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タイトルタイトル: 「2人の体を貫いた銃弾」 番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
名前名前: 平安山 ヒロ子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日収録年月日: 2012年6月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 米軍上陸  07:39
[2]2 チャプター2 二人の体を貫いた銃弾  17:35
[3]3 チャプター3 妹の遺骨  08:47
[4]4 チャプター4 苦しみ続けた伊江島の人々  03:34
[5]5 チャプター5 背負い続けてきた記憶  12:35

チャプター

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番組名番組名: [ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
収録年月日収録年月日: 2012年6月25日

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実家と防空壕(ごう)とはずいぶん離れてますよ。防空壕の話ですか。あれはね、時間というのは分からないんだけど、夜がもう白々明けた時間に始まりました。

Q:ヒロ子さんはそれでどうしたんですか?

みんなもう17、8名ぐらい隠れている防空壕なので、最初は、みんな緊張してもう、とうとう始まったなぁという感じだったんじゃないでしょうかね。そして火がついたもんだから、入り口に火がついたもんだから、もうワーワーワーワーッて。身体が軽い人、何も持たないで逃げられる人は、そのまま直線に逃げていくし、ほとんどおばさんたちも、赤ちゃんがいたんですよ。うちのような感じの、赤ちゃん。それもいたし、自分で逃げられる体の軽い人は最初に逃げて、私も妹ゆすり起こして、「早く、おんぶおんぶー」して。私は先に出たみたいで、母は下の妹を、ちゃんと帯をかけておんぶして。おじいさんがその前夜に、(米軍が)上陸してきた夜に陣地を多分作っていて、そこをおばあさんとおじいさんが、どんなふうになってるか見に行ったみたいですよ。そしたらもうおじさんは壕にいなかったんだけど、おじいさんはそこで撃たれてしまって。胸か何か貫通していたみたいで。で、母が末っ子をおんぶして出ようとする間に、うちの母に「私もちょっと防空壕の外に出られたら出るけど、毛布をかけてくれないかー」と。おじいさんに毛布をかけてあげたみたい。それから母は逃げて、壕から出て。そしたら母はどこに皆逃げたのか知らないんですよ、どこにみんな行ったのか。そして母はあらぬ方向に行って。そしたらアメリカ兵が、電線を引っ張ったり何したりしてたみたいだけど、見つからなかったのか、そこからまた戻ってきて、あちこちさまよったんですよね。途中でけがしてる兵隊さんにぶつかって、「おばさん、水くれー水くれー」って叫んでいたり、からだ、真っ赤っかだったみたいで。そういうことがあったみたいで。おじいさんはその場では亡くならなかったんですよ。防空壕は、中は土でできて掘ってあるんだから、焼けたのは出口の、入り口の偽装してあるもんだから、それに火が着て、それが焼けただけで。別にそんな考えがあるわけじゃないし、壕の中に潜んでいれば別に焼けもしない、けがもしなかったかもしれませんけど、逃げるもんとしか考えはないから。その前にいっそみんなで、ここで死ねたらいいねーと、度々おばさんたちも話していたんですよ。どうせアメリカ軍に殺されるのが決まってるし、だからどうにかしてみんな一緒にここで死ねたらいいねー、という話は前々からやっていましたけど。それがとっさにパンパンパンと激しい、何て言っていいか知らないんですけど、とにかく防空壕の出入り口が焼けたので、その中を潜ってみんな出たわけです。

Q:ヒロ子さんは妹さんをどうしましたか?

