ホーム » 証言 » 武村 豊さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「本島南部での彷徨」
名前名前: 武村 豊さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 女学校への進学  05:57
[2]2 チャプター2 行われなくなった授業  06:57
[3]3 チャプター3 沖縄空襲  10:17
[4]4 チャプター4 看護教育  10:33
[5]5 チャプター5 米軍上陸  07:43
[6]6 チャプター6 ひん死の男子学徒兵  06:16
[7]7 チャプター7 解散命令  05:00
[8]8 チャプター8 戦場での彷徨  13:47
[9]9 チャプター9 収容所生活  04:42
[10]10 チャプター10 語り部として  03:38

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

Q:ご家族は、そのころは何人で、どういうことをされていたんですか。
 
父がですね、私小学校5年生のときに病気で亡くなったんです。それで母1人で、一番上の兄は、ちょうど私が誕生ぐらいのときに東京に出ましてね。向こうで法律の学校へ行って、自費で、自費っていうか苦学でやって、また二男も、向こうで兄の後をついていって、向こうで。

Q:兄弟何人ですか?

兄弟はですね、7名いたんですけど、もう1人、三男がおりますけど、あれも東京に出まして、戦争中は。こっちの中学、みんな卒業してるんです。長男も二中卒業して、二男も二中を卒業して、三男が工業を出ましてね。でも、みんな亡くなっちゃいました。姉が2人、1人は戦争で亡くなりましてね。2人は病気で亡くなって、もう高齢で亡くなりましたけど。結局はもう、戦後はもう、独りになってしまいましたけどね。

Q:学校を出て昭和16年に二高女に入学されたわけですよね。
 
はい。だからね、そのときには、あの時分に女学校に行くということは、家庭では大変なことなんですね。両親元気でおって、普通の生活をしてる所だったら、どうにか出せたんだけど、うちなんかもう、母1人でやってたもんですから、女学校なんて本当は望めなかったんですけど、女学校に行きたい、行きたいということで。また、兄貴たちが少し、勉強で上京したもんですから、その影響で、自分も必ず女学校に行きたいっていうことで希望に燃えて、やっと母の許しを得てですね、入学したんですけど。あの時分は、義務教育6年制、だから6年を卒業して、そして1年、2年出て、すぐ職に就く、女の人は。それでいいということだったんですけど、もう二高女に行きたいと。那覇に住んでるもんですから、第二高等女学校、今の商業高校の、あそこにありますね。モダンな学校で、なんと言いますかね、みんな憧れの学校でしたので、そこへ行きたい行きたいということで入りました。ところが、それもつかの間ですね、1年生・2年生までは勉強できたんですけど、2年の後半からは、もう大東亜戦争が始まって、授業も半分になってしまったんですね。英語教育、小学校でできない学習ができるということで、大変期待して行ったんですけど、英語教育が廃止になって。それから、それに代わって教練とか、長刀とかですね、そういう軍事教育が入り込んできたんですよ。

とにかく女学校へ行きたい。一高女に行こうか二高女に行こうかって、6年生のときにはみんな迷うんですけど、二高女という学校は、大変こう、情操教育を重んじて、校舎自体がとってもしょうしゃで(あか抜けていて)、それから校庭にはですね、花が咲いて、講堂からは音楽が流れてくるんですよ。自分が軍歌でいいというような時代でしたけど、外国の『流浪の民』とかいろんな歌が流れてくるのを、那覇の者ですから、あそこら辺をよく通って、いつも、「いい所だね」「自分も女学校に行きたいね」って。自分にはちょっと高かったんですけれども、親に泣きついて、やっと入れてもらったんですけれども。

Q:じゃあ、合格したといいますか、進学できると分かったときには、もう。
 
もううれしくてね。自分も人並みに、みんなと肩を比べていけるねっていう。小学校でも目立ちはしませんけど、一生懸命やる性格ではあったんですね。だから行きたいと思ってこうやったんですけど、上の兄貴たちが、そういうふうに進んでいったもんですから。

みんなそうなんですね。希望に燃えて入ってきた。ところが女学校に入って1年生までは、ちゃんと授業もきちんとできたんですけど、2年生のときからは、もう軍隊が入り込んできて、校舎も一部は、兵隊が宿舎になるとか。それで、みんなは作業に出かける。現在の垣花(那覇市)ですか? ガジャンビラっていう所があったんですけどね、そこに高射砲陣地があったんですよ。そこの高射砲の台座を作りにいったり、また、軍の防空壕を掘ったり。本当にみんなたくましくて。小さいころから「お国のために、お国のために」って言って軍国主義の教育たたきこまれましたのでね。「みんな我慢をしなさい」ひもじさも我慢をしてとか、何かあるときには兵隊さんのために、国のためにっていうことで軍国主義教育がたたき込まれていたもんですから、これがもう当たり前だというふうな。自分たちは。それで、情報もね、今のようにテレビとかラジオとか報道の自由もないですから。軍の報道しか入ってこないんですね。いつも、日本は勝ってるんだとかね、それから、アジアのために日本は聖戦をしているんだとか、そういうものしか私たちには入ってこないわけですよ。それでもう、私たちはずっと、教育が浸透してますから、このくらいのことは当たり前だと、作業するにしても。それから、体育でも、大統領、ルーズベルトとかチャーチルとかですね、この似顔絵を作って、体育の時間に竹やりでこれをヤーッと突く練習をしたり、そういうことばっかり。それから体を鍛えるって言って、行軍ですね。10キロぐらいは平気で、荷物を持って行軍をしたりとか。そういうふうにしておりました。そして、飛行場の台座作るとか、そういうものの、また合間に、出征兵士の留守宅、そういう所へ行って、田舎のほうに行って、そこのお手伝い。草を取ったりですね、そういうお手伝い。それから夏休みになったら、農家の家の子供たちの保育、託児所みたいにやったりというようなことをしていたんですけど、誰も「苦しい」とか「イヤだ」とか言う人はいなかったわけですよ、あの時代は。

Q:憧れた女学校は、大変モダンな建物で、校舎で、しかも通りを歩いていると、ピアノかオルガンかなんかの西洋音楽が流れてくるという、そういうものに憧れて入った学校が…だけど、最初のころは、入ったあとも何かやったんですか?

