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タイトルタイトル: 「亡き息子を思い続ける」 番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
名前名前: 新垣 ハルさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・読谷)  収録年月日収録年月日: 2012年5月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 ガマ(洞窟)での避難生活  08:07
[2]2 チャプター2 収容所  09:02
[3]3 チャプター3 米軍基地での仕事  08:14
[4]4 チャプター4 宮森小学校米軍機墜落事故  07:05
[5]5 チャプター5 やけどの後遺症  08:35
[6]6 チャプター6 息子のことを思い続ける人生  11:00

チャプター

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番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
収録年月日収録年月日: 2012年5月18日

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10月の10日の空襲はすぐ空襲警報発令が来たから、飛行場のところ見たからB29(実際は、空母艦載機)がばんない(たくさん)しているわけよ。本当の空襲が始まっているんだと思って。自分のめいっこが来ていたわけ、おうちに小さいときに、3歳のときに。3歳のめいっこは遠くに離れているわけよ、おうちが。私のお父さんが「早くおうちに連れていきなさい、おうちまで早く連れていきなさい」といって、この子を連れていくときに、弾がばんないしてくるわけ。木の下で隠れてからに、これようやくつけておいて、このお母さんの前に置いてきて、私は帰ってきたわけよ。これがあんまりパンパンはしないわけよ。あっち飛行場はあれでしたから。それで、おうちに帰ってきてからは、その翌日からは、壕(ごう)に入った。4月の1日に空襲(米軍上陸)でしょ。そのあとからは、自分の壕に・・・空襲警報が始まったら、自分のおうちに壕を掘ろうかねと思っていたんだけどそのスペースがないさ。すぐ自分のうふ(大きい)ガマに行って、また解除になったら出てきて、イモ探しに行ったりそういう感じ。

Q:そうすると、昭和19年10月10日の空襲から、翌年の4月1日まで。

違う。その間に、また空襲はちょっと途切れてから、そのときからは。しょっちゅう、ちょっとだけは途切れていた。その後から空襲警報が入ってくるときはもう(B)29は、10月10日から1か月ぐらい途切れていたかね。して、B29が攻撃してくるときからはもう、あんまりおうちにはいなかったよ、すぐ壕に行って、もうこれがばんない始まって19年からは全然おうちには帰られない。19年。20年からはおうちも焼かれているさ。全部。あとおうちもないからひとところに、一か所のところに、私たちの家庭とお姉さんたちの家庭といとこの家庭とうちのおやじのめいっこの家族とこれだけ、4家族だったかなひと所にいたわけよ。みんなおうちには帰らないで。

Q:ガマの中で何がいちばんつらかったですか。

ガマの中でいちばんつらいのはなにもできないさ、寝たきりだから。汚れもするし、なにもできないし外に出ようとしても出られないし。いちばん子供のお母さんがかわいそうだったわけよ。子供が泣くときは、泣かせたらだめ。なにかあれしなさいと口にはさんでおきなさいとか、言う年寄りもいたわけよ。私たちは子供はいないから自分一人さ、みんなお父さんお母さんも元気だから。ただきついなと、もう浴びられもしないしごはんもないし、またシラミというのそれもわいてくるし、これがいちばんダメだった。壕に入っているときは。

朝から晩までこの壕に閉じ込められるさ。どこも出られないから、今度は夜になるさ。ランプもない真っ暗。この兵隊も歩かないうちにイモも、くわもないさ、棒かなんかであさって行きよったんだけれども。帰ろうかねと思ったときに、こっちから船は見えるさ。あっちの海はおうちもないから。あっちから照明弾というの飛んできたから、あっちから見ているよ。すぐおうちに行くときに逃げていくとき、馬なんか牛なんか全部逃げて行きよったわけよ。一人はあんたくらいのにいにい(お兄さん)がいたんだけどこれは、今どきは誰もいないでおうちに誰もいないで。馬が見たら追ってくるから早くあんたがたは帰りなさいとにいにいが言って私は早く帰ったんだけど、このにいにいより先になって。そのとき、壕に入っているときよ。出てきてからはあっちから出されるさ、壕から。「出てこい出てこい、殺しはしない出てこい」って。一斉に出たくはないんだけど、殺されたら大変だと思って、出るさ。私の考えでは南部よりはよかったよ。もしもあんなにしていたら、私の考え、こっちの中に一人が全部ね、一緒に自殺したらどうですか・・・。またいたずらもするというから、殺されるより一緒に死のうという人がいたならば、自決していたかもしれないと私は今では考えていたよ。あんまりそういうあれはなかったから、よかったわけ。自分で、あっちはもう自決した聞くさね。私だったら、向こうのように激しい戦争があったら、これたちに捕まえられて強姦(ごうかん)されたり、いじめられたりするより自分で死んだほうがましだ。この中に一人でもみなさん一緒に死にましょうといっていたならば死んでいたかもしれないよと思う、あっちのこと考えると。そう思っているよ前からそう思っていたんだけどそういう話はできないさ。誰にも。

