ホーム » 証言 » 赤木 實徳さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「ゼロ戦の輸送任務」 番組名番組名: [BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~ 放送日 2013年8月3日、10日
名前名前: 赤木 實徳さん(ゼロ戦搭乗員 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、マバラカット) 台湾 日本(茨城) 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2013年4月8日

チャプター

[1]1 チャプター1 海軍へ志願  08:24
[2]2 チャプター2 厳しかった新兵教育  02:56
[3]3 チャプター3 飛行兵を志望  06:18
[4]4 チャプター4 戦闘機搭乗員  07:27
[5]5 チャプター5 ゼロ戦の輸送  04:09
[6]6 チャプター6 十・十空襲  05:34
[7]7 チャプター7 特攻機になったゼロ戦  08:29
[8]8 チャプター8 不時着  05:12
[9]9 チャプター9 危険になった輸送任務  03:53
[10]10 チャプター10 増えていった整備不良の機体  06:22
[11]11 チャプター11 思い出の“白いマフラー”  02:48

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
番組名番組名: [BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~ 放送日 2013年8月3日、10日
収録年月日収録年月日: 2013年4月8日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

これはゼロ戦の52型っていういちばん新しいのです。終戦前にこれに乗っていたものだから、それで模型屋さん、お店の方に作るのが好きな人がいらっしゃるから、その人に作ってもらってそれから持っているんです。もう30年ぐらいになると思います。それからもう一つこれも。これが私の実物。

Q:実物?

写真を送って作ってくれたんです。名前が全部入っているでしょ。

Q:どうして?

それはね、全国の事務局やっていたの。解散するときに、長い間赤木さんご苦労さんだったから、何か作るかい? って、それから写真を送ってこれを入れてですね。それから送ったんです。だからこの名前もだけど。ここにも小さい名前が書いてあるでしょ。ここにポケットに地図が入ってあるんです。それがこれです。これが戦前の航空地図です。これがここに入っているんです。

Q:赤木さんが飛行機乗りになっていったきっかけあたりから教えてもらっていいですか?

私は海軍の水兵から入ってきたんです。海軍にとにかく入りたいという気持ちがあって。というのはね、私の兄弟は男兄弟が3人おったんです。5人兄弟で兄がおって、兄が2人おって、私がいちばん末っ子だったんです。そういう戦時中だからね、もう何とか国のためっていうんですか。そういったところへですね、とにかく軍隊に入りたい一心でですね、親に何も言わない、兄弟に言わずに海軍に志願したんです。志願して合格したよというのが来て、それでやがて海兵団に入ると。入るのは改めて通知が来るから、通知が来てからそれをね、入団が決まったら大竹海兵団入団っていう通知が来たので。その入るときに水兵で入った。行き先は整備兵とか、機関兵の学校が場所が違う。入隊する場所が。水兵だから大竹海兵団に入って。

Q:志願されたときに第1希望とか、何を希望されたんですか?

第1希望は水兵。第2希望は整備兵。第3希望は機関兵というものに出していたから、それを出したから、それで採用は水兵で来たということなんですね。

Q:水兵を第一希望で志願した理由はあったんですか?

別に理由、それはなかったです。一般的に水兵っていうのは何でもやるわけですね、海軍としての。整備兵っていったら飛行機の整備っていうことですね。機関兵というのは船の機関兵です。陸上がないんですね。やはり水兵というものは海軍の全般的なことをやるわけですから、だからそれの方に入れば、とにかく何も一生覚えられるということでですね。だけどもまだ若いときでしょ。体力的なものがなかなかついていかなかったですよね。だけど周りみんな年は大体一緒ですから。

Q:おいくつのときなんですか、それは?

17ですね。17歳と、誕生日が来るちょっと前にね、志願してですね。それからそういう戦時下で若い者は徴兵検査まで待たないで、志願して入るというと、陸軍よりも海軍が多かったですね。だから海軍の方へ皆さん若い人が希望して入る。水兵服を着た格好もいいということもあったでしょうけどね。

Q:かっこよく見えていたんですか?

まあまあ見えるんですね。一般の陸軍の場合と見てですね。だけどどうしても若い人は憧れはやはり多かったですよ、水兵の方が。

Q:憧れというのはどんな感じだったんですか?

まあ外見から見たですね、第一は服装ですわね。それから陸軍はたくさん歩かなければいけないけど、私らは土踏まずがなかったからね、行軍なんていうものは無理だから、水兵だったらいちばんいいなと。歩くのにもそう長距離を歩くことはあまりなかったですからね。ということです。そういったこともあったですけどね。

Q:同年代のお仲間もみんな憧れていたんですか?

皆一緒ですよね。私は入団したときは17歳。まだ若い人は16歳の人がいて。それから上は18歳、19歳、20歳、21歳の人も。21歳って言ったら、いわば徴兵義務があって、それから入る人ですけど。志願兵というのは徴兵になる前です。徴兵検査で入る人は志願兵とは言わないですから。志願して入る人は一般の。だけどね、その当時もう戦時中になってるころから、町、特に公共施設ですね。そういったところに大きな海軍の海軍兵募集した大きなポスターみたいなものがあったんですね。

Q:どんなポスターだったですか?

