ホーム » 証言 » トム・プライスさん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「手榴弾投げ合う安里の戦い」 番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
名前名前: トム・プライスさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄) グアム  収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

チャプター

[1]1 チャプター1 ガダルカナル  03:39
[2]2 チャプター2 沖縄上陸  10:04
[3]3 チャプター3 激戦続く南部へ  06:41
[4]4 チャプター4 「シュガーローフ」の戦い  05:39
[5]5 チャプター5 接近戦  06:06
[6]6 チャプター6 自爆した日本兵  04:37
[7]7 チャプター7 沖縄・L中隊最後の写真  03:48
[8]8 チャプター8 沖縄戦の終結  04:14
[9]9 チャプター9 悪夢  02:34
[10]10 チャプター10 孫に伝えたいこと  02:51

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10

提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
収録年月日収録年月日: 2011年3月24日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

インタビュアー:デール マハリッジ 父親は同じL中隊で沖縄戦を戦った

Q:私にとっては、沖縄戦の実態をつかむために、証言を得ることが大切なんです。もし私の父が生きていたら、父にも聞いてみたかったです。あなたの写真ですね。

あれは新兵訓練所にいたころです。中国にいた第4海兵隊に所蔵していた伯父は、青色の軍服(海兵隊の礼装)を着て帰って来ました。それを見て、まだ若造だった私は「これだ」と思い、憧れを持ちました。それで私も海兵隊に入りました。これは父と母、そして一緒に学校に通っていた親友。彼は海軍に入りました。

Q:ガダルカナルには2度行かれましたね。グアム戦の前と、沖縄戦の前に。

はい、そこで訓練を受けて、グアムに出撃して。戻ってきて、また訓練を受け・・ガダルカナルには長い間いました。

Q:いいところですか?

はい、気に入りました。本当に。映画に出てくるようなヤシの木が並んでいました。キャンプは海のすぐ近くで、毎晩、波が砂浜に打ち寄せる音が聞こえてきました。ヤシの木もあって、まるで楽園のようでした。    

Q:ではプライスさん、海兵隊に入る前の話を聞かせて下さい?

入隊前ですか? 私は12歳までミズーリ州の農場で暮らしました。当時は大恐慌時代の末期でした。ミズーリ州の生活は厳しく、何とか暮らすのがやっとでした。食べ物はありましたが、お金が全くありませんでした。そこで母方の伯父たちがカリフォルニアへ行きました。一人が移住し、毎年、新車で帰って来ました。そのうち別の伯父も移住し、彼も新車で帰ってきました。そして彼らが私の父に言いました、「ジョン、カリフォルニアには仕事があるぜ。持つべき仕事が」と。そして1937年、祖父母に農場を託して、私たちはカリフォルニアへ移住しました。祖父は足が不自由だったので、移住は難しかったのです。

そしてわたしは18歳になりました。すると祖父母が私に、戻ってきて農場を継ぐように勧めました。農場を人に貸していたので、故郷に戻ってきて農場を継げば戦争に行かなくて済むと言うのです。私は「いやだ」と言いました。戦争を仕掛けた日本人が憎くて、私も戦いたかったのです。

沖縄に上陸した日? 4月1日。復活祭の日曜日でした。海岸ですごい攻撃を受けるだろうと覚悟していました。一日目を生き残れるか不安でした。上陸しても、銃撃戦はありませんでした。うそだろう・・という感じでした。他のどの島の場合も、銃撃戦は当たり前でしたから。日本兵は待ち構えていて、水陸両用車を上陸させまいと攻撃してきましたから。だから沖縄でも同じだろうと思っていました。楽々と上陸しました。ロバの群れがいて、軍艦からの砲撃がありました。大きな戦艦から砲撃が鳴り響いていました。あたり一帯に煙が立ち込めていて、兵士たちは丘を駆け下りるロバを狙って銃撃していました。想像できますか? そんな動物を撃つなんて。でも誰もが攻撃的でした。動くものは何でも攻撃したのです。撃たれる前にね。

