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タイトルタイトル: 「米軍基地に奪われた」 番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
名前名前: 玉那覇 清仁さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2013年5月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 基地の中に消えた故郷  09:12
[2]2 チャプター2 米軍上陸  02:34
[3]3 チャプター3 白旗を掲げた  11:55
[4]4 チャプター4 戦争が奪ったもの  06:29
[5]5 チャプター5 撤去された墓  05:02
[6]6 チャプター6 生き残るために  01:55
[7]7 チャプター7 基地とともに生きてきた戦後 そして今  02:26

チャプター

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番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
収録年月日収録年月日: 2013年5月2日

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Q:元々はもうあっち(基地内)に集落があったんですか?

そうそうそう、こっちはね、もうちょっと離れになってまして、あの建物あたりから宜野湾の集落ができとったんですね。この道をずっとまっすぐで、ど真ん中に、宜野湾ど真ん中なんて、小学校か役所があったし、ずっと降りて行くとまた大山(海側の集落)につながって、西海岸につながって、この、唯一の道路、これがずっとまた、長田に続いておってね、唯一の道路、・・・線と言ってましたけどね。

Q:じゃあ今、ごっそりこれが(基地外に)移ってきてるんですか?集落

そうです、これがもう全部畑なんですよ、はい、集落はこの、こっちから、全部。だってもう、僕らが、あの、避難してコザ(現 沖縄市)に行って普天間から帰って来るまでには飛行場できてましたから。もう、これはどうしようもない、僕らが来る時分には飛行機の残がいというんでしょうか、使用されていませんでしたけれどもいっぱい飛行機残ってました。

Q:フェンスはまだなかったんですか?

フェンスはなかったんですね、はい。

Q:何世帯位の集落だったんですか?

ええとね、宜野湾はね・・宜野湾市でいちばん大きくって、300世帯でした。

Q:300世帯。

宜野湾区域でですよ。300世帯くらいありましたね。

Q:そこがまるごと?

まるごと。で、これ宜野湾区域でしょ、この飛行場に入ってるのは、あの、宜野湾と神山と中原と、5部落はここに全部入ってますよ。新城とかね、全部あれに入ってるんですよ、全部。

Q:清仁さんの集落は、全部そのまま、丸ごと基地の中にすっぽり入ってしまって?

そうですよ、まるごと、まるごと。まるごと。これが、これもね、1年間にできたんですよ、これ、1年間で。びっくりしましたね。

Q:工事の様子はご覧になってたんですか?

いや、分からん、全然分からない、全然分からない。ですからもう、アメリカの占領地ですから、もう、勝手放題にやったわけですから。元々ここはね、日本軍でもね、海軍の飛行場用地の予定だと、うわさされてましたので、ここ高台になってまして、すぐ海ですからね、飛行機の事故とかが無い、とても安全な飛行場の場所だと言ってましたね、日本時代から(戦前)。

Q:日本時代から?

日本時代から。これ、海軍の飛行場造るんだとか何とかかんとかは、うわさ話はありましたよ、日本のですよ。ですが敵地ですからね、アメリカは上陸と同時にこれ造ったんじゃないでしょうか?

Q:皆さんは見てないのに?

見てないのに。ですから、上陸前からもう、盛んに偵察機来ておりましたから、よく偵察しておったんでしょうね、ここに何をするとか。もう、用意周到な上陸じゃなかったんでしょうか。もう昭和18年ごろからはね、制空権が、アメリカだったんでしょうね、どんどんどんどん偵察機が来ました。日本軍は何の抵抗もなかったです。僕らはもう知らないものですから、ああ、日本の飛行機だなとしか思わなかったですね。

ちょうどね、フェンスから6メートルは余裕があるということで。

Q:何の余裕ですか?

軍用地なんです、ここ6メートルまでは。それでここは道をとったんですね、ここはもらったですね。6メートル。

Q:ここは自由には使えない場所なんですか?

自由には使えない。建物造れない。ただこうして便宜に与えてもらってるんですね。ここは元々全部畑なんです。

Q:全部畑だったんですか?

あれが、あの、井戸のあるところですね。

Q:集落の井戸ですか?

集落の。・・・というんでしょうか、大きな井戸があったんですね、あれにね。

Q:どこですか?

