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タイトルタイトル: 「戦争、土地闘争と復帰運動」 番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
名前名前: 国吉 真保さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2013年5月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 米軍上陸  09:31
[2]2 チャプター2 生きものは何でも食べた  06:35
[3]3 チャプター3 ひもじい日々  06:43
[4]4 チャプター4 消えたふるさと  08:22
[5]5 チャプター5 高まる反米軍基地感情  06:01
[6]6 チャプター6 願いは「日本復帰」  03:55
[7]7 チャプター7 米兵相手の歓楽街だった通学路  05:50
[8]8 チャプター8 無くならなかった基地  05:57
[9]9 チャプター9 少女暴行事件  05:36
[10]10 チャプター10 復帰運動は何だったのか  06:29
[11]11 チャプター11 自宅から見える基地  03:40

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番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
収録年月日収録年月日: 2013年5月1日

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米軍が上陸するというときにはね、俺たちは今帰仁に疎開する途中でしたね。でね、沖縄の海をね、見てると、いっぱい船がいっぱい数珠つなぎでね、とまってたよ。子どもながらに「アイエー」(驚いたときの沖縄のことば)と思ったよ。

Q:そのときここに留まるというふうにはならなかったんですか?

命令だからね。命令。「やれ」だからね。基本的に軍国主義というのは個人的な考えは許さんからね。あっち行けって言えばあっち行かんとだめだから。我々はその命令に従って。

Q:日本軍の命令だったんですか?

日本軍というよりそれは上からだから、行政だから、日本軍じゃなくて、行政側じゃなかったかな。

Q:そのときは誰と一緒に逃げていたんですか?

俺たちはもう家族だけね。

Q:お母さまと?

そうそうそう。母と兄弟5名。

Q:お父さんは?

防衛隊(沖縄で召集された兵士たち、40歳以上の人もいた)に行ってね。うちの父親は、道路を管理するところに仕事していたから、中部土木事務所に。だから戦争には行かなかったわけよ、道を工事する仕事してるもんだから。ところがもう上陸するという手前になってからね、この防衛隊として。行ったわけよね。

Q:最後の段階になって突然の召集?

突然だったなぁ。

Q:じゃあお父さんとはそこで別れて? ・・・どんな気持ちでした?その逃げるときの。

逃げるときは昼間は海岸沿いのアダン(海辺に生える低木)の下に眠ってね、木の下に眠って。夜を歩くわけ。で私は小学1年だからもう疲れてね。読谷辺りから、ゴザひとつ持って行ったからね、ゴザを捨てたりなんかしてね、ダダこねたりしていましたよ。

Q:そのとき何が起きてるかっていうのは分かっていたんですか?

戦争っていうのは分かる。上からグラマン、戦闘機がこう飛ぶからね昼間は。機銃射撃なんかしてるからね。橋の上通ってるときにね、私たちの前の前通ってる人がね、機銃射撃されてるの見たことがあったよ。人に当たってなかったがね。だから幼心に非常に怖い思いして「やんばる」(沖縄本島北部)まで歩いて行った。

Q:やんばるでの疎開中は戦闘とかそういう激しさは無かった?

全然分からん。全然分からんというのはおかしいがさ、あの艦砲射撃が来ることは来るから、山の上に。しかしもうこれは直接我らのところに飛んでくるんじゃなくて、遠いところで聞こえる程度のものでしたね。

Q:じゃあ穏やかに過ごせたんですかね?

穏やかといえば穏やかだがしかし、いつも不安で。不安を抱えているわけよね、いつも。戦争の、兵隊とかそういうのを見ることはないけれども、遠いところで音はするし、また、生活が異常だからね。壕の中で生活するわけだから。いつも不安な気持ちでありますよ。

Q:米兵が来たりもしていたんですか?

米兵、いや来ることはなかった。しかし、しばらくしてから米軍が上陸してきてね。各家庭回って歩くから、家庭、女の人は山の中に逃げて行って、私たちは留守番してたがね。

Q:国吉さんの家にも米兵は来たんですか?

私たちがいるところにね、米兵が5、6名来て、私たちがいる部屋には他の人々がたくさんいたんだけども、そこに1人非常に残酷なことをしたね、私は。もう話をしたくないけどね、こういう状況だからみんなに知って欲しいために言うけれども。

非常にかわいそうな女の子がいたけれども。この女の子をね、米兵たちが見てね、隣の部屋に連れて行って大変なことしていた。もう口で言えんからね、あれだが。米兵たちは1人は、こう銃を私たちの部屋に向かって着剣ね、してる、銃をこうして持っていて。あと5,6名あっちにいたけれども。これが済んだ後からね、この女の子が、うめき声で「うー」ってね、異様な声で泣くわけ。一緒にいたおばあちゃんが「あきさみよーな(驚きや悲しみを表現する沖縄のことば)」、この女の子の名前言ってね、「あきさみよーな、あきさみよーな」して泣き叫んでいることがね、まだ耳の中に私はある。ああいう戦後の(に抱いた)最初の印象はこういう印象ですね、私は。本当にもう。

Q:そういうのは誰も、助けられない?

もう誰も助けられない。着剣してる。みんな震えてね、こうして。こう震えて、片隅に固まってね、普通ほら、固まってっていうことばよく使うでしょ、文字通りあれであるわけさ。固い。みんなガタガタ震えて。もうあの怖さはね、大変だ。

Q:やはり戦争というものは国吉さんにとってどういうものだと?