まあ水兵服を着た格好のですね。いちばん初めは入るときは水兵ですから。だから水兵に入れば、もう海軍のことだけ一応のことは全部習わなければいけないですから。それが5月に入ってですね、8月15日に海兵団を出るようになるんです。3か月。だから3月31日に、4月ですわね。4、5、6、7、8、8月15日、4か月半ほどでですね。それで出るときにあんたはどこへ行けと。どこに乗れと。戦艦大和に乗れっていう人もあるし、それから巡洋艦で行けとか、それからどこどこ基地へ行けとか、どこの防備隊とか、どこどこの陸戦隊に行けとか、まあそれぞれそのときに希望はなかったですね。ただ私は船に乗りたいということだけは言ったのを覚えているんです。それで、結局私はそれに乗ったのは、巡洋艦の「八雲」。八つの雲ですね。「八雲」という巡洋艦があって、それ1万トン級だったと思うんですけどね。それに一応配属が決まった。

Q:けっこう大きな変化があったんですか?

変化はありました。なかなか厳しい。もうそれで、朝起きたらすぐ掃除ですよね。兵舎で掃除をしても、船と見立てて甲板っていうんです、床を。甲板掃除というものがあるんです。そういうものを朝日課でやって、それから掃除が終わるとですね、初めて今度は朝食になるんですけど。まあその前にさっきハンモックの話をしたですが、海軍は全部ラッパで指示ですから。ラッパで朝起きるときからラッパで指示して、このラッパは何というラッパだと。それも覚えなければいけないですけどね。それは自然に覚えてくるようになるんです。ラッパのそういうことが必要なら残しておけば良かった。他の人に昔のテープは貸したんですけどね。そういった指示があって、それから朝食があって、それから今度は課業始め。その前に軍艦旗。起きてからですね、すぐ軍艦旗揚げ方ですね。それで時期によって若干揚げる時間は違っていたんですが、軍艦旗を揚げて。それから今度、課業始め。仕事、今日の日課の始まりなんですね。総員起こしして、ハンモック片づけ、甲板掃除して、それから朝食を食べて。それから次の課業が始まる。課業は確か9時だったと思うんです。8時に軍艦旗揚げ方があるんです。そこへいっぺん全部誰もが整列して、軍艦旗が揚がって敬礼して。それで軍艦旗が揚がるのをずっと見ているんです。それが1日のいちばん始まり。そうするとね、それを見ているとキリッとした気がするんですよ。自分は海軍になったぞと。やらにゃいけんぞという気になるんですね。課業始めというものがあって、その課業はいろんな課業があるんですが。武道的なものばかりじゃなくて、海軍としての精神教育。精神教育というものがありますからね。これもこの本にね、海軍の五か条的なものが書いてある。

Q:覚えていらっしゃいます?

いや、もう覚えてないですが。

それで今度は軍艦、巡洋艦「八雲」というのに乗ったわけですね。私の場合は。その巡洋艦「八雲」に乗って、その「八雲」に乗ったらいろんな貼り紙がしてあるんです。ポスターが。海軍の志願兵は必ず学校に行かなきゃいけないんです、上の学校へ。志願兵はいろいろな砲術学校から、信号から、いろんなそれぞれの学校があります。工作から主計からですね。学校がありますので、その学校へ入らせるんです。それで早く任官して下士官になりなさいと。それで部下を指導しなさいということなんですね。その中に飛行兵があったんです。飛行兵の貼り紙があった。それを見てですね、かっこよかったですね。これがいちばんいいですわね。

Q:かっこいいというのは。

ポスター。これよりもっと大きいようなですね。このぐらいを合わせたようなものですかね。そういった紙に飛行兵募集というものが出ているんです。下で飛行兵の服を着て敬礼しているところが出る。後ろに飛行機が写っているんですね。そういった募集があるんです。飛行兵募集で、そこでさっき甲種、乙種、丙種って言ったんですが、甲種は初めから募集に行くんですけど、乙種も一緒で。丙種の場合は、いっぺん海軍に入って、海軍の飯を食べて、それから自分の希望でそれを希望してですね、それで18年の3月31日にですね、岩国航空隊へね、水兵っていうか、丙種の希望者が約3,000人集まったんです。全国から。その船に乗っている外地に来ている人もですね、例えば陸戦隊の海南島の方に、トラック島に行っている人も、その募集があってですね。それを言えば必ず上司の人は受けろということを言われるんですよ。それで何人そのときに募集するかが分かっていないんですよ。そこで飛行兵募集があったから、その募集に私らも参加して。

Q:3,000人とはやっぱり多いものなんですか?

多いんですよ。その階級が水兵上がりしなのいちばん下からですね、もう兵長になっているような人もおりますしですね。

岩国に入って、何名募集かは分からなかったけれども、約3,000人集まった、全国から。それで1か月間適性検査とか、いろいろなテスト的ないろいろなもの。夜中に起こして発光信号ツーツーツーツーとモールスで流れる発光を見て、それ何と出たかってね。それをずっと書いていくとかですね。そういったこと。とにかくありとあらゆる飛行兵に必要ないろいろな検査。まあ適性検査ですわね。体力検査。それがいちばん主ですわね。それで合格したものが、合格通知があるわけですけれども、合格する前にね、これで駄目だ。この航空兵に向かないという人は、その日から除隊してどんどん帰るんです。帰るというのは、各海兵団に帰るんです。呉の人は呉の海兵団。横須賀の人は横須賀の。舞鶴の人は舞鶴。佐世保の人は佐世保の現地の自分の出身地。そのとき誰もが兵籍番号というのを持っているんです。水兵に入ったら。すると、呉志水、呉の志願兵の水兵、私は何番だというので兵籍番号が打ってある。いわばそれぞれの一人一人に対して番号があって、それでみんな分かるようになっていた。

Q:赤木さん何番だったか覚えていらっしゃいますか?

