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タイトルタイトル: 「陸軍病院、負傷兵を前に」
名前名前: 津波古 ヒサさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 対馬丸遭難  06:19
[2]2 チャプター2 十・十空襲  01:45
[3]3 チャプター3 迫ってきた戦争  02:54
[4]4 チャプター4 昭和19年夏  05:06
[5]5 チャプター5 沖縄陸軍病院へ  04:02
[6]6 チャプター6 死んでいく兵士たち  03:07
[7]7 チャプター7 同級生の死  02:07
[8]8 チャプター8 南部への撤退  06:42
[9]9 チャプター9 島尻へ  03:50
[10]10 チャプター10 置き去りにされた重症患者たち  04:15
[11]11 チャプター11 解散命令  06:07
[12]12 チャプター12 捕虜  01:55
[13]13 チャプター13 収容所で出会った戦争孤児たち  04:23
[14]14 チャプター14 「友達の分までも」  02:15
[15]15 チャプター15 過去から平和を守るすべを学ぶ  02:57

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収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

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8月22日ですか。家族、家族って兄の家族と姉の家族が、同じ那覇国民って高等部ですか、高等科ですか、それが合併した学校だが、そこの教員だったもんですから、引率で行くことになったんですね。はじめは兄の方は行かないということだったんだけど、何か若いのが行かないと困るとか何か、先生から勧められて、両方の家族が行くことになったんですけど。その前に姉がですね、松山の学校の世話人みたいなあれで行って、潜水艦、軍艦ですか、潜水艦か何かで行って、無事着いたということで。それなら安心だっていうことで、一旦そういうことで見送ったんですけどね。それがもう、翌日は分からない、そういう状態になってしまって。もうそれを聞いて、はじめはもうあれでしたね、何かまだ着いてないとかいう話だったんですけど。それでもう、私らの方はまだ寄宿舎におりますから、よく知らなかった。はっきり分かってから、また関係者が何人かいたもんですからね、本村さんたちもそうだし。そういうことで、何かそういう情報があるから、っていうことで、「家に帰んなさい」って言われて、家に帰ったんですよ。そしたらまだ、こういう事故があったっていうことで。それでもまあ、何とか鹿児島に着くんじゃないかぐらいに、もう本当にあれでしたけど。それからがあれでしたね、もう本当に、本当のことが分かったんだけども、それを母はもう大変でしたね。息子から嫁から娘から孫から、11人ですからね。もう気違いみたいになってたんですけど。それでもうあちこち訪ねて行って、本当かどうか確かめに行ったりしたら、警察なのか憲兵隊なのか知らないけど怒られて、「あまり動くな」って言われてですね。なんですけど、「とにかくそのことは言うな」っていうことで。それからまあ、はっきり分かったのはもうずっと後からなんですけどね。それでもまだ誰かは生きているというふうな情報があって、もしかしたら、ということで期待してたんですけどね。結局もうみんな全滅でしたね。

Q:結局何人がお亡くなりになったんですか。

11人ですね。兄の方は家族4人ですね、子ども2人と。姉の方が本人と、それから子ども5人と、それからおばあちゃんですね、姑と、11人ですね。

Q:そのとき、事実を知ったときは津波古さんはどういう気持ちでしたですか。

私は何かもう、「まだどっかにいるんじゃないか」という気持ちはありましたね。でももう何か海のことだから、本当に。だけどもこれも戦争かとは思いましたけどね。あれでしたね、もう本当これも戦争のはじまり。

Q:戦争が非常に身近に迫ってきたという実感はなかったですか。

それまではなかった。そうですね、そんなにあれはなかった。私まだすぐ救助が来て、すぐ近くの海ですからね。だから救助が来て、っていうふうな。本当にまだ分からなかったんですね、まだ本当に戦争が迫ったっていうことは。

Q:その時は師範学校にいて、それで連絡が来て。

寄宿舎から、はい。兄(岸本幸安)もあれですからね、師範学校の教員ですから。まず兄が先に呼ばれて行って。後からまた私が西平(英夫)先生から「行ってみなさい」っていうことで行ったんですけどね。本当にまだ半信半疑なんですよね。見送りもして、元気で行ってるからね。でもそれがもう、戦争のはじまりだったんだけど、私はまだまだ助かる、すぐ救助が来てこういうときこそあれだっていう。近海でもあるし、そんなに真剣には考えなかったですね。

Q:十・十空襲の時はどういう状況だったんですか。

私たちはもう寄宿舎ですから、ただ穴の中にいて。那覇が燃えてるっていうのを、午後からですかね、情報が入って。那覇がみんな燃えてるんだっていうことで。家もだめかなと思って、また今度も家族も今度は、と思ってあれしてたんですけどね。