あの、茂みの中。もうちょっと離れたところにまた、御嶽(うたき)と言うんでしょうかね、沖縄で言う、うがんじゅ(拝所・「御嶽」も「拝所」も沖縄の人にとっての祈りの場となる、いわば聖地)があるんですよね、そこは残されてるんですよ、そのまま。よくそういうね、うがんじゅとか、拝所とかそういう、その、あれは残してあるんですね、どこでも、はい。どこの部落でも残されてるんですね。

Q:でも行くことは自由にはできない。

今はできない、今できない、できない。もう入れないですよ。その近く、よく、あっちには、うちの、住宅だったんです。

Q:どこですか?

本当にその、茂みの隣。

Q:あの建物がちょうどあるあたりですか?

いや、あんな遠く行かない。うん。

Q:道路があるところですか?

通路があってね、すぐ、そのへん。よくいちばん近かった、うちが。

Q:どんなうちだったんですか?

いや、もう、かやぶきで、あばらやですよ。これは最近、あのあたりやってるんですね、ですから。

Q:どんな様子だったんですか? その集落の様子は。

主に農業ですよ、畜産と農業。

Q:にぎわっていたんですか?

にぎわってましたね、ちょうど宜野湾、市の宜野湾が、ここに、あの、中心地でしたから。役所があり、学校があり、郵便局があり、駐車場があり、なんでもあったんですね、ここに、宜野湾に。いちばん中心でした、ちょうどど真ん中であの建物のあるところが中心地でしょうね。

Q:今は全く面影ないですね。

面影ない、面影ない、全然ない。真栄原からこう、入ってくるでしょ、あれのまっすぐ普天間に向かって並松があったんですね、こう並松が。ずっと続いてました、ずっと、ど真ん中から。

Q:どんな様子だったんですか?

これはね、本当に、大きな並松が、僕らが子どもの時分ですから4、5人で抱えるくらいの松がありましたね。ちょうど、ど真ん中通ってます。

Q:みなさんのふるさとというとそのイメージなんですか?

そうですね、宜野湾の並松ってほんとね、有名ですよ。すぐ、馬場がありまして、馬場がありましてですね。学校がありまして、役所がありまして、郵便局がありましたしね、あらゆる、雑貨店とお風呂屋もありましたしね。

Q:お風呂屋。

お風呂屋。昔はお風呂屋って珍しいですよね、僕らは年に一度しか外で風呂とか、時分ですから、ええ、お風呂があるなんてって、これも1週間に1回。

Q:今この様子を見ていると、こう、どういうお気持ちですか?

いや、本当によくも、いくさ負けたとは言え、無残だと思いますね。これ、いろんなものがあったわけですから。先祖のお墓とかいろんなものがあったわけで、それが全部、払われたわけですから。戦争とはいえ、負けたとはいえ、本当に言い尽くせないほどの思いがありますね。

上陸してくるまで、向こうから、ねえ、北谷から上陸してますから。ここに来るまでには、5日間でここに来てますから。僕はその近くに、上陸して4月5日に捕虜になってます、捕まってますよ、捕まって。

Q:じゃあその逃げていた場所もこのすぐ近くなんですか?

この洞穴に全部入ってた。

Q:そこもちょっと見せて頂いていいですか?

はい、ご覧にいれます。もう、艦砲射撃が始まってる3月の、に、入ってからはもうね、仕事もできない農耕もできない、もっぱら、もう、洞穴生活だったんですね。艦砲射撃がどんどんどんどん来ますから。

Q:あっちから?

海から、どんどんどんどん海からも来るし東からも来るしね。またあの、偵察機も、飛行機も来るしね、もう、昼は何もできない、と言ってもこの洞窟でね、皆暮らしたと。ですから、3食どころか飯はあんまり食べてないんじゃないでしょうか。それでも、なんかね、ひもじい思いもせずに、“そのうちに日本軍が、友軍が助けに来るんだ”としか思ってないから。

Q:米軍の上陸はあっちからだったんですか?

あっちから、そのまままっすぐですね、すぐ横断してきたんですから。僕ら特に、1年に1度はここの掃除に来ますよ。井戸があったり拝所があったり、やっていますから。1年に1回は僕らがね、軍からパスをもらって。

Q:パスをもらわないといけないんですか?