いちばん奥の方に休んでたので、あっちは目が覚めてないんですよ、まだ。揺すり起こして早く逃げよう逃げようして。皆が逃げたあとにやっと目が覚めて、私が座るとすぐ肩にくっついてくるですよ。そしたらそのままいちばん最後、逃げたのが。前の人たちはそんなに被害受けてない、けがもしてないんです。一人ね、分家の家に、男の孫になるけど、長男孫、私より一つ下かな、それが撃たれてどこかに座っていたみたいですよ。裸になって、とっても体力のあった子だったんですけどね、撃たれたからもう上着をはずして血を拭いていたらしいんですよ。それと母が逃げる途中でばったり会って、そしたら弟の名前がセイショウというんですけど、セイショウのお母さん、「うちのおばあたちどこに行ったか知らないのー?」って、聞いていたみたい。裸になって血を真っ赤にして身体を拭きながら。母も「あらー」って言って、「私もおばあたち探してるんだけど、もし会ったらあなたがここに、あなたがいたって伝えるからね」って、通り過ぎたらしいんですよ。そしたらこの間がお昼前くらい、母もなかなか帰ってこないし、浅い防空壕あちこちにあった、山があってもう防空壕の跡がないよって、あの方言ってましたでしょ、そこに行ってうずくまってるんですよ。その中に私が入って行ったら、「照子はどうしたの」って。だから、こうこうしたよと言って。あんたのお父さんもたぶん死んでるし、お母さんも今までこっち来ないというのはどっかで死んでいるとしか考えられないんですよ。おばあが「あんたちはお父さんもお母さんも亡くなったけど、どこ行く?」って言うから、こっちは何とも言えないんですよね。あっちもたくさんの孫がいたし、おばさんたちも同居してましたのでね、あっちが引き取るということもできないし。

Q:ヒロ子さん、飛び乗ってね、妹さんがね、ヒロ子さんの背中に。それで二人はどうしたんですか?

だからあの塀を飛び降りた。みんなが飛び降りて行ったのは分かっているので、ここしかないもん、通る場所は。そこ出るともう米軍が陣地作ってるってことは知ってるし。だからいま2メートルくらいあったはずって、宮城さんが言っていたの。見たらもう穴みたいにしか見えないんですよ、子どもの目からしたら。そこ越えないと逃げ場所がないんです。で、飛び降りて、そしたら妹もしっかり肩につかまっていたんですよ。こぼれないで。2メートルの塀を飛び降りても振り落とされなくて、しっかり肩につかまっていましたよ。そして何メートルか何十メートルか行って、あそこは製糖工場があったって言ってましたでしょ。その中を直行して、あの道路を越えたあっち側に行くのは片目で見ていますので、ずっと走っていたら、やっぱりみんなそこに居て。そこで昼一日は、そこで過ごして。その間に母もまた戻ってきてました。私も死んだものと思い、うちのおばあたちも、「昼前まで帰ってこないし、あんたのお母さんはきっと亡くなっているんだから」って、色々な話をして一日を過ごしたんです。ここには鉄砲とか何とかはなかったです。

Q:妹さんはそのときいたんですか?

いや、ほったらかしたから、私一人で逃げたんです。だってもう死んでるんでしょう。飛び降りたから、そのときは、ずれ落ちないで、またそのままおんぶして逃げて行って、何メートルか何百メートルかくらいかな、行った時点でパンパンパンパンとまた弾がきたんですよ。それが一瞬にして。妹はその場でそっくり返ってずり落ちて死んだ、ということは自分は知らないで、どうしてずり落ちたのかなーと思って、後でも揺すって、「早く、おんぶーおんぶー、逃げるんだよ、早く早く」しても、動きも何もしないもんですから、ちょっと手を引っ張って起こせるかなぁと思った感じはあったんですけど、動きもしない。自分ももう力が尽き果てているし、自分自身の命をつなぐことしかできなくて、そのまま置いて逃げたら、母がやっと戻ってきて、「みんな元気かー?」って聞いて、「妹が亡くなった」って言ったら、言う言葉もなかったんじゃないかなぁ。「そうか」と言う。「他は元気?」と聞いて、母も一緒に防空壕で一日は過ごして。けがをしたら水が欲しいんでしょう。のどが渇くんですよ。だから手術したあとも水も与えない方がいいといいますでしょ。のどが渇いて渇いて仕方ないの。ちょっとにわか雨みたいなのが降って、この防空壕の木の葉っぱからしずくが落ちるので・・けがしたあとは水は飲まない方が良いと言われている。私は死んでもいい身だからって、滴る水をなめるように唇をこうするぐらいに。たくさんは降ってないし、しずくが落ちるくらいで雨はサァッと止んでしまったんですけど。

Q:ヒロ子さんはけがをしたんですか?

