、先生のソファに3名、4名座れますからね。こういったこともしてね、お土産をもらって、またおうち行ってお土産もらってきたときは、「先生、今日これもらってきたから、あがりますか?」って言ったら、「おお、おお、おお」って言ってね、先生におあげしたり、これはちょっとできません、本寮では。こういったのがありました。

これは、昭和18年の戦争始まる前に十・十空襲がありますね。そのころからはね、もう少しずつ、沖縄に日本の軍隊が大分入ってきてますから、もう沖縄中あちこちの村や町、みんな駐留してますからね。まず真っ先に飛行場の作業から始まったんですよ。あっちは滑走路を作るためだったのか、もう全校生徒、男子の学校も女子の学校も全部行ってるはずです。あんな広い飛行場ですから。向こうで土をあれして運んだり、通ってですよ。歩いて、飛行場まで。まずこれで。そして次は、今の那覇港の上のほうの高台がありますね、あっちは戦前「ガジャンビラ」と言ってました。あっちのほうにまた高射砲陣地ができる。また向こうに作業。もうあっちこっちもう全部。ここが済んだらあっち、あっちが済んだらここ、というふうにしてね。交代でみんな陣地構築に駆り出されました。

Q:学校での授業というのはどういうふうに?

だから半々になるんですよ。初めは3分の1くらいが、だんだん半々になって、あとは作業が長くなるんですよ。

もう19年の末頃から、多分、11、12月頃から。もう初めは学校に向こうから、軍医さんがいらっしゃって、もう簡単に基礎的なもの。そしてだんだんあれすると、本当に病院に行って、負傷、こっちでの教育は負傷兵無しで、お互いに足のときには、こんなふうに包帯巻くんだよ。この手が折れたときには、こんなふうに副木を当てるんだよ。って当て方、巻き方、こんなのをやったんです。学校に向こうからいらして。だんだんこれが済むと、私たちが陸軍病院に行って、本当の負傷兵の看護にあたったわけです。

Q:それで昭和20年になって空襲があったりして、いよいよみなさん3月の末ですか、動員されるわけですね。動員されたときのことをちょっとお話してください。

いやいや、私たちもね、お国ために役立ちたくて来たと。短期間では勝利を収めて、また学校に帰ってくると思ってたんです。だから、大きな不安持ちませんでしたね。本当の戦争の恐ろしさ知らないから。

ちょうどもう昼中は初めて今までにないような攻撃を受けたんです。音が違うんですよ。十・十空襲の後は、ちょくちょく空襲がありましたけど、3月23日の空襲は音が違うんです。変だと思ったら、やっぱり、体験なさってる先生、若いときに兵隊にいらした先生。「あ、これはあの艦砲射撃だ。ということは、上陸するんだぞ。」もうこれからが、「えー。」っと思ったんですよ。音が違うから。

Q:そのとき、全員集めて何かあったんですか?

西岡校長部長(沖縄師範女子部長と一高女校長兼務)が部長室にみんな集め、向こう庭広いですから集めて、「今こそあんたたちもお役に立つときが来た」と。「だから、女師、一高女の生徒としてね、誇りをもってちゃんと、立派にご奉公しなさい」と言って、もう一人一人におりて来ても握手をして、「頑張ってこいよ」というふうにしてね、もうあんなにされて、また身の毛がよだつんですよ(身が引き締まるの意)、もう本当にね、今こそ私たちも役立つときが来たんだと。まさかこんな恐ろしい所になろうとはね、まだ思っていませんでしたから。

Q:そのときに何を持って出かけたんですか?

もう簡単に自分の着替え。それくらいです。だけどやっぱりね長いことじゃないと思っているから、人によってはお習字を一生懸命やってると習字道具持ってったという人もいるんですよ。ま、大体が写真帳、日記帳、こういったのは持ってるんですね。私も日記帳と写真は持っていきました。ま、こういったふうにして、もう簡単にですよ、たくさんはありませんしね。もう長いこと待たないで帰るとしか思わないから。すぐ着替えちょっとと、制服を入れて、もうそのまま。あ、それから、上級生はまた煮炊きをせんといけませんから、鍋釜を。上級生はみんな向こうですから。本寮ですから。で、これとあるだけの食材、こういったのを持って。私たちはもうすぐこの寮のとこ、別寮のところから裏を回って、あっちと合流して、行ったんですけどね。

Q:向こうへ行って、どこへ配属されたわけですか?

私は、第一外科です。外科。もともとの外科。そして第二には、内科。後から第二と一旦でやって、もう最初は外科、内科、あの伝染病科。宮良さんたちは伝染病ですね。それから、(宮城)喜久子さんたちは、病院じゃないんですよ。経理部。というふうにして、分散しました。

Q:第一外科では、こうやったことってのは、どういうことを?

もともとの負傷兵の本当の傷の手当です。

初めは怖かったですよ、もう。あんな傷を見て。看護婦さんが一人ついておりましたので。看護婦さんっていっても、大体同年齢ですよ。もうあの、大きい傷とかそんなのは看護婦さんが。また、治療班というのがありましてね。手術場の方から、治療班の生徒、または看護婦さんがお医者さんのその治療に使ういろんなのを持ち歩いて、各壕を回って、治療をしてくださる。だから、初めのうちはよかったんですよ。あんまり怖く。でも、やっぱり傷見ると怖いね、最初の程は。だけども、長いこと待たないで慣れました。傷を見ても、びくともしなくなっていました。

Q:かなり重い患者の手術なんかも、立ち会われたんですか?

