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タイトルタイトル: 「夥しい数の日本兵の死体」 番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
名前名前: チャールズ・レパントさん(アメリカ軍 沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄) グアム  収録年月日収録年月日: 2011年3月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 海兵隊へ  04:54
[2]2 チャプター2 グアムの戦い  04:10
[3]3 チャプター3 沖縄戦  02:52
[4]4 チャプター4 銃撃  06:18
[5]5 チャプター5 再び沖縄へ  09:08
[6]6 チャプター6 「馬乗り攻撃」  04:49
[7]7 チャプター7 捕虜  01:42
[8]8 チャプター8 「戦争と人間」について考えたこと  09:53

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [NHKスペシャル]昔 父は日本人を殺した ~ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦~ 放送日 2011年6月19日
収録年月日収録年月日: 2011年3月29日

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Q:レパントさん。足が不自由なのは沖縄戦と関係あるのですか?

ええ、あそこでケガをしたんです。ここから弾丸が入って、逆から出てきて、こちら側まで貫いたんです。だから3つ穴があいているんです。沖縄で、(1945年)4月13日のことです。

Q:今でも痛みますか?

今も痛みがあります。筋肉に。骨には当たらなかっです。突き抜けていっちゃったんです。

Q:お気の毒です。海兵隊に入る前は何をしていたのですか?

私は高校生で、走り回って人生を楽しんでいました。いちばん上の兄はすでに陸軍航空隊にいて、真ん中の兄は海軍で戦艦に乗っていました。それで私は、「兄たちの話はもう聞きたくない、陸軍でも海軍でもどちらにも入らない。自分は海兵隊に入るんだ」と言ったんです。輝かしい行為だと思っていましたが。

徴兵で登録しなければならず、私は高校を出たばかりでした。「君の番号が出るよ」と言われたものです。そのとき、高校の友人の何人かが「海兵隊に入隊しよう」と言ったんです。当時は海兵隊が何だかも知りませんでした。知っていれば入隊などしませんでした。
私は、「海軍に入りたいな」と言ったのです。私は水が好きで恐れることもなかったからです。すると連中は「ダメだ、来いよ」と言って、それで私たち8人がピッツバーグの郵便局に行って、署名して(海兵隊に)入隊しました。私はもう少しで入隊できないところでした。当時、私の血圧は少し高かったです。血圧が下がるまで座ってリラックスしろと言われ、その後に、「大丈夫だ、入隊を許可する」と言われたのです。結局、6人全員が入隊を許されて、サウス・カロライナ州パリスアイランドにある海兵隊訓練所に行く事になりました。
規律には慣れていました。家の規律が厳しかったからです。海兵隊の規律などは何でもありませんでした。やれ、と言われたことは家でやっていたからです。口答えもなかったし、マナーも身につけていました。立ち上がって女性に椅子を差し出す事だとか。
負傷をしたときだってこんな感じでした。軍曹がこんな感じで振り向いて「行ってこい」と言ったので、私は立ち上がって何も考えずに前に出て行って撃たれたんです。厳しい規律を教えられていたからです。やれと言われたことをやるという事です。私はそれがやるべき事だと思ったんです。
そしてある意味、場所が太平洋で良かったと思います。太平洋の方がヨーロッパより暖かいですから。ヨーロッパは寒くて雪が降っていました。
とはいえ、私は若くてバカだったのです。

それは私にとっては恐ろしいことでした。船でグアムに入り、座って景色を見ていました。あの家やあの家を見るように。

突然ブーン、ブーン、ブーン。「戦闘機だ」。今なら味方の戦闘機だと分かるのですが。私を撃とうとしているんだと思いました。「味方を撃つのか」と。
すると翼の間から海中にいくつも包みを落としました。
戦闘機はこっちに向かってくるのですが、銃弾は頭の上を飛び越えて行きました。
底の浅いLCI、すなわち歩兵上陸用舟艇は右に進みました。ここから目の前のあの家までぐらいの距離を上陸する間に、私達が「ポンポン」と呼んでいた集合機関銃を見た者もいました。

ブーン、ブーン。砂浜を攻撃している、あの光景が。そしてある光景が目に浮かびます。生まれて初めて見た、死んだ米兵の姿が。
上陸すると、その兵士はうつ伏せに横たわっていて、指には指輪をはめていました。今日になっても忘れません。太陽が照りつけ、彼は指輪をはめていて、私が通りかかったとき、指輪が太陽の光を受けて光っていました。誰かが既に彼のライフルを取り、ヘルメットを頭から外してライフルに差していました。あの光景がよみがえります。

そして、夜。戦争全体の中で、夜が最悪だった。3年間従軍した中でも、グアムのあの夜の攻撃。日本兵は「海兵隊め、お前は死ね」と叫んでいました。次の朝、タコツボを出て、彼らを数えなければならなりませんでした。300から400の死体がありました。おびただしい数の死体が、そこにもここにも、無造作に横たわっていました。現実とは思えませんでした。そして彼らは・・・なかには2つに切断された死体もありました。

彼らはその後、どうなったんだろう、と考えたことがあります。分からないです。共同墓地かなんかに入れたんでしょう。誰かが彼らを全て回収しなければなりませんでした。でも、私にとってあれだけおびただしい死体を見たのは・・・私はまだ年端もいかない少年だったのです。
あんな場に歩いて入り、なんとか通り抜けようとし続けたなんて、(日本兵は)どれだけの勇気が必要だったことでしょう。

心によみがえっては決して消し去れないことがあります。その同じ夜、私の後ろのタコツボの中には、1人の男が横たわって、「死にたくない、死にたくない、誰か助けて」と、うなっていました。でも誰も壕(ごう)から助けに出て行けませんでした。日本兵がそこら中にいたんですから。しかし、彼は翌朝も生きていました。彼の足が無くなっていました。まだ靴は残っているのに。
誰かが彼(の傷)に(抗菌剤の)サルファ剤を塗り、外に運び出しました。誰かが、「彼は生き延びた」と言っていました。どうやって生き延びたのかは知りませんが、彼は暗闇の中で横たわっていました。「死にたくない、死にたくない」と彼が言い続けるのを聞いていました・・・嫌な思い出です。

思ってもみないことに、私はグアムで生き延びることができたのですが、沖縄に行くと言われたとき、「私たちの多くは生きて帰れないだろう」と、話したものです。
実際に私たちの多くは帰ってこられませんでした。1度や2度は撃たれるでしょうし、戦場に入って同じ事を何度もやれば・・・沖縄を生き延びたとしても・・・その後はもうダメでしょう。運のつきでしょう。だって何度も交通量の多い道を渡ろうとすれば、いつかは車に轢かれるでしょう。それと同じだと考えていました。
沖縄に入る前に私はそう言っていました。ですが負傷はしたけど、生き延びました。

Q:つまり、命令には従わなければならなかったけれど、行きたくなかったのですか?

行きたくなかったです。私が病院から退院するとき、医師は将校で、「お前をまた戦場に戻す」と言われましたが、私は「戻らない」と言いました。実際にそう言いました。私は戻りたくないと言ったのです。だが医者は「残念だが、病院からは出てもらうしかない」と言ったので、私は戻ればそれで終わりだと思いました。

Q:沖縄に上陸して、何が起きたか教えていただけますか?

私たちは最悪の事態を考えていました。しかし、(日本軍からの)銃撃もなく海岸を渡りきったときは、神に祈りを捧げたものです。
私たちは、確か当時、読谷飛行場と呼ばれていた飛行場の縁を進んで行きました。そこには壊れた日本軍の飛行機が置いてありました。私たちはそれを見るために歩を緩めました。もちろん彼ら(上官たちは)は「動け、動け」と言い続けていました。かなり速く移動していました。北に移動するのにあまり抵抗はなかったからです。

