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タイトルタイトル: 「卒業式会場上空を飛ぶ砲弾」
名前名前: 本村 つるさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 沖縄陸軍病院へ  02:46
[2]2 チャプター2 戦場の卒業式  04:11
[3]3 チャプター3 同級生の死  05:02
[4]4 チャプター4 死にゆく傷病兵  03:17
[5]5 チャプター5 南部への撤退  08:21
[6]6 チャプター6 山城本部壕  02:02
[7]7 チャプター7 直撃  04:23
[8]8 チャプター8 解散命令  05:47
[9]9 チャプター9 追いつめられて  07:41
[10]10 チャプター10 迫ってきた米兵  04:30
[11]11 チャプター11 捕虜収容所  03:52
[12]12 チャプター12 置いてきてしまった同級生  05:38
[13]13 チャプター13 家族も奪った戦争  01:29

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収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

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Q:それで昭和20年3月23日に動員されてですね、夜出発して南風原に着いて。その動員の時は何か印象に残ることといいますか、ありますか。

印象に残る。動員のときですか。はい、動員のときには本科2年生は寄宿舎のですね、大きな釜、方言で「シンメーナービ」っていう釜、あれをですね、大八車に積んでね。それにお米の入った箱があったんですよ、非常持ち出し用の。そういうものを大八車に積んで、寄宿舎からずっと、識名の道をですね、これを私たちが運んだんですけど。その大八車というのはね、あんまり慣れないもんですからね、操作が。それで、ほら、引っ張る棒があるんですが、後ろが重くなったらうんと上がるんですよ、その棒が。飛び上がってまた棒を捕まえて、また歩き出したり。今みたいに舗装された道じゃないですから。わだちがね、あちこちあるんですよ。それに車を落としたりしてもう、そりゃもうとても苦労しましたね、道は暗いし。そうして識名まで行ったときに、学校から識名のあの坂まで行ったときに、そこにはまた識名の陣地で私たちが仕事したところがありましたので、陣地壕(ごう)を作った場所がありましたので。そこの兵隊が見て、「僕たちが南風原までは運びますよ」ということで。そこからはもう何も持たないでずっと行ったんですけどね。やっぱりほら、那覇の家も全部いないですから、真っ暗なんですよ。道は暗いし、真っ暗で。ただですね、月がね、かすかに光っていました。

卒業式はですね、25日に予定されてたんですよ、3月の。我々本科2年生は、私は那覇ですから、そんなに、すぐ帰れるとこにいますけど、田舎の人はもうとても嬉しいわけですよ、早く家に帰るのを。だからもうみんな帰る準備もやっていた矢先に、この動員になったので、田舎の人は親に動員されるっていうことを何も知らせないで行ってるわけですね。それで、卒業式はそこではもうできないものと思ったんですけど、3月の29日でしたか、30日かね。校長先生と部長先生が首里からいらして、「卒業式します」と言って、あったんですよ。そのときの私たちは炊事当番ですから、炊いたごはんをおにぎり握ってましたね。夕方の8時、9時ごろでしたかね。そうしたらもう手も洗わないでそのままその式場に行ったんですけど。三角兵舎でやりましたけど。みんなそれぞれ仕事場から、作業場から。だから壕掘り作業を手伝ってる人はそこから。私たち炊事班の人はそこから。そして女学校の卒業生も、私たち師範の卒業生も、それから下級生は全員じゃなくて何名かは、あれしてますね、参列して。で三角兵舎の、ひとつの三角兵舎で。そうですね、夜でしたんで、暗いところですけど、三角兵舎は長いんですよ。その真ん中の方にテーブルがひとつあって。そこに蝋燭を両方に立ててですね、それだけが明りで。あとみんなこう並んで、卒業式始まったんですけど。校長先生、野田先生が師範生に対する卒業式の言葉があったんです。先生の言葉の中には「これはもう、本当に未曽有の卒業式だ」と。「これはどこにもない卒業式だ」と、「戦場の中で卒業式するというのはこれは本当に未曽有の卒業式だ。これは戦争が済んだら卒業生のみなさんが、また学校に戻って、子どもたちを教育する立場である」というような。いわゆる学校の先生になるということをですね、校長先生はお話なすっておられたんですよ。そのときにもう弾が飛ぶ、上からは弾が飛んでるのが分かるんです。たぶん艦砲射撃だと思うんですけど。夜は飛行機は飛びませんので、艦砲があったんですよ。その近いところで多分艦砲を撃ってたんじゃないかと思うんですけど、何か発射音みたいな、着弾音みたいなのが聞こえる、上を通ってるんですよ。そしたら地響きがするんですよ。そしたらロウソクがゆらゆら揺れて。それで校長先生のお顔が見え隠れしてるのが、大変印象に深いんですけれども。で部長先生、西岡部長先生は、どんな話をしたか覚えてません。ただ校長先生のお話は本当に、「本当にそうだね」と思って聞きましたので。戦争が終わったら本当に。みんな希望を出して、どこどこに行くんだという、私たち出していましたんで、赴任校を。だから「そこに行くんだ」と言って、思ってましたので。すぐ戦争済んだら行けると。そういう感じでしたね。

