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タイトル 「部下半数を失った激闘」 番組名 [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
氏名 フランク・ヘイグラーさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地 日本(沖縄)  収録年月日 2011年3月23日

チャプター

[1] チャプター1 海兵隊へ  04:19
[2] チャプター2 沖縄上陸作戦  05:00
[3] チャプター3 南下命令  02:49
[4] チャプター4 「シュガーローフヒル」  03:52
[5] チャプター5 日本軍との激戦  02:23
[6] チャプター6 恐怖の戦場  06:19
[7] チャプター7 沖縄戦で起きたこと  05:50

提供写真

再生テキスト

戦争が始まったころ、私は大学生で、私は訓練部隊にいました。そして任務につくことになり、戦艦ネバダに配属されました。真珠湾攻撃で沈んだ戦艦です。艦は私が入隊したときには修理されていました。そして我々は、アッツ島の戦いのためアリューシャン列島に向かいました。アッツ島の戦いを終えると、大西洋に向かいました。ノルマンディー上陸に備えるためです。私はノルマンディー上陸作戦の部隊にいましたが、1944年6月6日に海兵隊の幕僚のための学校に異動となりました。そのあと太平洋に派兵され、新造の第6海兵師団第22連隊の第3大隊本部に配属されました。私たちはガダルカナル島で次の作戦のために2、3か月訓練をしました。それが沖縄作戦だったのです。

Q:あなたが学生だったとき、海軍に入隊する前、あなたの夢は何でしたか? どんな将来になると思っていましたか?

そうですね、もちろん戦争の前は、私は医師になることを考えていました。だから、医学部に進むのに必要な授業を受講していました。だが、戦争が始まり、医学部には進学できませんでした。

ちょうどそのとき、私は大学にいました。日曜の朝でした。シカゴの北部にあるノースウェスタン大学でしたが、ラジオでそのニュース(日本の攻撃)を聞いたのを覚えています。私たちはとても驚きました。当然ながら私たちは、そのころずっと国のプロパガンダの影響を強く受けていて、それは奇襲攻撃と言われていました。戦後何年もたち、私は歴史を勉強していくうちに、私の意見は変わりました。しかし、戦時中はずっと、

私たちは、日本は敵であり、真珠湾攻撃の復讐(しゅう)をしなければと強く感じていました。今、振り返ると、日米双方の視点から、その戦争についてバランスの取れた見方ができるようになりました。

Q:今おいくつかお聞きしてもいいですか?

92才です。

Q:L中隊でのあなたの立場や階級は?

私はL中隊の中隊長がケガをするまで、大隊本部に所属していました。そして彼に代わることになりました。それ以降、およそ1945年5月11日から作戦終了時まで、中隊長としてL中隊を率いていました。

Q:ではあなたが沖縄に上陸したとき、あなたはどこにいたのですか? 何をしていたのですか?

上陸時、私は第3大隊本部の大尉でした。そしてグリーンビーチ2(読谷海岸)に上陸しました。4月1日でした。4隊目か5隊目に上陸しました。私たちは第3大隊との連絡用無線機の、すべてを持っていました。

ええ、私たちはとても驚きました。岸に着くと静かだったのを覚えています。私たちより先に多くの部隊が上陸していました。私が驚き、理解し難かったのは、沖縄の洞窟、人を埋葬する洞窟です。それを見たのを覚えています(かつて沖縄には、遺体を洞窟に安置して葬る「風葬」の風習があった)。
 
私たちは上陸したすぐあと、読谷(よみたん)飛行場を右手に見ながら島を横切りました。島を横断中も、まったく戦闘は見かけませんでした。最初の数日で島を横切り、それから島を北に向かって進み始めました。そこでわずかに戦いの動きが見られました。私自身は見なかったのですが、私たちは爆破された橋や日本兵の死体を見ました。北上しておよそ1週間、そこから、再び私たちは太平洋側に島を横切っていきましたが、それでもまだ戦闘を見かけませんでした。それから、さらに北に何マイルも移動して、本部(もとぶ)半島で、多くの戦闘がありました。私たちは数日間、そこに拠点を置きました。戦闘でかなりの死傷者を出すことになり、それから再び北に進んで行きました。

