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タイトルタイトル: 「苛酷な体験と平和への歩み」
名前名前: 中山 きくさん(沖縄戦 戦地戦地: 日本(沖縄)  収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 女学校への進学  09:48
[2]2 チャプター2 沖縄守備軍  06:38
[3]3 チャプター3 本土への疎開  03:30
[4]4 チャプター4 十・十空襲  06:12
[5]5 チャプター5 軍への動員  06:24
[6]6 チャプター6 看護教育  06:16
[7]7 チャプター7 始まった艦砲射撃  08:14
[8]8 チャプター8 続々と運ばれる負傷兵  08:41
[9]9 チャプター9 食事と「排せつ」  05:04
[10]10 チャプター10 解散の命令  05:12
[11]11 チャプター11 報復の無差別攻撃  03:44
[12]12 チャプター12 南部での彷徨  07:00
[13]13 チャプター13 収容所の学校  03:11
[14]14 チャプター14 戦争体験を伝えるということ  04:45
[15]15 チャプター15 沖縄戦を語り継ぐ  06:10

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収録年月日収録年月日: 2014年5月15日

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私は沖縄県南部の南城市と今 言いますけどね、佐敷という所で生まれ育ちました。 それで小学校6年までは、そこで育ちましてね、すでに日中戦争が始まってましたけれど、小学校の時にね、まだまだ、そういう重大さは分からなくて、大変、伸び伸び育ちましたね。それで、県立二高女に6年終えましてね。入学することになって下宿で那覇に住むようになったんです、はい。

Q:二高女に行ったのは何年の時ですか?

そうですね、それがね、昭和16年です。昭和16年と言えば、太平洋戦争が勃発した年ですよね。12月8日ね。で、日中戦争がずっと続いている中に、もう太平洋戦争ですから、学習環境はもう相当厳しくなりましてね。1年生の時は、やっと普通のとおり、教科の学習をしましたけれどもね、もう2年生からは、まず敵国語ということで英語が廃止になりましてね、英語は全く習ってないんです、私たちの年代はね。それで他に入ってきたのが、戦時訓練。いろんな避難訓練とかですね。それから、次の年、3年生に上がってからですけれども、学徒勤労動員令というのが出されましてね。兵隊さんはね、戦地で戦っているというのに、君らは学校で勉強ばかりしていいのかということで、結局、農村に増産活動に従事しろということで。まあ、それは嫌ではなかったですね。当時は、本当に困窮しているのは、武器・弾薬もそうだと思うんですけれども、食料がいちばん大変だったんですね。それで私の仲間は、もう90パーセント那覇出身なんです。当時から県庁所在地ですから、畑なんかそんなにないので、恐らく 畑仕事はしたことないのはもちろんですけど、見たこともあまりないと思うんですね。ですから、お手伝いをすると言ったって、雑草を取るくらいでしたけどね。まあしかし、農村に行くんですけれども、どの農家でもいいという訳ではないんです。私が行ったのは、出征兵士の家、現在、戦地におられる兵隊さんですね。それから、もうひとつは誉れの家って言いましてね、戦死された兵隊さんの家とか、そういうところにお手伝いに行くんです。しかし、気持ちは大変一生懸命でも、雑草を取る、作物の生育が早まるので、いいことはいいですよね。それでね、私は田舎の出身だから、少なくとも農作業を見てるわけですよね。ですから、ちょっと私のほうは、みんなを指導する立場というか。例えばですね、ニンジンの芽がね、出かかった時は雑草と同じように見えるわけですよ。だから、それを引っ込めて「これニンジンだよ」というか、そういう役目を私がしていましたねえ。それで農家の方たちは大した仕事もしてないのに、喜んでくださいました。そして、ひと仕事済みますとね、沖縄の特産品の黒糖を持ってきてくださって、「ご苦労さん」と。それで、私たちは久しぶりに甘いものを頂いたと。当時は、そういう、食べるものとか着るものは二の次でしてね、ほとんどは、やっぱり戦争に関わる軍需産業、そういうものがほとんどでしたから、沖縄にもあめ玉を作るところがあったそうです。私は行ってませんけど、仲間は行ったそうです。でも大人の人があめ玉買いになんて行けないぐらい、とにかく甘いのも普通に食べられない時代でしたね。そして4年生になってからなんですよ、いよいよ沖縄戦の足音が近づいてくるんですけどね。

Q:ちょっとその前に、佐敷ですよね、そこから遠い那覇の二高女へ行きたいと思ったのはなぜですか?

そうですね、私の父はですね、そんなこと言っていいのか分かりませんけど、絶対 二高女なんですよ。他にも行きたい学校ありますよね? だけど父はもう絶対 二高女だと。と言うのは、私の父は病弱でしてね、ものすごいぜん息持ちで戦地に行ってないんですよ。私はこれがね、うちの父親はひどい時は横に寝られなくて、こうして寝ていましたから、それでもう、ひと言もよその学校とか言わないで、二高女という父の要望もありましたし、それから病弱の父のために私は教員になるつもりじゃなかったんです。本当は薬剤師関係の、そういうところへ行こうかなと淡い希望を持っていたんですけどね。まあ勉強できないから行けたかどうか分かりませんけど、そんな感じでしたね。

それでまあ、家から通うのは遠いですから、もうすぐに那覇で下宿生活に入りましたね。まあ、ちょっと知り合いでしたから、この下宿のおばさんもですね、大変、快く過ごしました。

Q:それで学校、憧れの二高女へ入ってですね、最初のうちはあれですか、普通に戦争のあれも何もない、普通の授業が行われていたんですか?

1年生の時はですね。そして、その年の昭和16年の12月ですよね。なんとか1年生までは、普通に授業が行われました。はい。

Q:それがもう、2年3年となっていくうちに、戦争の影と言うんですかね…

そうですね、でもね、私の学校はね、主要教科だけじゃなくて、非常に… 体育面もそうですし、それから芸術面もですね、そういうものも本当に力を入れている学校でしたので、特に音楽と絵画ですね。これはですね、絵画だったら、在学中から中央展に入選する方もおられましてね。先輩ですけれども。それから音楽でも合唱とかですね。当時は、音楽は軍歌を持って足りる、音楽は軍歌を持って足りるという時代だったんですけども、私の学校では音楽の先生がですね、古今のヨーロッパあたりの名曲をですね、それとか沖縄の音楽の父と言われる宮良長包先生の歌ですね、そういったものを歌ってましたから、本当に幸せでしたよ。おそらく特に男子校とかでしたら、軍歌だけじゃなかったですかね? はい、この点はよかったと思います。情操教育がですね、とても立派に行われていてですね、いい学校だったと思っています。

Q:特に中山さんが力を入れた、そういうあれがあったんですか? 文化的なものというか、学校の中で。

私は一応ブラスバンド部にいましたからね。当時は大戦果報道、つまり勝ち戦、それが主でしたから、勝ち戦の報道が入りますとね、旗行列とかですね、あるいはまたちょうちん行列とかするんですよ。そしたら、みんなの先頭になって勇ましい軍歌を演奏しながら・・・しましたけどね、小学校の時も、それはありましたね。小学校の時から旗行列とかね、それからちょうちん行列とかね、そういったものをして、いやが上にも国民の戦争に対する士気を高めたいという方針でしたね。