私は手術場じゃないから、手術場の人は、もうみんな切断にも、みんな、あれされていますよ、やっていますよ。お手伝い。初めはろうそくを持ってね、壕(ごう)の中の暗さは、ちょうどあの今の資料館にあるような空き缶の小さなランプが、2つ3つしかつきませんからね、暗いんですけど、これでは手術できませんよね。だから、手術場はカーバイト(ランプ)というのがありまして、明るいのが。もう二重三重に壕からあれが漏れないように、明かりが。やって、手術をやって、そこで最初の程は、生徒はろうそくを持って、お医者さんの手元のところ明るくしたり、また汗あれしたら、汗を拭いてあげたり、またちょっと動かないような足を捕まえてやったりしたそうです。

もうあれは大変でしたよ。というのは、その前に私のクラスに、古波蔵満子さんといって、とっても体の大きい色白の美人が、とってもやさしい、そのみっちゃん。同じ第一外科だけど、全然会っていません。寝る時間もないんだから。南部に行って、2か月ぶりに会ったときにはびっくりしたんです。あんまり痩せているから。そしたら、「どうしたの?」って聞いたら、「実は熱出して、その熱がとれていないみたい。」こう言ったんです。そこで私に、壕から見えない所まで来ると、「頭見てちょうだい。」と言ったんですよ。いざ空襲というときに、本当、防空頭巾で頭覆うんです。耳を保護する。だけど、空襲でもないのに、南部行った時期はしばらくは、2、3日は、あの静かだったもんですから、かぶっているけど、私気にしないんですね。その防空頭巾をとって、彼女は座って、「頭見てちょうだい。」っていうから、私は立って、こうして上から見たら、もう頭中がシラミ、シラミ、シラミ、いっぱい。で、血を吸って、シラミのお腹は真っ赤っかですよ。「みっちゃん、あんたの血を吸い取られて、こんな痩せるんだろうから、この髪切ろう。」と言ったんです。本当は、見えなくても大体分かりますよね、これだけのシラミにかじられたら、お友だちもみんないるのに、この一緒に勤務してる人に言えないで、防空頭巾で隠していたわけです。それを私に言ったんですよ。「じゃ、あんたに任せる。」と言うもんだから、救急カバンに私ハサミが入っていましたので、かわいそうですけども、命にはかえられませんでしょ。二人とも、もう泣きながら、この髪、私、全部切り落としたんですよ。するとまた彼女が、「とみちゃん、私はげ頭なってるっていって、みんな分かるよね。」といって、また泣いたんですよ。「じゃ、分からんようにしてあげる。」また救急カバンに、あの三角巾が入ってましたので、私もいつ傷つくか分かりません。大事な救急、三角巾だったんですけど、これで彼女の頭全部包んであげて、見えないように。「みっちゃん、こうしたら分からんからね。」こう言ったら、彼女は、「とみちゃん、私のそばから離れないで。ずっとそばにいて。」と言ったんですよ。「うん、離れないからね。」2人は約束して、以後いつでも壕の中では、寄り添っていたんです。もちろん食べ物探してきたときも、分けてあげる。もうごつごつ。壕の中入ったことあります?ごつごつですよ。濡れてますよ。そこへ座って、肩をもたれたり、壁のあっちに肩もたれたり、いつも一緒。で、食べ物探してきても、あげて、分けて食べていたんです。もうだんだん食べ物ないです。もうみんな南部へ南部へと撤退してくるから。こうして分け合って食べていて、14、5日も髪切って、あのあれしているから、もう良くなるだろうと思ったんですよ。だけど一向に良くならないんですね。かえって体は衰弱していく。つまりもう他の病気を併発していたはずです。風邪をこじらして。そして後からだんだん私が命がけで探してきたサトウキビも、食べなくなってましたから。「みっちゃん、何か食べないと死んでしまうよ。何だったら食べられる?」って聞いたら、「サトウキビ食べたい。」と言ったんです。もうサトウキビ畑どこにもないですよ。だけどそんなに欲しがるんだったら、どんなことがあっても、探してあげよ、こう思ったんです。これが17日。6月の。そこで女学校の牧志鶴子さんという人がいましたから、一緒にいたので、誘って2人で、サトウキビ探しに行ったんです。ちょうど月夜。もう雨もやんで、梅雨もそろそろ明ける時期になってましたのでね。2人は走って走ってもう壕の中から飛び出て、もうこれの7、8倍ぐらいの広さのサトウキビ畑をずっと走ったんです。探せない。そこで、「もうないんだから帰ろう」と思って、壕に向かっているときに、月明かりで、これくらいの切れ端が見つかったんです。もう喜んで、これを取って、入り口に走ってきた、だけど、「壕の中では食べないようにしよう」と、私話し合っていたんです。甘いからアリがわく。もしキビがちょっとでも落ちたら。入り口側で食べて、きび殻は外へ。中には持ち込まないようにしよう。だけどみっちゃんは歩けないんですよ。どんなことがあっても、約束を破ることになるけどいい、私はみっちゃんに持っていってあげると。そして入り口でこのキビを皮をむいて、一口くらい入れられるように、折って折って、汚いハンカチだけど包んで、みっちゃんの分の用意ができると、私もひもじいから、下のこれくらいは私も食べることにして、サトウキビは小さくなったら、手を使わないでも食べられますよね。口に入れて、噛(か)みながら甘い汁を飲んで、その間は5本の指で髪もといていたんですよ。で、やっと終わるころ、もう砲弾が激しい、そこでみっちゃんの所、持ってってあげようとしたときにきび殻はちょっとポケット、おあげの裾にためてありましたので、これをまず外に捨ててから行こうとしたら、「とみちゃん、私が行くから、あんた早くみっちゃんの所、持ってってあげて。」と、牧志さんが。私が行くというのに、彼女、私から奪うようにして自分のものに移したんですよ。「じゃ、気をつけてよ。すぐおいでよ。」彼女は外へ。私は中へと、ちょっとこんな坂なっていましたので。私は中へ、彼女は外へと、そうですね、7、8メートルくらい離れたら、もうすぐみっちゃんの所来てるんですよ、私は。で、早く喜ばそうと思って、「みっちゃん」って言って、これくらいの上の段にいましたので、上がろうとしたときに、持っていた小さなヘアピンを落としてしまったんですよ。見えません、壕の中は。でもやっぱり、私髪こんな長かったもんですから、探したい、ピンがないと困るから。で、下にこうしてしゃがんで、手のひらで、こちらかな、こちらかなと、足の周りに5、6回ぐらいこの手のひらをつけたときに、もう、ドカーンですよ。さっきキビ皮むいた所の辺りで。で他の人もみんな入り口に夕方は出たがるんですね。ちょっとでもいいから明かりに触れたい、きれいな空気をちょっとでも吸いたい。壕の中はね、もう真っ暗であれだから。だから入り口にいた人たちが、ダーッとなだれこんできたんです。そこでもうピンは拾わないで。またもう「みっちゃん」と手を出したら、何かしら生ぬるい、ちょっと奥の方も悲鳴をあげている。あまりにも大きなさく裂音にびっくりして悲鳴をあげてるとばっかり思い込んでいたんです。「早く明かりをつけろ」と、先生の声。やっぱりいつ何が起こるか分からんから、大事に大事にとってあった一本のロウソクに火が灯ったんです。見たら、なんのその大惨事は中なんですよ。