やりましたよ。私はお家にはピアノとかそういう物は全然、オルガンっていっても小学校の先生が、音楽のときにオルガンを弾くぐらいで、触ったこともなかったんですよね。だけどこっちに来ると、これのテストもありますので。日曜日になるとオルガンの練習をしに学校の講堂に行って、順番を待って練習をしてというふうな。とにかく音楽は、非常にたたきこまれましてですね。現在だったら、どの学校でも、中学校でも小学校でもブラスバンド持っていますよね。あの時代はなかったんです。二高女と、それから男は男子師範だけがブラスバンドを持ってる。他はブラスバンドなんてなかったんですよ。だから二高女は、音楽が非常にびせ先生っていって、音楽が堪能な先生がいらしてですね、大変仕込まれました。

Q:だけど、それも戦争が近づいてくる、激しくなってくると、そういう教育といいますかね、そういうのがだんだんできなくなって、軍国主義教育っていいますかね、いろんなそういう…音楽もひょっとすると、皆さんで軍歌を歌ったりですね、そういう雰囲気に変わっていくわけですよね。

もう軍歌でも事足れりですね。道を歩くときも、今のように、あの時分の、私より前の女学生でしたら、本当にお上品に、みんなやったはずですけど、もうかっ歩かっ歩してですね、雨が降っても、濡れても、こんな歩いて、大きな声で軍歌を歌って歩いてというふうな状態の、本当に男みたいな、なんていうか、女らしさっていうのは、ちょっと薄れてましたね。

Q:軍事教練を受けたり、それから陣地構築ですか?そういう作業にかり出されたりという、だんだん、だんだん戦争に向かっているというのは感じてましたですか?
 
そうですね。でもね、今までの戦争が、よその国に出かけていっての戦争ですよね。国内では戦争っていうのはないです。いろんな防空訓練とか、そういうのもやりますけれども、全然意識としては、ただ教えるからやるというふうな、あれで、本当に深刻には考えてなかったんですよ。中国があんなにひどい目に遭ってるということも分からないし、中国に今度勝ったからって旗行列をして、もうみんな大騒ぎでちょうちん行列したりして、やってたんですけども。

沖縄に十・十空襲ですね、昭和19年。十・十空襲のときになって初めて、戦争ってこんなものかって恐ろしさが少し分かったような感じですね。そのときも、朝は作業に出かけてたんですよ。

Q:どこへ?

普通の作業場に行ってて。お友達を誘いに。みんなお友達を誘って、小禄の飛行場。そこの作業なんです。ほとんど作業でしたから。7時ごろになると出かけていきよったんですけど、私も友達を誘って、それから一緒に行くというふうにやってたんですが、そこで初めて空襲。初めはね、演習ってこんなものかなぁと思って。ブーって飛行機が飛んだので。演習だろうと思ってたら、ババババッっと始まったんですね。「あれ?本物だ」ということで、結局はお友達の家の防空壕に入って、もう今出たら危ないですから防空壕に入って。防ごうとしたけれども、それじゃ防げないですね。自分の家庭用防空壕というのは、畳2枚ぐらいの穴を掘って、上にちょっと円蓋を置いて擬(ぎ)装して、その中に入っていくような防空壕だったんですね。もう、これに収まらないんですよ。機銃掃射も激しいし。これ本物だって言って、やっていたら、私もちょっと家に行ってみようねって言って、お友達も兄弟2人いるお家でしたかね、岸本さんっていう人のお家に誘いに行って、こっちも一中生と、この人と二高女、兄弟2人、お父さんは慶良間にお仕事で行ってらして、2人で留守番していたもんですから。この人のお家に誘いに行って、ここのうちの防空壕に入ったけれど、これでは防げないから、まずは自分の家に帰ってみようねって。自分のうちどうなってるか分からんからって。近かったもんですから。帰ったんですよ。そうしたら、私のうちは現在のホテル、三重城(那覇市)ですね、そこにホテルがありますね。三重城の所にうちはあったもんですから、そこまで走って帰ってみたら、もううちは港に近いからっていうことで、真っ先にこっちに立ち退きになってるわけ。家に帰ったら、もう人1人いないんですよ。その近所の誰もいないんですよ。結局、びっくりして、まず家には入ったんですけれども、何にも持たないでね、そのままバッと飛び出して、また自分1人で逃げるよりは、またあのお友達と一緒がいいと思って、その岸本さんの家にまた戻って、結局3名で、向こうの防空壕に入り、これでも防げないっていうことで、西にある大きなお墓、あの時分はみんな、亀甲のお墓でしたからね。そこへ行ってお願いして、入れてくださいということで、お墓に入ったんです。みんなお墓に避難していました。そうしたら、あの時分は火葬っていうのはないです。棺おけに。ここで朽ちますでしょ。お墓の中で朽ちます。その棺が入ってるお墓なんですけど、もう、子どものころには一番怖い所なんですよね。お墓の団地っていうのは、一番怖い所だけれども、そういうの言えるときじゃないですね。そこに入って。その辺の近所の人も入って。結局そこで昼中。爆風はやはりありましたね。お墓の中はムカデもはってますしね。棺おけもあるんですよ。結局、朽ちて、終わったかなんか、あの時分ははっきりしませんけど、棺おけが入って、洗骨もされてない、そこと一緒に入って。結局夕方になると、どやどや、どやどやと外が騒がしくなって、出てみたらですね、もう、「那覇は全部燃えてるよ」って。「北部のほうに避難しなさい」って。どこから来たか分からないけど、そういう声が聞こえて、みんなついて、また北部の方へ北部の方へって、那覇の人たちは名前を呼びながらですね、迷子になってる人とか、家族の名前を呼びながら北に向かって、山原路を行ったんですね。夕方ですかね、金武町の所に来たときに、もう明け方になっていました。ずっと夜通し歩いて。そこで向こうの方たちが炊き出しをしてくださってですね、おにぎりをいただいたことが忘れられないですね。

Q:家族はどうされたんですか?
 