だから戦争っていうのは、戦うところは私たちは分からないがね、(沖縄本島)南部に行ってないから(首里の司令部が南部に撤退、大勢の住民も共に南下し、戦闘に巻き込まれ、多くの犠牲者が出た)。しかし戦争のむごさというのはそういうものです。実感ね。それを契機に、もうずっとずっとそういうことを体験してきたわけよ、私は。私はじゃなくて私たちの戦後世代の人はね、みんな大なり小なりそういうことをやってきましたね。
私の友だちのお父さんは教員していて戦争に行かなかったけれどもね、畑かどこかに行ったときに、米兵に撃ち殺されていたよ。

Q:なんでですか?

兵隊と思ったんじゃないかね。

Q:皆さんが経験してきたそういうことっていうのは結局はどういうことなんでしょうか。

それが戦争であるわけよ。戦争というのは何て言うのかな、人を殺すのが目的だからね、他の理由はないわけよ。殺す、殺す、焼き尽くす、それが戦争。戦争の恐ろしさっていうのはことばで言い表すことはできないね。私の体験からすると。

今帰仁から米軍のトラックにみんな乗ってね、大浦(沖縄本島北部)にね、第一回の収容に行きましてね。今問題になってる辺野古ね、あそこ。あそこの山の上に行って生活しましたがね。食い物が無くてね。生きてるものは何でも食べましたよ。トービーラー(ゴキブリ)でも。

Q:トービーラー。虫ですか?

トービーラー。うん、何でも生きてるの食べた。草もね、青々と茂ってる草は何でも食べた。

Q:それだけほかに食べるものが無い?

食べるものが無い。それからね、そういえば、いちばんおいしいのはね、米軍が捨てた残飯。チリ捨て場の。これがいちばんおいしい食い物でしたよ。おかしな話だけども、今考えるとね。今の若い人々が、もう分からないけれども、米軍が残飯持って来るトラック持って来てこぼすわけよね。そこで人間がとって、そして朝なんか行くとね、そこにはネズミがいたりハブがいたり、すべての生き物がそこの残飯目当てに来るわけよ。人間も。だから人間も完全に動物と同じ生活してたわけよ、我々は。あの時分は。それから・・・

Q:残飯の中からはどんなものが?

アメリカの残飯はね、本当にごちそうで。ソーセージ、現在食べてるウィンナーなんか。そういうのあの時分から米軍は食べていましたね。パン切れね。そういうのがありました。

Q:袋に入ったりしてるわけじゃなく、端切れ?

もう本当の残飯。それから腐れた缶詰ね。これもおいしいものでしたよ。缶がね、膨張して爆発してるわけよ、缶詰、爆発するわけよね。

Q:古いからですかね?

うん。それをまた食べるわけ。こういうのも大変なごちそうでしたね。腐れた缶詰め。

Q:普天間の人たちはみんなそういうところに集められて?

普天間の人だけじゃなくて、私たちは今帰仁にいたわけよね。今帰仁にいる人も、山原の住んでる山原地域に住んでいる中部地区の連中をそこに集めていた。

Q:戦争が終わりました、じゃあ集落に戻りましょうとはならない?

ならない。一応大浦(沖縄本島北部)に行って、そこで生活して。生活そこでしてしばらくしてから野嵩(現在は宜野湾市内)の収容所に来た、我々は。この辺の人ね、中部出身の人、宜野湾市出身の人は野嵩の収容所に集められてね。そこで学校なんか歩きましたよ。

Q:戦争が終わっているのにまだ囲われたまま、外には出られないんですか?

出られない。もう収容所、刑務所と同じですよ。これたちが言うまんまだからね収容所というのは。

Q:そこには食べ物があるわけではなく?

ない。

Q:皆さん自分たちで?

配給は少しありましたがね。配給はあることはあるが、それももういなぐらち(母子家庭)と言ってね、いなぐらちというのはお父さんやお兄さんや男の人がいない家庭ね、母子家庭、今で言うそういう方々に対してはね、あまり下まで回ってこなかった。

だから小さいといっても小学1年だから一人前にね、食べ物探しに行きましたよ。特に女性は外に行けないから、・・・ないから外に出るとアメリカ、軍人がいるでしょ、女の人なんかレイプされるからね、大変だから出て行けないわけ。私たちがね、外に行って食べ物を探してくるというような状態でしたね。

Q:子どもたちだけで?

子どもたちだけで。たまにね、辛抱できなかったんでしょうね、女の人が外に行って、そこの現在の飛行場のところが戦車とかトラックとかが何百台と放置されていたわけよね、そこはもと畑だったから食い物があるわけよね、自然に。

Q:畑に残っている?

そう。だから戦車やトラックの間に生えてるのとりに行くわけよ。女の人が行ってね、そこで強姦(ごうかん)なんかされて大変な目にあう人もいましたよ。そして大変不幸なことに妊娠して黒人の子を産んだ人がいましたね。これはねぇ、もう、生まれる子がかわいそうだ。生まれる子がもう、いじめられて。もう本当にかわいそうだったなぁ。もちろん母親もかわいそうではあるけれども、生まれてくる子がかわいそうだ。戦争の罪だなあれは完全に。

だから戦争はね、戦争が終わっても終わってるわけじゃないよ。この形式的には、例えば終戦記念日とかいろいろあるでしょう、庶民というのはその後が大変なのよね。その後も大変。本当に。もう食うものだな。本当に動物みたいな生活しますからね。

Q:その中で国吉さんたちはどう思っていましたか? そういう暮らしをしていることを。

そういう暮らしをしているときは何も思うことはない。ただもうひもじさだけ。どうしたら、何か食い物はないかと。動物や海、山歩いてる動物たちが餌ばっかり探して歩いてるでしょ、全くあれと同じ。何か食い物はないかと言ってね、食い物を探して歩くようなものですよ。

Q:何で自分たちがとか、そういう怒りみたいなものにまでたどりつかないんですか?