とにかく上陸は成功して、その日は丘の上で野営しました。第4海兵連隊が奪取した読谷飛行場のすぐ近くでした。日本軍機が飛んで来たが、湾に停泊した米軍の軍艦を見てどう思ったかわかるでしょう。日本軍機は旋回して飛行場の真ん中に着陸しました。日本兵は機体から出てきて、米兵たちの方に歩き出しました。そして、突然、彼らが日本人じゃないと気付きましたが、時すでに遅かった。日本兵はその場で殺されました。それが彼の最期でした。

その夜、われわれは丘で野営しました。夜中になって、赤ん坊の泣き声に機関銃の銃声が一発しました。でも日本軍は冷酷で、時々隠れている壕(ごう)から民間人を追い立てると聞いていました。誰も動きませんでした。ただ赤ん坊が泣いているのが聴こえました。本当に神経が参りそうでした。翌朝、その赤ん坊の母親が撃たれていて、まだ生きていたが、彼女が生き延びたかどうかは知りません。でもそれが沖縄で初めての、日本人との遭遇でした。

上陸の前に船上で習いましたよ。「出て来い」、「心配しないで」。

Q:その意味は知っていますか?

「我々は何もしないから出てきなさい」という意味だと教えられました。合っていますか。

Q:そのような意味です。

「出てこい、安全だよ」というわけですね。

我々は島を2分し、第6海兵師団は北へ向かいました。少佐が撃たれた3日目くらいまで、何の抵抗もありませんでした。翌日、偵察に出ると、谷間が騒がしくなっていました。銃声のようでした。そこで、我々は拡声器で、「出てこい。出てこい」と呼びかけました。そうやって呼び出そうとしたのですが、誰も降伏に応じる様子はありません。我々は、迫撃砲を持っていたので、谷に着弾するように迫撃砲を発射しました。木がうっそうとした谷でした。我々は出てくるように呼びかけましたが、誰一人呼びかけに応じません。そして偵察の終わりの頃合いに、丁度丘の上にいたとき、突然、日本の兵士が機関銃で撃ってきました。私の後ろにいた砲撃助手に命中したのです。他にも、私の前にいた小銃兵も撃たれましたが、幸運にも、私はかすり傷ひとつ負いませんでした。

Q:最初は、たやすく勝てると思っていましたか?

まさか、とんでもない。実は、我々は、日本軍は丘陵地を守るだろうと思っていました。島の南部は平たんで町なども多いのですが、北部は丘陵地帯でしたから。だから、日本軍は守るなら北だろうと考えていたのですが、違いました。日本軍は、南部に防衛線を引いていたのです。陸軍と、それから我々と一緒に上陸した部隊・・第3海兵師団かどこかだったと思うが、彼等が島を南下しました。ご存知のように、我々は北上しました。我々は、1日でかなり広範囲な土地を手中にし、私はもう迫撃砲を運べなくなるほど疲労困ぱいしました。それだけ広範囲な土地を、そんなに早く制圧できるとは、私は夢にも思っていませんでした。かなり進撃できるとは聞いてはいましたが、初日だけで、その予想をはるかに超えていました。一日目に、想定以上の範囲を制圧したのです。

(北部にいた時)我々は、何故、南部で行われているような抵抗がないのか、とても不可解でした。南部では、飛び出してきた日本兵が、奇声をあげて襲ってきたそうです。しかし我々も、一度だけ包囲されことがあります。奇襲されたのです。我々は山の上に迫撃砲を設置しました。山の名前は忘れてしまったのですが、砲兵隊が攻撃を続けている間に、数人の兵士が砲弾を補充に行きましたが、戻ってきません。そこで、私たちが様子を見に行くことになりました。出発したのは朝でした。中尉の伝令が立ち上がり、双眼鏡で丘の向こうを見ようとした瞬間に“パーン”。日本兵が小銃で、彼の眉間を撃ち抜いたのです。それは、悪いことが起きる前兆でした。