私自身や本部は直接戦闘には関わりませんでしたが、L中隊と・・パトロール部隊のI中隊とK中隊は交戦しました。彼らはパトロール部隊を本部(もとぶ)に送り、激しい戦闘を行うことになりました。

あるパトロール部隊が待ち伏せ攻撃にあったと、無線で聞きました。それから、別の部隊が日本軍の部隊に対して待ち伏せ攻撃をかけ、成功したというのも聞きました。しかし、そのすべては無線で聞いたもので、私はその現場にはいませんでした。

天気はとても良かったと思います。かなり雨が多かったことを除くと、天気は良かったです。寒かったという記憶はありませんが、かなり濡れたのを覚えています。沖縄に行く前の打ち合わせで、毒蛇(ハブ)のことを聞かされていたので、皆、ヘビのことを心配していました。しかし、ヘビはまったく見かけませんでした。

Q:命令があったのですか?

私たちは陸軍部隊が南部で厳しい状況にあると聞かされました。戦車による大規模な攻撃があり、我が方の戦車がすべてやられたということを聞かされました。私たちは、5月7日に、南へ行くように言われました。陸軍に代わってその地で戦うことになりました。那覇の少し北でした。

Q:南に行かなくてはいけない。陸軍が厳しい状況にいるのを聞いたとき驚きましたか?

ええ。

Q:そして、実際は?

北部はむしろ平穏で、戦闘もなく、私たちは楽しんでいました。だから南に行けという命令を受けたとき、私たちは少し不安が募り始めました。なぜなら、激しい戦闘になるだろうとわかっていたからです。だから、ええ、少し心配になりました。

私たちが行くと、ちょうど陸軍の部隊が戻ってきたところでした。彼らが激しい戦闘を行っていたことがわかりました。彼らの服は汚れていたし、中には、怖がっている者やケガ人もいたからです。そうして我々が彼らに代わったのです。だから、その時点でかなり激しい戦闘になるだろうと思いました。私たちは、那覇の少し北の低い尾根にいました。

我々は、那覇の北の拠点を出て行きました。激しい雨が降り始め、私たちは内陸部、のちにシュガーローフと呼ぶところに移動していきました。私たちの中隊はシュガーローフで激しい戦闘をしました。最初の夜に、多くの負傷者がシュガーローフから、暗い中を戻り始めました。私たちの中隊は本部付きでしたが、救護所を備えていて、その救護本部が日本軍の砲撃を受けました。だから、救護所を後方に移動させて、シュガーローフから戻って来たケガ人の治療をしました。最初の夜はとても困惑しましたね。とても、とても多くの死傷兵を出すことになり、L中隊の中隊長が負傷し、大隊長も負傷しました。そのため、私は直ちに、隣接していたL中隊に派遣されたのです。だけど私自身も、中隊もシュガーローフに登ることはありませんでした。私たちは予備隊として、シュガーローフで戦う部隊の支援をしました。

最初の夜、負傷者たちが救護所に来たとき、私はそのすぐ近くにいて、私も個人的に負傷者の治療にあたりました。それは鮮明に覚えています。なぜなら怖かったからです。それでも私は、重傷を負った兵士たちを救急車に乗せたり、連隊の救護所に送ったりしました。

Q:あなたが対応した兵士の様子を覚えていますか?

それはかなり昔のことなので、彼らがかなりひどい状態で、かろうじて意識がある状態だったのと、彼らに大丈夫かと声をかけて確認をしたこと、血しょうの静脈注射を数人の兵士に打ったこと以外は、具体的にどんな負傷だったのかかは覚えていません。なぜなら、前に言ったように、私は戦前に医療訓練を受けていたので、血しょうの静脈注射を含めて、負傷した兵士の治療法を知っていました。