19年は(女学校の)4年なんですよ。20年の3月に卒業ですから。それでね、今ちょうどね、昭和19年の3月から沖縄に第32軍という司令部が置かれるんですよ。そうしましたら3月頃からね、日本軍が続々と入ってくるんです。道行く人は大歓迎しましたよ。と言っても、国内にいるのは女性と子どもと、そしてお年寄り。当時はですね、現在と比較にならないくらい、栄養状態も衛生思想も低いですよね。だから60ならない前から皆さん、こんな感じじゃなかったですか? ですから、国内に残っている男性と言えば、そういう、非常にお年を召した方ですね。それ以外は兵隊さんが続々 入ってきたら、もう本当に、トラックで北部、中部、南部と移動していきますと、もう「万歳、万歳」でですね、迎えました。小学校に入りますとね、「兵隊さんのおかげです」という歌があったんです。「今日も肩を並べて兄さん、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです。お国のために戦った兵隊さんのおかげです」だから学校へ行けるのも、ごはんを食べられるのも兵隊さんのおかげですというのを、ずっとこう、そういう気持ちを小学校入ってから植え付けられますからね。ただ、ほとんど、もう私たちが4年生に上がった時からは、恐らく国民には大戦果報道ですけども、相当、戦況はですね、劣勢になっていたと思うんですよ。だってあの、私は全然、戦争中の子どもなのに、戦場がですね、日中戦争の時は中国大陸でしょ? 太平洋戦争は、始まったのはハワイ真珠湾ですけれども、実際に戦闘が続いたのは南西諸島ですよね。東南アジア、ごめんなさい南西諸島じゃない、東南アジアですから、恐らく国民は伝えられる報道しか分からない。だから全然、日本が劣勢になっているということも分からなくて、それこそ言われるように、お国のためだということはもう頭の中にいっぱいありますから。それで32軍が置かれて兵隊が続々とやって来て、もう、それからはほとんど学校に行きません。4年生になったら学校に行かない。そして、そうですね、全てのものに困窮していますから、兵隊が来たからといって兵舎は作りませんよ、日本にはそれだけの力がありませんから。てっとり早いのは、私たち女学校、中等学校の校舎ですね、兵舎になりました。二高女はですね、ぎっしり入ってるんじゃなくて、将校クラスですかね、人数は少なかったですけれども、やっぱり兵舎になりました。まあ、それでよかったんです。私もう学校寄りませんもん。4年目になってから学校に寄らない。直接、今日はどこどこの陣地構築作業というふうに決まってますから、もう家からそこに出かける。そんな生活でしたね、4年生に上がってからは。そうしますと、根こそぎ動員という言葉がありますよね。そうなんです、もうとにかく、体が動く人は全部動員されました。だから私たちだけじゃなくて、基地が作られるとその周り、市町村ですね、そこからはもう、区長さんは毎日、いくつもの基地に自分の村から、若い女性とか、あるいはお年寄りの男の方でもまだ動ける人は、この動員で何人、何人と出すのが仕事だったと言われるぐらいなんですね。それでただ、私たちが軍事基地を作ると言いますのはね、飛行場の整地作業、現在の空港じゃなくて、その当時の空港はもう少しこう、那覇高との間ですけど、道路との間にありましてね。小禄飛行場と言って海軍の飛行場だったんですが、ああいう飛行場の整地作業もしたんですね。それは今みたいにブルドーザーとかダンプカーとかね、ショベルカーなどがあれば、あっと言う間にできますよね。当時はそんなのありません。この大型機械は戦後、沖縄の… よく言われている銃剣と大型機械によってブルドーザーによって基地が作られた、そのために入ってきた物で、戦後に。当時は農機具ですよ、くわとか、つるはしとかシャベルとか、そういったもので軍事基地作りをしました。それからですね、小高い所には、大砲を撃つ砲台、それから防空壕を掘るとか。こういうものを作る時もですね、なぜ そんなにまでね、基地を強化するのかなとしか思わなくて、沖縄が戦場になるという認識があまりなかったです。でも頭の中で分かりますよね。戦争というのは人殺しか破壊。しかし本当に10年近く、日中戦争からすると10年近く戦争している国の子どもなのに、いつも大戦果報道ばかりが伝えられるものですから、危機感がなかったんですよ。

それでですね、もう喜んでというか、一生懸命、基地作りも首を傾げながらも、やりましたね。ただね、そういう動員できない年代あります。若い女性は全部、動員されてますよ。だけど子持ちの女性、無理です。それから幼児も無理です。小学生、それから先ほど申し上げた、もう年取ったお年寄り、男性でも女性でも、こういう方たちに疎開が始まったのが昭和19年の夏休み前なんです。もう強制的ですね、ほとんど。私の友人が、友人と言っても同期生ですよ、お父さんが県庁職員、疎開があまり振るわないもんですから、県庁職員の家族で模範を示しなさいということで。結局、私たちはもう疎開できませんよ、だけど多分おじいさんかおばあさんだと、そこちょっと聞いてませんけど、家族の付き添いで疎開したんですけどね。このこと、ひどいこと言われましてね。「非国民」だと。つまり、我々はもう立派な動員年齢なんですよ。「それを疎開するのか」と。この友人はですね、まだ宮崎に・・・一度も帰ってきてませんけど、私たちが50年目に白梅学徒の記録を出した時に、疎開者の立場でね、記録を寄せてくれていた、そのことを話してくれていたんです。「私はもう生涯 沖縄には帰らない。『非国民か?』と言われたことが、どうしても心の中に。だから私は宮崎で一生を閉じる」と言ったんですよ。そんなふうに、疎開を私たちは許されませんけれども、結局、多分、軍としては、国としては、沖縄に長期に敵を食い止めて、鹿児島から以北に敵を寄せつけないためには、ここで持久戦、そうすると食料なんです、いちばん大事なのはですね。それで、疎開っていうのが始まったと思うんですけれど、その中の一石が対馬丸ですよね。対馬丸記念館のすぐ入り口のほうに、やっぱり、そういうことが書いてあります。食料対策でね、直接 軍に動員できない人たちを疎開させたんだということが書かれていますけどね。とにかく私なんかはもう、もちろん疎開しようとも思わなかったし、お国のために一生懸命やるつもりでしたから。それで対馬丸が沈んだことも分かりませんでした。全て、国民が戦争意欲をなくすようなことは知らせませんでしたからね。

その対馬丸が沈んだのが、昭和19年8月22日なんですけども、それから2か月もたたない昭和19年10月10日ですね、これはですね、本当に「今日の演習はすごいね」と。と言いますのは、当時は何度かね、演習しました。訓練という言葉がつきます。「訓練、警戒警報」って。手作りのメガホンでですね、警防団がまわって触れ回ります。
しばらくしたら飛行機が5~6機飛んで、過ぎていきますと、爆音が聞こえてくると、「訓練、空襲警報」と、触れ回ります。それで飛行機が飛び去った後、「訓練、空襲警報解除」。こういうこと何度かやったんですよ。でも本物の十・十空襲の時は、何の、そういう前触れもなくて、すごい爆音が聞こえたんですね。爆音なのに、なんかもう、胸にも響くくらいでした。それでですね、「今日の演習はすごいな」と。私はまだ出かけてませんでした。砲台を作りにいく予定だったんです、今の飛行場の近くにひっかさんという所があるんですけど、そこの丘の上に砲台を作る仕事を、私の場合はですね、でもまだ家にいました。それで2階に上がって見ようかなと思っている時に、ものすごい爆発音と黒煙が飛行場の方向からですね、見えたんですよ。「本物だ」というわけで、慌てふためいて下宿のおばさんと一緒に粗末な防空壕に入ったんですよ。それで、防空壕の中に、近くに病院がありましたから病院の防空壕に入って。防空壕と言っても、那覇市内は縦に座れるぐらいの深さに掘った穴にですね、古畳なんかを被せて、土を草わらでカモフラージュ、それぐらいしかできませんでしたから、沖縄戦を体験した私たちは、あれはおもちゃですよ。機関銃を撃たんでも通ります。でも、その時はもう、そこに入って震えてたんです。午前中、弾がこないんですよ。那覇市内に。後で分かったことですけども、午前中は、アメリカ軍は沖縄じゅうの軍事基地全てを壊した。離島もですね。なるほどな、と思いましたよ、後で。そう聞いてですね、そうすれば、いくら兵力があっても、飛行機もない、軍艦もない、大砲もみんなぶち壊されたら、手も足も出ませんよね。十・十空襲は何の反撃もできなくて、やられっぱなしで。いよいよ、午後から那覇市の街を焼き払ったんです。午後からは、それはそれはもう焼夷(い)弾というものを使ったそうです。ただ、私たちはですね、私は下宿のおばさんと近くに辻町というのがあるんですけど、那覇市の辻町ね、そこからもう火の手が… そこから先にやられたみたいですね。飛行場に近いからですかね。それで情報が、辻町がやれているそうだということになって、また下宿のおばさんがですね、「ここは危ないから豊見城の知り合いのところに行こう」と、かけてくれましたね。それで、もちろん豊見城に行くまでに二度、機銃掃射に遭いました。もう恐ろしくて、生まれて初めてですよ、本当に。機関銃に狙われるんですね。でもやっぱり、その時バッコンバッコン聞こえてきたら、すぐ… 相当訓練はしてましたからね、耳と目と閉じて伏せると。爆弾とかそういうものは、角度がありますよね。だから低い姿勢でおれば大丈夫だということで。飛行機の音が聞こえたら、もう、すぐ動かないで。ただ近くには、その時、銃弾が落ちましたけど、無事に、その十・十空襲の時には、那覇が全部燃えないうちに、私たちは、辻町というのが燃えているという情報が入ったら、豊見城という所へ行きました。高台でしたからね。そこに行ってからは、もう那覇の街が、こう燃え広がっているのをですね、本当にもう恐ろしい思いで見ましたね。で、やっぱり、その日のうちに那覇市は91パーセントとか言われています、ほとんどですね。で、結局、当時は木造の平屋で、美しい沖縄の瓦もね、赤瓦のお家がほとんどでしたから、ひとたまりもなく全部焼けてしまいました。私の学校はですね、昭和15年に改築して、沖縄一美しい学校と言われたんです。しかし木造二階建て。結局一番、女学校、中等学校の中では新しかったですから、施設・設備、全てのものがナンバーワンだったんですね。だけど木造だったので、その日のうちに土台だけ残して、焼けてなくなりました。それから仲間たちも、ほとんど那覇におりますので、それでも全部住まいをなくしましてね、もう散り散りになって、みんなどこに行ったかわからない。そういうふうな、もう十・十空襲というのはいちばん、恐ろしかったですねえ。

