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タイトルタイトル: 「壕に残された重傷者たち」
名前名前: 宮城 巳知子さん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年5月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 軽便鉄道  04:57
[2]2 チャプター2 なくなっていった授業  02:42
[3]3 チャプター3 兵舎になった校舎  01:52
[4]4 チャプター4 十・十空襲  03:52
[5]5 チャプター5 始まった看護教育  03:26
[6]6 チャプター6 ナゲーラ壕  01:58
[7]7 チャプター7 撤退時の重症者たち  04:31
[8]8 チャプター8 南部へ  05:12
[9]9 チャプター9 捕虜  10:33
[10]10 チャプター10 沖縄文教学校  03:46
[11]11 チャプター11 子どもとどう向き合ってきたか  03:42
[12]12 チャプター12 消えた母校  02:49
[13]13 チャプター13 戦争体験を伝え続けて  06:24

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収録年月日収録年月日: 2014年5月16日

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昔は汽車があったですよ、軽便鉄道が。あれ十・十空襲(1944年10月10日の空襲)でやられたからなくなっているのであって、それまでは、うちなんかその汽車で通ってましたよ。

Q:ここからどういうふうに汽車で行くんですか?

こっちから嘉手納(駅)まで行って、嘉手納からその汽車に乗って内間駅(浦添市)まで。内間で降りて、末吉(首里)を歩いて、あの坂を歩いて、首里の山側の小さい道を通って桃原(首里)に着いて。学校は桃原にあったから。

Q:今のどの辺ですかね? 桃原農園の近く?

うん。桃原農園の道向かい。道を挟んで向かいは首里高女だったですよ。

Q:今は何もないですよね? なんか記念碑なんか建ってます?

うん。いちばん後ろのほうに建ってましたが、あるかね? 今も。

Q:どうしてここから首里高女へ通おうとしたんですか?

私は兄弟がたくさんいたからね。私のすぐ上は男だったんですよ。これたちが農林学校に入ったから、私も一緒の3名になってはこれが間に合わないから、「あれたち2人が卒業するまではあんた小学校に入ってそのままいなさい」と言うから。あのころは高等1年・高等2年ってあったから、私は高等2年まで。みんな6年から受験するけど、「うちは兄たちが卒業してからしかできんから」と言って、高等1年・高等2年まで小学校にいたわけですよ。

Q:首里高女を選んだ理由は何ですか?

それは、これが好きだったから。その学校は、縫い物、女の仕事、これがとっても有名だったですよ。沖縄県でもその学校だけしかそれを教えていなかったから。

Q:裁縫ですか?

裁縫も、機織りも、染物も、女の仕事全部その学校は教えていましたから、こんないい学校はないと言って。

Q:だけど、ここから毎日通うっていうのも大変じゃなかったですか?

そう。汽車通学ね。こっちから嘉手納までは歩いて行って、嘉手納から汽車に乗って内間駅まで行って、内間でまた降りて、あの末吉の坂を歩いて、そしてあの山側の小さい道を入って、桃原に着いて。自分の学校、桃原にあったから。こんなにやってきましたよ。

Q:時間かかったでしょ?

時間かかって、毎日汽車通学は遅刻生。もういちばん後ろ、もう一生懸命走って行って、間に合ったなと思ったら、「はい、朝会終わり」と言っておじぎする。情けない先生たちだね、もう一言はこの遅刻生のためにやればいいのにって今になったら思いますが、もうそんなものなんか聞かない。もう、「はい、朝会終わり」と言ったら終わり。

Q:毎日遅刻して怒られなかったですか?

怒りはせん。「もう汽車通学は決まっている」と言って。なぜなら汽車が遅いんだから。汽車が着いてから、また30分、あの末吉の坂を歩くんだから、それはもう大変でしたよ。

ちゃんとやりませんでしたね。その目的を持って行ったけど、2年生ごろから、作業、軍人・出征兵士の家の奉仕作業をしに駆り出されて。「はい、今日は何名をこっちの西原村」「はい、こっちはまた何村」と言ってね。5~6名ずつ分担して分けられて、作業しに行ったんですよ。だから、女学校で何勉強したか分からんやん。

Q:あんまり授業は行われなかった?

授業はもうないですよ。もう奉仕作業だけ。1年間は勉強しましたがね、2年生からはもう奉仕作業だけよ。

Q:それで16年に入って、もうだんだん戦争が近づいてきて、19年ぐらいからアメリカ軍が沖縄にやってくるというような話も出るわけですよね?