そのときにはね、壕の外に行ってお日様を拝んで、武運長久と戦勝祈願をしにみんな壕の入口に行ったんですよ。そして拝んで、そしてみんな中に入ったんですけども、お友達がですね、その本部員がね、3名「トイレに」と言って行ってるんですよ。それでひとりはもうトイレに入らないで帰って来て、2人がね、弾にやられちゃったんですよ。でそのうちのひとりはね、石川清(子)さんというんですが、あの人はここの、もものこの肉をですね、取られてね、もう本当に取られて、ヨタヨタ歩いて来て。もう私がなにしたんですけど。もうひとりの山城芳さん(伊原第3外科壕で死亡)というのは、本科2年生です。この人は飛ばされてどこに行ったか、いなくなったんですけど。でもすぐ、石川さんはすぐ仮に包帯して手術室に連れて行ったんですけどね。山城さんは捜せなかったんですけど、兵隊が山城さんを連れてですね、手術室まで行ってるんですよ。で私たちが石川さん連れて行ったときに、山城さんはそこでもうちゃんと処置をしていましたけどね。石川さんはずっと、それからずっと最後まで傷が治らないで、第一外科に残して来たんですね。山城さんは傷が治ったから、妹がいたから、妹さんと2人で第三外科の方に行ったんですよ。だからこのケガした2人はもう、山城さんは良くなったのに第三外科で亡くなっちゃって。石川さんはもう置いてきたんですけど。もうその南風原での私の経験はこれとですね、もうひとつは渡嘉敷さんが脚をやられた。渡嘉敷さんは死体埋葬に行って帰りにやられたと言ってましたね。ケガしたと言ったから、私は西平先生と2人で渡嘉敷さんのところへ行ったんですよ。その渡嘉敷さんは、「いや、先生、傷浅いですから大丈夫ですよ」ってニコニコしてたんですよ。「そんなにあれだったら良かったね」と。何かこの辺の脚のすねの辺りをやられたと言っていたんですけれどもね。あの人も最終的には仲宗根先生が残して来たと、話でしたけどね。最後は自分はもう痛いから出られないというようなことを言ってたそうですけどね。この渡嘉敷さんも、あの人はとてもニコニコしたかわいい人だったんですけど。「大丈夫ですよ、先生、軽いですから」と言ってたので、「もう大丈夫だね、帰って」。こういうところどころで、南風原での印象がありますけど。あとひとり嘉数さんという、一期下ですけど、この人は入口の方で弾で来て、生き埋めになったんですよ。佐和田(秀子)さんという人とこの嘉数ヤスさんと。あと兵隊と3名ですかね、生き埋めになって。そして佐和田さんはそのときに救い出すことができたんですけどね。嘉数さんと兵隊は救い出せなくて、もう弾が来るもんですから。もう断念して少し来なくなってからまた掘り出そうということだったんですけど。2日目か3日目にもう掘り出したと言って連絡がありましたから。西平先生と一緒に埋葬に行ったんですよ。そしたらもう本当に3日でちょっと腐乱に近いんですよね。それで毛布でくるまって。必ず亡くなった人は遺髪ですね、髪と、爪を、遺骨の代わりに爪を切って遺髪と取って、それはもう遺骨のつもりで。そうしたんですけど、その嘉数さんの、毛布でくるまってどこが頭か分からない。開けてみたら髪の毛が見えたもんですから、引っ張ってハサミ入れようとしたらぷすっと抜けちゃったんで、「本当に腐乱してるな」と思ったんですけど。こういうような、生徒がいくつかもあるんですけど、やっぱりお友達が亡くなったとかケガしたところというのは、やっぱりいつまでも忘れない、その状況は残ってますね。

とにかく一番怖かったのはケガすることが怖かったですね。もし、弾に当たるかもしらんけど、ケガはしないでおこうというのが、いつも思ってたことだったんですけど。しょっちゅう外に出る仕事ですから、いつ弾に当たるか分からないんですけどね。ケガするのは大変怖かったです。というのは、ケガして寝かされた人はもうなかなか治らないし、そしてほら、石川さんだってなかなか治らなかったし。渡嘉敷さんだってケガは小さいといったけれども、最後まで治らなかったし。もう陸軍病院ではですね、病院じゃないんですよ。ただもう壕の中に入れて、そして包帯交換したり何かしたりまわってくるけども、積極的な傷の手当てだとか、栄養をつけるっていうのはまったくできなかったですね。おにぎり一個ぐらいしかあてがっていないし。それから傷が化のうしようが何しようが、毎日は包帯交換できないので、ウジがわくとかですね。そういうのを目の当たりにしていましたので、絶対にケガはしないでおこう。「死ぬときにはもうパッと死んだ方がいい」と思っていたんですけど。それはなるべく当たらないように、弾に当たらないように。ですから壕から出たら一目散に走って、次の壕に行くんですけども。飛行機が飛んで来たらですね、飛行機は落としますから、人は。だからなるべく塀にくっついて動かないように、というような、そういう自分の身の当たらないような努力はたくさんしたんですけどね。亡くなった人のを見ると、「自分もいつかそうなるのかね」という気持ちは、少しはありましたけどね。もうなにかしらね。

Q:もしくは、自分たちが動員されたときの、さっきお話されたことから考えると、まさかそこまで自分たちが追い詰められるっていう。

全然そこまでは考えなかったですよ。そんなにぽんぽんとね、人が死んでいくというのもね、そんなに感じなかったですね。空襲はありましたよ、今までね。で空襲のときに壕の中に入っておれば、その飛行機が飛んでもういなくなったら、また普通に戻りましたので。そういう感覚しかないんですね。戦争はもう、朝から晩まで弾が落ちますのでね。「戦争ってこんなもんだったかね」本当に思いましたね。とにかく落とせばいいんですよ、弾を。下に来る人を殺して、物をこぼせば、戦争・・・「ああ戦争ってこんなものだったのか」と思いました。