Q:家の方はどうだったんですか。

避難したんだと思うんですよ。あっちに、何て言うんですかね、兄の同僚の先生の西原(首里の北にある村)の先生がいて。その先生のお家の近く、お家ですね、お家をちょっと借りて、いろんな、何て言うんですかね、荷物、大事な物みんな向こうに避難させていたから。何かあったときにはこっちに来なさいね、っていう連絡だったんですよ。だから多分向こうに行ってたんじゃないですかね。でも幸い家は焼けなかったですね。あんな若狭の真ん中で家だけ残ってました。まだ建ててから3か年ぐらいの新しい家だったもんですからね。

それに家の近くに高射砲陣地ができて。そこで隊長がですね、うちのお家、新しいお家ですから、そこに下宿って言ったら何ですけど、そこにいて、そしてそこで寝起きをして。すぐ近くですからね、現場は。そういうふうにして。そのおかげで電話もあったんですよ、連絡受できるように。でまたいろいろ物資も、こっちがないものをですね、ろうそくとかマッチとかないものをくれるし。こっちはまたちょっと畑があったから、野菜とか食事のちょっとそういうものをあげたりなんかしたもんだから、とっても親しくしていたんですが、その方がですね、私たちが動員されていざというときには、何ですか、陸軍病院に行くっていうことをちょっと聞いて、まあ兄が話したんでしょうね。そうしたらその隊長がですね、自分たちも北支でいろいろそういう事務員とか、ちょっと手伝う給仕なんか使って、女の子を使ったんだけど。前進したり、また何か撤退したりするときに一番困るのは、女の子だって言うんですね。連れても行けないし、殺しもできないし。だから女の子は戦場に行くものじゃないっていうふうに、この方が盛んにうちの兄(岸本幸安・師範学校女子部教諭)に言ってたんですよ。それをまた兄は、また校長に進言してるんですよね。そしたら怒鳴られたそうですけどね。でももう、これは私は反対だと。子どもを戦場に行かすっていうのは反対だということを、非常にあれして。そのころからみんな疎開が始まっていて、来る人にも「なるべく疎開しなさい」みたいに。学校は反対なんですが、疎開は。特に師範なんかは給費をもらってるから反対なんだけど、もう兄はそばからそんなこと言って怒られたそうですけどね。でももう兄は最後まで「行きなさい」、給費(官費)なんかそんなものよりもね、免状もらうよりはね、それよりは命が大事だから、行きなさいみたいなことで、特別にまたいろいろと、あれしてあげたりなんだかしたのもいるらしいんですけどね。だけども学校はまるで反対で。

それで夏休みに帰るときにうちの兄が、八重山に帰るときに、みんなここはもう戦場になるからね、みんな持って帰りなさいって言って、机から本立てからみんな持って帰したらしいんですよ、八重山に。そして8月になっても誰も帰ってこないから、(学校側は)八重山にもうどんどん電報打って、「帰って来なさい」っていうので言ってるけど。もううちの兄がそんなこと言って、「帰って来るな」と言ってあれしたもんだから、帰って来るべきかどうか。また戦場になるってことも、そのころから少しずつ情報があったんでしょうね。みんな八重山の父兄が集まって、いろいろと相談したらしいんですけど。でも、何回もやる、帰って来ない、それでうちの兄にですね、西平先生が「あんたの責任だからね、打ってこい」って言ったらしいんですよ、電報を打って。「あんたの言うことなら聞くはずだから、電報を打ちなさい」って言ったから、「ああ、そうですか。帰って来るなって打ちましょうね」って言ったもんだから、もう先生も怒ってから。また他の人を使って電報を3回打ったらしいですけどね。でもまあ、八重山の人みんな帰って来てしまって。残った人もいるけど。そういうこともあって、兄はもう疎開反対なんですよね。疎開賛成で、戦場出るっていうのはあんまり。みんなにも、私にも両親が疎開するときにですね、私はもうはじめから行かないっていう、みんな残るなら私行かないっていうことを決めてあったんですよ。でもう後から呼ばれて、「あんた自分の年分かるか」って言って。「うん、分かるよ」って言って。「それぐらいだったら判断つくだろ」って言って、「疎開しなさい」みたいな言い方。「疎開しなさい」とははっきり言わないですけどね、「両親のことも考えなさい」と言っていたんですよ。だから「考えてるよ」って言って。というのはもうそのとき父はもう学校を辞めていて、市役所にいたんですけど、脳梗塞になって半身不随になってたんですよ。だから歩くのもあまり上手に歩けないし。そんな状態だから、兄はもう「ついて行け」ということなんだけど、私はいつも元気な父だから、「それほど、歩けるぐらいだから大丈夫」って言って。全然もう疎開にはあれしなかったんですよね。疎開するっていう気持ちはまったくなかったんですよ。本当にもう、それで両親はもう3月には疎開、最後の疎開船で、私を待って、どうしても私があれだったものだから、もうこれが最後だということで、最後の3月3日ですかね、疎開したんですけどね。私はもうそのときはもう平気なんですよね。こんな状態になるって、まさかっていうか。大変だっていうことは分かっても、でも私は国のためという、そういう教育しか受けてないから。もう両親のことなんか、「大丈夫、母がついてるから大丈夫」ぐらいの考え方で送ったんですけどね。