はいはい。

Q:そのころはどうでした?19年ごろの。もう4年生? 3年生・4年生のころ。

そう。16年から入って、奉仕作業あっちこっちやって、西原村に行ったり、どこの村に行ったりして、そして「戦争がそこ来てるよ」と言っても、「そこ」と言ってもどこであるか分からんさ。それで一生懸命作業すればいいんだねって出征兵士の家の手伝いに行ったんですよ。西原とかね、あちら辺は、出征兵士って、あのころ支那事変(日中戦争)に行って留守に女ばっかりいる所があるから。そこの、5月になると豆の収穫があって、豆たたきやこれの手伝いをしに行ったわけですよ。

もう学校は全部取り上げてからね。兵舎にして、学校は。だから、思うように勉強させない。こんな裁縫の機織りもあったけど。もうあれたちの勝手、兵隊の勝手。正式な学校の勉強はやってないですよ。

Q:学校舎が兵舎になった?

兵舎になったから。そして、その兵舎は、また何したかというと、日本は貧乏だったからね、日本の兵隊のズボンの破れた所を、これを補修するんですよ。今だったらこんなもの着けますか? ちょっと穴が開いていたら、下からきれを当ててミシンで、うちの学校にミシンたくさんあったから、ミシンでまたきれいに四角に当てて。こんなやって日本軍はね、ズボン着けていたですよ。貧乏国の兵隊はかわいそうではあったが、あのときにかわいそうとは思わなかったね。

10月10日に汽車に乗ってましたよ。汽車に乗って通学するから。あと一歩で大山(宜野湾市)というときに爆撃されて、汽車が急ストップしたから。急ストップしたから誰も何も言わないけど窓からみんな飛び降りてそれぞれみんな逃げてしまった。うちなんかも、飛んで下はきび畑だったから、そのきび畑にすくんでしばらく隠れていたわけですよ。そして、あの飛行機が那覇へんに行ったころは、自分たちは、また「家帰ろう」と言ってね、歩いて帰りましたよ。あの大山近くから。

Q:空襲というのは、もうすぐどういう状態かっていうのは分かったんですか? アメリカ軍の空襲。

いや、あれが来るとは分からんわけですよ。汽車に乗ってただ学校に行きよったら、窓から見たら読谷方面から、「日本は、あんなにたくさん飛行機造ってあるね」なんてこと言ってみんなお互いに話し、「日本、金持ちだね」なんとか言っているうちに、これがもうどんどん進んできて低空してきてから、バンバンバンバン・・・ 始まったわけですよ。「ありゃ、何ね? これは戦争が始まるよ」と言ってから、みんなきび畑にすくんでいましたから。

Q:日本の飛行機だと思ったんですか?

始めはよ。「これみんな日本の飛行機、あんなにたくさん日本は飛行機造ってあるね」と言って喜んでいるんだが。ああ…馬鹿たちは、こんなだったですよ。それでしばらくしてから、この飛行機はずっと那覇行って、那覇で空襲をバンバンバンバンやって、どんどんどんどん燃やして、その間に私たちは家に逃げ帰ったですよ。

Q:空襲のあとは学校はどうなったんですか?

学校はやめないから。兵隊が、日本軍が、那覇から国頭(本島北部)に材料運ぶ車があったんですよ、トラックが、それに乗って。「乗せてください」と言って手あげたら、「どこにか?」と言うから、「首里までです」と言ったら、「乗れ乗れ」と言ってからね、乗せよったですよ。後ろの運転台に荷物下ろしてきてから。みんなあてもなくそのときには、トラックをあてにするものではないけど、トラックで通いましたよ。もう時間が来るまでトラックが来るまで道ばたに座っておって、来たら手あげて「あっ、おいおい!兵隊さん乗せて」と言ったら、「どこにか?」と言うから、「首里にです」と言ったら、「乗れ乗れ」と言って乗せよったですよ。

Q:それ(看護教育)はどういうことをやったんですか?