Q:ハルさんはそのときどう思いましたか。収容所に入れられるっていうのは。

初めてだから、収容所といっても私の考えは今の収容所があるさ、警察に入れられている人がいるさ。私たちのところは、収容所といってもひとところに収容されているんだけれど、こっちはみんバラ線だけ張られているわけ。出ようと思ったら出られたわけよ。収容所というのはこういうものかなとただそれだけしか思ってなかったんですよ。行ったり入ったりは出来るから。夜はもう電気もないから苦しかったんだけれど、この収容所というのは今の収容所だったら大変さ。終戦当時の収容所というのはバラ線だから。バラ線ってわかる? ただあれだけで囲われているんだから、出ようと思ったら出れよったんだけれども。これはアメリカが連れてきているからお母さんは金武にいるさ、わった(私たち)は、おイモとりに行って、収容所入れられてるから。それとりに来ているから。そのときは、収容されている所から何キロまでが歩きなさいという規則があったみたい。これより何キロから越していたんじゃないですか。私たちは金武から逆に行ってるから。金武から。してこの金武で、アメリカのGMCの大きなトラックがあったでしょ、これを拾い車していったわけよ、時々は。時々はイモを拾いかついできよったんだけれど。止めもしないのにこの外人は止めよったわけよ、私たち見て。早く乗ろうといって乗ったから石川収容所まで入れられたわけさ。

こっちからいも掘って壕に入ろうとした、いったん一休み上でしていたんですよ、おじいちゃんたちと一緒に。こっちで休んでいるときにアメリカが上陸したらアメリカはヒーザーミーといってヤギの目のようにして眼は見えないってよ。すぐどこにしても大変だってよ。この話しているとき、私のこっちからすぐ、スーッて行ったわけよ照明弾。私はそのとき、運が良かったなと思っていたよ。シューッて聞こえたわけよ。あっちにすぐ落ちてボンしよった。私たちがダムに行く道があるさ。あっちの川があるでしょ。あっちに落ちていたよ。こっちから飛んで。壕はこっちさ壕の上に座っているから。そういうことはあった。

Q:怖かったですか。

怖かったよ。うーと言ってすぐしゃがみこんで。しゃがんだけど、すぐあっちに行って、燃えてた。照明弾小さいのだったはず、艦砲射撃というのはよ、あっちのほうから撃っているから。あっちらへんは大変だったらしいよ。親は亡くなっている、だけどこっちからほうって歩く子どもたちもいたというから。これ聞いたらもう大変だったはずと思う。こっちはあんまり戦争は激しくなかったよ。こっちの長浜もよ。

それはただの、私の考えでは戦というのは前から聞いていたから家も無くなるってよ、また何は無くなるってよ、焼いてしまうってよと言っていたから、あんまり気にしてはいなかったよ。思い通りだねとしか考えていなかった。おうちなんかも焼かれている所よ。もう残念ではあるさ。誰も家が無くなるということは。だけどもこれは住めないし、今からはどうしていくかねと思っていたんだけど。うちの姉さんたちが一軒家はそのままあったわけよ。いちばん上の姉さん。その姉さんたちに一緒に暮らして。あっちから石川の収容所に行ったわけよ、全部。公民館から。あっちにいってから、金武から、石川から漢那に行って。石川はおうちがなかったわけよ。石川行ってるんだけど、金武といわれて車に乗せられて金武に行って、金武はまた飛行場つくるから、そっちから漢那に行かされて。漢那からは、親戚はみんな私たちは石川にはなくて住めないで。親戚は全部石川にいるわけよ。わったは漢那いるさね。夜逃げてきたよ山登ってからに。そこ友軍の兵隊があっちこっち亡くなっているの見たよ。怖くはなかった。そこ降りてきたのは漢那から山越に降りてきたところが、安富祖(恩納村)いったかな、あっちらへんになっているみたいだよ。