差別に対する怒りはありましたよ。さっき言ったように、上から配給がくるからね、もうなぜ私たちのところには来ないかっていうことで、そういう不満は相当ありましたよ。戦争に対する不満とかそういう部類は非常に身近なことね。空腹に耐えられないから。そういえばね、よく言われるみんな言うんだけどね、エンジンオイルを天ぷらにして青いものなんかをね、焼いて揚げて食べて、飢えをしのいだことがありましたよ。あれなんかはね、ひもじさをね耐えることができなくてね。食べたらすぐ流れては行くけれども。

Q:下痢になる・・それでも食べたくなるくらいお腹が空いてた?

うんうん。

しばらくすると、半か年くらいしてから、この野嵩(収容所)の部落がね、野嵩3区くらいまで広げたわけ。

Q:収容所を広げた?

うん。その時点で“軍作業”というのができたわけ。軍作業に行って、軍のメスホール(基地内の食堂)、炊事。炊事をつとめてる人々が米軍の残飯を持って来るわけよね。残飯をただ残飯として売るんじゃなくて、残飯の中に入ってる肉類はいくらとかね、パンの耳はいくらと言って。残飯の水ね、油が浮いている水いくらと言ってね。これももう3段階か4段階のに分けて残飯を売るわけ。それを買うお金も僕たちはなかったね。かわいそうに。自分でそう言うのもおかしいが。そしてどうにかこうにかしているうちに自分自身で、例えばね、アフリカマイマイを養ってみたり。あれもあっという間に広がるから。今だったら、まぁフランス料理では高級品だけども、あれを養って増やしてあれなんかも食べましたよ。自分で養ってから。ウサギなんかも飼ったなぁ。

母親はね、そういうことなってあとからね。うちの母親が非常に知恵があるというか度胸があるというか、壺屋にね、あっその時点で小学3年くらいになったらね、那覇の壺屋も解放されて仕事始まっていたわけよ。そうするとうちの母親は、母親のうちの父親の妹が壺屋に嫁いでいるからね、そこに行ってこういう陶器類ね、全部ないからこれ買ってきてね、普天間あたりで売るという仕事をしていたわけ。それで生活も一応安定してきましたね。幸いにうちのおばぁは今いる金城次郎さんたちと一緒の建物に住んでいてね、壺屋については人脈があった。今の言葉で言えばね。だからいくらでも買ってくることはできるわけ。しかし外歩くと大変なことだからね、朝早くに、2時とか3時ごろに出て行ってね、また昼間あっちで過ごしてまた夜に帰ってきて。

Q:なぜ夜に?

外人がいるから、軍人がいるから怖いからね、道歩くのは。

Q:女性が歩くのは?

そうそう。そういうことで行商なんかしていましたよ。

Q:自分たちの集落がどうなっているかっていうのは分かってたんですか?

うん。部隊だからこっちは。あっちから見えるから。我々は今、現在の普天間高校の反対側にいたわけよ。あっち側はだから解放されて。

Q:違う人の土地に住んだということですか?

そうそうそうこれも強制的にね。地主の承諾なしに「お前たちはそこに住め」と言われてるもんだから我々はそこに住んでいたわけ。土地を割り当てられてね。

Q:そのとき集落を初めて自分たちの集落を見たときというのは戦後、どういうお気持ちで?

あの、これは自分たちの集落を見たときには全部建物なんか壊されてるからね、あぁもう「あきさみよー」という悲鳴だね。私の母親はね、そこでごうごう泣いてたよ。私は母の側に立っていたね。こう何か使えるものはないかといって探して歩いたけどもね。

Q:家の中からですか?

潰れている家ね。全部壊されているわけよ、戦争でね。

Q:何か使えるものは見つけられたんですか?

何も無かったね。

Q:そこはどんな状況だったんです?集落は。

がれきの山よ。今あの東北地方の地震あったから、がれきの山になってるでしょ?ちょうどあれみたいに。わざとね、建ってる建物も戦車で壊してるわけ。これは兵隊がいるんじゃないかと思ってからに。

Q:一軒も残ってなかった?

一軒ももちろん無い。がれきの山。

Q:じゃあ思い出の品も何も残らないんですか?

うん。あの写真は、父親の写真はがれきの中から片側だけね、残って、片側無くなってるけども絵描いて。これこれこれ。半分は絵描いて半分は残っていたわけよね、半分は絵描いてる。絵描きさんにお願いして。こういうのは残ってた。

Q:写真が半分だけ残っていた?

半分だけ残ってた。画家に描いてもらってこうしてあるわけ。

Q:がれきの中から見つけられたのは、この写真だけ?

これもう不幸中の幸いね、これだけでもあったからね。私は父親の顔は覚えてないからね。これだけ。これ32歳ぐらいの写真て言われた。

Q:当時の見つけたときって覚えてますか?

うん覚えてるがね、あのはっきり自分の物とは思わ・・父親とは分からなかったわけよ、私は。おうちに持ってきてから、きれいに拭いてね。母親が「父の写真だ」ということで。じゃあどうするかっていうことになって、やっぱりこれも壺屋(那覇市)に持って行ってね、那覇に持って行って、あそこで修正してもらった。

Q:集落自体がそんな状態になってしまって、ただそこに家を建て直すということにはならなかったわけですか?