それは、首里高女にいる兵隊がいて、衛生兵がいるわけですよ。その衛生兵が教えよったわけですよ。手折れたときには・・・打撲を・・・とか、あれはどうやって巻くとか。足をけがしたときには、どこをけがしたときには・・・と言って、そのけがしたところの説明をして。また、お薬はオキシフルで初めは拭いてから、それからマーキュロ付けて、それから、なんか薬があったらそれ付けて、そして包帯で巻いて・・・とかって、こんなもんを教えよったですよ。

Q:それで実際に動員されるわけですよね? そのときはどういうときに動員というか・・・

そんなものでやっておれますか。もう飛行機はどんどん空襲来るんだから、「はい、10名集まれ」「はい、10名集まれ」と言って、その10名ずつ。うちなんかは第一線の浦添に行かされ、「あんたがたはね、中頭だから近いからさ、10名は中頭に行け」と言ったから、「戦争が終わったら帰っていいですか?」と言ったら、「ああ、終わったらね、あっちからすぐ家帰っていいから」と言ったから、国頭の人も「じゃ、うちなんかも近いから一緒に行こう」と言ってね。汽車通学は7名しかいなかったけど、ほかの人も3名また加わって10名になって。その10名は、「あんたがたはね、それじゃ、浦添という所に派遣するから、そこに行って働きなさいね」と言われたから。今考えたら、浦添は第一線だったんですよ。生徒だから分からんから、ただ「はいはい」して、「戦争が終わったら、あっちから帰っていいですか?」と言ったら、「帰っていい」って言うから、先生が言うこと信じてやっていたら、もう翌日からバンバンバンバン空襲が始まって。「大変になってるね、私は家に帰れるかね」と言って心配してもしょうがない。

Q:そのナゲーラ壕に行ったのは、どの時点で行ったんですか?

そこから、今度また首里高女の壕に戻っていって、また首里高女の壕からナゲーラに行ったですよ。

Q:ナゲーラではどういう状態だったんですか?自分たちがやることっていうのは。

ナゲーラでは、死体を片付ける。兵隊が死んだのを担架に乗せて。川が流れているから、あっちに丸木橋が1つあるから、あそこを越えて次の畑の所、あそこは全部死体の埋め所だったんですよ。そして、「1、2の3、はい!」と言って、2人ずつで担いで行ってから、死んだ人を「1、2の3、はい!」でポイッと捨てて、また自分たちは壕の中に入っていったりして。それが、1人じゃないでしょ。たくさん中にいる人が死んでいるから「はい、次の人も」「はい、次の人も」と言って。こんなにして死んだ人をね、ちり捨てるみたいに捨てたですよ、うちなんかは。あのときのことだから捨てたと言うけど、今は人間1人死んだら葬式やるでしょ。捨てませんよ。かわいそうに、あのときはみんな捨てられて。日本兵みんな捨てられて、私たちに。今なったら本当にかわいそうですよ。

ナゲーラ壕にいたけど、またそこから、識名の壕といって、識名園の所、あそこに自分たちは行ったわけですよ。あそこは、またいっぱい負傷兵が入っているから、その看護しながら。看護するっても、あっちではもう看護できないが、ただ見るだけで。そこでね、注射もあった。日本はね、もうかなわんからね、これを注射。寝て打ってあの世逝き。

中の薬は何か分からんが、この注射したらすぐ逝くわけよ。そして、うちなんかは、それ言いつけられたわけよ。「注射してきなさい」と言って、みんな識名の所では追い詰められているから、逃げられないからそこにいたけど。私はそこでエピソードがあって、戦後まで続いています。なぜなら私がやるこの兵隊は、「看護婦さん、ちょっと待ってください」と言って、これ打たさなかったですよ。そして、「何ですか?」と言ったら、「家に自分は妻や子どもがね、2人女の子がいるから。もしあんたが生きていたら、おやじはこっちで死んだということをね、あんたが教えてちょうだいね」と言って。うちは、「こっち識名だからどこまで行くか分からんし、私もどこまで生きてるかも分からんから、途中で私も死んでしまってるかもしれないから、それ責任持って届けません」と言って、「もし生きていたらだよ」とその人が言って。うちはその人に注射しなかったわけ。かわいそうになってから。ほかの人みんなやったから、みんなパッタリ。みんな注射した人死んだ。この私がしなかった人はね、ずっと戦後まで生きていた。そして、あの人が注射しないおかげで、私は、(その人が)今まで生きているということをね、非常に誇りにして。その人は八十何歳かまで生きていましたよ。そういうふうにして日本はね、なんでこんなにしなくてもいいのに、「みんな注射やれやれ」と言ってね、みんな注射しよったですよ。だがうちは、その兵隊が「待ってちょうだい」と言ってさせなかった。「うちには女の子が2人、妻といるから、もしあんたが生きていたらね、おやじはこっちで死んだということを伝えてくれ」と言ったから、私はそれを聞いて胸に迫って、「いいです、それじゃ・・・」ってこの人に注射しなかったから、この人だけ生きていたんですよ。ほかの人みんな打たれて、みんな死んでしまったけど、この人は、私はしかぼー(憶病者)でもあるし人情があったのかなんか分からんけど、「もう、これできない」と言ってやらなかったから。

Q:それで識名の壕でそういうことがあって、そのあといつごろ南部のほうへまた行くわけですか?

