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タイトルタイトル: 「射殺された祖父」 番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
名前名前: 玉栄 真佐子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・那覇)  収録年月日収録年月日: 2012年6月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 射殺された祖父  07:04
[2]2 チャプター2 心の傷  06:00

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番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
収録年月日収録年月日: 2012年6月22日

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Q:真佐子さん、沖縄戦のときはおいくつでしたか?

4、5歳です。兄弟4名なんですがね、私4歳上に姉がいて、その2つ下に兄がいて、私3番目なんですよね。して、私すぐ年子で弟が生まれたもんですから、私はもう、弟が生まれると同時におじい、おばあと寝るのも一緒で、親から離れてしまったみたいな感じだったんです。それでいよいよ戦争が近づくということで、あの、親父はね、一人っ子なもんですから、兵隊にとられたら大変だからということで、もう、戦争近づくだいぶ前から、あの、出稼ぎに海南島(中国)に行っているんですね。そして小禄なんですがね、周囲がもう、北部の方に避難始まったもんだから、母親と兄弟3名北部の方に避難に行くんだけど、おじいとおばあはね、こっち、あの、苦労して求めた家屋敷だったもんで、もうこっちから離れないわけですよ。私ももうおじいおばあっ子だから、もう、おじいおばあと一緒に壕(ごう)に隠れててね、そうしてるときにあの、イモを欲しがったんですって。お腹が空いて、私がね。そしたらおじいはそれを取りに行って、壕から出ると同時に弾に直撃してその場で亡くなってしまって。もう、おばあはもうその様子を見て気を失って(動転して)ですね、私の手を引いて壕からすぐ出て、もう、さまよい歩いたんですよ、おばあと一緒に。そう、歩いてる途中でもう、死んでる人が倒れてたり色んなのを見ながら、もう、大変なことでしたね。あのときの様子は今でもこっち(頭)から離れないんですよ。あの、兄弟はもう北部に疎開してて、そんな体験はまったくないみたいで、私だけが苦労して、そうなんですよ。そして、おっ母はもう心配してこう、食糧が不足したりしたら取りに来たりしてたらしくて、そしてもう、私とおばあ連れて一緒にもう、疎開先に向かったんですけれどね。だから、上の兄弟3名は戦争のこんな無残な弾の様子とかもまったく記憶がないみたいなんですよね。私だけがすごいもう、この、戦争の体験しております。もうこんな、戦争のあの恐ろしさは、今でも脳裏から離れない状態ですね。

Q:撃たれたおじいの様子はどういう状況でしたか?

いやもう、もう即死状態ですのでね。もうすぐ、おばあに手を引かれてそっから離れてますので、よく覚えてないんです。4、5歳ですんでね。私がもう、こんな、お腹空いてなければああいう状態にもならなかったと思うんですがね。もう、4、5歳ですから、そういう何もわからなくて、あの、イモ欲しがったと思うんですけれどもね。この、壕から出ると同時にすぐ(弾に)当たったようなんです。今から考えますとね、もう、おばあはとってもショックだろうと思うんですけどね。私のせいで、本当に・・大事なおじいを失いました。もう、おっ母はもう、とっても気にしていたようでね。連れにきて、向こうで、山原(やんばる・本島北部)の方で一緒になったんですけれどね。だから他の兄弟はこんな、戦争体験てそんなにもう、ないようなんですけれども。私は今でもあの恐ろしさは頭から離れない状態ですね。こんな平和な世の中になって本当によかったと思います。

Q:軍用機飛びますよね。こういう音を聞くとどうですか、真佐子さん?

そうですね。怖いような、なんか。もう記憶も大分薄れておりますけれどね。

Q:思い出しますか? ヘリの音とか。

そうですね、はい。

Q:何を思い出しますか?