パスをもらって。入って行くんですね。皆、もう、畑は取られてしまってるからこうしてね、少しずつね、こうして皆で分けてやってるんですね。

ここは本当に思い出します。

Q:何家族くらいが避難してたんですか?

いえ、これはね、百名くらいおったんじゃないでしょうかな。

Q:百名も。

はい。

子どもたちがずっと泣いてますから。

これ、あの、民間人だとアメリカは思って、なんべんか「出てこい、出てこい」ってするところを出ない。だから、当時ここを全部ね、埋めたんです。窒息させようと思って。

Q:米軍が?

米軍が。そうすれば出てくるだろうなと思って。全部埋めてあったんですよ。

Q:この穴をですか?

穴を全部埋めて。両方に、こう、ありますからね。突き当って両方ありますから、ここ全部埋めたんです。そしたらもう皆、窒息したんですね。また、竹やりでつついて風穴通して、これがね、ええと、10日、約10日くらい続いたんですよね。もう、それでももう、大変で、子どもたちが泣いて、食べるものもない。

子どもがね、静かにしておかないとアメリカにやられるということ教えられてますから。こっちで子どもが泣きます、食事もない、何もないですから子ども泣きます、この子ども泣かしたんではね、この子どものために皆やられてしまうから、この子どもを、あの、「親は何してるんだ、殺してしまえ」と、「この子ども、殺しなさい」と、「そうしないと助からない」とまで言われましたよ、洞穴の中で。それだけね、・・・でした。ですから私は、よくね、当時の、2、3歳の子どもたちはね、あんた方、親の心忘れていかんよ、こうこうだったよ、あんた方育てるために親はもうどんなに苦労したかと、親孝行しなさいとよく言ったんですけどね、当時の2、3歳の子ども。

Q:2、3歳の子どもがこの中にいて・・・

いましたよ。もう、食べるものがないガーガー泣きますから。そりゃもう想像できませんよね。これはもう本当に体験した人でないと分かってくれない、通じない。理解してくれないという、無残さがあったんでしょうね。

Q:これはあれですか、よく見に来たりはされるんですか?ここを見に来たりはされるんですか?この場所というのは。

いや、もう、見たくもないぐらい。当時を思い出すとね。見たくない。

Q:みなさん、どんな思いで中にいたんですかね?

もう、そのうちに日本軍が助けに来るだろう、それまでに我慢しておこうということでね、ここに、入ってましたから。防衛隊がね、家族、もう、激しくなる、防衛隊が家族に面会に来てるんですよ。そのうちに激しくなって、上陸激しくなって、部隊に帰れなくなったんですね。これは大変だと、どうしても帰って行かんとこれ撃たれる。戦争が終わると軍法会議になったら大変なことになるから。でも、僕らはね、出て、この人は残ってね、じゃあここにおるからということをね、日本軍に知らせて、ぜひ助けに来てくれと。「あんた方は待っときなさい、助けに来るからな」と言って、出て言って、帰ってこなくなったんですけどもね。これから出る、皆ね、出たことがね、ここの中には、あの、村会議員とか区長さんとかいろんなその、あれが、方々がおったんですね。で、この方々が決意されたんですね。もう、このように子どもたちをね、犠牲にすることは忍びない、これではね、もう、あれだから、皆集団だから出て行こうじゃないか、殺されるのも一緒であればいいんじゃないかと、この人たちがね、決意をして白い旗を揚げて先に出て行って、やったんですよ。

Q:そこでこう、捕まったらどうなるかとか、怖さは?

