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タイトルタイトル: 「米兵が起こした婦女暴行」 番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
名前名前: フェントン・グラナートさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄) グアム  収録年月日収録年月日: 2011年3月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 海兵隊へ  02:34
[2]2 チャプター2 グアム島上陸作戦  07:46
[3]3 チャプター3 沖縄上陸  02:08
[4]4 チャプター4 「シュガーローフヒル」の戦い  05:19
[5]5 チャプター5 日本兵の自決  01:46
[6]6 チャプター6 最前線へ  07:11
[7]7 チャプター7 巻き添えになる住民  07:30
[8]8 チャプター8 壕に浴びせた火炎  03:37
[9]9 チャプター9 女性を襲った米兵  04:45
[10]10 チャプター10 日本軍に殺された兄  03:04
[11]11 チャプター11 戦争は地獄だ  02:31

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
収録年月日収録年月日: 2011年3月25日

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Q:海兵隊、もしくは軍隊に入隊する前は何をしていたか教えてください。

入隊前は、バンクーバーの造船所で溶接工として働いていました。戦闘艦、飛行機輸送艦とか戦車揚陸艦などの軍用船を造っていました。

Q:そうですか。その後海兵隊に入隊したのですね。

その後徴兵されました。徴兵されて皆兵隊に入りました。

Q:そうですか。

はい。

Q:徴兵されたときはどういう気持ちでしたか? とうとう来たかという感じでしたか。それとも予想していましたか?

もちろん、予期していました。

海兵隊に入隊したかったのです。兄が既に海兵隊員として戦いに出ていて、フィリピンで捕虜になってしまっていたのです。

入隊したかったです。海兵隊に入隊したかったです。兄が既に海兵隊員として出兵していて、フィリピンで捕虜になっていました。

兄が海兵隊員でフィリピンで捕虜になっていたので、自分も海兵隊に入った方がいいと思っていました。当時、海兵隊は徴兵の人間は入隊させなかったのですが、軍曹に、なぜ海兵隊員になりたいのかを話して、受け入れてもらったのです。でなければ、陸軍に入ることになったでしょう。

とにかく私は海兵隊に入隊しました。サンディエゴで訓練を受けました。8-10週間、小銃射撃など色々な訓練を受けました。その後、私は機関銃担当になりました。機関銃担当のほうが小銃より早撃ちができたからです。人を殺すのならさっさと終わらせた方がマシだと思ったからです。ところが、それはまずい選択でした。なぜなら、日本人は機関銃の射手を残らず殺そうとしたからです。日本人は多くの兵士を撃ちました。

Q:戦争に行く前は、日本や日本人については何か知っていましたか?

よく知りませんでした。学校でも、日本は小さな国だが人口は多いと、いう程度しか勉強しませんでした。当時、日本は中国や周辺の島々を攻撃していました。兄弟は海兵隊で、中国上海に出征していました。上海です。日本や日本人に関してはあまり考えていませんでした。ここでの日々の暮らしが大変で、あまり、誰か他の人の事を考える余裕はありませんでした。

Q:日本人や日本の兵隊を初めて見たのはいつですか?

こういう言い方はしたくありませんが、私は、初めて見た日本人を殺しました。戦争に参加した初期、グアムに上陸したときに、水につかっている日本兵の死体を見ました。それから、グアムの海兵隊基地があった辺りまで侵攻しました。私たちは戦車の後から付いて行って、その戦車が、地面に開いたこれくらいの穴の上を通り過ぎたのですが、その穴の中に人の頭が見えたのです。

立ち上がり忍び足で近づいて中をのぞき込んでみると、日本兵がいました。彼は目をつむりました。私に見られたことが分かったのでしょう。彼は手りゅう弾を手に、穴から出てきて、それを私に向かって投げようとしました。私は機関銃で3発、こことここ、そしてここを撃ちました。日本兵は倒れてその穴に落ちました。それが、私が初めて見た、生きている日本兵でした。それから彼の目をのぞき込みました。距離としては、ここからその壁くらいまででしょうか。私のやった、人生でいちばんひどい事です。人を殺したんだと思いました。ひどい事ですよ。

