ホーム » 証言 » カール・ブラザーズさん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「銃撃した住民や子供」 番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
名前名前: カール・ブラザーズさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄) グアム  収録年月日収録年月日: 2011年3月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 17歳での入隊  02:26
[2]2 チャプター2 エイプリルフールの上陸  01:00
[3]3 チャプター3 シュガーローフヒル  03:17
[4]4 チャプター4 手りゅう弾の破片  01:48
[5]5 チャプター5 長期にわたった戦闘  01:45
[6]6 チャプター6 命を奪われた数多くの沖縄住民  00:58

チャプター

1
2
3
4
5
6

提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
収録年月日収録年月日: 2011年3月21日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

3月の時点では17歳、5月には18歳になり夏に出発しました。

Q:とても若かったのですね。海兵隊に入る前は夢や目標などありましたか?

高校を卒業して、軍隊に入りたいというのが大きな目標でした。自分は海兵隊に入りたかったです。

Q:それはなぜですか?

兄も海兵隊だったから、そこに入るのはいい考えだと思いました。

日本人の印象ですか?それまでは日本人とはほとんど面識はありませんでした。戦争中に読んだり聞いたりしたこと以外は彼らについて何も知りませんでした。会ったこともありませんでした。

プロパガンダの印象はありましたが、それ以外に日本人と個人的な接触を持ったことはありませんでした。

Q:日本人あるいは日本についてどんなことを読んだり聞いたりしたのですか?

開戦当初は、「真珠湾攻撃」があったということしか自分は意識していませんでした。あのころはまだほかのことに興味がいっていました。典型的な若者だったわけです。もちろんプロパガンダはさんざん聞かされていました。日本人もアメリカ人についてのプロパガンダを聞かされていたはずで、これは世の常でしょう。だがそれ以前に日本人と接触したことはありませんでした。

もちろん、あの時期は戦闘も激しくなっていました。お遊びやゲームも禁じられるようになりました。そこで自分たちは戦局が厳しくなることを察しました。

Q:命令を疑問に思ったことは?なぜそうなるのかと・・・?

海兵隊では命令に疑義をさしはさむことはありません。遂行あるのみ。疑問は持ちません。

Q:心の中でも疑問に思ったことはないのですか?

ありません。だからこそ戦場に行ったのです。戦闘に向けて鼓舞されていました。疑うことなどありませんでした。

準備万端で高揚していました。でも何も起きませんでした。静かでした。その日に目にした日本兵は准尉1人だけでした。どこから出てきたのかは分かりません。カバンを持って歩いていたのを誰かが撃ちました。
その2日ほど後になるまで何も目にしなかったので、ホッとしました。「誰もいないなんておかしいな」という感じでした。でもそれは間違いで、敵は皆そこにいたのです。

Q:エイプリル。

エイプリル・フールの日

Q:エイプリル・フールのジョークだと?

実際はそうは思いませんでした。何かが起きていることは察しがつきました。ただその正体がつかめなかったのです。何も起きなかったことにひと安心しただけです。

インタビュア-:デール・マハリッジ
父親はL中隊で沖縄戦を戦った

Q:5月初めの決断、部隊が南へ侵攻すると決めたときのことを覚えていますか?南には5月6日に移動を始めたと思いますが。

そうですね。

Q:これはあなたたちがシュガーローフに向かい始めたときのものだと。

そうです。

Q:シュガーローフはかなりひどい状況になると誰かがあなたたちに話しましたか?

強い攻撃にさらされる戦闘になると言っていました。想像はしましたが、ここまでひどいものになるとは思っていませんでした。

Q:(日本軍に関する)情報不足だったと。

私たちには分かりませんでした。水面下でかなりのことが行われていて、(日本軍にとっては)素晴らしい展開をしていて、準備万端でした。

Q:そうですか。

砲撃の照準もすべて合わせてありました。あまり頭を上げたくありませんでした。

Q:あなたは戦車、アメリカの戦車の近くにはいたくないと言いましたね。狙われやすいからと。

1秒でも外に出たら、ボーンと撃たれますよ。

Q:本当ですか?

そう、向こうはミスをしませんでした。だから仕方がありません。だからひどかったです。そして梅雨に入りました。

Q:泥になったと。

そう、泥です。

ひどかった。沼地のようでした。乾いている場所が見つけられないのです。車も動けなくて、物資を受け取りも大変でした。

Q:あなたの足元は?あなたの足はどうでしたか?

みんな苦労していました。乾かそうとしていたけど、それほどうまくいきませんでした。

Q:ブーツが腐ってしまったのですか?