僕はね、367なんぼだったかな。ちょっと覚えんですが。その中に今度はそれで一応飛行兵に入って、ずっと今度は飛行兵はですね、8月31日だ。に卒業があったんです、岩国を。あ、8月25日卒業で、そのときに、あなたはどこへ行けということが第1番。操縦になりたいか、操縦員になりたいか、それから偵察になりたいか、それの希望があるんですよ。それでそのときに、操縦の人は多いですけれども、飛行兵を志願すると、一応大体合格すると、親の同意書がいったんです。親に同意書を送ってもらってですね。送って、飛行兵になると。すると親はそれを承知(する)。いつ死ぬか分からないから、まあ戦死する率は早いですね、どうしても。それで親の同意書をもらって。

赤とんぼ(九三式中間練習機)に乗ったときに、それは谷田部でですが。谷田部で赤とんぼに乗ったときに、あなたは飛行兵の操縦で何の飛行機に乗りたいかと、希望を出すんです。第1、第2とあったんですけどね。その希望を出される。その希望によって班長、また全部まとめたもので何人採用しなければいけないということが決まっていたと思うんですが。それで私は、艦上攻撃機。航空母艦に乗る艦上攻撃機。

そして赤とんぼで練習する中で、さっき写真がありました。赤とんぼで訓練するとき、教官が後ろで、操縦する生徒が前におって。それでペアでやるんですが。いろんな練習が、飛行の練習が左旋回、右旋回とか、急降下とか。それから宙返りがあるんです。複葉で宙返りするんです。宙返りしたことが何回かあるんです。そのときに教官から、「赤木、おまえは戦闘機だ」とこう言われたんです。ショックを受けたんですよ、本当は。というのは、自分は攻撃機のつもりだったけど戦闘機だと。何でかというと、「おまえは荒っぽい」と、操縦が。「操縦が荒っぽいから戦闘機だ」と言われた。それで、後から冷静に考えてみると、戦闘機を希望する人が少なかったから、それから採用したものか、本当にやったものか、それは分からないけれども、ともかく戦闘機だと言われまして。それで戦闘機へ行かなきゃいけないなと。それで戦闘機は戦闘機の訓練航空隊があるんです。その航空隊が松島なんです。今のあそこは宮城県ですね。宮城県の松島飛行場というのがありまして、そこへ配属になったんです。そこは戦闘機だけなんです。

まあ難しいと言えば難しいかもしれないですが、その訓練を今度やるときにはですね、教官が30メートルぐらいのロープを着けて、吹き流し。飛行場に必ず吹き流しがありますわね。あの吹き流しを着けて飛んでね。飛んでから訓練すると、下が海でなければいけませんから。実弾射撃をやるんです。実弾射撃をやるときに、自分は弾は何色って色が塗ってあるんです。赤・黄色・青だったと思うんですね。確か3色だったと思うんですけどね。それでその3色でですね、自分が赤なら、赤木は赤だと。それで赤ということになれば、赤ということでですね、その色の付いた機銃、実弾を積んで上がるんです。それで今度は教官が、海上の上に吹き流しを引っ張って歩いて(飛んで)いる。それに自分が攻撃して撃つんです。実弾を撃っていく。その吹き流しは白の吹き流しで、当たるとその色が移る、出るわけですよね。それからその吹き流しをみんな3人が攻撃が終わるとですね、いっぺん教官がずっと回って飛行場の上でその吹き流しを落としてしまうんです。ロックを外して落とすんです。その後へ我々が大体3機ですね。回って下りてくる。

下りてくると、誰が当たってくるとか当たってこないとか、すぐ分かるんですよ。当たっている人はいいけど、当たっていない人は食事抜きとかね、そういったことは。それからいろんな罰直、今では考えられないですね。いろんな訓練とか罰直。要は早く覚えて、実戦部隊に出るように、早く教育しなければいけないですよね、教官は。

Q:その時期っていうのはすごい短い期間で搭乗員を膨大な数を教育していったっていうことですよね。そのことについてどれくらい大変さだったのかとなぜそういうことが起こったのかとか細かく聞いてもいいですか?

もうそのときは、何か月間でどうということはなくて、とにかく自分は飛行兵になったからには、もう飛行機に乗るということは第一番ですわね。飛行機に乗ったから戦争に出なきゃいけないということで。戦地へ出なければいけないということですわね。それらはみんな覚悟していた。覚悟ができなければ飛行機には乗れません。それは皆さんが全部ですね、飛行機に憧れていったのは、そういうこともある。その代わりいつ死ぬか、戦死するか分からないよということです。

Q:わずか入隊して1年もたっていないころじゃないですか。それでも死についての覚悟ができていたんですか?