もう私たちはそういう教育しか受けてないから。国のためって、そういうあれで。疎開っていうことはもう、それはもうね、弱い人っていうか、幼い人とか老人とか、そういう人たちがやるべきで、若い人たちは戦うべきだと。まあ、戦うという意味、そんな強いあれではないけど、残ってやるべきだというふうな、そんな本当に教科書に書いたような考え。今考えると本当に幼稚だったなと思うんですけどね。本当に賢明だったら両親について行くのがあれだったと思うんですが。その時の私たちの教育っていうのが、すごかったんだなと思うんですね。また友達を置いてね、自分だけ行くってこと、それもありましたね。自分が行けば友達は残るわけですからね。友達を置いて行くわけにはいかないっていう、そんな。

寄宿舎から。いや、はじめはみんな一緒に南風原に向かって行くわけですけどね。そこではじめはみんな一緒にいて、私たちはすぐ、本科1年はすぐ、翌日からすぐ勤務っていうんですかね、看護科(班)行ったんですよ。それから後から何日かたってから、第一外科行きなさい、第二外科、はじめは内科ですね。外科に行く人もいるし、内科もいるし、それから伝染病科も。その3つに分かれてたんですが、私は内科の方に行かされたんですけどね。

Q:それが後で第二外科に。

そうですね。はじめ普通の外科から、23日以後ですね、けが人が来たらみんな第一外科にまず手術やって、そこで処置した人を、各内科にも伝染病科にも分けられて行く、一応収容されて行くわけなんです。それを内科の先生たちが後からの治療、処置をするというような状態たったんですが。いつからですかね、2週間ぐらいたってからですかね、もう4月1日に米軍が上陸し、それからどんどん負傷者が増えてきて、そのころからあれですね。本当は野戦病院で仮手当をしてもらってから来るはずなんですけどね、もう戦場で野戦病院も分からなかったんでしょうね、そのままどんどん陸軍病院に直接来るもんだから、もう外科だけでは間に合わないわけなんです。それで内科の方が第二外科っていうことになって、そこに手術できる先生が外科からいらしてですね、そこでもう、ここでももう手術するようになったんですね。内科の方で、第二外科になってから。それからがもう大変でしたね、負傷者もどんどん来るし。はじめは内科が第二外科になって、それから学生、各部屋に・・・それからまたしばらくして、しばらくって言ってもうあれですけど。2週間、1週間、5月にならない前ですね、4月の終わりごろに、今度は看護婦さん、お医者さんも、内科の先生がその後の治療をするのも間に合わないっていうんですかね、どんどん減って。それで看護婦さん2人と、それから学生が4人だけ治療班にまわってですね。で看護婦さんと一緒に、看護婦さんが治療するけど、私たちはそのいろいろ道具を持ったりあれしたりする。でその治療班に私まわされたんですよ。本科1年生3名と本科1名。そのころからまた仕事がまた大変でしたね。

もう本当に見たことのない傷の人がいっぱい、どんどん来ますね。もう本当にその手術する先生は、本当に何かいろいろなもの、何か人間ではない、本当に何か物を処理するような感じで。もう一日何人も手足をボンボン切って行くしですね。本当にその兵隊、手術される方はもうあれですね、自分でやってくれって願うんですけど。いざあれすると麻酔って言ってもですね、第二外科ではね、エーテルかがせてたんですよ、麻酔かけないで、そのエーテルかがせて。でそれがもう、手術終わると同時にもう、終わるか終らないかの状態の時にもう覚めてしまって暴れるんですね。そのときに私たち学生が手足を押さえる役目なんですけどね。そして第二外科の場合は、他のところは各壕にいて、そこから寝起きも一緒にしてあれするんですが、第二外科の場合はみんなまとまって、手術場のすぐそばの壕にですね、まとまって休憩してたんです。そこからみんな交代交代して各壕に行くようになっていたので。そこに寝ている人たちをみんな起こしてですね、もう1人2人で足らない、とても間に合わないんですよ。もうしっかり手も足も押さえつけて。そして手術を終わらすっていうような、本当にかわいそうでしたね、それが一番。でもこの人たちはちゃんと手術してもらってるからいいけど、手術してもらえないでね、そのまま亡くなる方はあれでしたね、かわいそうでしたね。

いや、とても怖くてですね、本当に。怖いというよりはかわいそうという、何か一気にやられてるというような感じでですね、もうかわいそうでしたね。まあこの人は手術してもらったからいい方だと思っても、あの場面はもうかわいそうでしたね。今だったらずっと寝て、いつの間にか手術は終わっているっていうような感じだけど、もう本当に暴れてあれする。もう少ししたらすぐ覚めてしまって、そのエーテルが覚めてしまって。それが一番かわいそうでしたね。手術も残酷、でもこの人はちゃんと治療してもらったから「いいよね、いいよね」って私も言いながらあれしてたんですがね。本当にもう。