皮膚も腐るのです。靴が脱げないのです。多くの場所では靴を脱ぐのも怖かった。何かが起こったらはだしで走ることになるわけですから。
でも、靴を脱いだところで治療するものは何もなかったし。紫色のチンキ剤もまったく効きませんでした。それは多くの兵士が覚えていると思います。ヨーロッパ(戦線)でもそのようなことはあったはずです。

(日本軍の)守備が堅かったので、奪取しようにも、味方をやられないように攻めるしかありませんでした。何度も攻撃を仕掛けてやっと制圧しました。そこで多くの戦死者をだしました。
(日本軍は)防御位置もよく考えられていて、昼夜を問わずよく耐えていました。迫撃砲をはじめ何でもそろっていました。とても激しく疲弊する戦いでした。

Q:目にしたことで憶えていることがあったら話していただけますか?

目にしたこと?憶えているのは戦車が被弾して燃え上がり、中にいる人間が大変なことになっている様子です。
自分たちの近くや、真上に迫撃砲が着弾する様子も覚えています。
あの丘を制圧しようと何度も行き来しました。撃たれたり殺されたり負傷したりするものを連れ戻そうとしたのもとても鮮明に覚えています。

それほどひどいものではありませんが、手りゅう弾の破片を、確か6月18日あたりに島の南端で受けました。戦闘終結間際のことでした。

Q:負傷されたその日のことを詳しく話していただけますか?

友軍は島の南端で、残存する日本兵を洞窟から引き出そうとしていました。日本の看護要員や民間人もたくさんいました。彼らは手りゅう弾でも何でも手当たり次第に投げてきました。
そして我々を倒せないとなると自決を試みる人もたくさんいました。とてもたいへんだったのを覚えています。状況がめまぐるしく動いていました。

Q:そしてあなたに何が起きたのですか?

私は洞窟の入り口近くにいて、日本兵が手りゅう弾を投げてきました。相手の姿がよく見えず、気づいたときには手りゅう弾が炸裂していました。でも自分は運が良かったのです。

Q:どこを負傷したのですか?

手りゅう弾の破片が細かく散らばって、一部はここ、ここ、ここ、脚や、あちこちを負傷しました。これほど細かになるとは知りませんでした。非常に小さい金属の破片です。私は入院し、破片を取り出すと同時に感染予防のペニシリンを投与されました。ひどい状態ではありませんでした。

戦場ではかなり警戒しているわけで、自分の身を守り、生き延びようと必死でした。そうやって過ごしていました。

長い戦闘でした。通常島の場合は1、2週間が最長で、もしくはそれ以下です。あれは80日以上続きました。

Q:80,82日?

かなり長かったですね。

これが沖縄で彼らが持っていたお金です。彼らにとって大事だったかどうかも分かりません。

Q:日本のお金ですか?沖縄の?

分かりません。殺された日本兵が持っていたものです。

Q:いくらぐらいなんでしょう。

さっぱりわかりません。日本語が読めるなら察しがつくのではないですか?

Q:これがその男性の妻と子供のようです。あの日の夜、何が起きたのかを話してもらえますか。

男は夜陰にまぎれて私のいた塹壕(ざんごう)に迫ってきました。何か日本語で話しているのが聞こえて、手りゅう弾を投げ込もうとしているようでした。となるとやることは一つです。

Q:それが本当に最後のころだったと?

4、5日前だったかもしれません。あちこち動いて戻ろうとしていました。

Q:彼はあなたを狙ってきたと?手りゅう弾を持って?

ええ、はっきり分かりました。

Q:翌朝、何が起きたんですか?何を見たのですか?

死体です、死体。それ以外に何が?

Q:これらが男の持ち物だったのですか?

そうです。

Q:彼らは死に物狂いだったと思いますが?

私だってそうなっていたでしょう。彼らも脱出したがっていました。どこへ行く気だったかは知りませんが、とにかく北へ向かっていました。

夜に移動したから多くの人が殺されました、多くの民間人が。子供たちが、皆が、それは悲しかったです。
民間人の格好をした日本兵が1人か2人いて、彼らが我々の防御線を民間人たちに力ずくで通過させようとしたのです。彼らは立ち止まりませんでした、そして暗闇の中、銃撃が始まり多くの民間人、子供、赤ん坊が殺されました。
悲しかったです。日本人(の兵士)は彼らに通過しなければ殺すと言っていたと聞きました。悲しい。良い戦争はありません。もう2度と戦争が起きて欲しくないですが、多分、また誰かが起すでしょう。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
アメリカ・オハイオ州アクロンに生まれる
1944年
海兵隊に入隊
1945年
沖縄戦に従軍
 
グアムにて終戦を迎える
1946年
アメリカへ帰還する
 
戦後はアクロン市警察署に勤める

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード