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タイトルタイトル: 「爆弾と火炎で壕封じ込め」 番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
名前名前: エド・ホフマンさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄) グアム  収録年月日収録年月日: 2011年3月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 あこがれの海兵隊  03:31
[2]2 チャプター2 グアムへ  02:26
[3]3 チャプター3 沖縄へ  04:43
[4]4 チャプター4 激突  03:59
[5]5 チャプター5 疲弊していく兵士たち  02:15
[6]6 チャプター6 壕への攻撃  06:39
[7]7 チャプター7 人間を変えてしまう「戦争」  05:15
[8]8 チャプター8 沖縄戦終結  02:37

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
収録年月日収録年月日: 2011年3月27日

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そのころは戦争中でした。確か小学校を卒業したときにその12月に(太平洋)戦争が始まったのだと思います。だから、戦時中でした。私は新聞配達をしていました。

朝と夕方に、パイオニアプレス紙という地元の新聞を配達していました。1940年からです。12歳のときです。だから、毎朝5時15分に起きて、配達をしてから学校へ行きました。戦時中に教育を受けたので、私はもうここを出なければいけないと思っていました。

海兵隊に入りたかったんです。始めからそう思っていました。海兵隊になりたかった。早く入れる年になりたくてしかたなかったです。

16歳のときに入隊しようとしました。もう(訓練基地に向けて)出発というときになって年齢がばれて、数か月延期になりました。そしてついに入隊できたというわけです。予備軍に入る予定でしたから、別の身体検査を受けさせられたりもしました。

実際入ると、正規軍に入れて、4年間の服務期間でした。16歳の頭で、もう戦争が分かった気になっていて、3年でこのぐらい進んだのだから、あと5年で終わるだろう、だから4年の服務期間ならちょうどいいと考えていました。

Q:沖縄へ行く前に、日本や日本人について知っている事はありましたか?

本当に少しだけです。歴史的には、新聞を読んだりしていたので、確か1938年くらいにアメリカ海軍の小型砲艦が、長江で爆撃されたことがあったと思います。パナイかパネイか何かだったと思います(1937年12月に起きた日本軍機による米砲艦誤爆事件、「パネー号事件」)。

その年で思い出せるのはそれくらいです。戦争というと、第一次世界大戦のことしか知りませんでしたが、戦争ではお互いに闘っていて、日本軍に僕たちの小型砲艦を爆撃されたと。だから、詳しくは分からなかったのですが、とにかく戦争のようなものだと思っていました。

だから、戦争の事は知っていました。そしてもちろん、12月7日は、私はローラースケート場にいたんですが、午後1時15分くらいに、誰かが「真珠湾が爆撃された」と言っていました。

次の疑問は、「真珠湾ってどこにあるんだ?」ということでした。そしてそれがハワイにある事を知りました。それをきっかけに、1942年の6月か7月からまでいろいろなことが起きて、アメリカにとっては少し憂鬱な時代でした。次第にまた落ち着きを取り戻しましたが。私が知っていたのはそういうことでした。

海兵隊にいたので、太平洋に送られる可能性が99%だということは分かっていました。私が行ったときは、確か作戦はパラオ諸島に展開していたと思います。

フィリピンで始めようとしているところだったかもしれません。私はノースカロライナのキャンプ・ルジューンというところで新兵訓練を終えたところで、そのころ硫黄島の戦いが起こっていました。そこですでに戦死者が出ていることも知っていました。

それから、海兵隊の友だちの兄弟も硫黄島で戦死していました。だから、自分に実戦が近づいてきている感じがありました。それから私は西海岸へ移動になり、突然、大勢が出発する事になりました。

一緒に訓練した仲間の80%くらいです。みんながアメリカを出て行ってしまい、私は残されて、一体なんなのだろうと思っていました。彼らは硫黄島の交代要員としてハワイに行ったのです。

私たちはは63番目の交代要員でした。そして、僕らのグループはグアムに送られました。そしてそこで待機しました。そのころ沖縄で本格的な戦闘が始まり、死傷者が出始めていました。