そうです。妹は即死だったわけです。妹が即死した、弾一発で。心臓かどこかだったんじゃないの。おんぶしていたら、だいたい私の頭ぐらいまで来ますよね。そうしたらあの辺通って、私は、あの弾一発で妹を通して私を貫通したわけですよ。それで自分も当たったことは知らずに、早く妹を一緒に連れて帰りたいという気持ち。全然痛くも何ともないですよ、あんなことあると。そしたらぬるぬるしたものが下に流れてくるし、あ、自分も弾に当たったのかなという感じで、もうこっちで何分か何秒か。どうしても妹は自分一人では手に負えないというか、連れていけない状態。それでも私だけは前のおばさんたちが逃げて行ったのを確認をしていましたから、どの辺に行くということ。そして(妹を)置いて後ろを振り向くことはやっぱりなかったかもしれませんね。今すぐ逃げて行って、まっすぐ行ったところに、この、一緒に居た家族たちみんな居て。

Q:亡くなった妹さんのどういうところが好きでしたか?

あのね、面白いところが。言葉の言い方がとっても普通に人が言う言葉じゃなくて、とても面白い言葉を使ったり、まだ3歳、4歳ですけど仕草もとっても面白かったです。

きっと今頃なったら頭のいい子になっていたんじゃないかなー、と思ったりしますけどね。仕草も面白かったし。そんなことはありました。戦争中は泣きもしない、下の妹は窮屈でもあるし、母親も食べ物食べてないし、おっぱいも出なくてくさくさしていたんじゃないですか、しょっちゅう夜泣ばっかりしていたの。この子だけはそんなことなかったです。上陸前のことなんですけど、一時母親の方のおばあの家に避難していたんですよ。そこで父は召集されてるし、母は畑に出ていって作物植えたりして、家にいたのは一番下の妹と亡くなったのと弟と私です。私がいちばん年上だからみるわけですよね。そして亡くなった妹が具合悪いということで寝ていたんですよ。でも痛いとも言わないし、じーっと寝て。私と弟はふさぎ込んでもじっとしていないでしょ。遊ぶ場所もなくても、家の中だから。妹は寝ているのに、ふさぎこんでも追っかけっこしたりしてるのに、そうするなとは言わないで耐えていたと思います。

それどころじゃないですよ。自分たちですら逃げて行った人たちでさえ、いつ死ぬかどこで死ぬか、それしか考えることはできない。お葬式とかこういうことは、その当時は身内が死んでもそうすることはできるはずがないんです。そして最後に行ったのが慶良間に移動させられるという話が出たときに、母はこればっかり気にしていたみたいで、自分も作業に行かしてくれというのを自分から申し出て、妹をちょっとでも葬ってあげたいと思っていて、出て行って、何か棺みたいのがあったのか、それに入れて。
あの大木がありましたでしょ。あの木は戦後に植えた木だと思います。根っこがあちこち、ガジュマルは根っこがいっぱいあるもんですから。そこをちょっと見えないというか葬った形にして。で、自分がこれでもう、ちょっと、しょっちゅうこれを持っていったのを、ことを放っておいてはいけないというのを、持っていったのが、これぐらいできたということで、もう母はほっとしたっていうことを言ってました。そしてまた最後は2年過ぎています。(慶良間から)帰ってきていますので。そのとき大木はそのままあって、成長して根っこもずっと張っていて、2年の間に。そしたら埋めたところに、島に帰って落ち着いたところに、これから先にしないといけないと言って、母が骨を拾って・・漁っても漁っても骨は出てこない。根っこが伸びてるから、自分が置いた場所の感覚とはもう違っているんですよ。根も張って木も伸びてるから、ここだと思ったのがそうじゃなくなって、ずっと手で漁って、そこで私もついて行って。帰ってきてからでしょ、これは。でもなかなか出てこなくて、どうなったったかなぁと母もしくしく泣きながら、私もそうだったんですけど、やっと一つの骨が出てきたみたいで、やっと会えたんだなぁという感じで。それを容器に納めて先祖の居た場所に一緒に納めて。これも仮ですよ、お墓も全部日本兵が使用するために遺骨も全部出さされてるわけですから。ちょうど防空壕の近くに分家の家も一緒に囲って遺骨をみんな集めてあるところがあったんです。そこに一緒に連れていったというか、祖先の側に葬ったんじゃなくて連れて行って、そこでしばらく。それから何年かしてお墓つくるんですけど、その当時そんなお金ないし、生きた人間さえ食べていかないといかない。

Q:ヒロ子さん、骨は見つかったんですか?