うん、それから、すぐ翌日南部のほうへ行くんですよ。

Q:南部はどこへ行ったんですか?

あっち何というかな・・・武富のこっち側かな。武富という所で防空壕がうんっと低くて、岩があって、はって入るような防空壕があったですよ。そこに入った。

Q:1人で?

いやいや、このうちのグループみんな一緒に。

Q:それはもう看護活動はできたんですか?できなかったんですか?

看護活動はもう全然できない。自分一人逃げる仕事しかできなかったですよ。もう、そんな看護活動の薬も何もないんだから。もう何にもできない。逃げるのに精いっぱい。逃げるのはもう兵隊が教えるんじゃないから、自分たちで兵隊の後をつけて歩いて。識名から南部に行くには、うちなんか中頭の人だから、あっちの道分からんわけですよ。そうすると、どうやって逃げて行くか分からんから、あそこの兵隊が移動してくる、日本兵が。「これたちの後ろについて行こう」と言ってね、これたちの後ろについて南部という所に行ったですよ。そしたらこれたちはこれたちで、部隊が分かるのか何か分からないけれどいなくなって、自分たちはそこにある壕の中にただ入っていたわけですよ。「こっちだったら安全かね」と言って、どこの壕かも分からんで入ってましたよ。それで、またそこから爆撃がひどくなったから、またそこから出てから、武富というかな、南部の地域分からんから、武富という所に行ってそこの壕にしばらくいたけど、あれからどうしたかね、「もう南部行かないと大変だよ」と言ったから、また南部に歩いて、南部に行ったらそこは、「防空壕はいっぱいだからもう入らない」と言って、裏山のひめゆりの塔の後ろの山、あそこの裏山に自分たちは、みんな一緒にじゃなくて3~4名ずつ、人の墓に入っていましたよ。「この墓に入っておけば死んでもそのままになるから、そのままそこに入っておこう」と言って。ところが爆撃がひどくなってから、その墓もばんない(どんどん)壊れるわけですよ。「いや、そこにもおれないよ」と言って、またそこから出て、今もあるけど山の中、そこの伊原という所の山の中にみんな三々五々に分かれて隠れましたよ。それで、みんなどこに行ったか分からないもう。私は自分たちの所の人と一緒になって、「一緒に帰ろうね」と言ったから、何したけど・・・みんながどこに行ったかもう分からん。

最後の壕の真っ暗闇の中に入っていたけど、そこからこんなして壕があったら、あっちから入ってきて自分たち手探りをしながら、こうこうこうこうして、ここを出るときにアメリカがそこに来て、銃持ってやってきたから。でもどうせ死ぬぐらいだったら、そこ、前は海だから、「海まで走っていって飛び込んだほうがいいんじゃないか、これたちに殺されるよりは」と言って。そして友達も2人走って行ったら、このアメリカが捕まえて、銃をこんなに突きつけたから、自分たちは走れないわけですよ。それで、そこで捕虜になったわけですね。でもその前は、防空壕の中は真っ暗闇で、どうしてその壕を歩いてきたか分からない。今、あっちに大きな壕があるでしょ、誰も入らない壕が、米須に。あの壕の中から出てきたんですよ、うちなんかは。それで、そこから出て海に死にに行こうとしたから、アメリカに捕まえられて、死にに行けなかったわけですよ。

Q:捕まえられた後はどこへ行ったんですか? 連れていかれたんですか?

それは、またたくさん集めて、自分たちは2人ぐらいだったけど、あっちからも集めてこっちからも集めて、約10名くらい同級生がいたから、その10名ぐらいアメリカが一緒にトラックに乗せて、あそこは久場崎・・・

Q:久場崎?

あっちの近く、久場崎(中城村)、そこに連れていかれたですよ。連れていって、そこで軍服を着せられて、洋服ボロボロしてるから、軍服を着せて、こんなに大きなおにぎりくれたですよ。「あきさみよ(あらまあ)、こんな大きなおにぎりもあるよ」って、もう何日かひもじい思いしていたから、すぐ食べて、「こんないいおにぎりもあるね」と言って。あそこからまた翌日はトラックに乗せられて

石川。石川で休憩してから、そっちから知っている人が見てから、「あんたがたの家族はどこにいるよ、あんたの家族はどこにいるよ」って教えられて。私の友達は金武にいると言って、私は漢那(宜野座村)にいると言ったから、「どこかね?漢那という所は」って、でも分からんけど。このアメリカの運転手にただ乗せられて行きながら、たくさんのみんなが「戦争帰りが来るよ、来るよ」って迎えが来とったから、「漢那という所どこね?」と言ったら、「次の部落だから次で降りなさいね」と言って。私の友達は金武で降りて、そして「どこかね?漢那という所は」と言って。またその漢那という所へ行ったら、この運転手は「休む」と言って車止めたら、こっちにいっぱい「島尻から学生が帰ってきたよ、きたよ」って迎えがいたんですよ。そして、「こっち何という所ね?」と言ったら、「漢那という所、こっちに家族がいる人もいるよ」と言って。そうしてるうちに、うちの親は年取ってるから来なかったけど、近くの友達の人が走ってきて、「あんたがたのお父さん、お母さんはこっちの漢那という所にいるよ。早く降りなさい、降りなさい」と言ったから、「あっ、そうね。こっちね、漢那という所」と言って、車から出ようとして飛び降りたらね、「・・どこね?家は。家もあるね?」と言って、一緒に駆け足しながら、あれたちに捕まえられると思ってるから、駆け足してやっと家に着いて。3軒一緒に住んでいましたよ、かやぶき家で。そこで「あぎなや、あんた生きていたの、もう島尻に行った人みんな死んでいたからね、死んだと思った」と言ってからよ、母親は非常に喜んでいたけど。「こんなんやって今帰ってきたさ」と言って。そこで家族対面をして、3か所そこはほかの人たちも一緒に同じ字の人でいたわけですよ。それでそこに行ったら、アメリカのスイカみたいなもんに油かなんか入れて、すぐこんな食べられるものがあって、うちの親たちは「これ、おいしいよ。食べなさい」と言って、そんなの食べたりして。「登録しないとだめだから、午後は事務所に行って登録しておいで」と言って。それで、登録しに行ったから、「あんたは何ね、なんで今頃…」と言って、うちなんか7月だったから。「今しか私、昨日しか来ていませんよ」と言って。そしたら、7月だから、そのときからそこに仮役所があってそこでみんな受け付けしよったから、そこに受けつけてもらって、「昨日来たよ」と言って。それで、「あんた何仕事していたね?」って言うから、「全然、学生であって何も仕事はしていなかったよ」と言って。そしたら、「あんた、学校の先生できるか?」と言ったから、「低学年だったらできるかもしれないね」って言って。「じゃ2~3日後にまた連絡する」と言って、2~3日後になったから、「低学年の先生やらんか?」と言ったから、「そんなのもできるわけ?」と言ったら「うんうん、できるよ」と言って。ちょうど校長先生が自分たちの部落の人だったから、「大丈夫よ、できるよ、やりなさい」って。そして、学校の1~2年の先生をそこでやって。漢那という所でやっていましたよ。それから、もうずっと漢那にいて、1~2年生から3~4年生って上がって、教科書もどこかの防空壕から拾ってきてから、みんな集めて調べたりしたら、「これ使えるからやろうね」と言って。それで今度は、「ノートはないけどどうするか?」と言って、アメリカのちり捨て場、海岸のほうにちり捨て場があったから、そこに行ったらたくさんあれたちがプリント捨ててるから、そのプリントの裏をノートにして使って。自分たちが本を作ったり、それからいろんなもののノートを作ったりして、漢那という所では小さい学校を作っていましたよ。

まだそのころは戦後だから、みんなどこもかもに散らばってるさ。うちなんかは、しばらくしたら、「園田(沖縄市)に移動できるよ。嘉手納の近く、園田が近いから、あそこに移動できるよ」という話があって、園田に、「じゃ近くに行っておこう」と言って近くに移動して行ったら、「そこからまた嘉手納には行けるよ」と言ったが、「すぐは行けないから、園田でしばらく教員しておきなさい」って。校長先生が知ってる人だったから、「やってみなさい」と言って、「やったらなんとかできる」と言ってやって。それから、園田に半年ぐらいいて、そこからこっちに移動してきたんですよ。

Q:文教学校行ったのは?