ええ、十・十空襲でみんなバラバラになりますね。そしたら、私はもう… 自分の田舎がありますから、私はもう、よかったんですけどね、元々、那覇出身の90パーセントくらいの仲間たち、それはそれはですね、大変な苦労をしているんですよ。

結局、近隣の市町村の家畜小屋とか物置小屋とか、そういうところに入れてもらったらいいほうで、それもできなかった人たちは、本当に、ほったて小屋でも自分で作ったんでしょうかね? あるいはまた、中部とか北部の親戚を頼っていったりですね、そういうことをしたと思いますが、私はもう空襲後も自分の家で、そして近くの佐敷という所ですね、今の、南城佐敷でまた、軍事基地のそういったものに行ってました。そしてね、いよいよ、私たちが学徒隊に入るきっかけとなったのが、昭和20年、沖縄戦の年の2月頃、学校から連絡が来たんですね。学校ないですよ。でも西原町という所に一間借りて、校長先生ほか4~5人の先生方が、二高女という事務室を持っておられて、そこから所在が分かる仲間たちだけ、70人ほどと聞いてます、70人ほどに連絡が行きました。私も恐らく佐敷の役場からだったと思いますが、連絡をいただいて、それには命令ということではなくて、第32軍から女学校の上級生に看護教育を受けさせてくれという要請が来ている、家族と相談をして承諾があった人は、3月6日に国場駅に集まりなさいと、こういう内容だったんです。やっぱりですね、家族は反対しました。行かないでくれと。十・十空襲を体験しているだけにですね、しかも自分たちは田舎にいて、私だけ那覇でやられてますね、もう娘を手元に置きたいという親心が分からない、あの時は。もう、ずーっと小学校から「お国のために」という、すっかり軍国少女でしたね。でしたから、「何言ってるんですか?」と。私たちがね、お国のために看護教育というのを受ければ、恐らく、看護婦さんになって、傷病兵の看護ができるんじゃないかと。じゃ、女性でも、ちゃんと見える形で、お国のために尽くせるんじゃないかと。で、ちょっと親が止めるのも聞かないで、私は国場駅まで行ったんですけどね、やっぱりみんなそうでした。私の親友のチヨちゃんも、チヨちゃんは一人っ子なんですよ。だから、行かないでくれと。そしてお母さんが、「仕方ないね、お国のためだから」と送り出してくれたと。ただ、去年、私の仲間が作ってくれた、「きくさんの沖縄戦」という絵本にはもう一人ユリちゃんが出てきます。ユリちゃんはですね、私 ちょっと何か月前か分からないけど、とにかくお兄さんが戦死したことは聞いたんです。それで、お母さんは、ユリちゃんが看護教育を受けに行くと言ったら、「もし、お前まで死ぬようなことがあったら、私は生きたくないよと、私も死ぬ」と「自分で死ぬ」と、そう言われたよと、ユリちゃんは言ってたんですね。そんなふうに、全ての人には私も聞いておりませんが、同じ気持ちじゃなかったのかなと思います、親にしてみればですね。だけども当時の私たちには、そんなこと、親の気持ちなんか知ることができなかったですね。とにかく、お国のために、多分、赤十字の看護婦さんに憧れてたんですよ。と言いますのは、当時はですね、学生は映画見学も、それからレストランかなんかの食事ですね、それからバスに乗ったりするのも止められてたんです。若い者は歩けと。それから、今 お食事に行きますね、よく、あんなのなんかも、もちろん、家族… 1年にいっぺんもあったかぐらいで、家族で一緒の時は、まだよかったんですけどね。そして、これが自分の学校の先生でなくても、教護連盟というのがあったんです。女学校、中等学校の先生方が毎日まわってらっしゃる。そして女学校生、中学生と分かると、とがめられるわけです。また私なんかも小心者でですね、そんな決まりを破るようなことは全然しません、できませんでしたけどね。ただ、映画はですね、年に何回か、団体見学があったんです。女学校3年、4年生までありますから、1年生から全体が一緒にいて、団体見学の時は、全部ニュース映画だけ、何本でしたかね? それに必ず野戦病院のことが出てくるんです。それは満州であったり、中国であったり、沖縄戦じゃないですよ、当時は、そういうのが出てきて、そして白衣の天使のような看護婦さんがですね、それでこう、ここに赤十字のマークをして、それから傷病兵も白衣だったですね。そういうのを見て、ああ、あんなふうにして女性でも第一線に行って、看護の仕事ができるんだな。そういう赤十字看護婦っていうのに対する憧れは、みんな持ってたんじゃないかねと思いますよ、うん。ですからね、親が止めるのも聞かないで、私たちは3月6日から、まず看護教育を受けるんですね。