見つかりました。見つかったから母もここにいたんだとひと安心。もうこの気持ちは正常な気持ちじゃなかったから、母もそれ以上自分の子どもをこうやってするなというのは、これは想像を絶する話だと思いますけどね。私もこんな世間の知らない6年生なるくらいだったかな。畑するのも母と一緒だったから、私も一緒について行って骨を拾って祖先の側に置いてあげて。お焼香すらできない。ただ私も泣きながらというか、ただもうこうして。戦争も終わってゆっくりしてからみんなの・・あの家もこの家も兵隊に出た人とか、戦争に狩り出された学徒隊というか、青年隊というか。戦争でけがしなかった人、亡くなった人がいない家が少なかったんじゃないですかね。それでも落ち着いたら仏壇、自分たちの仮の仏壇作ってそれから焼香するのが始まったんですよ。

Q:この島にね、いまだに軍用機とか飛ぶじゃないですか。どういうお気持ちですか?

うるさいと思ったり、また来たのかとも思ったり、これは自分の言い分ですけど。最近はあまり飛ばないんですけど、いつだったのか頻繁に、頻繁に来るんですよ。あの辺は大変らしいですよ、うちの姉も来ていた場所あたりは近いから。オスプレイとか何とかになると、たくさん沖縄に飛んでくるようなことも言われているし、それもやっぱり戦争に繋がらなければ、戻らなければいいんですけど。アメリカ政府の言いなりになってますでしょ、日本は。

Q:自分の生まれたふるさとが戦地になって、そのあと基地になっちゃったっていう。いたたまれないというかつらくないですか?

それはありますよ。あるけどこの流れがそうなってますし。世の中の流れも。一部平和ですよね。生活にしては。けど、ある一部ではまた戦争につながりそうな感じのところもあるので、これはもう嫌としか、またもうとしか、なんと言うのかなぁ、反対運動とかしているし、これはみんな同じ。沖縄の人も全員にそういう気持ちじゃないですかね。いまだにアメリカ軍、日本軍と一緒に、日本政府と一緒に戦っているようなものじゃないですか。それはもうやっぱりアメリカ政府には勝てない。