私のところでは第二外科ではあれでしたけどね。他のところでは「誰が亡くなった」、「誰がどうした」っていうことを聞いて、私第三外科で一番最初に怪我した、亡くなった島袋さんっていう人が出たから、もう即飛び出て行ってですね、まだ弾飛んでくるの、友達が亡くなったっていう時に、飛び出て行ってあれしたんですが。あのときには看護婦さんみんなでですね、きれいにしてくれて、そして白い、真っ白い反物があったんですよね、何かの包帯のあれでしょうね。その一反をですね、みんなで縫って着物をちゃんと作って。「みんなでこれやんなさい」て言って、みんな代わりばんこっていうか、みんな2人でも3人でもひとつのあれに。今この人は袖の人、この人は裾を縫う人って、みんなで手を入れてやって、ちゃんと着物をつけさせてですね。そして看護婦さんが口紅なんか付けてくれてやってくれて。「ああ、亡くなったら」、かわいそうではあったんだけども、「亡くなったら、この人はこんなにもきれいにしてもらえて良かった」って言ってですね、あれしたんですけどね。最初にもう亡くなった方の印象だから、その後からはもう誰が亡くなっても、行くほど元気もないっていうか、もう激しくてですね。そのときはまだ良かった。もうそれからは誰が亡くなったって言っても、飛び出て行くあれはなかったですね。最初だけはもう、私あれしたけど。でももう南風原にいるときには、それほどたくさんあれでしたけどね。

私たちはそのとき、治療班で2人組んでですね、やるんですが、看護婦さん1人と私たち2人で手伝いしながらこうしてまわるんですが。いつもやるときには24時間交代だったんですけどね、いつもなら適当にやって適当に帰るっていうんですかね、10時間でも12時間でもやって、また壕に帰って、また次休んでから交代するっていう状態だったんですが、その日に限ってですね、「今日はずっと最後までやりなさい」と。上の方の16号って言って、ちょっと山の上ですが、そこでちゃんとやって来るんだよって言って、強く言われたもんですからね。私たちそばで聞いて、看護婦さんに命令してたもんですから。それで行ってずっとやってたんですけど、途中でもう看護婦さんが「ちょっと薬が足らなくなったから、取りに行くね」って言って行ったきりもう帰って来ないんですよね。それで私たちは、ただ座ってるわけにはいかないから、包帯はずしてウジを取ってあげたりなんかしてやっていたが、それでも来ないもんだから。そのうちにもう時間も過ぎてしまってるし、「もう行こう」って言って。明け方になって、明け方でもないですね、もう真夜中になってるわけですけど、行って帰ったらもう、途中も壕をですね、見るけど、みんな空になってるような感じがするんですよ、いないっていうんですかね。「あれ、どこに行ったのかね、みんな」って言って。でもそこにはもうごはんなんかもあれした跡もあるんですがね。「あれ、どこにみんな行ったのかね」なんて思いながら、帰ってみたらですね、もう撤退命令が出たっていうことなんですよね。そしてもう看護婦さんも、私たちに「これだけは持って来なさい、南部に来なさい」って言って、書き置きがあるんですよ。薬箱とですね、書類みたいなのがあって。「あれ、どうなってるの」って言ってあれしたら、みんな撤退命令が下ってるから行くんだって言って。でもうあちこちからみんな集まって、そのときにみんな集まって行こうかって言って、行くって言ったら、もうそのころには私の第二外科のところからですね、あれは20、10メートルぐらい離れたところに井戸があったんですけどね、そこのところにもうアメリカ兵がいるんですよ。もう立って何かしてるんですね。だからそれを見て友達がですね、「私怖い怖い」って言って、「今ここに兵隊がいるから、弾飛んで来ないからね、今のうちに逃げなさい」って言って。もう盛んに言うんですけどね、もうこの友達は「行かない、行かない」って言ってずっと座り込んでしまったんです。そして他の人はどんどん行ってしまってですね、私たち2人だけ残ってしまったんですよ。でも衛生兵もいなくなってしまってですね、私たち2人になって「どうしよう」って言って。もう弾はそのころからもう本当に静かになってるもんですから「今の内に逃げないとだめよ」「今の内に出よう」って言うんだけど、もうこの人はじっとしてるんですよ。もう私も諦めてしまって、もうそのままにしていたら、しばらくしたら上の方から知らない兵隊が、将校みたいな人と、それから衛生兵みたいな人たちが4人ぐらい来て、こう何て言うんですかね、その辺にある缶か何か探して、何て言うかね、木の箱にですね、薬の入ってた木の箱の上に並べて、何かミルクを空けてるんですね。練りミルク(練乳)ですが、あれを空けて何かすすいでるから、「ああ、私たちがいなくなったら食べ物を取りに行く人もいないから、こういうふうにして、そんなもので食事させるんだね」と思って、私たちはただ遠くから見ていたんですよ。そうしたらまた水も何か持って来てちゃんとあれしてたから、「ああ、みんなに飲ますんだね」と思って。「私たちお手伝いしますか」て言って行ったら、もうこの兵隊に、この将校みたいな人が「まだそこにいるのか」って、何か日本刀を抜かないばかりにこうしてるんですよ。私たちは「何で」て言って、そのまま後ろずさりして行ったら、しばらくしたら、この兵隊たちはまた何か調合しながら、2人3人、2個3個ぐらい持って中に入って行きよったんですよ。そのままで静かで、この中を、私たちが真っすぐ行ったら、その横に兵隊がいるわけです、ここ手術の場ですからね。そこの奥に行ってしばらくしてからもう何かワーワーワーワー騒いでるんですよね。騒いで「何とかかんとかで」って言って怒鳴ってるもんだから、将校だったはずなのに「将校に怒鳴っていいのかね」って言って、私たちはあれしてから。でももう「何かおかしいおかしい、どうしたのかね」って思って。それであの日本刀を引き抜いているあの人のことを思い出して、「何だか私たち大変なことになってるんじゃないか」って、急に怖くなってしまって。もう「大変よ、今私殺されるよ。早く行こう」って言って。その荷物を、薬とあれをですね、荷物をしょってから2人で出ようとしたんですけど。出たんですが、もうこの人は「行かない」って言って座り込んで、もう引っ張ってですね、「とにかく今出ないと殺されるよ、殺されるよ」って言って、もうそう言いながらどんどん歩いていったんですが。