もちろんこっちには入れないからね。こっち軍事基地だから。

Q:写真を取りに行ったりとかはできるけれども。

うん、うん。僕たち少年はね、もう、ネズミみたいにあっちこっちウロウロできるわけよ。

Q:入っちゃいけないところも?

そうそうそう。特に僕なんかはウーマクー(わんぱく坊主)でしたからね、わんぱく坊主でしたからね、あちこちよく歩いた。食い物なんか探すためだが。

Q:この辺の集落もいっぱい歩かれてると思うんですけど、どういう景色が広がっていたんですか?その、遊んでいた場所というのは。

いちばん多いのはね、戦車とかトラックの壊れたものが山積みされているのがいちばん多いわけ。そこで、もう少し経過するとまたスクラップブーム(1950年に朝鮮戦争が始まると、いわゆる朝鮮特需で鉄くずの需要が高まり、沖縄戦の残骸である鉄くずを収集して本土向けに輸出することがブームになった)がきてね。スクラップ集めて、それで爆発なんかして、それでかたわになったり、兄弟3名死んだっていう人もおりましたね。

Q:集落の中でですか?

うん。本当に、これ拾ってね。スクラップ拾うわけさ。そこに、そのまま全然使ってない弾がいくらでもあったわけ。それをあの、先を取って、火薬を取って売りに行くわけ。でまた、弾にはね、弾をね、立ててからにくぎ刺して上から石落としてね、爆発させて喜んで遊ぶようなこともしましたね。

Q:それが子どもたちの遊びだったんですね。危険ですね。

ほんとに危険。今考えると本当に危険。それでかたわになった人もいたよ。

Q:みんな大人たちはどう思ってたんでしょう?

いや大人たちも考える余力は無かったかもしれんね、当時はね。あの、師範学校とかね、当時のインテリはね、やけ酒飲んで酒ばっかり飲んで大変でしたよ。私たちより10期ぐらい先輩たちはね、戦争に負けたと言って、そうねぇもう先生なんかしてる人でも、酒を飲んでうっぷん晴らししてる人もいましたね。そしてね、最後はアル中なって悲惨な生活した先生もいましたね。この人々は本当の戦争っていうものを精神的に受け入れてね、負けたと。ショックね。そういう人もたくさんいましたよ。それは教育水準の高い人が。で日本帝国は全然負けないと、これを信じ込んでる人がたくさんいたんですよ、教員は。知識ある人は。そういう人々のショックは普通の庶民より大きかったと思います。

我々が高校に入ろうとするときからはバーとか飲み屋街ができて、そこにまた、外人が外人ももう自由に飲み屋なんかに来るわけよね。そうするとまた現地妻からアメリカのハーニーになって。

Q:ハーニー、どういうことですか?

ハーニーって言ったらアメリカの現地妻ね。アメリカさんの。売春婦なんかが出てね。そうするともう、少年というのは非常にそういう意味では潔癖だからね、精神的な反発の人もみんな出てきて。

Q:何に対する反発なんですか?

沖縄の女に対してその買春をしたりなんかするでしょ。オンリー、つまり現地妻ね、そういうことがあって社会的にそういう状況になってたわけよね。そういう状況においてレイプ事件なんかがたくさん出てくるわけ。レイプね。

Q:それは戦後からもあったものなんですか。それがずっと続いている?

それがずっと激しくなるわけ。なぜかというと公式に、沖縄の女性とアメリカの人が公式に商売して交わるようになるでしょ。そこでそういう事件が頻発して起こってくるわけ。それに対して僕たちは非常に反発したわけ。

積極的にやったのはね、伊佐浜の土地闘争ね。当時ね、伊佐浜は先ほどお話した軍工事が始まったって話したでしょ、そのときに伊佐浜のところは畑があって、実際畑、水田なんかあったわけ。そこにまた新しく基地を建設するということになっていたわけ。それでそこの人々は絶対これは沖縄で有名な美田だから軍事基地にはしてはいけないということで反対したわけ。で、それを米軍は戦車持ってきて、強制的に基地にするものだから、我々は高校生としては許してはいけないということで、日夜反対してポスターなんか描いて、反対運動しました。

Q:同級生にも伊佐浜の人はいました?

そこに、3名いたわけ同級生が。これたちの話も聞いてるからね。

Q:どういう話ですか?

「うちもお母ちゃんたちは米軍に対して立ち向かってるよ」ということを話してました。じゃあ我々も加勢しようということで加勢しに行ったわけ。

Q:国吉さんたちとしてみれば違う土地ですよね?自分たちの集落ではないですけれども、どうしてそんなにみんなでやろうと思ったんです?

もう同情心だね、最初はね。かわいそうだと。こんなに立派な畑をね、基地にするのは、畑を基地にするってのはもったいないということで反対運動を始めたわけよ。ところが、段々だんだん米軍のすることを見てるとね、もう激しい怒りになるわけよ。例えば建っている建物をすぐそのままこう、重機で取り壊しをするわけ。そこのおばあたちがね、男たちは銃のこっちで、銃でこう押しのけられているけれども、おばあたちはそこに座ったりなんかしてね、命がけで反対運動していましたよ。僕たちはこういうの見て、本当にアメリカに対する激しい怒りを持ちましたね。

Q:反対している人たちの運動というのは向こうの相手には伝わらなかったんですか?