明かりから見たら、中が大惨事。やっぱり自然洞窟ですから、第一外科は、口が広いんです。空に向かってる。鍾乳石が垂れ下がってるんですよ。ここに落ちた砲弾は、破片となって、この垂れ下がってるのも割ったんでしょう。もろとも、これは見えません。だけど、これ想像する。あのケガのあれから見て。そしたらそこに落ちた砲弾で、もう中が大変なんですよ。もう、今話をしていた最上級生は目ん玉が飛びぬけている。こちらへんもやられて血が流れている。胸が引き裂かれて、痛いよとわめいている人もいる。荻堂さんという一期下の人は、上の人は、お腹やられて、はらわたが飛び出てるんですね。これを自分の服で、このはらわたを包み込んで、もうしゃがんで、ものも言えない。一期下の石川さんも、足が引き裂かれて、ちょうどお魚の開きですよ。彼女も手も口も本当にガタガタ、ガタガタと震えるばっかしで、痛いという声すら出せない。足で押しやられてる人もいる。あれ、後ろから来た人に押されて、ちょっとみっちゃんの所から少し奥の方になってましたから、「あれ、みっちゃんは?」と言って、振り返ると、上の段から、手も首もだらんとして血が流れているんですね。さっき生ぬるいと言ったのは、みっちゃんの血だったわけです。もうびっくりしてすぐ上に上がったんですよ。これくらいの高さだから。さらにびっくり。もう私たちは自分のお友だちとも会えないんだから、よその看護婦さんなんて全然分かりません。糸数壕から来た人たちとみんな合流してますから、誰がいるか見えない分からないんです。一緒に本当のわずか本当にこれくらいのところに10名くらいがひしめきあってたんですけど、全滅なんですよ。その中に1人、本当に首が切れて、頭は向こうに落ちて2つに割れて脳みそがこぼれているんですよ。みんなの血や肉も飛び散って、足の踏み場がないんです。だから、もしもあのとき私がピンを拾おうとしてしゃがんでいなかったら、みっちゃんと一緒に即死ということになるんですね。いつもみっちゃんと寄り添っておりましたので、そばに置いてあった私のちょっとした着替えは穴だらけ。だから私は小さなピン一本は拾えませんでしたけど、ピンの代わりにこの命を拾ったことになるんです。またキビ殻捨てに行っていたら、さっき、キビ皮むいた所で死んだことになる。奪うようにして捨てに行ってくれた、あの牧志鶴子さん。大たい部から足は切れているんです。「とみちゃん、足がない。」たったこれだけしか聞いていません。彼女もまもなく亡くなったんです。というふうにして、たくさんの人が即死、又は重症という大惨事。お医者さんの指示に従って応急処置をし、また、亡くなったお友だちもごつごつ、ごつごつした所から、引きずって引きずって、弾痕に転がしに行ったんです。翌日18日までかかりました。17日の晩でしたから。

たくさんの人はお友だちは、その他を失って、みんながうちひしがれてるところに、軍は私たちにさっき言った解散命令を下したんです。「もうこれから後は自分の判断で行動しなさい、出て行きなさい」と。もうそのときだけは本当に全身の力が抜けて、へなへなと座りこんで、涙が溢れたんですよ。私はどんなに苦しくても、援軍は必ず来るんだという望みをまだ捨ててない。またお友だちも先生も一緒だから、この苦しい恐ろしいことにも耐えることができたんですけど、もう援軍がこないということは、もう今日で命は終わるんだと死を覚悟したとき、家族の顔がちらついて涙が出たんですね。しかし、誰も口に出す人はいません。泣いていたということは、みんなも家族のことを思い出していたと思うんですよ。ただすすり泣く声だけが聞こえるんですね。その代わり口には出さなかったけれども、誰からともなく、故郷(ふるさと)の歌を歌っていたんです、みんな。泣きながら。「うさぎおいし」とね。小さな声で泣きながら、歌っていたんです。

Q:壕の中で?