高嶺あたりに来た時にですね、兄(岸本幸安)に会ったんですよ。前に行く人も、友達も生徒らしい人たちが行くし、その後ろをみたら「あれ兄じゃないかな」と思って、それでもう一人お医者さんも一緒に行ってるから、もう2人ともゆらゆらしてるんですよね。「あれ兄じゃないかね」と思って行ったら、追いついて行って、「兄さん」って言ったから、「どうしたんか」っていった感じで、先に行ってると思ってるわけですよ。だから、「まだそこだったのか」って言ったか。もう私それよりも兄は「ちょっと来なさい」って言って、自分の鞄に、お家のいろいろな戸籍証本なんかいろいろな書類をですね、私に見せて「もし僕がここで死んだらね、これを持って逃げるんだよ」って言うんですよ。それで私は何か、さっき見たことは何だったのか聞きたくて、私が一応説明するんですけども聞かないんですね。自分のことだけ、これとこれとって言ってから、「かつお節とこれだけ持って逃げなさいよ」って言って。で、また歩こうとしてから「あんたが言おうとしてるのは何だったの」って言ったから、「実はこんなこんなして、何かおかしかった、何かみんな大騒ぎしてたけど」、「ミルクを持たして持って行って、みんな大騒ぎしてたけど何だったかね、心配」だって言ったら、前の方に走って行って、お医者さんにこの話をしたんでしょうね。で、今度また引き返して来てからね、「今のことはね、誰にも言うなよ」って言うんですね。これはもう、先生も、外科の先生ですけども、この先生も、「自分たちも薬もらった」って言うんですね。「もらったけどね、私は人は殺せないから」って言ってね。私もそのときは意味は分からなかったんですが、そんなふうな、人を殺しなさいっていう、「私は人は殺せない」って言って、この先生を。「でも今のことはぜったいに言うなよ。これが漏れたら軍法会議だよ」とか何とか言うんですよ。まったくもう、意味が分からないんですよね。それでもう、それで別れて行ったんですけどね。あれは何だったのか、何のことだったのか、まったく分からなくて。みんなに追いついて行ったんですけどね。そこに行ってはじめて、あれが青酸カリだったってことをですね、また他のお医者さんから聞いたんですよ。「だからそのことは言うなよ」ってまたこの先生も言うんですよね。だから私は絶対そのことを行ったら大変なことになるって、戦後もずっと黙っていたんですけどね。今考えると大変なこと、軍というのは大変な残酷なことをするな、と思ったんですよね。そういうけがして動けない人たちを「ミルクだ」って言って飲まして、青酸カリなんですよね。自決させたってことは、本当に残酷だねって。それでももうそのときには何のことか分からない、まったく分からない。それが一番ショックでしたね。それからもうずっと誰にも言えないし。

何か、「おめえたちは」とか何か。今入って来たのは将校のはずなのに、そんな言葉使っていいのかね、ぐらいに思ってたんですよ。「ばかやろう」とか、「お前たちは人間ではない」とか何とかって、もう悪口って言うんですかね、怒鳴ってるもんですからね。あんな、将校に怒鳴っていいのかねって言ってあれしてたんですが、そのうちに一番あれしてた人なんでしょうね、引きずり出されて、私の前を通ってこうして上の方へ連れて行って外に出しおったんですけどね、壕の外に。何かそのときは本当に、今まで静かでですね、時々「学生さん、水」とか何とか聞こえたんですよ、とても静かで。「この人たちは連れて、歩けないから置いて行って、後でトラックで連れて行く」なんて言ってましたからね。「まあ、あれだね」なんて思ってたのに、急にそういうふうに大騒ぎになったもんですから。「これは何か起こってる。何か大変なことになってる」って言って、何かわけ分からないけど、「とにかくここ出ないと大変だ、とにかく私たち殺される」っていう気持ちで、私たちは出て行ったんですけどね。本当に一時シーンとしていたのに、それが聞こえたもんですからね。

Q:その南風原陸軍病院から南部へ撤退するときに、重症患者で動けない兵隊は置いて行く、患者は置いて行くということだった?