あのですね、私は本部壕、そのとき生徒がですね、撤退の話が出たときに、ケガ人が石川さんと山城さんがまずいる。あと渡嘉敷さんがいる。この3名を担架で運ばないといけないという気持ちがあったんで、それを本部で運びましょうと。で本部でまずその担架を探す、担架がいいのがなくてですね、ちょっと壊れてたのがあって、それを一生懸命直したりして。で撤退の準備をしたんですよ。

だから3名ケガしていたんで、兵隊の移動は私らあれなんですけど、生徒を連れて行くのは、私たちが連れていかないといけないので、3名を連れて行こうと。それで担架をまず準備をしようと。それで石川さんと山城さんはすぐそこにいますので、同じ壕にいましたので、この人の準備も全部やって、そして渡嘉敷さんは迎えに行かせたんですよ。本科2年の仲田さんと石塚さんが行ってるんですけど、行ったらですね、帰って来ないんです。なぜ帰って来なかったというと、もう敵がその辺まで来ていてですね、入口から出ようと、機関銃でどんどんその入口は撃たれて、なかなか出られなかったんだそうですよ。そしてもう日がとっぷり暮れてから来て、「渡嘉敷さんは連れて来られなかった」と。どうしたかというと、渡嘉敷さんも痛くて、「自分はトラックで運ぶと言うから、もうそれに乗って行くから」と言って、帰って来たんですよ。そこへまた新川さんという人が、あのときには新川じゃなくて、仲村さんといったんです。その人が友達に支えられて本部壕に来たんですよ。それは「ケガした人は本部壕に連れて来なさい」という伝令が行っていて来たんですね。そしたらケガは足くびだったんですけど、「歩けない」と言ったから、じゃあ3名を乗せて行こうと。で私たちはその3名を担架に乗せて、南風原から南部まで行ったんですけどね。その日は雨が降っていて、それが長い雨だったんです。その日も、もう夕方から雨降り出して。で「濡らしたらいかん」と言って、毛布をもう2、3枚かけて、担架を持って出たんですけどね。やっぱり弾痕があったり、起伏があったりですから。雨も降ってるし足がすべるんですよね。で踏ん張り踏ん張り。防衛兵を、西平先生は本部にお願いして、「担架で運ぶから防衛兵(防衛隊員)を12名寄こしてください」と言ったそうです。ところが6名しか来れないと、6名が来たんですよね。担架が3つですので、4名で持って。だから防衛兵はひとつに2人ずつであとは私たちが持ったんです。担架を持って、そして途中でひとりが足をすべらすと、みんなも4人とも転んでしまうんです。そのときに私ひとり、山城さん乗せたときに、山城さんを落としたりしたこともあるんですけど。とにかくこの南風原からあそこまでの道のりはですね、大変な道のりでした。雨も降るし、弾は降るし。南風原の壕を出て、今の徳洲会病院がありますね、あそこに橋があります、何橋だったか。そこまでの間、すごく弾がひどかったんですよ。

山川橋。南風原からその山川橋の間はとっても弾がひどくて、途中で至近弾に遭ったんですね。そして担架を置いて、私たちは伏せをするんです。そしてポツンポツンポツン破片が落ちて来るんですよ。そのときに、私と石川さんとの間、私がこう持ってると、石川さんそこに頭があると。30センチぐらいしか開いていないんですけどね。その間に小さい弾が落ちたんですよ。で私に当たらなかったんですけど、石川さんのこの辺にまた当たったんですよ。だけどこれ小さい傷だったんで、良かったんですけど。とにかくとてもひどい弾でしたね、あのときには。で山川橋にかかったら、少し楽になって弾も来なくなって。それで東風平に行ったときはですね、もう弾はほとんど来ないで、雨も晴れて、お月さまも出てきて、少し良かったんですけど。与座岳の中腹に「何とか司令所」(24師団司令部)があって、そこに行くんだと言って行ったんですよ。ところが登って行ったらですね、そこには生徒は入れられないと。そこは行ったら、自家発電していました。壕の中電灯ついてました。一応先生が行って「交渉してくる」と言って、先生がいらした。私もちょこっと後ろから付いて行ったんですが、「ああ、電灯が点いてるな」と思って見たんですけどもね。入れないから「またもっと南に行かんといかん」と言って先生帰って来られて。もうみんなも大変疲れていますので、「もういい」と言って座ってたんですよ。そしたらまたそこに弾が落ちて、破片があれしたものだから、防衛隊がひとり負傷しちゃったんですよ、そこで。で防衛隊が6名だったのが、ひとり負傷したら、2人でね、肩にあれして連れて行かんといかんので。防衛兵は3名になっちゃったんですよ。あとは私たちがあれして。道間違ってですね、与座岳の上に登っちゃったんです。そしたら、もう、与座岳の上は真っ白なんです、弾が落ちて。大きな声で、担架3つですけど、まとまって歩いたら、みんな一度に亡くなることもあるので、別れて、長い列をあれして行きましょうっていうことだったので。みんなもう連絡はつかなかった。大きな声で、「先生、先生」と大きな声で呼んだんですよね。そしたら周りにいた沖縄の人が道を教えてくれて、やっと降りたんですけど。その私たちの3つの担架の他にですね、識名でガス弾に遭ってやられた3年生が、もう脳症を起こしてですね、自分で髪をとくことも、もんぺを結ぶこともできない、子どもみたいになって。その子どもたちを親泊千代(子)先生が、「じゃあ私が見ます」と言って、千代先生がだめだから、西平先生が後ろになったり前になったりしながら、ちょうど私たちと一緒に移動してるんですけど。この本部の移動というのは、すごく大変な移動だったんだなと私は思いますね。普通、第一外科とか第二外科の移動は個人、みんな大変ですけれども、あの移動は、本部員の移動は、大変だったと私は思っています。雨は降って、毛布には水があれするし、とっても重くて肩が痛くて大変だったんですけどね。それでも予科2年生の奥田(真砂子)さんとか、それから仲本さんとかっていうのは、とても元気だったんですよ。この人たちは本部壕にいるときには、下級生だから仕事をあんまりさせてなかったんです、外に出すこともなかった。だからわりかし元気で、この人たちはすぐ「代わりましょう、代わりましょう」と言って、何度も何度も代わりながら担架を持ってね、移動をしましたけど。この本部員の担架の移動、撤退は大変な撤退だったんだな、と今思いますね。