こっちに来てから。こっちに来て「学校の先生しなさい」と言ったから、「はい」と言ってやったら、幼稚園の先生かなんかさせられましたよ。校長先生が「先生が空くまではね、幼稚園の先生しておきなさい」と言って。そのときに、この学校に私の恩師がいたわけです。その人が「幼稚園で働いておくよりは、具志川にね、文教学校ってあるから、そこに行ったらどうね?まだ独身だしね、いい所だよ、教員の免許もらえるよ」手続きはこの先生が教頭だったからすぐ書いてくれて、「はい」と言ってすぐ行きましたよ、2~3日してから。そして文教学校へ行って文教学校で半年勉強して、給料もらいながら半年勉強して、帰ってきて自分の先生に、「もう卒業しましたよ」と言ったら、「ああ、良かったさ」と言って。あれから、「正式な教員の免許もこれであるから、心配しないで教員しなさい」と言って。もうあのころは教員はいなかった、少なかったから、教員やっていましたよ。

「うそは教えない」と言って。うそ。なぜならうちなんかは、しょっちゅう先生がうそついて「日本は負けていない、負けていない」って言っていたから。「あれうそだったんだね」って、「うそは人間を殺すんだね」と言って、そういうのを頭の中に自分で考えていたから、生徒には、「うそをついてはいかんよ、命取られる場合もあるからね、うそついてはいかんよ、いかんよ」と言って、「先生はうそをつかなかったから生きているんだよ」と言って、そういうような話をね、子供たちにやってきましたよ。

Q:それで、宮城さんはお元気に今までそういうことをやってこられたわけですけども、だけど、いろんな夢とか希望を持っていながらね、残念にも亡くなった友達がいっぱいいるわけですよね?

いるいる。

Q:そういう人たちのことも考えることはあったですか?

ありますよ。だから今、瑞泉の塔といってあるけど、みんなあそこお参りに行かないよ。年取ってみんな歩けないから。うちは毎年ね、慰霊祭は、もう八十何歳なるけど、うちは「今日も来たよ、あんたがたで体見守ってちょうだいね、一生懸命やったんだから」と言って。前は東京の和光小学校を案内しよったけど、今はもう、連れて行く人いないから行かないで、自分で慰霊祭のときには、「慰霊祭のときだけは誰か連れていって」と言って、
連れていってお参りしてます。

Q:学校の先生になって子どもたちに、うそはついてはいけないというようなことを教えてきたというのには、例えば、亡くなった人たちのためにも何かをやらなきゃいけないという思いはあったですか?

亡くなった人たちはもう・・・みんなひめゆりなんかはあんなにあがめられてるさね、自分たちの所も33名亡くなっているけど、なかなかあがめてくれる人いない。あがめるって言っても関心がない。そういうようなことであったけれども、うちは「それではいかん」と言って、私の同級生に「みんな同じようにやったんだから、ちゃんと慰霊祭のときにはみんなで慰霊祭をやってあげたほうがいいよ」と言って、毎年、慰霊祭やってますよ。

戦後は母校がなくなったとそこに行きましたよ。行ったら、たくさん家が出来て、その敷地はみんな首里の人が占拠してやっていましたが、幸い、スタンドっていって少し高い所があるから、そこに碑を建てようと、こっちが学校だったよということをね。「碑を建てよう」と言ってみんなで話し合って、碑を建てたけど、今もうあるかどうか分かりませんが、そういう碑建てましたよ。「こっちは元は首里高等女学校があったよ」と言って。

Q:それで学校の先生やってて、それからそのあとといいますかね、わりと語り部の活動といいますか、やってこられたんですが、それを支えているといいますか、宮城さんはどういう思いでですね、語るようになったのかということはどういう?

うちは、もうその自分たちの同級生が、浮かばれるかどうか分からんけど、そういうような・・・浮かばしてみたいということも、「ひめゆりはあんなに盛んにやっているのに、なんで瑞泉はやらんか?」って言われても困るから、自分たちだけでできる範囲でやろうといって慰霊祭はやっていますが、亡くなった人に対しては、ちゃんとやってあげるよという、「よその慰霊も一緒にやってあげるから心配するなよ」と言って、行くときにはそういうような願いを持って行っていますけどね。

Q:今の修学旅行とかですね、いろんな若い人たちにお話しする機会があるわけですよね、当時のことを。そのときに、さっき子供たちにうそをつくなというようなことはおっしゃってましたけど、それ以外に今の若い人たちに宮城さんが、特にこれは言っておかなきゃいけないというのは、ほかにどういうことがありますか?