そうなんですよ。歩ける兵隊だけ連れて「あなたがた行きなさい」って言って、ということだったらしいですけどね。でも「後から歩けない人はトラックで連れて行く」とか何とかって言ってたらしいですけどね。私たちはその場面を見てね、みんな治療終わって遅れて来てるもんですから、その場面は見なかったんですけど。「後からトラックで連れて行くから早く出なさい」みたいなことで。みんなは気にしてるわけですね、歩けない人どうなるか。でも「みんなトラックで連れて来る」って言うもんだから、もうそれを本当だと思って、みんな出たんでしょうね。

Q:ということは、配ったものが、例えば青酸カリだというようなことを、その動けない患者は…

飲んですぐ、もう飲んですぐそれが分かって、騒いだらしいですね。そこは本当にいた岡(襄・第1外科患者))さんっていう人がですね、実際に飲んで、そして自分で手を入れて吐いて、それを何回も繰り返して生き残ってる人がいるんですよ。実際にそれをね、飲まされた人もいるんですよね。だから「あれは青酸カリだったんだね」って言って、後で分かったんですけどね。他のところではそれを注射するとか何とか言ってましたよ。私が実習するときにですね、何て言うの、あの注射、私たちが実際にしながら見せるわけなんです、こうして注射。「でもいざとなったら、あんたたちもやらんといけないよ」って言って。私たちはもう「それはできない」って言ってあれしたんだけどもね。「これやらんといけないよ」って言いながら。「これはね、生かすときもあるけどね、殺すときもあるんだよ」って言うからびっくりしてね。あの、「変なこと言うね」って言ってみんなであれしたんですけどね。だから後で聞いたら他の学校の生徒、女学校の生徒は実際にまた注射したらしいですね。青酸カリだか何だか知らないけど、注射して。動けない人たちを、っていう話も何か記録にあるんですけどね。

Q:それで南部へ来て、それであちこち壕を入ったりして、最後は捕虜になると言いますか、そのときはどこの壕にいました。

私たちはですね、来てから2日目だったかな、6つの壕に分かれたんですけどもね。私は糸洲っていうところ。ずっと南の方ですけどもね。糸洲の壕にいたんですよ。第二外科はみんなそこにいたんですけどね。そこで解散命令を受けて。解散命令というよりは、私たちは、あれのときにはもう命令はちゃんとは聞いてないですね。とにかく馬乗りされて、壕が。壕の上に銃であれされて、がりがりがりがりやるんですよ。「そこから穴をあけて弾を落とすんだ」と言ってましたけどね。その朝はとても静で、だけど、弾も飛んで来ないし、「静かだね」って思ってたら、何か様子がおかしくなって、何かその辺までみんなもうアメリカの兵隊が来ているんだってことを聞く。しばらくしたら私の壕の上にもアメリカがいるんだってことでですね、みんな「静かに、静かに」って言ってんたんですが。もういつ穴から弾を落とされるかみんな「死んだら今日おしまいだね」なんて言ってて。でそれがしばらくしてから、しばらくって言っても5時ごろ、夕方になったらみんなアメリカいなくなってるんですね。でもうそうれから、またしばらくして、10時ごろになったんですかね。「これからみんなここを撤退するから、みんな第一外科に行きなさい」、第一外科って言ってたのか、波平って言ってたのかよく覚えてないですけど、とにかく「外科の方へ行きなさい」ということで。ひとりずつ照明弾が上がると同時に、どこって場所を自分で決めて、それが沈んで暗くなると同時に、ひとりずつ、もう彼女ひとりずつということでですね、ひとりで行って。ずっと下の方に行って、そこで待って、行って、それからみんな、みんなじゃない、めいめい集まったらもうすぐ行って、どんどん波平第一外科を目指してみんな行ったんですけどね。そのときがいちばん怖かったですね、もう。