あるところで、「将校と運転手が移動中を待ち伏せにあって撃たれた。そこから2人を救いだせない」という連絡がありました。
私はL中隊の第3大隊にいました。確か、ライフル分隊、迫撃砲分隊が出動を求められました。一個小隊につき迫撃砲が3基あったからです。それぞれを一分隊ずつ現場に送って、将校たちを救助したかったんだと思います。
そこにたどり着くにも、私たちは何もない野原を横断しなければならず、その野原を横断する前からすでに銃撃を受けていました。それから大きな土手がありました。私たちは土手の後ろに隠れ、迫撃砲1基を右側に設置して、敵の銃撃の出どころを探し出せないかと考えました。迫撃砲の砲弾は全部使い果たしてしまい、軍曹は「もっと持ってこい」と言いました。他の兵隊は道路を挟んだ所にいるのは分かっていたし、迫撃砲の砲弾を持っている事も分かっていました。
だけど私は道路を横断できなかったのです。道路に(日本軍の)銃が向けられていて、私が道路を渡ろうと歩き始めると同時に、まるで誰かに野球のバットでぶたれたような感覚を味わいました。それまで私は撃たれる感覚がどんなものかなんて知らなかったのです。トラックかジープにひかれたかと思いました。
それからここを見ると、血が・・・血がこんなに出るとは思いませんでした。ここから血が噴出していました。すると海軍の衛生兵がやってきて、包帯を巻いてくれました。彼は私の方に身を乗り出して、私の足の間に入りました。その後、彼はうめき声を出しました。彼も3か所撃たれました。背中を撃たれました。それから太ももにも。
私たちは一緒になって・・・味方からは「這(は)って来い」という叫び声が聞こえてきました。誰も出てきて銃弾の的になりたくなかったからです。だから私たちは這って道を横断しました。道路はおそらくこの部屋くらいの広さだったでしょう。

私たちは這って向こう側にたどり着き、味方は私たちを低木の中でつかみ、そこから引き出して応急処置をしてくれました。デール(取材班)に話しましたが、私は応急処置所へ行ってジープに乗せられて海岸に向かい、病院船に乗せられました。それで話は終わりです。結局、サイパンに行って病院へ、それから飛行機でグアムにある大きな病院へ連れて行かれました。その後、回復したのでまた部隊に送り返されたのでした。

Q:あなたが撃たれたとき、4月13日に沖縄で撃たれて負傷したとき、生き延びられると思いましたか?痛かったですか?

とても痛かったです。死ぬと思いました。だから・・・なぜだか分からないけれど、嫌な気分でした。私の母は・・・私は誰にでも愛を感じるし、母に対しては、「ああ、お母さん、もし僕がこの地で死んだという悪いニュースを受け取ったらあなたはどう思うだろう」と思いました。ひどい。ひどい話だ。どんな若者にも起こってほしくないことです。
もちろん日本軍の兵士だって愛する人が故郷にはいるでしょう。私と同じように。写真も見た事があります。確か私が持っていたのは若い女性の写真です。ある日本人兵士が持っていたもので、私はよく考えたものです。あれは彼のガールフレンドだったのか、奥さんだったのかって。分からないですが。両側に感情というものがあるはずです。ときには思ったものです。何人かの日本軍の兵士は・・・あの若者たちは、夜間に地面を這ってくるなんて勇敢だなと。私たちは誰もが同じ感情を持っていました。生きたいっていう。ああ、もう今は忘れたい思い出です。

Q:沖縄に帰って何を見ましたか?一度目と二度目では何か違いがありましたか?

覚えていることといえば、移動中に、多分那覇の市内で、いや、那覇の郊外だったんだと思うのですが、というのは彼らが迫撃砲を設置し、那覇を砲撃していたのを知っていたからです。しかし、60ミリ(迫撃)砲は建物にあまり大きな被害を与えません。口径が小さいし、砲本体を三脚の支持架に据え付けずに使っている場合もあったからです。
日本人は、迫撃砲を撃つときに底盤(ベースプレート)だけを使っていました。ベースプレートは動かせるからです。ですが、彼らが出来ることは、こっちを狙って撃ち、着弾させることでした。つまり、高く撃ちあげれば、あまり遠くないところに着弾する。その方が良い場合もありました。歩兵には建物のかげにいる兵士が見えないからです。迫撃砲は、撃つところを見られたら危険です。だから建物の蔭から少し高く撃ちあげて狙うのです。

Q:南部での戦闘が最も過酷だったと聞きましたが、どれほど過酷でしたか?

私はその戦闘の前に負傷し、ほとんど戦場にいませんでした。でもカーペンターや他の人たちの話を聞きました。皆が、シュガーローフ(首里高地西北の大道台地)の戦闘が最も熾烈(しれつ)だったと言っていました。聞いた話では、丘に日本兵がこっちからこっちまでトンネルを掘っていて、米兵が上がって行くと、こっち側から撃ってくる。カーペンターらによると、米兵が近付くと日本兵はトンネルの中を這って移動し、反対側から丘の上に出て来て撃ってきました。

Q:戦うのは仕事だった、と言われましたが、最初に敵を殺さなければならなかったときにはつらくなかったですか?