とにかく、我々は谷を下りて行きました。周りを山に囲まれていました。そこで襲撃されたのです。我々の軍曹は勲章のことしか念頭になく、我々を呼んで、戦闘を命じました。私が走っているときに、横たわった分隊長を衛生兵が介抱していました。その辺りには砂ぼこりが舞い上がる中、私は小川まで走りました。そこには、てき弾筒を構えた日本兵がいました。彼等はこの武器の扱いが本当に上手でした。こうして少しかがむのです。砲弾が飛んでくるのが見えました。私が脇の溝に飛び込むと、そこに、足が2本突き出ていました。私は、神に祈りました。「足指が2つに分かれていませんように」。日本人は、時々、足指の割れたような靴(足袋のこと)を履くからです。もし足指が割れていたら、面倒なことになっていたでしょう。

私が右を振り向いたとき、ピシッと音がして撃たれたと思いました。弾が私の頭から30センチくらい先の草に当たったのです。気がづくと靴が無くなっていました。私は無我夢中で、土手の裏に駆け込みました。そこには分隊の隊員たちも隠れていました。丘の上では銃撃戦が続いていました。しかし、我々には、誰の姿も見えませんでした。丘の向こうに日本兵がいました。自動小銃を持った海兵隊員が近づき、上下に揺れているように見えました。日本兵に向かって連射していたのです。その日に見た日本兵は、その1人だけでした。しかし、遠距離から見たので識別は難しく、彼が本当に兵士だったかどうかは分かりません。

Q:命令を受けた日のことを覚えていますか? 命令を聞いてどう感じましたか?

我々はただ命令に従うほかありません。我々は、トラックに乗り込み、第2連隊の援軍として南へ向かいました。いえ、第7連隊です。前線へ向かう途中ですれ違ったとき、彼らのやつれた顔を見て、厳しい戦いを覚悟しました。これからが本当の戦いなのだと。実際翌日からそうなりました。我々は小高いところにいました。安謝川を見下ろす場所だったと記憶しています。うろ覚えですが、海に近い下流域でした。そこでの我々の任務は、夜の間に川へ橋を架けることでした。組み立て式の簡易鉄橋を架けました。しかし翌朝、日本軍がやってきて爆弾で橋を吹き飛ばしました。戦車は川を渡れなくなりました。やむなく、我々の大隊に攻撃を命じました。仕方なく、川を歩いて渡りました。

Q:沖縄で親しい人を亡くしましたか?

大勢を亡くしました。分隊長も撃たれました。さらに、中尉も銃撃戦で撃たれました。中隊長も撃たれました。大隊の中で生き残った中尉は1人だけでした。他は皆死にました。皆が死んだ後、軍曹が「伍長に昇格させてやる」と言ってきました。私は昇進に興味がありませんでした。腕に袖章を付けていると狙われるのを見てきたからです。上に立つ者は格好の標的です。だから私は昇格には一切興味がありませんでした。それよりも早く家に帰りたかった。任務を終えて家に帰りたかったのです。

前進していたある夜のことです。那覇はすぐそこでした。我々は、那覇の郊外にいました。そこでも夜遅くにタコつぼを掘りました。暗くて、後で分かったのですが、私は海側の絶壁のすぐ近くに塹壕(ざんごう)をつくっていました。海まで300フィート(90メートル)ぐらいだったでしょうか。誰も寄りつかない場所です。かなり岩の多いところにタコつぼを掘っていたのですが、そのとき、誰かが、我々が通り過ぎたあたりから、機関銃のような銃声が聞こえたと言うのです。そして、誰かが「衛生兵、衛生兵」と叫びました。しかし、これもいつものことなので、我々はタコつぼ堀りを続けていたのですが、今度は「中尉」と呼ぶ声がします。中尉に質問をしているようでした。しかし、ちょうどその直前に、数人の足音がし、物がぶつかり合いながら、走り去るような音がしました。その男は、一瞬「中尉」と言ったきりでした。その後は、物音ひとつしませんでした。

