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タイトルタイトル: 「苦しかった沖縄の戦後」 番組名番組名: [NHKスペシャル]シリーズ 日米安保50年 第2回 沖縄 “平和”の代償 放送日 2010年12月5日
名前名前: 花城 清善さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2010年07月13日

チャプター

[1]1 チャプター1 米軍上陸  05:26
[2]2 チャプター2 接収された生まれジマ(ふるさと)  01:41
[3]3 チャプター3 「米軍基地」になった安仁屋  02:51
[4]4 チャプター4 まぶたに残る故郷の姿  04:44
[5]5 チャプター5 占領の現実  06:17
[6]6 チャプター6 理不尽だった「軍政下」  04:12
[7]7 チャプター7 宜野湾・安仁屋  04:23
[8]8 チャプター8 生きていくだけで精いっぱいだった戦後  04:00
[9]9 チャプター9 軍用地返還が実現したら  05:09
[10]10 チャプター10 憎むべきは、人ではなく「戦争」  05:46

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番組名番組名: [NHKスペシャル]シリーズ 日米安保50年 第2回 沖縄 “平和”の代償 放送日 2010年12月5日
収録年月日収録年月日: 2010年07月13日

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あのときは日にちも覚えてますけど、3月23日だったんだ。それでみんな勤皇隊に行ってない下級生と卒業間近に控えた上級生と一緒だったですね。2、3年生は勤皇隊に行っておったからね。それで4年生たちと一緒に僕たちは集合がかかって「金武の方に集合」ということだったんだ。金武の方に集合してそこで北部の山の中に「護郷隊」があってそこに合流せよということだったんだ。それでこちらの方から上級生と一緒に出発をしようとしたらちょうどその日からね、ずっと空襲が始まった。3月の23日からずっと空襲。そうこうしてるうち3月下旬から艦砲射撃まで始まったもんだから、とうとう向こうへ合流できなくて、向こうへ行けないから、こちらで現在地の日本軍に協力をせよということになって。それでそのまま僕らも壕(ごう)の方におった。そして4月1日に(米軍が)上陸したとは思ってなかったんだ。僕らはもうちょっと艦砲が静かになったなと思ったときに、壕から飛び出て見た。そこら辺の海も全部米軍の艦船で一杯だった。軍艦と輸送船ね、いわゆる艦砲射撃をしながら上陸準備だったんでしょうね。それで4月1日に急にそこら辺が静かになったもんですから、そのとき米軍はすでに上陸しておったんでしょうね。そういうふうになって4月の3日に壕から収容されて、そして海岸沿いに連れて行かれて、そこから野嵩(現宜野湾市)に移って、しばらくしたら、コザ(現沖縄市)、いま言うコザあたりに連れて行かれてそこでずっとおったんです。そのうちに地上戦も終わるころに、そうだな、学校始めるからということで、その当時小学校はすでに始まっておったから、中学もその当時在学生だった連中はみなこいということで集合させられて、高校に行った。その当時は中学校だったんだけど僕らは高校生と呼ばれた。ハイスクール生と呼ばれとったな、アメリカ式でね。それから始まったんです。コザ高(現沖縄県立コザ高校)の始まりもそこですがね(本土では、昭和23年4月に現行の「高校」がスタートしたが、コザ高校は、終戦の昭和20年10月に開校した)。そしてずっと高校に行っとった。あの当時まではね、僕らも軍国少年だったんですよ、軍国少年。つまりあの軍事教練ばっかりさせられて、昭和19年暮れから20年の初めごろまでは授業はなかった。米軍の侵攻が間近だということでほとんど日本軍の軍作業、陣地構築、それに全部引っ張り出されとった。そして地上戦が終わってからコザで、安慶田というところでそこで学校に通うようになった。それが戦後の高校の始まりです。

Q:宜野湾に住まいが戻ってこられたのはいつぐらいだったんですか?