今考えると、当時の私の担当は、半分が迫撃砲班で、夜になると歩兵でした。日中は、迫撃砲班は歩兵の真後ろに陣取って移動します。歩兵に何かあった場合に後方からサポートするためです。夜間に移動することもあったので、1日の半分の時間は、迫撃砲班には誰が標的なのか見えませんでした。
ときには敵が集団でやって来る場合もありました。その場合は当然前に向けて撃つので、相手が見えます。
ひたすら生き延びるための戦いでした。
歩兵たちがどう感じていたかは分かりません。もし私が彼らの立場で、毎日前線に移動し、そこで目につく者を誰でも撃ち殺していたとしたらどう感じていたか、分からないです。さっきも言ったように、私たちの撃ち方は・・・夜、前線に移動し、塹壕に入ります。そして、敵に遭遇したり攻撃されたり、あるいは誰かがこっちに近づいて来たりしないようにとひたすら願うのです。

年端もいかない若者だった私にとって、誰の命も尊かったです。さっきも言ったように私は迫撃砲班に所属していたので、ライフル銃兵(歩兵)たちがどう感じていたのかは知りません。ライフル分隊は・・・私たちは半分は、迫撃砲で誰を殺したのか分からなかったです。
つまり彼ら(歩兵)は、丘の上で狙撃されると、私たちに指示を出します。(それに応じて)私たちは砲本体を設置し、射距離と標的までの距離をテストするために一発撃ち込みます。そしてしばらく待ち、射角を正します。3つの迫撃砲が発射の準備を整えます。その各々がそれぞれの射距離で連続して20発撃ちます。
各砲がおよそ20発ずつ撃つわけです。発射するたびに、回転させて位置を修正し、少し角度を落として次の発射、そして修正し、発射を続けます。そして丘の上では銃声がブーン、ブーン、ブーンと響いています。いったい誰を撃ったのか、絶対に分かりません。その地点を制圧し、兵士の死体を見るまでは。

彼ら(日本兵)は暗闇の中に出て来て「ケイマン、ケイマン、ケイマン」と呼ぶんです。私たちの衛生兵の意味です。「衛生兵」と呼ぶと衛生兵が出て来ることを彼らは学んでいました。だから夜中に「ケイマン、ケイマン」と叫んで、私たちの居場所を特定しようとしました。
(私たちは)自分の居場所は絶対に知られたくありません。日本兵が米兵のタコツボ(1人用の塹壕)につまづいて落ちそうになったこともあります。でも米兵は、自分のタコツボに落ちて来るまでは撃ちません。「日本兵がここまで来るなら、勝手に来させろ。自分のタコツボの中に入ってきたら、しかたがない」。そこが狙撃するギリギリの線です。
夜、彼らの声を聞いたものでした。心理的には・・・あの夜のことを覚えています。日中と同じようにはっきりと。「Marine you die(海兵隊、お前は死ね)marine you die」と彼らが藪(やぶ)の中から言う声が聞こえるのです。私たちを挑発し、発砲させようとしているのは分かっていました。
誰も発砲しませんでした。同じ夜、彼らは「ケイマン、ケイマン」と言う言葉を使いました。彼らがどこか近くにいて、私たちの居場所を見つけようとしていることは分かっていました。

(降伏して壕から出てくれば)たくさんの日本人が死なずに済んだと思います。実は私も、我が軍が日本兵を壕から出て来させようとしていたときにちょっとの間そこにいました。日本語のできる通訳がハンドマイクで10分から15分語り続け、延々と説得を続けて出てこさせようとしました。でも日本兵は出て来ませんでした。そこで梱(こん)包爆薬と呼ばれる爆発物が投げ込まれました。
悲惨でした。私たちは、「出て来さえすれば捕虜として扱ったのに」とよく語り合ったものでした。一部の(日本人)兵士だけが最後には投降し、捕虜となりました。そしてその多くが生き延びたはずです。しかし、一般市民も、そして兵士も自決しました。そんなことは私にはとても出来ません。手りゅう弾を突き付けられても、私は生きたかったのです。

Q:(日本軍を追い詰めた)沖縄南部で更なる攻撃を仕掛ける必要はあったと思いますか?