おお、ありましたよ。だからもう、出て行かないわけですよ、子どもたち。小学校の幹部の方々がね、どうになってもいいからとにかく出て行く、出て行って状況見てね、やるからって、白い旗を揚げて、ここに白い旗揚げて、出て行ってね、そしたらあの、ここがね、全部子どもしかいない、女子どもしかいないので、助けてくれと。そしたら「出てこい出てこい」と、「出しなさい」って、それでその人が、「大丈夫だから、助けると言ってるから皆出てきなさいって」と言って、安心して出て行った。出て来たらお菓子やら缶詰やらたくさんくれてますから、ありがたいなって、子どもたち、ワーワー騒いでね。

目があれでしょ、青目でしょ、皆びっくりしたよ。こんなね、でかくて怖いなと思ったけど、しかし出てきたらね、皆にその、お菓子をくれたりたばこをくれたりやってますから、アメリカは殺すどころか助けてくれてるから、大丈夫だと、そこですぐ安心感ができたんですね。そのときもう、1か月くらい30日ほどご飯というご飯食べてませんから、出てきてお菓子なんかくれるとね、こんな喜びはないですよ。人間もう、食べるのがいちばんの、空腹がいちばんのあれですね。

Q:そのときに、すぐにアメリカを信じることができましたか?

できましたね、出たら。今までね、だってもう、戦争で殺すとか、女性はその、暴行されるとか、いろんなあれがありましたので・・。それどころか、もうどんどん食べさせてますから。おお、アメリカ、あれ、もうたくさんあって僕らにもくれるのねと。僕ら初めね、毒が入ってるかと食べなかったんですが、これが食べてまた「大丈夫だよ」と言ってね、くれましたからね、おお、アメリカは殺すどころか助けるんだなと、日本軍にこんなされたことはないんだよね、というぐらいのね。

Q:日本軍はそうはしなかったんですか?

そりゃしませんよ。皆ね、取り上げて、あの、軍人優先ですから。何でもかんでもね、供出、供出ってね、ご飯らしいご飯食べてませんから。皆兵隊さんにくれて。(あげて。)

いいのは全部兵隊さんにあげる、兵隊さんのおかげでこんなしておられるからということで、軍人さまさまです、あのころはね。

Q:清仁さん、捕まってからも友軍が助けに来ると思ってたのは。

それは思ってましたね。

Q:その気持ちを教えて頂ければ。

それは思いましたね。こんなしたら捕虜になって、皆集団で、ちょうど1フィートのあれみたいに(米軍が撮影した沖縄戦の映像)、着物担いで頭に乗せて、ずっとあの、役所の前まで歩いて行ってそっからまた、野嵩(米軍によって「野嵩収容所」が設置されていた)まで、アメリカのトラックで行きましたけど、周囲を見てね、海を見たら、もういっぱいあれでしょ。

Q:何がいっぱいなんですか?

船、船が。もう、海いっぱいに、もうおりますから、ああこれではどうにもならない、もう、日本は負けたと、そのときは認識し始めていましたから。野嵩に行っても、夕方なるとまた向こうから日本軍の弾も来ましたからね、僕ら野嵩に行っても、避難してまでもガマに入ってたんですね。避難をしたぐらいですから。

Q:そのときはまだ日本軍が助けに来ると思ってたんですか?

思いましたね、神風が吹くだろうと。神風が。神風、台風が来るだろうと、そうしたら軍艦など全部やられてしまうさね。こんなうわさもしてました。いったんアメリカは上陸させて、で、それからまた日本軍が袋の鼠(ねずみ)にしてアメリカは全部捕らえて、やっつけるんだと、それまで皆、我慢しておこうじゃないかと、捕虜なってからもそのことがありましたね。で、時々、特攻隊がね、・・・に来るんですね。「万歳、万歳」して。

Q:収容所の中で?

うん、うん。米軍は何も言わなかったんですよ、僕ら「万歳、万歳」して、「友軍来た、友軍来た」って言ってね。

Q:それはどんな思いだったんですか?

助けに来ると、助けに来たと思ったんですね。

Q:実際はどうだったんですか?

実際はと言うと。

Q:助けには来なかったわけですよね。

うん、こない、こない、とうとう終戦が、8月の15日が来てとうとう、ああ、負けたのかな、物量で負けたのかねと、いう思いがしましたね。

Q:助けに来てくれると思っていたのに来てくれなかったことに対して14歳の清仁さんはどんな思いですか?