当時はですね、すべての女学校が、学徒隊が編成されたんです。もちろん、沖縄県南部のほうが激戦地だったんですけれども、北部のほうも、それから宮古、八重山もですね、女学校が10校ありましてね、その中で1校だけは女子師範学校、もう女学校とは性格が違いますね。教員になるための学校ですね、あと9つは、何々女学校と言われる学校なんですけどね。その全ての女学校が看護学習を受けて、最寄りの陸軍病院、また野戦病院で、傷病兵の看護にあたったんですけどね。私たちの場合は、24師団、通称は山部隊と言ってました。山部隊の3486という、ナンバー3486部隊でですね、看護教育を受けることになったんです。そこは戦闘をする部隊じゃない、結局はそういう傷病兵を世話する部隊なんですね。なので、私たちと、(沖縄)積徳高等女学校というのがあったんですが、2校一緒だったんですよ。それで、私たちが70名ぐらい連絡が行きましたけれども、やはり身体が強健でなければいけないということと、それから家庭事情ですね、お年寄りと二人暮らしとかね、そういうことではできませんので、56名が看護教育を受けたことになってるんです。それで、ただ積徳さんも56とか言っていますけれども、6つの班が編成されましてね、1~3までは積徳なんです。4、5が二高女、6はですね沖縄出身の少年兵、男性だったんですね。しかし、私たちが入った3486というのは、本当の軍隊なんです。その軍隊である証拠はですね、内務班という、内務班生活をしたんです。辞書を引きますとね、「内務班とは軍人が起居する場所」と書いてあります。だから、ただの班じゃなく第一内務班、第二内務班、第六内務班なんですね。班長は本当の軍人の古参兵、伍長か軍曹でした。私は第五内務班だったんですけれども、内務班生活というのは、とても厳しいものでしたね。生活の全てはラッパの合図でした。そして起床ラッパから消灯ラッパ、それから食事、あと集合、いろんなのがありますけれども、当時の軍隊の使っているラッパと全く同じでしたね。そして、私が生活する場所と学習する場所、それは東風平国民学校という所、今で言う小学校のことです。東風平国民学校でしたけれども、教室は生活する場所と学習する場所は変わってたんですけどね。その56名のうち4内務班と5内務班ですから、恐らく27~8人ですか? だったんですけどね、そこに本当にわずかな私物と、当時は上着だけは制服をつけてましたけどね、普段 制服は… 入隊する時は制服をつけてました。あとはもうモンペです。上下、モンペでしたけれど。そういった簡単な着替えと、学習の用具ですね、それを軍隊から、毛布2枚ずつ配られたんですね。

3月と言えば、沖縄でも寒いです。それで2人1組になって、2枚敷いて、2枚はかぶるというふうにして、やってましたけどね。そしたら、私物の整理の仕方が厳しくてですね、まず新しい服を買うとか、お店に行ったら、きれいに並んでますよね。縦、横きれいに、そういうふうに、たためと言われて。女の子ですから、きれいにしました。ところが、別の学習する教室に行って帰ってくると、部屋じゅうに毛布が、こう振りまかれてるんですね。「ええ、とてもきれいにしたけどな」と思いながら、また次の日もきれいに たたんで行きますと、何回かね、それが繰り返されて、私はやっぱり、気合いを入れるというか、そういうことじゃなかったかなと思うんですけど、とにかくですね、厳しかったんですけどね、全然苦にならない。もう、どんどん私たちはですね、「はいはいはい」って、キビキビとやりましたね。そして、生涯の中では、いくつか学校に行きましたけれども、あの時ほど真剣に学習したことはないと思います。他の仲間たちも言ってますけどね。結局は午前にやったのは午後、どのくらい習熟してるかとテストしますね。ほとんど、みんな百点ですよ。また昨日のものを翌日、今日やりますね。ほとんどが、もう… とにかく学習というのは教える側と習う側の気持ちが一致すれば、効果が上がるんだなということが、これで私は分かりましたね。

あのですね、まずは身体の名称、それとですね、病気の種類というよりもですね、戦場で受けるケガの種類、つまり貫通銃創とか、盲貫、ここに体の中に留まっているとか、そういったですね、そして貫通したものが非常にこれは軽傷なんだ、実際そうでした。野戦病院に行ってからも、突き抜けたものは長いピンセットに消毒だけ付けて、あっちまで突き通すんですよ。もう本当に恐ろしかったんですけどね。そういう名称とかですね、それから軍隊に多い病気、あれは、やはり大勢の人が一緒にあれしますからね、その中でも沖縄はやはりマラリアのあれということだったでしょうが、マラリアなんかの、伝染病の話とかですね、そんなことがとっても印象に残ってますね。それから、あと、これは随分、看護学習は18日間しかしなかったんですよね。概論の「が」くらいしか習ってませんよ。その打ち切られた理由というのが、空襲は19年の10月10日以降、時々、あんまり大がかりなく、あったんですね、各地に。ですけども、この私たちが看護学習に入って、18日目ですね。23日でしたから。18日目に今度は海から砲弾が飛んできたんです。つまり艦砲ですね。艦砲弾が飛んできたのは3月23日だったんです。東風平小学校… 国民学校はちょうど、南部地区のおへそ、中心なんですね。全然、海なんか見えませんから、それで突然、今の平和の礎の南側の海が広がってますけど、そこから、機動部隊と呼んでいたんですけどね、いろんな種類の軍艦、いろんなの役目の軍艦がそろっていて、そこから艦砲弾が撃ち込まれたらしいんですけど、私たちは、もちろん船も見ることもできない。昼だったら、全然、艦砲弾かなんか分かりませんでしたけど、夕方からは、それはもう花火のように光が見えますから。それで、その日はですね、東風平国民学校の裏手のほうに軍の病院がありました。壕がありました、そこに、みんな避難しました。そこで看護婦さんから、注射の仕方は4つあるんだよと、ただ口頭でお話だけ聞きました。しかし、それだけだったんですけど、実際に野戦病院に配置されてからは、看護婦さんの手薄から自分たちが注射もしました。もちろん1、2回は失敗もしましたけどね。本当に戦争というのは、全部 異常ですね。今だったら、もう医師法、何と言うんですか、看護法違反というんですか?だと思うんですが、もうとにかく、何でもしましたね。

結局ですね、もう、のんびり、学校で看護学習どころじゃなくなったんです。それで3月24日、夕方です、山第一野戦病院という所に二高女が、それから、積徳高女が山第二野戦病院に配置されたんですね。それで4~5日くらい、病院には入れませんでした。まだ工事が続いていました。しかし、昼は野戦病院の中に行って、ちょうど内科患者、赤痢とかですね、結核もいたということ、虫垂とか、虫垂はいなかったとか、とにかくお腹を壊している人とか、結核を患っているとかですね。団体だからでしょうね、そういう所へ行って、どういうふうにするか看護婦さんのことを見てたんじゃないですかね? それから1週間もしましたらですね、もうすぐに、傷を受けた兵隊さんが運ばれてきたんですね。そうしたら、最初は56人、看護学習を受けていた人が56人ですから、全員そこに24日に行きました。ところが、もうすでに厳しい看護教育の場所で、体調不良になって、それから家から返してほしいという要望もあって、10人帰りました。4~5日くらいだったと思いますね。そしたら残ったのが46名、46名はもう最後まで、解散の日までそこで頑張りましたけどね。この46人の人たちが、4月の中旬頃までだったんですかね、あんまり、こう日にちがはっきりしないですよね…頃まではみんな本部壕と言われる、つまり第一野戦病院の500人も入ると言われる、収容できると言われる壕でしたが、そこに配置されましてね。で、擬装小屋というのがありましてね、三角兵舎ですよ、ほんとに、そこに、私は寝泊まりは最初してました。しかし、一週間もしましたらね、本当に、野戦病院に入って一週間したら、もう、どんどん どんどん、艦砲弾が激しくなりましてね、実際に、戦争でケガした兵隊さんが運び込まれてですよ、もう、その様子は恐ろしくてですね。当時は私の田舎だったら、1台くらいしかお医者さんの乗用車くらいしかないくらい、交通事故なんて聞いたこともない、大ケガも見たこともないですから、もう大変でした。本当に戦場で負傷するという傷というのは初めて見ましたね。

そうやって、その中で、最初のうちはもちろん、ケガをした人たちは早め早めに運ばれてきましたけれども、もう、どんどん どんどん、戦争が激しくなって、南部に住んでいる人だと特に、昼中は穴の中に入っていないと、命が守れない。兵隊だろうが住民だろうが、一人も日中は青空の下にいないわけです。そして、なぜか、夕方になりますとですね、一定の時刻から、どれくらいですか、それも私もはっきりとは分かりませんがね、攻撃が止む時間帯があったんです。その時間帯になると、救護班というのがあったかどうか分かりませんが、とにかく兵隊じゃなくて、大きな年配の男性とか、女性とかが、ケガ人を運んでくるわけです。そして、そのうちに、ひどいケガ、大ケガをした人が、本部壕で手当てができないということでですね、すぐ近くに手術場壕という所があって、そこに私、武村さんもそうで、私も含めて5人、手術場壕に行ったのが、多分4月の中旬頃だったんじゃないかと思うんですけどね。