日本兵は夜になると私たちに反撃を仕掛けてきました。私は塹壕(塹ごう)からワイヤーを引いて、周辺の木に縛り付けました。毎晩、必ず誰かが寝ずの番をしました。ずっと睡眠が取れない状態だったので、残りの兵士は眠りました。

とはいえ、砲弾やら何やらが一晩中鳴り響いていたので、安眠できたわけではありません。とにかく、その夜のこと、私は見張り番だったのでしょう。塹壕の中で張り番についていました。

私は眠ってしまい、突然目が覚めると、日本兵が列をなしてやって来るのが見えました。彼らは塹壕前のワイヤーに引っかかり、方向を変えて、あっちに行きました。

僕の両隣の兵士たちのいびきが聞こえました。私が手にしていたのは、手りゅう弾一個と自動小銃だけでした。もし、私が日本兵を撃とうものなら、彼らは、あっという間に私を殺すだろうと思うと怖ろしかったです。

テレビなどでは、手りゅう弾のピンを噛(か)んで引き抜いて投げるシーンなんかがありますが、私にはなかなかできませんでした。精一杯の力でやってもできないのです。しかし、やっと手りゅう弾のピンを抜く事ができました。そして、爆発まで7秒待って投げました。爆発前に投げたりしたら、その音を聞かれて、居場所がばれるかもしれないからです。

日本兵の足がそこに見えました、10以上の足が近くまで来ていました。それで手りゅう弾を前方に投げました。爆発すると、私のすぐ前で寝ていた兵士は飛び起きました。塹壕から飛び出さんばかりの勢いでした。残りの皆は、腹ばいになって前をのぞいて見ていました。

塹壕(ざんごう)の中で数晩も過ごしたら飽きてしまい、仰向けで寝るようにしました。そうすると、外の動くものが全て目に入ってきました。すると、日本兵が飛び出してきて、私の頭を撃とうとしました。足を投げ出した体勢だったけれど、自動小銃を取り上げて2人目の日本兵を殺しました。手りゅう弾を投げたときも、何人殺したのかは分かりません。話したくもありません。でも、次の日の朝、全てが終わった後、そこには490人の日本兵の死体が、私たちの前面に横たわっていました。そして、アルコールの臭いが漂っていました。彼らは酒でも飲んで酔っ払っていたのかもしれません。ひどい臭いでした。

薬莢(薬きょう)の臭い、爆発で飛び散った植物や何やらの臭いが、風に乗ってきて気分が悪くなりそうでした。塹壕を掘って寝るときには、石を枕代わりに使っていましたた。翌朝、全てが静まりかえって、私が目を覚ましてみると、私は死んだ日本兵の足を枕にしていました。どうやって、私の下にその死体が入り込んだのか分かりませんが、とにかくそこに死体があり、それこそ辺り一面、日本兵の死体だらけでした。その夜、30-40人で塹壕を掘ったのですが、翌朝生き残っていたのは13人だけでした。そうだったんです。その夜は沢山の日本兵を見ました。

Q:最初の敵を殺したとき、どう感じたのか聞いてもいいですか?

最悪でした。人間を殺したのです。私は全く・・とにかく気が動転しました。ともかく、気軽に話したりできません。悪態でもついてみたいのですが、とてもできません。自分が誰かを殺したんだと考えると、ひどく恐ろしくなりました。そして次の朝になって、大量の死体がそこかしこにあるのを見たときには、もう心が痛みませんでした。既に、痛みは消えてしまっていたのです。

Q:そして4月。4月1日に上陸した。

そう、エイプリルフールの日です。上陸した日に、いい事が一つだけありました。浜辺には日本兵が一人もいなかったことです。徒歩で上陸しました。神の祝福でした。誰も殺さなくてすんだのですから。

Q:それで、これはまったくエイプリルフールだと冗談を言っていたのですか?