昭和21年ぐらいでしたかな。この普天間一帯に宜野湾村民はこの一帯に全部集合、帰ってきたんです。そしてしばらくは今の野嵩3区あたりを中心にして宜野湾村民はほとんど一帯におったんですよ。各地から帰ってきてね。北部からもまた帰ってきた。そしてそれからしばらくしてからまた自分たちの字の方に旧字の方に帰れたんです。僕らはもう帰れないんです。そこは基地だったから普天間とか近郊、喜友名あたり、それから大山あたりもみなそれぞれの地域かつての集落に帰ったんだけど、僕たち安仁屋は帰るところなかったんだ。そのまま野嵩3区一帯の方に安仁屋の区民はみんなそこにおって今日までずっとそこにおったことになりますね。

Q:安仁屋の集落が基地になっている、最初どう知ったんですか。

敷きならされた敷地もあれば、そうでないような、元のね、敷地跡なんかも残ったのもあったんだけど、その当時は米軍は地上戦終わってますから、米軍は引き上げておった、あの一帯は。雑草はぼうぼうと生えておるし、田畑も草ぼうぼうですよね。そしてしばらくしてその開拓をしたんだけど、そうこうしてるうちに朝鮮動乱が勃発したんですよね。あのころから米軍は、また基地をつくり始めたんです。そのときに造られたのが安仁屋一帯の兵舎そういったもんです。ですからほとんど向こうへは返還じゃないから、他の地域は返還されてそれぞれの集落に帰ったんだけど、我々はそうじゃなくずっとこちら側におったんです。それが今日までずっと続いておる。そしてその当時占領地だったものが軍用地となってそのまま接収されたままですね。それが昭和20年の春、4月以降米軍に占領されてそのまま部隊がそこに居座って、それがそのまま今で言う「軍用地」という駐留軍用地というものに名称かわっただけなんですね。だからよくあの正式には賃貸借契約を結んでおるんだけどあれはこういう正式にね、借りてくれ貸してくれということで結ばれた賃貸借契約じゃなくて米軍が強引に占領してそこに部隊が作られた。それがそもそも軍用地の始まりだということです。

Q:安仁屋に戻れないと直面したときはどういう気持ち?

そのときはね、ほとんどもうなんていうか、生活が精一杯だったから、みなね。最初は避難民と言われておったし、それぞれの地域に帰ってきて、それぞれの地域の方に帰って行ったけど、我々だけは帰れないで、普天間におったんですよね。そしてその当時は、なんて言うのかな。帰っていっていいのか、またここにおってよかったのか、そういったこともわけのわからんような混沌とした地域だったのでね。別にどうということではなかったんだけれど、だんだんと時がたつにしたがって自分の集落の方に帰りたいなというふうな気持ちに変わってきたんです。落ち着いてきたから生活もね。それぞれの地域に帰った人たちも僕たちも、そこに残っておる我々も全部含めてだんだんと生活が落ち着いてくると故郷というものが思い出される。ちょうどそのころに僕は軍用地主会長をしておったので、そのときに市民会館で中央公民館でね、そういったことをしゃべったときに、自分の故郷の表現をね、「私たち安仁屋の区民は自分の故郷には帰れません。故郷のことを思い出す場合にはまぶたを閉じてそしてかつての思い出にふけるんだ」と、「それが故郷の思いだったんだ」ということを言った覚えがあるんです。みんなの前でね。「あなたがたはそれぞれの郷里、故郷をもっておられるんだけど、私たちにはそこには行くことはできなくて、そして故郷を思い出す場合にはまぶたを閉じれば、そこに故郷の面影が浮かんでくるんだ」と、「それが今の僕たちの現状だ」ということを披露したときがありました。

その当時は「戦場から生き延びて、やっとこう帰れたんだ」その程度しか考えなかったもんだからね。戦場の恐怖だとかあるいは戦後のどさくさ、そういったものが主であってね。戻れないからどうのこうのまで考える余裕はなかったね。とにかく修羅場を生き延びてきたほっとしたような気持ちで、それから将来どうのこうのということまではまだまだ我々には思いつかなかったな。そうこうしているうちに、高校ができる、学校ができるよということになったもんだから、みなそれをワッと行ってそれから旧友とも「君も生きとったか」とかなんとかいってということを喜び合ったぐらいのもんでね。本当になんというかな虚脱状態というかな、戦場から帰ってきてみんなきょとんとしてるような。かっての生活とはまるでまる反対の環境だったからね。だってその数か月前までは「鬼畜米英」といって、米軍は敵だとそうしか思われてなかったもんですから、それが急に保護者に変わったんですね。そして不満ではあるんだけど彼らの言うとおりに移動していって、そしてそれぞれ生活を営んだということですから。まったくすべてのものが、なにがどうなったか分からんということできょとんとしとったね。だから向こうに帰れないからということで色んな面でどうのこうのと言えるような状態じゃなかった。