我々の部隊は、日本軍の目新しい防御法に遭遇しました。彼らは高台の反対側の斜面に布陣して守っていました。我々はそこを、リバーススロープ(反対側の斜面)と呼んでいて、彼らは斜面の前面ではなく反対側にいたのです。だから、私たちが目標を攻撃して、斜面を登って行くと、日本軍は丘の背後から登って来ました。それは、私たちにとっては新しい戦法でした。私たちが丘を占拠すると、日本軍は反対斜面の壕(ごう)から攻めて来ました。私たちは壕を抑えることはできません。なぜなら壕は反対斜面にあったからです。それはユニークな防御法で、それ以前に遭遇したことはありませんでした。私たちはそれをリバーススロープ・ディフェンス、反対斜面防御法と呼んでいました。理解できるかはわかりませんが。

そして、我々は目標を達成するのはとても困難でした。それに対して準備ができていなかったからです。

Q:その反対斜面防御法のために、仲間の兵士を失うことになったのだと思いますか?

そう思います。でも私たちL中隊の兵士たちではなく、連隊の他の中隊でした。ええ、彼らはその戦法で多くの兵士を失いました。それは反対斜面防御だけではなく、その防御作戦を支援するために、丘の両翼に日本軍がいたからでした。私たちが唯一できる攻撃は、横に回ることでしたが、別の丘があって、なかなか横に回ることができなかったのです。

那覇のすぐあとに起こったある出来事を覚えています。それは我々の中隊が攻撃を命じられたときで、偵察のためにそのエリアに入りました。私はそのとき、この攻撃は無理だと感じました。だから私は戻って、大佐に、翌日まで目標を攻撃することはできないと報告しました。大佐は、私が中隊に丘を攻撃する命令をしなかったので、とても怒っていました。だから私は、彼に状況がどれほどひどいかを示そうと、丘に戻りました。大佐は後ろにとどまり、私がひとりでその丘に登って行きました。そこには、負傷している兵士が2人いました。彼らは水浸しの穴の中にいたのです。1人は撃たれて貫通していましたが、なんとか無事でした。もう1人は撃たれてませんが、恐怖のあまり動けませんでした。私は這(は)って2人のところに行き、穴から出て戻るように言ったのを覚えてます。それでも彼らは動きませんでした。

そのとき、丘にいた日本兵が発砲したようでした。弾丸が私のシャツをかすめていきましたから。そして私は急に怖くなりました。それは私にとって強い衝撃でした。私は彼らを穴から助け出すことができなくなり、そこから走って逃げたのです。私は、彼らを穴から引っ張り出して、連れて帰るべきではなかったかと何回も考えました。もしそうしていたら、私は英雄になれたかもしれません。無理でした。私はそこを去り、他の兵士たちにそこへ行ってもらって、彼らを連れ出してもらいました。おそらく、私のそばを弾丸がかすめて行ったからでしょう。私は、その2人のために何かをするよりも、そこから逃げたかったのです。彼らを助ける余裕がなかったのです。よく思い返す出来事です。しかし、もし残っていたら、たぶん、殺されたかもしれません。とにかく、それはよく覚えています。

Q:それは、のちに大きなストレスになりましたか?

いいえ、そうでもありません。戦闘は続いてましたから。私は戻って大佐に、「そこへは行けません。見てください、私は撃たれました」と報告しました。だから攻撃は中止となりました。暗くなってきていたし。私は双眼鏡で見たのですが、何人かがそこに向かって行き、彼らを助け出しました。そして翌日まで待つことにしました。私は助けませんでした。それで正しかったと思いますが、私自身で彼らを連れ出す努力をすべきだったかもしれません。それは度々考えました。たぶん、そうすべきだったのかもしれません。結局彼らは助け出されましたけれど。

Q:沖縄が他の戦場と違うのはどういうところですか? なぜ多くの兵士が病気に、戦争神経症になったのでしょうか?

私が思うに、沖縄での戦闘は長引きました。81日間続いたので、多数の兵士が毎日毎日ストレスにさらされていました。タラワやグアムのように短期間で、大きな戦闘に発展する前に終わったものとは違いました。戦争神経症の原因は、日がたつにつれストレスがたまっていくからでしょう。短期戦なら、戦争神経症になる時間がありません。例えば、すぐ帰還になるとか、あるいは、分かるでしょ。

Q:あなた個人が、沖縄で一番厳しかった瞬間とはいつですか?