私たちが行く壕が。どこに入るか。結局は撤退はしたけれども、陸軍病院の壕というのはなかったんですよ。それで陸軍病院の兵隊たちが、あちこちあの辺に行って、壕を探して来たと思うんですけどね。で第一外科、第二外科みなさんかわったところに入ったんですけど。私たちも、何て言うんですかね、一応担架を下ろして休んでいたら、本部壕は山城ということが分かったんで。一日目はですね、みんなの石部隊か山部隊かの、24何とかって言ってた壕の、山城の丘のところにですね、壕がひとつあったんですよ。そこにみんな一応入ったんですけど。私がそこから出たのが26日だったんですが。結局は25日に撤退して、26日には着いたんですよ、一晩だいたいかけて。そして26日にそこに入って。そうだ27日に山城に行ったんですけどね。海軍記念日というのがありますよね、3月の25(海軍記念日は5月27日)ですかね。そのときには日本軍がまた逆襲して戦がもうすぐ良くなるんだというぐらい、言っていたんです。なにしろあそこに行ったら弾があんまり来なかったんですよ、そのころ。もう周辺は青々として、弾が落ちてないんです、今の伊原辺り。

これはですね、6月の14日にね、弾が落ちたんですよ、入口に、山城本部壕の。そのときには、私は山城本部壕に入ってからは、各外科には伝令が行かなかったんですよ、本部員は。それはですね、今度は各外科からね、衛生兵と、それから生徒が本部壕に。そこに本部壕がありますので。各外科からは、衛生兵、兵隊とその生徒が付いて来ていたんですけれども。6月の14日のですね夕方、もう夕方になると敵の戦闘機、爆撃機はいなくなりますので、そのころにみんな壕から出てね、食料探しとかそういうのをやるんですけれども。他の壕から来た人たちも、入口でみんな「いつ飛行機がいなくなるかなあ」と言って、空を見上げてみんな立っていたんです。その中に病院長もおられたんですね。普通病院長っていうのはこちらにあんまりいらっしゃらないけど、なにしろこの日はおられたんですね。で私たちは、本部員は、この方たちが出ていった後に、また私は出て、食料探しに行くつもりで、下の方で待っていたんですよ。その夕方ですね、7時、あの時は夏ですから、ずいぶんと日が暮れるのが遅いですよね。多分7時ごろだったと思うんですよ。そこに弾が落ちたんですよ、すぐ近くに。多分向かって左側の、ちょっと低くなったところがあるんです。そこに落ちたと思うんですよ。どこに落ちたか知らないけど、とにかく落ちたから、壕の中には煙が、白い煙が入ってきたんですけど。そこで落ちて、たくさんの人がそこで亡くなったんですよ、待ってる人。それでその時に生徒が、第二外科から来た宜保さんといって、予科3年生です。それから安座間さんといって、予科2年生が、この人は第三外科から来てたんですけど。安座間さんはケガしてすぐ下の方に連れて来られたんですよ。宜保さんはもう、どこに行ったか分からなくなっていると。先生が捜しに行ったけど、捜せなかったと言って。で兵隊がたくさん亡くなって。それで病院長もケガして、下の方に連れて行かれたんだそうですけどね。その病院長がケガしているのは、見てはないんです、とにかくその日は連れて行かれて。翌朝、病院長も亡くなって。私たちはもう陸軍病院ではもう病院長が亡くなったから、指揮は総務主任とか何とか、佐藤さん(佐藤悌二郎少佐)という方が、少佐か何か、少佐じゃない、何だったか。とにかく一番上の人が指揮をとると。だから生徒はこの壕からもう第一外科、とにかく出なさいと。「各壕に行きなさい、各外科に行きなさい」という命令だったんですね。それで西平先生は、私たちはみんな第三外科に行きたかったですよ。なぜか第三外科はとっても大きな壕で堅剛だって、といううわさが流れていたので、「第三外科に行きたいね」と、「みんなだ第三外科に行こう」と言ったら、先生は「こんな大所帯」、12名でしたから、「第三外科には行けない」と。「だから半分ずつ分けるよ」と。で先生が分けなかったんですよ。「じゃあどうする?」って言ってじゃんけんにしたんですよ、学年同士。で「負けた人はじゃあ第一外科ね」と。で「勝った人は第三外科ね」と。みんな第三外科に行きたいから。「じゃあ勝った人は第三外科」と言ってじゃんけんしたら、負けた人は第一外科に行ったんです。私は負けた方で第一外科に行ったんですけど。半分は第三外科に行ったんですね。それで第三外科と第一外科の分かれになって、最終的には第三外科に行った人はみんな亡くなっちゃったんですけど。