いやそれはアメリカ人も必死でしたよ、拳銃持ってきてね。それでね、うちの先生が、もう一人の先生も積極的な人がいて、英語ができる言うもんだから通訳していたら、通訳してると、掴んで、この先生、アメリカに検挙されましてね。結局学校やめなければいけなくなってしまった先生もいましたよ。伊佐浜問題そういう問題がね、私の人生の大きな転機になりましたね。ただ黙っていたら何をされるか分からんと。こういう米軍に対しては組織的に反対運動しないとだめと。黙ってはいられないと。命をかけてでも俺たちのために米軍を追い出さないとだめだなぁと本当に意識がね、専一化して、日夜、どうこれたちを追い出すかっていうことを考えるようになりましたね。

日本復帰でしたよ。日本は平和憲法があるでしょ。日本に復帰すれば何もかも解決すると思って、あらゆる障害を乗り越えて日本復帰運動のために頑張ってきましたよ。

Q:日本に戻ることで何が変わると思ってました?

生活が変わると思ってた。アメリカ人の支配、例えばね、私の高校のとき、隣の部落の人が兵隊に撃ち殺されて、撃ち殺した兵隊の言い分がね、「イノシシと間違えた」というわけよ。この普天間に、この中部の地区にイノシシいないのにね。イノシシと間違って殺したっていうような言い方をされてるのもいたわけ。そういうときなんか、事件なんか聞いていてもね、“あぁもうこれたちは”という気持ちが、まぁ、日に日にそういう事故がいろんな事故が起こるもんだから交通事故とか無罪になったりなんかするから、日に日にこういうのが起こるもんだからね、もう何て言うかなぁ、心が休む暇も無かったって感じじゃない? 感受性が強ければ強いほど反発精神は強かったと思いますよ。

Q:それこそ高校生としてやることをやって先生に目をつけられたりしていたと思うんですけど、お母さんはそれ、どう思っていました?

私の母親もね、非常に勇気がある人だったと思うよ。さっき言ったように、壺屋(那覇市)から夜運んできて売って商売するでしょ、生活をこれで支えていたからね。だから生活はうちのはいい生活していましたよ、母親の収入があるから。商売していたから。しかしそういう厳しい生活してる母親だからね、脅しがきかんわけ。教務主任と私の担任の先生が私のうちに来ていましたよ。「あんたの息子は将来有望であるのにいらんことしてるよ」と。

Q:いらんことというと?

私がいろいろ発言するさーね。政治的行動するからね、反対運動したりポスター貼ったりなんかするでしょ、いろいろと。学校でもいろんなこと言うからね、これを親に言いに来てるわけさ。「あんた、静かにさせなさい」と「息子は」。ところがうちの母親は「うちのこれにね」、私、真保というが、「真保に、やるのを任してる」と言ってたよ。「これがやるんだったらさせると」言っていた。私もこれ聞いてびっくりした。

Q:お母さんはどんな思いだったと思います?

だから、やっぱり母親は相当苦労してるでしょ、父親がいないから、生活、5名の子どもみてるさ。だからそういう自分の夫を殺した戦争が憎かったんじゃない?だから私が戦争反対して日本復帰運動するのはやはり世の中がよくなるという気持ちがあったかもしれない。

校門は前と同じだなぁ。

Q:あそこが国吉さんの通ってた?

うん。我々が通っていた学校。
ねぇ、目と鼻の先でしょ。当時はあっちはね、普天間(高校)じゃなく野嵩高校と言っていた。

Q:ここに通いながら。

こっちに通いながらね、外人さんが酒飲んでる場所をね、こう我々が通るわけだ。

Q:多感な高校時代ですもんね、高校時代だと。

高校時代は多感でしょう。特に女子、女に対してはあれだからね、関心非常に強いから。だいたい同じくらいの年代の女性でしょ。

うん。目で見て、肩なんか抱いてこうしてちぐはぐ話して酒飲んで昼間からやってるでしょ、そこを若い学生さんたちが通るわけだからね。大変ですよ。

本当にもう、感慨深い。思い出の青春の場所だからね。高校時代はもうドンチャン騒ぎした場所よ。

Q:いちばん複雑なときだっていうことですか?

青春の思い出。

Q:青春のどんな思い出なんですか?明るい青春だったようには、さっきのお話しでは・・

あのね、非常に暗い青春だったがね、当時沖縄が非常に軍事権力が非常に強い時期だったよ。沖縄の暗黒時代という時代。

もうほとんどね、外人相手の飲み屋だな。バー、クラブ。そういうもの。

傍若無人でね。この辺は馬に乗って歩いていた。

Q:誰がですか?

外人さんが。兵隊さんが。だから怖くて大変でしたよ、そういえば昼間は。

Q:どういう状況でした?

この、これたち(米兵)がほら、人を人と思わんから馬乗ってこう、歩くわけよね。

Q:結構危険な状況?

もう非常に危ないところでしたね。だから子どもたちなんかはそこは出ることはできませんでしたよ。こっちはもう怖かったはずよ。

女の人が飲み屋から帰りにね、外人が後ろから着いてきて、そこの家と家の間に連れ込んでね、そこで暴行するのを見たことがある。恐ろしいですよだから。

Q:そのとき国吉さんは何もできなかったですか?

うん、もう見ないふりしてましたね。本当はあのときねぇ。残念だが本当に見ないふりしたなぁ。

Q:それは高校生の国吉さんだけではなくみんなそうだったんですか?