おうちから日本軍が座喜味の下のところの川沿いにちょっとむこうに壕があったわけ。こっち自分たちが食べるの探しに行く途中に、田んぼに友軍が倒れて死んでいるわけよ。腐敗が近くなっていたはず。真赤にしてちょうど鉄のように赤くなっていたからそれをただ見て。自分たちは命を助けないといけないというあれで。食事はないさ。とりに一生懸命行ったんだけどよ、これがどうなったかこれもわからん。この友軍の遺体も。この人見て1週間後に疎開させられたから。これがどうなったかわからん。あっちから来るときはこれとは反対よ、これを長浜のいたときに見たもの。また山に行くときに、こっちらへんに倒れているのは終戦なって、みんなご飯はないんだけどおうちに、戦もないから家族そろって暮らしているから、これは石川に行かないといって、石川に行くときに山越えてこれは、あっちにいるときの話。赤くなっているというのは長浜にいっときいたときの話。

Q:死体を見るのが日常化していたってことですか。

そう。日常化していたよ。自分だけ考えていたわけさ、そのときは。命だけ助かればいいと思って。

嘉手納部隊と・・・にも部隊があったから。晃が事故にあったときは嘉手納の炊事、メッソール(兵隊食堂)というところにいた。あっちから。

Q:ハルさんね、嘉手納基地で働くようになったのは何歳のときですか。

むこうには、戦争当時18歳からしているから、これが生まれる前だから20ぐらいじゃないかな。いちいち留めてあるけど、ただ留めればいいと留めてあるんだけど、いつかみたら思い出すかと思って。

Q:嘉手納基地ではどのような仕事をしてたんですか。

ウエイトレス。ウエイトレス、その仕事して、どこにいってもその仕事。

Q:大変でしたか、仕事。

大変というよりも楽しいことでもあったよ。今日、シズさんという方も一緒にメッソールだったんだけれどよ。あれは、私より後に入ってきてお兄ちゃんがいたからあれを誘って入ってわけ。子どもおったりして。

ウエイトレスというよりハウスメイド。ハウスメイドもしていたわけ、キャプテン(将校)の。この人たちがゴーホーム(帰国)したから、労働事務所があったでしょ、にいって向こうではテストというより、テストを1つやってみましょうねって、S、O、Pて英字が私読みきれたので読んだから。これは出来るなということでこれに採用されたわけ。炊事に。それから2、3年あっちに勤めて。晃がけがする前はあっち。

Q:晃さんのお父さんはどういう人なんですか。

これは私が炊事にいるとき、知りあった兵隊。これはあたし話したわけ、あんたのお父さんはアメリカにゴーホームしたよということは。今でいうハーフというの。それだったわけ。これはわたしはちゃんと住所持ってたから。これに見せて、私はね、学校もどこも終わってからこのお父さん探しにいくということだったわけよ。ただ、しない前に亡くなってるさ。

晃? これ晃。これ3歳のとき。3歳。これが何の誕生日だったかな、これが1年生だったはず。こっちはピクニックに行ってる写真。これ。こっちも。

Q:ハルさんも写っているんですか。

私は仕事でこれお姉さん。こっちもあけて、たくさんあるよ。これも。あの、あれ、800メ一ター優勝してある写真もあるよ。これだったかな。これ琉大(琉球大学)時分の写真。ね? これあの、長距離ランナーだったから。これさ。晃は。これと、上は又、うん、これ。駅伝にも行った。陸上部。

2歳から、これがまだおっぱい離れはしてなかったね、そのときから仕事あるいた。これを育てないといけないさ。おっぱいが腫れてたときは自分で便所行って出して今泣いているはずなと思っていたけれど。これが出来たのは、まだ仕事出ていないさね。出来てからは。これが乳離れしてからが仕事歩いているから、これが3歳のときに家庭にいたわけよ。この奥さんたちが戻っていくというわけよ。人にもらわす人がいるねって。子供産んでから・・・「出来ませんですよ」って言うたんだけどね。あっちはベイシーと言って、これと同じ子がいたわけ。その奥さんがいつも晃ちゃんつれておいでおいでって言ってました。私はあっちに住み込み。1週間に1回しか見れないさ。おばあさんたちが見てお姉さんたちが見て。土曜日曜は連れていけたわけよ。2人は話し分かるか分からないか分からないんだけど、ベイシーは英語するさ、これは分からないさ。晃はわからないさ。車にのるときも交替交替乗るわけよ。なんで言葉わかるのかねと思うくらいだったよ。それはアメリカの・・・させていたわけよ。

Q:晃君が小学校上がるまで、かわいかったですか。大変?