もう初めから皆さん大体死の覚悟はしておられますから。親の同意書をもらったときに、親はもうこれはいつ死ぬか分からないよ。飛行兵になったら。そういったものに同意しますよと。いつ戦死してもいいですよということですわね。そういうような同意書を、各自分の実家へ送って、それを返信してもらって、それをみんな出したものですよ。それを覚えているんですね。

Q:赤木さんのご両親というのも。

もう両親はいなかったんです。兄がいたからそれに頼んでですね、書いてもらった。それでその兄も、上の兄も次の兄も、その後召集を受けてみんな出てしまったです。みんな海軍に行ったんですが。その代わりみんな帰ってきたんですけどね。だから飛行兵になったからって、自分の命を惜しんでいたら全然駄目です。あとはたくさんの予科練というものがありますが、皆さんが憧れて行くのは、七つボタンが格好がいいということではなくてですね、もう死ぬるのだということは皆さんそれは覚悟しておられるはずです。

Q:死ぬかもしれない飛行兵に対しての憧れの気持ちっていうのは今の時代の僕らからしたら考えられないんですけど。

考えられないです。憧れは分かりますけどね。搭乗員になりたい。操縦士になりたい。その憧れはあっても、死ぬなんていうことはね。それがセットになっていた。いわば憧れと一緒にですね、いつ死ぬか分からないと。背中合わせですね。

Q:昭和19年は整備が行き届いていないゼロ戦もあったんですか?

それはたくさんあるんですよ。

Q:それはどうしてですか?

それはもうやっぱり学徒動員というので、学生なりを高校(旧制中学校や高等女学校)へ入ったような人を、男子も女子もですね、学徒動員で行っていますから。そういったところで、例えば私ら今度は木更津から三重県の鈴鹿に出たんです。鈴鹿に行ったら、鈴鹿からですね、名古屋の三菱重工まですぐなんです。距離的にね。それで持って帰って飛行機をまたそこで整備するっていってね。いわば飛行機の組み合わせ、リベットで留めてあるでしょ。それが穴が開いたままで留めていなかったり、そういったこともありましたしね。

Q:リベットが留められていないっていうのは初歩的なもの?

もうそれは初歩的なもの。それ風圧が上がったら飛んでしまいますからね。それでだから三菱重工でいっぺん出来たものを、我々の先輩が古い人がテスト飛行をやるんです。それでこれをいわば三菱重工、企業から軍が受け取ってもいいかどうか、テスト飛行をやって、合格をすればそれを受けるわけです。それを持って帰ってもまだ直さなければいけないところがたくさんあるんです。ところがどんどん生産して出さなければいけないから、どんどん悪い飛行機というか、よほどエンジン関係でしょうけど、それなり以外は大体全部受けて。それで鈴鹿なら鈴鹿へ持って帰って、そこでまた空廠があってそこでまた整備するんですから。そのときの整備員もたくさんおられます。だけどもね、今みたいに教育を受けて整備しているわけじゃないからですね。みんな速成ですからね。よほど古い人がいい具合に点検してあるといいですけどね。いろいろトラブルがありました。それはね。

Q:どんなトラブルがあったんですか?

例えば、高度計がいい加減だったとか。高度計がですね、作動しないとか。それから水平計が水平にならなきゃいけないのに、それに誤差があって直っていないとか。それから速度計が出ないとかですね。そういったことなり。高度の関係、速度の関係、そういったものがよくあったですね。

Q:そういう初歩的なトラブルが納品される段階であるとすると・・・

完全にそれは整備できていなければいけないんですよ。だけど中にはそういったものもあるわけです。自分らが今度それをもらって、それを今度は外地へ持っていかなければいけないんです。それが私らの部隊だったんです。それで出来た飛行機が古い飛行機じゃなくて新しい飛行機を出来しな(出来たばかり)の飛行機を早く外地へ持っていくということで、今度は鈴鹿からですね。鹿屋、鹿児島県の鹿屋ですね。その隣に笠野原っていう飛行場があって。そこか沖縄。あとは台湾、フィリピンへ持っていくわけ。

19年の10月10日だったと思うんですけどね。沖縄まで行ったんですよ。そうしたら、アメリカの機動部隊がおって、そこら辺全部やられてしまって。私は沖縄まで12機ぐらいだったと思うんですけどね。来て、沖縄で一晩泊まって。それをみんな各か所へ分散して、それから翌朝その飛行機を各所からみんな集めて、一列に並べたりして、そこにグラマンが来たんです。空襲警報がないときにですね、それ来て初めて、撃たれて初めて空襲警報があるんですから。飛び上がるなんていうことはできないですね。それでダダっと焼夷(い)弾と一緒に焼かれてしまったんです。そのときにロケット弾も来るから、それで私はね、整備員も一緒に、近くに防空壕があって、そこへみんな入れっていうことで飛び込んだんです。こっちの入り口のもんからからこっちの分までみんなロケット弾で。まあそういうこともあったですけどね。

Q:真新しい飛行機を。

真新しい。まだ1回も戦地へ出ていない新しい飛行機。本当に航空廠から軍が受け取って、それを一度テストして、それから外地の基地へ持っていくということで。19年は10月の10日だったと思うんですけどね。あそこの沖縄の小禄の飛行場まで行ったんですよ。行きました際に、そのときは良かった。その翌朝ですね。空襲を受けて、グラマンの戦闘機の空襲を受けて、それみんなやられてしまった。飛行場にいろいろな爆弾を落として、飛行場が使えんようになってしまったんですね。そういうことをやってですね、それで私は焼かれてしまったからどうもならんで、二晩ほど沖縄の防空壕に入っていて。2日、3日ぐらいね、那覇港で、那覇の港でですね、船って、軍艦じゃなくて、いろんな貨物船とか弾薬を積んだ船もあったでしょうし。そんなものが3日ぐらい燃えていましたけどね。

Q:それをずっとご覧になっていたんですか。

それ夜になると見えますから。明かりがですね。港は直接見えないけれども、それ明かりが見える。そういったときに、すでに北の方の満州とか朝鮮とか、ああいうところにおった軍隊。まあ陸軍ですわね。そういったものを貨物船の大きなものに積んで、それをみんな南へ下げたんです。南の戦闘に。もう北はそんな心配はないと。大丈夫だから、とにかく南へ行かなければいけないということで、南へ陸軍ですね。陸軍の関係の人、みんな南へ行かせたんです。そうしたときに、沖縄で停泊中にたくさん亡くなっておられる。それを聞いたんですね。それから爆弾もですね。それで私がね、出た後。10月の・・・

Q:真新しい飛行機がむざむざと燃やされていくのを目の当たりされてどういう気持ちになられたんですか?