Q:最後はどこの壕だったんですか。

そして私たちは本部に行った、本部じゃない、今の第一外科って、伊原の方ですね。そこ本当は第三外科だった、言われたのは。だけど間違ってみんなそこに行きおったもんだから、そこに行ったら、もうそこの人もみんな命令が、撤退命令が、解散命令が出たから、みんな「めいめいこれから行くところだ」って言って。女学校の生徒がみんな行きおったんですよ。そこで私たちはどうしていいか分からなくていたら、私の女学校のときの担任の先生が私を見てからね、「今どこに行くのか」って言うから、「いや、これからみんなと一緒に出ようとしてる」って言ったら、「兄貴に会ったか」って言ったから、「いいや」って言ったから。「兄貴に会ってから行くんだよ」って言ったんですよ。今ここで別れたらあれだから。私そのときはまだ全然兄のこと頭にもなかったんですけど。「そうだね、どっちかが生き残ってあれして、どうなったねって聞かれたら困るね」って思って、軽い気持ちで兄を捜して行ったんですよ。そうしたらその間に友達と、一緒の友達が別れていなくなってしまってですね。それで私があちこち捜したら、やっと太田壕にいるっていうことが分かって。そこに来た時には、入ったときにはもうみんな、兄もゲートル履いて、さあ、っていうところだったんですよ。そこに本部の人たちも、本村さんとかですね、西平先生とかがいて、一緒に出ようとするところだったんですよ。でそれまで西平先生は、兄弟は別がいいから、兄は第一外科、私は第二外科。みんな兄弟はみんな分けてあったんですよ。だから「疎開だ、疎開だ」って言って、「もし何かがあったら、連絡はするからね、辛抱して別々にいなさいね」って言って。この西平先生が、なるべく離れた方がいいとかっていうような、しょっちゅう、伝令に来る度に私に会ってそんなことを言ってたんですがね。その時にはね、もうあれだから、みんなあれだからね、もう一緒に、「これから一緒だ」って言われたもんだから。私はもうそこで兄と一緒に行っていいのかどうか分からなかったんですけどね。その西平先生が「一緒だ」って言ったから「行こう」と思って。でも自分たちの一緒に今までいた4人の看護隊の治療班の人たち4人一緒だったもんですからね、「一緒にあれしよう」って言って、その人たちも一緒に行こうと思って、捜しに行こうとしたんだけど、もういなかったですね。

それからまあ、この先生と一緒に行って、私たち海岸に出たんですよ。海岸に出たんですが、その途中で大舛さんていって、予科2年生の人がけがしてしまったんですね。それで「どうしようか」って言って。もう全然歩けないんですね、腰を折って。立ちもできないし、私たちも大きな人だからあれすることもできないし。「どうしよう」って言ったらね、「ちゃんと状況を見てから、来るから」って言って、アダンのちょっとした陰に置いて行こうっていうことになって。でみんな出たんです。でそこでまたみんなばらばらになってしまってですね。兄とも別れてしまっていたんですけど。まあ、結果的にはそこの海岸のところでみんな落ち合って、それから行ったんですけどね。具志頭の方に行って。そこでまあ、保護されたって言うんですかね、捕虜になっていうことで。そこまで本当にあれですね、みんなもうどこに行っていいか分からない、右往左往して。弾の中で。海岸の方が安全だっていうことですね、兵隊も言ってましたからね、みんな海岸に行ったんですが、もう北に行った人、南に行った人たちは、やっぱり犠牲が多いですね。海岸に行った人はわりと助かってるんですけどね。

働くことになって、私はもう働かない、早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。そこで孤児がですね、たくさんの孤児、アメリカの兵隊が壕の中から拾って来てるんですよ。歩ける子どもは向こうに連れて歩けたんですが、その子どもたちはもう2人3人、2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、いるんですよ。本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうに、この子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになって、かわいそうにって、みんなあれしたんですけどね。そしたらもうアメリカの兵隊が、「ベイビーたちはお話できません。ママさん来ます。助けてください」って言って頭下げるんですよ。言ってる意味は分かるけど、何をしようと思ってるのか、誰も心配だったんですよね。で、私たちが見なければということで、しばらく預かってたんですが。それから通訳の人が来てですね、「コザの方に、たくさんそういう子どもたちを集めている孤児院があるから、そこにこの子どもたちを連れて行ってくれないか」っていうことだったんです。「行きましょう」って言って、私6人トラックに乗せて、その子どもたちも一緒に行ったんですけどね。コザに行ったんですけども、本当にコザもあっちの家もこっちの家もみんな子どもばっかりでしたね。私はそのうちで一番大きなテント張りですけどね、コザ孤児院っていうところに行って、そこでみんな一緒にそこで働くことにしたんですけどね。まあ、初めのうちはもう、面倒見てあげたり遊んであげたりして。後から学校も作って、勉強も教えたりなんかしたんですけどね。そうこうするうちに自分が死ぬっていうのはすっかり忘れてしまって。そこではじめて「生きてるね」ぐらいに思ったんですね。もうそれまで死ぬことばっかりしか考えてなかったですけどね。

Q:コザの孤児院にはいっぱいいたんですか、子どもは。

はい、いましたね。200人ぐらいいたんじゃないですかね。本村さんたちも一緒なんですけどね。でもう、後からはもう、初めはみんなあれだったけど。後からは学年を作ってテントを一緒、1つのテントに1年生なら1年生、こうして分かれて、教室も寝るところもみんな一緒なんですよ。そういうふうなやり方してたんですけどね。私は一番小さい方の1年生を持っていたんですけどね、もうこの子どもたちがかわいそうでね。夜になると「お母さん、お父さん」泣くもんですからね。この子たちを泣かさないようにするために、「早く疲れさせないといけない」って言って、昼間はうんと遊ばせてですね、かけっこもさせてあれしたりして。夜になったらすぐ寝るだろうと思うんですが、やっぱりあれですね、「お父さん、お母さん」するもんだから、ゲームしたりなんかして。ひとりずつ抱っこするゲームをしたりですね。じゃんけんして、勝ったらあれしてあげようとか、何かそんなふうなゲームを作って、抱っこしてあげて。スキンシップですよね。そんなして だけども、やっぱり夜になったら、あっちからもこっちからも、「お母さん、お母さん」て聞こえてくる。もうそれ聞いたらかわいそうになって。それがいつまでも残ってますね、今も。