そこに運ばれてくる兵隊さんの傷のむごさといったら、本当に顔を背けたくなるくらい。あのですね、ケガをしてもすぐに運ばれないんです。何日間も救護してもらえない。理由はですね、全ての人が穴の中に入るか、入らない人はやぶの中に潜んでいます。そこで、やられてます。ですから探さないと、探し回らないと、誰がケガしているか分からない。しかも2~3日経ちますと、もう傷は悪化して、山中ですから銀バエですね、銀バエに、その化のうしたところが食われますとウジもかえりますね。私は手術場壕に運ばれてきた人でウジのわいてなかった人は一人もいないと思ってます。みんなが生きながらにして、ウジにむしばまれて運ばれてきましたね。それで5人の仲間たちは手術場勤務ということになりましてね、中に5人のうち1人は、一番優しかったフミちゃんは犠牲になりましたけどね。あと仲間4人は今もおりますけども、もうこういう調子ではあるんですが。本当に手術場という所は厳しい所でした。夕方、運ばれてきた。そして最初のうちは、4~5人運ばれてきても全て手術をして、収容していました。しかし、それが毎日、毎日、運ばれてきますとですね、入院はあっても退院がないんです。と言うのは、収容してからの治療がほとんど行われない。と言いますのは、もう5月の半ばごろからは、薬品も包帯材料も尽きてしまいましてね、せっかく収容したものの、そこでの包帯が交換しないものですから、また傷が悪化して、しかもベッドが空かない、入るばっかりで。そうでしたねえ。私などは、5人のうち手術になりますとね、2人は手術場の照明係なんです。軍の病院だからといって、電気があるわけではなく、電灯なんかありません。もう、そんな力ないですよ。ですから、手術場と、それから病棟にはですね、カンテラ、ランプなんですけど危険がないようにガラスで囲ってあります、それが2つ3つ掛けてあるだけで、本当に、そこはただ、兵隊さんの世話をする、例えば水を飲ませたり、それから大小便の世話をしたりする時ぐらいですが、手術となると、それだけでは足りませんから、私たちが照明係になるんですが、その照明というのが、ロウソクなんです。ロウソクを、寝台を挟みまして2人で、ロウソクを4本持って。これが手術の時の照明だったんですね。それで軍医さんの動きに従って、ロウソクをこういうふうにして、やらないといけませんけれども、もう手術場に行ってからはですね、横になった記憶がないんです。ちょっと体が空くと、岩にもたれ掛かって、まどろんで、また、すぐ声が聞こえますから、またハッと、「はいはいはい」と働きまわるということでしたから。立ってるとですね、もう睡魔が襲ってくるんですね。こっくりこっくりやるもんですから、こんなじっとしていたら、あまり軍医さんの役に立たないわけですね。それで軍医さんは手は使えませんから、足で蹴飛ばす。多分、軍医さんもですね、この子たちは疲れているなと分かってらっしゃるけれども、明かりが役に立たないから、やられるわけです。それでまたハッと目を覚ます。こういう繰り返しでしたね。それで麻酔… 指先をケガしただけでも痛いです。手術場壕に運ばれてくるのは、ほとんどが切断でした。手か足の切断。それから体の中に弾が留まってる、盲貫ですね。切開をして、それを取り出す、そういうことでしたから、手術をする場合には、普通は麻酔というのは常識ですよね? ただですね、やっていましたよ。私は手術場壕に来た時期は、麻酔はしていました。特に足の切断なんかでしたら、体をエビのように曲げて、この脊椎のほうに注射をすることを、とても覚えています。しかし、やっぱり麻酔っていうのは、量とか効く時間、あるはずですけれども、たいていの兵隊さんがですね、メスを入れた途端に悲鳴を上げたんです。「よしてくれー、切らないでくれー」と言うんですね。そうすると、もう私たちも、たまらないですよ。最初はですね、兵隊さんももう泣き声ですよ。そしたら軍医さんが、「貴様、それでも軍人か?」一喝すると、もう兵隊さんたちは声は上げないけれども、もう本当に苦し紛れに、苦しんでいるわけですね。私たちも最初のうちはもう見られない。その場面を見ることもできませんでしたけれども、まあしかし、場数と言いますか、毎日毎日やってると、ちゃんと兵隊さんを、こう慰めるというか、あるいは「動かないでください。早めに終わりますよ」とか、いろんなことを声かけてですね、こっちのほうが、少しずつ仕事ができるようになったんですけどね。まあ、それでもね、ひどいもんですよ。とにかく、もうすっかり傷が悪化して、例えば、傷を受けたところからウジがですね、肉のほうに食い込んでいて、それで消毒液をかけますとね、これは兵隊さんがなさったことではなく、実は私たち、隠れて1人だけ、治療というか、まね事をしたことがあるんですね。それは中学生でしたけれども、それでその時に、薬を…、本当は私たちが治療できる知識も何も習っていませんでしたけど、あまりにも見かねて、何日間もそこに放っておかれてましたから、通る度ごとにね、「僕の治療は、いつしてくれるんですか?」と、しょっちゅう声を上げてましたから。それをやった時に、薬をかけた途端にもう、塊なんですね、本当にこう、ボールくらいの塊で、落ちてくる。これが散らばって、みんなウジなんですよ。とにかくですね、沖縄戦で、特に手術場に運ばれた傷病兵はですね、全ての人が、ウジにむしばまれて、ひどい人は、やられたところの周辺が、皮膚がですね、髪の毛ぐらいに黒くなってるんですよ。真っ黒。そしたら兵隊さんが、すでに組織が壊死(えし)してる、腐ってるということでしょうね、だから早く、一刻も早く、やられた場所から、ずっと上のほうから切断ですね。毎日、手か足の切断を何人もしましたね。日がたつにつれて、私のほうがむしろ、兵隊さんを励ます側に向かっていましたね。

私の仕事はですね、これは本部壕もそうですけども、大きな500人も収容できる本部壕もそうですが、とにかく、女子学徒の仕事は、まずは兵隊さん人間ですから、食事と排せつなんです。軍医も看護婦さんも衛生兵も、数が絶対的に少ない。1つの病院にお医者さんが、私のところは1人でしたけどね、看護婦さんも5人いないとか、衛生兵もそれぐらいですから、とてもじゃないけど治療以外には手が回らないわけですね。だから、その他の身の回りの、傷病兵の身の回りのことは私たちがするしかない。食事なんて言っていいかどうか分からないぐらい、本当に麦と、それから玄米ですね。こういったもので作ったおにぎりなんですよ。そして、なんか特別な日、例えば5月27日ですか? 海軍記念日というのがあって、その時には汁ものとか、何か出たそうです。私なんかもう、全然 記憶がないんですが。こんなふうにして、普段は本当におにぎりと、あれば漬け物かつくだ煮ぐらいですね。こんな感じのが、とてもじゃないですけど、こんなに重傷を受けた人たちの体には、何の役にも立たなかったんじゃないかと思うんですけども。そして、さらに食べれば排せつがありますから、人間は。