涙が出たんですね。それで自分の飛行機は乗るときに、「この飛行機は、赤木、おまえだよ」と。割り当てされるんですよ。いいとか悪いとか分かりませんよ。みんな一応合格したもので。それをね、自分の飛行機の後ろに、尾翼にですね、赤なら赤と書くんですよ。飛行機の写真、どれでもいいですけどね。例えばこれ。戦闘機がこの後ろへ、ここへね。ゼロ戦ならゼロ戦の後ろにですね、ここに番号が書いてある。これは航空隊の番号なんです。それから新しい飛行機。航空隊に所属してない。まだね。それで自分の赤木なら赤木受け持ちの飛行機ということで、「赤」と書いてですね、下士官はヤマジロってキンショウを付けるからそれを付けてですね。この飛行機は誰の飛行機だよということがすぐ分かるんです。それはチョークで書くから薄いですけどね。それらを皆さんがみんな1機1機全部、自分の飛行機は自分の飛行機としてですね、大事にですね。それを外地へ持っていかなければいけないと思っている。

そのときは台湾沖航空戦(10月12~16日)っていうんですが。そのときにみんな飛行機がやられたんですよ。私はもう飛行機がないからどうしようもないから、それで内地へ帰るって言って、何かの部隊の大型機に乗せてもらう、その段取りを上の人がやっていた。それで私は帰った。その後に入れ替わりに次の人がまた出たんです。そのときは飛行場も一応直っていて、それからその人らは、沖縄から台湾、フィリピンに行ったわけ。フィリピンで10月25日に大黒氏が特攻に出る。その前の日だかに着いているんですよ。その連中が今写真に一緒に写っていたんですが。それはもうこの4年、5年前にみんな亡くなってしまっているものだから、大黒は特攻機で19年の10月25日に特攻機をフィリピンのマバラカットから飛び立つときに見送りしているんです、同年兵をね。そのときに特攻というものが初めて分かったっていうんです。爆弾を抱いて、それで自分が爆弾、25爆弾って言うんですが、250キロ爆弾を抱いてですね、それで直接敵艦に当たる、体当たりするわけですわね。体当たりするのが特攻なんですから。

それでその飛行機を輸送するのは、私は専門部隊になってしまったから。だから特攻にあんた方の部隊は特攻なんかに来てもらったら兵員が足りないからということで、それ次々といわば分隊長が順繰りにですね。次は誰と誰と編隊を組んでいくと。誰が指揮官だということを指示が出るんです。するともうそれは1週間ぐらい前から分かっていたんですね。今度来た飛行機は誰が乗るということ。それで私はもう今第1回、沖縄に来たけど、沖縄でやられてしまって。それから、内地へ帰ったんですよ。それで内地へ帰ったのはどこだったか。鈴鹿へ帰ることは帰ったんだ。それで次の飛行機の輸送の指示が出るのを待っていた。そのすでに既に大黒らを見送った仲間のものが飛び立って、次同じコースで沖縄へ来て、台湾に行って、それから台湾からフィリピンに来て。それで10月の24日にですね、そこへフィリピン・マバラカットに着いているんです。それで10月25日に戦死しているんですね。それでそのときに特攻が出るって、見送りをするって、特攻っていうのがそのとき初めて分かった。自分も爆弾を落とすかと思ったら、自分も一緒に死ぬんだということで、特攻とはわあ、えらいことをやるなって思ったそうです。私はそれ、見ていないですから。

同僚から一緒に来て、同じ部隊で一緒の分隊の者が見て帰って、その話を聞いたんで。

Q:それが最初だったんですか?

そうそう。そのときにすでに特攻隊が出たということは報道されていたんです。外地から帰るまでにね。翌々日ぐらいだったんじゃないですか。報道されたのは。それで日本もいよいよ船も無くなったと。軍艦・戦艦ですね。無くなったら飛行機だと。アメリカさんのそういったいわば航空母艦・戦艦を、巡洋艦とか、そういったものを攻撃する。日本はそんな大砲なんか撃っていたって、機関砲撃っても飛ばないから、とにかく肉弾で行くというのは、飛行機もろともそれに突っ込むのだということでですね。だから、それで特攻に来て出ているんですね。

Q:そのニュースを最初に聞いたときはどういうふうに感じましたか?

いやもう驚いたですよね。まさかそんなことは思わなかったですけどね。それでそういううわさはあったんですよ。私はうわさもちょっと聞いていた。というのは、人間爆弾だと。人間爆弾でですね、いわば飛行機に乗って突っ込むと、そういうことをやるらしいよとか、いうことは鈴鹿におるときに聞いたことがあったんです。

Q:仲間内で?