かわいかったよ。

Q:晃さんの小学校上がるまでの中で、いちばんかわいかったなっていう思い出がありますか。

これが学校から帰ってくる「フクちゃんうんうん」というあれがあったわけよ、それを歌いながら帰ってくるときがかわいかった。分かる?

Q:その声を聞くとどう思いましたか。

いまでもよ、これの歌謡曲、いちばん好きな「くちなしの花」といって、誰が歌っていたか、あれが好きみたいだった。いつも歌っていたよ。

仕事。仕事だった。炊事だった。サージャン(軍曹)という方が教えてもらって、事故当時、その日、6月30日の10時ごろ、あっちから連絡があったわけよ。で、みんなひとところに石川の人は集められて、炊事の方が連れてきたわけよ。これが事故のところ、6月30日の日。来ても分からないさ、どこにいるか探しようもない。これから、壊れているんだよ体。

Q:なんて最初に連絡があったんですか。

最初? 勤めているさね炊事に、ちょうどお昼時間だから、私たちもホールに降りてきて兵隊も全部ご飯食べにくるじゃない。それを、いちばん最初に入ってきたサージャンが宮森小に今日ジェット機が落ちましたよということを知らしているわけ、マネージャーという人に。炊事係のいちばんに。ホールいっぱいに流れているさ、落ちているよということ、して、そのサージャンにみんな行って「けが人もいますか死亡者もいますか」と尋ねたら、「今は分らない」ということだったわけ。それわからなかったら、全部行かないといけないさ。自分の子供あっちにしてるから、それで全部行ったわけよ。あっち行った時期が、もう、学校もどこにあるかもわからないさ。子どもたちの校舎も。子どもたちが勉強した校舎はないさ。どこにいるかぜんぜん分からなかった。探しても探しても見えないさ。中部病院に連れっててるということで、向こう行っても探しきれなかった。探されなくってそれを人に尋ねたら、ヘリコプターで軍病院に送られましたよということで、向こうに行って面会しに。今は、軍病院は、北谷にないみたいね。桑江にね。

Q:面会して晃君は。

面会は謝絶。あんまり50%だったから。全部、頭から全部。こっちはみんなケロイド、ブツブツで。顔は爆風でただ赤くなってるだけだった。真赤。面会謝絶はよ1週間ぐらいだったはずよ。行って戻って、面会しに行って、会わなくて戻って。面会できますよって連絡が入ったから、面会しにいったわけ。そのときからは自分の子どもとも思わなかったよ。やぎさんがすぐ焼けているみたいでこんなしてよ。どこがどこだったかわからなかったよ。それを思い出せばよ大変である。「かあちゃん」とも言いきれなかったよ。「かあちゃんだよ」といっても全然目も開けないさ。
それから3か月間は入院させて、退院するときにこっちはあっちで治療しているからちょっと良くなっていると思っていたんだけど、顔が真っ赤だったわけ。退院させてきてひもじかったから、食堂に入ろうねって、コザかどこかの食堂だったかね、むこうで2人入って、私から離れないで隠れるわけよ。顔は赤いさ、見られたくなかったんじゃないこの顔。真赤だったから。なんであんたは恥ずかしくはないさ、これは事故のあれでこんなにしているからみんながなんとか言ったら母ちゃんが言葉返してあれするから、いいさこっちに座っておきなさいといっても、ご飯は食べなかったよ、恥ずかしくて。真赤。顔よ、アメリカのよ、何病院だったかな。那覇の所にあった何病院だったかな。中学なっても自分のこれは、こっちは一応はこっちから肉とってこんなって手術したんだけど残るさ、ケロイドが。いつも長そで着けていた。見られなかったよ。そのところ思いだしたらよ。大変である。「どうもしてないよ、顔はきれいになっているよ」というたらよ、私のハンドバッグから鏡とって自分の顔見て泣いていたよ。そういう顔なのにと思っていたはず。