今度は、私たちが送られました。新兵訓練を受けた仲間のうち、実際に戦闘をしたのは私くらいでした。他の仲間は、だいたい他の師団へ入って、戦場へ行く前に戦争が終わったのです。

私はグアムにいたのですが、突然荷造りをさせられ、交代要員として沖縄の師団に合流する事になりました。

もちろん何が起きているのかは知っていました。おそらく、ラジオもありました。ラジオでも情報が入ってきました。でも世界全体のニュースだったので、あまり多くは聞かなかったと思います。米軍部隊は前進していると。とにかく、我々の聞いた少ない情報では、とにかく死傷者が多いから応援に行く事になったんだと。死傷者が多かったから必要とされていたと。

Q:少し心配を感じていましたか?

不安を?

Q:ええ。

いや、仕事だから。そのために訓練してきた事だし、やるべき事は決まっていました。だんだん近づいて来ると、私の個人的な事だが、すごいな、とうとう本番だなと思いました。

その時点までは楽しかったのだと思いますが、もう本番だから、実際に戦場に入って、状況が分かると、完全に集中するようになります。そうでなければならないんです。自分の目前に歩いたり、飛び上がったり、飛んだりする物があれば、とにかく排除するんです。

前も言ったように、僕たちはグアムから上陸用輸送艦で来て、グアムとサイパンの間を通る最初の2泊は甲板で寝ました。

(沖縄に)近づいて来ると、船倉で寝なければなりませんでした。それからある日の夕方沖縄に到着しました。降りて荷を降ろす予定でした。上陸用船艇で海岸に行きました。

そこで突然カミカゼ攻撃がありました。それで上陸が少し遅れました。ボートに乗って海岸へ行くだけで、撃たれはしませんでした。

ただ、母艦を離れて海岸へ着くと担当者がいて、交通整理係のように、どこへ行って何をするかを指図していました。

荷を降ろす専門の部隊がいましたが我々も荷下ろしをしなければなりませんでした。上陸用船艇で荷物を海岸に運んでいました。最初の日に僕らも少し荷下ろしをしたのを覚えています。それも仕事のひとつでした。

それから内陸に少し移動しました。そして次の朝、トラックに乗って安謝(アジャ)(那覇市)に向かったと思います。南の主要補給路へ向かいました。それから南へ進んで、最初の夜に、あと数回より小さなグループに分かれました。

我々は広い野原にいて、シェルターハブと呼ばれるものを建てて、小さな簡易テントで眠りました。大雨が降っていて、泥の中で、ひどい状態でした(このころは梅雨であった)。

トラックも動かなくなっていました。びしょ濡れで、朝起きるとずぶぬれでした。ポンチョの上に横たわって、惨めな状況でしたよ。その時点では、温かい食べ物もありませんでした。

食料は配給をもらっていました。それからもう少し(人数を)減らされて、もっと近づいて歩き続けました。シュガーローフヒル(那覇市東部の最大の激戦地)を越して、戦闘が行われていたところへ行きました。那覇の北側に河口がありましたが、そこまで行きました。

その河口を渡って、那覇に入りました。そのころには25名か35名くらいになっていました。第3大隊に合流したときにそのくらいで、そのあと3つの中隊に分かれました。どんどん小さなグループに分かれて行ったのです。

Q:日本兵を初めて見たのはいつでしたか?

1日目、最初の夜、私たちは塹壕を掘って、K中隊と合流しました。

それで攻撃されて、私たちも撃ち返しました。次の朝、私ともう1人の兵士がいたタコツボの外に、3人の日本兵の死体がありました。30フィート離れたところに。撃ったときは、影しか見えなかったけど。 どういう言葉で言えば良いか分からないが、とにかく、現実感がありませんでした。

ハリウッドの、戦争のプロパガンダ映画を見たことがあったので、そんな映画に描かれたような闘いをしようとしたんだと思いますが、最初の夜は、とにかく現実感がありませんでした。

なぜか私たちはヘイグラー大尉の近くにいましたが、誰かが、たしか海兵隊の軍曹だったと思うのですが、名前は覚えていないけれども、彼が大尉にこの2人が昨日の夜、3人倒したとかなんとか言ってくれました。