わかりません。今振り返ってみると、穴の中から引き出すべきだった2人の兵士のことでしょうか。もっと何かすべきだったのではないかという思いに、今でも悩まされます。そのときは、気にならなかったのです。弾丸がここをかすめて怖くなったということ以外は。だけど、たぶん、そのことでしょう。おそらく、そうだと思います。

Q:でも、この2人の兵士は無事だったんですよね。

無事でした。でもわかりません。彼らはケガをしていて、それ以降彼らを見ることはありませんでしたから。

Q:個人的に聞いた話ですが、米兵への残虐行為や残酷な扱いがあったということですが?

確かに残虐行為についての話は耳にしています。私は目にすることはありませんでしたが、聞くことはありました。しかし我々も嘆かわしいことに、残虐な行為をしました。我々が行ったことを聞くと、私は悩しくなります。しかし、戦争とはそういうものです。どうすることもできませんでした。確かに日本軍が行ったあらゆる残虐行為について聞いていました。本当にしたかどうかはわからないけれど、よく聞きました。ですが、私が知っている米兵も残虐行為をしたのです。そんなに頻繁(ひんぱん)にではなかったと感じていますが、でも実際に起きていました。

Q:どのような残虐行為に兵士が巻き込まれたのか話していただけますか?

ええ、ひとつひどい出来事がありましたが、なすすべがありませんでした。沖縄戦の本当に最後のころ、私たちは2人の日本兵を捕虜として捕らえてました。私は部下の1人に、日本兵を大隊本部まで護送するように命じました。連れて行くように言ったわけです。すると10分くらいしたら彼が戻って来て、“片付けました”と言うんです。私が、“どういう意味だ?”と聞くと、すると彼は、彼らが逃げようとしたので撃ったと言ったのです。私は、“いや、それは違う。お前が彼らを殺したな”と思いました。彼がそのようなことをしたことに、私はとても嫌な気持ちになりました。しかし私に何ができるというのでしょう。全く腹が立ちました。私たちには捕虜が必要だったからです。捕虜に尋問をすることができますから。私たちには彼らが必要でした。それに捕虜を殺すなんて大変愚かなことです。彼らから話が聞けたのに、なんでそんなことをしてしまったのでしょう。だけど、彼が彼らを撃ったということは確かでした。

Q:日本兵について聞いた話はどうだったのですか? 日本兵はどのようなことをしていたのでしょうか?

ええ、私たちは彼らの話をよく聞きました。ある壕で、彼らが米兵を捕まえて壕の中に引き連れて行き、拷問したという話を聞きました。でも私はそれを聞いただけです。だからわかりません。もちろんその当時は、本当のことだと思いました。でも、わかりません。

Q:沖縄では、たくさんの女性や子供も殺されたと…

ええ。

Q:考えたことは?

ええ、たくさんの一般市民がいました。ええ、私は彼らを気の毒に思っています。彼らは厳しい状況にいて飢えていました。私たちは彼らを大きな収容所に送っていました。だから彼らと直接触れ合う機会はありませんでしたが、彼らが来るところを見てはいました。

Q:そんなにたくさんの女性や子供たちを犠牲にするのは異常だと思いますか?

いいえ、彼らが犠牲になったとは思いません。そのようには感じていません。彼らは戦争自体の被害者です。でも(犠牲になったとは)思っていません。彼らを誤って、日本兵だと思って撃ったことはあります。そのようなことも起こりました。それに日本軍は、一般市民を彼らの前面に出して、盾代わりにしたこともよく聞いていました。そのことは聞いていましたが、私は目にしたことはありません。おそらく時々は起きていたのでしょう。私には理解できませんが。

Q:トラウマになっていることはありますか? 今もあなたを苦しめるような。例えば悪夢を見るとか。

いいえ。

ありません。私はとても幸運なのでしょう。一切ありません。振り返ってみると、私は任務は全うできたと思います。素晴らしいというほどではないが、少なくとも私は期待には応えられたはずです。

出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール

1919年
米国オレゴン州ポートランドに生まれる
1942年
海兵隊に入隊(入隊前は医学生)
1945年
大尉となり沖縄戦に参加(L中隊長)
1946年
米国へ帰還する
 
戦後、医師として働く

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