おしっこですね、便ですね。それを私たちがとるんだと。看護婦さんがいろいろと教えてくれました。ガーゼを使って、こうしなさい、ああしなさいと。尿器とか便器もあったようですが、私は空き瓶を… 薬の空き瓶の後ろに包帯を結んで持ち手を作って、これを尿器にした覚えもありますから、ちゃんとした尿器、便器が足りていたわけではないと思いますね。そんなふうにして、ただ大の場合ですね、今の健康な人のように毎日どっさりあるわけではなくて、2~3日に一回、ころころっと出るぐらいでしたから、それはもう私たちにとってはね… 今だったら無理でしょうね。こんなふうにして、とにかくですね、来る日も来る日も、そういうお世話。あとですね、包帯もガーゼも再利用なんですね。化のうしてるうみですね、それから病院の中に入ってきても化のうして、そういったものを私たちは洗って再利用するんですよ。ちょうど5月ですよね。沖縄戦、私たちが野戦病院にいた真っ最中は5月がほとんどなんですよ。梅雨です、今のように。そしたら病院の周りは、どんどんどんどん、砲弾、穴ができましたね。水がもうたまってるんです。その穴に、一時だけ包帯とかガーゼを漬けて、後で暗くなってから、すぐ近くの村まで洗濯に行くと、それも仕事でしたし、何よりも手術の壕には炊事場がなかったです。水も一滴もありませんでした。だから毎日、飯上げと言って、本部壕まで食缶を担いでくる、そういうのがありましてね。そしたら、それも入り口に兵隊がいてですね、「爆音が聞こえたら、すぐにかん木とか木がいっぱいありましたから、それに身を寄せて動くなよ」と、それはしっかり守りました。1~2回くらい、ちょっと機関銃に狙われたことあるんですけど、幸い、46人の者は勤務中、全く犠牲者はいませんでした、最後までね。特に上の壕が大変だった。上の壕は毎日、飯上げとそれから洗濯ですね。水くみ、こういったものが。外に出る機会も多かったんですけれども、最後まで、そこでは犠牲者がなかったんですね。

はい。結局、6月4日はですね、本部壕に集まれと言われました。そこで隊長から、「君らも知ってるとおり、もう病院の機能を果たしてない。今日で病院を閉める」と。それで、「君らは今日からこの壕を出て、南部のほうに安全な所を探して、自分で自分の身を守れ」と言われたんですよ。びっくりですよ。だって、空からは毎日、小ぶりながら空襲、海からは艦砲弾でしょ。どうして、こんなにして南に逃げろと言うか。そしたら隊長が、病院長が、「実は今から2か月前、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島西海岸から上陸して、すでに中部のほうは全部占領されて、今 首里にまで来て、首里も占領されたんだ」と。「だから、2~3日のうちに、ここ東風平ですね、に来るから北は無理なんだ。だから、みんな南に行け」と。こういうことだったんですね。それから、他の仲間たちが、私たちだけじゃなくて5人ずつ、新城分院という所と、東風平分院という所に行ったということも、その日に分かりました。ちらっとですけれども、新城分院に行った人たちが、解散になって、1日早く、私たちは昨日、つまり部員の私たちは昨日、本部壕から引き上げてきてるんですね。その時に軽傷患者は全部、壕から出して、もっとも重傷で身動きのならない兵隊さんたちは、みんな毒薬で自決させられた。自決と言っても、これは本当は飲まされてるんですよ。身動きできませんからね。そういうふうなことを、ちらっと聞きました。戦後ですけどね、しっかり分かったのは。教科書、本にはちゃんと書いてありますけれども、それを聞いて私たちは、「ああ、なるほどな、南に行くしかないんだな」ということで。その時からなんです、仲間は、誰と行くかは、いちばんやっぱり親しい友達でしょうね。私は小学校から一緒のチヨちゃんと一緒に、南のほうへ行っていると、ちょうど八重瀬岳というのは丘ですから、上のほうへ上がっていってですね、そしたら、壕から追い出された兵隊さんたちも途中で、坂の途中でへたばってました。なんか、記録を出された方が、黒糖をもらって元気が出たとか、そういうふうにして励ましながら、一緒に行くこともできなくて。私はですね、白梅之塔のほうには行ってないんです。白梅之塔の方面に行った人が、これも戦後分かったんですが、この野戦病院、24師団、第一野戦病院の本部は、1日先、6月3日に、今の白梅之塔があります、小さなガマ(洞窟)があるんですよ、そこに本部はもう越していたそうです。そして4日に、私どもはあちこち、さまよってますね。その白梅之塔がある方面をさまよっていた、一度にじゃなくて何回かにですね、2名とか3名ずつですね、衛生兵に会った人たちだけが、危ないといって連れていかれた。私はですね、あそこで何かまた再び病院をするとは思ってません。かくまわれたと思ってます。とにかく、もう危ないじゃいかと言って、連れていってもらったと。それで16人、16名がですね、46名おりましたから、16名がそのうち、現在の白梅之塔のガマに、一時 保護されたわけですけれども、恐らく、東風平の八重瀬の病院でさえも、薬も何もないんですから、ここで私は病院の業務をしたとは思ってませんけどね。その中から2人は、自分の意思で看護婦さんと一緒に出ていった人、それから自分の意思というか、もう1人はですね、たまたま家族が白梅之塔の前を通ったそうです。そしたら兵隊さんが、「お預かりしていた娘さんをお返しします」と言って家族に引き渡すんですね。本人は嫌だと、軍と一緒にいると。だけども、いや、父親と一緒に後ろ髪を引かれる思いで行って、この人は生きていますけどね。そうすると14人残っていますよね。16人から2人は出ていったと。その14人の中から白梅之塔にも、上の壕というのがありますけども、そこも第一野戦病院が食料とか、何かいろいろ保存をする所だったらしいです、病院というよりは。

6月のですね、18日ですね。6月18日に敵の、敵って米軍の司令官バックナー中将(米海兵隊中将・沖縄侵攻の総司令官)がですね、やられる、すぐ近くなんです、白梅之塔のですね。それで18日にバックナー中将がやられて、もう報復攻撃ですよ。あの辺一帯の壕は、しらみ潰しに破壊されましてね。特に上の壕にいた人たちは4名ですけれども、大やけどを負うんです。出てこい、出てこいと声をかけても、あの頃の女学生は出ていきません。捕虜になんか絶対ならないと。そうすると、手りゅう弾を投げ込む。それでも出てこないと火炎放射です。それで4人の中から2人はそこで亡くなって。もう1人はですね、大やけどです。体の半分以上、大やけどしたんですけども、この人はアメリカ軍に救助されて、中部のアメリカ軍病院で療養します。もう1人の人は、やけどを負ってるんですけれども、結局はそこでアメリカさんに捕まって、だから上の壕で4名。あと10名はですね、もう下の壕と今の白梅之塔の壕で亡くなったんです。

それで私の仲間は22名犠牲になりましたけれども、この22名の中には、先に帰った10名ですね、体調を崩してたり、家族の要望で帰った10名が、そのうちの半分はですね、家族にも会えないまま亡くなってるんです。もうすでに戦場になってますから。この子たちも入れて、私はもう5日でも1週間でも、ちゃんと野戦病院に入っていた人は、全部、白梅隊と捉えてます。看護教育も一緒に受けましたから。ですけども、まあ、その5人を除いて、先に帰った10人を除いて、書いてる本もありますけど、白梅の場合は、私の責任で、白梅学徒隊は56人で、戦没者は22名というふうにしてますけれども。その中の10名ですからねえ、白梅之塔のある所に兵隊さんにかくまってもらって、助けると思って行ったんでしょうけども。約半分が向こうで亡くなったということでね、あそこに白梅之塔を建てたんですね。それがその年でなくて、その翌年なんです。結局はみんな、ないない尽くしの難民生活をしている中でですね、私どもの担任だった金城宏吉先生が、自分は生き残って、教え子をたくさん犠牲にした。早く慰霊がしたい、ということで、またあの場所も分からないところで、別の所に、小さな白梅之塔というのを建てましてね、供養を始められたのが昭和22年なんですね。