あの当時の米軍といったら戦場に来た彼らも戦場を体験した連中ですからね、住民に対しては非常に親切だったかなと覚えておるんだ。ところがね、だんだん時間がたっていくと占領者ということになってね、とても僕たちにはなじめない存在だなと思ったな。軍隊ですからね。そういったことがだんだんと募っていっていろいろとあったけれど占領意識そのものだったからね、彼らの場合には。勝ち組ですよねいわゆる、こちらも負け組ですよ。最初は負けたんだからというふうなことをなんだけど。だんだんとね、これじゃあいかんなというふうに変わりつつあった。

Q:占領者というのはどういう場面で感じた?

その当時ね、つまり占領者意識は知らず知らずのうちに彼らの場合そういったことがおこったんじゃないかと思う。我々はまた占領されている側だということは徐々に浸透していったということ、あらゆる面で日常の生活からそれからその他の仕事の件とかすべてのものがだんだん分かってくる。お互いにそういうふうなことが分かり合ってきた、分かってきたという感じがしたね。その最たるものはその後の土地の接収問題ね。そしてまたこの賃貸借問題でも起こってきて住民ぐるみの運動にまで発展していったそういう具合に記憶してます、当時はね。

Q:あらゆる場面で占領者。暮らしの場面で直面したり、どんな、たとえば犯罪とか事件とか伺うがどういう状況?

当時は僕らも少年期から青年期に入ろうとするころですから多感な時期ですよね。若者として多感な時期だけれどもなんて言いますかな。僕もしばらくのあいだは軍作業というやつ、軍の方にそういうふうな作業やっておったんだけれど、その中でもまず民間人としてきた米人のね、これはもう戦勝国ですから、まず差があってもやむを得ないなと思っておったけど。給料問題ね、これがフィリピン人とか軍属たちがいっぱいおったんですね。これが彼らの給料も僕らと雲泥の差があったんですよね。そういうふうなところから随分差別されてるなということを感じたし、それはその当時まではまだ僕らは負けたんだからしょうがないなということでそういうふうに感じたし。常日頃なんていうかないろんな彼らと僕たち県民とは随分違うような感じがしてね。それこそ勝ったものと負けたものとの差別かなとも思ったんですよね。それは賃金の問題それから日常の彼らとの対話問題なんかでももう見下しておったんだな彼らからすれば。僕ら県民をね。そういったことに対する反発も随分あったね、若者たちは。僕たちを含めてね、若いものたちがそういう占領軍というふうな差別が露骨にあったもんだから、常日頃の動作のなかでもね。そこら辺からそもそもね、当初はね、彼ら占領軍は我々を対等な人間とはみなしてなかったと思ったんです。これもみんなそう思ったと思うんだけどね、彼らはもう僕らが勝ったんだ、ここは僕らが占領したんだというそういった意識があらゆる面で出よったね、じゃあ具体的にどうかというと非常に表現は難しいんだけど。如実にあらゆる場面でそういったことがあった。

その当時県民はほとんど車持ってなかったんでね。車輌関係の事故なんかはあの当時はそんなになかったけれど逆に被害者はおったんですね、いっぱいね。車に轢(ひ)かれてもここはなんにもできないという状態だったしね。後々いろんな制度ができて、それも取り上げられたんだけど当初は轢かれ損、殺され損ですよね。戦場の延長戦みたいだった。それからだんだんと落ち着いて来たんだけれども、こちらも琉球政府ができてね、こちらも政府はできたんだけれど、軍優先ですよね、すべて米軍の優先だから非常にそういったことではね、我々はたいへんな思いをしてきたとそう覚えてます。軍はその当時のことはほとんど軍とのことは泣き寝入りをした事件が多かったんじゃないかと思いますよ。具体的にこれこれということは言われないけどね、とにかく米軍との事件事故は頻繁にあったような気がする。それが最終的には民衆運動として土地を取り上げられた5原則の「島ぐるみ運動」なんかにも出てきたし、それからずっとこちらに下ってきて復帰前のあたりでコザ騒動なんかもそういったあれで集大成みたいなそういう感じがした。常日頃のうっぷんがああいう場合にいっぺんにやってきたという感じだったね。