ヘイグラーは、「そういう兵士がもっといると助かるな」というようなことを言っていました。でも、とにかく初めは実感がありませんでした。ただの人影でした。次は、タコツボで2時間交代で見張りをしていたときです。

相手を起こして、今度はその人が2時間見張りをして、自分は眠れる事を神に祈るというわけです。とにかく僕たちはそこで、三角形の端のような場所でタコツボに、2人で入っていました。ここからあなたの車くらいまで、もう少し遠いかもしれませんが、そのくらいの距離で、私が見張りの番でした。

時間は、夜中だったかもしれないし、午前2時だったかもしれません。分からないです。向こうを見ると、2人の日本兵が立っていました。タコツボのすぐそばです。(そのタコツボの中の)米兵はぐっすり眠っていて、日本兵たちは僕の方へまっすぐ向かってきていました。

仲間がぐっすり眠っているものだから、私は撃てませんでした。私はただそこに座って、日本兵はタコツボのすぐそばまで歩いてきました。3、4フィートくらいのところまでです。そこに小さな土手と小川がありました。

私はタコツボに座って、まぶたはなるべく閉じていましたが、彼らを見てはいました。彼らはそこに立って私を見ました。私は、彼らが手りゅう弾か何かを出すかと身構えましたが、何もしません。

おそらく、彼らはただ、戦線を抜けて、自分の部隊へ戻ろうとしているのだろうと思いました。彼らはそこを立ち去りました。私は後ろにいる方を撃ちました。命中して、彼は倒れました。

もう1人は土手を飛び越えました。もちろん皆すぐに目を覚ましました。その晩は私以外の兵士たちはみんなぐっすり眠っていましたが。だから、その夜は少しピリピリしました。

私が思い出せるのは北部にいたある伍長のことです。確かグアムでも同じ中隊にいたと思います。

数日くらいしか一緒にいませんでしたが、最後の尾根のいくつかを攻撃していたときのことです。彼が戻ってきて一緒に進んでいたのですが、彼はそこで完全に自制心を失ってしまいました。突如ライフルを投げだして、「もういやだ、こんな事はうんざりだ」と叫びました。

「ママ」って泣き叫んでもいました。とにかくおかしくなってしまったのでした。誰かが彼にどこへいくべきか教えてあげて、彼は行ってしまいましたが、その後もう二度と見ませんでしたし、どうなったかも聞いていません。

僕に、自分を撃ってくれと言ったやつもいました。それも戦争神経症の一つの段階じゃないかと思います。彼も、もううんざりと感じていました。とにかく(戦場から)出て行きたかったんです。とにかくさっさと出て行きたいがために、軽い傷を負おうとしている兵士がいるという話はよく聞きました。

出て行けるなら、あの状況下では、誰でも出て行きたいと思うでしょう。あんな、地獄のような場所に居続けたいと思うなんておかしいです。それでも海兵隊でい続けられるのは、“海兵スピリット”が支てくれただけです。怖じ気づいて逃げたいとは思わないが、でも、とにかくここ以外のどこかへ行きたいと思うものでしょう。でも仕事を続けないといけない。つらいことです。

実際私が見たのは、本島南端から半マイルか4分の3マイルくらい内陸の場所でしたが、大きな平地がありました。その右側に、巨大な壕がありました。

私はその壕の、左の方で掃討作戦をしていたのですが、大きな日本の野戦病院の入り口だという事でした。

実際、車両も入って行けました。ある朝、私が歩いて行ってみると、そこから人々を外へ出そうとしているところでした。

そこでは手術でも何でも行われていたようです。そこから人を外に出そうとしていました。中にたくさん人がいましたから。兵士も一般市民もいました。まず、日本語を話せる海兵隊員が呼びかけました。

でも、中から銃撃されていました。そこで、今度は沖縄の人を送って、「どうか出てきて下さい、もう戦闘は終わりましたから」と言っていたのだと思います。

みんなできるだけの事はしていました。私もそこに行って、スピーカーなどで、大音量で呼びかけていたのを知っています。数人は出てきました。敗残兵などね。

それから志願した敗残兵を使ったりもしていました。それから反対側に小さな入り口もありました。

おそらく2、3日は、彼らをそこから出させようとしていました。反対側ではブルドーザーを使っていました。車両の入れる入り口がありましたから。

その入り口を塞いで、もう一方の口から何とかして人々を出させようとしました。でも日本兵は撃ち続けていました。誰かが撃ち続けていました。そこで最終的には、爆発物を投げ入れたのです。