岩から岩へと飛び移る人影が見えました。輪郭だけでしたが、私は、彼等(日本兵)が洞窟から飛び出して、あの男を撃ったのだと確信しました。それは、彼が「衛生兵」と叫んだときでした。私たちが通ってきた小道です。もし彼が叫ばず、「中尉」のひと言で警戒しなければ、我々も危ないところだったかもしれません。予期せぬできごとでしたから、危険な状況でした。しかし、「中尉」のひと言で、ピタリと静かになりました。本当にすぐに音がしなくなったのです。そして、彼等が丘の頂上付近を駆け抜けているのが見えました。およそ5人、岩から岩へと走って逃げていました。大きな音をたてて、きっと慌てていたのでしょう。私は、あれは日本兵だったと思います。私はそう見ています。

戦場では、敵を殺さなければなりません。敵は我々を殺す。だから、これ以上は攻撃的になれないほど攻撃的でした。

より攻撃的に? 当然です。いつ銃撃されるかという状況なのです。考えられないほど攻撃的になるものです。ならざるを得ません。奇襲を受けたときから、敵の姿が見えなくても、我々は迫撃砲を設置し、丘のその斜面に向かって迫撃砲を撃ち続けました。殺される前に殺さなくては。生き残るために、本当に攻撃的になりました。

我々が迫撃砲を使った最後の戦いでした。シュガーローフは、目の前にありました。近くには他にも小さな丘が幾つかあって、そこから那覇を見渡せました。海兵隊がシュガーローフの丘を制圧したと思ったら、また後退してくるのです。日本軍が丘を越えて来襲すると、我々は猛烈な攻撃を加えました。あの丘の戦いで迫撃砲が使えなくなりました。ある晩、軍曹が言いました。やつらは全員那覇で酒盛りをしていると。火を囲んで踊ったり飲み明かしていると話していました。そして、「バンザイ攻撃に備えて、今晩、武器弾薬をたくさん集めよう」と言いました。

ニューイングランド出身のマクドナルドという男がいて、その夜、我々は協力して深い塹壕(ざんごう)を掘りました。やつらがやってきても、我々を簡単に引きずり出させないような深い塹壕です。しかし、その夜は何も起こりませんでした。

Q:日本軍が少年を使って行った「バンザイ攻撃」は、常軌を逸した作戦だと思いますか? 日本は自暴自棄になっていたと思いますか? 

正気ではないと思いました。命を捨てて砲火の中に飛び込んでくるのですから。まるで切腹をするかのような形相で我々に向かって飛び込んでくるのです。でも勇敢だとも思いました。(敵の)隊列に突撃せよというのは、死ねと命令されれているようなものです。だから彼等はとても勇敢だったと言いましょう。そんな命令に従えるのですから、非常に勇敢な人たちでした。私も色々な命令を受けたが、もし「死ね」と命令されたら、絶対に拒否したでしょう。もし「最前列に出ろ」と言われても、「あなたの後をついて行く」と言ったでしょう。

Q:尋常ではない作戦だったと思いましたか? あなたはその作戦が怖くなかったですか?

怖かったですとも。サイパンでは、日本軍は、バンザイ攻撃で防衛線を突破し、病院がある地域まで攻めてきました。もちろん怖かったです。那覇の晩でもそうでした。我々は那覇を見下ろす地点にいましたが、日本軍がその夜にバンザイ攻撃を仕掛けてくるだろうと予想して、準備をしていました。ありったけの弾薬で待ち構えていましたが、さっきも言ったように、その晩には何も起きませんでした。攻撃を仕掛けてきませんでした。