だから、そこなんですよ。家にはいないでしょ? 家族も、もういないけれども、結局、今逃げないといけないということで、お友達は宜野座に実家があるんです。おじさんたち、おばさんたちがいらっしゃる宜野座に行こうということでね。「私のおじさんとこに行こう」って言って、3名で。3名、学生ですよ。弟が一中生で、3名学生で行きました。向こうに着いてから、那覇の人はどうしたんだろう、うちの家族どうしたんだろうって。結局、那覇の人はみんな名護のほうに避難したといううわさがあったもんですから、宜野座から名護まで歩いて。またよくよく歩いてですね、お弁当作ってもらって。名護に行ってみたんです。どこを捜すアテはないんだけど、とにかく名護に行けば、那覇の人がいるだろうっていうことで。そうしたら、もう分からないですよね。結局また戻ってきて、ひょっとしたら東風平の方に、南部の東風平の方に親戚の人が、東風平の青年学校長してるおじさんがおって、そこに荷物、預けてあったのを私、丸忘れしてたんですね。そこにちょっと避難はさせてあったと。着物なんか。「あっそうだ!東風平に親戚がいて、ひょっとしたらそこかもしれん」と思って、また宜野座から歩いてですね、道も分からないからとにかく、中部のお友達、美里辺かな、1人、中部のお友達、同級生の家があったから、そこに1泊させてもらって、それから、とにかく線路をたどっていけば、どうにかなるだろうと思って、線路伝いで行って、東風平に着きました。そうしたら、そこにおったんですよ。

Q:家族の方が?

家族2人が。うちの姉と母と。東風平におったけれども、私の心配をして那覇に捜しに行ってると。今ね、那覇に学校出たきりだから、捜しに行ってるよっていうことで、すぐは会えませんでしたけど、あっちが帰ってきてやっと会って。貧しいながらも、また親子3名で過ごしたんですけどね。

Q:学校はどうなったんですか?
 
学校は全部なくなってます。全部焼けました。二高女は。十・十空襲で。それで、みんなもう知り合いとか、那覇の人たち、ちょっとこの若狭の辺に、ちょびちょびっと残ってる所ありましたけどね、大体90パーセントぐらいは那覇市は焼けてしまったんです。それで田舎にみんな疎開してる人もいるし、田舎の親戚を頼って行っている人もいるし、二高女の生徒はほとんどバラバラに。十・十空襲の後は。授業もできない、学校も再建できないで。知事官舎が残っておりましたからね、そこでちょっと勉強をして。本当にもう、遠くにいる人たちは来ないんですね。近くにおる人たちは出てきて、勉強。

だから、その後は全然やらないんですけど、みんなも十・十空襲で(校舎がなくなり)、地方のほうに散らばってますよね。その行った所で作業をしたり、もう勉強というのはないです。そして那覇で新聞があったんですよ。「二高女生に告ぐ」って言ってね。「知事官舎で授業再開」、だから来れる人は来なさいっていうふうな。それでそこでも、授業らしい授業じゃないですね。そのときにも軍の指令が出て、看護教育、普通の看護教育です。軍隊の看護教育じゃなくって、看護教育もしながら、また、国語とか少しそういう学業も、少しずつはやったんですけど、そんな身になるようなものではなくて。あれが10月10日の後ですから、12月…たいていは、もう、その行った所で作業をしたりしています。私も東風平のほうで作業をしたりして。授業しないですよ。翌年、授業再開ということで、知事官舎がここにあったんです。現在の公園がありますね。その辺りに知事官舎がありましたので、そこで、ちょっと授業は、授業らしい授業じゃなくて、やったんですけど、すぐまた、4年生は軍の看護教育を受けさせなさいという軍からの命令が来たんですね。

Q:そうすると、その4年生の看護教育っていうのは、知事官舎で行ったんですか?

違います。あれは普通の、ただ救急のあれでですね。それが正式に軍から来て、そして、疎開する。こっちの校長先生は偉かったと思いますね。今から考えると。「疎開する人はしなさい」と。自分がいなければ、お母さんが弱いとかね、家庭的に何かある人は疎開してよろしいっていうような達しをしたんですよ。そのときに、私も、母と姉と私、女所帯ですから、3名。これに該当するんですね。女所帯は疎開をしなさいということで。働ける人は、もう、そのときから出しません。男とか男性、そういう人たちはもう疎開もできないんだけど、女所帯はやっていいということで、近所の方と一緒に申し込みしてあったんですけどね、私が反対して。「行かない」と。本当の軍国少女ですからね。

Q:どうして反対したんですか?
 
だから本当の軍国少女だから。私がね、今こっちから出たら、沖縄から逃げていくと思われたら困る。そして壕を掘ったり、軍の施設のことをしたり、作業はだれがするの!って。とにかく、大抵のお友達がそういうふうな親の許しを得て、この軍の看護教育隊に入隊ということは、していいということでしたんですけど、だから私は今でも、この負い目。この苦しさ。戦後、もう80になってもね、あのときに疎開をしとけばよかったという、このつらさは、もうずっと背負ってるんですね。2人亡くなってますから。私のために、残ったために。母も姉も、「あんた1人置いてじゃ疎開はできない」っていうことで。ご近所の方は疎開したんだけど。やらないで、与那原に親戚がいたの。そこへ行ったんですね。だけど、もうみんな親の許しを得て、56名の者が看護教育隊に入隊ということになったんですね。先生方お二人が引率をして、東風平小学校へ行った、国民学校へ行ったんですけれども、そこではもう、大変でしたね。本当に初年兵。女の初年兵。もう、朝5時起床。ラッパで起きるんですね、起床のラッパで。5時から起きて、そして準備をしたり。ごはん食べたり、部屋を片づけて。運動場に集合して、閲兵があるんですね。点呼があるんですよ。「第何班、何名、異常ありません」。だって、本当に軍隊、初年兵。あのときによく見かけた初年兵の教育。それが私たちも、「女の初年兵みたいね」って言ってやったんですけど。夜は不寝番もしてですね。この2人の先生も、もう引率は、自分たちだけ、生徒だけ置いて、引率は。