そう。まさにエイプリルフールだと言っていました。そして北に進みました。初日は、読谷の飛行場の滑走路の端を横切って、島のもう一方の端まで行きました。そして私たちは北上し、陸軍は南下しました。何日かかったのか分かりませんが、海兵隊は45マイルほど北進しましたが、陸軍は私たちに比べて強い抵抗に出会い、5マイルほどしか進めませんでした。

私たちは、時々、少数の日本兵、おそらく小隊程度の日本軍に遭遇するくらいでした。ですから交戦しても、簡単に撃ち負かしました。とても簡単でした。島の最北に到達した後、南へ戻りました。

Q:南部での日々と比べると、北部はどうでしたか?南部は激戦だったと聞いていますが。

北部へ行ったときは、3-4人、もしくは十数人の日本兵に遭遇するくらいでした。

そう、首里城でした。シュガーローフヒルは城に隣接していて、日本兵はそれを死守していました。隣にいたK中隊は丘に駆け上がり、私たちは、その斜面沿いにある小渓谷を下る予定でした。

そして渓谷底部に沿って進む予定でしたが、手に負えないほどの数の日本兵に出くわしてしまったので、元の場所へ撤退しました。K中隊は丘から追い出される形になって、シュガーローフヒルの斜面を見上げると日本兵がいました。

丘には、洞穴、トンネル、塹壕などがあり、私たち見えたのは、日本兵の肩より上の部分でした。彼らは、列になって丘を登って行くところでした。私は「何てことだ」と言って、大声で上官に「機関銃をくれ、ここに機関銃の射手を呼んでくれ」と叫びました。機関銃が到着すると、丘を登る日本兵に向かって撃ち始めました。日本兵は立ち止まったり、何人かは再び丘を駆け登り始めました。私たちにはここから上を見ていたと思います。それで、彼らを撃ち始めたのでした。

最終的に渓谷からこちらの方に上がってくる仲間を守ることができました。彼らを助け、それから元の位置に戻りました。あたりは暗くなり始めていて、みんな、日本軍の反撃のことを考えていました。

日本軍は、丘の上部から私たちに砲撃を加えてきて、砲弾はずっと下方に着弾し続けていましたが、私の頭上近くをかすめる砲弾もありました。私たちは反対側の端から上に向かって移動し、誰かが掘ったタコツボの中にいました。タコツボの中に座り、正面の尾根の方に不意に目をやると、1人の日本兵が銃を手に立っていて、上から私を見据えていたのです。心底恐かったです。穴に座っている所を上から見下ろされているのですから。

私は穴から丘に這(は)い出て、中尉に「別の塹壕に移っていいか」と聞きました。中尉は「もっといい場所があるなら好きにしろ」と言いました。近くには爆破された墓がありました。沖縄の人たちが骨などを納めた甕(かめ)などが爆破され、残がいが粉々に散らばっている小さな墓でした。私はそこへ行くと、地面にあいている穴から残がいを掘り出して、それを自分の塹壕にしました。

そこに機関銃を据えて、シュガーローフヒルを登って行く日本兵を撃ちました。相手が迫撃砲を撃ってきたとき、私はホースシューズという尾根の末端にいました。右手の丘の名前が思い出せませんが、とにかく、ちょうど頂上に上がったところで、頭上を飛んで行く砲弾の発する音がし、その熱を感じました。砲弾はどんどん上がって行き、ついに日本軍の後尾をとらえました。もう逃すことはありません。

そして私はそこに1人取り残されました。機関銃の射手は、砲撃があまり近いので、そこから離れてしまったのです。私の助手もいなくなり私だになりました。私の塹壕の隣にもうひとつ穴があって、それが見えました。

そのとき私は頭に血が上って、丘の後ろの方まで、大きな声で悪態をわめき散らしながら、やみくもに走り出したのです。

砲撃がまだ続いていたので、中尉が自分の穴から飛び出してきて私を捕まえ、穴に引き込みました。次の朝、いや、その日の夜砲撃が終わってから、中尉が「上に戻りたいか」と聞いてきました。そして、「そんなことはさせない」と言いました。「ここから出して、もっと後方のどこかに送るつもりだ」と言いました。中尉は翌日、恐怖のあまり奇行に走ったという理由で、戦闘神経症として私を病院送りにしました。4-5日入院したでしょうか。

病院では、心配事というと、上空を飛んでいる飛行機から落ちてくる爆弾の破片くらいでした。そして病院で4-5日過ごしました。

Q:前線に戻るのは大変でしたか?