Q:大学に入って、その後晃さんはどうなったんですか。

大学入って。病気しているさね。

Q:病気? 健康だったんじゃないんですか。

あっちにはいるときよ。2年になってからは、相当こっちにケロイドが残っているから、長距離ランナーじゃないですか晃は。だから、歩いてきてめまいすると言って休んでるみたい。受け持ちの先生があんたはこんな大きな1メートル80くらいあったわけよ。こんな大きな体にめまいするんだったら何か異常があるはずだから病院行ってきなさいと行かされて。すぐ病院に行っておうちに来ていたわけよ。那覇の琉生病院というところがあったから。あっちに行ってあっちから、たんぱくがいくらか出ているよ、あんた入院の必要があるよと言われたみたいでおうちに帰ってきてそう言っていたから、どこの病院行ってきたら琉生病院って。そこには私のめいっ子がいるから看護婦で。かずこ叔母さんはなんて言ってたかと言ったら、今部屋がないから探しておくからおうちに帰ってねと帰されたというわけ。そしたら病気であるわけよ。病気の診断、最後には琉生病院から退院させて中部病院に入院させたわけ。中部病院の先生は、「晃君は小さいときに病気なされたんですか」言っていましたので、「病気なんかしてませんよ。2年生のときにジェット機墜落、50%焼けていましたので」と言ったから。これは長距離ランナーもしているという話も聞いているから「こっちから汗が出なくて、内臓に来ているんですよお母さん」とおっしゃったわけよ。腎臓。

中部病院から入院させたさ。診察したから、「こっちから汗が出なくて内臓にきていますよ。これは内臓壊してます、腎臓にきています。これは後遺症ですよ」と。ジェット機墜落の。やけどしているさ。後遺症が来てますよと教わったから。

Q:お母さん、それを聞いたときどう思いましたか。 

後遺症と言ったから。

私はこのケロイドから汗が出ないといったから内臓に来ているんだなと直感した。汗は出るところが出ないさ。中に入って腎臓も大変さ。働かせといて。これに私はそう思っていたよ。こっちから汗が出ないとおっしゃっていたから内臓に来ているんだと思って。おうちに連れてきて一緒に、血圧が上がって、かあちゃん、こっちに泥棒が入っているみたい、だれもいないよ。血圧が上がったからそのせいだったんじゃない。すぐ救急呼んで入院させたわけ。

Q:ハルさんは晃さんをどうやって看取ったんですか。

看取ったということ。これは、私が来るまではものは言わなくなっていた。首里から帰って、これのことしに行ってるんだけど。私が行くまでは元気よ。朝、かあちゃんは今日は首里に願いごとしに行くから。私も行くかと言ったから、いやあんたは行かなくてもいい母ちゃん一人行くから。行ってくるまではもの言わなかったてば。それで亡くなったすぐ。

Q:最後言葉は交わせましたか。

ううん。交わさない。来るまでにもの言わないのに。だからこれが残念であるわけよ。行かなかったら良かったのにねと思っているわけよ。後悔している。

宮森小学校ジェット機墜落、1959年6月30日午前10時半頃、米軍ジェット機が石川市、市立宮森小学校に墜落し、炎上。児童生徒含め、7人の死亡、200人あまりが重軽傷を負った。小学校の3教室が全焼、周辺の住宅や公民館も焼けた。晃重傷、小学校2年生だった。どうしても忘れる事が出来ない。後遺症のため死亡。
「なしわ失なてぬ・・・」これ琉歌「なしわ失なてぬ、あとぬくりしさや、いちんちくさらん、なびだびけ」、言うても苦しくて、出るのはただ涙だけと書いたわけ。これ「我がんにぬくりしさや」分かる? 私の胸の苦しさ。「ゆすにかたららん」私の胸の苦しさは人には伝えきれないということ。それで「さやかてるつち」と言ったら、お月様。あれがきれいに。「さやかてるつち、んかて泣っさ」ということ。晃を送り出して、「我がなしなしわ」私のかわいい子ども、「くぬゆこれすてて」この世を捨てて、「ぬくてるわみや」残っている私、「いちんやがすゆら」どうして生きていけますか、という歌。そしてそのあと「ひとりさびさびと」1人寂しくてお月様見るさね。「なしがうむかげぬ」子どもの面影。「わしりぐりさ」忘れられないって。そういうことを書いた。