仲間内で。上司から言われたんじゃなくてですね、仲間内でですね。

10月25日に大黒氏らの第1神風特攻隊を見送った、その者が私どもの原隊へ、鈴鹿へ帰ってきて、大黒を見送ったと。やっぱり人間爆弾だと。そのときもう既に特攻という言葉が流れていたと思うんです、確か。それは新聞とかラジオですわね。そういったもので流れていた。それらが帰ってきたのが5日か6日ぐらい。1週間ぐらい掛かってフィリピンから帰っていると思う。帰るといっても、誰かに乗せてもらわなきゃいけないんです。搭乗員はね。持ってきて今度は足が全然ないですから。それで大型陸上攻撃機とか、大型飛行機に乗せてもらって内地へ帰る飛行機に便乗して帰ってくるということで。

Q:うわさで、まさかそんなことはっていうふうに流れていた人間爆弾っていうのが実際に輸送に行って大黒さんを見送ったお仲間から・・・

そのときの状況を、帽子を振ってですね、帽振れで、それからみんな見送ったということを帰ってすぐ話を聞いたですけどね。

Q:どんな話を聞いてどう思ったんですか?

ああ、本当にやったのかということをね、いうことを、同期の者がおったからですね。だからもう上も下もね、誰がどういうふうにするか分からない。ただし出るからには希望というものがあると思うでしょう。誰でもいいから、おまえ、あんた行きなさいということはないと思うんですよ。だからその中で、特攻で爆弾を抱いて自爆するのだということについてですね、それらを多分何人か募集したと思うんですね。そうせんとそんなものが集まらないと思うんです。中には嫌だという人もおったかもしれません。それは分かりませんけどね。

Q:大黒さんが実際に行ったというのを見送ったお仲間から具体的に話を聞いたとおっしゃったじゃないですか? なるべく覚えている限り細かくどういう話を聞いたんですか?

ちょっとはっきりしたことは覚えんですけど、とにかく飛行機に25爆弾。250キロ爆弾を固定して、そのままで飛行機に、飛行機でアメリカの戦艦、また航空母艦ね。その体当たりをしたということ。その結果がどの程度ということは分からなかったです。どの程度ということは、行ったけど帰っていないですから、もちろん分からない。

Q:大黒さんの様子は語っていなかったですか?

みんな一緒ですわね。5人一緒だったから、5人一緒の話ですわね。そういったものが次々飛び立っていって、それで5番機で、大黒は5番機だったから一番後に飛び立ったというて言った。

Q:最後にどんな様子だったかとか。

それで見送った人が、みんな誰もが帽を振っていたから、自分も飛行帽を外して、こう回して見送りしたって言いましたけどね。

その20年の2月の10日に沖縄をたって、台湾へ行く。台中だったです。20年の2月10日です。それは忘れもせんです。飛行隊14~15機ぐらいおったと思うんですが。編隊を組んでですね。戦闘機だけ。ゼロ戦だけです。新しい飛行機。それが自分の部隊のものが一緒に行ったんです。そのとき私の飛行機のエンジン、故障じゃなくて、エンジンのプロペラの回転が変わってきたんですよ。帰る高度をなんぼ上げたら角度を変えると速度がよく出る。そういうものがありましてですね。ゼロ戦は520キロ出るわけですから。まあ高さも、高度によりますけどね。3,500(メートル)ぐらいだったらそのぐらいですね。500キロぐらい出るんですね。そういう資料もみんなそこにあるはずです。そのときにプロペラの回転が悪かったから、指揮官機にですね、連絡っていうか、無線がそのときは取れませんで、それで横に向き、あっち向き、編隊から外れるようにしていたんです。編隊を外れるということはそれが分かったから、何かあるなと思って。それで指揮官機はどうしたか、プロペラが駄目だと。プロペラがもう駄目だからって、大体ね、普通編隊を組んで飛ぶのは2メートルぐらいしか離れていないんです、翼が。そのくらい近い。ところが長距離、遠くへ出る場合は10メートルぐらいも離れてゆっくりと幅広くね、編隊を組んで飛ぶんです。訓練のときは違いますけどね。それでそのときに、雲の上を飛んでいて、それからどこに飛行場があるか、下りれっていって指示はあるけど、今どこを飛んでいるか。もう沖縄まではあるけど、その先の地図がないんです。航空地図が。そういったものを持っていなかったんですよ、そのときは。それでまあ、隊長機についていけばいいと考えていたんですが、そういうトラブルが起こって。それで下に下りるということで。下はどこかって、雲の上で分からなかったんです。小雨も降っている、雲の空いているところがあったから下りたんです。そうしたら島が見えるんです。それは何ていう島か分からなかったです。で、下りてクルッと回ったら宮古島が分かりまして。それでそこに宮古島の飛行場があるなと思って見えたんですわ。そこへ下りてですね。飛行場のあれは、いちばん端から下りるんですが、もう下りたところ、真ん中ぐらいに下りたんです。それでそこですぐスイッチを切って、その滑走路をずっと行ったんですが、もう地面に食い込んでしまって、車輪が。それで止まったんです。その先に飛行機がたくさんあるんですよ。そうしたらそれみんなおとりの飛行機だったです。ベニヤ板で作った飛行機が並べてあったんです。そんなことでそこで分かって。それで何も訓練もしていない、何も連絡がない飛行機が下りたからですね、車が3台ぐらい飛んできたんです。私のところに。それで、「いや、実は不時着した」ということで「多分ここだろうと思う」と。この回転が悪いからそうだろうと思うと。

Q:それは新しい飛行機だったんですか?