いいえ。4-5日入院して戻ったのですが、以前のように戦争を気に病まなくなったようでした。精神的に乗り越えたんだと思います。前線に戻るのは問題ありませんでした。

那覇南部の丘にいたときに全ては始まりました。丘は、その周囲4分の3が崖(がけ)になっていました。私たちは上って行って、頂上を占拠し、日本兵は全て丘の下部にいました。

そうして、私たちは3-4日はそこで過ごしました。そのころ第4連隊が、沖縄のアロディ半島(小禄半島・日本海軍の根拠地)に上陸しました。そういう名前だったと思うのですが、とにかく那覇の南にある場所です。連隊はそこに上陸し、内陸部に侵攻しました。私たちは現地に駐留していて、河口に沿って周辺には沼地が点在していました。オセド川(国場川)だったと思うのですが、今すぐには名前が思い出せません。ともかく、日本人がそこに追い詰められ、丘の頂上から飛び降りるのを、座ったまま見上げていました。

私たちがそこに着いてから、3-4人が飛び降り自殺をするのをみました。彼らがヘルメットに手りゅう弾を打ちつけ、それをお腹に抱え、前のめりに倒れていく様子を望遠鏡で見ていました。彼らはこれ以上逃げられないと知っていて、投降するのも嫌だったのでしょう。

そこを離れて3日間の休養を取るはずでした。丘の上で見張りをして4-5日続けていたからです。そこは最前線でした。3日間は軍が言うところの休息、息抜きをすることになっていました。ところが、そこに着くなりのことです。中尉が「今夜移動するから準備しろ」と言いました。

中尉は、「今夜、ここから下に向かい前線を再び奪取する」と言いました。皆怒りました。もう十分やった、もう飽き飽きだと思っていたからです。そして南下しました。本島の那覇の南の道路を下りました。そして到着して道の脇に止まりました。そこにあった小川を下って行く事になりました。そこから丘を登って、次の日、この丘の向こうへ行き、最後には、私のノートには真栄里尾根と書いてありますが、当時私たちは609と呼んでいた丘へ出ました。

良く分かりませんが、とにかくそこへ出ました。暗闇の中での進攻でした。丘を降りて胸まで水に浸かりながら川を渡りました。

丘を登り、サトウキビ畑を横切り、真栄里尾根を登って、その隣の小さな村に来ました。そこには日本兵がいました。煙突からは煙が出ていました。彼らは朝食か何かを調理中でした。朝食を食べたかどうかは分かりませんでしたが、調理中に見つけたときにはいつも、お茶碗一杯のご飯を持っていました。靴下に入れて、それをリュックに詰めて持ち運んでいました。

それと魚の干物です。日本兵たちは何を食べて生きているのか不思議に思っていました。米軍では空腹になると食糧が輸送されてきます。しかし日本兵は、私たちが上陸してからは、食糧の調達はできていないはずです。現地で賄うしかありません。とにかく、私たちはそこの小さな村近くに着きました。

日本兵は通りをあちこち逃げ回り、それに向かって私たちは発砲しました。彼らは左の方へ回り込んで逃げました。私は部隊の左側にいましたが、背の低い、アラバンと呼んでいたのですが、突然、K部隊の右側にいたアラバンに弾が当たったのが聞こえました。