そこを爆破して壕を封じたんです。聞いたところでは、かなりたくさんの人が中にいたと…。でも、とにかく、彼らは出てこなかったのです。恐怖とか何かで。

崖から飛び降りて自決した人たちも同じような心境だったのでしょう。そうなってしまって、とても悲しい事でした。

Q:洞窟を焼いている写真を見た事がありますが、そのような事はありましたか?

火炎放射器?

Q:そう。そういった場面は見ましたか?

もちろん。火炎放射器担当と一緒にいました。私たちの小隊にもいました。

洞窟攻略のやり方が決まっていました。いちばん良いのは、出てきてもらうこと。出てきた人もいました。そして撃たれた人もいました。出てきて、後ろから撃たれたりもしました。

中の人も、降伏しないとか、あれやこれやをしなかったということで殺されました。悲しいが、私たちも最善を尽くしました。私たちも撃たれていました。殺すか殺されるか、そこにつきてしまうと思うのです。

Q:実際に、洞窟にいた民間人や兵士と直面しましたか?出てきたのを見たり、攻撃されたりしましたか?

はい、出てこさせたことはたしかにありました。でも我々も対応する時間がありませんでした。

その時点では、とにかく、人々が出てきたら、指差して「ここから離れろ」と指示しました。

自発的に出てきた人々は、すぐその場を離れました。それから戦線の後ろの方で誰かが対応しました。

彼らはもうそこを出て行きたいと思っていたのです。もう敵じゃありませんでした。問題なのは、まだ中に留まっていた人たちでした。彼らをなんとかするのが我々の仕事でした。全く楽じゃあありませんでした。

私は洞窟に入ったりはしませんでした。自殺行為ですから。とにかく時間をかけるしかありませんでした。ずっと後ろの方でつながっていたからです。1人か2人いるだけでも、一時間くらい手こずらされました。

そうしておいて、他の人たちが別の洞窟へ移動して立て直して、攻撃の準備をする事もできました。洞窟はとにかく、問題が長引いて、手強かったです。しかし、その地域を制圧するには、必要な仕事でした。


私が覚えているのは、「デテコイ、アタママコ」だけです。洞窟から出てこいという意味ですか?デテコイアタママコというのはどういう意味ですか?私が教えられた意味を言いいましょうか?

「デテコイアタママコ」。それを洞窟に向かって叫んだのですが、「洞窟から出てこないと腹を鉛で一杯にしてやるぞ(撃ちまくるぞ)」という意味だと教えられました。

南部では、何人かの民間人を救うために自分の命を危うくしたこともありました。(同僚が)いくつかの洞窟の中に爆薬を投げ込もうとしていたのですが、私はそれを止めました。私は入って行って止める事が出来ました。

私は穴の中には入りませんでした。しかし足を負傷した若い女の子を救う事ができました。彼女はここにりゅう散弾の破片が刺さっていたのです。洞窟の中にいました。それから年配の女性、それからかなり年配の男性もいました。また彼女の息子だったかもしれない男の子も。誰かがその中に手りゅう弾を投げ込む可能性もありました。そんな彼らを穴から逃してやることができたのです。

リスクはありました。立場が逆になる可能性もあったからです。誰かに捕まる可能性もありました。ただ、そんな事をやった事もあったのです。

そんな事を数回やると、私はとても気分が良くなりました。これでそれまでの事を埋め合わせる事が・・・

いや、自分が殺さなければならなかった誰かに対して罪の意識は全くありません。なぜなら、それはやらなければならなかった事だからです。

Q:日本人や沖縄の人が後に、「洞窟の中の日本兵が、一般市民が外に出るのを妨げていた」と言っていますが、そういう事は聞きましたか?