西平先生はですね、「軍から解散命令が出た」と。そのわけは、「もうそこにアメリカの兵隊が来てる」と。「それでこの壕にみんな一緒にいると壕にもう弾が一発入れられたら、みんな全滅するんだ」と。「だからこの夜でね、今日の夜でこの壕からは脱出しなければいけない」と。「だけどみんなで一緒に脱出すると目立つから、グループを作って出なさい」とおっしゃったんですよ。「それには、上級生は下級生を連れて出なさい」と。「だいたい4、5名ずつのグループ。そのグループの中には、北部、中部、南部といって、その各部の人が入るようなグループを作りなさい」と。「ここから出るときには南部の人が道を知ってるだろう」と。「中部に行ったら中部、北部に行ったら北部の人が道知ってるから、そういうようなグループ作りをして、出て行きなさい」と。なるべく、何て言うんですかね、危険でないところを探して行きなさい」、とおっしゃったんですよ。ですから先生は、「自分は東の方へ行きたい」と。だけど、「僕はそう思うけども、だけど今はどこにどうしているか、どこが正しいっていうことは自分には言えない」と。「言えないけれども、一応みんなで相談してなるべく危険でないところを探して行きなさい」という話をしておられました。そして地図をですね、上級生を集めて、ここに行ったらこうなる、こうなる、という地図を見せて話をしておられたんですけど。「それはどこへ行っても、どこが安全でどこが危険ていうことは、もう僕には言えない」という話をしておられて。「相談して出なさい」と。その時に、ひとりでも生き残って、何て言うんですかね、「自分たちがいわゆるひめゆりの学徒隊は、こういうことをしたんだ、ということを伝えるようにしなさい」と。「もしそのグループの中でひとりでもケガしたら、戦だから仕方がない」と。「ケガしたらもう置いてけ」と。「その人ひとりをあれするために、みんながまた犠牲になってもいかんから、これはもう戦争だから仕方がない、置いて行け」と言って、先生おっしゃってました。「だからみんなよく危険でないところを探して出て行きなさい」と。

私はですね、もうそこに、何て言うんですか、その兵隊が来ているのは、斥候を見たという人も聞きましたのでね、「ああ、本当にそこまで来てるんだな」と。やっぱり出ないといけないんだなと。これはもう出て行ったら死ぬかもしらん。もう死ぬ覚悟をして出て行ったんですけどね。いったん出たらもう私は死ぬかもしらん。とにかくもう、出なさいとうか、出ないといけないと。それで本部の人たちは、私たちは上級生ですから、私と石塚さん、本科2年生は2人いましたから、「どうする?」と。で石塚さんも那覇の人なんですよ、私も那覇だし。その辺何も分からないんです。それからあとひとり比嘉さんが北部の人で、与那嶺さんも北部の人で、あと予科の1年、大舛さんは八重山だし。それから1年生も八重山で、その辺のこと何も分からないから、「どうする。この壕で残って、もうそこに残っておこうか」と、最終的にはそんな話をしたんですよ。だけど先生は「早く出て行け、出て行け」するし、「もうすぐかね」と言って、みんなでそれぞれあるんですね。私の友達に新垣キヨさんっていう人がいるんです。この人は首里の人でね、女学校から師範一緒だったものですから、「私も家帰ろうか」というぐらいしていたんですけど。あの人第一外科に行って、私は本部壕に行って、それから全然会わなかったんですよ。だけれども先生が「出て行きなさい、出て行きなさい」って、みんな出たくないけども、この新垣さんがね、「先生、出て行きます」と言って、何名か連れて出て行ったんですよ。外はもう弾は来るし、弾の閃光と言うんですかね、それが壕の入口にビーン、ビーンって入って来るんですよ。だから本当に出て行くのが怖いんですけど、もう夜が明けると、出なければいけないといったときに、その新垣さんがですね、大変大人しい人なんですけど、「先生、出て行きます」と言ったから、この人が出て行ったからですね、みんなそれぞれにつられて、みんな出て行ったんですよ。で私たちグループはもう出きれない、「もうもうここでいよう」と言っていたんですけど、最後に出たんです私たちは。そのときに先生と、岸本先生と西平先生とね、それから岸本先生の弟(妹)の津波古(ヒサ)さん、津波古さん本当は第二外科だったんですけど。お兄さんのとこに来ていて、私たちと一緒になったんですけど。最後にいて、私も「私たちも連れてってください」と言って先生を追って行ったんですよ。だから「先生」と追って行ったから生き残ってると思います。多分途中で死んでいたかもしれません。でも手りゅう弾なんか持っていませんので。死ぬと言ってもね、なかなか死なないんですけど。手りゅう弾持ってなかったですよ。