彼は当たった衝撃で、仰向けに倒れました。「誰か来てくれ、助けてくれ」と大声でわめいていました。私が彼の元へ駆けつけたのですが、弾痕はないし出血もありません。しかし、口以外は麻痺してしまって、身動きが取れなくなっていました。ただ大声で助けを求めていました。しかたなく衛生兵に来てもらうと、ようやく弾丸の痕が見つかりました。彼はここを撃たれていました。首の後ろの、この筋肉のところです。弾はこれくらい離れて貫通していました。ショックで彼の神経は麻痺してしまったのでした。とにかく彼は動けなくなりました。衛生兵は私に、「自分が担架を取ってくるから、ここにいてくれ」と言いました。

そのころまでには、彼を狙撃した日本兵は、ひし形に切り出した石の下にいました。全ての道は、そういう石で水際を整備していました。

とにかく、丘のところに石切り場があり、そこには巨大な四角い石がありました。その周りにやつらは散らばっていました。私や仲間を撃った兵士は、その下にいたのだと思います。石の下に穴を掘って、石の下に隠れていたのです。その上には草とかそんなもので覆いをしていたのでしょう。それで、そこに座ってその兵士を見ていたら、突然、もう2人の日本兵が別の石の後ろに立っているのが見えました。私は狙いをつけて撃ちました。彼らは石の後ろにしゃがんで弾をよけ、手りゅう弾を投げつけてきました。

私は動けないアラバンから20フィートほど離れていましたが、日本兵の投げた手りゅう弾が、彼のそばに落ちました。私は駆け寄って彼を引っ張って遠ざけて、手りゅう弾が爆破するまで地面に伏せていました。

そして、元の場所に戻ると、日本兵が2人、石の後ろに立って、手りゅう弾が私たちのどちらかを殺したかどうか確認しようとしていたのです。そう直感しました。私は日本兵が立ち上がったら撃とうと、1人に狙いを定めてそこにしゃがみました。私が引き金を引いたとき、相手も私と同時に引き金を引きました。日本兵は私の鼻を狙ったわけではなく、この上を狙っていたのでしょう。しかし、私がこう頭を後ろに倒したので、弾丸は鼻のここから入って貫通し、後ろのここから出て行きました。

弾はこの奥の、親知らずに当たって、歯根をぶち抜きました。そして、ここのところから血が噴出して、どうにかしないとあの日本兵が戻ってきて、絶対に殺されると思いました。

ようやく銃を空にして、アラバンのところに行き、「動けそうか」と聞くと、「大丈夫だと思う」という返事でした。「ここから退散するぞ」と言いました。彼を助け起こして立たせ、移動できる場所まで移動しました。そして後ろの土手から飛び降りて、この天井の高さ位だったが飛び降りて、丘を横切って救護所まで駆けました。次に気が付いたときは病院でした。

Q:病院で死ぬんじゃないかと考えましたか?

どうして頭を撃たれたのにまだ生きているのか、分かりませんでした。頭を撃たれたのは分かっていたのですが、なぜまだ生きているのか分かりませんでした。血が飛び散ってすごい出血でした。両方の弾跡から口のところまで、ここに傷跡が残っています。

彼らは給水所を持っていました。そこは大きな、水泳ができるほどの広さです。プラスチックなどが登場するずっと以前のことですから、給水所はキャンバス地でできていて、そこで給水していました。大勢の地元の人が、その給水所の辺りに住んでいました。私たちはタバコやお菓子、軍支給の食料などを与えました。ある夜、そこに襲撃がありました。4-5人の子どもと2-3人の女性が、そこを爆破しようと侵入してきたところを射殺しました。

彼女は15-20ポンドものTNT爆弾を腰に巻き付けて、給水所を爆破しに来ました。彼女が自殺しようとしていたのかどうかははっきり言えませんが、爆弾を巻き付けていたことを考えると、投げようと思っても投げられないでしょうから、自爆するつもりだったのでしょう。それで米軍は、「夜に動くものは誰でも撃つように」と指示するようになりました。敵か見方か、区別が付かないからです。

Q:彼女は自爆したのですか?

