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タイトルタイトル: 「伊江島・奪われた土地」 番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
名前名前: 平安山 良有さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日収録年月日: 2013年5月1日

チャプター

[1]1 チャプター1 伊江島の戦い  11:10
[2]2 チャプター2 姿を変えた故郷の島  11:27
[3]3 チャプター3 強行された土地収用  12:37
[4]4 チャプター4 「乞食行進」  03:00
[5]5 チャプター5 生きていくために  07:25
[6]6 チャプター6 原点は悲惨な戦争体験  14:46

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番組名番組名: [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第1回 沖縄 “焦土の島”から“基地の島”へ 放送日 2013年7月6日
収録年月日収録年月日: 2013年5月1日

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Q:(伊江島の戦いの間)もうずっと壕の中で息をひそめていらっしゃったわけですか?

そうですね。捕虜になるまで、壕です。

Q:その間、1週間全く外に出なかったんですか?

壕と言っても大きい壕じゃないですから。外と壕の中とは、このぐらいですよ。前のほうは擬(ぎ)装してですね。

アダン(常緑小高木)で。擬装して。飛行機が見えないような。両方から岩というのかな、岩壁があって、この両方に割れ目があったんですよ。だから壕と言っても、アダンを擬装をどけるとすぐ外なんですよ。

Q:食べ物なんかどうしていたんですか?

食べ物はありましたですね。兵隊が食べるの、あっちこっちの家に離れ借りて置いてありましたので。これをおやじなんかが担いで来てですね。かっぱらうというのかな。そういうあれで。米もあったし、乾燥ポテトですね。米軍の船がボラれて、流れてきたんでしょうな。夜はおやじなんか、親戚の方も2、3名いたので。だから乾燥ポテトなんかはだいぶありましたよ。

Q:水なんかも困らなかったですか?

水は困りました。でも、夜、こっちで、うちから壕までは1キロぐらいかな、だったんですけど、水は毎晩うちに行って、あれして来たんですね。

Q:当時の島の人たちのおよそ半分ぐらいが亡くなったわけですよね?

そうですね。まあ、約半分ぐらいですね。

Q:平安山さんのご家族、ご親戚も亡くなった方もいらっしゃるわけですか?

そうですね。いちばん上の兄貴が防衛隊(昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした)で亡くなりましたですね。

Q:伊江島で?

はい。

Q:そうですか。

どこで亡くなったのかも分からないんですけど。伊江島の防衛隊だったんですね。

Q:当時お兄さんはおいくつでしたか?その亡くなったお兄さん。

いくつかな、25、6(歳)ぐらいかな。

Q:壕の中にいても、恐ろしい目にもあわれたと思うんですよね。

そうですね。

Q:どんなことを覚えていらっしゃいますか?

・・・近いところに爆弾が落ちると、・・・でも揺れよったですね。

Q:最後は、捕虜になるときはどういう状況だったんでしょうか?

私なんかは海辺に行ってですね、海の潮引くと歩けるところだったですから、割れたところに行っていたんですけど、真謝区の人が、もうだいぶ住民は捕虜になって収容されているんだということで、もう出て行った方がいいということで行ったんですけど。

Q:それから慶良間の方に行かれるわけですよね?

はい。慶良間に5月の何日か分かりませんが、慶良間に。慶良間は渡嘉敷と座間味、座間味村の慶留間(げるま)かな?私たちは渡嘉敷だったんですけど。

Q:慶良間時代も結構、食料とか、なかなか・・

大変でした。向こうは食べるのは米軍がいる間は配給があったんですけど、米軍が島から引き揚げると、もう食料が無くて、ソテツ(実)も食べました。

Q:ソテツ?

はい。向こうソテツも十分にとれるぐらいのあれはなかったんですよ。伊江島だったらもう、ソテツはもう、いくらでもあるんですけど。今はもう、ソテツ、伊江島もないですね。

Q:ソテツっていうのは中毒を起こすんですよね?

あれは猛毒ですよ。あれは上手にあれしないと、猛毒なんですよ。

Q:どういうふうにして食べるんですか、あれ?