出て行ったらですね、19日の。18日に解散命令が出て、19日の夜中にみなさんそれぞれ出て行って、私が出たのは5時ぐらいに出たんですよ。白々と夜が明けていて。それで山城の方に行く人と、それからあちこち。先生がおっしゃるには、国頭の方に向かってという話はあったんですよ。危険はあれして、国頭の方ではまだ静かだから、そこに行くように。だから私たちはみんな「国頭突破、国頭突破」ということで向かったんですけど。山城の丘に登る人、あちこち、海岸に下りる人があったんです。私たちは、戦争終わっていますのでね、東側に行ったんですね。今の大度海岸の方向に向かって行ってるんです。それで私が出たときにはもう飛行機が飛んでいました。だから飛行機がもう弾を落とす、りゅう散弾と言って、途中ではじけるのがあるんですよ。それも飛んでるし。もうとにかく「あの木の陰に行こう」って言って、畑を突っ切って行きましたのでね。桑か何かの木があったんですよ。その木のところにみんな行ったら、そこでまた至近弾が落ちて、土煙を浴びて、何も弾じゃなかったから良かったんですけど。しばらくしたら今度は、迫撃砲がですね、ポンポンポンポン、とこちらに向かって落ちてくるのが見えるんです。「ああ、もうここは危ない」とすぐに「走ろう」って言って走って荒崎海岸の近くにモクマオウ林がいっぱいあって、そこにみんな走って行ったんですよ。そこは木が生えていて上からは見えないけど、下は何も壕があるわけじゃないんですね。だけどそこに兵隊がいたし、それから民間の人がですね、何名かそこにいて。私たちはそこに走って行ったら、たまたま土くれがここに当たったもんですから、とても痛かったんですね。それでその民間の人がちょっと砂を掘って、ちょっと溝みたいなの作って、そこに入ってる人がいたから、「入れてください」と私そこに飛び込んだんですよ。他の人たちはみんな、それぞれに散らばってなにしたんですね。そのとき津波古さんも一緒ですけど。津波古さんたちは何かソテツの下にいたとか。アダンの下にいたとか言ったんですけど。もうそうなったらどこに誰がいるか分からないんですけどね。そこで大舛さんがやられたんですよ。その丘の上で。そのときにですね、非常に敵のあれが近づいていたと思うのは、戦車の音が聞こえたんですよ、ゴロゴロゴロして。そしたら民間の人がですね、棒に白いハンカチをあれして走って行く人がいたんで、「あ、あの人は捕虜になりたいんで行くんだね」とそれを見ていたんですよ。その見てるときに弾が落ちたんですよ。私はそれを見ていました。そして大舛さんがこの、ここの背中の方をやられてですね、もう足が伸びきってもう全然動かせないんですね。もう大変でしたね。だから大舛さんを置いていっちゃったんですよ。これはとっても私も人に話するの苦しいんですけどね、置いて行っちゃった。「後で迎えに来るからね」と言って、みんなで下りたんですよ。そこにもうその兵隊は来るのは分かっていましたのでね。今ここあれだから、後で迎えに来るから「しばらく」と言って出てったんですけどね。結局は下りて行って、そして民間の人がいっぱいどこかに行くんですよ。そのうちに一緒に行こうとしたら、「捕虜になるからだめだ」と言って、また慶座(ギーザ)バンタの近くのね、海岸をずっと歩いて。そこの近くの丘の上に登っていたんですけど。ここがもう兵隊が急造爆雷を持ってですね、斬り込みに行くと言ってあれして、「ここは危ない」って言ってまた海岸に下りて。海岸からずっと歩いて、あそこには水が流れるところがあったんですよ、真水が。そこで水をくんでちょっと行ったところにしばらくいたんです。そこにまた弾が落ちたんだから、上にあがって、結局私が捕まったのは、慶座バンタだったと思うんですけども。その海岸をですね、歩くのに弾が来るもんですから、「海に入ろう」と海に入ったんですよ、みんな。それぞれ手を引いて。西平先生は下級生の人、潮平さん(昭和高女の生徒)の手を引いたみたいですね。私と石塚さん、それからそういうふうにして、みんな2人ずつ手を組んだ。それで私は泳げないもんですからね、もう海に入ったら私はもう死ぬかもしらんと。波がですね、すごいんですよあそこの波。それで来たらばっと流されそうで、もう怖かったんですけど。珊瑚礁ですから、うんと低くなってね、また上がったり、中は大変なんですね。それでうんと浸かったり、また上がったりしていたら、また今度はまた海に弾が落ちてきたんですよ。兵隊がいっぱいいました、その日本兵が、下りてきた兵隊がね。それでそこに弾がどんどん来るもんですから、もうそこからまた断念して、海から上がる。断念して海岸、岩のこうなったところずっと歩いて行って、やっと、やっと上にあがったんですけど。とにかく先生が「こうした方がいい、ああした方がいい」と言って付いて行ってるから生きているもんであって。どうしていいか分からない。私はだから、先生と一緒だった人は大体みんないいんですよ。仲宗根先生と一緒だった人も、与那嶺先生と一緒だった人も、みなさんそのまま助かっていますので。結局は、生徒だけで行った人はどうしたらいいか分からなくて、犠牲がたくさん出たんじゃないかと私は思うんですけどね。もう解散命令になってから、100名近くは亡くなっていますから。それまではそんなに、まあ20何名かぐらいだったと思うんですよ。だからあの解散命令の後のあれがね。何か先生方は、何名かずつを連れて行こうという案も出たようですね。だけど先生の中には、もしこの連れて行って、自分が先に死んだらどうするかという話もあったようですね。それはもう先生方の話で、よく分からないんですけど。そういう話もあったと、ちょっと聞いてるんですけどね。