いいえ。米軍が殺しました。自爆できませんでした。米軍は彼女が(給水所に)近づく前に発見し、撃ちました。給水所に損害を及ぼす前に射殺しました。その件で、米軍側に被害が出たのかどうかは、私はそこにいませんでしたので分かりません。

住民は空腹のためか、畑などのものを取りにきたのか、その後も給水所周辺に来続けました。島の北端では、私たちは少年を拘束しました。背の高い子で、彼はマッチ箱を手にして、草づくりの小屋に火をつけようとしていました。少年に「何をしてるのか」と聞いたら、「父親に小屋に火をつけてくるように言われた」と言いました。「なぜなのか、父親はどんな人物なのか」と聞くと、「父親はそこの砲兵だ」と言いました。

父親は砲兵で、「小屋を燃やせば(米軍の)位置が分かるから、それで、砲撃をする」と言ったといいます。それで、軍は「夜間動くものは撃て」と言うようになりました。島の北端では、(デール(取材者)が地図を持っているが、)私たちは通信所を護衛する事になっていました。その男の名前は思い出せませんが、とても年をとった男が私たちの部隊にいたのですが、彼が地元の人たちを足止めしても、彼らは何も言いませんでした。

1人の日本兵が、何かぶつぶつ言っていました。誰かに何かを怒鳴り返したりしていたらしいです。しかし地元の人は何も言わず、ただ歩き続けました。そこで米兵は、その兵士に向かって発砲し、兵士はその場に倒れました。そして私は、赤ちゃんの泣き声を聞き、外に出てみると、そこには夫婦がいて、2人とも赤ちゃんをおんぶ紐(ひも)で背負っていました。紐を解いてやると赤ちゃんはまだ生きていましたが、1人は手を撃ち落とされていました。

そこで私は赤ちゃんを2人の背中から下ろして、その場に寝かせ、衛生兵の所に行って赤ちゃんの腕に包帯を巻いてもらおうと頼みました。翌日、司令部が迎えに来て彼らを地元の人がいる収容所に連れて行くことになりました。すると、ある男が「ジャップを連れて行くなんてお断りだ」と言い出しました。私は「連れて行くんだ。でないと彼らは死んでしまう。赤ちゃん殺しになりたいのか」と言うと、その米兵は「(赤ちゃん殺しに)なる」、と言います。私はその場を去りました。彼はとてもけんか腰になっていました。私は自分で衛生兵への所に連れて行くと言いましたが、彼は「絶対に許さない」と言って、(赤ちゃんたちを)銃で撃ちました。私には何もできませんでした。

Q:あなたが止めようしたのに、彼はどうやって殺害したのですか?

激しく口論すると、ついには自分が撃たれるのではないかと恐くなりました。皆おかしくなっていました。

私は当然の事として、小さい赤ん坊を(殺すなんて)できませんでした。赤ちゃんを傷つけるなんて絶対できません。「殺すな」と、もっと主張すべきだったかもしれませんが、あまり多くを(兵隊仲間を)敵に回わしたくありませんでした。

Q:でも、その事がまだあなたを悩ませているのですね?

ええ、そうです。少なくとも週に1-2回は、グアムか沖縄にいる夢を見ます。そこにいる夢を。

Q:それが沖縄で起こったいちばんひどい事、それとも、他にもありますか?

そんなところです。私たちは地元の住民を殺しましたたが、殺されたのは大抵、夜に禁止区域をうろついていた者たちでした。私たちは塹壕の中で待機していました。そして夜中に突然、周囲で何か動きがあれば、夜なので誰か分かりませんでしたし、とにかく撃ちました。そして、その撃った中の何人かは、住民だったり、住民の服を着た日本兵だったりしました。日本兵の中には米軍の格好をしている者もいました。日本兵の一部は、沖縄では支給されない米軍支給品まで持っていました。

彼らは道路脇に穴を掘って、その中に住んでいる事もありました。その穴が、どれ程の大きさだったのか、入った事が無いので分かりません。日本の防空壕などには爆弾が仕掛けられている事もあったので、私は絶対入ったりしませんでした。手りゅう弾に繋げたピストルや刀を置いておき、触ると爆発するのです。ですから、沖縄の人が住んでいたような場所には、絶対に入りませんでした。私たちが上陸する前の那覇の人口は6万人のはずなのに、人っ子一人見当たらないので、皆不思議がっていました。