みんなそうですよ、この辺で生活してる人はみんな何もできなかったですよ。外人様々ですからね。兵隊様、兵隊様ですよ。それに対して文句言う人は誰もいなかったですね。

またそのせいで自分たちはそのための、これたちのおかげで生活してる感じにもなってますからね。バー飲み屋におうち貸したり、あるいは直接そういうバー、飲み屋を経営したりしているわけですからね。自然に立場としては非常に弱い立場に置かれているわけですよ。

最初はだから私たちは母子家庭ですからね、母子家庭のときには、母親が自分の、最後、土地があったからね家は。その土地に貸家なんか作って生活してたわけですよ。

Q:どんな人に貸してたんですか?

もちろん、借りる人は外人、なに、オンリーと言ってね、アメリカのハニー、まぁ悪いことばで言えばもう、これ言いたくはないが、もう、売春だね。売春婦たちにおうちを貸すということですよ。

Q:家賃を払うのは?

外人であるわけ。兵隊であるわけよ。だからもうきれい事じゃないわけよね、言えるのはね。もう本当に悲しい悲しい話ですよ。当時のことを思うとね、本当に悲しいですよ。昔、難しいことばで悲憤慷慨(悲憤こうがい)と昔のことばで言ったがね。

もう“何が何でも母のもとに帰る”と、祖国に帰るというような運動であったわけです。今考えるとおかしいよ、今考えると非常におかしい、非常に矛盾するからね。

Q:なんで今考えると矛盾するんです?

あのね、日本政府は沖縄を常に、捨て石にしてね、何かあると沖縄を踏み台にしたわけですよ。で、そういう踏み台にされてるのを歴史の事実があるのに、これを我ら頭に無くて、すぐ復帰運動したわけです。本当はね、もう少し冷静であればそういうこともされたことを頭に置いてね、日本政府とね、「我々は、あんた方こういう沖縄捨て石にしてる」と、「何かあるときに沖縄を踏み台にするがね、今後は私たちはもう、そういうことを認めない」と、で、「沖縄平等に扱ってほしい」と。「そのために我々は祖国に復帰するよ」と言うべきでした、それ言わない。

Q:なんでそれを言えなかったんですか?

そうね、これがあれでしょうね、追い詰められた人の気持ちでしょうね。米軍がそういうことも、あまり強い権力持ってるでしょ。いつも裁判無罪、そういう精神状態のときだからこの鬱積(うっせき)してる人間の気持ちはね、もう、そっから逃げて行くには祖国復帰(以外に)はないと、祖国復帰しかないという考えだったでしょうね。

日本に復帰すると基地は無くなると思ってましたね。日本からね、あ、沖縄から、基地は当然無くなるという考えを持ってましたよ。ま、すぐじゃないにしても、基地は無くなるという考えを持ってました。

Q:信じてました?

信じてた。100パーセント無くなるかどうかは別としてね、このような、現在のようなことは無くなるという考えでした

Q:そこに疑いは無かったですか?

疑いは無かった。
もう、現在よりはよくなるという考えね。現在と言うの当時の話よ、この現在じゃなくて当時ね、当時の生活よりは当時の基地の状態よりはよくなると。

基地の縮小とか、100パーセントすぐ復帰したからといってすぐ無くなるじゃなくて、少なくとも少しずつ減っていくという感じね、そういう感じでしたよ、そういう意味で基地は無くなるという感じね。

この生活水準はよくなってるけれども。交通事故起こしてね、死刑にならず無罪になるとかそういうことがまだ変わらないわけですよ。で、さっき言ったように、基地が、日本を復帰した後も強化されて拡大されていったというのはね、これ、目に見える基地が強化されてる意味だけじゃなくて、依然として交通事故とかの犯罪なんかはね、減るようなことがない。全く復帰前と同じであるということです。だから支配者は生活水準よくなったじゃないかと、ね、道もよくなったじゃないかということをよく言いますよ。そりゃそうよ、道もよくなったし、生活水準もよくなった、ところが依然として、あの、軍事支配の状況というのは変わらない。だから後悔してるわけ。人間は生活だけじゃないということね。人間というのはあの、良心とかね、人間の人格とかそういうこともね、考えなければいけないと思いますよ。沖縄人の人権は無視されてるからね。

Q:復帰してもこの景色っていうのは変わらなかったわけですか?

変わらない。依然として芝生はもう青々として。

Q:今、復帰運動していたご自身をどう思います?

だから、復帰運動して、非常に、個人の生活は非常にあの、もう、無理して頑張ったのにねと思いますよ。自分自身は一生懸命ね、若い、青春の時代を復帰運動にささげたのに今はこういうざまでしょ、だから非常に無念ですよ。知識が無かった。勉強不足だったんだな。だから今からでも若い連中が沖縄独立すべきという考え持ってますからね、私も一生懸命これたちの本読んでますよ。

あの事件聞いたらね、本当に、あの、胸が張り裂けるような気持ちしましたね、私は。過去に、前に話したようにね、そういう、もう、この、婦女暴行見ているからね、あれが思い出してね。もう、行って、私自身もその人刺し殺したいぐらいな気持ちになってましたね。

もう、沖縄のあの、この婦女暴行事件に対することはね、本当に痛ましいことですよ。みんなだから、みんな沖縄の人またそういう気持ちだったんでしょうね、私と同じような気持ちだったんでしょうね。あんな人間がたくさん集まったでしょ、仕事がある人も仕事休んで参加していますからね。あのときから沖縄のまた社会情勢政治上の状態も全部変わってきましたからね。

Q:国吉さん個人の中でも、こう、気持ちに変化ってありました?