それはね、いまだに頭に残ってるのがひとつありますけどね。コザでね、収容されてるときに米軍はその当時は銃なんか持って民間地の方に入り込んできたんですよね。そして女を捜しておるんだ。僕がそこにおるときにその隣からある女性が逃げていった。それをこの米軍がみてね。僕が逃がしたんだろうと思い込んだんでしょうな。すぐ銃を向けてね、撃とうしたんだ。そしたら僕の祖母が奇声な声をあげて止めたんですよね。そのときには間一髪で、恐らくそのままだったら、殺されとったんじゃないかなとそういった思いはある。これはあまり人に言ったことはないんだけれど、あの当時の占領者意識というのはそうだったんだなと思う。あれが占領意識だったのかなと思ったりもしたんだ。ちょうどあのころは高校にも行かない前ですから、まだ混沌としておったんですよ、地域社会は。そこに住民がおるんだけど米軍はね、銃なんかもって徘徊(はいかい)しおったんです。そういう場面はあった。

このあたりかな、ここあたり。こっちの左手の前方ですからね

もうだいたいそのあたりになるんですかね集落というのは。あの兵舎のある一帯から下のほうです。あのね兵舎があるさあね、兵隊の宿舎ね。あれの下のほうです。あの道路からこちら側になるんですね、集落は。ちょっと上あたりまでは入るかも知らんけれども。おおまかにいうとこの道路沿い一帯からこちら側、下の方です。

Q:そのあたりに花城さんが生まれた家があった。

そうです。そこが安仁屋という字があったんです、そこに。これもうずっと戦後、米軍の方の基地になって、そこへ帰れなかったんですね。「キャンプ瑞慶覧」て基地だったんです。そうだな、この道路からこう行って、この一帯下の方になるかな。

Q:全くその当時の面影、今はない。

ない、今ないです、全然ないです。こういう具合にしてご覧のように道路で、そしてあとはこういう車置き場さあね、そんなもんで、当時の面影というのは全然ないです分かりません、こんな状態では。だいたいその一帯だったということしか言えないですね。

Q:当時はですね、あのあたりでどんな感じの暮らしをされてた?

ここは全部農業です。全員農業です

Q:花城さんの家ではどんな暮らし?

農業です。田畑をもっておったからね、この一帯全部田んぼだったのでね、稲作や畑はこの東側の方だったのでそこでサトウキビをつくったりサツマイモをつくったりしておった。

Q:子どものころ花城さんはそのあたりで遊んでいた?

そうですね、そうなりますね、遊ぶといってもあのころはまだそれほどのあれでもないから。そこらへんで遊んで、集落の方にはね、また遊び場もあったからね、そこで遊んだりなんかして、畑あたりにはめったに出る機会はなかった。

Q:どんなことをして遊んでたんですか?

どんなだったかな、まあ、子どもの遊びというのはいつでも、どこでも同じようなことで色々とあったよ。もうほとんど覚えてもないぐらいだ。

Q:あの当たりで走り回ったり。

そうです。あと、集落にはね、集落ごとに遊び場みたいな広っぱがあったもんだからね、そこでいつも遊んでおった記憶があります。

Q:疑問や憤りの気持ちではない?

そこまではね、その当時はもう生きておるんだというのが精一杯だからね、この、感情の起伏なんてのはあの当時はあまりなかったな、子ども心にもね、全然ないということじゃないんだけどね、ただもう、その日の生活に追われておったし、そううふうなことが、あの当時の現状じゃなかったかなと思う。


Q:(占領初期は)その当時、地料がなかったり払われても安かったり、厳しい暮らしだった?

その当時はね、そういったその経済状態なんかもすべてストップしてるから、あの土地料とかなんとか全く念頭になかったし、その日その日を暮らしていけばなんとかなるんじゃないかという程度ですよね。生活設計なんかもあるはずないんだから。まず第一に、戦場から抜け出したということ、これは重いですよね、それ以外のことはあの当時は考えてなかったな。

Q:軍用地代が支払われるのは落ち着いてから?