はい、もう先生方も大変苦しかったと思いますよ。「立ってくれ。出る準備をしてくれ。」っても誰も立とうとはしません。重症のお友だちは動かせないんです。連れていけません。ということは、壕の中に残さんといけない。壕の中に残すということは、死ぬこと。出て敵の弾で死ぬくらいだったら、みんな一緒に揃ってこっちで死んだほうがいい。もういや。だけど先生方にとっては、やっぱり一人でも多く生き残ってほしいわけです。もし爆発等、外から投げ込まれたら、全部一度に死んでしまう。危険でも外へ散らしたほうが生き残る率はいいんじゃないか。だけど外へ出したら、自決をするんじゃないか。捕虜になるくらいだったら、自決するんだと。そう思うように育ってますから、出しても心配、出さなくても心配。敵はもう、どんどんどんどん迫ってくる。結局二つのうち一つしか選択できない。結局出すことにかけられ、無理にも私たちを立たして、「上級生は、必ず下級生を混ぜて行くんだぞ。早まったことだけは、絶対するんじゃないぞ。」これが、先生の最後の言葉でした。つまり、自決しちゃいけない、生きるんだ、ということになるんですね。だけど、あのときはありがたいと思いませんでした。ただ、残すお友だちに、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、ひたすら謝りました。お友だちは、「早く行って。行って。」と言ってくれたんですね。こうして19日、夜は明けない薄暗い中、行くあてもない、どうしていいかも分からないまま、あっちにも4、5名、こっちにも5、6名、もう先生も生徒もみんな、散り散りになって行ったんです。だからこれから後は、誰がどこでどうなったのかも分からないというのが多いわけです。

仲宗根先生、仲宗根政善先生。先生は、「早まったことは絶対するんじゃないぞ。」最後の言葉でした。

その壕から出てしばらくして、てっぺんで、さっき言った、「私に構わないで行って」。4名一緒にいたんですよ。3名は大ケガですよ。私1人が無傷。不思議なんですよ、本当これだけは。一緒にこうしてとげのあるところで、こんなやっと4名こう。3名はケガですよ。私1人、無傷。この人置いては行けない。この人がいちばん大ケガだったんです。もう肩はえぐりとられてるんですよ。この手の甲も。だから両方動かないんですよ。だから、「私に構わないで行って、行って」と言ってくれたんですね。

Q:敵中突破して、兵隊と一緒に学徒隊のみなさんも行って、それでどうなったんですか?

だからそこがですね、もうどこを通ってるかも分かりませんよ。バックナー中将(米軍の沖縄攻略部隊の最高指揮官、6月18日に日本軍の攻撃で戦死)、敵の司令官は、こっちにあの国吉というところがあります。この国吉で日本兵に射殺されて亡くなってる。そんなのは知るもんですか、私たちは。敵中突破でそこも通ってしまったがために、猛攻撃を受けました。大変な猛攻撃を受けて、今まで兵隊が22、3名、生徒が6名だったけど、毎日誰かは、見つかったら撃たれるんですよ。で、国吉までは、大分生きていたんですけど、バックナー中将がやられてから、大変、あっちからの反撃がひどかったようです。そんなの知りません、私はずっと南にいたんだから。そこにきて初めて、バックナー中将が撃たれたというのも、戦後しか分からないんですよ。そこで、バックナー中将が撃たれた後ですから、大変な猛攻撃。もう空いっぱい照明弾ですよ。で、機関銃も小銃もありったけ使ったんじゃないかと思うぐらい。そこで猛攻撃を受けて、国吉という集落に逃げ込んだんです。家は一軒もない。そして早く、1人の兵隊が重傷を負ってるんですよ。やられて。だから、早く血を止めないと私は殺してもらえないから、もう自分のこと考えたんですね。殺してもらえないと、2人だけ、生徒だけ残ったら困るからと思ってね。「早く血を止めなくちゃいけない」と言って、あっちこっち探しているときに、ソテツ。ちょっと大きいソテツがこう生い茂って、これが見えたんですよ、岩のそばで。いいとこ見つけたから、「ここに入ろう」と言って、隠れようとしたら、生徒は4名、2人はいなくなってる。兵隊が2人。6名が生き残ってるんです、国吉まで。だから、6名一緒にこうしてこのソテツの下に入ろうとしたら、6名は入らないんですよ。で、一列に並んでこう入ったもんですから、私と一緒にいた宮城さんと私は、あとの2人は入らないんですよ。「じゃ、あんたたちは向こう側に行きなさい。万一のときは、必ず投げてくださいよ、手りゅう弾を。私を見捨てないでくださいよ。」と約束して、5、6メートルくらい離れた小さな岩があって、本当にこれくらいですよ。こうくぼんで、ここに、2人体を一つにして、足をこう広げて、彼女のお尻は私のこっちに持ってきて、こうやって2人は隠れたんです。もうすぐ見えるんですよ。こうしたら。5、6メートルしか離れてない。だけどやっぱり4日間ほとんど寝ていませんから、うとうとしたんです。パーンという銃声で目が覚めたら、アメリカ兵がこの兵隊を射殺しているんですよ。もうアメリカ兵はこっちからよく見える、こんな小さい岩に隠れているから。もうするとお友だちが引かない。「何で私は殺さんのか。皇国の女性だ。殺せー殺せー。」と、うんと叫んでいるんです。