「なしわ失なてぬ、あとぬ苦しさや、いちんちくさらん、なみだびけ
我が胸ぬ苦しさ、ゆすにかたららん、さやかてる月に、んかて泣っさ
我がなしなしわ、此の世ふりしてて、残て居るわみや、いちんやがすゆら
一人さびさびと、月ゆながみりば、なしわうみかじや、わしりぐりさ」

これ分かるか、私の苦しさ。

Q:ハルさんは晃さんに最後何を伝えたんですか。

だから、皆は大学卒業していくのに、あなたはこの世を卒業していくのかと言って、これを言ったわけ。晃に。この世を卒業していくさ。みんなは大学を卒業していって、あんた1人はこの世を卒業していくのかという意味。この世を捨てていくんだということで。

Q:ハルさんね、そこに座ってね、こうやって朝晩話しかけていると思うんですけれど。どういうことを話すんですか。

毎日な? 私は毎日私が話しかけるのは、どこどこに行きますよ、留守番してくださいねって。行く途中、車も気をつけさせて元気でさせてもらいますようにと言って。それだけいつも願うのは。あなたのため世間の人たちが母さんをよくしてくれているから、世間の人も見守って、シキノマチモチュっていうの分かるでしょ。
その人たちも元気にさせて、お母さんと一緒にお友達させてちょうだねと言って、こういうことは言うよ。あんた方が来ているのも。どこどこから来ているんだけれど、お友達するよということを。またQABのナツコさん(取材で新垣さんのもとを訪れていた琉球朝日放送のディレクター島袋夏子さんのこと)たちが来る時もQABのナツコさんという方が来ていましたよということ。また先生が豊浜さん(豊浜光輝さん、石川・宮森630会会長)もいつもいらっしゃること豊浜さんというて。豊浜さんという方は宮森校の630の会長さんになっていらっしゃるよって・・・出して。そんなことを・・自分のするの。話しかける。写真見てよ。写真も位牌も見て話しかけている。

それもあれだ、二次被害受けても戦争は皆の、これはもうあれだけど、また、このジェット機の墜落に遭ったのも、これはもう、あの、あれさ、自分の、なんかあの、もう、運命にアレした、しないと、生きられないかねと思う、これさ。もう、あの、いつまでもくよくよして、はーもう、こんなにしてもう、一人でこんなに、これはあの、こうして、ぐずぐずして暮らすより、もうあっさり自分の運命だねと言って諦めた方がいいんじゃない?

Q:あきらめきれますか。

諦めないとあれさ。これは最後までひとつの病気だよ、私は、晃がいないのは。そうだよ。そうだけど、もういつまでもこれのことを思って、もう、病気さ、ひとつの。苦しいのは。だけど、そんなにしては生きられない、自分のことを考えないといけないさ、先のこと。私もいつかは会えるんだけど、自分のがあの、元気なうちは、これは誰がするから。うーとーとー(供養)なんかも。いつかはあんたのところに来るから今はとっても元気さしてもらいなさいよと言ってるから。いつもくよくよしていたらダメさ。「いつかはあんたのところに来るから、それまでは見守ってちょうだいね」と言ってるよ。どう思う? あんたはどうして考える? 私だったらもう、あの、いつまでも、思わないと言うことはないよ。自分一人するとき、枕濡らすときもあるよ。本当に。人の前では毎日は泣かれないさ。人の前に行って、・・・いつも涙垂らされないさ。これは、すると、皆の所ではいつもハキハキしないといけないさ。相手にしても、あの、無礼なるし。そういう考えだよ、私は。自分一人なると孤独になるよ。枕濡らすこともあるよ。毎日は、人の前で泣いたりわめいたりは見せられないさ。
自分一人、あの、これは忘れたことないよ。一生涯の病気。自分の、胸を締めるのは。だけど皆の前ですぐ言ったり、お話したり、おだきしたりしても、人の前で泣き顔は出来ないさ。わかる? それで、自分は自分のこと考えないと皆から反対されるさ、「この人はいつもああさー」って、お友達もできないよ。あっさりして、何かも、この話したら、ああ、このハルさんは使えもできるねーと言ってくる人もいるはずかもしれない、自分では言いきれないんだけど、ね。自分一人なったら孤独だよ。テレビ見ても、あの、何かあったら泣くわけ、一人で。しかしこれの反対、人の前では泣き声は見せたくない。それだけです。私はあの、忘れたことはないよ、全然。毎朝拝んでるから。毎日見てるから。あんたはいつも母ちゃんのそばにいるから私は寂しくないよと言うこともあるよ。どこに行っても、あの、どこに行くときも母ちゃんのそばから離れないでよ、見守ってよと言ってるから、そうだから、晃のこと忘れたことはない。