シュガーローフの丘を攻略した後のことです。丘の先には小さな谷があり、第29海兵連隊はその谷を通ってこちらに向かっていました。我々が、シュガーローフを通過してその谷に行くと、海兵隊員は壕にいました。彼等は塹壕の中で座ったり、横になったりしていました。ただ我々と違ったのは、迷彩服を着ていたことです。我々の軍服はただの緑色でしたが、第29海兵隊の軍服は新しい、迷彩服でした。死んでいる者の判別方法は一つで、体から脂が出ているかどうかを見ます。死んだ体からは脂がにじみ出てきて、軍服が暗く染まるんです。横たわっていた兵士たちは撃たれたようには見えませんでした。ただこと切れて、横たわっているようでした。迷彩服の色が違っていました。それを見て、死んでいるのがわかりました。本当に大勢の兵士が死にました。前ならば、手当てをする者が来てくれたでしょうが、その人手もありませんでした。我々が到着したときには、彼らはただ横たわっている状態でした。そんな兵士が大勢いました。我が軍は、シュガーローフの丘を攻略するために、おびただしい犠牲者を出しました。そんな中では、自分がその一人にならないように祈るだけです。

我々の迫撃砲はシュガーローフ・ヒル(安里52高地)でダメになりました。あまりに何度も発砲しすぎたので、側面がきしんで、かなり危険な状態だったのです。本当は弾がなめらかに出なくてはいけないのに、グラグラしていたのです。だから迫撃砲は捨て、そのときから私たちは小銃兵になりました。

Q:それでは作戦の後半では迫撃砲はなかったのですか?

武器は小銃だけでした。

Q:その話は聞いたことがありません。

そう、迫撃砲はガタがきたのです。もう迫撃砲は持っていなかったのです。

Q:補充もなかったのですか?

なかったですね。食糧だって満足な補充はありませんでした。支給品は小隊に届いているはずだなどと、言われるのです。しかし実際は、途中で襲撃されて届かなかったのです。

ある夜、それはシュガーローフの戦いの後、最初の夜でしたが、我々は丘の上で(塹壕を)掘ってから偵察に出ました。洞窟が幾つかありました。そこに行ってみると、日本側が、穴を掘って、そこを病院として使っていた形跡がありました。内部は幾つかの大きな部屋に分かれていました。そういう病院でした。私は自動小銃を手に取りました。シュガーローフの上は泥でぬかるんでいます。私は泥をぬぐいました。その夜、我々は迫撃砲を台座に設置しました。迫撃砲が3台ありました。ひとつはこちらを網羅し、もうひとつはこの一帯、そして、これはこの辺りという具合です。真夜中、ものすごい豪雨に見舞われました。何もかもずぶ濡れ、泥だらけになりました。そのとき野戦電話が鳴り、下の方で砲火が上がっていると言います。それは特定の地帯でした。そこで、迫撃砲の二脚を持ち上げて、その位置を少しずらしました。大事なところでヘマをしたくなかったので、ねじを緩めて銃身の位置を少し変え、より遠くを狙えるようにしました。そして砲弾を発射しました。すると受話器の向こうから、誰かが「命中。感謝する」と言っていました。自分では、どこに当たったのかも分かりませんでしたが、とにかく、その夜のことは、何とも不思議なことでした。私がやったことは、迫撃砲の位置を少し動かして、高度を変え、発射しただけです。そうしたら、彼に「命中。感謝する」、そう言われたのです。私には、話したのが誰だったのか、全く分かりません。

Q:そうすると命中した先は・・・

敵陣です。

Q:敵。ということは病院ですか?

そうだと思います。

電話の相手は、前線の小銃兵で、とどめの射撃を求めてきたので、それに応じて一発放ったのです。そうしたら「命中。感謝する」と。会話はそれだけでした。

Q:驚きましたか?