いや、いろんなね、物量とかなんとか見てもね、これはもう日本軍は勝てないと、そういう思いを皆持ったんじゃないでしょうか。だんだんね。もう勝てない、来るはずがないと。負けたんだと、負けるんだと。皆思いがありましたね。周囲はもう、アメリカの戦艦が、こう、いろんなあれをやってますから、もうボンボンボンボン弾もね、ボンボンこっちからね、もうボンボンボンボンやってますからね、これでは日本軍は来るどころかどうにもならんと。戦はもう、駄目だと、かえってね、そんな戦争をね、住民巻き込む戦争を起こしたこと憤りになり始めてですね。そうするとまた、なんでね、こんな負け、勝ち戦のないものを最後まで頑張れと言ったのか、何のためにやったのかなと思い、憤りを感じましたね、だんだん。

日本軍が沖縄に入ってきましたから、僕らの学校も全部兵舎に取られてしまって、もう、子どもたちは仮小屋つくって山で勉強すると。まだちょっと、また、大きな飛行場造るんだと、戦争が起こるんだということですから、勉強どころじゃないですね、こんな、ことがあっていいのかという、僕らも小学校の上級生になってましたから、そんな思いもありましたね、しかし、もう、口開くと“勝つまでは”だから、また変なこと言うとまたスパイだと言ってすぐ捕まりますから。

Q:スパイだと言われるんですか?

あくまでももう、日本は勝つんだと、天皇陛下万歳だと、勝つんだということばっかりしか教えられてませんから。(戦時中は)変なこと言うともう、すぐ憲兵に捕まりますよ。憲兵がもうずっとうろついてますから。

Q:変なことってどういうことですか?

いろんな、その、負けるとか、・・・とかひもじいとか、どこがやられたとかいうことに、もう、すぐ情報でやられて、憲兵にやられますよ、銃殺されますよ、民間でも。そんなん怖かったですね。

Q:そういうふうに、戦前は教えられたのに、戦争を見て、事実が違ったと思ったときはどう思いました?

ですから、日本の、この軍国主義というんでしょうか、日本のこの、政治というんでしょうか、そんときは政治ってよく分からんですけど、よくもまあここまで住民を巻き込む、こんな、醜い戦争をやったんだなと。もう、それから、恨みですよ。

Q:恨み?

恨みですよ、恨み。

Q:何に対する?

その、戦争に負けた、いろんなその、財産没収された、当時、しかし、皆財産も無くなって着のみ着のままですから。それをするまでにはね。これは、あの、恨みつらみありますよ、人間。住む家もないですから。それで、もうずっと続いておりますから。そんなにね、沖縄に上陸するまでに分かってたと思うけれども、戦況はどうなるといって、それでもね、続けさせたと、しかも沖縄は本土の防衛になるために、持久戦でやりなさいという指令があったようでございましてね、それがたまらないんですよね。なんでそのこと沖縄に強いたのかと。これ憤りあるんじゃないですか、財産全部取られてますから、もう、着のみ着のままですから、何もないんですから。食べ物も本当にないです。で、僕ら収容所に入ってからはもう、皆、物探しですよ。物探し。着物探しに行ってみたり食べ物探しに行ってみたり、もう、それだけです。そんな生活、そんな苦しみをさせられてますから、これは、その恨みは日本にありますよ。もうこの、艦砲空襲で、宜野湾、豊かな島でしたけど、あの、村でしたけども、全部ないですよ、全部。

出たときは、あの、建物、住宅は焼かれて。

Q:もう焼かれてたんですか?

焼かれてる、全部焼かれてました。

Q:炎が出ていたんですか?

いやいや、もう灰になってました。僕らが出るまでには。艦砲射撃とかね。あのアメリカとかの、なんかそうですね。兵隊が来るまでにはこう、撲滅しておかんと、そこには日本兵があるとなったら大変でしょ、だから日本兵がいないかどうかを全部もう、隠れがないかということで、全部そういうものだから、もうね、焼夷弾で全部焼いてます。

Q:出てきたらもう・・

何もない、何もない。木だけが焼けて残ってるだけ。これが4月5日ですよ。ですから、上陸するまでには艦砲射撃でどんどんどんどんやってますから、空襲やら艦砲射撃で。もう全部焼け野原になってますから、見渡せるくらい。あんな大きな並松も全部なぎ倒されてないですから。建物もないですから全部見渡せるくらいの。それから上陸してきてますから。

Q:それを見たときにどう思いました?ここを出てきてその景色を見たときにどう思いました?