それはずっと後のことですからね。もうあれからは経済活動なんかも始まるわけですから、色々とこの考えることもあったはずだけども、いま言うあちこち連れていかれて収容されておったころはまったくそういうふうなことは念頭なかったね、喜怒哀楽なんて表現のしようがなかった。

あの当時はね、軍用地なんてよく分からなかったんだよ。だってその当時はね、政府のそういった方針とかなんとかあったわけじゃないんだから、県も今みたいな県政があったわけじゃなくて、かっての県政は潰れて、もうなんて言うかな、戦後のこの一帯の、市町村長の下でね、色々と生活をやってるだけのこと、事業をしてるわけでもない、食うための仕事をしておったといっても過言ではないと思うよ、その当時はね。

その当時の生活設計なんてのはそういう物作れるはずもないし、その日暮らしが続いたしばらくはね、そういうふうな状況じゃなかったかなと思う。なんて言うかな、戸籍なんかも後で作ったんだ、そういった家族構成だとかそういうったものもほとんどもう焼けてしもうたからね、役場の、いろんな戸籍なんかも全然なかったし、それ全部戦場で、あの焼かれてしもうた、それを後年、作りあげたということであって、そこをなるまでの生活というのはほんとにその日暮らしだったと思ってる。そう思い出すね。

Q:ここ大きな敷地ですけど、それぞれそこに住んでた方がいらしてね、という場所。改めてみてどう感じる?

いやあ、全く、あの当時のことを思うというと、これだけ変わったんだなあということで、だってもとの田畑あるいは敷地がこういう具合に変わったんだから。どこがどうなっておったかなというのも分からんぐらいですからね。そういった面では、なんとも言いようないね、こういったの、この状況を見た場合にね、昔のことなんてのは、夢幻みたいなもんですよ。

Q:昔の光景思い出されることもありますか

あのね、それは僕たちの頭のなかで、しか思い出せないんだよね。そこにあるわけじゃないんだから、頭のなかにこういったのがあった、ああいったのがあったというのを描いてるだけであって、これはそれ以上のことは何にも言えないわけなんだから。よくね、言われたこと、あの当時のことは、僕たちは「旧字の状態を知ろう見ようと思ったら、まぶたを閉じなさい」ということをいった覚えがあるんだ。そしたらそこに浮かんでくる、それだけしかできなんだということだったな。まぶたを閉じればその当時のことが思い出されると。現実離れをしておるんだけれどそういうふうな状態だったと。

今の子どもたちなんかは、安仁屋という集落があったことさえもほとんど知らないはずだ。忘れ去られていますよもう。もう今はね、戻ったって今どうということもないし、これあの例えばさ、ここが返還になってね、街づくりを計画して、そういう具合に区画整理をしたら帰ってみたいなというな感じもするんだけど、今こういうふうな状態で帰ってみたいなという感情もなにも起こりませんよ、ここではね。

Q:その後戻れない変わったものの代償として国から借地料というものが代わりにくると、軍用地料というものは改めて花城さんにとってはどういうものであると感じる?

その軍用地料というのは土地を貸しておるその値段ですよね、だから、今後これが将来跡地なんかも利用してまた何かを作ろうとした場合にはまた新しい計画が生まれるはずですよね。返還後のね、そういったことは、これ賃貸料というのは土地を借りとる間のその借り料ですよね、これとまた町をつくる場合の計画なんかとはまた違うんですよ。だから、僕らそう考えるんですよね、これ将来返還になったら、あるいは国や市町村、県も一緒になって街づくりを考えなきゃいかん、その場合にはちゃんとした計画を作らなければいかんと思うんですよ。それが街づくりであって、これは我々だけでできるもんじゃなくて、国が主になってやってもらわんと個人の力ではこれどうにもならないですよ。ただ、こういうふうな状態になったのは国も全く責任はないとは言えないんですよね、国がおこした戦争によってこうなんったんだから、これを元に戻すには国もそのつもりで考えてもらわんといかんですよということ。もちろん我々もその中から逃げるわけじゃないんだけども、一緒になってそういうことを考えるんだけど、街づくりのことですよ。国もそのつもりでやってもらわなければ困りますよということですよ。

彼らはカメラとかなんとかやって来ると反応するんですよね、すぐね。ただあの連中、あの子たちは何かなあと思うはずだけど、個人的にはもうね、お祭り騒ぎみたいにやりますよ、責任もないから。

Q:ああいう米兵の姿見てどんなこと思う?