今でも信じられないことなのですが、ある夜のこと、男が私に向かって手りゅう弾を投げてきました。私は、それを彼に投げ返しました。その男はまた投げ返してきて、それが私の塹壕のすぐ外で爆発しました。あれと同じぐらい驚きですね。相手が敵か味方かすら分かりません。彼が言ったのは「命中」、それだけでした。

Q:洞窟の中の病院を見たましたか? それは砲撃の前? 日中でしたか、それとも・・

あの、夜でした。我々は洞窟と見れば、日本軍が全滅するようにと、手りゅう弾を投げ込みました。その夜、真夜中に、私は「プライス。起きろ、目を覚ませ。日本兵が1人いるぞ」と起こされました。「そこに見えるだろう」というのですが、目をこらしても動くものは見えません。彼がほとんど動かなかったからです。ようやく日本兵を確認し、彼に向かって自動小銃を撃つと、せん光が走りました。日本兵は反撃してきました。彼は手りゅう弾を持っていました。けがを負って逃げようとしていました。ほとんど動かなかったのは、そのせいでしょう。次の日の朝、その日本兵は死んでいました。多分、どこかの洞窟から出てきたのでしょう。病院の近くだったのは間違いないはずです。我々は、暗くなる前に、そこ(病院の洞窟)や、周辺の洞窟もしらみつぶしに偵察しました。生き残りのないよう洞窟を掃討しました。

我々の部隊は広がって敵の突破を防いでいました。そして私の分隊は真正面に置かれたので、これはまずいと思いました。というのは、右手は干上がった川床のようになっていて、左側は山だったからです。そこで私は、分隊の3人を組ませてタコツボに入れ、私とコロスキーの3人とが別の壕に入りました。私が最初の見張りに立っていたのですが、コロスキーの番になり交代しました。ウトウトしそうになる前に、「コロスキー?」と呼びかけてみました。コロスキーは振り返りません。なんと彼は寝ていたのです。見張番だというのに眠っていたのです。私は眠らずに、穴にもたれて起きていました。45口径の銃を手に持ち座っていました。サトウキビ畑からキビが折れる音がずっと聞こえていたからです。それから、これは大変な夜になると思い、自分の壕の周りにたくさんの手りゅう弾を並べました。キビが折れる音が聞こえる度に、その方向へ手りゅう弾を投げたのです。

それから、海軍機が来て炎が空を染めました。夜なのにかなり明るくなり、外に出るものもいました。私は壕の中にいたのですが、すぐ前で大きな爆発が起き、人の体が大きく空中に舞いました。まるでスローモーションのように、その男の体が手足を広げて、空中に舞上がるるのが見えました。その直後、炎が降り注ぐ中、足音が近づくのが聞こえました。こちらに近づいてくるのは足音で分かりました。45口径拳銃を握り締めていた私のまん前に、男がやって来ました。男に向けて一発撃つと、弾切れになってしまいました。そこで私は小銃を拾い上げました。その男は、私のすぐそばに倒れていたので、狙いを定め弾が切れるまで撃ち続けました。最後の手りゅう弾も使い切りました。ピンを抜き、それを向こうに投げました。するとまた投げ返されました。投げた先よりも近いところから返ってきました。

これは夜の出来事です。手りゅう弾は発光型で、すごい光を放つのです。私はそれを敵に向って投げたのです。光っていたので敵はそれを投げ返してきました。私は隣にいた仲間に、敵に居場所を知られたと話ました。壕にいる兵隊にも移動すると伝えました。場所を移つすと下の方で爆発が起きたのです。友軍が銃撃していた一帯でした。大爆発でした。翌朝、そこに行って下をのぞいてみました。彼らはかばん爆弾を身に着けていました。捨て身の攻撃だったのでしょうか。もちろん、彼らが我々を殺していた可能性もあるでしょう。しかし、結果的に彼らは自爆してしまったのです。

死んだ日本兵の一人が持っていたのは、ナイフを端に巻き付けた棒だけでした。銃器はありません。戦場では彼らも小銃を使ったでしょうが、おそらく、私が出会った男は持っていませんでした、持っていればもちろんそれを発砲していたでしょうから。

これは私の訓練所での写真です。これが私です。これが沖縄で最後に登った丘です。一緒に上陸したL中隊の面々です。つまりL中隊の最終章というわけです。

Q:あなたはどこですか?