そうですね、私はね、チヨちゃんと一緒に、ずーっと南のほうへ逃げました。心配要りませんでした。まるで夜になると、夕方になりますとね、避難民がね、行列です。本当に列をなして、皆、避難して、南を目指して行くんで、その後について行きました。初めて艦砲弾を受けたのが、もうその2日目くらいですかね。午後から、解散になって2日目ぐらいに、夜でもね、道路は白く分かります。飛行機飛んでないのに弾が来るということは、艦砲弾ですね。艦砲弾を受けて、そしたら、十何人くらいの人たちがもう、倒れる、即死、大ケガ、いますけど、誰も助けることもしません。もう、その先で自分も、ああいう、こういう姿になるかと思って。で、2回、艦砲弾を受けました。その後はですね、南部の、今考えてみたら、ああ、ここだろうなと思うんですけど、同じぐらいね、何べんも、昼は隠れて夜は歩き回る。それでもう全てやぶの中。1日も、壕にも、ガマにも入れませんでした。先に行った人が入ってて、すぐ近くまで行ったら、「来るな来るな」と言われるぐらい。そしてですね、約1か月さまよって、とうとう、摩文仁の海岸まで出たんです。そうしたら、ちょうど2か所ですね、大きな岩が目隠しになって、3つ4つあって、この海岸ですけれども、敵の軍艦から見えない場所があるんです。そこでもう、10日か1週間か分かりませんが、「もう、どうなってもいい」というふうにチヨちゃんと2人でですね、ずーっといました。食べ物と言えば、黒糖ぐらいですね。黒糖、私の田舎のものですから、黒糖のブロックを持ってたんです。それをちょこっとなめるくらいのことをしてですね。で、もう、さっきも言いましたけど、食べるものとか着るものは問題ないですね。いつ、自分がやられるか、これがあれでしたから。そこに10日くらいいるうちにですね、敵陣突破という声が聞こえたんです。そうしたら、敵はもうすでに、ここまで来ていますから、今度、かえって北のほうに行ったほうが安全だということで。それで私たちもですね、そこにずっと10日くらいもいたけれども、「敵陣突破の仲間に加えてください」と言ったら、「女、子どもはダメだ」と。「いや、私たちは山部隊の看護婦でした」って。看護婦じゃないですけどね、言ったら、「ああ、そうか」ということで、14~5名だったと思いますがね、兵隊もいっぱい、住民もいるし、女の子は私たち2人だったんですよ。一応、崖から上って、結局はまた北部を目指してですね、いわば中部ですけれども、上がったんです。ところが何日目でしたかねえ、夜しか行動しないのに、ものすごい攻撃に遭いましてね。もう とにかく、みんな、やられてるんですよ。私とチヨちゃんは、一応、傷は受けていなかったんですが、先導していた兵隊さんなんか、もう全部ここで死ぬと、自決するというような話になって。私も実は解散の時に、手りゅう弾、一個もらってましたから、「もう疲れた、恐ろしい、どうせ死ぬんだったら、ここでみんなで一緒に死のう」と持ちかけましたら、チヨちゃんが猛反対しましてね。とにかく、すごい勢いで反対されたんです。私も、それを押し切って爆発させることができなくて、結局、その後、手りゅう弾は、全然知らない兵隊さんですけどね、これはもっと後のことになるんですが、兵隊さんにあげて、もう生きる道を選んで、それからは一生懸命、あちらこちらに身を隠したりして生き延びましたね。で、結局は、私たちは6月の下旬か7月の初め頃だったと思います。随分、長いことかかって、自分の佐敷という所の、ちょうど佐敷は盆地になってますけど、すぐ佐敷が見える高台まで、大里という所まで来ましたね。もちろん昼は隠れて、夜は歩いて。そんなに今だったら時間かからないと思いますけど。とにかく6月の下旬か7月の初旬頃、高台まで来た時に、あそこに避難民がたくさんいました。緑のトンネルですね、この家と家との間に木が立って、緑のトンネルを作ってましたから。そこにみんな、疲れて座り込んでいる時に、佐敷が避難民収容所になっていると。まさかと思いました。日本人が捕虜になるのか?と。兵隊もたくさん捕虜になってるよという声を聞いたんです。だから君らはね、そんな女の子がね、もう行きなさいと。しかも、あんたの、ここは生まれた所だったら、行きなさいと。そしたら2人とも、どうせ死ぬんだったら、もし自分の家族に会えるんだったら、その後、死んでもいいな、ということで降りて、初めて昼に歩きました。そこだったら、すぐ捕まりました。すぐに捕まってですね、そして殺されるんだろうと思ったら、そうじゃなくって、あっちこっちに、その辺は墓地もありましたから、大きなテントを張って、食べ物やら水やら、いっぱいあるんですよ。そこに、連れていかれましてね。水とチョコレートを勧められて、全然、「誰が敵のものを食べるか」という感じですね。そしたら、ちょうど私の村の丘の頂上に、今ゴルフ場になってますけれども、アメリカ軍施設ができてました。旗もなびかせて。そこに連れていかれて、簡単な尋問ですね。兵隊の人数だとか、病院の様子とか聞かれましたけれども、全部「分かりません」で通しましてね。その日のうちに私は、偶然また、家族が残ってたんです。家族に引き渡されましてね。でも、それから私はですね、もう、お友達の消息は分かりませんから、捕虜になったのは、私とチヨちゃんの2人だろうと、もうこんな恥ずかしいことはないと。日本の女性でね、捕虜になんかなってと思って、本当にふさぎ込んで、毎日毎日、家の中に閉じこもってたんですね。

学校ができましてね。結局、小学校ができたのは、私は復興のために大人の方に働いてもらうためにですね、家に子どもを残しては働けませんから。農業もそうですけれども、自分たちの住む家も何もない、ゼロからの出発でしたから、3回、校長先生が私の家に来られましてね。私はびっくりしました。まさか私が学校の教員なんて、「とんでもありません」と。3回目に「女学校に来てみてごらん」と。行ってみました。

なんと、みんな、木陰とか大きな岩陰のところに12~3人ずつですね、私みたいな娘たちがですね、先生とは言えませんけども、子どもを守ってるわけです。結局は、もちろん何にもありません。教具もなければ、文具はありませんけれども、体操したり、歌を歌ったり、かけ算九九くらいはできますよね。そんなふうにして、子どもを守ってあげている感じがあったんですね。私は、「それなら私でもできる」と、「お手伝いしましょう」ということで、3か月間、そこで子どもと過ごしました。そのうちに私は、子どもからですね、今まで毎日家の中に引きこもっていたのが、生きる力をもらいましてね。「よし、私は教員にでもなろうかな」と。もう3か月で、すっかり子どもが好きになったんですね。ちょうど私が、そこの子どもの世話を始めた頃に文教学校というのができたんですね。教員の即席養成所ですね。一期生というのは、元々、教員になるべきだった師範学校の生徒が入りました。二期からは、師範学校の生徒と、あと足りない分は各女学校から。私もですね、その二期のほうに入りましてね、5か月だったんです、ただの。それでも、児童心理とか教育原理とか、そういうものを中心に、あと教生なんかも一週間ぐらいですかね。結局、私の場合はもう、仕事に入ってから教員としての力をつけていったと。何年間ですかね、夏休みになりますとね、現職教育っていうのがあったんです。そこで足りなかった分は単位を取って、それから普通免許になったんですけどね。とにかく、私はね教員をしてよかったと思ってます。非常に子どもってすばらしい。私の戦争の傷を治してくれたのは、子どもたちのお陰だと思っています。