「皇国の女性だ殺せ」と。しかし、米兵は銃を降ろしました。こっちからはよく見えるんです。銃を降ろして撃たない。するとお友だちはさらに叫ぶ。「殺せ殺せ」と。そこでそれはもう私の想像ですけど、首出したら、5、6メートルだから見えるけど、今度私が首出したら、アメリカ兵に見られるから、声で想像するんですね。結局は、どうしても撃たないもんですから、まだ使ってない手りゅう弾を取って自決しようとしたと思うんですよ、お友だちは。そうすると米兵は多分手に手りゅう弾持つと投げられると思ったんじゃないでしょうかね、2人のお友だちも射殺。結局4名がこのソテツの下で射殺されたんですよ。もうもっと人がいるんじゃないかと思って、捜索が始まりました。米兵は、もっといるだろうと思って。そして、ぐるぐる、ぐるぐる歩いてきて、私の隠れてるそこのすぐそこ、手出したら届くところ、ここまで来てるんですけど、米兵はうんとしゃがまないと、私たちが見えないんです。こんな小さな穴にだから。通り過ぎていったんですね。ま、こういったこともあって、もう早く撃たれて死にたかったんですよ。そして、日が暮れるのを待っても、昼は何回も米兵は、バックナー中将が撃たれた近くですから、やっぱりこちらにたくさんの壕、洞窟があるというのを全く知りませんから、そのころは。だから、もっと人がいるんじゃないかと思って、米兵たちは大体14、5名くらい、ずっと組んでしょちゅうこっちを行ったり来たりするんですよ。出られない。そこで日が暮れてから、ちょっとお友だちを見に行ったんです。するとやっぱりここを撃たれて、2人はもうちょうど寝ているように静かに死んでるんですね。お友だちも撃ったんだから、必ず撃つに決まってるんだという怒りが燃えてくるんですね。もうこれから逃げないで、撃たれて死のう。お友だちを撃ったんだから。2人はもう堂々と足音を立てて、今まで抜き足差し足だったのをもう大通りを歩いて行ったんですよ。で、何かしら人がいる気配がする。こんこんと。あんなに大きな音じゃないけど何かしら音が聞こえる。確かに人がいる。アメリカ兵だろう。「私らが堂々と歩いてたら必ず撃つ。早く撃たれて死にたい」こう思ったんです。こう堂々と歩いたんですよ。しかしなかなか飛んでこないんですね。戦後分かったんですけど、こちらにね、やっぱりあの私の知ってる人、壕、洞窟の中に隠れている人がいたらしいんですよ。だから、そういった人か分かりませんけれども、こう人の気配はする。声じゃなくて音で。いくら歩いても撃たれない。撃ってこないもんですから、さらに、今の糸満高校のところまで歩いて行ったんですよ。すると向こうからトラックがくるんです。米兵の。あんなに撃たれて死ぬんだ死ぬんだといいながら、トラックが真向かいからきたら、もう隠れて逃げてしまったんですね。死ねなかったんです。そこで、畑に、あちこちあるタコツボというのが作られていましたので、1人隠れるの。それが見つかったから、もう明日死のう、今日は寝ようって2人。もう4日間ほとんど寝ていませんから。で、このタコツボに2人入って、また体を一つにしてぐっすり寝たってその日だけは。そして、翌朝、夜が明けたら、またトラックがどんどん、どんどん通る。もうこれ以上逃げられない。こう思ってですね、誰か殺してくれそうなのはいないかと見ると、1本の古い大きな木が残ってるんですよ。そこに米兵がこう手を開いて空を仰ぎながら寝ている。ようし、米兵は臆病、日本兵が勇敢だと思っているから、私が堂々と歩いていったら、必ず撃つ。お友だちも撃ったんだから、今度は逃げないで歩いていこうということになって、本当にそのときだけは逃げないで、堂々と歩いていきました。その人に向かって。そうすると、7、8メートルくらい近づくと、やっぱり気づいたんでしょう。後ろ見てぱっと起きたんですよ。もうこれで終わり、2人は1人が生きないように、もう肩をしっかりと組んで、一発で死にたいから。そう思って待ってるけど、なかなか銃声がならない。目を開けてみたら、出てきた出てきた14、5名のアメリカ兵がどんどん出てきて、私たちを周りに囲むんですよ。もう当てがくるったんです。木の下は、泉になっていて、水浴び水くみする間、これ監視役だったんです。そんなの知りません。もう出てきて出てきて囲むから、「撃て。」もう言葉は分からなくても、手まね足まねで、「撃て、殺せ。」と叫んだんです。しかし誰も銃を向けないんですよ。今くんできたと思われるきれいな水をこんなステンレス、アメリカ産のコップ大きいですからね、こんなステンレスになみなみと注いで、「プリーズ。」というんですよ。あーこっちは銃殺じゃなくて、毒殺なんだな。「ノー。」と言ったら、飲んで見せる。もうこれに毒が入ってないと分かると、もうたまらなくなりましてね。どうせ死ぬんだから、飲んでから死のう、こう思って、ガブガブ、ガブガブと飲んで、このコップをたたきつけたんですよ。日本の兵隊がこんなんしたら斬りますよ。だけど、飲んでくれたと言わんばかりに、にこにこ。今度こっち側の人が食べ物出すんですよ。あー誘いの水で、これが本当の毒なんだ。またも「ノー。」と言ったら、また割って食べて見せる。おたく、Kレーション(米軍の携帯戦闘用食糧)というの見たことございます?米兵の。大変ですよ。天地の差です。それを出したんです。またこれも毒だと思ってるから、拒否したら、もう中を開けて割って食べて見せる。もうこれが毒入ってないと分かると、また欲しくて欲しくてたまらなくなって、もう食べました。いくら殺せと言っても、絶対殺さないんですね。とそのときに、アメリカ兵のトラックが一台来て、私のところ、ちょっとこっちは平坦だったから、止まって、降ろす。見たらみんな沖縄の人なんですよ。みんなケガしてる人。髪もぼさぼさ、もう衣服はぼろぼろ。抱き下ろして手当てをしたんです。もう沖縄の人が憎らしくなりましてね。「なんたることだ、敵の手当てを受けるとは、なんたることだ」と。「自分でも死ねないのか」と。もう立派な軍国少女に仕立てあげられてますから、こう思ったんです。親切にするふりをして、私たちも落ち着かせてから、連れて行って一発でドカーンと殺す罠(わな)だと思ったんですよ。しかしあんなぼろをつけて髪もぼさぼさしている人を嫌な顔ひとつもしないんですね。動けない重症の人は抱き下ろして担架で運ぶ。大ケガの人は薬もおしげなく使って消毒してまた真っ白い包帯で巻くんですよ。罠だ、罠だと思っていたけど、これは罠ではなくって、敵であるまえに、人間として取り扱っているんだということが、だんだん伝わるような気がして、私はいつの間にか、殺せ殺せの言葉が出なくなっていたんです。と、同時にもう涙が溢れたんですよ。必ず来るから、待っとってよと、あんなん言っといたけど、行けませんでした。お友だちは「いいから、早く行って行って。」と言ってくれたけど、本当はどんなに怖かっただろう、迎えに来るのを待っていただろうと思うと、もうやりきれなくなったんです。