そこら辺は、ちょっと難しいけど・・・本土からね、たくさん来たよ、修学旅行生が。うちは300回やって終わったのよ。300回この戦争体験を話して終わったけれども、果たして、それをみんなが心に入れてくれたかねってね、私の話が。そして、これからあと本当に戦争がないようにみんなで団結できるかなっていう望みを持って、これたちに話をしたけれども、みんな、どういう考えでいるか分かりませんけど、そういうようなことを私は一生懸命話をしてきたわけですよ。「戦争は二度とやるなよ、うそつくなよ」と言って。

Q:それはあれですか、亡くなった人のためにも、そういうことを語り続けようと思ったんですか?

そうですよ。あれたちは、そのうそを信頼して亡くなったから。天皇陛下のためにと言って、なにが天皇陛下のためじゃないのに、こんなにしてね、あんたら若い命をね、みんな捨てたねって、かわいそうだねってそう思うから。みんなもね、若い人にはそういうふうに、「人の話を、うそをまともに受けてはいかんよ」と言って教えたり、戦前はもうこれと言ったらこれしないと大変だったからであるが、今は反対だったら反対って言えるから、悪いことにはみんな団結してみんなでやらないようにしなさいよって、今、言ってますよ。戦前はね、自分たちのときにはそれはできなかった。もう、あっちが言う命令のまま実行しないと何にもならないって、罰されよったから。・・・であるが、今はそういう自由ができるから、「みんないい世の中を創るように、みんな協力して全員助け合いしながらやっていきなさいよ」っていつも言ってますよ。

みんなの心にね、戦争をやっちゃいかんという、それを思わせる言葉が分からんわけよ、うちは。だから皆さんがね、考えて、ただ「戦争やるな、やるな」じゃなくて、戦争をやったら大変だよ、どんな大変なことがあるかということをね、知らせてあげた方がこれらの価値があると思うよ。私いつもそう思う。あのナゲーラの壕やあっちで自分たちがばたばたして、こんなして倒れていたり、兵隊が穴の中にいっぱい捨てられているのを、あれをね、こんな戦争したら、こんなことになるよということをね、写真で見せたい、テレビで見せたい。あれは実際のことはみんな見ていないから分からんと思いますよ。それで、もう、ナゲーラの壕に6つ穴があったけど、その6つの穴いっぱいずつ埋めましたよ、自分たちは、捨てましたよ。だから、あっちに捨てられた人はかわいそうであるけれども、しょうがないから、戦争だからそうしたけど、あんなになるよって今の人にね、強く言わないといかんなって思うけど。それを誰が言うか・・・新聞でもみんな新聞は読まないし、なんか非常にみんなが考えるのが非常に浅くなってるような気がしてならないですよ。

出来事の背景出来事の背景

【沖縄・瑞泉学徒隊】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。

そのうち、県立首里高等女学校の生徒61人は、「瑞泉学徒隊」として組織され、現在の南風原町のナゲーラ壕の病院で負傷兵の看護などに当たりました。しかし、医薬品や食糧不足のなか、十分な看護はできず、戦死者の埋葬や切り落とされた四肢の処理をさせられることもさせられることも多かったといいます。5月下旬の撤退の際は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら雨季の泥濘を歩くものでした。また、識名の分室の壕では、動けない重症患者に対して、注射を打って死なせてしまう苛酷な措置が取られたといいます。
撤退先の本島南部の糸満の武富や米須、伊原の壕などに潜みましたが、アメリカ軍の馬乗り攻撃などで大きな被害を受け、結局61人のうち半数以上の33人が犠牲になりました。
そして、首里高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまったのです。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
沖縄・嘉手納町に生まれる
1941年
高等小学校終了後 沖縄県立首里高等女学校に入学
1944年
10月、軽便鉄道で通学中に十・十空襲を受ける
1945年
識名壕やナゲーラ壕などで負傷病兵の看護を行う
 
南部の海岸で米兵に捕まり収容される。7月、漢那で子どもたちを教え始める
 
終戦後は、文教学校を経て、正式に教員となる。首里高女の戦争体験を語り継ぐ

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