ソテツはですね、いちばん外側のものははがして、そしてから白いのが出るんですよ。だからこれを削って乾燥させて、乾燥したらまた水にひと晩ぐらい浸して、そして何か、茅(カヤ/干すために下に敷く)か何か借りて来て、それで発酵させるというのかな。そして食べるんですけど。

Q:そんなものしか食べるものが無かったわけですね。

無かったですね。慶良間は田んぼも少しはあるんですけど。向こうの、向こうの田んぼは何ヘクタールあるかな。それをみんなで耕したりしてやったんですけど、これが足しにもならないんですよ。畑もないしですね。伊江島のような畑もあるところだったら、1か年もいたわけですから、芋なんか植え付けしても、あれだったんですけど、畑もないんですよ。だからいろんな草食べましたよ。・・・の葉っぱなんかですね。

Q:草とかソテツでしのいでたんですか?

ええ。

Q:伊江島に、帰ってきて、随分変わっていましたかね?

全然変わっていました。家は一軒も残ってなかったから。伊江島全島で。

Q:どんなふうになっていたんですか?もう、家が全部潰されて?

はい。もう、松林があちこちあったんですけど、それのほかはもう、ほとんど米軍がブルドーザーでひきならして、あれだったですね。

Q:畑も?

畑も。米軍の兵舎にしてるところはコーラル(さんご)もしいて。だから畑をするのも大変だったですよ。開墾、開墾と言っても、牛や馬もいないし、人の手だけで。伊江島、平坦ですから。ほとんど馬耕だったんですね。馬でソッキョをひっぱる、あれしてたんですけど。馬でできる土地じゃなかったですね。つるはしで1日一坪とかで芋を植えてですね。伊江島に来てからもソテツを食べましたね。2か年もおいてほったらかしてるんですから、何も食べられないわけですよ。芋はあっちこっちにありましたので、これを探して。でも慶良間よりはよかったですよ。

Q:芋があるだけ?

はい。

Q:それにしても、畑もかちかちに固められちゃってるような?

はい、そうです。だからつるはしで起こすんですよ。鍬(くわ)でできるあれじゃなかったですよ。

Q:元に戻すのは、とてつもない大変なことだったんでしょうね。

そうですね。

Q:それで、帰ってきて、亡くなったお兄さんの骨とかは見つかったんですか?

どこで亡くなったのかも分からないですよ。もう兵隊とか防衛隊の場合は、ほとんど分からないですよね。

Q:変わり果てた伊江島を見て、どんな思いでしたか?

どんなというのは、どうかな。どう表現したらいいかな。ほんとに戦争というのは大変なもんですよ。跡形もないんですから。

Q:それでも一からもう一回やり直そうと思われたわけですね?

そうですね。

Q:最初は何を植えていったんですか?

最初は芋からですね。芋が主食ですから。

Q:住む家は。

家、あれは米軍が捨てたトタンが、埋められたものを掘り起こして、これで、まぁ何て言うのかな、雨をしのぐぐらいの掘っ立て小屋で、あれしてましたね。

Q:当時はアメリカ軍の兵士も島にいっぱいいたんですか?

帰って来たとき?

Q:ええ。

いっぱいいなかったですよ。そこのところには、米軍じゃなくてフィリピナ(軍属)がいましたね。フィリピナも、そんなに長くはいなかったと思う。

Q:そうすると帰って来たときは、こんなふうに基地の島になるとは思わなかったわけですね?

今のようなですか?

Q:ええ。

そんなことはもう、ぜんぜん考えてなかったです。戦争は終わったんだからもう、戦前のようなあれに、暮らしになると思っていたんですね。しかし真謝の場合は今、練習場の使っているところには、家建てられなかったですね。今、公民館のある北側のちょっとの土地にしか。だからこっちに来てから、あれだったんですよ。家を建てるぐらいの敷地しか無かったですよ。畑は、自分の屋敷、耕して、芋なんか作りよったわけですから。

Q:家は元あった場所に建てることは許されなかったんですか?

許されなかった。

Q:それはアメリカ軍が?

はい。

Q:でも、そんな基地になるとは、そのときは思わなかったわけですね?

ぜんぜん。

Q:じゃあ、そういうところで一からということで、つるはしで?

はい。

Q:そういうつるはしでやるような作業って、どのくらい続いたんですか?