ただ、私は49歳までしか教員をしてないんですが、その間、自分が学徒隊だったことを、ひとつも話してません。教え子たちは、最近になって私のことを学徒隊だったというのを分かったと。でも、やっぱり、その平和の大切さですね、命の大切さというのを念頭に置いて、教育をしたことは間違いないんですけど、自分が学徒隊だったことは話せないんですよ。どうしても、そこを話すことになると、どうしてもダメですね、もう。亡くなったお友達のことを思い出してですね。もう長いこと教員をしている間は、慰霊祭にも行けませんでした。それで、ちょうど沖縄慰霊の日というのが、できてからはですね、学校が公休日ですから、それからはもう、白梅之塔へ行きました。子どもを必ず1人連れていく。現場を見せようと思ったんですね。そうしたら、亡くなったお母さん… 生徒のお母さんがね、もう私の子どもなのに、頭なでたり、いろいろ、こうしてのぞき込んで、「いくつ?」とか「何年生?」とか「名前」とか、それ見たら、もう、たまらないわけですよ。もう、お母さんの気持ち分かるから、自分もお母さんになってるから。結局、「自分の娘もね、生きておればなあ」と。これがもう、たまらなかったんですけど、でもやっぱり、私4人、子ども恵まれましたけど、4人連れていって、子どもたち言いますよ、「あの慰霊祭に行った時から、私はお母さんの戦争体験というものはね、学ばないといけないなあと思った」と、言ってるんですね。それで、私がですね、記録を出そうと思ったのは、また偶然、私が49歳で辞めた理由がですね、夫の転勤なんですよ。夫は27年間、つまりアメリカの支配下にあった27年間ですね、7年目に主権回復しましたよね。あと20年間、沖縄だけ支配されてましたよね。復帰した途端に転勤が始まりましてね。行ったところが、大変、奇しくも広島なんですよ。広島で2年、またつぎ長崎、まあ最後は神戸でしたけどね。そんなわけで、私は広島、長崎で戦争体験を伝えることの大切さというのも痛切に感じましてね。向こうで、被爆した人たちと交流をして、帰ってきたら、もうすぐに始めました。出そうと。つらくてもいいから出そうということでですね、まあショックは引いていたし、子どもも大きくなってますから、すぐに準備を始めて、仲間たちに呼びかけてですね、遠くはハワイから、それから他県ももちろんですけど、ペルーなんかに行ってる人たちにも全部便りを送ってですね、結局はつらくて書けないという人もいましたけど、22名のものがですね、そして全部書く必要はないと、自分がいちばん心に残っている分だけを書きなさいということで、集めて書いたのが「平和への道しるべ」というものなんです。あれは今はありませんけれども、本当によかったと思います。あれを出すことができて、そのいちばんの理由は、亡くなったお友達が、この世に生きていたけど、戦争で死んでしまったということ、そこをいちばん書きたかったわけですが、ただ今、私が話している入学してからのことをですね、書きました。そしたら、体験記の中ではいちばんいい書き方をしていると言われまして、あちこちから、いろいろ先ほど会った、オハマさんね、あの学校もそれなんです。体験記を読まれて、当時の顧問の先生が「これだと、どうして学徒隊が歩んでいったか分かる」ということなんですね。私は教員をしていてよかったと思います。

生活のあらゆる場面で、この子たちの、仲間たちのことが思い出されましてね。でも私は語ることができなかったんです。だから、そうですね、私がですね、この戦争体験を、学徒隊だった体験を語るようになったのは、50年目にこの「平和への道しるべ」を出してからなんです。それから、考え方を変えました。考え方を変えてですね、結局、広島、長崎のように自分たちの体験を多くの人に伝えようということになってですね、その時からは、その… そうですね、それからはもう私は沖縄戦漬けですね。沖縄戦漬けの日々で、なるべく多くの若い人たちに伝えようと思ってます。私の原点はですね、話す時も真っ先に言うんですけども、私のような戦争のある人生を皆さんに歩ませたくない、これがいちばんのあれなんです。そして戦争を体験した私にとっては、戦争というのは、何も沖縄とか、日本とかじゃなくて、人類ですね。人類にとって、もっとも不幸、もういちばん不幸なことはこれで。だって、ひとつしかない命を失ったら、もう人間は終わりですからね。だから、そういうふうないちばんやってはいけないこと、これが戦争だということを私たちは悟ったと。だから皆さんに、そういう人生を歩んでほしくないから、私の体験を聞いてちょうだいというふうに話します。

私はなんかね、戦争というのは急には起こりませんから、私たちが小学校から導かれたようにあるんですね。本当に女学校のように、入るまで全然 沖縄が戦場になるという認識もないし。だけど今考えてみれば、確かに歩みは、はっきり分かります。今だったら分かります。子どもだったから分かりませんでしたけど。だから私が今のモットーはですねえ、心に思っただけではいけないと。必ず、行動に表しなさいと。だから、例えば、復帰の時はですねえ、私は本当に若かったから、先頭に立って復帰運動しましたよ。あの時の合い言葉は、「核抜き本土並み」でした。「本土並み」ということは、基地もね、みんなで、こう分担してやるのかな。今はもっと厳しいです。復帰時よりも、もっと今は沖縄は厳しいです。基地の過剰負担ですね。今度はまた、確かに日本は近隣諸国といい関係にはありません。でもそれはですね、軍事基地を強化したら競争になるんじゃないですか? こっちがやれば、あっちもやると。私はあくまでも沖縄の基地の整理縮小ですね、新しい基地の建設は望みません。そういうふうにして、今、私が活動していることも全ては態度で表すと。だから大会があっても参加します。意見を述べろと言われたら述べます。書けと言われたら書きます。今、私は沖縄戦漬けの日々をしてますけれども、それが自分のやるべきことだと思ってます。

Q:亡くなった人たちはですね、15歳から17歳ですか? ちょうど同じ年頃で。多分、その中には学校の先生になりたかった人もいただろうし、いろんな将来の夢、希望をいっぱい持っていて、女学校に入ってきたと思うんです。その人たちが途中でその夢を絶ちきられた、という思いにですね、時々、中山さん自身が思いを馳せることはありますか?

もちろんですよ。だから、お母さんたちの、あの姿。私の子どもに対する姿ですね、あれはもう、今おっしゃったそのものです。うちの娘も生きておればね、こういうふうに子どもができて、将来自分のなりたかったことをね、達成したんであろうと、そういうことを考えた。私はいちばん、もちろん現在、戦没した仲間たちのお父さんもお母さんもほとんど… 全部おられません。ご兄弟も皆、高齢です。ですけれども、私がいちばんつらいのは、ご遺族ですね。慰霊祭になったら私は立場上いつも、追悼の言葉っていうのを毎年述べるんですけど、その中で約束します。「もうこれからね、決して皆さんのような戦争犠牲者を出さない。そして皆さんのご遺族のような戦争遺族は出さないからね」と誓うんですよ。私は毎年誓ってるから、もう体が動く間は戦争の悲惨な姿をですね、伝え続けようと思ってます。まあどんなに、すばらしい人生だったかなあと、あの人たちもですよ、と思ったらね、何があってもですね、いちばん、戦争ほど悲惨なものはないと思いますね。

出来事の背景出来事の背景

【白梅学徒隊を語り継ぐ】

出来事の背景 写真太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。
昭和20年3月下旬に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出しました。そのうち沖縄住民の死者は9万4000人にのぼりました。
この沖縄戦では、十代の中学生、師範学校生、女学校生たちが戦場に動員され、多くの命が奪われました。男子生徒は、伝令や弾薬の運搬、壕堀作業、女子生徒は、看護助手や食事の準備などに当たらされたのです。

そのうち、県立第二高等女学校の生徒46人は、「白梅学徒隊」として組織され、現在の八重瀬町にある八重瀬岳の病院壕に動員、負傷兵の看護などに当たりました。しかし、激戦で続々と負傷兵が運ばれてくると、十分な治療や看護はできず、重傷者は、次々に死んで行ったといいます。6月初め、八重瀬岳の病院から、解散して撤退することになりました。16人は、砲爆撃の雨を受けつつ、患者の肩を支え医療器具などを抱えながら糸満・国吉に移りました。国吉の「上の壕」と「下の壕」に分かれて潜んでいましたが、6月21日と22日の二日間にわたって、アメリカ軍の馬乗り攻撃を受け、9人が命を落としました。その他の30人の生徒たちは、八重瀬岳を撤退したあと、南部をめざしましたが、さまよっている途中に8人が命を落としました。そして、県立第二高等女学校は、戦後も復活することなく消滅してしまったのです。
戦後、教員になった中山さんは、長きにわたって、戦争体験を語り継ぐ活動を続け、今も元学徒の皆さんが集まって、勉強会などを行う「青春を語る会」を主催しています。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1928年
沖縄・佐敷村(現・南城市)に生まれる
1941年
沖縄県立第二高等女学校に入学
1944年
10月、那覇市内で十・十空襲に遭う
1945年
病院壕などで負傷病兵の看護にあたる
 
摩文仁で米軍に捕まり収容される
 
戦後は、教員となる。自らの戦争体験を語り継ぐ

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