こうしてみんなと一緒にトラックに乗せられ、収容所へと行きました。今の、あの普天間飛行場のあるところの向こう側に、野嵩(現宜野湾市)というところがあります。そこは米軍は、もう収容所にするつもりだったんでしょう。壊さないで攻撃しないで、ほとんど残ってるんです。そこへ連れて行かれたんです。すると一台車がくると、もうたくさん前で収容されてる人たちが、どんどん集まってくる。自分の親戚いないか、家族はいないかというふうにしてね。もうみんなが抱きついて泣いたりして喜ぶけど、2人は、もう生きてるのが恥ずかしくなったんです。誰も知ってる人がいないから。もう逃げ出して、死にたいとも思いました。しかし、弾がとんでこないんですね。またそのうちに、1人の方が、私たち2人だけはもう、もうこんなにして、本当に顔も上げられないで、他の人に見られないように、こんなふうにして2人はもう顔を隠すようにして泣いていたんです。すると1人の方が寄ってきて、「あなたたち、ひょっとしたら師範学校の生徒じゃない?」て、おっしゃったんですよ。もうびっくりしましてね、例え、あの着物ぼろつけていても、ぼさぼさしていても、どっかに生徒らしいところがあったんでしょうね、あっちから見たら。「師範の生徒じゃない?」て、「はい、そうです。」って言ったら、「私は、宮城藤子の父だけど、うちの藤子を知らないか?」こうおっしゃったんです。藤子さんっていうのは、本科2 年。ひめゆりの洞窟で亡くなってるけど、そんなの知りません。「一緒じゃなかったから、分からないんですけど。」って言ったらね、「あんたたち、今日着いたんでしょ。何も食べてないでしょ。はい、うちに行こう、うちに行こう。」と、もう2人の手を引っ張るようにして、この方たちは、すぐあの上陸地点に近いところだから、もう沖縄戦始まると同時に、すぐもう捕虜になって、もうちゃんと残ってる家に住んでいる。いろんなのも配給があって、だから、奥さんがご飯を炊いて、味噌汁も炊いているんですね。「何も食べてないでしょ。早く食べなさい。食べなさい。」とおっしゃったんです。もう初めて見る真っ白いご飯を見て、もう本当すごく思い出すと、もうつい涙が出るんですけどね。こんなご飯みたことないですよ。もう涙があふれてね、ひもじいから、食べたいけど、喉がつまってね、ご飯が口に入らないんですよ。それでも涙を流しながら、ご飯を食べました。そして、「また、明日もおいでよ。ちゃんと作っておくから、明日も来るのよ。」こう言ってくださったんですね。そしてまた、「あなたたち、浴びてないでしょ。」「はい、3か月間浴びておりません。」と言ったらね、「これを持って行って、浴びなさい。」と言って、ラックスの石鹸をこんな石鹸をくださったんですよ。もう2人は喜んでね、私のところも、あのちょっと離れてはいたけど、私のところは家が残っていないで、テント張りだったんですね。そこに生垣があって、井戸がありましたので、みんなが寝て、もう誰も分からんとき、2人はゆっくりゆっくり、起きていって、生垣とあの井戸のところで、音をたてないように水を汲んで、夜中、2人浴びたんですよ。3か月ぶりでした。もうあのときの、石けんってこんなにいい匂いがしたのと、今でもまた思い出すんですけどね。3か月ぶりに浴びました。こうしてちょくちょく訪ねては、私たちに何かをくださったりしたんですね。そして、「あなたたちはね」、こっちきたら、どんどんお年寄りや子供が死んでいくんですよ。みんな栄養失調とか、傷がもとで。「あんたたち、どうせ病院にいたんだから、みんなのために働いてくれないか。」っていう声がかかりましたので、もう本当に痛いけれども、胸が。結局、お友だちには、「ごめんなさい。私は生き残ってしまって、ごめんなさい。」と謝りながら、また戦後は、こういった見知らぬ方々の手当てをしながら、生きる道を選んだんですね。本当逃げ出して死にたいと思ったことも、何度かありましたよ。だけど、弾がもう飛んできませんでしょ。逃げなくてもいいし、隠れなくてもいいし。水も飲みたいだけ飲んだ。と思うと、あ、生きていてよかった、と思うと、またお友だちに申し訳ない。もうこれの繰り返しで、しばらくは苦しかったんですよ。そして、いつもあの置いてきた、トグチさん、いえ、渡嘉敷(渡久山ヨシ)さんという人。宮古の人だったんです。「必ず来るから待っとってよ」と言ったけど、行けなかった。もうそれがいつでも胸が痛かったんです。家族の人は、何で自分たちは生き残って、うちの良子を置いてきたのかねと、家族だったら思うだろうなと思うと、お詫びしないでは気が済まない。お詫びしにいったら、あんたは生きてと思うだろうなと思うとまた行けない。行かないでは気が済まない。もう非常に苦しかったんですよ。で、戦後40年経って、教員辞めたもんですから、やっと宮古まで行きました。「お宅のヨシさん、置いてしまったのは、私です。」と。もう本当に、お仏壇の前で手をついて、畳に、お詫びしたんですよ。すると「あんたは何も恨んでいない。」と。「恨むのは戦争であって、あんたじゃない。この手をあげて、手をあげて。」と、私が頭をついてるもんですから、手をあげてくださったんですよ。ま、こうして、許してはくださったんですけど、置いてきたっていう、これいちばん自分がよく分かるもんだから、やっぱり気が済まないんですね。今でも、慰霊祭のときには、宮古から来ます。また一人の妹さんは、自分の姉さんがこんな亡くなったっていうの分かって、たまにはお電話くださいます。「今日空いてませんか?私空いてるんだけど、コーヒー飲みに行きましょうよ。」って誘ってくださるんです。本当に恨むと思ったけれども、恨むんじゃなくて、誘ってくださると、本当にもう、うれしくてね。たまにはお会いすることがあるんですよ。こういったふうにね、もう戦争とは大変にむごいものでした。