難しい質問です。あんな状況でも日本人は勝てる望みがまだあると思っていたのでしょうか。彼らの動きを見ていると降伏することは不名誉なことだったのかも知れません。よく分かりませんが、アメリカ人は悪い人たちだと思い込むようなつらい体験があったのかもしれません。それにしても女性たちが崖(がけ)から海に身を投げるなんて、とても胸が痛みます。その当時ですら、私は女性に敬意を払っていました。だから投降してくるなら、私は納得しましたし、彼女たちの身の安全を確保したはずです。子持ちの女性たちもいましたし、残された子どもたちを見ると、とてもつらかったです。
降伏しないなら沖縄の端まで戦い続けるしかありませんでしたし、彼らは実際そうしたのでした。

Q:つまり、沖縄南部での戦闘がなければ大勢の日本人とアメリカ人が生き延びられたと信じているのですか?

その通り。具体的な事例は知りませんが、双方でたくさんの人々が生き残ることができたはずです。元日本兵の意見も聞いてみたらよいでしょう。もう聞いてみましたか?恐らく彼らは違う意見でしょう。ですが、彼らには生きるチャンスがありました。でも彼らは穴から出て来ませんでしょう。丘の下の壕の内部には一体何人いたのでしょう。

話したことがあったでしょうか。グアムに上陸する前に、ある大佐がいました。グアムのことを話すのは、あそこが私にとっては最悪だったからです。彼は私たちにはっきりこう言いました。「捕虜になるな」。それから「私は、捕虜は欲しくない」と。
覚えています。でも私たちは、捕虜になったら殺されると思っていました。捕虜になって生き延びた者がいるのかどうか、私には分かりません。しかしあの言葉を良く覚えています。大佐が、「捕虜になるな」と言ったとき、恐怖感を感じました。そして彼は、それから私は、「捕虜は欲しくない」と言ったのです。でも多少は捕虜を捕らえました。さっきも言ったように、彼らをガダルカナルに連れ戻して働かせているのを見たからです。
捕虜になった日本兵は誰も、幸せでした。捕まって食べさせてもらうことが、撃ち殺されるより悪いっていうことはないでしょう?彼らは我が軍から支給された服を着ていて、ジャケットには白で「P」(捕虜という意味)の文字が書かれていました。私は日本語が分かりませんでしたが、できれば話しかけたかったです。

日本兵は夜、長い棒を取り出し、それに銃剣をくくり付けるのです。そして私たちのいる場所の目と鼻の先を匍匐(ほふく)する。その音が聞こえました。そうこうするうちに、連中の何人かが、夜、匍匐している日本兵と鉢合わせになったこともありました。
私はよく言ったものでした。「暗い中を出て行くなんて、よっぽど度胸があるのだろう」と。感情はあるはずなのに。

つまり、怖いものは無いのか、ということです。彼らだって恐怖心はあるはずです。
今になって分かったのですが、彼らは死ぬことを恐れていなかったんじゃないでしょうか。話し合ったことはないから分からないですが。彼らは私と同じように人生を大切に考えていたのでしょうか。私は、死にたくなかったです。また家に帰りたかったです。それに多くの戦友は、帰還を果たせなかったのです。だが人は皆、違う感じ方をするものです。

私が従軍していた当時の日本兵と語り合い、どんな気持ちだったかを聞いてみたいものだと今でも思っています。単に仕事としてやっていたのか、それとも憎しみだったのか。
戦争中を通じて私は一度も憎しみを抱いたことはありません。そういうふうには育てられてないですから。犬にだって哀れみを持って接し、追い回して蹴り上げたりしたことはありません。犬がこちらを咬んだのでなければ、たたいたりしません。それが人間というものでしょう。相手が撃って来なければ、撃ち殺したりはしません。

彼らは、彼らの将校の命令に従っただけですし、私は、私の将校の命令に従いました。新兵だった私たちはある意味で、洗脳されていました。海兵隊では、命令に従う訓練を徹底的におこないます。来る日も来る日も。右へならえ、左へならえ、右へならえ、後ろ向け後ろ・・・質問することさえ許されません。

グアムの話に戻すと、グアムのビーチはなんと、火の海でした。上陸用舟艇が爆破され、小さなビーチにたどり着いたとき、そこには将校がいて、「上陸せよ」、と言いました。ですが彼は私たちの上官ではなかったので、誰も動こうとしませんでした。そしたら私たちの上官である軍曹が「さあ、行こう」と言いました。そうしたらみんな一斉に立ちあがりました。そういうものなのです。上官の命令に従うことを植えつけられているんのです。
「行け」と言われたら、みんなが立ちあがって歩き出します。今なら「いや。私は動かない」と言うでしょう。私はこの壁の後ろに留まる、と。しかし、当時は若造だったから。だから日本兵も、将校に言われたことを何でもしたのだと思います。武器の多い方が、弾薬の多い方が、兵隊の数が多い方が、少ないほうに勝ちました。それだけです。私に分かることは、多くの人命が失われたということだけです。悲しいです。

Q:レパントさん、まだ悪い夢を見ますか?