もう、あの、弾におじいが当たったときの音が、もう、よみがえってきますね。私がこのイモを欲しがらなければ、おじいもこっから出ていくことはなかったと思うんですけどね。私のせいでもう、おじいの命を奪ったようなもんで、もうほんと悔やまれてならないんですけどね。もう、4、5歳のことなんで、もう、本当に、大変なことをしたなあと思っております。で、ほかの兄弟はもう、すぐ山原の方に行ってるもんですから、戦争の体験はそんなにないみたいなんですね。本当に大変なことでした。

次第に次第に次第に、自分の、悪かったなーして思うようになったんですけどね。この、戦争の大変なことがね。私がイモ欲しがらなければね、おじいも壕から出ることなかったと思うんですけど、こんな小さくて何もわからなくて、大変なことをしたなって、悔やまれてならないんですよ。でもあの、あれですよ、母親と疎開した兄弟はね、戦争の怖さはそんなにわかんないんですよ。向こうでも安定して、避難先で暮らしてますのでね、私一人があんな酷いあれがあってですね。大変なことでした、本当に、あの戦争は。してあの同級生でね、あの、辰年なもんですから辰巳会って、早生まれは巳ですか、月に一回ね、「模合」(沖縄で行われる「講」の集まり)やってるんです。「積立模合」して、これが貯まると旅行行ったり色々やってるんですけどね。その辰巳会で、その、戦争の話しますけれどね、他の人たちまったくそんな、あの、戦争体験してないんですよ。私一人があんな・・皆安泰したあれでね、戦争の記憶まったくないみたいでね、なんか羨ましいっていうか、あら、私あんな苦労したんだなーして、あの、感じるんですがね。他の人たちも戦争って別に、体験してないんですよね。安定した暮らし方で。もう、だから皆の話聞いていると羨ましい限りですね。

兄弟皆に話しております。こんなにつらかったよって。私のせいでおじいが亡くなったよって。もう、これはもう・・

Q:戦後すぐから。

はい。だから私がですね、母親や兄弟と一緒に疎開しておればそんなことならなかったわけですよね。これをすごく悔やんでるんですけれどもね。当時はもう、あの、年子で弟が生まれたもんだから、すぐおじいおばあっ子になって。もう、おじいおばあから離れられないんですよね、あの当時は。もう、兄弟はもう、母親と一緒にすぐ避難して行ってるんですが、全然親の後を追おうともしなくて、もうおじいおばあといつも暮らしてるもんですから、それが当たり前と思ってそこに残ってるわけなんですよね。もう、それが今でも悔やまれてるんですけどね。どうしようもないですね、もう。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦・玉栄真佐子さんの戦争体験】

出来事の背景 写真住民を巻き込んだ地上戦となった「沖縄戦」。3か月間に及んだこの戦闘で20万人を超す死者を出し、そのうち9万4千人は、沖縄住民だったとされています。
玉栄真佐子さんは、当時本島南部の「小禄村」に住んでいました。小禄地域には飛行場(現那覇空港)があり、海軍の守備隊が配置されていました。沖縄戦終盤の6月、その小禄半島に米第6海兵師団が上陸し、玉栄さんたち小禄に住んでいた住民は、日米の激戦に巻き込まれました。玉栄さんは小禄の壕で避難生活を送っていましたが、食べ物を探しに行った祖父が銃撃されて死亡。いまも、自分が食べ物を欲しがったがゆえに祖父が命を落としたと、玉栄さんは苦しみ続けています。
戦後は、飛行場があったことで小禄地域の大部分が長期にわたって米軍に接収され、小禄の人々は基地の外側をあらたに開拓するなど苦難の道を歩みました。
玉栄さんは、轟音で飛び交う米軍機の音を聞くたびに、戦争を思い起こすと言います。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1940年
沖縄県小禄村(現・那覇市)に生まれる
1945年
米軍上陸前、本島北部へ疎開した母親と離れ、祖父母と小禄に留まる。壕内での避難生活の際、食糧を探しに出た祖父が、目の前で銃撃される

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日本(沖縄・那覇)

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