起こすのは、ずっと続いて、土地、とりわけそのときからはだいぶ耕地はありましてですね。増えて行ったですね。馬もいましたし、牛も飼っていましたから。

Q:そのつるはしで作業始めてからですね、どのくらいで元の島に戻りましたか?

まあ、帰ってきたのが(昭和)22年か。だから、まあ、今のような大々的な農業はできなかったんですけれども、昭和27、8年ごろからは、あれだったんじゃないですかね。

Q:やっと暮らしも安定してきたんですね?

はい。と言っても、そのときまだ機械はありませんから。

機械での農業じゃなくて、馬耕。馬耕なんですから。でも、だいぶそのときからはサトウキビもあったし、もういろんな作物がありましたですね。

Q:段々こう、はじめ、4軒立ち退けとか言われて、やがて150何軒というようなこともあって、大変なことっていうのになったわけですね。そういうときに良有さん(平安山さん)たちは、村の人たちとどういう話し合いをなさったんですか?

地元ですか?はじめの4軒の立ち退きのときには、協力もして、立ち退いた家なんかみんなで作業をやり合ってしたんですけれど。あとから150戸の真謝の全戸数と西崎(伊江島の西部)が立ち退きだということになったもんだから、それから大変なことになるんだっていうことで。集まりをよくもってあれしたんですね。

もう、米軍が話し合いに来るというあれになると、鐘をたたいてですね、鐘をならして集まって。そしてみんなで話し合いというのか、米軍が言うことを聞いて。もし立ち退きになると、もう生活ができないということを訴えましてですね。

Q:それに対して米軍のほうはどういう言い方で答えたんでしょうか?

どうしても立ち退かないといけないということでしたね。それとあとはこっちは米軍は血を流してぶんどった島だから、否でも応でもこっちは立ち退かせるっていうあれを言ってましたですね。

Q:そういうのを聞いて、どういうふうに思いましたか?

どういうふうにって。もう大変になると。絶対に立ち退かないというあれしか。あれ、何て言うのか、そういうことでしたので。まぁ、反対をずっと続けてきたんですね。

そうして55年3月になると、米軍の武装した軍隊が来て、強制に立ち退きさせられたんですね。

Q:武装アメリカ軍が上陸してきたときは見ているんですか?

はい。まぁ、こっち・・・というところなんですけれど。こっちはカネクラというんですけど。こっちから300メートル、400ぐらいありますか、っていうところに米軍がテントを張ってあれしていましたですね。

Q:何人ぐらいいたんですか?

さぁ、300名ぐらいと言っていましたけれど。どれぐらいかあんまりその我々分からないですね。

Q:それで、まぁ壊されて、農耕も畑も潰されたりしましたよね。それでも平安山さんたちは、立ち入り禁止と言われていた場所にもあえて入って農耕を続けましたよね。何でそんなことができたんでしょうか?

これは私たちの土地であって、米軍の土地ではないというあれがあったからだと思いますね。米軍は力で私たちの土地を取ったんであって。本当の土地の権利を私たちがあるわけですよね。だからそれをずっと言い続けてきましたね。

Q:それは危険なことでもあったと思いますよね。

そうですね。だから32名の逮捕のときは、100名以上が、入っていたんでしょうな。そのときも銃でたたかれたあれがあるんですけれど。前に行く人はあれだったんですけれど、後ろになっている人は、「早く歩きなさい」と言って歩けということだったんですが。私もそのときたたかれたんですけど。

Q:いきなりアメリカ軍が皆さんのところに来たんですか?

そうですね。作業しているところに初めての飛行機が来て、低空して。その後に兵隊が来たと思いますね。はっきり覚えていないんですけど。

Q:それ兵隊が来て、どうなったんですか?

だから出なさいということで、追い出され、後からついて行くのは早く出ろということだったんでしょうな。銃でたたかれた人がたくさんいたはずですけど。そういってトラックに乗せられて。まぁ、・・・の中にみんな閉じ込められて。男の働き盛りの人だけ32名飛行機から嘉手納に連れて行かれて。翌日は裁判したんですね。
 
Q:ちょっと話、戻りますが、銃でたたかれた?平安山さんも?

はい。銃の後ろのほうは肩にあれするところは、ちょっと木こうやって広いですよね。こっちでたたかれたんです。

Q:どこをたたかれましたか?