もちろん新しい飛行機で。それで結局見たらね、こういうところにビスがはずれて、ちゃんと留め金具がある。留め金具があって、下のビスを開くようになっているわけ。開くと取れないんです。そいつが突っ込んだままで開いていなかったと思うんです。開いてあれば必ず落ちないんです。割ピンていうんですよ。通称割ピンでですね。それが開いていなかったんです。だからそれで外れて回転が落ちたということで。もう回転が出ないからついていかないですから、みんなと。それでそこへ不時着したんです。

Q:それは本来あり得ないトラブルなんですか?

そうそうそう。そういうことはすぐ飛んでいて考えられない。またあってはいけませんし。そういったことがあるのは、高度は上がりませんし、下がるばかりでですね。回転数が少ないからとてもできない。

それで10日の日と11日、12日の日に沖縄に帰ったんです。それから後はもう沖縄は3月に上陸したから、アメリカさんが。そのときはもう下りられない。飛行場も駄目だから。それから後はですね、今度は佐賀県の、長崎県か。大村いう飛行場。今の長崎空港です。大村に飛行場がありまして、その大村飛行場に三重県の鈴鹿から行って、そこでいっぺん下りて燃料補給して、それから一挙に上海。シナ海を飛んで上海へ行くんですよ。上海へ行くと、3時間半ぐらい掛かった。もちろんそのころプロペラ機でしょ。それからそういった地図はもちろんないですし。それで指揮官機の後をつけて編隊を外れないように。そのときはね、そう天候は悪くなかったかなという気がする。とにかくついていったんですよ。そうしたらそれまで1回来たことがあったですからね。揚子江から流れる水がね、濁った水が見えなきゃいけないのに見えないんです、なかなかなんぼ飛んでもね。

Q:それはなんでなんですか?

というのは、それは結局風に流されていた。船が潮に流されるでしょ。それと一緒に流されたことが分からない。今のようにそういった計器がないから、付いていないからですね。

それで上海の龍華という飛行場。今の上海の飛行場のはずです。シナ海のいわば、中国の東の方にある。いちばん上海の東にある飛行場です。そこへ一応下りたんですよ。そこで燃料補給して、すぐ台湾に行かなきゃいけないんです。それで大体その日の朝に出て、それで夕方台湾へ入るはずだったですけど、そのときは都合でですね、何か台湾の天候の具合だかでやめて。それから翌日ですね、燃料補給して、今度は台湾へ行ったですよ。それでそこで一つ大きなトラブルがありましてね。台湾の台中という飛行場は、高さが、高度が100メートルほど高いんですよ。普通の陸上はゼロですね。100メートル高いんです。指揮官があそこの飛行場は100メートル高いから、計器を合わせておけよと。100メートル高くしておけよと。それ誰もが修正した。1人修正していない者がおったんです。それが下りるときに雨が降っていたので、脚を飛行場の入り口に引っ掛けてしまったんです。まだ滑走路が来ないうちに引っ掛けてしまったんです。

Q:まだ地上が?

地上は地上だったけども、まだ着陸する地点じゃなかったんです。そこへ落ちてしまったんですね。それちょっと飛行場の手前というか、飛行場はもうちょっと先だけれども、少し低かったと思うんですけどね。それでそこで火だるまになって彼は死んでしまったんです。私らもそれも同年兵で、翌日、「赤木、おまえ同年兵だから」と。あともう一人おりました。それと一緒にですね、「おまえら、火葬場に行って仮葬して遺骨を持って帰れ」と。その火葬場に行って、遺骨にして、それを私が持って帰ったんです。そういったことがあるんですけど。

だんだんひどくなってきたと思うんですけどね。とにかく私が乗るのは工場が、メーカーが造った飛行機を海軍が、まあ海軍なら海軍がそれを受け取るについて一応テストしなければいけませんね。自動車で来たものを、乗ってくださいって持って帰ってはいけないから、やはりテストしてみるんですね、ある程度。それでまして上空で飛ぶものだから、止まったら終わりですから、それなりのテスト、パイロットの上官がおって、そういった人はみんなそれぞれやって。持って帰ってもやはりどこに落ち度が出てくるんです。そのときは良くてもね。そういったことはあるんです。だからさっきのリベット組み替えも、風に向かってね、逆になったりしたこともありますしね。中の何ていうんですか。機体の中の後ろに何だか分からないガラガラ音がするようなものがあったりね。そういったこともありましたですね。

Q:それはゼロ戦の製造する段階でのミスなのか、整備のミスなのか実際乗っていらっしゃって。

おそらく三菱重工もそれ専門の方がそれだけ見て、これはもう大丈夫だと、一応合格点を出してから軍の方に渡して、軍の方もその人が取ると思うんですけど。まあそれは数が多いからですね、落ち度もあったかもしれませんけどね。一応整備されたものだと思うんだけど、整備不良のものがたくさんありましたね。それはよく出ていたです。エンジン関係でもあったですけどね、まあエンジン関係はいちばんですわね。プロペラとかですね、そういったものは。だけど機体にもありましすしですね。よく今、さっき話していた、脚が上がらないとかね、それから上がっても青ランプがつかないとかね。そういったことはよくあったですね。それは。だからそれは接触が悪いのか、何かだろうとは思うんですが。

Q:赤木さんが昭和19年から輸送部隊の任務を始めて終戦まで輸送のお仕事をされていたと思うんですけども、その期間の中でもゼロ戦の性能は落ちていったという事実は?