うん。変化ありましたね、もう黙っておれないという気持ちになりましたよ。あまりそういうところが、足、踏み入れるのはもうちょっと遠慮していましたけれどもね、もういつまでもこう黙って・・自分の商売のために黙っててはいけないなという気持ちが起こってきましたね。

戦争がずっと続いてる、このひもじさとかそういうものに対する考えと、あれと全然違いますからね、気持ちが。ひもじいのはひもじい、なんか水でも飲んでどうにかするということあるけれどもね、あの胸の叫びね、魂の叫び、あれはもう人間の、もう、本能的な叫びですからね。婦女暴行事件というのは本当に恐ろしいですよ。

その、人間に対するこの、暴行事件というのはね、世界の国々が絶対許さないという気持ちありますからね。もう、我ら沖縄の人も黙ってはいるが、そういうものに対しては許しておけないといってね、立ち上がるわけですね。

Q:それがちゃんとこう、裁かれないっていうことに対しては。

裁かれないっていうことに対してね、もう、わじわじ、わじわじしてるけれども、だからこそ沖縄の人々は、沖縄から米軍出て行けと、日米安保条約もね、破棄しなさいというところまで、いってるんですよね。基本的にはこういう人権侵害は全部日本国とアメリカとの安保条約の問題がきてますからね、これ破棄しなければならないというところまできているわけ。

これはもう、これこそ黙っていたらもう人間失格だというような気持ちありましたよ、もう仕事抜きに、でもこれ立ちあがらんとだめと。黙秘してはいけないという感じでしたね。私の思いが全県民と同じだったような気はしますがね、あんな人間たくさん集まってるから。

Q:国吉さん自身やっぱり黙ってきたことへの、自分が黙ってきたことに対してそのときはどう思いましたか?

やはり黙っててはいけないなと思いましたよ。黙っていて、ああ、しまったっていうような気持ちよりね、そういう気持ちが起こる前に、これ、もう黙ってはいけないという、その、現場のね、すぐ、その時点ね、その時点でそういうことを思ったんですがね。反省するということはもうずっとあとからの話ですね。

Q:やっぱり95年のみんなの立ち上がりが大きかったんですかね?

うん、あれはやっぱり立ち上がりは大きかったですね。あれは本当に大きかった。
保守党の県会議長なんかも参加してますからね、みんなね。保守の人々もね。

Q:それはどういう人たちが参加したということですか?

もう、当時まではアメリカは安保条約上、日本守るためにいるんだということ言ってる人々がよ、参加しましたからね。そういう人々がもう基地を撤去しなさいと言うようなところまできてますからね、相当な違いですよ。あんな怒りというのはもう大変なもんでしたね、だから。

Q:外から、こう簡単に、地主がそのとき契約しなかったら基地は無かったんじゃないかなんていう意見も出たりしますけど、どう思いますか?

あぁ本土の人がそう言うかもしれん。実際沖縄で生活してないから。

Q:生活してるとどう感じました?

生活してるとね、収入の関係でね、

(多くの人は)100パーセント土地は全部取り上げされてるから、農地はよ。だからどうしても生活というのはできないからね。特に老人は。だからもう目の前に下がってある、例えばこのニンジンみたいなものでもあるわけよね。

Q:何がですか?

基地がね。目の前に下がってるニンジンね、みたいにもなるわけよ、もういや、かわいそうであるけれども。軍事基地反対であるけれども自分自身の生活のために必要なお金が入ってくるから、ニンジンが入ってくるわけだからね。だから本土から見て・・・、反対しなければすぐ即刻基地は無くなってるとは思うけれども、実際はそうじゃないと。生活をしながらしないとだめだからね。沖縄の人々の苦しみというのは本土の人が分からない、こういう意味で。

最初はね、我々も気がつかなかったわけよ。このニンジンぶら下げているのは。だから祖国と言ってね、祖国の愛に従っていくっていう感じだからね。

Q:復帰運動は?

復帰運動は。そうしてそれが段々だんだんするとこのニンジンがほんと麻薬みたいなもんだったということが後で分かったんですよね。

麻薬の効果というのは、もうこの基地に対してみんな黙るようになったわけ。最初はね、みんな反対していたのに。アメリカが沖縄守ってるっていうような効果、アメリカ様々になっていたわけ。アメリカがいるからこそ沖縄は生活ができるんだという話になっていたわけ。

最初はね、復帰することによって道もよくなるし生活も向上もよくなって喜んでいましたよ、一時はね。最近見てみるとますます沖縄の基地が強化されつつあるからね、これは大変だと。最近の若い人々はね、我々の年代が言えなかったことを、沖縄は独立すべきだということをね、平気で若い学者が言うようになりましたからね、大変な違いですよ。

Q:復帰活動しながら基地はやっぱり契約も進んで残るんだって気づいたときはどう思いましたか?

それはもう、しまったと思いましたよ。私もこれは思いましたね。復帰運動すべきじゃなかったって思ったよ。復帰運動ってそういうもん、私たちが思ってる復帰運動と、できた復帰とは全然違ってるからね。

Q:どう違ってましたか?

どう違うかと言うと、あれだけのことを言えば、日本国憲法が沖縄にもう完全に適用されて、日本同様に基地の縮小整理縮小がされるという感じを持っていましたね。ところが基地がますます強化されてるでしょ。

Q:(日本)政府は値上げに踏み出すわけですよね、軍用地料の。それはやっぱり地主の方たちから見たらすごい甘いものだったんですか?