道の脇にこんもりした場所があって、その先に壕が見えました。丸い穴で、中に人がいるのが見えましたが、出て来ませんでした。

「心配しないで」。覚えてますよ「シンパイシナイデクダサイ」。ハワイの言葉に近いとか言っていました。沖縄の方言なのでしょうか。私は「シンパイシナイデ」とか「シンパイシナイデヤ」などと言いました。でも、誰も出てきませんでした。私たちの事が死ぬほど怖ろしかったのでしょう。

Q:彼らが壕から出てきたら通常どうなるんですか?次はどうなるんですか?

元の場所に戻ったんじゃないでしょうか。私たちは道を進んでいるだけで、彼らは脅威には見えませんでした。那覇から小さな村までの道のりには、本当に沢山の小さな壕が点在していました。彼らは町を出ると、丘の側面に穴を掘って、その中に隠れていました。町には誰も居ませんでした。6万人もの人々がいたのですから、どこかにいたはずでした。私たちは多くの人を殺しましたが、全員を殺したのではなかったからです。

私たちの仲間が火炎放射器を持ち、那覇の北のはずれで、私たちが到着する前に岬の丘・・バックナー(米軍司令官)たちが殺された場所だと思うのですが、とにかく、私たちが上に到着する前です。そこに大きなドーム型の墓がありました。そこに火炎放射器を持って上って行きました。そして壕の臭いをかいで、「この中に一人いるな」と、壕内部に火を放ちました。

1人の日本兵が、毛布を頭からかぶったまま壕から駆け出てきました。日本兵は銃を手にしていましたが、巨大なタンク付きの火炎放射器を持っていた米兵は、その火炎放射器を日本兵に向けて放ちました。日本兵は胸を撃たれ、その場で3日間燃え続けました。彼から出る煙は、本当にひどい臭いでした。

電話のリレーステーション、電話関連のものが沖縄の北端にありました。その男たちは北に行っていました。彼らは私の知らない色々な写真を見せました。とにかく、その道のはずれのところに家があり、女性がいました。おそらく、その家の母親だと思います。父親や子どもたちが、近くにいたのかどうかは分かりませんが、いなかったと思います。私は一度もそこへ行きませんでした。私は水辺が好きなので、自由時間があると釣りに出かけました。湾に行って、海でタコやらなんやらを捕っていました。

それで、7人の男たちが私に、一緒にその家へ行こうと誘ってきました。「そこへ行って、女性とセックスするんだ」と言いました。彼らがそこへ行って女性を性的に・・私は合意の上だと思っていましたが、「私は行かない。お前たちはクレイジーだ」と断りました。

それで彼らは行ってしまいました。1-2時間すると彼らは戻ってきましたが、何だかとても動揺しておびえた様子でした。そしてその中の1人が「髪を切って欲しい」と言ったのです。当時、私は仲間の散髪をしてやったりしていたので、ハサミとクシを見つけて彼の頭を切ってやりました。彼は長髪でしたが、全部切りました、次の男は、髭(ひげ)を剃(そ)ってやりました。次の男、次の男と、1時間くらいそんな事をしていると、4-5台のジープと武器輸送車が、憲兵とかわいらしい小柄な沖縄の女性を乗せてやって来ました。

そのうち、責任者の男は、将校かなんかだったと思いますが、彼が、私たちを全員並ばせて、女性が列の中から自分を暴行した男を5人ほど指さしました。彼女は、残りの2人は見分けられませんでした。彼女が「こいつだ」と言えば、憲兵たちは彼女を信じたでしょう。

私は男たちが何をしたのか考えると、死ぬほど怖ろしくなりました。それから、医師が男たちと女性を診察しましたが、レイプの痕跡はどちらにも認められないという事でした。もちろん、医師は米軍側の味方で、軍隊でレイプの罪に問われると大変なので、避けたかったのでしょう。