私たちの場合は、やっぱり規律、規律ですね。朝早く起きて、そして、女ですから、いろんな、しますでしょう。顔洗いにいったりなんか。その時間がちょっと遅れて、毛布が、1人2枚づつ配られたんですけど、これをまた、きれいに畳んでですね、本当にぴしっぴしっと、箱みたいにぴしっぴしっとして、そばに置くんですよ。これが少しでもゆがんでいたり、ちょっと前のほうにほころびていたりしたら、すぐ私たちが点呼を受けている間に回ってきて、全部、畳んだの真ん中に整頓、数えていましたけどね、そういうことするし。それから、授業がもう、非常に厳しかったですね。この看護教育。にわかの教育ですから。負傷兵が出たとき、またここにも。軍は分かってたんですね。私は知らぬが仏でね。もしやったときに、自分たちは何も分からない。何て言いますかね。分かるのは、赤十字の白い帽子を被って白い服を着て、赤十字の看護婦さんしか頭にないですけどね。そんな所じゃないですよ。朝早く起きて、ラッパで起きて、それから点呼して、少しでも遅れたら、すぐ、この全部がもう・・・ビンタされるときもあったんですよ。授業が授業で、また詰め込みでね。あんなに勉強したことなかったですね。この看護教育、全然やったことない看護教育をですね、朝やって。午前中勉強して午後はテスト。もうこれの繰り返しです。そうして、本当は1か月間そこで受ける予定でしたけれども、3月の23日、空襲がきてですね、東風平の教育隊も空襲があったんです。艦砲射撃で。すぐ、もう即刻24日には、「あんたたちは軍属として野戦病院の勤務」ということで、夜から移動してですね。この野戦病院という所が、もう皆さんよくご存じの、ガマ(洞窟)を掘って、掘った所のそばにベッドを作るんですけど、竹で編んだベッドで、二段ベッドで、毛布を置いたのなら、まだいいほうですね。それと、かやを置いたり、それから地域のほうから畳、もう、ここの富盛(八重瀬町)の人たちもみんな疎開してましたから、危ないって言って。そこのお家の畳を取ってきて敷いて。このベッド作りから始まったんですね。

Q:24師団の野戦病院ですよね。

山3486部隊の第一野戦病院。第二野戦病院は積徳(高等女学校)の人が行きました。私は第一野戦病院で、富盛のずっと丘の上、そこはもう、一番最後の砦だったらしいですね。もうこっち崩れたら…。

大変でした。最初のほどはね、3月24日に行ってますから、内科患者が多かったんですよ。内科の。赤痢とかアメーバ赤痢とか結核とか、そういう患者が多かったんですけど。もう上陸して首里攻防戦、そこからもう、どんどん、どんどん、3月の末頃ですね、4月になってからだね、非常に運び込まれる負傷兵が多くなってですね、私たちはもう壕の中に入ってますから、分からないけれども、もうどんどん入ってくるんですよ。それが、首里から運ばれて来ますから、真っ直ぐは来れませんよね。ちょっと休み休みして来るから、こっち来るまでにはもう、傷も悪化してますし、また腐ってくるし。だから来るまでには、本当にけがをしてすぐだったら、すぐ治りよったはずですけど、腐って黒くなったり、ガス壊疽(えそ)を起こしたりっていうことでね、大変な患者で。最初のほどは、丁寧に丁寧に、みんな包帯交換もいろいろやったんですけど、だんだんに負傷兵が多くなったので、もう壕の入り口に、連れてきてもしばらくは置かれることが多かったんですね。治療できないで。順番よく、私たちは、上の壕の手術場壕におりましたから、大抵もう、そこへ来る人は重症だったんですね。切断する人、手を切断する人、腹部を貫通している人、いろんなそういう患者が運ばれて来ましたね。それで入り口で、「早く!手術してくれ!」って順番を待ちながらですね、壕の入り口に、ちょっと擬装小屋作って、そこに初め置かれて、それから順番が来たら手術をして、ベッドのほうにっていうふうになるんですけれども、それがもう、軍医さんも1人しかいないし、それから本当の衛生兵さんも2~3名。結局私たちは、いい使役なんですよね。私たちがいたから、そう言ったらなんだけど、いたから、こういうあれも、できたかもしれません。私たちは本当に小間使い。下の世話ですね。それから、おしっこ取ったり便を取ったり、それから包帯交換したり、それから、飯あげって言ったら、壕から出て80メートルぐらい下のほうに行って炊事場があったもんですから、そこで飯あげをして。これがいちばん怖かったです。外に出るから。壕の中だったら、汚くはある、苦しくはあったんですけども、壕から出るということが、もう大変でね、すぐ艦砲が飛んできたり、また機銃掃射が。だから怖いですから、隙を見て80メートルぐらいある炊事場まで行きよったんですよ。そこで2人で、こう担いで、こんなタルに。ごはんも、もう、いろんな混ざった玄米に近いような、そういうものとかね。おつゆなんかだと、担いでくる途中に敵機が来て、もう機銃やりますからね、そのときにはパッと置いて、木陰とかそういう所に伏せないといけないんですよ。だから結局、壕に来るまでには、おつゆ類は、もう半分に減ってるとか。それでも小さなおにぎり1つぐらいは、みんな配れて。壕に入っている間は食事もどうにか、たくさんじゃない、本当にこんな小さなおにぎり1個と、そのくらいは頂けたんですけどね。いちばん怖かったのは、手術ですね。切断、切断。両手切断もいますし、本当にもう、ここの腿の肉を全部取られてる人もいるし、いろんな患者さんが来て、もう手術をするときには、私たちにはそれできないから、ろうそく持ち。軍医さんの明かりの、照明係ですね。こう、ろうそくを2本持つんですよ。こうやったら、睡眠不足と、まずは怖いっていうことですね、初めてこういうものに立ち会わされて怖い。この傷なんか見るのも怖い。それと睡眠不足。はじめは2交代でやりよったんですけれども、とっても患者が多くなって、ほとんど、ちゃんと横になって寝たっていうあれがないんですね。壁にもたれて、ちょっとひと息入れるぐらいで。だから、そういう睡眠不足、栄養不良ですね。お水があれされて、ふらりふらりするんですよ。ろうそくを持っていても。そうしたら軍医さんが、手はもう、手術のあれしてますから、足でポンと蹴るんですね。するとみんな目覚めて。っていうような、そういう状態で手術も立ち会いしたんですけれども、最初のほどは、麻酔薬も少しは効くぐらいはやっていましたけどね、あとはもう、そういう薬も無くなって、もう本当に生に近いぐらい、ちょっぴりしかできなくって。そうしたら、こんな大きな兵隊さんでも、もうワーワー泣き出してですね、「痛い!痛い!」って。私はそれを押さえる係。体をこう押さえる係。だから、「もう、いいか? やらなくて」また、軍医さんは、「じゃあよすか!」と大きな声でどなるんですね。「いえ、お願いします」って言ってから我慢をして、やっていた状態ですけどね。壕の中は大変でした。けがをした所から私たちの病院に来るまでに、もうウジもわきますしね。傷は血やうみ。もう土の汚れですよ、土の汚れ。