いやもうね、特別な感情も何もないさ。「はいこんにちは。」彼ら陽気ですよね。ほんとにね。それ民族性だと思うよ、個人的にはこういう具合にとても明るい性格なんだけれども。まあそれ以外となると、よくは分からんな。

Q:自分たちの土地を強制的に使用している相手だという思いは?

いやあのねえ、彼らとつきおうとると、そういうことは微塵(みじん)も感じないね、個人的にはね、わりとおおらかですよね、彼らはね、そういった面で、それは生活習慣に違いかもしれないけれど、こればっかりはその国民性っていうんかな、彼ら非常にそういった面ではおおらかなんだ。個人的には憎めないですよ彼らはね。

Q:花城さんが憎むとしたら何に対して?

それはもう過去の戦争ですよ。ところがそれはもう憎んだってしょうがないしね、なぜかというと、あれだけの人が死んでますよね、私の身の回りでも同級生だとかあるいは家族だとか叔父、叔母それから父、そういった人たちが多くが死んどるんですよね、それに対する怒りはあるんですよ、ただ、しかしあれはもう戦場なんだからそんなことをいちいち言ったってどうしようもないから、そういう感じを表面に出さないだけであって、だから戦争は二度とやっちゃいかんということになる。それに結論はなるんですね。

その当時のね、国民がやったことですから国と国がやったことですから我々個人がどうのこうのとも言えないんだ。そういった件についてはね。ただ、二度とこういうふうなことがあってはならないっていうこと、これだけです、言えるのはね。具体的に個々の問題なんかいっぱいあるんですよ、そりゃね。これは忘れなさいと言ったって忘れられるもんじゃないんだけど、ただそれを表に出してどうのこうのというのはできないんです。僕たちがいま後輩たちに言えることは二度とそういった戦争しちゃいかんよ、ということですよ。人間と人間の殺し合いですから戦場というところは。だから、戦場に向かう人たちそこにおる人たちは考え方そのものが人間じゃなくなるんですよ。相手を殺さなければ自分が殺されるんだということになるんだから、ああいうふうな戦場心理が出るというのも無理ないと思うよ。それはも今更そういったことを言ったって始まらないので、僕たちはもう今後そういうことがないように、今後のすべての人たちに警鐘を鳴らしたいということですよ。

僕はいつも考えるんだけれども戦争をして勝ち負けがあったとは思いたくないね。勝っても大変だはずよ。そこの行政権だなんだと色々やらんとならんと思うし、負ければそれ以上の負担をしなければならないし、我慢もせんといかんだろうしね、だからほんと無益な戦争、戦争ほど無益なものはないと思うよ。生産性のない、それこそ消費だけのもんだ、その消費の中には人間の生命も入っとるということでね、これほどの愚かなことはないと思うよ。それはもうあとの後輩たちが考えるべきことだ。もういいんじゃない、暑いよここは。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米軍基地 当時沖縄県立第二中学校2年生 花城清善さん】

出来事の背景 写真米軍は沖縄上陸直後に、沖縄に軍政を敷く。さらに、日本軍が作った飛行場や住宅地などを接収し、その後に予想された日本本土侵攻作戦の拠点にした。

1952年、サンフランシスコ条約で日本が独立を回復する中、沖縄は本土から切り離され、米軍の施政権下に置かれ、東西冷戦を背景に米軍基地はさらに拡大・強化された。沖縄本島中部の宜野湾や伊江島では、住民が一度は定住し田畑を耕していた土地が強制接収され、基地へと変わって行った。復帰から40年近くたった今も、沖縄本島の面積の18,4%は米軍基地であり、日本にある米軍基地(専用施設)の74%は沖縄県に集中している。
沖縄戦当時、中学生だった花城さんは、米軍上陸と同時に住まいを奪われ、その自宅の土地は、66年たった今も基地の金網の中にある。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1930年
宜野湾村安仁屋に生まれる
1944年
沖縄県立第2中学校(現沖縄県立那覇高校)に入学
1945年
北部の護郷隊に加わる前に、米軍上陸、捕虜になる
1946年
越来村安慶田(現沖縄市)の収容所を出て宜野湾村野嵩に移り住む
1948年
コザ高校卒業後、米軍基地内のPXに勤務
1951年
個人タクシーを開業

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