ああ、無残だなと思ったらもう本当に、これが戦争かと。これが戦争かと思ったんですね。こんな戦争をどうして起こしたんだと、恨みが。私は、比較にすると皆さんに言われるかもしれませんけれども、あの大震災以上なあれだったと、あれは瞬間的に全部やられたでしょ、ここ3か月間も、あるいは空襲や艦砲射撃やら入れるともう、約、もう、一か年間も毎日ひやひやの生活ですから、もう昼は何もできない、農耕もできない、夜になるとね、洞穴のところに出て行って食事を炊いた、ですよ。そんな生活はもうね、2、3か月もさせられてるんですよ。これたまったものじゃないですよ。表現できるものじゃないです、これは。だからその、体験した人でないとね、通じません。

Q:集落は清仁さんがここに帰ってきたときに、ここはまずどうなってたんですか?

このような状態ですよ、飛行機があって。

Q:もうすでにこうなってたんですか?

なってます、なってました。だからもう、地主の承諾なしに接収ですよ。接収。アメリカが勝手に勝ち戦してますから。勝手に接収して自分勝手に造ってますから、何の補償もなしで。何の補償もなしに、家財道具があったり、もう何やかんやあったけど、もうそれも何の補償もなしに接収してこのような形にしてるわけですから。

Q:何にも残ってなかったんですか?

何にも残ってない、何にも残ってない。何にも残ってない。ただあの、お墓、お墓もね、非常にたくさんありましたから。埋葬物ですから、お墓の中に骨壺とか棺桶とかありましたけど、これをちゃんと移動してましてね。

Q:どうなってたんですか?

もう、一か所に集められてました。あの、先祖崇拝っていうの分かってたんじゃないでしょうか、アメリカも。情報でね。全部墓から全部取り出してね、一か所に集めてありました。

Q:清仁さんの(家の)お墓もあったんですか?

はい。一か所に、あの時分はその、埋葬でしょ、棺おけに入れてね。また、朽ち果てないものまでね、持っていってありました

Q:清仁さんはご関係者のお墓はあったんですか?

この中にお墓はあった。それを、普天間に来ましたから、どこどこにね、先祖移してあるから調べて引き取ってくださいと役所からのあれありましたので、皆お墓もないけどそれぞれまた仮墓を作ってね、そこにまた先祖移したと。ですからこの辺の人はね、墓は3回以上作ってますよ、3回。立ち退き、仮の埋葬、どんどんどんと。これもう、大変なあれですよね。墓を作って。

Q:清仁さんはどなたのお墓があったんですか?

先祖の、おじいさんとかおばあちゃんとかあるいは兄弟とかありましたから。僕の兄もソロモン海戦で、第二次ソロモン海戦で軍艦に乗ってやられましたから。それが、白木の箱が来るということで墓を準備して待ってましたけど、戦争が来てしまって。その、白木の箱もこなかったんですけど、そのために墓を掃除して待ってましたよね。

Q:この集落がこう、変わってしまってる状況を皆でどう思ったんですか?

いや、憤りを感じた、まあ、でしょうね。戦争の、何のために戦争をしたんだと、こんなね、住民も巻き込んで全財産も奪われて、こんな無残なことにしてどう補ってくれるんだと、我々はこれから一体どうして生活して、生きていかなければいかんのかという、子どもながらにも思いましたし、そのときの大人のやるせない、全部、男は戦争行ってますから、もう、女と子どもしか残ってませんから。これはね、自分の肉親の安否があるし、これはもう、言い尽くせないでしょうね。沖縄の男、40歳以上は全部防衛隊でとられてますから、全部帰ってません。若い、青年たちも19歳から20歳、21歳までここで、あの、現役で入隊してますから、これたちも全部帰ってない、話を聞くと、君らの故郷じゃないか、守れということでね、体当たりをさせられたそうですから皆帰ってません。

基地の建設には、そうねぇ2か年くらいは(基地の)建設事務所に行ったんですね。あのときはもう仕事があって、しかもそのモータープール(修理工場)に働いていたんで機械を学ぶことができたんですね。