慶座バンタのところ上がって行ったらですね、壕がないんですよ、そこはもう野原ですから。それでみんなやっぱり身を隠さないといけないんですよね。もう上がって行ってしばらくしたらもう夜が明けてるし飛行機が飛ぶもんですから、壕がないから、石をね、その辺にある石を積んでですね、顔だけ隠して入ってたの。私は石塚さんと私と、絹ちゃん(瀬底絹子)もだったか、3名だったか、この壕に頭だけ入れて、もう隠れたつもりなんですよ。他の人はみんなそれぞれに、あちこちに散らばって自分が好きな、何て言うの、身を隠していたんです。先生方は先生方お2人また別のところにおられたんですね。そして下に海が見えましたので、見ていたら上陸用舟艇が上がってくるような音がしたんで、「ああ、ここに上がって来るかもしらんね」と見ていたら、飛行機が飛んだし舟艇が上がって来て。息をひそめていたらですね、そこへ日本の兵隊がですね、赤いマフラーをした兵隊が現れたんですよ、私のところに。そして「君たちどうしてそこにいるか」と、方言でですよ、「知念は安全だから、連れて行くから出なさい」と言ったから、「おかしいね」と。「あのマフラーはおかしいね」と。「ひょっとしたらスパイじゃないね?」という話を2人で話をしていたらですね、「早くしなさい」と。「知念もあれだから早くしなさい、早くしなさい」と言ったから「おかしいね」と言って後ろ向いて「先生どうしますか?」と言って聞こうとして、先生方はすでに立たされて、もう銃を突きつけられて、アメリカの兵隊に。そしたら「先生、手りゅう弾は?」と、先生が手りゅう弾を2つを持っておられて。「先生、手りゅう弾は?」と大きな声で言ったらですね、「もうこうなったら仕方がないから、出てきなさい」と。「みんなも呼びなさい」と言ってそこでもう結局は捕虜になったわけですよ。もうやっぱり先生方は、海に入って上着が濡れているから、裸になったのか、干すために。多分そうだったと思うんですよ。そして西平先生は、岸本先生には沖縄にずっとおられたからあれですけど、西田先生は大和にあれしたら、お会いしてないんですけどね。岸本先生の話だと、先生はもう眠ってたそうです、その穴で。疲れていたんでしょうね。だから上着は先生も、岸本先生もそうかもしれませんけど、上着が濡れてると言ってちょっと干していたかもしれませんね。そしたら岸本先生が「西平さん、敵だそうだよ」と言ったんだそうです。それで飛び起きたらもう兵隊があれしてるので。「立ちなさい」言ったんでしょうね。そしたら西平先生立ってから、上着を取ろうとしたら、岸本先生は「手りゅう弾を取ろうとしてるのかな」と思ったとおっしゃっていましたけど。先生は上着を取るためにかがんだという話だったんですけど。とにかくもう銃を、2人の兵隊でした、アメリカの兵隊が付きつけていましたね。もう万事休す。それで私は「あ、死ななければ」と思ったんですよ。捕虜になるよりは死なんといかんと、いつも思っていましたのでね。「あ、死ななけりゃ」と思って、「どうして死のうかね」と言ったら、下級生の与那嶺さんがですね、「針持ってるよ」と。「針をここに刺したら死ねるよ」と言ったから、「じゃあ針を刺そうか」と、針を刺しきれないんですよ。もう絶対それはできないですね。いったん、死ぬっていうのは本当に瞬間的なものだと思いました。「絶対もう死ななければ」という余裕を持った考えが出たらですね、死ねないですね。もちろん針刺すこともできなかったですよ。結局はもうみんな集まって、もう捕虜ですね。

最初ですね、アメリカの兵隊が「男と女と離れなさい」と、「分かれなさい」と。そして下に下りて、崖ですから下に下りて、浜の所に下りなさいと言って。そして見たらそこには民間人も、捕虜がいて並べられていたんですよ。そしてそこに下りたら男と女と別れる。だから兵隊もいたし、それから民間の男の人もいて。「分かれなさい」と言ってたんですよ。そしたら西平先生は、「自分は先生で子どもたちを連れて、親元まで連れて行かないといけないから、離さないでくれ」とお願いした。そしたら「いいだろう」と言って、私たちは先生2人と生徒一緒に下りて。そして最初は船越の、港が通って、船越の収容所に行って、そこからその日ですね、夕方船越に着いたらですね、2世の方がね、来ていたんですよ私たちのところに。「あなた方はしらゆり(ひめゆり・師範学校)の生徒だそうですね」って来たから、「はい、そうです」と。「先生方は?」と言って、先生方はそこにおられる。それで西平先生と今度はいろいろな戦争についてお話をしていたんですよ。その人は沖縄の人、津嘉山とか何とか言って、とにかく南部の人だったんですよ、その人は2世はね。それでこの人も自分は2世だと、それで沖縄出身だという話を先生に自己紹介もして、先生といろいろな話をしてたんですよ。今度の戦争はどう思うかとかね、先生に。そしたら先生はですね、「今度の戦争はね、正しい戦争だ」と。「大東亜の平和を望んでる戦争だから正しい戦争だ」という話をしておられたんですよ。私たちは「もう先生負けてるからね、もうそんなことおっしゃらない方がいい」とそばから言ったらですね、「アメリカは自由の国だから、何言っても言論の自由の国だから、言ってもいいんだよ」と先生は平気でおっしゃって。しかもこれは沖縄の人だから、教育しようかと思ったんですかね、学校の先生だから。でそんな話をしていてですね、翌日朝ね、そこにいる人たちはみんなトラックでよそに移動させたんですけど、私たちだけ残されたんですよ、先生方も。それで翌日先生方は今度はMP(=Military Police 憲兵)にね、意見あれされて。結局はお昼ごろもう百名歩いて、百名まで行ったんですけど。しょっちゅうその私たちの列を、MPが行ったり来たりしてですね、監視しながら百名まで行きました。で百名に行ったら、金網が張られてたんですよ。そこに入れられて、先生方も私たちも。で金網の中にみんな真ん中に入って、いろいろな話をしていたら、すぐMPが来たから離れなさいと。先生と生徒離れなさい。対角線に入れられていたんですけど。夕方もうたくさんの捕虜がね、運ばれて来たんですよ。でその金網にどっと入ったので、私たちはまた外に出されて、また二重の金網にしてそこに入れられて。先生方は翌日夜間に連れて行かれて。どこに行かされたかは分からない、とにかく連れて行かれて。私たちはそこに、民間のアメリカの長テントがあって、そこに収容していたケガ人の世話をしなさいと言ってそこに入りましたね。