中途学生が、学徒出陣で開南中学の生徒でしたけどね、入ってきたんですよ。もう本当に、来るときから、この手はブラブラっとこう来ましたから。みんなも、自分たちも学徒だし、あの人も学徒出陣してる人だから、みんなで大事にっていうか、近寄ってあれしたんですけどね。とっても重体で来たもんだから、もうえそを起こして。入り口のほうに待つ組だったんですね。そうしたら、「学徒さん、学徒さん、痛い!痛い!」って言うんですね。だから、「ちょっと待ってよ」って言うんだけども、もう何度も言われるから、この人の前を通るときには、こっそり、私も隠れながら行きよったんですけどね。順番が来ないから。それでも「痛い痛い」って言うもんだから、見たら、もう骨が出て、皮だけにくっついてブラブラしてるんですよ。それで、軍医さんはいないけども、自分たちでカミソリの刃で切ってですね、これとこれと落として、そうしたらですね、ウジ虫がいっぱい、本当にもうザクロみたいにして、ウジ虫がこう、やってるんですね。かわいそうだったからピンセットでぽろぽろと落としてあげて、それでマーキロンで消毒をしてから、「待っててね、もう少しで手術の番になるからね」って言ってやったんだけど。大変この人だけは印象に残って。みんな同じ学徒だからって、みんなで交代交代で、こう、やったんですけどね。最後までおりましたけど、あとどうなったか、分からないんですよ。そこで落盤をして亡くなったのか、あの状態だったら、もう歩けなかったでしょうということで、やってますけどね。それからもう1つは、やっぱりこの兵隊さんも、歓呼の声に送られて、家族と別れてきてますよね。こんな南の果てまで来ているのに、時々はね、写真を私たちに見せてくれて。「これはね、母の写真だよ」とか言う人もいるし、もう1人は奥さんと子どもの写真って言って、こう見せてくれた方があるんですよ。あのときまでは、まさか、こう、何て言いますかね、こんな状態でこんな汚い所でね、こんな状態でいるっていうことは分からなかったはずだけど、もう気持ちを考えてですね、おうちから、ずっと遠い所から。私沖縄の者も軍に対しては反感を持ちつつあったんですけど、この兵隊さんのこと考えたらね、故郷を離れてきて、子どものことを思いつつ、こう、命をあれしていくのかねって思ったら気の毒になりますしね。それから、私はまた、もう1つは、おしっこ取ったり、便を取ったり、もう、その仕事ですから。「おーい学徒さん!学徒さん!」って呼ぶんですね。そうしたら、「早くしてくれ!早くしてくれ!」って。結局は二段ベッドだから、上の人が我慢できなくなると、下の人にやってしまうってこともあったんですけど。「早くしてくれ!」って、行ったらもう・・・とってもコマネズミのように、いつ寝るか分からないぐらいの状態で、私たち働いてたんですよ。行ったら、「何をボヤボヤしてるんだ」って怒られてですね、「沖縄の女の子は人情がない。情がない」とか言われて。大きな声で怒られるし。そうかというとまた、「ありがとうね。あんたたちは今ごろだったら、おうちでお嬢さんだったのにね。ありがとう。」っていう、その言葉。だから言葉遣いも、この言葉に揺れてですね、ホッとしてまた力がわいて、勤め上げたということもありますけどね。本当に地獄みたいでした。中は臭くもあるし、血やうみ、便、何もかも、もう汚くて。地獄ってこんなものだろうな、地獄絵のようだねって思ってましたけどね。

もう何でもそういうふうに慣れてきてしまって。もう本当に今話しますとね、子どもたちもびっくりしますよ。だけどあのときには、ただ、本当に何も考えなかったですね。「家族のことも思い出しませんでしたか」って1回質問されたことありましたけど、ああいう状態では家族のことも全然頭にないですね。もうとにかくその時間をこなさないといけない、ということ。それからもう、本当に阿鼻叫喚ですよ、中は。ちょっと脳症を起こしてワーワー騒ぐ兵隊、それから裸になって歩く人、もう今から考えるとね、16歳であんな目に遭ったんですけども。

4日です。6月の4日に解散になりました。その前に、6月3日には、さっきのヌヌマチガマ(八重瀬町)っていうのがありますね。お友達5名が行った所。そこが先に、新城は、ちょっと私の所、八重瀬だから、ずっと高い所にあります。ヌヌマチ(ガマ)が1日早く解散になったんですよ。そこでよく言われる、青酸カリで患者をね。解散だから、歩ける人は軍隊に復帰しなさいと言うんだけれども、軍隊とかは、もうないですもんね。みんな軍隊もバラバラで。歩けなくても、はいながらでも出ていく人。それからもう諦めて、そこで亡くなる人。やっぱりこれ飲まされた。うちの同級生5名、帰ってきたんですけど、私はもう立ち会ってませんけど、この5名の人たちは本当にもう夢遊病者みたいになって。立ち会ってきたもんですから。あれを包まされたんですって。青酸カリの入った。そして患者に与えて、出ていく人は、もうどんどん出して、残る人たちにこれ与えて、そうしたらやっぱり、この致死量っていうのがありますね。その人に対して。同じように配るけれども、一人の人は、もう、すぐ亡くなるけれども、全然効かない人もおって、そうするとまた、よく話にあるように、銃で殺害したって、こんなのに立ち会わされてきて、この5名の人は、本当に私たちよりも大変苦しい思いをして帰ってきたんですけど。4日はもう、自分たちは解散なんですよね。

Q:それはどういう状況で、解散っていうのが分かるわけですか?
 