直接は、自分の本当の友達、身内はほとんど知っていますので、自分の幼い友達とか学校の周囲の友だちとか、幼友達なんかはみんな話してるから知っています。けがしてることも知ってるし、そして妹を放置したことも。あの時分、自分は放置したという言葉は通用しなかったと思ってます。自分の身を守るために本当にこれ・・今となっては、ごめんなさいねーとしか、気持ちはありますけど、でもそうせざるを得なかった瞬間は、これ以上何ができたか、自分に何ができたか。もしそのまま側に座っていたら、たぶん殺されていたと思いますよ、私も。だから今もって、逃げたことは本当に無残なことをしましたけど、そうせざるを得なかったとも言えるし、どうしてすり替えられたら(身代わりになれたら)よかったのにとも思うし、やっぱり自分の命もなかったと思うし、これを考えても考えても繰り返しそういうことだけですね。見殺しにしたということも言えなくもないですけど、仏壇の前に行ったらほんとうに申し訳ないというかね、あの当時はそうだったんだよーと分かってくれるんじゃないかなと思うし。そういうことを言うと弟は、それはめいめいの命だのに、それはあまり言わない方がいいよと、特に病気してからは慰めてくれたり。これは当時そうは思わなかったんでしょうね。だんだん落ち着いて家庭も持って、そしたら親の気持ちもわかるし、母がどんなしてこの子を納めた気持ちが、今になって自分も気持ちがわからないでもないです。いつも仏壇にお祈りするのは、お父さんも照子も何年もごちそうお供えしてるから受け取りにきてよとは、必ず母はこのことだけは言ってました。自分も同じ通りの手で私たちを育てないといけないということも、特に母は男勝りで働きもので体もがっちりしていたんですけど。よそのお母さんとは違う。ひもじい思いをしてるのはどこの家庭も同じですけど、母も苦労したんだなぁと。娘をひとり亡くしてどんな気持ちだったのかなーと、自分の子どもを育てながらわかるようになったし。今でも70年以上も経ってるしもう忘れてしまえーっていう、この気持ちもありますけど、忘れようとするほど自分がその身になって、体力はなくなっていくし年は重ねていくし、それにまじえて忘れることは、一生の傷を背負って私はあの世に行くまでだろうと、今の気持ちです。それしか言えません。
そして自分が行ったら会えるのかなぁと思ったり、父もどんなふうにして死んだのか、防衛隊(住民でつくった部隊)っていうのは、竹やり一本しか武器がなかったもんで。2人のことを合わせて戦後はもう生きるための戦いですよ、それは。自分たちの生活を守るための戦い、それから1、2年から始まるわけです。それが段々とどういうふうになったのかな。私は結婚して、父母はあと、弟は妹と3名は、それぞれみんな、家庭持つまでは母と一緒にいたわけなんですけど。これは人にもどんなだったという言葉も、どんな言葉を使ったらわかってくれるのか、話していいのか、それはまぁ場面にあってこそ私の脳裏には全部残っていますのでね。口から出るだけは出せますけど。戦争中戦後、時期というのはもう、そんなことしか言えないです。それ以上は細かいことはいっぱいあっても、自分の苦しみというのは、苦しみ悲しみというのは、自分で背負って、いまから何年生きられるか年を重ねるごとに忘れることはできなくて、かえって重荷になるんでしょうねって、自分で感じています。

よその人に言わせれば、何で今頃戦争のこと思い起こすの? という人はいると思いますよ。「今更70年も経って、これをまた思い返してどうなることもないのに」という人が中にもいるとは思いますよ。今はやっぱり普天間問題とか、この島も演習地があるし飛行機は頻繁に練習して、あの辺はうるさくて大変ですよ、マジャ(マジャ原)の方は。これはやっぱ今からのことですよね。戦争起きないようにオスプレイも沖縄に寄せないように、基地も移動させるように、この問題ばっかりほとんどテレビでも新聞でもありますよね。そのことはもう日常に考えてる人たちだと思いますけど、今更70年前の戦争のこと繰り返して何になると思ってる人が世の中にもいると思います。何代も2代も3代も人間も変わっていて、お年を召した方はだんだん亡くなるし、その次の子どもたち孫たちに世の中が受け継がれているわけですよね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦・平安山ヒロ子さんの戦争・戦後体験】

出来事の背景 写真3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。
沖縄戦を生きぬいた人々も、戦後は米軍政下の過酷な歴史を歩み、いまも戦争や戦後の体験に苦しみ続ける人々がいます。
沖縄本島の北西に位置する伊江島に住んでいた平安山ヒロ子さんは、昭和20年4月、6日間にわたって伊江島で繰り広げられた激しい地上戦に巻き込まれました。ヒロ子さんが潜んでいた壕に火がついて逃げ出した時、銃撃を受け、背負っていた妹が即死、平安山さんもけがをしました。父親も、現地部隊に駆り出されてどこで亡くなったのかいまもわかりません。
戦後も長い間、妹の死や自分だけが生き残ったことに苦しんできました。戦闘終了直後全島が米軍に接収され、今も面積の35%が米軍施設となっている伊江島に暮らしながら、米軍基地の存在がもたらす、兵士による犯罪や騒音に苦しみ、心を痛めています。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1936年
沖縄県伊江村に生まれる
1945年
4月16日、伊江島に米軍上陸。母・妹と壕内で避難生活を送るが、妹が銃撃されて死亡する

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日本(沖縄・伊江島)

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