これはみんな思いは一緒だと思うんですよね。結局は戦争というものがどういうものかというのは、やっぱり体験した人しか分からないと。だからもっと次の人にこういうむごい体験をさせたくないと。だから戦争というのが「こういうものだよ」という実体験を知らせることによって、やっぱりたくさんの人が亡くなったし、学校も何も無くなったし、それから身内もたくさん亡くなったと。それは戦争がなければそれもちゃんと平和であれば、そういうこともなくて済むのに、戦争があったためにたくさんの人が亡くなったと。私たちは親や兄弟を亡くした人もいるし、友達もたくさん亡くなったと。そういうことを次の人たちにさせてはいけないというのが、みんなの願いですね。それでじゃあ私はなぜ戦争に行ったかというと、それはやっぱり受けた教育だと。その教育がやっぱり戦争のための教育じゃなくして、平和のための教育がなければいけないというようなことを、みんな思っているですよね。ですから次の世代にこういう思いをさせてはいけないし。だから戦争を知った私たちが、実際に体験した私たちが伝えることが、これが私の使命じゃないかといって頑張っていると思います。

ですから亡くなった人はですね、もう私は生きていますから、「こうだった、ああだった」と言うことができるんですけど、亡くなった人はどんなにして亡くなったか私分からない人がたくさんいます。戦争に行った人で、行方不明、死亡状況不明が40何名かいるんですよ、学徒隊の中で。この人たちは、どんなにして亡くなったか分からない人がいっぱいいるし。ですから本当はこの人たちが伝えたいことはどういうことだったんだろうなと。死ぬときの気持ちというのはどんなもんだったのかな、というのが分からないままに、この人たちは亡くなっていってるから。私たちはこの人たちの分までも伝えなきゃいけないということを思って。だから亡くなった人は、ちゃんと「ここここで亡くなって、こういうふうにして亡くなりましたよ」というのが分かってる人はですね。例えば、何ですかあの人、本部壕で亡くなった安座間さんは自分の思いを言って亡くなりました。「お母さん大変世話かけたけど、大変苦労かけたけど、私はお母さんよりも先に行くのは大変ごめんなさい」と言ってお母さんに謝っていたんですよ。そして弟や妹の話をしながら、段々段々に亡くなっていったんですけど。こういう思いで亡くなった人は、その人の気持は伝わるんですけれども。何も分からないで亡くなって行った人たちはどういう思いだったんだね、と思うとですね、もう本当に心をかきむしられる気はするんですね。だからこの亡くなった人たちの分まで、私たちは伝えなきゃいけないということを思って。ずっとだからみなさん、「100まででもやります」と言ってますけどね。

Q:だけど亡くなった友達の、亡くなった人の声を聞くというのは、非常につらい作業だと思うんですけど。

そうです、つらい作業です。私は特にその大舛さんを置いて来たそのつらさというんですかね、これは話せば話すほど何か自分を弁解してるのかねと思ったりしてですね。これはすごくつらくて、あんまり話したくないんですけどね。置いてきちゃったんですよ、戦場に。壕の中で置いて来た人たちはですね、まあいいんです、壕の中で置いて来てるから。いつか助かるかもしらんと思うんですけど、大舛さんはあの戦場に置いて来たからですね、助かる見込みがないはずなんだけど、「後で迎えに来るからね」と。そのときはですね、迫っている中だったんで、それが非常に弁解だったかねって。大舛さんは何と思って聞いたかねと思うと私もうたまらないですね。だから・・・

5名。ひとりはマラリアで亡くなっていますから、全部で5名ですね。兄と、私よりも2つ上の兄と、2つ年下の弟と。それから対馬丸2人。そしてあと北部に行ってマラリアでひとり。戦争で結局5名が亡くなったということになりますね。

これ使命ですよ、私の。生きてる人はみんなそうだと思いますけれどもね。やっぱりこの生きている私が伝えなければいけないというのは。だからやっぱりね、自分も大事にして、自分も病気しないように頑張っていますけどね。大事にして。

Q:だけどみなさんお元気ですね。

そうですね、みんな元気ですよ。100までやると言ってますからね。本当にみんな元気ですよ。みんな頑張ってます。やっぱりそういう気持ちはたくさんありますよ。「自分が伝えなけりゃ」と。亡くなった人の分までも自分たちがやらなけりゃ、という気持ちが大変あります。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・ひめゆり学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼる。

この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われた。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされた。

そのうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教員18人は、「ひめゆり学徒隊」として組織され、陸軍病院で負傷兵の看護などに当たった。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることも多かった。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものだった。

撤退先の本島南部の伊原第一外科壕や第三外科壕に移ってからの6月下旬、米軍の掃討攻撃で多くの学徒が命を失った。

最後には、なすすべを失った日本軍によって学徒隊に解散が命じられ、生徒たちは、本島南部の海岸や森の中を彷徨せざるを得ず、集団自決に追い込まれ、あるいは米軍の攻撃でさらに命を奪われていった。
6月23日に沖縄における組織的な戦闘は終わったが、ひめゆり学徒隊240人のうち、136人の命が奪われた。

戦後、生き残った人々を中心に「ひめゆり同窓会」が組織され、1989年にはひめゆり学徒の悲劇を後世に伝えるため、伊原の壕跡に「ひめゆり平和祈念資料館」を開設。いまも、多くの元ひめゆり学徒が「沖縄戦」を伝えるために活動を続けている。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
那覇市に生まれる
1944年
沖縄師範学校女子部入学
1946年
以降、沖縄各地の小中学校に勤務
1989年
ひめゆり平和祈念資料館証言員、同資料委員長
1996年
ひめゆり平和祈念資料館副館長
2002年
ひめゆり平和祈念資料館館長
2011年
公益財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団理事長

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