脇腹。

Q:それでトラックに乗せられるわけですか?

はい。

あんなことは本当、法律もあればできるあれじゃなかったと思いますよ。

Q:どんなお気持ちがしましたか?

本当に27年間法律というのもなくて、米軍の布令って言うんですか、っていうあれで、沖縄の人たちはあれされたわけですから。

Q:そのときの確か写真だったと思うんです。説明書きによると。それで執行猶予の処分が出て・・

この姿でみんな畑仕事なんですから、このあれで。みんな連れて行かれたですね。

Q:裁判が終わったあとも帰らずに座り込んでいたという写真ですね。

すぐ伊江島に帰りなさい、トラックは準備しているからということだったんですけど。これは沖縄の那覇あたりに行って、そういうあれで逮捕されて、裁判にされたんだということを訴えるために、すぐ伊江島には帰らないということを私たちは米軍に言って、政府に、琉球政府ですね、に言って。翌日のあれが、行使しているあれなんですけど。

Q:この中に平安山さん、どこにいます?

真ん中あたりにいると思うんですけど。これだと思いますね。もうこのときの人なんかほとんどいないですよ。これが私だと思います。

Q:写真を見ると、皆さんとっても怖い顔をしていますけどね。頭にきていたんでしょうね。

土地は取り上げられて、裁判にまでかけられているんですから。本当に怒った顔しかできなかったんじゃないですか。

私は那覇に。今の県庁のところに、そのときまでは向こうも空き地がだいぶありましたので、向こうに掘っ立て小屋で陳情団が行ったら、集まるところ。集まるところと言っても、この半分ぐらいしかなかったんですけど、こっちの番もしたり、したのが私は多かったですね。

Q:こういうふうに立て看板とスピーカーで訴えたわけですね。聞いている人たちの反応はどんなだったですかね?

私は石川っていうところに行ったんですけど、真剣に聞いていらっしゃいましたですね。だから陳情口説(“乞食行進”の様子を歌詞にした琉歌)にもありますように、町からの買い物をして帰る人なんか、少しずつカンパしてくれたりして、歌にもありますとおり、そういう事でした。私は石川・・

Q:石川の方に行かれたわけですね。石川の方だと・・

カンパで募金箱も、箱じゃなくて帽子をですね、麦わら帽をあれして置いたんですよ。そのときにカンパというのは農民の私たちには分からなかったわけですから。

Q:けっこう集まったんですか?

集まりましたですね。

爆弾ですか。あれは演習地に入って、演習が終わったら掘り出すんですよ。だから深いところになると、岩石に当たると、深くに入らないんですけども、土だけのところだったら、一畳、もっともっと掘らないと取れないあれもあったんですけれど、これを夜中に取ってきて。爆弾なんかは鉄橋を作る材料にするということで、値段もこれぐらいだったかな。よかったですよ。そのあれで、ま、食料にあれしていたんですけど。
金になる作物もないし、これしかまた、なかったんですね。

Q:夜掘ると言いますけど、それがそこにあるっていうのはどういうふうにして分かるわけですか?

演習場の演習をやっているところに入って行くんですよ。

Q:演習中に?

はい。そうして落ちたところを確認するわけですね。そうして夜は掘るんです。

Q:何か旗を立てたということをどなたかに聞いたんですけど。走って行って。それはどういう事だったんですか?

誰々が1番に行って、見つけたんだということですね。

爆弾が落ちるところを遠いところだとすぐには分からないんですけど。
土を飛ばすんですよね。そのあれを見て。“こちら辺だ”というあれをあれして探して。1番に見つけた人が何て言うのか、権利というのかな、あれして(旗を立てて)、夜堀に行くんですよ。

Q:競争するわけですか?土煙があがりますよね、そこにみんな競争して走って行くわけですか?それは危ないですよね。

危ないですよ。でも爆弾をあれしているときに死んだ人はいなかったですね。爆弾に向かって走って行くんですから。

Q:爆弾に向かって走って行く?

向かって行くんですよ。飛行機から放したときから見えるわけですから。だからここら辺に落ちるんだなという事を推測して、これに向かって走って行くんですよ。1番にこれを見つけないと、1番に見つけた人が権利があるわけですから。だからそういう事でやっていましたね。

Q:その権利を得た人が、夜中に掘るわけですか?平安山さんもだいぶ走ったわけですね?