子供たちには戦争の話は絶対しませんでした。もう長いことたって、戦後も長いことたって、ようやく話をするようになったのが、からは、でも、自分の家族には話せませんね、やっぱり。お友だちにも、今やっぱり資料館であれしたりするのを見たりして、「先生、私たちには何も話さなかったね。」って、よく言うんですよ、生徒が。戦争済んでね、もうあのときの子供たちも、もう60、70なってますからね、「先生ちっとも私たちに話聞かさなかったね。なんで?」って言うからね。「だっていい話じゃないでしょ。話すと涙がでる話だからね、話さなかったのよ。」って言ったらね、本当に「本当のことなの?」「そうよ。」って言ったらね、もう今は「話してちょうだい。」ってよく言いますがね。当時はもう話さなかったんですよ。

Q:それがその自分が積極的にですね、戦争体験を語るようになる、表現するようになる。語り部として、いろんな活動もされる。そういうその語らなきゃいけないというふうな思いになったってのは、どういうことですか?

やっぱりね、もう時がたつと人間は「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」でね、またいつか来た道を歩むようなことがあってはいけないと。起こしたのも人間だから、起こさないようにすることができるのも、また人間じゃないでしょうか。まず知らなければ、戦争賛美する人が出てくるかも分からない。こうなっては遅いと。今、平和だから自由にものが言える。私のときは言えませんでした。だから、やっぱり今のうちに、言えるときに言わないと、いつか来た道を歩ましてはいけない。生き残った者は、語る義務があるんじゃないかと。だんだん考え方が変わってきたんですね。

Q:そういうふうに思うまでには、戦後、長い期間が必要だった?

だからもう、30年以上が過ぎていました。もうひめゆり同窓会、今でも、毎年集まりますけど、いつかは同窓会もいなくなりますよね。入学がないんだから。みんな、女子の学校なくなったんだから。しかし、学校はなくなっても、ひめゆり同窓生、ひめゆり学徒はいなくなっても、ひめゆりの願いは、いつまでも残していきたい。「そうだ資料館」を作ろうということになったんですよ。そのときからです、もう話すようになったのは。今から、もう30年程前ですね。それまでは、話しきれなかったんですよ。

Q:実際にそういう活動されてきて、ま、他のみなさんと一緒にですね、活動するようになってきて、今そのそういう過酷な体験をしてきた上原さんが、特に今の若い人たち、修学旅行生相手にお話する機会が多いと思うんですけども、一番子どもたちに伝えたいことってのはどういうことですか?