今、生きていたら、子供もいるし孫さんもいるさ。どういうふうに変わっていたかなと思う。おうちも作っていたはずだけどね。そういう自分の人生も変わっていたはずだけどねと時々は言う。晃に向かってからによ。戦争ということはあんまり私は苦しいということはしなかったんだけど、自分が苦しいのは晃を失ったとき。いつも時々は、あんたがたにはすまないけれど、爆弾はあっちこっちに落ちて皆死ねばいいのにと思ったくらいだったよ。それくらい思ってたよ。みんないなければ。そのあとは、晃一人でいいから、ジェット機墜落もこれ一人でいいからどこにも落とさないようにね、ということはいつも願っていたよ。しかし、あっち(沖縄国際大学)に落ちたさ。これがいちばん悔しかった。

うん、忘れたことない。いっときでも忘れたことない。あんたがた帰るときもうーとーとーして「見守ってちょうだいねえ」と言うのも、これを思い出すからじゃない?あんたは神様なっているからというのも、言うんだよ。私たちがあれだから、神様なってるから、みんな見守ってちょうだいよと言うんだよ。これでいいんじゃない? ね? あんたがあれしたら、まあ、このまま出しても良いじゃん? 再体験は。大変だが。忘れたということしたら、これ、またあんた見てからに、また、私はそれと思うんだけど、今でも思うから、あの、自分の子供を亡くさない人はこうかもしれないんだけど、忘れたりして、上がったりして、するかもしれないんだけど、自分にとっては、親一人子一人でしょ、これが当り前ですよ。毎日思うのが。体験というのは。これが体験ですよ。あんたがたも親になってわかるはずと思うよ。今は分からないよ、親の苦しさは。この親不幸だなと思うくらいもあるし、親より先に行って、あんた親不孝だなーというときも、私は思うときもあるよ。だけど、そればっかじゃ、プラス思考でいかないと。あれがもう、悪くもないし、ね。ご苦労さまね。だらばもう、おじいさんが、子供ももう持ってる、親が、少しでも、どこも痛いときは自分に代えればよいのにと思うくらいだから、親と言うのは。自分が痛めばいいのにと思うくらいもある。代わればよかったのにと思うくらいだよ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦・新垣ハルさんの戦争・戦後体験】

出来事の背景 写真3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。
新垣ハルさんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいて、前年10月の「十・十空襲」以来、壕での避難生活を余儀なくされた末に、米軍上陸後は捕虜になって収容所に送られました。戦後は、米軍・嘉手納基地の食堂でウェイトレスとして働き、米軍兵士と結婚、一人息子の晃さんを出産。その後夫が本国に帰ったため、女手一つで晃さんを育てましたが、1959年6月30日に起きた「宮森小学校米軍機墜落事件」(児童11人を含む17人が犠牲になった米軍が起こした墜落事故)で晃さんは大やけどを負いました。
新垣さんは、懸命に一人息子の看病をし、そのかいもあって晃さんは琉球大学に進学、スポーツに打ち込めるまでに回復しましたが、24歳のときにやけどの後遺症のため亡くなりました。
新垣さんは、沖縄戦、墜落事件による息子のけが、そしてその死に苦しみ続けました。さらに2004年8月には、宜野湾市の沖縄国際大学に普天間基地所属の大型ヘリコプターが墜落する事故が発生。新垣さんの心をさらに傷つけました。多くの県民の反対の声にもかかわらず配備されたオスプレイを始め、轟音で飛び交う米軍機はいまも新垣さんを不安にさせています。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
沖縄県読谷村生まれ
1945年
4月初旬、米軍に収容される
 
収容所生活の後、石川市(現うるま市)内に居住。嘉手納基地で働く
1959年
6月30日、宮森小学校米軍機墜落事故で長男の晃さん(当時7歳)が重傷を負う
1974年
晃さんはやけどの後遺症により逝去

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