走りましたよ。そのときまではまだ20代の半ばですから。

Q:そんな危ないことをしなきゃいけなかったということですよね。

そうでしたね。金になるあれはなかったわけですから。まぁ、爆弾の場合は鉄筋を作る材料に売れよったんですよ。だからそういうことで。

Q:それで生活の足しになったわけですね?

そうですね。

Q:でもそれで持って来てから庭先でお二人亡くなっているじゃないですか。

あれは1トン爆弾と言っていたんですけど。あの爆弾はまたジュラルミンもついていたし。こんな大きな爆弾なんですよ。あのあれを解体してあれするために、爆死したんですね。

そのときからは真謝区と西崎区はそのとき一緒になって反対したんですけど、村がこっちにため池がありますよね。これを作ってもらおうというあれで。あれしたんですね。私たちは反対したんですけど。いちばんあれするのは伊江島の軍用地をあれしているのは、演習場が黙認耕作地が城山の、いま、(米軍)通信隊のところあたりは、向こうは(米軍)通信隊のあれだけしか使っていないんだけど。向こうの周辺みんな黙認耕作地なんですよ。だからそのあれが黙認耕作地を返すというあれなんかも、おどしのひとつにあるんですね。

Q:基地を受け入れてしまうという現状について、平安山さんはどういうお気持ちを持っていらっしゃいますか?

何て言うんですか、生活をするあれにはそうしなければいけない人もいるのかとも思うんですけど、基地というのは、米軍の基地というのは人を殺すための演習をするあれですよね。だから戦争につながる基地には土地を渡してはいけないというあれが、これまでの体験からしてそういうことになりますね。私は基地のあるところが相手のところも何て言うのか、攻撃するわけですよね。去った戦争でも伊江島も飛行場があったし。軍隊がいたし。日本兵も伊江島は本当に何千名いたかは知りませんが。城山の下もみんな陣地なんですよ。陣地があちこちにあったものだから。米軍の上陸も、また犠牲者も。米軍が無くなったのは、伊江島があれだはずですよ。中学校のあるところなんかも激戦地だったようですが、向こうには戦車も戦後までも全部があったんですね。爆雷をもって戦車の前に肉弾ですね。やっていたようです。

Q:そういう過去があるわけですからね。

そうですよ。伊江島の場合も自爆の・・家族全滅しているところもありますからね。兵隊と一緒に逃げた人なんかが多いんですよ。兵隊がいないと手りゅう弾とか爆発物もないわけですけれど。うちの家内の兄さんなんかは(手りゅう弾を)3つ持ってきて、うちの家族に渡そうとしたらしいんだけど、おじいさんが「何を言うか、命があってはじめてのあれじゃないか」という事で追っ払ったようですけど。1つは敵を殺すもの、1つは自分がもしものときには死ぬもの、1つは家族にあれしなさいという事だったみたいですけどね。私なんかは兵隊と一緒の壕じゃなかったですから。そんな事なんかはなかったですけど。

Q:平安山さんたちの世代だと、戦争のむごたらしさっていうのが骨身にしみているわけですね。

そうですね。うちの家内の兄弟で末っ子はまだ1歳の誕生もならなかったみたいですけど、壕の中でもう狭いし暗いから泣いてあれしたもんで、兵隊から怒られて。親子2人で崖のそばで暮らしたあれがよく話していたんですけど、そうだったみたいですよ。

Q:そういうご経験があるから、基地は絶対反対なんですね。

そうですね。

Q:平安山さんの畑で一生懸命お仕事なさっていると、時々ヘリコプターが来たり、飛行機が来たりしますよね。どんな気持ちで見ていらっしゃいますか?