あまり見ませんが、2、3回あります。心臓切開手術を受けたとき、手術の前夜に悪夢をたくさん見ました。今悪夢を見るとしたら、グアム上陸のビデオを持っているのですが、それを見ると怖くなります。今こうして話していても、少し怖いです。(あのころの光景が)リアルによみがえって来るのです。
日本でもあるかもしれませんが、ここでは7月4日に花火大会があります。何年も近くに行けませんでした。今でも、花火を打ち上げる場所の近くに行くと、頭上のブーン、ブーン、ブーンという音がとても気にかかります。今では少し和らぎましたが、いつでもそういうふうです。
誰にもそんなことが起こるべきじゃない。フェアーじゃない。私は人生の大事な3年間を失いました。そのことを今考えると、ちょっと動揺します。もっと激しく反応する人もいるでしょう。だけど悪夢はそんなに見ません。悪い夢などに苦しめられるには、もっと本当にひどい目に遭わなければならないのでしょう。

興味深いのは、もし、正しいことなのだからやれと上から命じられなかったら、個人として、私たちは果たして、やったでしょうか。あのころは、そうすることが正しいことでした。平均年齢が何歳ぐらいだったのかは知りませんが、私の部隊では、年配者はとても少なかったです。ほとんどが10代から20代でした。年配の者はほとんどいませんでした。
そこで私たちは何をしていたのでしょうか。今、考えなければなりません。他の国でもそういうことが起こりうるのでしょうか。もう一度同じ立場に立たされたら、また同じことをするかどうか、私には分かりません。

今の若者が同じことをするかどうか、私には分かりません。自宅の周りを見回してみると、彼らが考えていることと言ったら、バスケ、バスケだ。私にはそんなチャンスはありませんでした。
今日の若者はこれがどういう事なのか分からないのでしょう。高校を出てきて、女の子とデートしたり、フットボールの試合やバスケットボールの試合がいちばんだったのに、一夜で大人にならなければいけなかったんですから、きつかったです。

戦争はどれも人命の無駄遣いです。それに、おかしくないですか?日本人は私の敵だったのに、今では兄弟みたいに思っているんです。一緒にいても、他の誰かと一緒にいるのと同じくらいくつろげるのです。日本人だって、再会すれば他の誰かと一緒にいるときみたいに感じるんじゃないかと思うのです。

よく分からないけど。誰が勝ったのか、そもそも誰かが勝ったのか、私には分かりません。失われた命の多さを思うと、戦争は本当に必要だったのかと思います。今でも分からないのです。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦と米海兵隊員】

出来事の背景 写真80日間あまりの戦闘で、日米合わせて20万人の命が失われた「沖縄戦」。その半数近くは沖縄の住民である。一方、米軍側の死者は1万2500人余り、負傷者は7万人以上に上ったと言われている。

米軍は、昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸。本島北部を早期に制圧した米軍は、その後司令部のある首里北側の防衛線で日本軍と激突し、激しい戦闘を繰り広げた。上陸した米軍のうち、最も苛烈な戦闘に関わったのが第6海兵師団である。そのうち、最大の激戦地・那覇市真嘉比(「シュガーローフ」の丘)での1週間に及んだ戦闘では、240人の中隊のうち半数が死傷した第22連隊第3大隊L中隊の元海兵隊員が、その激戦の様子や、民間人と日本兵の区別なく攻撃を加えた本島南部での掃討戦などについて証言する。彼らの証言からは、日本兵捕虜の殺害、米兵による婦女暴行などが起きていたことがわかる。

一方、米軍側では「戦闘疲労症」によって多数の兵士が精神的な障害を負ったことが記録されている。さらに、沖縄戦での体験が、海兵隊員たちのその後の人生に深い傷を残したことも証言からうかがえる。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
アメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれる
1943年
海兵隊に入隊、第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊に所属
1944年
グアムの戦いに従軍
1945年
沖縄戦
 
中国・青島にて終戦を迎える
1946年
アメリカへ帰還
 
建設重機の整備士となる

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