Q:他にはそういうお仕事というのは特に・・

無いんですから。仕事に就けばもう、一家の支えもできるし、生活がある程度安定しますから。月収が入ればね。農業だけでしたら月収は入りませんから。ですから農業で食えるような状態じゃなかった、このような状態ですから。仕事に就かんと生活が安定してこないわけですから。

生きることがもう、どうしたら生き(られ)るかな、どうしたら飯が食べられるのかなという、当時でしたから。自然にこれ、こう慣らされてきたということですね。急に変わったということはない。自然に慣らされてきたというんでしょうね。日本の政治から、軍国政治から段々だんだんね、自由主義というんでしょうか、アメリカのあれに慣らされてきたんですよね。

あれオスプレイですね。あれはね、この辺旋回する、今さっきのヘリみたいに旋回する。ですから、ヘリからこのオスプレイに変わったのはあんまり僕ら感じない。かえってヘリの方がね、こう、旋回するのうるさかったです。こういう音がテレビ見てるときなんかするとね、本当に落としたいくらいですよ、嫌になりますよ。それでも辛抱してます。

よくもまあこんなに変わるんだなと思うんです、昔を、こう、思い浮かべるとね。どこに自分のうちがあったのかな、どこに畑があったのかな、どこに学校があったのかなと思うだけで本当に。ねえ、こんなに変わってと。ねえ。

これじゃまだまだ戦争があるみたいですね、こうしてフェンス越しにこうして、アメリカの兵隊がおるわけですから、まだまだ戦争が続いてるみたいじゃないでしょうか。僕らの土地でありながらアメリカの兵隊が我が物顔にあんなして行進してるんじゃないでしょうか。あれじゃ、戦争が終わったと言えないですよね。

これが国益になるんでしょうか。国益、国益のためだと言うんでしょ、こういうことがあって国益になってるんでしょうか。

Q:どう思いますか?

どう思いますか?

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦、そして今も続く「基地問題」】

出来事の背景 写真昭和20年3月、米軍が沖縄に侵攻、住民を巻き込んだ激しい地上戦がおよそ3カ月間続き、住民の4人に一人が命を奪われ、本島南部は灰燼に帰しました。生き残った人々も、各地に作られた収容所に入れられ、十分な食べ物もなく過酷な生活を強いられました。終戦後しばらくしてから、人々は収容所から解放されました。しかし、沖縄本島中部を中心に多くの住民の土地が米軍基地になっており、家や墓はつぶされ、畑もなくなっていました。

沖縄本島中部の宜野湾では、戦後すぐに普天間飛行場の建設が始まり、そこに住んでいた人々は故郷を追われました。その後、1950年代には、さらに各地で土地の接収が行われ、「美田」と謳われた宜野湾・伊佐浜の土地が取り上げられ、米軍基地「キャンプ瑞慶覧」になりました。この土地取り上げに対して、人々は「伊佐浜土地闘争」を繰り広げました。同様に土地を奪われた伊江島の人々による、強制接収の非道さを訴える「乞食行進」とともに、この動きは1956年の「島ぐるみ闘争」と呼ばれた反基地闘争として沖縄全体に広がっていきました。その結果、米軍による地代の支払いなどに関して一定のルールが確立され、本土復帰運動にもつながっていったのです。

1972年、沖縄は日本に復帰しましたが、基地の大幅な縮小は実現しませんでした。さらに、宜野湾市の中央部を占め、住宅街の真上を軍用機が飛行する「普天間飛行場」は、1996年に日米の間で返還が合意されましたが、移設問題が解決せず、いまだに返還は実現していません。その間、大学の構内に米軍ヘリが墜落する事故があった上に、2012年には多くの反対の声を押し切って垂直離着陸の軍用機「オスプレイ」の配備が強行されるなど、米軍基地をめぐる問題はいまも続いています。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1931年
宜野湾村の農家に生まれる
1945年
4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。米軍の捕虜となり、収容所に入れられる。米軍により玉那覇家の畑や自宅が接収
1946年
普天間飛行場の隣で暮らす
1954年
軍用土地事務所で働く。一括払い反対闘争に参加。1955年、米軍基地で働く
1956年
農協へ勤務。市町村軍用土地委員会連合会に所属、軍用地料の値上げ交渉
1971年
日本政府との軍用地契約に応じる

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