それは喜んでましたよ。日本政府はね、温情ね、温かい、情けがあると思ってましたよ。温情。軍用地料をこう上げて、毎年毎年上げるでしょ。軍用地料が毎年上がってくるから軍用地主は非常に喜んでいましたよ。

軍用地の問題というのは非常に難しいですよ。もちろん値上げするというのはね、これ当然だと思うけどもね、他の物価より値上がりが大きいとね、本土のね、土地の売買する商売人が買占めに来るわけよ。そうするとね、沖縄の本来の軍事基地反対とか、沖縄の一生をね、繁栄するための行動を規制するようになるわけ。例えばあれたちは土地というものを一種の商品として見ますからね。今現在やってるのは。

Q:皆さんのときにはそれは商品ではなかったんですか?

商品じゃないからね、沖縄の人々としてはね。

Q:お母様にとっては何だったんですか?

もう財産だからね。子孫から預かったという感じだから。我々の年代までは家督相続と言ってね、男の子が相続しよったわけ。祖先からのね、過去から段々続いてくるような財産ていう感じであるわけ。で今、売買されているのは財産というよりも完全な商品だから、流通する不動産だけでも、不動産みたいなもんじゃなくて完全に取り引きされる対象になってますからね、非常に怖いですよ。

Q:目の前が基地なんですね。

もう、あれですよ、これが基地でなければいいところですがね、海も全部見えてね。基地が見えるからな。

ますますこういうところは強化されているからね。前はこれは、北谷にあるときには海軍病院でしたがね。

これ考えると嘉手納より南解放というのがいかに嘘っぱちであるかが分かるわけ。これは非常に、この病院というのはもう非常に近代的な施設、きれいな病院ですよ、あれ見てください。

これは返りませんね。よっぽど、あの、沖縄県民と日本政府がしっかりしないと、この病院撤去するの難しいでしょうね。軽い気持ちではできないですよ。

Q:ずっとこういう基地が無くなってほしいと思って暮らされてきたと思うんですけど、ずっと見てるわけですよね、無くならないものを。どんな気持ちでいつもこういう景色を見るんです?

いつもあれですよ、わじわじしてますよ。気持ちが煮えたぎるようなことだな。

こういう音はなんでもない、こういう音はなんでもない。オスプレイとか、あの、重量級の飛行機が通るとき身がすくむときあるよ。・・・で、こんなするときあるよ。
低い。音も鈍い音でね、すごい音する。

Q:身をすくめるような?

一生懸命仕事してるときはびっくりするときがある。こういう軽い飛行機の場合はね、いつも聞き慣れてるもんだからね、あれだが。重量級の飛行機は怖いよ。あれ健康にも悪いんじゃないかね。

Q:家の近くを訓練する飛行機が飛んでるっていうのは、どういう・・

だから我々みたいな年代の人はね、すぐ戦争、戦争のこと気になるよ。あれ、去った戦争のことが、苦しい思いしたさね。軍隊っていうイメージすぐわく。子どもたちは、若い人はそういうことイメージしないんだがね。それ、あの苦労も全然忘れることできんからね、身にしみてるからね、戦争の苦労はね。だからもう、本当に非常に心配よ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦、そして今も続く「基地問題」】

出来事の背景 写真昭和20年3月、米軍が沖縄に侵攻、住民を巻き込んだ激しい地上戦がおよそ3カ月間続き、住民の4人に一人が命を奪われ、本島南部は灰燼に帰しました。生き残った人々も、各地に作られた収容所に入れられ、十分な食べ物もなく過酷な生活を強いられました。終戦後しばらくしてから、人々は収容所から解放されました。しかし、沖縄本島中部を中心に多くの住民の土地が米軍基地になっており、家や墓はつぶされ、畑もなくなっていました。

沖縄本島中部の宜野湾では、戦後すぐに普天間飛行場の建設が始まり、そこに住んでいた人々は故郷を追われました。その後、1950年代には、さらに各地で土地の接収が行われ、「美田」と謳われた宜野湾・伊佐浜の土地が取り上げられ、米軍基地「キャンプ瑞慶覧」になりました。この土地取り上げに対して、人々は「伊佐浜土地闘争」を繰り広げました。同様に土地を奪われた伊江島の人々による、強制接収の非道さを訴える「乞食行進」とともに、この動きは1956年の「島ぐるみ闘争」と呼ばれた反基地闘争として沖縄全体に広がっていきました。その結果、米軍による地代の支払いなどに関して一定のルールが確立され、本土復帰運動にもつながっていったのです。

1972年、沖縄は日本に復帰しましたが、基地の大幅な縮小は実現しませんでした。さらに、宜野湾市の中央部を占め、住宅街の真上を軍用機が飛行する「普天間飛行場」は、1996年に日米の間で返還が合意されましたが、移設問題が解決せず、いまだに返還は実現していません。その間、大学の構内に米軍ヘリが墜落する事故があった上に、2012年には多くの反対の声を押し切って垂直離着陸の軍用機「オスプレイ」の配備が強行されるなど、米軍基地をめぐる問題はいまも続いています。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1937年
沖縄県宜野湾村字普天間に生まれる
1945年
沖縄本島北部・今帰仁村に家族と疎開
 
沖縄戦終結後、自宅一帯は軍用地になり、普天間近くの野嵩収容所や収容施設などで生活
1953年
米軍が解放した普天間の土地に家をつくる
1955年
野嵩高校(現普天間高校)のとき伊佐浜の土地闘争に参加。1958年、東洋大学に留学。本土で学生運動に参加
1960年
沖縄に戻り、人民党に所属。その後は、本土復帰運動に力を注ぐ

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