呼ばれたんですよ、下の壕に。「本部みんな集まれ」って言ってね。私のこの上の壕の人も、「みんな集まれ」って。また、本部壕は下のほうにあります。そこに集まれって呼ばれて、隊長さんから、敵がもう近くまで寄って、この壕は出ていかないといけない、ここ、もう進撃してきてるから、出ないといけないと。そしてまた、みんなを連れていく、軍隊としての、その力もないと。この病院は後退するので、みんなはここで解散。解散ってことは、もう軍から解き放されるから、いいことではあるんですけれども、あのときに軍から離されると、壕から出てしまうと、外の状態が分からなかったんですよ、私たちは。壕の中にいるから。そこでは一人もけがもしないし、お友達は。亡くなる人もいなかったから。安心だったんですね。壕に入っていれば安心だったわけですよ。きつい思いはしたけど、命だけは守られていた。ここを出てしまうと、もうどんなのが待ち受けてるか分からないから、一緒に連れて行ってくださいって言って。みんな、言ったんですけどね。もうその、収容するあれがないと。軍としては。軍の力っていうんですか、あれはもう、ないと。だから解散。ということで、あなた方はめいめいで出て行きなさいっていうことだったんですね。もうちょっとお願いもしたんですよ。「ここで出されても私、どこも分からないのにね、一緒に連れていってください」って言ったんだけど、もうこれ命令だからっていうことで。ちょっと、「今まで働いた分」って言って、なんか100円もらったと、私はもう、それ記憶がないんですけど。みんな100円もらって、それから何かお米もらって、出た。お米もらったのは覚えてるけど、お金100円もらったっていうのは記憶になくってですね、何名か、本当に半分ぐらいは、「そうかねえ」っていうふうな、今、状態ですけど。

これがもう大変でした。もう本当に軍にいる間は、どうにか食事、おにぎり一個でも食べていたから、まあよかったんですけど、ここを出ると同時に、今まで私が入ってきたときの景色と全然違うんですね。岩肌が、もう、目立ってまぶしいんですよ。今まで木も草も生えてるから、入ってくるときには。だけどみんな砲弾でやられて、それで、まぶしいくらい。どこへ行っていいか分からないけど、とにかくみんなが歩く所に行こうやということで。西か東か分からないけど、ここに行こうって言って。そしてずっと、こう行って、新垣、そのへんずっと、波平、真栄平、その辺りを、こう行くんですけれども、1泊は、お墓で1泊をして、そしたら、もう外に出てみたらですね、お祭りみたいに、お祭りっていったら楽しいことですけど、お祭りみたいにして人が行ったり来たり、もう道は行く人来る人いっぱいで。そば見たら、木の陰に横たわったまま動かない人、それから石垣のそばに、「水をくれ、水をくれ」って、か弱い声で、こうやってる、私がここを通ると、「水ちょうだい、水ちょうだい」って言うんだけど、自分たちもどこへ行っていいか分からないから、そのまま、そのまま行ったんですけどね。道はたくさん・・・もう、道じゃないですね。死体がもう、ゴロゴロ、ゴロゴロ転がってるんですよ。日本のトラックなんか壊れて、やられてありますが、この周囲には死体が掃き集められたようにして死体があるんですね。道ももう、本当に死体を飛び越えるぐらいに、いっぱい。向こうへ行くと、あっちから来る人は、「あそこは危ないよ。通れないよ。危ないよ」って帰ってくるわけ。私たちはもう、向こう通れないから行くわけですね。もう右往左往で、どこへ行っても安全な所はないっていうような状態で。木陰に。本当にもう、入る壕はない。自分から壕を探したって、ないんです。最初からおった向こうの土地の人たちは、どうにか壕に入ってるけれども、その壕も軍が後退してきて出されて、軍が取ってくから、民間の人はみんな外を右往左往して歩いてるんですね。子どもたちも親とはぐれて、ただこうワーワー泣いて歩いてる人もいるし、また、おぶさったまま親は死んでるけども、この子だけはぱたぱたしてる。そういうものを見たって、自分たちももう、明日はどうなるか分からない。だから、助けてあげようという、その気持ちももう起こらないわけですね。だからそのときに、「戦争って、人間らしさを失うんだな」っていうことを後になって、大変今、自分たちの心の汚点にもなってるんですけどね。あんなときに、手を差し伸べてあげることも全然できなかった。自分たちも明日はどうなるか分からないから。友達一緒に、みんな、こう木の下に、岩陰。岩があって木が生えてるから、そこにみんな、もう疲れて。もうずーっと夜は歩き通しですから、疲れて昼はうとうとしていたんですよ。夜に食べ物ないから、サトウキビを。あれがもういちばんの。沖縄ではサトウキビがあったから、命をみんな長らえたと思いますね。そのサトウキビを取ってきて、夜取ってきて、昼は、もうこの木陰でそれをしゃぶって、っていうふうな。もう、ひもじさ、それから乾きですね、ちょうどもう6月初めだから、梅雨終わって今度日照りが来たんですよ。もう水がない。それで、このサトウキビ畑もね、アメリカさんは、ここに人が潜ってるっていうのを分かってか、全部焼いて、火炎放射器で全部焼いて、さとうきびも真っ黒けに焼けちゃったんだけど、また私たちはそれを、根っこの方を取ってきて、夜はそれをしゃぶってって、こうやってたんですね。そうしたら、パーッとりゅう散弾。空中で爆発して破片がこう、飛んでくるんですね。りゅう散弾っていうのは。これが降りてきて、パラパラパラーっと落ちて。今までおしゃべりをしながら体を休めていたのに、「やられた!」お友達があっちでも、「やられた!」「ああっ!足がもげた」もげてはないんだけど、もげたみたいに、「足がもげた」って。そうしたらもう、腸が飛び出てる人もいるしですね。11名の中から2人は、大変重症を負ったんですよ。みんなそれぞれ、あちこち小さいけがをしてるんだけど、2人はもう重症。1人は腹部をやられて、1人は胸をやられて。こうやるたんびに、こう、血が吹き出るんですね。息をしたら、こっちから血が吹き出る。そうしたら、この2人は病院に預けんと、「どっか壕があったらね」って言って。見たらちょうど轟の壕(糸満市伊敷)ですね。第二野戦病院がそこにあったんです。あそこにガマがあるから、壕があるから、向こうに連れて行こうということで、戸板を民家から取ってきて乗せて、連れて行ったんですね。そうしたら、1人の人はもう息絶え絶えで、「もういいよ、私は助からないからね。だけど、お水飲みたい、お水飲みたい」と言っていたんですけど、連れて行って向こうに頼んだんですね、壕の入り口まで連れて行って、「けが人がいますから壕に入れてください」って言って頼みに行ったら、すぐ「民間人は入れられません」と、民間人は入れないって軍の兵隊が。追っ払われたんです、兵隊に。そうしたら私たちは同じ山部隊(24師団)だから、第一、あそこは第二、「第一野戦病院の学徒だったんです」って言ったから、そこで話がちょっとまとまって、「よし、それじゃ、入りなさい」ということで、與那覇さんというお友達で、上の壕で一緒でしたからね。