医師は7人の男たちが罪に問われるのを見たくありませんでした。ですから「証拠は無い」と言いました。そうして、憲兵たちは去りました。その後で、中尉と少尉がやって来て、まだ島にいて負傷していない数人の兵士に、「MPが君たちを捕まえにやって来る。師団もやってくる。彼らは医師がレイプの証拠はないなどと言っても聞き入れないだろうから、早くここから出て行ったほうがいい」と言いました。

それで、1人の男は外に行き、自分で足を撃ちました、次の日、別の男は同じ事をしようとしましたが、失敗しました。私の記憶では、彼は最終的に、やっと自分で自分の足を撃ち、骨折させました。それ以後、彼らの消息は聞いていません。

だからもう分かりません。兵士たちが島から外に出てしまえば(負傷兵として別の場所に送られれば)島の司令部の管轄圏外になります。島にいる限り彼らは罪人で、捕らえられ裁判にかけられる事になりますが、そうはなりませんでした。

戦争だったからです。日本兵に対して何の恨みもありませんでした。当時、その場所では戦闘状態にあって、日本兵は敵でした。兄が留置されていた(フィリピンの)捕虜収容所では、日本兵は兄に穴を掘らせ、空爆があると言ってその中に閉じ込めて、それからガソリンを空気穴から流し込み、兄を生きたまま燃やしたのです。彼らの行為に対しては、深い怒りを感じます。痩せ細って完全に無力な人間を、穴に閉じ込めガソリンをかけて燃やすなんて、人間のすることでしょうか? それは許せません。

でも私が戦った日本兵たちは、私と変わない若者でした。彼らも多分、徴兵されて入隊し、部隊のため、お国のために正しい事をしていると思っていたのでしょう。

Q:お兄さんがどのように殺されたかについては、いつ知ったのですか?太平洋にいたときですか?

ええ。私がまだ軍隊にいたときに聞きました。1944年の12月14日に兄は殺されました。

日本兵が当時行ったことが全て記録されているそうです。発見できた遺体は回収されました。ジェファーソンの共同墓地に、他の25-30の遺体と共に共同埋葬されました。ミズーリ州のセントルイスにある、ジェファーソン・バラックの共同墓地に埋葬されたのです。

正直言って日本兵の事を良く思っていませんでした。ただ、戦地に赴いていたという事に関しては、何も悪い事だとは感じていません。私と同じように徴兵されたのでしょう。日本では、徴兵の場合に軍への入隊以外の選択肢があったのかどうか分かりませんが、多分、徴兵されたのでしょう。彼らはただ仕事をしていただけで、私と同じように真実を知らされていなかったのでしょう。

色々な事を忘れられるといいのですが。忘れたいのですが。少なくとも週に3-4日はグアムか沖縄、もしくは両方の戦場にいる夢を見ます。悪夢から目覚めてまた眠りにつくのです。だから、皆が言うように、戦争は地獄です。

日本の学徒の写真があります。まだ小さい子どもです。8、9、10歳の子どもたちが竹の棒を持って学年別に座っている。米軍が上陸したら、その棒で刺すつもりでした。もし銃を手にそこに居合わせていて、小さな子どもが自分の小便をかけた棒で攻撃してきたら、どうしますか? 殺すでしょう。子どもには誰の事も刺して欲しくありません。でも、私は原爆投下によって、(米軍が日本本土に)上陸すれば失われていたであろう多くの日本人の命が救われたと思います。(本土に)上陸していれば皆殺しになっていたと思います。原爆によって多くの命が失われたことは間違いありません。上陸していれば、それと同じくらいの人命が失われていたでしょう。上陸していたら、どうなっていたかなどと考えたくもありません。沖縄だけでも十分に悲惨です。私は、日本人を責められないと思います。日本人は自分たちの国土や財産を守らなければならなかった。そうです、私がいつも言うように、戦争は地獄なのです。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
米国・サウスダコタ州・ラピッドシティーに生まれる
1943年
海兵隊に入隊、第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊
1944年
グアムでの戦いに従軍
1945年
沖縄戦
 
10月米国へ帰還。戦後は肉屋を営む

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