そうだと思います。さっき話した洞窟でも、まさに中の一般市民に起きていたのはそういうことだと思います。とにかく出てきませんでした。

でもそこを放っておく訳にもいきませんでした。中には兵士もいて、出てきて攻撃して来るし、前線の後ろでうろうろされたら困る訳です。

つまり、彼らがいると、我々の陣地の安全が確保できないのです。だから安全を確保する必要がありました。

それが戦争の悲劇だと思います。大勢の一般市民が殺されてしまう、ひどいことです。でも不可抗力でした。

初めて人を殺した夜は、まったくそれが現実の出来事だと思えませんでした。いや、もっと上手い言い方があります。「洗礼を受けた」のです。同僚が、数分前には私と話をしていたその男が(殺されて)、すぐ目の前で死んで横たわっているのを見たときに。そこで私は気付かされました。そしてそのときから、自分はやる事をやらなければならないんだと、そして自分はやる、と決めました。

私が殺さなければいけなかった人たちについて後悔した事はありません。あんな事をやらなければいけなかった事について嫌な気分にはなりました。朝鮮のときも、同じ事をやりました。

その後、年をとってからは、殺した男はどんな男だったのかという可能性を考えるようになりました。天才だったかもしれないし、科学者になったかもしれないし、素晴らしい事を成し遂げたかもしれない。そんな事を考えるのですが、あの当時は「殺るか殺られるか」でした。

私は罪の意識を感じた相手を殺したことはありません。そういった場面もありました。誰かからこれをしろ、と命令される場合もある、と聞いていましたが、私は「ふざけるな」と言いました。「私の周りで、そんな事は起こさせない」と。

(日本兵の)死体から金歯を抜きとる行為があったと聞いたことがあります。

その話は聞いた事があます。歯も見た事があります。気分の悪い話です。

ある種の人間にはそういった事が起こり得るという事でしょう。理性というものを全て失い、それでも逃げおおせられると思うのだ。「やれる」、と。戦闘という状況の中では、相当な事をやってもほとんどの場合、逃げおおせる事ができると。

私の個人的な感情、私の道徳性とは違います。もし路上でそのような場面に出くわしたら、私はそんな事をやっている男を撃ち殺すと思います。戦場でも同じ事をするでしょう。私は本当にそう感じます。堕落しきった行為だからです。しかし、いやというほど戦争を体験すれば、変わってしまうのでしょう。人格の中の何かが。

それから、戻ってから日本本土上陸作戦の訓練をしました。それが実現しなかったことを神に感謝します。日米双方にとって悪い結果をもたらしたでしょうから。

そこで訓練をしているときに、軍艦で平和の何かが署名されたと聞きました(9月2日のミズーリ号艦上での降伏文書調印式)。

その後、私たちは中国へ送られました。日本軍がそこにいて、私たちは日本人と一緒に協力しました。私たちが来るまでは、彼らが秩序を維持していましたから。中国はそのころ自分のことで精一杯でしたから。だから日本軍が秩序を保っていて、何も問題はありませんでした。

私たちが到着してからの引き継ぎはすばらしかったです。我々はお互いに協力しました。次第に我々が引き継いで、彼らは彼らのものを手放していきました。それから彼らは家族を集め始めました。

それから1945年の11月くらいだったと思いますが、中国からに日本へ移動しました。(武装解除された日本軍)兵士や(引き揚げの)女性、子どもを連れて帰りました。戦車揚陸艦でした。1500人くらいいたでしょうか。そして護衛したのは我々6人しかいませんでしたが、何も問題はありませんでした。我々は形としていただけでした。

みんな甲板にいて、そこから佐世保まで行きました。

そこから降りて、みなそれぞれ散らばって行きました。日本軍兵士はそうやって家に帰って行きました。私にとってはそのことは勉強になりました。気持ちの良い事でした。全部上手くいきました。そのときは何もわだかまりはありませんでした。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1927年
アメリカ・ミネソタ州セント・ポールに生まれる
1944年
海兵隊に入隊。第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊に所属
1945年
5月、沖縄戦に参加
 
8月、グアムで終戦を迎える。その後1947年まで中国北部で従軍
1950年
朝鮮戦争に従軍
1951年
アメリカに帰還

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