接収当時は民間地域にも爆弾も落ちよったんですけど、今では爆弾の演習っていうのはあんまりないんですね。今のあれするのは落下傘、荷物を落下するあれとか、人間が落ちるあれとかですけど。接収当時はこちらへも弾がよく落ちましたですよ。そのときの人間があれする落下傘でも今は演習場はないですけど、はじめの場合はこちらの飛行場ですね。向こうに着地するようなあれを置いてやりましたから。今畜舎のあるところに1回落ちましたですよ。弾なんかもこちら辺何回も落ちました。

Q:平安山さん今、あれ、音が聞こえているのはオスプレイですね?さっき見えましたよ。

そうですか。

Q:ここでお仕事していると、よくヘリコプターとか飛んでくるんでしょうね。

そうですよ。たまにはこっちの上も。飛びますよ。

Q:やっぱりうるさいですか?

うるさいですね。何て言うのかな、これまでのヘリコプターの音とは違うんですよ。やっぱ心臓に来るというのかな。地面を震わせてるのかな、そのあれが。これは家の中に座っていても、これはオスプレイだなっていうことは分かりますよ。

Q:長い間平安山さんたち、闘ってきたわけですけど、変わらないですね。

かえって悪くなっていますね。日本政府がアメリカの言うとおりのあれですから。段々そのあれが。復帰前とは違って。そのときまでは米軍もあれだったでしょうけれども、今では日本の政府が認めているわけですから。米軍もやりやすいんじゃないんですか。政府はどこの政府であるのか。その辺をはっきりしてもらわないといけないと思うんですね。何か新聞なんかマスコミだと本土の人の考え方と、沖縄の人の受け止め方が違うようなあれがあるみたいで。その辺もお互い勉強し合いながら考えていかなければいけないと思いますね。

Q:平安山さんも落差があるってお感じになりますか?

そうですね。新聞なんかを見るとだいぶのあれがあると思いますね。

Q:何ででしょうね?

さぁその辺が。とにかく去った戦争でこっちはもう目の前で殺し合いもしたんですけども、本土の人は空襲ぐらいのあれでしょ。だからその辺のあたりのあれもあるのかなと思うんですけど。だから皆さんの考え方もどう出るのか。ぜひですね、これは沖縄だけの問題じゃないと思いますから。みんなで考えながらやっていかないと、日本政府はその辺も考えてないと思いますよ。

Q:平安山さんはもうあれですか、この土地、軍用地契約するおつもりはもうないんですか?

ないですね。こっちは71年に解放になったところなんですよ。70年か。復帰の前に。そのときまでは、伊江村の63%が軍用地だったんですけど、今はもう35%ぐらいに。ただ(軍用地を)数を減らすためにあれ(契約拒否)したもんだと思うんですね。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄戦、そして求め続けた軍用地返還】

出来事の背景 写真昭和20年3月、米軍が沖縄に侵攻、住民を巻き込んだ激しい地上戦がおよそ3カ月間続き、住民の4人に一人が命を奪われ、本島南部は灰燼に帰しました。生き残った人々も、各地に作られた収容所に入れられ、十分な食べ物もなく過酷な生活を強いられました。終戦後しばらくしてから人々は、収容所から解放されました。しかし、沖縄本島中部を中心に多くの住民の土地が米軍基地になっており、家や墓はつぶされ、畑もなくなっていました。

沖縄本島の北西に位置する伊江島では、沖縄戦で住民の半数が命を落としました。生き残った人々は、渡嘉敷島などに強制的に移住させられ、2年ののち島に戻ると、広大な米軍基地ができていました。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕していた土地を暴力的に取り上げました。

生きるための土地を失った伊江島の人々は沖縄中を行進、土地の強制接収の非道さを訴えました。この動きは、1956年の「島ぐるみ闘争」と呼ばれた反基地闘争として沖縄全体に広がっていきました。その結果、米軍による地代の支払いなどに関して一定のルールが確立され、本土復帰運動にもつながっていったのです。しかし、いまも伊江島の面積の三分の一は米軍施設であり、土地の返還を求める人々がいます。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1931年
沖縄県国頭郡伊江村に生まれる
1945年
(4月、米軍が伊江島に上陸)米軍により慶良間諸島・渡嘉敷島に強制移住させられる
1947年
伊江島に帰島する
1955年
6月、米軍が接収した土地で農作業中に逮捕され、本島の嘉手納基地に連行される。懲役3か月、執行猶予1年となる
 
7月、伊江島の窮状を本島で訴えるため"乞食行進"に参加
1961年
「伊江島土地を守る会」の発起人の一人となる

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日本(沖縄・伊江島)

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