これが私です。これが私で、後ろがカーペンター。こちらの男たちの名前は忘れてしまいました。

そうだ、これが我々の到達した最南端の丘です。

Q:これはクヌシ(国吉台)ですか?

そうかもしれません。これが到達した一番南の地点です。

Q:真栄里と、たしか国吉台が最後だったのですよね?

そうです。

島の南端の手前です。我々は丘で野営していました。そこに陸軍が102ミリ迫撃砲を設置しました。その102ミリ迫撃砲の砲弾は、発射時に回転して耳をつんざくような音がするのです。日本軍はそれを嫌って、迫撃砲を狙います。我々はそのすぐ上にいたものだからたまらない。「すぐこれをどけろ!どこか他に設置しろ!お前たちのせいで砲火を浴びる」と、我々は言いました。とにかくこの丘で野営したときに、見えにくいけれど、とにかくハイグラー大尉のテントがこのすぐ後ろにありました。フンドシ一丁だけの日本兵が2人、降伏して、両手を挙げて丘を降りて来ました。

大尉(ヘイグラー中隊長)は私たちに言いました。「彼らを後方まで連れて行け。」そしてそこまで連れて行きました。彼らが少し丘を下りたところで、銃声が響きました。逃げようとしたそうです。大尉も誰も、口を開きませんでした。のんきな話ですが、熱いコーヒーが下に届いたので、我々はその小道を下りて行ったとき、撃たれた捕虜を見ました。1人はまだ生きたままそこに横たわっていました。目が開いていて、彼はまだ生きていました。でも誰も何も言いませんでした。今の時代、イラクやイランで人を殺すとしたら、一言も発さず後ろから撃ってしまうでしょう。 でも犯した罪を一生背負いながら、撃った人間の人生は続いていくのです。

Q:6月22日(実際は23日)、沖縄の戦いは正式に終結しました。その日のことを覚えていますか? 戦闘が終わったと聞いたとき、何が頭をよぎりましたか?

とにかく、生きているんだと思いました。島を攻略し、そのことを、今話しているなんて信じがたいことです。本当に驚いています。

もちろん開放感を味わいました。我々はグアムに戻ることになっていました。その時(沖縄戦終結の際)、いつもの軍隊ラッパが鳴り響きました。9時だったと思いますが、ラッパが鳴り響きました。間もなく就寝という時間でしたが、スピーカーから「日本が降伏した」と放送がありました。自分の耳を疑いました。信じられなくて。そこらじゅうで声が上がり、祝福ムードでした。我々は、九州も攻撃するはずでしたから、本当に信じられませんでした。当時、我々は、準備態勢に入っていました。兵力と物資の補給を待っていました。我々は訓練を受けていたし、グアムで訓練する間の交代要員が到着するのを待っていました。そんなとき、日本が降伏したのを聞いたのです。嬉しかった。我々はすぐにでも帰国できると思っていたのですが、中国へ行けと言われました。チンタオ(青島)にいる日本軍捕虜を連行するため、中国に渡りました。しかし、すでに戦争が終わっていたので、気楽なものでした。船上ではタバコを吸ったりしました。吸い殻を海へ捨てたりしました。戦争中とは違い、船に明かりも戻りました。戦争は終わった。素晴らしい気分でした。

Q:沖縄で民間人を大勢見たましたか?

いいえ。

見ませんでした。我々は4月、5月、6月と沖縄にいて、我々がそこを後にしたのは6月末のことでした。確かに、丘を下りてきている人など数人の民間人を見ました。道すがらすれ違う程度です。数人は見ましたが、集団ではありません。私は、今の沖縄には驚くばかりです。たくさんの人が住んでいて、多くの人があの戦争を生き残ったと知り、驚いています。写真を見て知りましたが、立派な再建ぶりです。町が成長を遂げ、大きくなり、多くの住民がいます。私は、民間人がそれほどたくさん生き残ったと知り、本当に驚きました。

Q:当時、沖縄の民間人のことを考えていましたか?