また艦砲射撃が、直撃が来て、もうそこで亡くなったんです。最後はもう「お水ちょうだい、お水飲みたい、お水飲みたい」、もうやったんですけどね、この人は亡くなって。もう1人は入れられたんです。そして中のほうに連れて行ったら、私たちはみんな出なさいと。「あなた方は壕から出なさい」と言われて。出て行ったんですよね。この人だけ置いて出なさいと。そうしたら本人は目が覚めてから、見たら、自分はいるんだけど、友達誰もいませんでしょ? それがちょっと誤解して、私を放って置いてみんな出て行ったっていうふうな誤解も生じたんですけれども、結局彼女も元気になってあれしたし。私も出て行って、そこでいろんな爆撃もあったんですけれども、みんな、こっちから元気で出て行ったんですけどね。とにかく民間の人は壕に入れないということですね。これはもう、みんなが証明してるんですよ。軍というのは、このガマには民間人は入れなかったということですね。で、私たちはそこから出て行って、もうこんな苦しみをするよりは死のうかって。もうお互い死んだほうがいいねって。だけど、教えが、捕虜になって辱めを受けるよりは、死になさいっていうような、私女の子は言い聞かせがあったもんだから、本当に死んだ方がましねって言って。だけど水飲んでから死にたいねっていうことで、こんな深い岩の割れ目の所に入っていったんですね。木の根っこを伝って、1人づつ。あのときからもう、みんなはぐれたり、くっついたりしてますけど、6名ぐらい一緒でしたから、順番に下りて行って、自分はそこに着いたときに、もう、ここで静かに死んだ方がマシね、楽になりたいねっていうことで、気力も何もかもなくなってますから。そうしたら、チョンって滴が垂れたんですね。顔に。「あっ水だ!」って、本当にもう水が飲みたい、飲みたいって言っているとき、「あっ水が!」って言って。そして脱脂綿をちょっと持ってたから、これで受けて、それを絞って、水を絞って飲んだら、とっても、そのおいしかったこと。ああ私はこれで生きられるっていうことで、みんな、「またここ危ないから出よう」って木を伝って出て行ったんですね。自分も出てみると、もうこの脱脂綿は真っ黒くしてるんですよ。この滴っていうのは岩から落ちてきた真っ黒い水だけど、そんなのも飲んで、どうにかやったんですけどね。もうみんな、日本兵も、沖のほうからアメリカの放送が聞こえて。「日本は負けたから、みんな出て来い、出て来い、」っていう放送が聞こえたからね、「出よう」って。「兵隊さんも、もうみんな出ていきよったよ」っていうふうなことを言ったもんだから、どうする?どんなことがあるか分からんから、アメリカに捕まったら大変だから、もう死んだほうがいいと。手りゅう弾、私は持ってなかったんですけど、持ってる人たちは、「これで死のうか」ってやっていたんですけどね、最後は、やっぱりあれですね。この長いこと、もう100日も親と会ってませんでしょう。3月の6日から出たっきり親とも会ってないからね、お母さんにひと目会いたい、それがもう私は頭にすぐ、お母さんと会いたい、そしていっぱい水を飲みたい、というあれがあって、慶座絶壁、本当にこんな崖ですけど、これを下りていったんです。そうするともう水がね、惜しげもなく、こう海に流れていってるんですね。湧き水があるんですよ。まずは飲んで、まずは水を飲んで、それから頭を洗って、顔も洗って、ひと息ついたところで顔を上げて見たら、アメリカさんが銃を構えて立ってるんですね。ああもう終わりだねと思ったんですけど、やっぱりアメリカもね、人間っていうか、あのときには、「ああ、悪い人っていないんだね」と思いましたね。「ヘイ、歩きなさい」と。そうしたら1人でこう、私歩いていたら、肩たたくんですよ。「大変さ、もう捕まるんだね」と思って見上げたら、そこにおばちゃんが、私よりは年配の方がですね、ゆっくりゆっくりしてたから、「この人の手を引いてあげなさい」と。だからそこで、人間はこういう思いやりもあるんだね、みんな悪者じゃないんだね、っていうことをですね、思ったんだけれども。

自然の成り行きだったとは思いますけどね、でもあとからは、あのときには本当にもう、戦後は欲も何にも何にもないですよ。ただ私は親たちを捜すというね、これがありましたね。みんなはもう船に乗せられて山原(本島北部)に着いたときに、もう那覇の人は山原にみんな来て、港に迎え出るんですね。南部から避難民が来るっていうことで。みんなお迎えに出るんですよ。私もいちるの望みはあったわけね。自分たちの親たちも北部のほうに行ってあれしてる。私が北部のほうに行ってると思ってるわけ。だからいるかもしれないって、お友達も、すぐもう親と会って、もう喜んでる人もいるし、結局、だけどいちばん最後までも私の前には現われなかったから、もうそのときに、ああ自分もどうなってもいい、ちょっと投げやりな気持ちになったんですけどね。あれからまた、あっち行きこっち行きして、親を訪ねていって、だけどどこにも現われないから、諦めていたら、元近所だったっていう人が、「お母さん、ここで見たよ」って。やっぱり南部に、私が南部のほうに看護隊で行ってるから、みんな北部に疎開しなさいって言うのを聞かないで、南部に降りてきてるんです。だけど大体同じような道を、この狭い島尻ですからね。糸洲辺、この辺歩いてるんですけど、会うこともできなくて。この辺でね、お姉さんがけがをしたので、「こっちから逃げましょう」って言ったんだけど、「娘がけがしてるから、親子もろともだから、こっちにいるから、あなたたち先に行きなさい」って、そこで別れたよっていうところだけは見たんですけどね、行ってみたら、もういっぱいで、その伊敷は。お骨が、骨がいっぱいで。誰のものかも分からないし、もう大変惨めな様相で。まだまだ遺骨収集もされてない時でしたから。だから、お母さん、引っ張って、ここにいるよって、引っ張ってちょうだいって言っても分からなかったです。でも、人のお骨を拾っては、と思って。石ころ拾って、今もお墓には石しか入ってませんけど。だから私はもう、あの世に行ってからも大変お詫びをせんといかんね。親たちにもあれだねと、大変背負ってるんです。もうずっと。私のために。それで、教員をやったんですけど、子どもたちには、とにかく思いやり、お友達、助け合うこと、みんな自分勝手なことをしていたらケンカになる。このケンカというのが、戦争も自分勝手なことばっかりしてるから戦争も起こる。私たちみたいな親子バラバラになって、この苦しい目に遭うことはあなた方にはやってはいけないよ、っていうことで、いつもその話をしますけどね。二度と私たちの轍(てつ)を踏まない。それで一時はもう、顔を出すのも慰霊祭に行くのも、ちょっと怖かったんですね。お友達の親が来ますでしょう。亡くなった人の。「あんたたちは元気だね。うちの子は今ごろあんたらと・・・」って言われて、なんだか私には気が引けるような感じがして。家族の方の悲しみをまともに見られなかったですね。いっときはもう、あまり出てもいかなかったんですけど。

それはですね、やっぱり現状。この沖縄の置かれてる立場ですね。それからこの基地問題とか、そういうものを見ると、なんだか、また同じことを繰り返すんじゃないかねと思いますと、私たちが歩んできた道、実際、戦争の実相をですね、いろんな見方があるんだけれども、やっぱり自分で体験して、こんなに戦争の惨めさ、人の命を命とも思わない、そういうことは二度とあってはいけない、ということを、もう本当に体験したのは私ぐらいですよね。年齢的に。もうあと2~3年はどうかという、あれですから、語って、みんなに伝えておかなくっちゃという気持ちで、本当に何もかも忘れかけて、知的にも体力的にも劣ってくるのは目に見えてるんですけれども、それだけは自分たちの責任があるんじゃないかなと思ってですね。自分はこう、命を長らえて。本当に幸せな、子ども、孫、ひ孫に、こうやって自分の命を伝えてきていますので、つないできていますから、この子たちには、また私たちみたいな同じ目を見て・・・うちの姉なんかは、もう全然、結婚もしないで、こうやってますからね。私はもう、もらった命を3代4代とつないできましたから、それをみんなも粗末にしないで大事にして、平和な国ができるようにって、そのつもりで。あんまり外に出なかったんですよ。それで、主人ももう3年目になりますけど、亡くなってから。それを介護するのに5年くらい介護しておりましたから。その間は同窓会の仕事も休んで、去年・一昨年から、こう、中山さんに、私が語らないと、誰が語るねって引っ張り出されて。語り継ぐっていうことがね、あれさで来るんですね。こう、どこかでこう、曲がってくるんですよね、この話も。だから私はもう、自分の体験したことだけを中心に。他の政治的なこととかそういうのは、これ専門の先生方とかいろんな方が、よく分かりますから、自分としては、ちゃんと分かってるつもりなんだけど、私は体験したことを絶対に、この目で見た戦争、これは伝えないといけないと思います。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・白梅学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。

そのうち、県立第二高等女学校の生徒46人は、「白梅学徒隊」として組織され、現在の八重瀬町にある八重瀬岳の病院壕に動員、負傷兵の看護などに当たりました。しかし、激戦で続々と負傷兵が運ばれてくると、十分な治療や看護はできず、重傷者は、次々に死んで行ったといいます。6月初め、八重瀬岳の病院から、解散して撤退することになりました。16人は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら糸満・国吉に移りました。国吉の「上の壕」と「下の壕」に分かれて潜んでいましたが、6月21日と22日の二日間にわたって、アメリカ軍の馬乗り攻撃を受け、9人が命を落としました。その他の30人の生徒たちは、八重瀬岳を撤退したあと、南部をめざしましたが、さまよっている途中に8人が命を落としました。
そして、県立第二高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1929年
沖縄・那覇市に生まれる
1941年
沖縄県立第二高等女学校に入学
1944年
10月、小禄飛行場で作業中に十・十空襲を受ける
1945年
病院壕などで負傷病兵の看護にあたる
 
南部で米軍に捕まり収容される
 
戦後は、教員となる。語り部となり自らの戦争体験を語る

関連する地図関連する地図

日本(沖縄)

地図から検索

この証言に関連したキーワードこの証言に関連したキーワード