もっとね、思いやりのある心を持ってほしいなと思いますね。思いやりがね。物に恵まれた、戦争がないから、平和じゃないと思うんです。住みやすい、安心して住める、じゃないと本当の平和じゃないと思うんですね。そのためには、お互いに思いやりの心を持ってね、みんなで生きていってほしいなと思いますね。もう本当、今、平和だから、平和だからとよく言いますけれども、これが本当の平和なのと、ちょっと言いたいときがあるんですね。物に恵まれるだけが平和じゃないと、戦争がないだけが平和じゃないですよね。

Q:その戦争体験を語る、ひめゆりでの体験を語るということで、子どもたちの反応といいますか、反響はどうですか?

ええ、子どもたちはですね、聞く前と、聞いてから途中からと、後とはですね、全然違うんですよ。もう本当にもう、涙を流して、まさか、大学生なんかもですね、本当に沖縄来る前にね、学校出てる間に、うんと沖縄戦のことを、ついて読んだ勉強したと。だから、私たちは分かってるつもりだったと。だけど、沖縄に来たときに、「分かっていなかったということが分かりました」と。という人が多いんです。だからね、沖縄でこんなに苦しい思いをしていたということはね、全然知らなかったというのが多いです。

本当にもう同じ陸軍病院にいても、お友だちとも会いもしないでね、結局は。一生の別れになってるんですよね。だからもう、野岳にいて、半年くらいたったら、文教学校(昭和21年にできた戦後初の教員養成機関)ができるということを連絡受けたんです。もちろん学校も中断して勉強もしなかったから、勉強したくて、もう行ったんじゃなくて、お友だちはどうなってるのかね、これが早く知りたくて、お友だちに会いたかったんです。もううちのクラス半分以上、亡くなっているんですよ。だけど、どこでどんなふうに亡くなったのか分からないというのが、どっちかったら多いんです、まだ。だから、私は死にそこないはしたけど、まさか無傷なんですよ。またこれが不思議なんですね。家族にも、いちばん言いにくいの家族。私もだからもう、やがてもう沖縄が戦場となるというときに、もうほとんど、おうちには帰らなくなっていたんですよ。いつ学校も空襲があるか分からない、増産作業もせんといけない。なかなかおうちに帰ることできなかったんです。だけど、誰かが糸満に帰るというのを聞いたものですから、そこのちょっとした紙があるのに走り書きして、「うちの母にあげてちょうだいね。」って。うちこれも忘れてるんですよ、自分であげたということが。だけど、母が亡くなって、2、3年が経って、母のバックの中に、この書いたキレが入ってるんですね、紙キレが。ということは、私があの誰かに預けてあるもの全然それも忘れている。それを母はずっと持って、戦争のときにもいたということが、これを見なければ分からなかったんです。年取った2人。おじいさんとおばあさんは、母1人で面倒みていたんです。で、そこに私があれで、「お母さんね、私じゃね、学徒隊として動員されるので、おじいちゃんおばあちゃんの面倒みられないけれども、お母さんひとりで大変だとは思うけど、おじいちゃんおばあちゃんを助けてあげて、守ってくださいね。」って走り書きしてあるんですよ。あの昨日のお話のときに、もうおばあちゃんも少しずつ歩けるようになっていましたから。そして結局は、母はこれを私に一言も言わないんですよ。「どこで死んだ」、これだけ。どんなふうに死んだ、私も聞けなかったんです。私が聞いたら、母は困るだろう。私が良子さん置いてきて苦しかったのと同じように、母も苦しむんじゃないかと思ってね、聞けなかったんです。

Q:それは、お母さんがその紙きれを戦後ずっと持ってたわけですか?

そうなんですよ。

Q:それを分かったときは、どんなお気持ちでした?

もう、びっくりしましてね。本当にこんなにね、母は、砲弾の中をね、女手一つで、しかも80に近いですよ。あのときの80っていったら、今の100歳ぐらいに匹敵しますよ。一人でどんなふうにしていったかなと思うとね、本当に母がね、こらえて、私に一言も言わなかった、あの苦しみはね、大変だっただろうなと思ったんですよ。そしてまた母の兄さんの子供たちも、母の兄弟、兄さんたちが亡くなって、その子供たちの面倒もみなくちゃいけなかったそうです。それも分かりませんからね。とにかく母は、おじいちゃんおばあちゃんもみないといけない、姪(めい)や甥(おい)もみないといけない。あの砲弾の中、女手一つでね。どんなだったろうなと思うとね、もう本当に、こっちまでもっと苦しくなりました。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・ひめゆり学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼる。

この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われた。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされた。

そのうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人は、「ひめゆり学徒隊」として組織され、陸軍病院で負傷兵の看護などに当たった。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることも多かった。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものだった。

撤退先の本島南部の伊原第一外科壕や第三外科壕に移ってからの6月下旬、米軍の掃討攻撃で多くの学徒が命を失った。

最後には、なすすべを失った日本軍によって学徒隊に解散が命じられ、生徒たちは、本島南部の海岸や森の中を彷徨せざるを得ず、集団自決に追い込まれ、あるいは米軍の攻撃でさらに命を奪われていった。
6月23日に沖縄における組織的な戦闘は終わったが、ひめゆり学徒隊240人のうち、136人の命が奪われた。

戦後、生き残った人々を中心に「ひめゆり同窓会」が組織され、1989年にはひめゆり学徒の悲劇を後世に伝えるため、伊原の壕跡に「ひめゆり平和祈念資料館」を開設。いまも、多くの元ひめゆり学徒が「沖縄戦」を伝えるために活動を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
旧糸満村に生まれる
1942年
沖縄県師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団評議員

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