Q:それは何かこうひめゆりで、何ていいますかね、いわゆる多くの友達が亡くなるわけですよね。学校の先生になりたいと思って集まったお友達が、もうほとんど亡くなって行った中で、津波古さんがそういう仕事をやってきたっていうのは、何かそこにつながるものがあったんでしょうか。

そうですね、「友達の分までも」というちょっとあれですけど、大げさだけど。何かやりたい、何かやらなければという使命感と、またそういう子どもたちを助けなければいけないとか、色々なことが自分のみんな・・・やっぱりありますね。友達がいなくなった、今だったら一緒に勉強もして、一緒にまた学校も勤めたりなんかしてたはずなのにって言って。特に集まったりなんかするときに、その友達がいないっていうことがですね、いつもあれですね。

Q:それはずっと、先生生活をしていう中でも、そういう恵まれない子どもとか傷ついた子どもを見るっていうこともあったわけですよね。

そうですね。何かやるたびに、みんな難しい、難しいっていうよりもあれですからね、嫌がってあまりやりたがらない。でも私は友達の分までやるつもりで、やろうっていう気持ちでいつもやってましたね。勉強もしなければいけないし、体力も続かないし、もうとてもきつかったんですけどね。でも、生かされたっていうかね、そういうあれで。友達の分まででも、っていう気持ちはいつもありますね。

まあ、命を大事にとかですね。お互いの、友達を理解し合って、お互いに理解しあって戦争のあれですよね、そういうふうな争いごとはあんまりあれしない。そういうことよりも、まず私が最後に締めくくりに言うことは、その憲法9条のおかげで日本はこの60何年の間、よその国の人も誰も殺してない。それからみんな戦争もなくてね、また日本の人たちだって誰ひとりも戦争のために死んだ人もいないし。いい時代だけども、でも最近はね、その憲法を変えようとしている改憲論が続いてると。もっと素晴らしい平和な国にしようと思って変えようとしてるのか、戦争のやりやすい国に変えようとしているのか。それを見極めるのは国民であるあなたがたですよって。それを正しく判断するのはあなた方で、国民がやるべき。私たちはみんな上から言われるだけだったけど、今からはみんなで考えて、考えなければいけない。どうしてこうなったのか。じゃあこれから後どうすればみんなが平和になれるかっていうことを、まず過去を学んで、今までのね、どうして戦争が起こったかとかね、そういう過去を学び、これからどうすれば平和になれるかっていうことを勉強すること。そして勉強したことをまた次の世代に伝えていくという。それがもう、私たちの一番の願いですっていうことを、締めくくりに言ってるんですけどね。

Q:それは当然、津波古さんご自身の子どものころからの色々な体験も踏まえて。

そうですね、もう私たちが判断力がないって、そういうことがあれですよね。国民に対してそういう判断するだけのね、これから戦争が起こるっていうこと、そういうことも、私たちが、みんなが分かってくれば、それも反対するとかね、そういう能力もあったけど。みんなそういうのを教育で押さえられてしまってるから。それがまず、みんなが世界の平和に対すること、みんなであれして、考えなければいけないんだということを、言いたいんですけどね。何か、うまく子どもたちに伝わるかどうか、よくあれですけど。でも戦争で人間が変わるんだっていうことをですね、しっかりあれですよね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・ひめゆり学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼる。

この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われた。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされた。

そのうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人は、「ひめゆり学徒隊」として組織され、陸軍病院で負傷兵の看護などに当たった。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることも多かった。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものだった。

撤退先の本島南部の伊原第一外科壕や第三外科壕に移ってからの6月下旬、米軍の掃討攻撃で多くの学徒が命を失った。

最後には、なすすべを失った日本軍によって学徒隊に解散が命じられ、生徒たちは、本島南部の海岸や森の中を彷徨せざるを得ず、集団自決に追い込まれ、あるいは米軍の攻撃でさらに命を奪われていった。
6月23日に沖縄における組織的な戦闘は終わったが、ひめゆり学徒隊240人のうち、136人の命が奪われた。

戦後、生き残った人々を中心に「ひめゆり同窓会」が組織され、1989年にはひめゆり学徒の悲劇を後世に伝えるため、伊原の壕跡に「ひめゆり平和祈念資料館」を開設。いまも、多くの元ひめゆり学徒が「沖縄戦」を伝えるために活動を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
那覇市に生まれる
1944年
沖縄県立師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小学校、養護学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員
2008年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会評議員
2011年
ひめゆり平和祈念資料館証言員

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