落ちたということはないですけどね。それは優秀な機体ですよ。戦闘機のね、本当にゼロ戦なんて、アメリカもゼロ戦という飛行機を恐れていたぐらいですからね。非常に性能のいいね、いわば小回りの利く。それから速力もあるし、それは戦闘をやるにはいい飛行機だったです。

Q:終戦間際になってそういう状態のものが増えてきて・・・

増えたっていうと、ちょっとひどいかもしれませんけどね。大量生産するとそういったことはそれは中には出てくるんですね。自動車も一緒。エンジンの不具合があるのと一緒でですね、そういったことは出てくると思うんです。それで一応整備して、点検したときは良かったけれども、実際に動き出してみたらそういったことがあったということが。まあいちばん私はその多かったのはね、脚ですね。脚が上がって入れて下りるときに完全に下りんでですね。いわばロックしなければいけないのがそこで青灯がつかなくてですね。下りなくて困ったということが。それはよく聞きましたね。

まあそれは整備不良ということになるんですが。そういったことは修理も早いんですよ。そのことを言うと整備士が来て、それなりにすぐ分かってテストをしてくれるんですよ。だからそれはね、簡単な分はいいですが、エンジンの中はなかなか難しいでしょうけどね。まあいい整備士の方もおられたけど、やはり整備をやっても経験が少ない人はそういったことがね、中にはあるでしょうしね。まあ整備の方も階級があっても優秀な技術の人もいるし。あまりできない人もあったでしょうけど、なにぶんたくさんの人数の中からですからね。

Q:丙飛17期というものは赤木さんにとってあの戦争の中でどういう意味を持った時期ですか?

どういう意味っていうか、皆さんがね、よくやったと思うんですよ、それは。たくさんの人が戦死して、それは覚悟してはいるんですけどね。戦死した人は本当に気の毒ですけど、行方不明になった人がたくさんおるんです。海か何かに落ちたものだと思うんです。それと今、17期の名簿にみんな書いてあるんです。どこで行方不明になったということが分かるようになっているんですけどね。だけどまあ、亡くなった同じ同期の戦友だからですね。いつまでもそれを忘れてはいけないなということ。長生きするにはですね、やっぱりそれだけのものを思い出して慰めるように。自分がそれが一つの生きがいとしてですね、まあやって私はおるんですけどね。仕事のことも大事だし。だけど亡くなった戦友に対することだけはね、大事にしてきたつもり。またそれを生きがいにしていると、そういった方は結構おられると思うんですけどね。だんだん薄らいできますわね、それはね。

ただ普通の布きれですけども。こちらにもらった人の、戦友からもらった、もう亡くなった人ですが、それから終戦になって分かれるときにですね、山口上飛曹としてあるんですけども。この方からもらったんですよ。

Q:横には何と書いてあるんですか?

神風特別攻撃隊ですね。神風特別攻撃隊。これは何部隊? 特別攻撃隊まで、この下がちょっと分からないです。山口上飛曹っていうのが。これじゃないですが、別の1001空の中の写真でたくさん出ているんです。この中にも何枚かあるはずです。

Q:特攻に行ったからそういうふうに?

いや、もう行くということを大体皆さんが特攻に行くんだろうからということで、こういったものをそれぞれの皆さんが用意していたんです。

Q:事前に書いていらっしゃった?

書いておったということですね。

Q:これは搭乗員の方はどういうときにどういうふうに使っていたんですか?

訓練のときはね、大体皆さんが自分で持っていたんですよ。何ていうんですか。古いものはありましたけどね。自分が自分の分をそれぞれが用意して、それから持ってはいたんですけどもね。

Q:これはそもそも何ですか?

これは人絹で作った本物ではないんですね。本物のマフラーは大体本当は絹のものが多いですから。当時もうないですからね。

Q:これマフラーなんですか?

マフラー。だからこれ皆さん、私は白を巻いたものがあるんですが、写真がありましたから。それであれを出していたんですけどもね。

出来事の背景出来事の背景

【ゼロ戦と太平洋戦争】

出来事の背景 写真海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」。アニメ「風立ちぬ」にも描かれた三菱重工の堀越二郎技師が設計にあたり、海軍からの要求である「格闘性能」、「長大な航続距離」、「速さ」における卓越した性能を実現、開発当初は世界でも最優秀と言われた戦闘機でした。昭和15年9月、日中戦争で初めて実戦に投入され、「無敵」と評されたほどの戦いぶりでした。太平洋戦争初期、各地で米英軍を圧倒、日本軍の緒戦の勝利を支えたのです。しかし、ラバウルからソロモン諸島への長大な距離を往復する「消耗戦」で、機体とベテラン搭乗員を数多く失った上に、特に米軍の戦法が確立されるとゼロ戦の性能の優位は失われていきました。昭和19年になると、爆弾を積んだ特攻がはじまり、数多くの若者の命がゼロ戦とともに失われたのでした。

ゼロ戦の設計に当たった人、日中戦争からゼロ戦に搭乗し、のちに「エース(撃墜王)」と称された人やソロモン上空の消耗戦で戦った人、整備に当たった人たちが、ゼロ戦とともに戦った日々やゼロ戦とともに命を失った人々について証言します。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
島根県松江市に生まれる
1941年
実業学校で簿記を学び、運送会社に勤務
1942年
志願し大竹海兵団に入団。装甲巡洋艦「八雲」に乗艦
1943年
予科練(丙17期)へ
1944年
第1001海軍航空隊に配属。ゼロ戦の輸送任務に従事
1945年
三重県鈴鹿基地で終戦を迎える
 
戦後は、日本通運に勤務

関連する地図関連する地図

フィリピン(ルソン島、マバラカット)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード

関連する証言

関連するニュース