今でこそ、民間人には申し訳ないと感じている。私は、小さな子供が爆撃におびえて小刻みに振るえているのを見たことがあります。そんな姿を見たら哀れに思います。誰だってそうです。心から申し訳ない。彼らの運命は過酷でした。

Q:いつご結婚されたのですか?

妻・ビビアンさん: 1948年、帰還から3年後でした。高校時代からの知り合いでした。

Q:お2人は高校時代からの恋人でしたね。

妻: はい。

夫はよくうなされていました。熱ではありません。とにかく毎晩のように母親の名前を呼んだり、うめいたり、半泣きしたり不安定な状態でした。

Q:そのわけをあなたに話してくれましたか?

妻:いいえ、一言も。

Q:なぜ話そうとしなかったのでしょう?

妻:さあ。2年たってようやく聞けました。

Q:きっかけは? 28年後に何が起きたのですか?

妻:一緒に壕に入っていた彼の仲間、本当に親しい戦友に会ったのです。彼らの思い出話を聞いて私は、戦争の実態を、一体彼に何が起きたのかについて、初めて知ることになったのです。夫の体験もあの日を境に変化がありました。

Q:戦争の話をするのは、良い効果があったということでしょうか。

妻:夫は話をすることで少し解放されたと思います。戦地での体験はどれも悲惨なもので、これが戦後も夫を苦しめていました。

Q:一人で抱え込んでいたのですか?

妻:その通りです。そして今は孫たちに話しています。娘たちには決して話しませんでした。しかし彼には孫息子がいて、彼には、次から次へと体験談を伝えていました。戦争とは理不尽で正当化できる面などないと、夫は孫息子には事実として伝えかったのです。でも、夫にせよ他の兵隊にせよ、心の傷はまだ深いでしょう。

妻:当時の大義を信じて、敵も味方も若者が出征しました。でもそれは互いに間違っていたのです。普通の人間がいたとしても、戦争はそれを変えてしまいました。若者を変えてしまった。

妻:もし戦争が起きたら、次に行かなくてはならなくなるのは私の孫ですよ。

Q:彼は軍隊にいるのですか?

妻:いいえ、でも彼は21歳です。今は奨学金で勉強していますが、就職がうまくいかなければ孫息子は海兵隊に入りたいと・・

Q:トムは彼に何というでしょう?

妻:もちろん反対です。海兵隊なんて。教育を受けて何とか道を見つけるよう言っています。海兵隊の生活は人を変えることをわかっているからです。愛情がある思いやりのある人ではなくなります。それはお互いに耐えられません。

プライス:孫が海兵隊に入隊したがったので、私は勉強を続けるように言いました。学問を身に着けるべきです。海兵隊に入隊すれば、死と隣り合わせです。新聞には、毎週のように死亡記事としてい若い兵隊が掲載されます。海兵隊員になるとは死を覚悟することなのです。戦闘はゲームではありません。命を落とすこともあります。ですから学問を勧めました。海兵隊は反対です。私は、自分が海兵隊員であったことに満足しています。生涯の友人ができました。しかし、私は、戦争がなかったならば、入隊しなかったでしょう。あの戦争があったから、参加したのです。もし孫の方から質問をしてくれば、何が起きたのか、できるだけ正直に話すつもりです。私は生き証人です。他にも聞きたいという人がいれば喜んで話します。それで今回お話ししたのです。デール(聞き手)の父親のことと、沖縄戦での海兵隊について話をしました。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
アメリカ・ミズーリ州ストラットフォードに生まれる
1943年
海兵隊に入隊
1944年
グアム攻略作戦に参加
1945年
沖縄戦に従軍
 
グアムで終戦を迎える
 
アメリカへ帰還する
 
戦後、自動車工場・建設業など

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード